# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第九章　土曜の貝

　土曜の昼前に、港の小僧が来る。

　去年の十月からだった。十二か十三の、耳の大きな男の子で、紺の法被の背中に「浜田」と白く染め抜いてある。港の、浜田回漕店の小僧だ。千鳥町から港までは、川沿いを歩いて半刻かかる。その道を、土曜ごとに歩いてくる。

「貝のやつ、二つ」

　毎回、同じことを言う。

　お代は、紙に包んである。五銭玉が二つ。包み紙の上に、墨で「十銭」と書いてある。釣りが要ったことは、一度もない。

　最初の土曜、私はその包み紙を、なんとなく捨てずに取っておいた。二度目の土曜も取っておいた。三度目の土曜に、四畳半で三枚を並べて見た。

　十銭。十銭。十銭。

　細い字だった。右へ少しずつ上がっていく。はねるところで、はねない。止めるところで、きちんと止める。

　この字を、私は十の年から見てきた。分からない言葉の答えを書いた紙。大学から届いた手紙。氷圧は、氷が船を両側から押す力のこと。マドレーヌは、見たことがない。そういうことが、この字で書いてあった。

　私は包み紙を、ノートの裏表紙の内側に挟んだ。

　それから、十月の頁の端に書いた。

　　十月七日
　　　港の小僧　マドレーヌ　二（十銭）

　次の土曜にも、書いた。その次の土曜にも。

　確かめようとは、しなかった。字が似ているだけかもしれない。帝都に、細い右上がりの字を書く人は何百人もいる。確かめて違ったら、ノートの右下の数字を、また一から信じ直さなければならない。私はそれが怖かった。待たない、と決めた人間が、確かめるのを待っていた。

　　＊

　三月の終わりに、一度だけ、小僧に訊いた。

「それ、誰に頼まれてるの」

　小僧は、マドレーヌの袋を懐に入れながら、きょとんとした。

「帳場の村瀬さん」

「村瀬さん」

「おいらの分と、村瀬さんの分。一つはおいらが食っていいって」

　松吉という子だった。聞けば、家は漁師で、兄弟が七人いて、回漕店に奉公に出て二年目だという。

「村瀬さんって、どんな人」

「どんなって」

　松吉は、首をひねった。

「背が高い。喋らない。昼飯のとき、本を読んでる。帳面の間違いを見つけるのが早い。番頭さんより早い」

「そう」

「眉毛が、こう」

　松吉は、自分の眉の上に指で横に一本、線を引いた。

「まっすぐ」

　私は、「そう」ともう一度言った。声が変にならないように、蒸籠の蓋を持ち上げた。湯気が顔にかかって、ちょうどよかった。

「村瀬さんは、雨の日に傘を人にやっちまうんだ。こないだも、橋のとこで、赤ん坊負ぶったおかみさんに。で、自分はびしょ濡れで帰ってくる。番頭さんに怒られてた」

「……風邪、ひかないの」

「ひかないって言ってた」

　松吉が帰ってから、私は土間にしゃがんで、しばらく立てなかった。

　熱が出たときと同じだった。足に力が入らない。違うのは、胸の中が熱いことだった。

　あの人は、帝都にいた。港の帳場で、村瀬という名前で、昼に本を読んでいた。傘を人にやって、濡れて帰っていた。そして、マドレーヌは見たことがない、と書いてきた人が、半年前から毎週、松吉に十銭を持たせて、この店にマドレーヌを買いに来させていた。

　探して、見つけて、嫌だったら、お菓子を一つ買って帰ってください。二つ買ったら、嫌じゃなかったことにします。

　私は、十二月の廊下で、そう言った。

　あの人は、毎週、二つ買っていた。

　　＊

　四月二十七日の土曜、私はマドレーヌを二つ、紙の袋に入れた。三年前に、婚約が正式になった日だった。わざとその日にした。袋の中に、小さく畳んだ紙を一枚、一緒に入れた。

　書くのに、三晩かかった。

　最初の晩は、便箋に一枚書いた。長すぎた。読み返すと、天導の家で書いていた手紙と同じ調子だった。よろしければ、とか、お時間がございましたら、とか。二晩目は、半分にした。まだ長かった。三晩目に、粉の袋の値札の裏に、こう書いた。

　　村瀬様
　　見つけてくださって、ありがとうございます。
　　見つけたなら、入ってきてください。
　　　　　　　　　　　　　桐谷

　松吉は、いつものように袋を懐に入れて、いつものように帰っていった。

　その夜、ノートの右下の数字は、二百三十五だった。

　二年と言ったのは、私だった。あと二百三十五日、待てばいい。待てば、あの人のほうから来るかもしれない。十二月十八日に、七百三十と書いたのは、そういうつもりだった。

　でも、あの人は、もう見つけていた。見つけて、半年、店の前まで来なかった。

　半年、来なかった人が、あと二百三十五日で来るとは、私には思えなかった。

　　＊

　五月四日の土曜、松吉は来なかった。

　昼を過ぎても来なかった。マドレーヌは、取り置きの二つを除いて、十個とも昼前に売れてしまった。取り置きの二つは、夕方、自分で食べた。ラードの匂いがした。

　五月十一日の土曜も、昼を過ぎても来なかった。

　その日、私は昼過ぎに、取り置きの二つを、勘太とその妹にやった。勘太は「今日はどうしたの、姉ちゃん、顔がこええ」と言った。

「こわくない」

「こええよ」

　店の奥で、ノートを開いた。土曜の欄に、港の小僧の行がなかった。二週続けて、なかった。

　あの人は、紙を読んだのだ。読んで、松吉をよこすのをやめた。

　入ってきてください、と書いた。それで、来なくなった。

　私は、ノートを閉じた。閉じて、四畳半の天井を見た。

　十四のとき、はしたないと言われた。十六のとき、眠いのかと言われた。どちらのときも、私はあの人に向かって一歩出て、あの人は一歩も動かなかった。動かないで、上着をかけてくれた。

　あの人は、そういう人だった。自分が決めることは、二か月でも二年でも考えて、最後は自分で動く。自分が決めていないことには、一歩も動かない。

　だとしたら、いまあの人は、何を決めたのだろう。

　私は、決めた。

　月曜の朝、蒸しパンを売り終えたら、店を閉めて、港へ行く。浜田回漕店の帳場へ行って、村瀬さんをください、と言う。

　馬鹿みたいだった。馬鹿みたいで、ちょうどよかった。私は待たない人間だった。待たないと決めて、十歳の秋からここまで来た。最後の二百二十一日だけ待つのは、筋が通らない。

　　＊

　その日の夕方、店を閉めようとしていた。

　土曜はマドレーヌの日で、夕方には台の上に何も残らない。私は台を拭いて、雨戸を一枚ずつ立てていた。最後の一枚を持ち上げたとき、路地に人の影が伸びた。

　背の高い人だった。

　背広を着ていた。袖口が擦り切れて、白い糸が見えていた。肩のあたりが、前よりも薄い。髪は、前よりも短く刈ってある。上着のポケットから、本の背が少しだけ覗いていた。

　まっすぐな眉だった。

　私は、雨戸を持ったまま立っていた。重かった。重いので、下ろせばよかった。下ろせなかった。

　その人が、口を開いた。

「天導さん」

　十の秋から聞いてきた声だった。天導の家では、誰もが天導だった。母も伯父も、この人自身も。それなのに、この人の口から出る天導さんだけは、一拍もかからずに私に届いた。

　いまも、届いた。届いてしまった。

「……ここには、天導はいません」

　自分の声が、思ったより低く出た。

「桐谷です」

　その人は、少し黙った。

「……桐谷さん」

　言い慣れない名前を、一度、口の中で確かめるような言い方だった。

　私は、ようやく雨戸を下ろした。敷居に立てかけて、前掛けで手を拭いた。拭いても、手は乾かなかった。

「入ってください」

「いや」

「入ってきてくださいって、書きました」

「読んだ」

「読んだなら」

「読んだから、来た」

　その人は、店の敷居の外に立ったまま、入ってこなかった。路地の夕日が、背中から差していた。顔が、少し陰になっていた。

「松吉を、よこすのをやめた」

「知っています。二週、来ませんでした」

「すまない。……それを、言いに来た」

　私は、その人の顔を見た。

　頬が、こけていた。前にはなかった線が、口の横に一本あった。目の下が青い。それでも、眉はまっすぐだった。まっすぐなまま、私を見ていなかった。私の肩の向こうの、店の奥の、冷えかけた窯を見ていた。

「どこから、話せばいいか分からない」

「どこからでもいいです」

「では、終わりから話す」

　その人は、息を吸った。

「あの夜のあと、商会の帳簿を全部開いた。本家から流れた金を、三村先生を通して、本家へ返した。返しきるのに、三か月かかった。それから、商会を辞めた。天導の名前は、港ではみんな知っている。新聞に何度も出た。だから、名前を替えた。村瀬というのは、思いついた名前だ。浜田の帳場で、月に十八円もらっている。母は、郷里の兄のところへ帰した。私は、港の長屋に一人で住んでいる」

　一息で言った。用意してきた言葉なのだと分かった。

「春から、下町の菓子屋を、一軒ずつ見て回った」

「……春から」

「帳場が休みの日に。川の向こうから、順に。九月に、この店を見つけた。台の前に子どもがしゃがんでいて、あなたが、焦げたのを一つやっていた」

　勘太だ、と私は思った。

「窓から見た。あなたは一人で、窯に火を入れて、粉を量って、子どもに焦げたのをやって、掛けの帳面をつけていた。前掛けが、粉で白かった」

「……入ってくれば、よかったのに」

「入らないと決めた」

　その人は、ようやく私を見た。

「あなたは、一人で、ちゃんとやっていた。天導の家の物を何も持たずに、自分の手で。それが分かれば、十分だった。十分だと、決めた」

「じゃあ、どうして、松吉を」

　その人は、答えなかった。答えないまま、目をそらした。耳が、夕日のせいではなく赤くなった気がした。

「あなたは、菓子を一つ買って帰れと言った」

「言いました」

「……それだけは、しておこうと思った」

「毎週」

「毎週」

「二つ」

「一つは、松吉のだ」

　私は、何か言おうとした。言う前に、その人が続けた。

「今日は、それを終わりにしに来た。あなたの紙を読んで、自分がしていることが、あなたにどう見えるか分かった。半年、あなたを、待たせるようなことをした。すまなかった。もう、松吉はよこさない。この路地にも来ない」

「どうしてですか」

　声が、震えた。震えないようにしようとして、失敗した。

「どうして、来ないって、決めるんですか。私に、訊きもしないで」

　その人は、長いあいだ黙っていた。

　路地の奥で、誰かが雨戸を閉める音がした。夕飯の支度の匂いがした。川のほうから、蒸気船の汽笛が一つ、長く鳴った。

「私は、罪人の息子だ」

　その人は、言った。

「父は、宗一郎さんを、湖に落とした。桟橋の柱に、自分の手で鋸を入れた。あなたの母上と組んで、あなたが眠らされて舟屋に置かれる夜を、段取りした。父の金で、私は学校へ行った。父の商会で、父の帳簿をつけた。あなたとの婚約は、父の計画の最後の一手だった」

　その人の手が、背広の脇で、一度握られて、開いた。

「罪人の息子が、あなたの隣にいる資格はない」

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