# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第十一章　北の港

　決めてからは、早かった。

　一臣は、月曜の朝に浜田回漕店へ暇を願い出た。番頭は引き止めたそうだ。月末までは帳場に座る、ということで話がついた。帳面を途中で放り出して辞めることは、この人にはできない。

　そのあいだ、朝の四時には、店の戸が鳴った。

　一臣は窯に火を入れ、粉を二袋担いで、五時半に港へ帰っていった。港まで、川沿いを歩いて半刻かかる。五時半に出れば、帳場が開く六時半に間に合う。

「寝ていないでしょう」

「寝ている。帳場の昼休みに」

「本を読んでるって、松吉が」

「……半分は寝ている」

　三日目の朝に、おしげが煙草屋の戸を開けて、焚き口の前にしゃがむ背中を見た。見て、何も言わずに戸を閉めた。昼すぎに、私を煙草屋の奥へ呼んだ。

「あんたの、いい人かい」

「いい人です」

「そうかい」

　おしげは、それだけ言って、煙管に火をつけた。

「フミおばさんには、あたしから言っとくよ。言っていいんだろ」

「いつか、言ってください。ひと月くらい、あとで」

　おしげは、煙を吐いた。私の顔を見て、もう一度吐いた。

「ひと月あとね」

　それで、分かったのだと思った。

　　＊

　窯は、隣町のパン屋の息子が買い戻してくれた。

　去年、店を閉めた人の息子で、父親の窯でもう一度パンを焼きたいのだという。十五円だった。二十四円で買って、十か月使って、十五円。丸十の主人は「いい値だ」と言った。代金は先に受け取って、窯は、六月一日の朝の仕込みが済んでから引き渡す約束にした。

　丸十への借金は、残り四円だった。

　私は、十五円のうちから四円を出して、丸十の帳場に置いた。

「月末まで、待ってもいいんだがね」

「待たないでください。今日、返したいんです」

　丸十の主人は、帳面の私の名前の横に、朱で線を一本引いた。引いてから、帳面を私のほうへ回して見せた。

　　七月十日　借　二十四円
　　　　　　　完済

「娘っ子に貸したのは、初めてだったが」

　主人は、帳面を閉じた。

「娘っ子に返されたのも、初めてだ」

　ノートの頁に、私も書いた。

　　五月二十日
　　　丸十　四円　返済
　　　借　残り　なし

　書いてから、残りの字の横に、小さな丸を一つ描いた。貝ではない、ただの丸だった。

　　＊

　五月の終わりに、澪が来た。

　月に一度の日だった。いつものように台の前で立ち止まって、紙の値札を見て、私の顔を見た。

「ボーロを、五つ」

　一銭玉を受け取って、紙の袋に五つ入れた。澪は、その場で一つ食べた。

「澪さん。奥で、お茶を飲んでいきませんか」

　澪は、二つ目を口に入れかけて、止めた。

「……はい」

　奥の三畳で、番茶を出した。

　私は、話した。港の小僧のこと。二つのマドレーヌのこと。五月十一日の夕方のこと。朝の四時の戸の音のこと。三村の、修道院と言わなかった話のこと。

　澪は、ずっと黙って聞いていた。聞き終わってから、湯呑を置いた。

「行かれるんですね」

「行きます」

「どちらへ」

「函崎です」

　澪は、目を上げた。

「……私に、言っていいんですか」

「澪さんにだけ、言います」

「どうして」

　私は、少し考えた。考えてあったことを、もう一度考えた。

「親族会には、三村先生を通して、手紙を出します。探さないでください、って。それで、たぶん、探そうとする人が出ます。そのとき、場所を知っている人が一人もいないと、私は、誰にも、探さないでくださいを頼めません」

「……」

「探さないでください、を守ってくれる人に、一人だけ、場所を知っていてほしいんです。何かあったときに、澪さんにだけは、菓子を送れるように」

「私に、何をしろと」

「何もしないでください」

　澪が、瞬きをした。

「探しに来ないでください。探そうとする人がいても、放っておいてください。場所を訊かれても、知りませんって言ってください。……澪さんは、頼まれたことを、ちゃんとやる人なので」

　澪は、長いこと、湯呑の中を見ていた。

「知りません、と言えばいいんですね」

「はい」

「私、嘘は下手です」

「知ってます。だから、嘘じゃなくていいです。知りませんって言わなくても、黙っててくれれば」

　澪は、湯呑を持ち上げて、飲まずに、また置いた。

「天導さん」

「桐谷です」

「……瑠璃さん」

　澪に、名前で呼ばれたのは、初めてだった。

「一臣さんに、色目は使っていません。最後まで」

「知ってます。ありがとうございました」

「悪くも言いませんでした」

「知ってます」

「……一度だけ、言いたくなりました。舞踏会で、瑠璃さんと二曲続けて踊っていらしたとき」

「なんて」

「下手だって」

　私は、笑ってしまった。

「言いませんでした。約束なので」

「……はい」

「函崎へ行かれたら、約束の期限は切れますか」

「切れません」

「そうですか」

　澪は、ようやく番茶を一口飲んだ。飲んでから、少し笑った。日に焼けた頬に、皺が寄った。

「ボーロ、あと五つください。函崎は、遠いので」

　帰りぎわに、澪はもう一度、台の前で振り返った。

「探しません」

「はい」

「誰にも、探させません」

　そう言って、澪は路地を曲がっていった。

　探させません、とまでは、私は頼んでいなかった。

　　＊

　六月一日の夜、千鳥町を出た。

　昼のうちに、勘太とその妹に、最後のボーロを一袋ずつやった。一銭は、取らなかった。勘太は袋を握って、「姉ちゃん、どっか行くのか」と訊いた。

「行く」

「どこ」

「内緒」

「いつ帰ってくんの」

「帰ってこない」

　勘太は、袋を握ったまま、私の顔を見ていた。泣くかと思った。泣かなかった。代わりに、袋を開けて、一つ食べた。

「うめえ」

「知ってる」

「焦げたのも、うまかった」

　勘太は、袋を持って路地の奥へ走っていった。振り返らなかった。この路地の子は、振り返らない。

　持っていくものは、来たときより少し多かった。着替えが三枚。配合表のノートが二冊。ブリキ屋の貝の型が十二。銀の星の髪飾り。一臣の荷物は、柳行李一つと、本が七冊だった。七冊のうちの二冊が、『北方回航記』の上巻と下巻だった。

「上巻も、持ってたんですか」

「あなたから、返してもらった」

「……返しましたね」

「それから、ずっと持っていた」

　夜汽車は、北へ向かう線の、いちばん端の三等だった。

　窓の外で、帝都の灯りが少しずつ減っていった。一臣は、下巻を膝の上で開いていた。開いているだけで、頁はめくっていなかった。

「読まないんですか」

「読んでいる」

「めくってません」

「……厚みを測っている」

「やめたって、言ってました」

「今夜は、やめるのをやめた」

　私は笑った。笑ったら、汽車が大きく揺れて、肩が一臣の腕に当たった。私は謝らなかった。一臣も、腕をどけなかった。

　夜半を過ぎて、私は眠った。眠るつもりはなかった。目を開けると、窓の外が白くなっていて、私の肩には、背広の上着が掛かっていた。

「眠いのかと思った」と一臣は言った。

「今度は、本当に眠かったです」

「そうか」

　一臣は、窓の外を見ていた。口の端が、少しだけ動いていた。

　　＊

　函崎は、霧の中にあった。

　汽車を降りると、駅の屋根の向こうが白くて、何も見えなかった。潮の匂いがした。帝都の港とは違う、冷たい匂いだった。六月なのに、襟元が肌寒かった。

　霧が晴れてから、港を見た。

　手のひらの形をしていた。親指と小指が岬になって、湾を抱えている。指のつけ根のあたりに、倉庫と、船具屋と、漁師の家と、小さな造船所が並んでいた。北方回航記の上巻の、最後の地図と同じ形だった。

「ここに、船が流れ着いたんですね」

「氷が緩んで、持ち上がったまま、流されて」

「氷圧」

「覚えていたのか」

「十二の年に、教えてもらいました」

　一臣は、湾のほうを見ていた。見ながら、何か言いかけて、やめた。やめてから、もう一度口を開いた。

「ここにする」

「はい」

　決めたのは、この人だった。それでよかった。

　店は、港の坂の途中に見つけた。前は網元の干物を売っていた店で、土間に魚の匂いが残っていた。二階に六畳が二間。煉瓦の小さな窯が、裏の小屋についていた。干物を燻すための窯で、菓子を焼くには温度が低い。一臣が、焚き口を広げればいいと言った。

　二階の二間は、襖で分けた。

　大家は、港の古い網元の後家さんで、私たちを見て「ご夫婦かい」と訊いた。

「まだです」と私は言った。

「まだ」

「来年の春に」

　大家は、一臣の顔を見た。一臣は、黙って頭を下げた。大家は、ふうん、と言って、家賃を月に二円と決めた。帝都の下町より、五十銭安かった。

　看板は、一臣が板に書いた。細い字で、右へ少しずつ上がっていく字だった。

　　洋菓子　きりたに

「洋菓子、でいいのか。ボーロも蒸しパンも売るのだろう」

「いいんです。祖母の店が、そうだったので」

　祖母の店、と私が言っても、一臣は何も訊かなかった。訊かずに、その通りに書いた。

　　＊

　店は、七月の初めに開いた。

　最初の一か月は、帝都の下町の最初の一か月と、同じだった。ボーロは売れた。蒸しパンは、少し売れた。マドレーヌは、売れなかった。港の人は、見たことのない貝の形の菓子に五銭は出さない。

　売れたのは、別のものだった。

「これを、船に積めないか」

　七月の半ばに、一臣が言った。

　手には、本の菓子が一枚あった。私が朝、自分たちの分だけ焼いたものだった。薄くて、粉が落ちなくて、指に何も残らない。

「船ですか」

「港の漁船は、一度出ると三日は戻らない。船の上で食べる物は、握り飯と干物と、固い乾麺麭だけだ。乾麺麭は、湿気るとまずいし、粉が落ちる。船の上は、揺れる。片手で綱を持って、片手で食べる」

　一臣は、本の菓子を指でつまんだまま言った。

「本を読みながら食べられる菓子は、綱を持ちながらも食べられる」

　私は、しばらく何も言えなかった。

　十四の春に、分家の縁側で、この人が頁から目を離さずに三枚食べた菓子だった。一人のために詰めた配合だった。それが、一人のためでなくなるかもしれない。

「湿気らないようにするなら、焼きを強くして、厚みを少し足します。バタは減らします。代わりに、ラードと、塩を少し多く。……長く持たせるなら、缶が要ります」

「缶は、船具屋にある。茶を入れる缶を、船主に回してもらう」

「値段は」

「それは、私が決める」

　一臣は、そう言って、坂を下りていった。

　三日後に、網元の船が二艘、本の菓子を缶で積んでいった。一缶に四十枚。一缶三十銭。原価は、缶を返してもらう約束で、一缶十一銭。一臣は、船主と、缶を返す約束と、湿気た分は取り替える約束と、代金は漁から戻った日に払う約束を、一枚の紙に書いて、両方で判を押した。

「掛け、ですか」

「掛けだ。取り立ては、私がやる」

　一臣は、取り立てが上手かった。

　怒鳴るわけでも、紙を突きつけるわけでもなかった。船が戻った日の夕方に、坂の下の網元の家へ行って、戸口で頭を下げて、「本の菓子の缶を、いただきに参りました」と言う。それだけだった。網元たちは、空の缶と一緒に、代金を払った。払わない家には、次の日の夕方にも同じことを言いに行った。三日目には、払った。

「どうやったんですか」

「毎日、同じことを言いに行っただけだ」

「それだけ」

「用が済むまで、帰らない」

　十六の年、この人は私に言った。私は用が済むと帰る癖がある、と。

　癖は、変わっていなかった。用が済むまでは、帰らない。

　八月には、網元の船が七艘になった。九月には、港の外から来る運搬船の事務長が、缶を二十、まとめて頼んでいった。港の人は、その菓子を、本の菓子とは呼ばなかった。船の菓子と呼んだ。

　ノートの原価表に、私は新しい行を足した。

　　船の菓子（本の菓子）
　　　一缶　四十枚
　　　売　三十銭
　　　原　十一銭
　　　帳場　一臣さん

　帳場、の行を書くのは、初めてだった。

　　＊

　十月に、その客が来た。

　昼すぎの、店がいちばん空いている時刻だった。一臣は裏の小屋で、窯の焚き口の煉瓦を積み直していた。私は、台の前で、夕方のボーロの袋を折っていた。

　戸が開いて、影が差した。

　大柄な男の人だった。

　紺の作業着を着ていた。袖を肘までまくっていて、日に焼けた腕が見えた。指が太い。顎に、剃り残しのような無精ひげがあった。髪に、白いものが増えていた。作業着の胸に、刺繍の文字があった。蓬田造船。

　港の外の造船所に、南の造船所から船が一艘、引き渡しに来ている。そう、網元の家で聞いたのは、三日前だった。

　十七の六月、早瀬さんは南浦でこの人に会って、娘さんは元気で菓子を焼いてる、と言ったそうだ。この人は、そうか、と言って、しばらく黙っていたという。

　その人は、台の上を見た。紙の値札を、一枚ずつ見ていた。ボーロ、五つで一銭。蒸しパン、一つ一銭。船の菓子、一缶三十銭。マドレーヌ、一つ五銭。

　十歳の九月の朝、二階の窓から見た背中だった。十七の十二月、星の間で、借り物の背広を着て、電報を胸の高さで持っていた人だった。

　その人は、私の顔を見なかった。値札を見ていた。

「これを」

　低い声だった。

「一缶。……それと、その、貝のを、一つ」

「はい」

　私は、船の菓子の缶を一つ台に載せて、マドレーヌを一つ、紙の袋に入れた。

「三十五銭です」

　その人は、作業着の胸のポケットから、小銭を出した。太い指で、一枚ずつ台に置いた。十銭が三枚。五銭が一枚。釣りは、要らなかった。

　私は、その三十五銭を見ていた。見て、手に取った。

「ありがとうございました」

　祖母の店で、何万回も言った言葉だった。千鳥町の路地でも、この坂の店でも、一日に何十回も言う。今日も、同じ声で言えた。

　その人は、缶を小脇に抱えて、紙の袋を作業着のポケットに入れた。入れてから、一度だけ、台の向こうの私を見た。

　何も言わなかった。

　私も、言わなかった。

　その人は、戸を開けて、出ていった。坂を、下へ歩いていった。急がなかった。ゆっくりでもなかった。仕事の現場から次の現場へ移るような歩き方だった。

　振り返らなかった。

　裏の戸が開いて、一臣が煉瓦の粉をはたきながら入ってきた。

「今の人は」

　一臣は、戸口のほうを見ていた。星の間で、あの人が電報を出したとき、この人も壁際にいた。

「お客さんです」

　私は言った。

　一臣は、しばらく戸口を見ていた。それから、「そうか」と言った。それ以上、訊かなかった。

　どうしてこの店に来たのかは、訊かなかった。追いかけて、訊くこともできた。坂の下まで走れば、まだ間に合った。訊けば、答えをあてにすることになる。あの人の答えを、この店の帳面のどこかに書くことになる。

　あの人は、十歳の九月の朝、振り返らずに門を出た。今日も、振り返らずに坂を下りた。私は、あの人をあてにしない。あの人も、私に何かをしに来たのではなかった。菓子を買いに来た。一缶と、一つ。三十五銭。

　その夜、ノートの売上の欄に、いつものように書いた。

　　十月十四日
　　　船の菓子　一缶（客）
　　　マドレーヌ　一（客）
　　　三十五銭

　客、の字を、二回書いた。

　書いてから、余白に何か描こうとした。何を描けばいいか分からなかった。缶の絵を描いた。缶は、菓子の形をしていなかった。

　　＊

　十二月に、港が凍った。

　湾の奥の、指のつけ根のあたりから、白くなっていった。漁船は岸に引き上げられて、網元の家の前に並んだ。船の菓子の注文は止まった。代わりに、港の外の運搬船が、冬の長い航海のために、缶を三十まとめて頼んでいった。

　夜、二階の六畳で、火鉢に炭を足した。

　一臣は、火鉢の向こうで『北方回航記』の下巻を読んでいた。四度目だった。膝の横の皿に、本の菓子が五枚載っていた。一臣は頁から目を離さずに、一枚取って、齧った。

　粉は、落ちなかった。

　私は、ノートを開いていた。今月の原価表を締めて、来月の仕入れを書いていた。書きながら、ときどき火鉢の向こうを見た。

　襖は、夜になると閉めた。閉める前の、この一時間だけ、二人で同じ火鉢に当たった。

「一臣さん」

「なんだ」

「氷に挟まれた船は、沈まないんでしたよね」

「持ち上がる。氷圧で」

「危ないのは、氷が緩むときでしたね」

「そうだ」

　一臣は、頁をめくった。

「緩んだら、流される。流されて、どこかの港に着く」

「この港みたいに」

「この港みたいに」

　窓の外で、湾の氷が鳴った。低い、長い音だった。汽笛に少し似ていた。

　一臣は、皿の上の最後の一枚を取ろうとして、指が空を掴んだ。そこで初めて顔を上げて、空の皿を見た。それから、自分の指を見た。それから、私を見た。

「もう一枚、焼いてあります」

「……もらう」

　私は、台所へ下りていった。梯子段の途中で、ノートの右下の隅のことを思った。

　あの数字は、五月十一日から、書いていない。

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