# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第十二章　いなくなった二人

## 六月の親族会――澪

　本家の応接は、声が大きかった。

　小野澪は、扉の外の長椅子に座って、それを聞いていた。三村弁護士に頼んで、ここまで入れてもらった。話があります、と言った。瑠璃さんのことで、と。三村はしばらく澪の顔を見て、それから、何も訊かずに頷いた。

　扉の向こうで、白髪の大叔父の声がした。

「本家の血を引く娘が、罪人の息子と、だぞ」

「分家の嫁の郷里にも、息子から手紙が来たそうだ。探さないでくれ、と。娘のほうと、一字一句同じ文句だ」

　別の声が言った。

「警察に届けるべきだ。二十前の娘だ。後見の同意もなく、家を出た。連れ戻す理由はいくらでもある」

「探偵を雇えばいい。帝都の中なら、ひと月で見つかる」

「帝都の中にいればな」

「新聞に嗅ぎつけられたら、どうする。裁判が済んで、やっと静かになったところだ」

「だから、嗅ぎつけられる前に、連れ戻すのだ」

　澪は、膝の上で手を組んでいた。

　学院の制服ではなかった。紺の木綿の着物で、髪を後ろで一つに結んでいた。膝の上の巾着の中に、紙の袋が一つ入っていた。袋の中に、ボーロが一つだけ残っていた。函崎は遠いので、と言って五つ余分に買った、そのうちの最後の一つだった。

　扉が開いた。三村弁護士が顔を出した。

「小野さん。どうぞ」

　　＊

　応接の長い卓に、親族会の三人が座っていた。三村が、その端に立った。

　澪は、卓の前に立った。

　一年半前、この家の星の間で、澪は父の遺した手紙を読んだ。あのときと同じ三人だった。あのときより、三人とも少し痩せていた。

「小野さん」と大叔父が言った。「あなたは、瑠璃と親しかったと聞いた。下町の店にも、通っていたそうだな」

「月に一度です」

「では、行き先を知っているのではないか」

　澪は、大叔父の顔を見た。

　知っている。函崎。北の港。瑠璃さんは、下町の店の奥の三畳で、番茶を出しながら、そう言った。何もしないでください、と言った。探しに来ないで。探そうとする人がいても、放っておいて。

　放っておいては、いけないと思った。

　放っておけば、この三人は探偵を雇う。探偵は、ひと月かふた月で、下町の路地の煙草屋に行き着く。煙草屋から、フミという女中に行き着く。そこから先は、分からない。分からないけれど、行き着くかもしれない。

　瑠璃さんは、黙っていてくれれば、と言った。

　黙っているだけでは、足りない。澪はそう考えて、ここへ来た。

　星の間の日の三日前に、澪は瑠璃さんに言った。座っているだけが、いちばん難しい、と。今日は、その逆だった。立っているのは、難しくなかった。難しいのは、一言で済ませることだった。

　澪は、口を開いた。

「親が犯罪者であると知った二人はいなくなりました」

　応接が、静かになった。

　澪は、それ以上言わなかった。言うことは、それだけだった。

　大叔父の口が、少し開いて、閉じた。隣の一人が、何か言いかけて、やめた。三人目は、卓の上の自分の手を見ていた。

　親が犯罪者だと知った。だから、いなくなった。二人を追い出したのは、罪を犯した親たちと、その罪を七年余り黙って吸ってきたこの家だ。澪の一言は、ここに座っている大人たちへの断罪でもあった。

　世間は、それで納得する。新聞も、それで納得する。天導家の事件の、最後の一行として。罪人の娘と、罪人の息子が、恥じて姿を消した。それ以上の記事にはならない。

　探せば、その一行の続きが始まる。

　連れ戻せば、罪人の娘は、もう一度、本家の娘として帝都に戻ってくる。罪人の息子と一緒に。新聞は、それを書く。裁判が済んで、やっと静かになったものが、もう一度、騒がしくなる。

　澪は、それを口に出さなかった。口に出さなくても、この三人には分かる。三人とも、この家の名前を守るために、この卓に座っている人たちだった。

「……それだけか」

　大叔父が、ようやく言った。

「それだけです」

「行き先は」

　澪は、答えなかった。

　知りません、とは言わなかった。嘘は下手だった。瑠璃さんも、それを知っていた。嘘じゃなくていいです、と瑠璃さんは言った。

　澪は、黙って立っていた。

　長い沈黙だった。卓の端で、三村弁護士が、一度だけ目を伏せた。

「……捜索願は、出さん」

　大叔父が言った。

「探偵も、雇わん。本家の娘は、事件のあと、身を慎んで家を出た。それで話は済んでいる。済んだ話を、蒸し返す理由はない」

　隣の一人が、「しかし」と言った。

「済んでいる」と大叔父は繰り返した。

　澪は、頭を下げた。

　　＊

　本家の門を出て、澪は、しばらく歩いた。

　正門だった。瑠璃さんは、一年と少し前、ここではなく裏門から出ていったと聞いた。

　澪は、正門の前で立ち止まって、巾着を開けた。

　紙の袋の中の、最後のボーロを出した。小さくて、丸くて、少し焦げていた。瑠璃さんは焦げたのを売らなかったから、これはたぶん、紛れこんだのだと思った。

　口に入れた。

　甘すぎなかった。

　一年半前の十二月、星の間で、澪は父の名前を返してもらった。瑠璃さんの帳面がなければ、もっとずっとかかった。あのとき澪は、瑠璃さんに、何も返せなかった。

　今日、一つだけ返せた気がした。

　守る、というのは、隣に立つことだけではないのだと、澪は思った。黙っていることでも、いい。一言で済ませることでも、いい。探させないことでも。

　澪は、門の前から歩き出した。振り返らなかった。

　北のほうの空は、帝都の煤で、よく見えなかった。

## 二十歳の春――瑠璃

　四月二十日の朝の四時に、店の戸が鳴った。

　鳴らなくてもいいのに、と私は思う。一臣は、もう二階の襖の向こうで寝起きしている。わざわざ裏の小屋の窯に火を入れてから、表へ回って、店の戸を叩く。千鳥町の頃の癖だ。

「四時だ」

「四時です」

　一臣は、窯の焚き口の前にしゃがんだ。去年、一臣が広げて積み直した煉瓦の焚き口は、広くなって、背の高い人でも火が入れやすくなった。薪を左へ寄せる。右の奥は、この窯でもやっぱり熱い。

　私は、量りを出した。

　ボーロを百。蒸しパンを六十。船の菓子の生地を、缶に十二。マドレーヌを十二。今日は土曜ではないけれど、マドレーヌを焼く。売り物にしない一つを入れて、十三。

　今日、私は二十歳になった。

　　＊

　函崎の役場は、港の坂を下りきったところにあった。

　昼すぎ、店を大家の後家さんに頼んで、二人で坂を下りた。大家は、店番を頼むと、ふうん、と言って、前掛けを締めた。

「来年の春に、って言ってたね」

「今日が、その春です」

「ふうん」

　大家は、台の上の値札を眺めて、自分でボーロを一袋取って、一銭を缶に入れた。

　日曜で、役場の表は閉まっていた。裏の宿直の窓口で、紙を一枚もらった。

　一臣が、夫の欄を書いた。細い、右へ少しずつ上がっていく字だった。名前。本籍。生年月日。私は、妻の欄を、自分で書いた。

　後見人の同意、という欄があった。

　書かなくてよかった。二十歳になれば、要らない欄だった。その欄のために、私たちは帝都を出て、手のひらの形の港まで来た。紙の上では、空いたままの、細い一行だった。

　名字の欄を書くとき、私は少し笑った。

　天導。

　夫の名字も、天導だった。天導の分家の息子と、天導の本家の娘だった。どちらの欄にも、同じ名字が並んだ。

「何がおかしい」

「紙の上では、私、ぜんぜん止まってないなって」

「……止まっていない」

「天導瑠璃のままです。天導一臣の奥さんの、天導瑠璃」

　一臣は、書き終えた紙を、窓口に出す前に、もう一度見た。見て、少し考える顔をした。

「看板は、きりたにだ」

「看板は、きりたにです」

「では、それでいい」

　一臣は、紙を窓口に出した。

　宿直の人が、判を押した。

　それで、終わりだった。儀式らしいことは、何もなかった。十六の春に、本家の応接で書付を読み上げられたときより、ずっと短かった。

　役場を出ると、湾の上に霧が出はじめていた。

　一臣は、坂の下で立ち止まって、傘を開いた。雨ではなかった。霧が、細かい粒になって降りてきていた。

　一臣は、傘を傾けなかった。

　まっすぐ、二人の真ん中に差した。坂を半分も上らないうちに、一臣の左の肩と、私の右の肩が、同じくらい湿って色を変えた。

　十六の夏、夕立の庭で、この人は同じように傘を差した。どちらかだけを濡らさない。二人ぶんを、半分ずつ濡らす。

　私は、傘の柄に手を添えた。一臣の手の上に、私の手が重なった。どちらも、傘を傾けなかった。

　　＊

　世間から見れば、これは破滅なのだと思う。

　本家の跡取りだった娘が、北の端の港で、罪人の息子と、五つで一銭のボーロを焼いている。実の父は湖で死んで、母は帝都の獄にいて、十歳の朝に門を出た恭介さんは、今度は坂を振り返らずに下りていった。天導の家には、二度と戻れない。戻れば、罪人の娘と罪人の息子として、帝都の新聞に、もう一度名前が載る。

　母には、年に一度、三村を通して手紙を出している。菓子を焼いていること。元気でいること。それだけを書く。

　返事は、来ない。

　澪には、季節ごとに、船の菓子を一缶送っている。差出人の名前は書かない。缶の蓋に、貝の絵を一つ描くだけだ。

　澪からも、返事は来ない。

　来ないのが、澪の返事だと思っている。探さないでください、と私は頼んだ。澪は、探さない人だった。誰にも、探させない人だった。去年の六月から、坂の下に、帝都から来た見慣れない人が立ったことは、一度もない。

　ときどき、湾に南から船が入る。そういう日は、私は台の前で、戸口のほうを少しだけ多く見る。

　あの作業着の客は、あれから一度も来ていない。

　それでいい、と思っている。あてにしない、と決めたのは私だった。あの人も、たぶん、そう決めている。

　　＊

　夜、二階の六畳で、ノートを開いた。

　今日の売上を書いた。ボーロ、蒸しパン、船の菓子、マドレーヌ。仕入れを書いた。残りを書いた。

　右下の隅は、空いていた。

　十二月十八日に七百三十から始めて、一日に一つずつ減らしていった数は、二百二十一で止まった。その先は、数える必要がなくなった。

　会える日を数えなくていいのは、毎日、会えるからだ。

　祖母の配合表には、数えないでいい欄が一つもなかった。粉も、砂糖も、卵も、バタも、全部グラムで書いてあった。数えないでいい欄を一つ持ったのは、私が初めてだと思う。

　余白に、貝の形を描いた。筋を五本、扇の形に引いた。

　それから、売り物にしなかった十三個目のマドレーヌを、半分に割った。

　半分を、火鉢の向こうに差し出した。一臣は、『北方回航記』から目を離さずに、それを受け取った。受け取って、齧って、粉が膝に落ちた。

　一臣は、頁から目を上げて、膝の粉を見た。

「これは、本が汚れる」

「本の菓子じゃないので」

「……そうだった」

　一臣は、本を閉じた。閉じて、膝の横に置いて、残りのマドレーヌを両手で持って、食べた。

　見たことがない、と書いてきた菓子だった。十二の年に。

　　＊

　朝の四時に、店の灯りをつける。

　祖母がそうしていたからではない。四時に始めないと、七時の坂の人通りに間に合わないからだ。

　量りを出す。粉を量る。針が、決めた目盛りで止まる。止まるのを見て、朝が始まる。

　裏の小屋で、薪のはぜる音がする。右の奥が熱くなりすぎないように、誰かが薪を左へ寄せている。

　私は、天導瑠璃を止めた。

　紙の上では、止まっていないらしい。それでも、坂の上の看板には、きりたに、と書いてある。細い、右へ少しずつ上がっていく字で。

　世間から見れば破滅で、私たちにとっては、朝の四時だった。

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