# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第三編　0歳転生編

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# 第一章　十歳の部屋

　日曜の買い物帰り、コンビニで肉まんを買った。袋の口を握って歩くと湯気が指にあたって、それが嬉しいくらいには、私は普通に生きていた。

　部屋は六畳と台所。壁際に折りたたみの机、その上に会社の鞄と、充電したままのゲーム機。ベッドに座って肉まんを食べ、インスタントの味噌汁を一杯飲んだ。二十七歳の、九月最後の日曜日。仕事は事務で、忙しいのは月末だけで、今月の締めの山は金曜に越していた。恋人はいない。休日に誰かを誘うことも、めったにない。誘われることは、ときどきある。

　スマホが鳴った。同じ課の北原さんだった。

『瑠璃花さん、辛いの平気でしたっけ？　駅前にできた麻辣の店、来週の水曜どうですか』

　私は肉まんを皿に置いて、両手でスマホを持った。

　行きたかった。北原さんは笑う声が大きくて、話していると、こちらまで声が大きくなる。私はその時間が好きだ。辛いものも食べられる。来週の水曜には何の予定もない。

　なのに、指が止まった。

　水曜に着ていく服がない、と思った。会社の服のまま行くのは変だろうか。変ではない。でも北原さんはたぶん一度帰って着替えてくる。私が会社の格好で行ったら、誘われても嬉しくなかったのかと思わせるかもしれない。それに、店で二時間、何を話すのだろう。北原さんは話題を出してくれる人だけれど、こちらからも出さないと、いつか誘うのをやめる。三回誘って三回とも続かなければ、人は誘うのをやめる。私はそれを知っている。知っているのに、その三回目が怖くて、一回目から逃げる。

『わあ、麻辣いいですね！　ただ来週ちょっとバタバタしそうで……次はぜひ！』

　送ってから、天井を見た。

　北原さんに「次はぜひ」と返すのは、これで二回目だった。一回目は七月の、焼き鳥の店だった。ほかのことはすぐ忘れるのに、この回数だけは、いつもきちんと覚えている。

　来週はバタバタしない。次があるかどうかは、もう私が決めることではなくなった。北原さんが決める。私はそれを待つ。待っているあいだに、たいていのことは終わる。

　既読がついて、猫が両手で丸をつくっているスタンプが来た。それで終わりだった。

　＊

　ゲーム機を取った。電源を入れると、いつもの帝都の空が出る。桜と洋燈の意匠、始まりの三音。『帝都恋綺譚』。三年前に買って、これが七周目だった。

　主人公は小野澪という奨学生で、湖の別荘の番人の娘だ。攻略できるのは三人。分家の跡取りの天導一臣、医者の息子の蘆田慎、新聞記者の早瀬遼。三人のうち誰がいちばん好きか、と訊かれたら、私は答えられない。答えられないから七周した。

　甘いだけのゲームなら、七周もしなかったと思う。どのルートも、後半になると、恋の下から湖の事件が顔を出す。そしてその事件のいちばん奥に、悪役令嬢の天導瑠璃がいる。転入してきた澪や、小暮という下級生を虐める子だ。

　物語が始まる六年前、瑠璃が十歳の夏に、天導家の当主の宗一郎は湖の別荘で死んでいる。お盆の灯籠流しの夜に瑠璃がいなくなり、宗一郎は探しに出て、桟橋ごと湖に落ちた。十八歳の成年披露の夜、澪がその真相を明かす。主犯は伯父で、瑠璃の母は兄に命じられて、十歳の娘を薬で眠らせ、舟屋に置いた。瑠璃はその母をかばって、十七の冬に母の帳面を焼いていた。虐めと、焼いたことを一つずつ数え上げられて、瑠璃は全部を失う。

　最後の場面は、屋敷の門の外だ。荷物を一つだけ持った瑠璃の前に、作業着の男が立っていて、名乗らずに「送っていこうか」と言う。「……あなた、誰」と瑠璃が訊くと、男は「昔、あなたを抱いていた者だ」と答える。

　そこで私はいつも泣く。あの子は十歳で眠らされて、暗い舟屋に置かれた子だった。そのことを、ゲームの中で口にする人はいない。

　今夜も泣いた。エンディングの歌が終わって、画面が暗くなるまで見て、そのままベッドに倒れた。

　電気を消して、目を閉じた。麻辣、と思った。次はぜひ、と自分が打った文字を思い出した。

　ぜひ、って何なんだろう。

　＊

　枕が濡れていた。

　目が覚めて最初の一秒、私は泣きながら寝たのだと思った。次の一秒で、枕が違うと気づいた。硬い。頭を動かすと蕎麦殻が鳴る。麻の匂いがする。

　喉の奥に、言葉の尻尾のようなものが残っていた。自分が言い終えたのではない言葉。

　――……なければ、よかった。

　誰の声か分からなかった。私の声ではなかった。

　身体を起こした。腕が短い。持ち上げた腕に重さがなくて、勢いあまって布団に手をついた。天井が高い。黒い梁が見える。窓が縦に長く、外は明るい。蝉が鳴いている。朝ではなかった。日はもう高い。

　立ち上がると、膝が軽かった。走り出せそうな軽さ。自分が子どもだったころ、こういう軽さだったのかどうか、もう覚えていない。

　部屋の隅に鏡台があった。近づいて覗いた。

　十歳くらいの女の子がいた。黒い髪を肩で切りそろえて、目のかたちがきつい。頬にまだ丸みがある。泣いたあとの目をしている。

　天導瑠璃だった。

　ゲームの立ち絵より幼い。でも間違えようがない。眉の角度も、口の端の下がり方も、七周のあいだ何度も見た顔だった。

　鏡台の上に、紙が一枚あった。学院の夏休みの予定表で、今日の日付に鉛筆で丸がしてある。八月十五日。翌日の欄に「始業」。誕生日は四月二十日だと、ゲームの設定資料集で読んだ。この子は今年の春、十歳になったところだ。

　八月十五日。十歳。

　背中が冷たくなった。

　湖の事件の日だった。天導瑠璃が十歳の夏の、お盆の灯籠流しの夜。宗一郎は今夜、桟橋ごと湖に落ちる。

　私は窓に飛びついた。

　外は湖ではなかった。瓦屋根がどこまでも続いて、そのあいだに電柱の線が渡っている。遠くに煙突が見えた。星見荘ではない。帝都の屋敷だ。

　ここにいたら、湖に間に合わない。――そう思ってから、何に間に合うつもりなのか、自分でも分からなくなった。十歳の足で、どこへ行くのか。誰に、何と言うのか。今夜あなたは桟橋から落ちます、と、会ったこともない人に。

　分からなかった。ただ、今夜、人が一人死ぬ。それだけは知っていた。

　廊下から足音がした。

「瑠璃」

　女の人の声だった。低くて、はっきりしている。

　私は息を止めた。返事をしなければ、と思った。返事をしなければ誰かが入ってくる。入ってこられて、この中身が違うと知られたら――知られたらどうなるのかも分からないのに、怖かった。

「はい」

　自分の口から出た声が高くて、驚いた。

「起きたのなら、仏間へ来なさい」

　足音が遠ざかった。

　私は鏡の中の女の子を見た。この子が昨日まで何を考えていたのか、私には何も分からなかった。記憶が流れ込んでくることも、頭の中に誰かの声がすることもなかった。あるのは、あの「……なければ、よかった」という尻尾だけだった。

　この子はどこへ行ったのだろう、と一度だけ思った。答えは鏡の中にはなかった。

　＊

　仏間には珈琲の匂いがした。

　仏壇のある部屋で珈琲を淹れる人を、私は初めて見た。母――天導藤乃は、白っぽい薄物の襟を正して座っていた。細身で、座っていても背の高さが分かる。切れ長の目は、さっき鏡で見た目と同じ形をしていた。茶托の上に、小ぶりの白い碗が二つ。一つは母の前に、一つは仏壇の前に置かれている。仏壇の前のほうは、手をつけられないまま湯気を失いかけていた。

　三十四歳のはずだった。ゲームの回想の立ち絵より、痩せている。珈琲の匂いの下に、母の着物から来る甘い香の匂いがあって、そのさらに下に、古い甘さが薄く混ざっていた。お酒だ、と分かった。昨夜のものか、今朝のものか。

　仏壇の横に、写真が掛かっていた。三十を少し過ぎたくらいの男の人。痩せた顔で、穏やかに口を結び、少しだけ笑いかけている。若いのに、こめかみに白いものが混じっていた。

　天導宗一郎。

　写真だった。仏壇の横の、黒い縁の。

　ゲームでは、物語が始まったときにはもう死んでいる人だった。事件のすべての中心にいて、一度も喋らない人。今夜死ぬはずの人が、もう写真になっている。

　私は座った。座り方が分からなかったので、母を真似た。すぐに膝が痛くなった。

「今日で六年です」と母は言った。「宗一郎さまが、湖でお亡くなりになって」

　六年。

　私は膝の上で、指を折りかけた。十から六を引く。四。

　四つ。

　ゲームでは、十歳だった。天導瑠璃が十歳の夏に、宗一郎は湖で死ぬ。物語が始まるのはその六年後だ。七周のあいだ、私はずっとそう読んできた。設定資料集の年表にも、そう書いてあった。

　ここでは、事件はこの子が四つの夏に、もう終わっている。

　母は自分の碗を置いた。音を立てない置き方だった。

「瑠璃。今朝は話の途中で部屋へ戻ってしまいましたね。泣いて済むことではありません。あなたも十になったのだから、最後まで聞いておきなさい」

　今朝、この子は何の話を聞いたのだろう。何を言って部屋へ戻ったのだろう。私は訊けなかった。訊けば、それを知らないことが知られる。濡れていた枕も、喉に残っていたあの尻尾も、きっとその話のあとのものなのだろう、とだけ思った。

「あなたがパパと呼んでいた人はね」と母は言った。「あなたを差し出して、この家を出ていったの」

「……差し出した？」

「あの夜、あの人は湖にいなかった。いるべきときに、いなかった。宗一郎さまを死なせた夜にそばにいなかった者を、天導は置いておけません。あの人は言い訳をしなかった。家を離れる代わりに、あなたを天導へ置いていくことを承知した。だからあなたは、宗一郎さまのお決めになったとおり、本家の子として育っている」

　母の声には、震えがなかった。平らだった。平らなぶん、聞いている側がどう受け取るかまで決めてあるように聞こえた。

「わたしを、いらないって言ったの」

「そうは言わなかった。ただ、置いていった」

　母は仏壇の前の碗を見た。

「宗一郎さまは、珈琲がお好きでした」

　それだけ言って、母はしばらく何も言わなかった。

　私は膝の上で、自分の小さな手を握った。

　筋は、ゲームで読んだとおりだった。瑠璃は宗一郎の遺した書面で本家の養女になり、父親は家を出た。そしてTRUEルートでは、この人は兄に命じられて、娘を薬で眠らせた人だ。

　年だけが違う。ゲームの瑠璃は十歳で眠らされた。この家の瑠璃は、四つで眠らされたのだ。

　どうしてずれているのか、考えても分からなかった。私の覚え違いではない。七周した。年表まで読んだ。それでもここでは、六年、早い。

　ずれているのは、そこだけなのだろうか。ほかにも、ゲームと違うところがあるのだろうか。

　目の前にいるのは、珈琲を二つ淹れて、一つには手をつけない人だった。

　そして宗一郎は死んでいる。六年前に死んだ人は、私がここでどれだけ良い子にしても、帰ってこない。

　そのことに気づいて、私は初めて本当に怖くなった。さっき窓に飛びついたとき、私は、間に合うかもしれないと思っていたのだ。十歳で目を覚ましたのだから、せめて事件の前だろうと。

　ここは、頑張れば皆が助かる物語の途中ではなかった。もう終わってしまったことの、あとだった。

　＊

　自分の部屋へ戻ると、机の上に石盤があった。学院で使うものらしい。黒い石の板に、白い蝋石で字が書ける。

　書きかけの字があった。

　「パパは　かえってくる」

　子どもの字だった。ゆっくり書いた字だ。「かえってくる」の「る」だけ、線が長く伸びている。

　私は布で消した。右手で持って、右から左へ。消してから、どうして消したのか分からなくなった。誰かに見られたら困ると思ったのだ。誰に。

　石盤を傾けると、縁に白い粉が溜まっていた。板の左側だけが、こすれて曇っている。左手で書いて、手の側面が字の上を通れば、こうなる。私は右利きだ。この石盤に字を書いていた子は、左利きだったのだ。

　廊下に出ると、白髪まじりの男の人が立っていた。

「お目覚めでしたか、お嬢様」

「あなたは」

「佐伯でございます」

　家令の佐伯。ゲームでは、養女指名の書面に使われた印のことを証言する人だ。ここでは、私の顔を見て一歩だけ近づいてくる、背の高い人だった。

「佐伯さん。おじさまが亡くなったとき、わたし、いくつでしたか」

　佐伯は少し眉を動かした。

「四つでございました。お誕生日を過ぎて、四つの夏で」

「……そう」

　四つだった。私の聞き違いでも、母の数え違いでもなかった。

「それから、あの、恭介さんは、いまどこにいますか」

　佐伯の顔が、一瞬止まった。

「……お父上のことは、奥様にお尋ねになるのがよろしいかと」

「佐伯さんは知らないんですか」

「存じませんと申し上げるのが、正しゅうございます」

　それは、知らないという意味ではなかった。言えない、という意味だった。

　押入れに写真帖があった。革の表紙で、綴じ糸が緩んでいる。開くと、最初の頁に赤ん坊がいた。次の頁に、赤ん坊を抱いた男の人がいた。大柄で、日に焼けた顔。顎に無精ひげが残っていて、作業着の襟がよれている。赤ん坊を支える指が太い。笑い方が下手で、写真のために作った顔だと分かる。

　赤ん坊の左手が、その人の指を握っていた。石盤の曇りと同じ側の手だ、と思った。

　ゲームの最後に門の外に立っていた人だ。昔、あなたを抱いていた者だ、と言った人。

　私はしばらく、その写真を見ていた。

　これは借りた身体だ。私はこの人たちの誰でもない。写真の赤ん坊でもない。分かっていた。分かったうえで、私はまだ少し、わくわくしていた。

　この身体は軽い。ここには学院がある。慎がいる。遼がいる。一臣もいる。画面越しに見ていた人たちが、どこかで生きて歩いている。二十七歳の私が水曜の麻辣を断ったのと同じ人間でも、ここでなら、あるいは。

　そう思った自分を、私は消さなかった。

　＊

　夜、眠れなかった。

　布団の中で梁を数えた。五本まで数えたところで、帰りたい、と思った。

　麻辣の返事を書き直したかった。月曜の朝、給湯室で北原さんに会いたかった。やっぱり水曜行きます、と言いたかった。私の部屋の、充電したままのゲーム機。あれが、帰り道のように思えた。

　目を閉じて、タイトル画面を思い浮かべた。

　桜と洋燈の意匠。始まりの三音。その下に並ぶ、見慣れた文字。

　何も出なかった。

　瞼の裏は暗いままだった。もう一度、今度は文字の形まで細かく思い描いた。つづきから。はじめから。何度も押したボタンの感触まで思い出そうとした。出なかった。目を開けて、天井に向かって思い描いた。声に出して「タイトル」と言ってみた。子どもの声が、梁のあいだで小さく消えた。

　庭で虫が鳴いていた。廊下を誰かが歩いていった。世界は止まらずに、私をここに置いたまま続いていた。

　十回ほどやって、やめた。

　帰り道はない。少なくとも、私には見えない。

　泣いた。声を出すと誰かが来るので、枕に顔を押しつけて泣いた。この枕は、今朝もこうやって濡れていたのだと思った。

　泣き終わると、少し頭が冷えた。冷えた頭で、私は並べた。仕事で締めの前にやるのと同じように。

　八年後、この子は十八の成年披露で断罪される。ゲームのとおりなら、理由は三つある。学院での虐め。母の帳面と三村の封書を焼いたこと。それから、誰も口に出さなくても皆が知っている一つ――瑠璃は、宗一郎が死んだことでいちばん得をした子だということ。

　最後の一つは、私にはどうにもできない。六年前に終わっている。

　今朝、窓に飛びついた自分を思い出した。今夜のはずだった。ゲームのとおりなら、今夜なら、まだ何かできたかもしれない。十歳の足で何ができたのかは分からない。それでも、あれは「間に合うかもしれない」と思えた最後の時間だった。十歳からでは、もう遅い。

　それでも、残りの二つは、まだ起きていない。

　一つ目の手。ゲームの瑠璃と同じように、証拠を消す。帳面がどこにあるのかを見つけて、誰よりも先に燃やす。そうすれば母は捕まらないかもしれない。でもそれは、あの子が十七でやったことだ。そして、人が死んだことを隠す側に、自分の手で入ることだ。桟橋の番人は、名前を汚されたまま死んだ。その娘が、いつか学院に来る。私は彼女の返事を七周ぶん選んできた。

　やめた。

　二つ目の手。逃げる。この家を出る。十歳の身体に、お金はない。行き先もない。この世界の地図も、汽車の乗り方も知らない。父がどこにいるのかは、佐伯が言えないと言った。ゲームでは遼が南のどこかの港まで探しに行ったけれど、町の名は一度しか出てこなくて、私は覚えていない。

　汽車に一晩揺られて、着いたら大人になっていた、というようなことでも起これば別だけれど、そんなことは起こらない。起こったら、それはそれで困る。

　これも、やめた。

　三つ目の手。良い子でいる。小暮さんを虐めない。澪が来ても虐めない。そして、焼かない。帳面は、ゲームの瑠璃が十七で燃やしたのだから、それまではこの家のどこかにある。私が自分で見つけて、自分で持っておく。燃やさずに持っていれば、いつかそれを出す日が来る。いつ出すかは、そのとき私が決めればいい。

　それにした。

　決めてから、理由を確かめた。

　一つ目は、はっきりしていた。画面の前で泣いた、あの子のことだ。眠らされて、十八で全部を数え上げられて、門の外で「あなた、誰」と言った子。この子を、断罪されない十八歳にしてあげたい。それは私がこの三年、七回、思ったことだった。

　二つ目は、うまく言葉にならなかった。

　仏間で、母の声は一度も震えなかった。人を死なせる手伝いをした人の声が、あんなふうに平らでいられるものだろうか。それとも、平らにしておかないと崩れる何かがあるのだろうか。手をつけない珈琲を、仏壇の前に一つ置く人。私には分からなかった。分からないまま、あの人が警察に連れていかれるところを思い浮かべると、胃が縮んだ。

　今日初めて会った人なのに。

　どちらにしても、この子の母だ。帳面を焼かずに自分で持っておけば、それをいつ、誰に出すのかも私が決められる。この人が連れていかれる日を、少なくとも私の手で早めずにすむ。二つ目の理由は、たぶんそういうことだった。私はそれ以上考えるのをやめて、目を閉じた。タイトル画面は、もう思い浮かべなかった。

　＊

　翌朝、学院の門で、皆が退いた。

　馬車を降りて石畳に足を置いた瞬間、正面にいた三人の女の子が横へ寄った。避けたというより、道を空けた。よく躾けられた動きだった。誰も私を見なかった。見ないようにする、ということを十人ぐらいが同時にやると、空気の温度が下がる。

　教室でも同じだった。私の席の左右は空いていた。授業のあいだ、教師は私を三度あてた。三度とも、答えられるように易しい問いだった。

　昼、下級生の組の前の廊下で、小柄な子とすれ違った。眼鏡をかけて、教科書を胸に抱えている。名札に「小暮」とあった。

　ゲームの中で、天導瑠璃が階段で突き飛ばした子だ。持ち物を庭に捨てられた子だ。回想の一枚絵でしか出てこない。

「あの」と私は言った。

　小暮さんの肩が跳ねた。

「この前は、ごめんなさい」

　この前というのが、いつのことか私は知らない。何をしたのかも知らない。それでも、この子に謝るべきことが、この身体にはある。

　小暮さんは私を見た。眼鏡の奥の目が、みるみる潤んだ。そして教科書を抱えたまま、走って逃げた。

　私は廊下に立っていた。

　許してもらえたと思うな、と自分に言った。あれは赦しではない。恐怖だ。私は謝って自分が軽くなろうとして、この子をもう一度怖がらせた。昨夜決めた「良い子」は、私が決めただけで、この子にはまだ何の関係もない。

　午後の授業で、後ろの席の子が消しゴムを落とした。私の椅子の下まで転がってきた。拾って渡すと、その子は「ありがとうございます」と言った。とても小さな声だった。

　その「ありがとうございます」を、私は帰りの馬車で三回思い出した。

　三回思い出してから、自分に呆れた。消しゴムを拾って礼を言われただけだ。それを三回思い出す二十七歳が、ここにいる。

　でも、それが今日いちばん良かったことだった。

　窓の外を、知らない街が流れていった。石畳と、洋燈の柱と、看板の文字。読める文字と、読めない文字が混ざっている。この世界の暮らしを、私はまだ何も知らない。

　＊

　屋敷に戻ると、女中のフミが髪を梳いてくれた。六十近い人で、手つきがゆっくりしている。

「お嬢様、今日はお静かでいらっしゃいますね」

「フミさん。わたし、灯籠って見たことある？」

　どうしてそんなことを訊いたのか、自分でも分からなかった。仏間の二つの珈琲と、写真帖の左手と、石盤の「かえってくる」が、頭の中で混ざっていた。

「まあ」とフミが手を止めた。「お忘れですか。四つのときに、湖でご覧になったでしょう」

「……覚えてない」

「そうでしょうねえ。あんなことがあった年ですから。でもお嬢様は、帰ってからひと月ばかり、灯籠のお話ばかりなさいました。青いのが一つあった、あれは誰のだった、あれはどこまで行くの、と」

「青い？」

「青みがかった白でしょうか。ほかは橙でしたのに、一つだけそういう色だったと。何度もおっしゃるので、こちらも覚えてしまいました」

　フミは櫛を置いて、私の髪の分け目を直した。

「お嬢様のお話は、いつも同じところで止まるのです。あれはどこまで行くの、と。行き先だけは、誰も答えられませんから」

　鏡台の上に、銀の星の髪飾りがあった。今朝、母が「今日はつけていきなさい」と言って挿したものだ。

　私はそれを裏返した。

　「瑠璃へ」

　小さく彫ってある。それだけ。

　フミが横から覗いて、「旦那様が、お生まれになる前にご用意なすったものです」と言った。

「生まれる前？」

「ええ。まだ男か女か分からぬうちに、銀細工屋へ注文なさったと聞いております」

　旦那様というのが誰のことか、私は訊かなかった。この家でフミがそう呼ぶ人は、仏間の写真の人だろうと思った。

　私は星を指で撫でた。冷たかった。

「お生まれのときも、よい泣き声でした。すぐに泣いてくだすって、産婆さんが笑っておられましたよ」

　フミは、鏡の中の私にそう言った。

　夜、私は明日の授業の本を開いた。教科書の三十二頁から。読んでも頭に入らなかったが、それでも一頁ずつ進めた。

　この身体は借り物だ。この家には嘘がある。六年前の人は死んでいる。ゲームの年表は、ここでは六年ずれている。帰り道は見えない。全部そうだ。

　それでも、明日また学院へ行く。誰かと話せる人になろう。麻辣を断った私が、ここで一度くらい、はい行きますと言える人になれるかもしれない。

　私はそう思って、教科書に指を挟んだまま眠った。

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