# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第二章　良い子の勘定

　家庭教師の川口先生は、水曜と土曜の午後に来た。

　十歳の秋、最初の朗読で、私は失敗した。『海国志』の序という文章で、旧い言い回しばかりが並んでいる。読点の位置を間違えて、意味の切れないところで息を継いだ。二行目でつかえ、三行目で止まった。

　先生は待った。私はもう一度頭から読もうとして、また同じところで止まった。顔が熱くなった。二十七歳の人間が十歳の教科書につかえている、と思うと余計に喉が詰まった。

「お嬢様」と川口先生が言った。「今日はここまでにいたしましょうか」

「いいえ」

　自分でも驚くくらい早く出た。

「もう一回、読ませてください」

　先生は少し目を丸くして、それから紙を私のほうへ寄せた。

「では、息を継ぐところに、私が薄く印をつけます。印の場所で吸ってください。意味は、印のとおりに切れます」

　私は三度目を読んだ。印の場所で吸うと、文章がすっと通った。最後まで読み切ったとき、自分の声が部屋の中でちゃんと形を持っているのが分かった。

「よく通るお声です」と先生は言った。「急がずにお読みになれば、聞くほうも楽です」

　私は嬉しくて、その日は夕食まで自分の部屋で同じ文章を三回読んだ。

　この身体でうまくできたことは、それが最初だった。

　＊

　良い子でいる、と決めたのだから、何をするかを書き出しておこうと思った。

　石盤ではなく、帳面を一冊おろした。一行目に何を書くか迷った。こういうものは一行目に日付と場所を書くのだ、と誰かが言っていた気がした。誰だったかは思い出せない。ときどき、見たことのない夢を見る。罫線のノートを膝に置いて、一行目に必ず日時と場所を書く女の人の夢だ。その人は何でも表にする。時刻と、人と、証拠を。

　私は一行目に日付を書いた。二行目に「帝都　本家　自室」と書いた。三行目に「一、小暮さんに謝る（済）」と書いた。

　四行目で、何を書けばいいのか分からなくなった。

　帳面を閉じた。夢の人は、たぶん私よりずっと頭がいい。私は表を作ると、表を作ったことで安心して、中身を考えなくなる。会社でもそうだった。

　帳面は、それきり引き出しの奥に入った。

　＊

　冬になるころには、朝、昇降口で「おはようございます」と言うと、二人か三人が返してくれるようになった。下級生の小暮さんもそのうちの一人だった。彼女は目を合わせない。合わせないまま、小さな声で「おはようございます」と言って、すぐ自分の組の靴箱へ行く。

　それでよかった。彼女が返してくれるのは、私が怖くなくなったからではなく、返しても大丈夫だと思えるようになったからだろう。私にはその区別がついていた。ついていて、それでも、返事が返ってくると足取りが軽くなる。

　ゲームの瑠璃は、この子を階段で突き飛ばした。この身体の十歳までのあいだに、たぶん何かをした。私はそれを知らない。知らないまま、毎朝同じ時刻に同じ言葉を言った。八年後の断罪の席で読み上げられるはずの行を、一行ずつ減らしているつもりだった。

　礼儀正しくすると、生活が楽になった。使用人が私に話しかけてくれる。教師が私の名前を呼ぶ。母がときどき褒める。

　ある日、廊下でフミが盆を落として湯呑を割った。私は屈んで破片を集めるのを手伝った。フミは恐縮して、その週のあいだずっと私に甘くしてくれた。夜、寝る前に、私はその甘さを思い出して、少しいい気分になった。

　それから、こう思った。

　あと何回か手伝ったら、フミに恭介の居場所を訊いても答えてくれるだろうか。一回、二回――

　数えかけて、やめた。自分に嫌な気がした。嫌な気はしたが、その考えを捨てはしなかった。

　＊

　十一歳の春、佐伯から住所を得た。

　得た、というより、三月かけて少しずつ削り出した。年始の書状の宛名書きを手伝わせてもらい、返礼の整理を手伝い、古い名簿の綴じ直しを手伝った。何度目かに、私は言った。

「佐伯さん。お父様に、お手紙を書いてはいけませんか」

　佐伯は名簿を閉じた。長く黙っていた。それから、紙に鉛筆で書いた。

「南浦の、蓬田造船という所へ、三年前に人が入ったと聞いております。同じ人かどうかは存じません」

　私は「ありがとうございます」と言った。佐伯は何も言わなかった。

　その晩、便箋を出した。

　書き出しで一時間かかった。

　「パパへ」と書いて、消した。私の口はその言葉を出せなかった。二十七年ぶんの私は、この人の娘ではない。この人の娘だった子が、いまどこにいるか、私には分からない。呼びかけても、声は返ってこない。それでも、この人に読んでほしいものを書くなら、あの石盤の言葉を借りるしかない気がした。

　結局、こう書いた。

『お父様
　瑠璃です。十一になりました。
　わたしの部屋の石盤に、まえに書いた字がのこっていました。「パパは かえってくる」と書いてありました。
　わたしはそれを消してしまいました。ごめんなさい。
　でも、消したことを、あなたに知らせておきたいと思いました。
　お元気ですか。お仕事はどうですか。お返事がなくてもかまいません。
　瑠璃』

　三度書き直した。四度目を封に入れた。

　翌朝、切手を貼ろうとして、母に見つかった。

「何を出すの」

「……お父様に」

　母は封筒を手に取った。宛名を見た。表情は動かなかった。

「南浦」

「はい」

　母は封筒を袂に入れた。

「出しておきます」

「自分で出せます」

「あなたが郵便局へ行くのは、まだ早い」

　母はそう言って、行った。

　返事は来なかった。

　夏に二通目を書いた。母に渡した。秋に三通目を書いた。母に渡した。冬に四通目を書いた。母に渡した。

　五通目のとき、私は宛名の下に小さく「南浦 蓬田造船気付」と書き足した。母は何も言わずに受け取った。

　返事は、一度も来なかった。

　私は、あの人はもう私のことを考えていないのだと思った。ゲームの最後に門の外で待っていた人が、十一歳の娘の手紙に一度も返事をしない。ゲームは、そこまでは描いていなかった。差し出して出ていった人なのだから、そういうものなのだと思った。母がそう言ったからではなく、五通とも返事がないという事実からそう考えるのが自然だった。

　ただ、そう考えたときに胸の奥が痛んだので、私はまだこの家の子ではないなと自分で思った。

　＊

　同じ年の五月、母が布を選びに連れて行ってくれた。

　母は、その日は藤色に金の入った着物を着ていた。仏間の薄物とは別人のようだった。華やかな色を着ると、この人は背がもっと高く見える。

　呉服屋の座敷に反物が並んで、番頭が次々に広げる。母は私の顔の下に布をあてて、光の向きを変えた。

「これは駄目。顔が黄色く見える」

「はい」

「これも駄目。子どもに見せる色ではない」

　母は五本ほど却下してから、藍と、その隣の、少し緑がかった青を並べた。

「瑠璃。こちらとこちら、どちらが好き？」

　私は緑がかったほうを指した。理由はなかった。ただ、見た瞬間にそちらへ目が行った。

　母はしばらくその布を見ていた。

「あなたは目がいい」と母は言った。「その色はね、瑠璃という色に近いの。染屋が一番手を抜けない色よ」

「そうなんですか」

「あなたに似合う。よく似合う」

　母は番頭に反物を頼んだ。帰りの馬車で、母は窓の外を見ていた。私は膝の上に手を置いて、さっきの言葉を頭の中でもう一度再生していた。

　あなたに似合う。

　ここへ来て、九か月になる。誰かに似合うと言われたのは、そのあいだで初めてだった。

　この人はもう人を死なせる手伝いをした。私がここへ来る前に。私はそれを、ゲームで知っている。

　知っていて、その日の午後が嬉しかったことは、本当だった。私はその午後を、胸の中で取り消さなかった。取り消せなかった、というほうが正しいかもしれない。

　＊

　十二歳の夏、母に珈琲の淹れ方を教わった。

　仏間ではなく、母の居間だった。豆を挽く道具は宗一郎が外国から持ち帰ったものだという。母は挽き方を細かく指示した。粗すぎると薄い、細かすぎると苦い、その中間はここ、と、母は挽き終わった粉を私の掌に少し出して見せた。

　二人ぶんを淹れて、飲んだ。私が淹れたほうは薄かった。

「薄い」と母は言った。

「すみません」

「でも、湯の落とし方は上手。次はもう少し豆を増やしなさい」

　母は窓のほうを向いて、しばらく黙ってから、言った。

「宗一郎さまは、この道具を私に置いていったの」

「おじさまが」

「ええ。私の従兄。小さいころから、本家へ行くと一緒に遊んだ人です」

　母の声が、いつもより低かった。

「私の兄――貞光は、八年前の親族会で、私を後見人にしなかった」

　私は湯呑を置いた。

「あなたの後見人は、本来なら母親であるべきでしょう。それが取られた。兄が親族会に手を回して、自分が後見人になった。この家の帳簿も船も、いま全部あの人が握っている。私は自分の娘の学費の額さえ知らされないの」

「どうして」

「私に血がないから。私の生まれた家は、三代前に養子で入った天導の分家です。初代の血がない。だから、この家では私は最後まで客なの」

　母は珈琲を飲んだ。

「宗一郎さまには、百合子さまという奥様がいらした。お身体の弱い方でね。あなたが二つの冬に、お亡くなりになった」

　私は黙って聞いていた。

「その翌年の暮れに、あの人は静子さんという方と婚約なさった。久我様のお嬢さんで、お若い、家の決めた方。婚礼は、あなたが四つの年の十月のはずでした」

　母は碗の縁を指でなぞった。

「百合子さまがいらしたあいだは、選べないのだと思っていた。いらっしゃらなくなっても、あの人は私を選ばなかった。あの人はそういう人。人を傷つけないつもりで、決めないの」

　私は母の横顔を見ていた。

　ゲームにも、その一行はあった。宗一郎は病身の奥様を二年前に亡くし、秋には次の人との婚礼が決まっていた。ゲームでは、奥様が亡くなったのは瑠璃が八つのときで、事件は十歳の夏だった。ここでは、二つの冬と、四つの夏。奥様の死のあとに再婚が決まり、秋の婚礼を待たずに事件が起きる。その順序は同じだった。

　婚約と事件が、六年早い。

　ずれているのは事件だけではなかった。奥様が亡くなるところから、もうずれている。なぜそうなのかは、母の話からは分からなかった。

　そして、この人は、宗一郎を愛したままだ。選ばれなかった相手を、八年経っても愛したままで、その相手を死なせる手伝いをした。私はそう知っている。

　でも、いま母が語っているのは、兄に踏みつけられた女の話だった。

　――従わされたのだ。

　私はそう解釈した。

　ゲームでもそうだった。主犯は伯父で、母は兄に命じられて娘を眠らせた。いま目の前で、母は兄に後見を奪われた話をしている。二つはきれいに重なった。母は分家の家で育って、血がないと言われ続けて、兄に後見権を奪われた。あの計画も、たぶんこの兄が主で、母はそこへ引き込まれた。そう考えると、この人の弱さと、あの犯罪が一本につながる。

　つながると、私は楽になった。

　楽になったついでに、もう一本の線が引けた。

　帳面を見つけても、母は守れる。

　ゲームの澪が伯父を告発するとき、母の帳面さえ表に出なければ、罰を受けるのは伯父だけで済むかもしれない。母は従わされただけなのだから、それでいい。帳面は燃やさない。燃やせば、ゲームの瑠璃と同じになる。ただ、出す時期を、私が選ぶ。伯父が裁かれたあとでも、出さなくていいなら出さない。

　私はその夜、布団の中で、その線を何度もなぞった。なぞるたびに、線は太くなった。

　母が語ったのは、母の話でしかなかった。母がいつ何を知らされていたのか、母が誰の案で動いたのか、それを裏づけるものを、私は一つも持っていなかった。そのことは、布団の中でも分かっていた。分かっていて、私は自分が楽になれる解釈を選んで、それを事実の場所に置いた。

　＊

　十三歳の春、天導一臣が庭に来た。

　十九歳の彼は、そのころもう分家の商会の仕事に出ていて、月に一度か二度、天導へ帳簿を届けに来る。私は挨拶をするだけの間柄だった。背が高く、眉がまっすぐで、いつも帳簿と一緒に本を一冊抱えている。学生服を脱いだばかりの背広は、まだ肩のあたりが落ち着いていなかった。実物の彼は、ゲームの立ち絵より歩くのが速い。

　その日は、応接を出たあとに彼が私を探しに来た。

「天導さん」

「はい」

「立ち話ですまないが、先に本人へ言っておきたいことがある」

　私は庭の椅子から立った。

「父たちが、あなたと私の婚約を進めようとしている」

　知っていた。ゲームの瑠璃は一臣の婚約者だ。いつ決まったのかまでは、ゲームには出てこなかった。

「まだ決まっていない。形式が決まるのは、あなたが十六になる春だろうと聞いた。それまで三年ある」

「……はい」

「嫌なら、私の父に言う」

　彼は正面から私を見て言った。

「私の父に言えば、あなたが断ったという形にせずに済む。あなたの母上に断らせるのも角が立つだろう。私が言うのが一番早い。ただ、あなたが本当にどう思っているのかを、私が代わりに決めるわけにはいかない。だから訊いている」

　ゲームの天導一臣は、婚約者の天導瑠璃に冷たかった。会話の選択肢にすら出てこない。名前だけが「婚約者」として存在して、ルートの終盤で「あの婚約は父たちの取り決めで、私は一度も彼女と話していない」と言う。

　いま、私の前に立っている人は、ちゃんと話している。

　そして私は知っている。この婚約は、十八の夜に破棄される。婚約者の天導瑠璃は、断罪される側に立っている。この人が手袋を外すのは、澪の卒業式の朝だ。

　そこまで考えたところで、口が勝手に動いた。

「一臣さん、私と駆け落ちしてください。私もちゃんと働くので。お菓子作りとか」

「……は？」

　一臣は、本当に分からないという顔をした。眉がまっすぐのまま、少しだけ上がった。

「嫌なら父に言う、という話をしている」

「はい」

「駆け落ちは、嫌な相手とするものではないと思うが」

「……ですよね」

「それに、あなたは十三だ」

「はい。すみません。言ってみただけです」

　私は自分の足元を見た。庭の苔が、やけにきれいだった。

　どうしてお菓子作りなのか、自分でも分からなかった。私はお菓子を作れない。ホットケーキを焦がしたことしかない。どこかの台所で、粉の目方を量りながら、帳面に何か書きつけている女の人の夢を見たような気がする。その人は、一臣さんの好きなものまで帳面につけていた。気のせいだ。たぶん。

　軽く振られた。当たり前だった。

「嫌では、ないです」と私は言い直した。「……少し、考えてもいいですか」

「いくらでも」

　彼はそう言って、少し立っていた。それから、「門まで戻る」と言った。私は「お見送りします」と言った。門の前で彼は頭を下げて、帳簿と本を抱え直して出ていった。

　一臣さんは、いい人だった。ゲームの立ち絵より、ずっといい人だった。婚約者の顔を見て話す人だった。

　でも、あの人の手袋は、澪のために外されるものだ。私はそう思っていた。婚約は、たぶんこのまま決まる。ゲームのとおりに。私は何も言わずに、それを待つことにした。

　＊

　十四歳の夏に、学院で誘われた。

　講読会のあと、上級生の二人が「これから菓子屋に寄るのですが」と言った。

　私はその場で、三つのことを同時に考えた。着替えていない。馬車が門で待っている。菓子屋というのがどこの店か分からない。

　三つとも、断る理由になる。私は元の世界でも、こちらに来てからの四年も、この三つで断ってきた。「またぜひ」も、何度も言った。北原さんに言った「次はぜひ」は二回。こちらで言った「またぜひ」は、十回を越えたあたりで数えるのをやめた。

「行きます」

　言ってから、心臓が鳴った。

　馬車は帰した。御者に「一時間後に、菓子屋の前へ」と伝えた。伝えるのに、私は三回言い直した。

　店は学院から五分のところにあった。狭くて、机が四つしかなくて、天井に扇がついていた。上級生の一人が「ここの葛餅がおいしいのです」と言った。もう一人が「私は氷のほうがいいと思います」と言った。二人はそれで少し言い合った。

　私は葛餅を頼んだ。

　三十分、私はほとんど喋らなかった。

　喋れなかったのではない。二人が喋っていて、そこに入る隙が見つからなかった。頷いて、笑って、頷いた。同じことを二十回くらいした。

　途中で、一人が言った。

「天導さんは、お家では何をなさっているの」

「……本を読みます」

「まあ。どんな」

「船の本を」

「船？」

「氷に挟まれた船が出てきます。三か月動けなくて、乗っている人が犬を飼い始めます」

　二人が顔を見合わせた。

「犬」

「はい」

「船に犬が乗っているの」

「氷の上で拾ったみたいです」

「氷の上に犬がいるの？」

　三人で少し笑った。

　その笑いは、私が面白いことを言ったから起きたのではなかった。話が噛み合わなくて、噛み合わないことがおかしかっただけだ。それでも、笑いは起きた。

　一時間で店を出た。馬車は来ていた。

　帰りの馬車で、私は窓の外を見ていた。

　うまく喋れなかった。一時間のうち四十分は聞いていただけだった。二人は明日、私を誘わないかもしれない。

　それでも、私は行った。

　それだけで、帰りの馬車の中で、私は少し落ち着かなかった。落ち着かないのは、悪い落ち着かなさではなかった。

　二人はその後も、月に一度くらい誘ってくれた。三回に一回は、私の都合が悪くて断った。断っても、次があった。断っても次があるということを、私はそのとき、初めて経験した。

　＊

　十四歳の冬、私は母の文机を探った。

　口実は切手だった。学院の上級生へ礼状を出すつもりで、それ自体は本当だった。菓子屋に誘ってくれた二人の片方が、落とした手袋を届けてくれた。それだけのことに礼状を書くのは、私が人と続きを作るための、たぶん唯一の方法だった。

　でも、切手の場所なら女中に訊けば済む。私が母の居間に一人で入ったのは、四年前から探していたものが、そこにあるかもしれなかったからだ。

　ゲームの瑠璃は、十七の冬にそれを燃やす。だから、それまではこの家のどこかにある。母の部屋か、母の居間か、仏間の奥か。十歳の夏から、私は母が留守にするたびに一か所ずつ見てきた。見ても何も触らず、元どおりにして出た。四年かかったのは、私が慎重だったからというより、見つけるのが怖くて、毎回すこし早めに切り上げていたからだと思う。

　切手は二段目にあった。二段目の奥に、藍色の表紙の帳面があった。

　家計簿だった。古いものだった。表紙の年号は、十年前――宗一郎が死んだ年のものだった。呉服、炭、氷、書生の月謝、車代。字は几帳面で、月の合計まで出してある。

　同じ字で、別の記入があった。

　　四月、薬。
　　四月、薬。
　　五月、薬。
　　五月、薬。
　　六月、薬。
　　七月、薬。

　金額はまちまちで、四月のものが一番大きい。

　そして、最初の「四月、薬」の横に、小さく四つの語が続いていた。薬の記入と同じ墨だった。

　　八月、湖、灯籠、舟屋。

　私は帳面を持ったまま、抽斗を閉めるのを忘れて座り込んだ。

　膝が震えたのは、薬の回数のせいではなかった。ゲームでは、瑠璃がこの帳面を燃やしたあと、澪が医院の処方簿から薬の回数を数え直す。数は同じだった。けれど、この四語をゲームで見た記憶はない。

　震えたのは、その四語を母の字で見たからだった。

　その字は、私の学院の書類の保護者欄と同じ字だった。呉服屋への支払いと同じ列に、薬が並んでいる。同じ人が同じ日に、氷の代金と薬の代金を書いている。

　私は、母がこれを書いた瞬間の指を想像した。想像したくなかった。

　四月、と私はもう一度見た。最初の薬と同じ行の四語を、指でなぞらずに追った。ゲームで伯父が妹に話を持ちかけたのは、いつだったか。私は思い出そうとして、思い出せなかった。ゲームはそこまで細かく日付を出さなかった気がする。出していたとしても、七周のあいだの私は、そこを読み飛ばしていた。

　しばらくして、私は帳面を懐に入れた。

　燃やさない。四年前に決めたとおりだ。燃やせば、ゲームの瑠璃と同じになる。

　この帳面がここにあると誰かが気づいたら、母は捕まる。捕まったら、この家はどうなる。私はどうなる。

　――違う。

　私は自分に言い聞かせた。母を助けるためだ。この帳面がなければ、母は決定的な証拠を持たずに済む。私が持っていれば、母のしたことが明るみに出る時期を、私が選べる。伯父だけが裁かれて終わるなら、それでいい。

　自分の部屋に戻って、鏡台の底の板を外し、帳面をそこへ入れた。板を戻し、白粉の瓶を上に並べた。

　手が止まらなかった。

　止まらないまま、私はもう一つのことを考えていた。

　この帳面を誰かに見せたら、この家は終わる。この家が終わったら、朝の昇降口の「おはようございます」も、川口先生の薄い印も、フミの櫛も、月に一度の菓子屋も、なくなる。四年かけて、やっと手に入れた、小さい良い子の毎日が。

　私はそれを、そのとき、確かに考えた。

　考えたことを、「そんなつもりではなかった」と言い直すことは、できなかった。

　文机の抽斗が開いたままだったことに気づいたのは、夜になってからだった。私は夕食のあと、母が風呂に入っている間に居間へ戻って、抽斗を閉めた。切手は一枚だけ取った。礼状は、翌朝出した。

　母は、帳面がなくなったことに気づかなかった。少なくとも、私にはそう見えた。十年前の古い帳面を、母は毎日開くわけではない。

　鏡台の底の板は、その夜から少しだけ重くなった。重くなったのは板ではなく、私が板の前を通るときの足だった。

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