# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

---

# 第五章　知りません

　十七歳の秋、蘆田慎が来た。

　二十二歳になっていた。彼は玄関ではなく、庭の勝手口から入ってきた。手に風呂敷包みを持っていた。

「天導さん。人のいないところで話せますか」

　東屋へ通した。彼は包みを解いた。中には帳面が二冊あった。表紙に年号と「処方」とある。

「父の診療所の処方簿です。去年、あなたに訊かれてから、探しました」

　私は動かなかった。

「十三年前の、春から夏の分です。天導藤乃様のお名前で、薬が六回出ています。四月と五月に二度ずつ、六月、七月」

　私は自分の顔が動かないように、頬の内側を噛んだ。

　ゲームの慎のルートで、何度も見た頁だった。画面の中では、それは澪の手に渡る。澪がそれを持って、湖の事件の最初の一行を書き足す。

「量が多い。四月のものは、通常の処方の三倍あります。父は、奥様が眠れないと訴えるので出したと言っています。父は何も知らなかったと思います。ただ、この量を続けて出したことは、父の落ち度です」

　慎は帳面を閉じた。

「私はこれを持ち出しました。父には言っていません。父が知れば、燃やすかもしれない。父は自分の落ち度を隠す人ではありませんが、患者の家のことを守る人です」

　彼は帳面を私のほうへ押した。

「これを、どうするべきか、あなたに」

　私は帳面を見た。

　その瞬間に、私の中で二つの声が同時に立った。

　一つは、受け取れ、と言った。受け取って隠せ。鏡台の底にはもう一冊入る。そうすれば、母を告発する道具が世界からもう一つ減る。

　もう一つは、この人にそれをさせるな、と言った。

　去年の十一月、私はこの人に「見てほしいのか、見てほしくないのか、分からない」と言った。この人は「それなら、私が決めます」と言って、父親に黙って帳面を持ち出した。私が決めなかったぶんを、この人が決めてくれた。その帳面を、今度は私に渡して決めさせようとしている。

　私は口を開いた。

「慎さん。それを、わたしに渡さないでください」

　慎が顔を上げた。

「わたしに渡したら、わたしはそれを隠します」

「……隠す」

「隠します。たぶん、今日のうちに」

　私は自分の声が震えているのを聞いた。

「わたしは、母を守りたいんです。守りたいから、そういうことをします。それは自分でわかっています。だから、渡さないでください」

　慎は長いあいだ黙っていた。彼の沈黙は長い。この日の沈黙は、たぶん今までで一番長かった。

「では、誰に渡せばいいのですか」

「小野澪さんに」

　私は言った。

「あの人は、自分で決められる人です」

　慎は帳面を包み直した。結び目を作る指が、一度ほどけて、やり直した。

「あなたは、この帳面が何を示すか、ご存じなのですね」

　私は答えなかった。慎はそれ以上訊かずに、勝手口から帰っていった。

　翌週、澪の机の上に、風呂敷包みがあった。私はそれを廊下から見た。澪は包みを開かないまま、授業のあいだずっと、机の端に置いていた。

　昼休み、栗饅頭の日だった。澪は走らなかった。私も走らなかった。

　＊

　同じ秋の終わり、一臣が手紙を持ってきた。

　彼は南の小広間に入って、座らなかった。窓のところに立って、外を見て、それから懐から折った紙を出した。

「叔父上の行き先を探していて、父の机の奥で見つけた。叔父上のことは、何も出てこなかった。これが出てきた」

　私は受け取った。

　下書きだった。天導貞光の字で、天導家の親族会の三人に宛てた文面が、途中まで書かれている。日付は十三年前の七月。

　――万一の事あらば後見の儀、当方にて引き受け候。瑠璃の件、御含み置き願い上げ候。

「万一の事」

　私は声に出して読んでしまった。

「そうだ」と一臣が言った。「宗一郎さんが亡くなったのは八月十五日だ。この下書きは七月に書かれている」

「これは」

「私は、父を疑いたくない」

　彼はまだ窓の外を見ていた。

「父は、私を殴ったことがない。学費を出してくれた。奨学の制度も、父が押し切って作った。小野さんが学院にいるのは父の金だ。私はその金で育った」

　彼の指が、窓枠を一度叩いた。

「それでも、これは七月の日付だ」

　私は紙を見ていた。

　七月。鏡台の底の帳面には、四月の薬と、その横の「八月、湖、灯籠、舟屋」があった。

　七月の下書きと四月の字を、私は並べた。並べて、すぐに目をそらした。ゲームでも伯父の根回しは夏だった。四語はあとから書き足したのかもしれない。母が先に薬を買っていたのは、眠れなかったからかもしれない。兄に言われる前から、兄の計画を察していたのかもしれない。理由はいくらでも作れた。作れる理由のうち、いちばん母に優しいものを、私はそのとき選んだ。

　この紙は、私に渡された。私はこれも隠せる。鏡台の底には、まだ隙間がある。

　しかも、この人にこれを探させたのは、私だった。父の居所を知りたい、と言ったのは私だ。

「一臣さん」

「なんだ」

「これを、わたしに預けないでください」

　彼が振り返った。

「わたしに預けたら、わたしは隠します」

　私は同じ台詞を、この秋二度言った。

　一臣は紙を私の手から取り戻した。

「私が持っている」と彼は言った。「どうするかは、私が考える」

　彼は二週間考えた。

　そのあいだに一度、彼は婚約者の挨拶に来た。応接で茶を出すと、彼は湯呑を持ったまま言った。

「父は、若いころ天導の船に乗っていたそうだ。あの人は、天導の名前を――」

「お茶が冷めます」

　彼は口を閉じた。閉じてから、私を見た。

「そうだな」

　その日、彼はいつもの三十分より早く帰った。帰り際に何も言わなかった。

　私はそのとき初めて、隠し事が人との間を削るということを、体で知った。彼が父の話をしようとしたところに私が茶を置いた。それだけで、部屋の中の何かが一段冷えた。彼が父の話をすれば、次は私が母の話をする番になる。だから止めた。嘘をついたのではない。話を始めさせないことで、隠した。

　二週間後、一臣は下書きを持って学院へ行き、小野澪に自分で渡した。

　そのことを、私は彼の短い手紙で知った。

『父の紙は、小野さんに渡した。私が決めた。』

　私はその短い手紙を、何度も読んだ。ゲームの一臣は、澪に求婚するとき「これは、私が決める」と言った。画面の中の台詞を、この人は知らない。知らないまま、同じ言葉を、恋のためではなく自分の父のことに使った。

　彼は二週間で決めた。自分の父のことを、自分の手で。慎さんも、父親に黙って帳面を持ち出した。私は三年近く、母の帳面を鏡台の底に置いたまま、一度も決めていなかった。

　＊

　冬に、早瀬遼に会った。

　珈琲店の二階だった。澪が呼び、私が付き添った。早瀬さんから、父のことで知らせがある、と手紙が来ていた。澪も、早瀬さんに会うと決めたところだった。

「父の封は、夏に開けました」と、店へ向かう道で澪が言った。「読んで、会うことにしました」

　何が書いてあったのか、澪は言わなかった。私も訊かなかった。

　早瀬は、コートの肩に雪を乗せたまま入ってきて、椅子に座る前から喋っていた。

「小野さん、どうも。今日は来てくれてありがとう。天導さんも」

「私が会うと決めたので、今日来ました」と澪が言った。

　早瀬は珈琲を三杯頼んだ。三杯とも自分の前に並べた。

「変ですか」と彼は言った。「一杯目は熱いうちに、二杯目は話しながら、三杯目は帰る前に。おれは喋ると喉が渇く」

　澪は自分から質問した。用意してきた紙を広げて、順に読み上げた。父の名前。星見荘。八月十五日。桟橋。事故と発表された経緯。

　早瀬は答えられるものには答え、答えられないものには「知らない」と言った。

　私は付き添いのふりをして黙っていた。黙っていれば安全だった。

　澪が最後の一つを読み終えたとき、早瀬が私のほうを向いた。

「天導さん。親父さんのこと」

　私は膝の上で手を握った。

「見つけた。南浦の蓬田造船に、九年いる。その前は三つ職を変えてる。名は恭介のままだ。会ってきた」

「会った」

「先月」

　早瀬は一杯目の珈琲を置いた。

「取材のことを、あんたたちに全部話す義理はない。話す気になったのは、あの人が、自分の口で話したがってるからだ」

「なんて」

「あの日、電報が来たと言ってる」

　私は息を詰めた。

「本社から至急の呼び出しだと。それで湖を出た。夕方の汽車で帝都へ向かい、翌朝、本社でそんな電報は出していないと言われた。それで戻った。戻ったときには、宗一郎さんは湖から引き上げられていた」

　澪が紙に何か書いた。

「電報を打った局は、湖の町の局だ。十三年も前だから控えは怪しいが、当時の局員が一人、まだ生きてた。打ちに来たのは若い男で、分家の書生さんだった気がする、と言ってる。いま、名前を当たってるところだ」

　早瀬は二杯目を持ち上げた。

「それから、あの人はこうも言ってる。娘さんから手紙が来ていないか、南浦へ移ってからずっと、何度も造船所の事務に確かめたそうだ」

　部屋の空気が、遠くなった。

「一通も来ていない。あの人はそれを、娘が書かないのだと思ってる」

　私は自分の手が冷たいのに気づいた。

「わたしは」と言いかけて、声が出なかった。

　五通、と言おうとした。十一の年から五通。全部、母に渡した。母は「出しておきます」と言った。

　言えなかった。言えば、次の言葉が出てくる。では、あの五通はどこへ行ったのか。

　早瀬は私を見て、それ以上何も訊かなかった。彼は「言うのは、あの人自身がすべきだ」と言った。「おれが代わりに書くと、あの人はただの証言者になる。あの人は、長いあいだ、誰にも話を聞いてもらえなかった人だ。おれは、あの人が自分で喋る場所を作りたい」

　彼は三杯目を飲み干してから、もう一つだけ付け足した。

「それと、小野さん。湖の近くの村に一人、話せるかもしれない人がいる。十三年前に天導家に勤めていた女中だ。名前はお絹。会うかどうかは、あんたが決めてくれ」

　澪は「会います」と即答した。

　早瀬は雪の中へ出て行った。

　店の前で、澪が私を見た。何か言いたそうだった。私は「寒いですね」と言った。澪は「寒いですね」と言って、寮のほうへ歩いていった。

　＊

　年が明けて二月、澪に空き教室へ呼ばれた。

　放課後で、窓の外はもう暗くなりかけていた。教室の暖炉は火が落ちていて、机の上の埃が白く見えた。澪は教壇の横に立っていて、手に何も持っていなかった。慎の処方簿も、一臣の下書きも、ここにはなかった。

「お絹さんに会いました」と澪は言った。

　私は扉を閉めた。

「湖の近くの村で、洗濯の仕事をしておられます。十三年前のことを、私に話してくださいました。最初は話したくないとおっしゃって、三度目に伺ったときに」

　澪は私の顔を見ていた。

「八月十五日の晩、奥様がお嬢様に匙で何かを飲ませるのを見た、とおっしゃいました。そのあと台所へ行けと言われて、行った。戻ったら、お嬢様がいなかった。明け方、舟屋で眠っているのを見つけた。揺すっても、なかなか起きなかった」

　私は黙っていた。

「四つのお嬢様は、迷子になったのではありませんでした。眠らされて、舟屋に置かれていたんです」

　澪の声は震えていなかった。震えないように、何度も練習してきた声だと思った。

「天導さん。私は、父の名前を返してもらいたいんです。桟橋を見ていなかった番人、という名前を。父は、あの柱の鋸の痕を見つけて、誰にも言えないまま死にました」

「……はい」

「それで、今日は、お願いがあって来ました」

　澪は一歩、こちらへ来た。

「奥様の帳面があるなら、あなたから出してください」

　私は澪を見た。

「慎さんの処方簿は、薬が出たことを示します。一臣さんの下書きは、伯父様が後見を準備していたことを示します。お絹さんの話は、あの晩に何があったかを示します。でも、それを誰の手が決めたのかは、まだ分かりません。私はそれを、奥様ご自身の字で確かめたいんです」

「……」

「今なら、まだ間に合います」

　澪はそこで一度、息を吸った。

「だから、表に出す前に、あなたにだけ訊きに来ました」

　教室の窓で、風が一度鳴った。

　言えばよかった。あります、と。鏡台の底に、と。八月、湖、灯籠、舟屋、と書いてあります、と。

　私は、口を開いた。

　開いて、閉じた。

　間に合う、と澪は言った。

　何に。

　頭の中で、三つのことが同時に動いた。

　一つ目は、意地だった。

　十六の春、廊下で、この子は私に言った。いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ。私はあの言葉で、手を上げかけた。あれから二年近く、成績と、窓際の席と、栗饅頭で張り合ってきた。饅頭を半分こにしても、洋装を贈っても、あの言葉は取り消されていない。

　もう遅いと言ったのは、あなたでしょう。

　それを、いまになって、間に合う、と言う。私は、それが悔しかった。こんなときに悔しがっている自分が情けなくて、それでも悔しかった。

　二つ目は、母だった。

　帳面を出せば、母は伯父と同じ席に座らされる。ゲームでは、母は従犯だった。兄に命じられて娘を眠らせた人で、それで済むはずのことを、私が母の字で重くする。

　布を選んでくれた人だ。あなたに似合う、と言ってくれた人だ。珈琲の淹れ方を教えてくれて、薄い、と言ったあとで、湯の落とし方は上手、と言ってくれた人だ。私が一晩に一包ずつ薬を出すのを、何も言わずに受け取って、酒の匂いのする夜を少しずつ減らしてくれた人だ。

　あの人が、警察に連れていかれる。私の出した帳面で。十歳の夜に胃が縮んだのと同じ場所が、いまも縮んだ。

　三つ目が、いちばん大きかった。

　出したら、誰が救われるんだろう。

　宗一郎さんは戻らない。澪さんのお父さんも戻らない。お絹さんが台所へ行った十三年も、父が造船所の事務に手紙を訊きに行った九年も、戻らない。

　澪さんは、帳面を出さなかったら『もっと早く出してくれれば救ってあげたのに』とか言いそうだけど、実際それで救われることってなくない？

　救う、というのは、死んだ人の名前のことだろう。番人の名前を返すこと。それは大事だ。早瀬さんもそう言った。でも、名前が返っても、あの人は栗饅頭をもう半分こにできない。母が捕まっても、仏間の写真の人は、写真のままだ。

　十歳の朝から、ずっとそうだった。もう終わってしまったことの、あとだった。いまさら何を出しても、終わったことは終わったままだ。

　三つは、別々のことのはずだった。それが、一つの結び目になっていた。どれか一つをほどけば、残りの二つもほどけたのかもしれない。私は、どれもほどかなかった。

　麻辣の店を断った夜と、同じ形だった。行きたいのに、服と会話と三回目のことを考えて、一回目から逃げる。

「知りません」

　言ってしまった。

　澪は、しばらく何も言わなかった。私の顔を見ていた。私は澪の顔を見られなかった。見れば、あれは嘘ですと言ってしまうと思った。言ってしまえばよかったのに、そう思った。

「……そうですか」

　澪はそれだけ言った。

　私たちは一緒に教室を出た。校門まで歩いた。歩けば、まだ言い直せる距離があった。校門までは二百歩ある。二百歩のあいだに、あれは嘘です、と言うことはできた。

　一歩ごとに、言う言葉を頭の中で作った。あれは嘘です。帳面はあります。鏡台の底に。作るたびに、言う前の息を吸った。吸って、吐いた。吐いた息は白くて、何の言葉にもならなかった。

　百歩目で、澪が言った。

「天導さん。去年の夏、服をくださったでしょう。あの青い」

「はい」

「あれ、まだ借りているつもりでいます」

「返さなくていいんです」

「そういう問題ではないんです」

　いつもの言い合いだった。いつもと同じように終わった。

　私は言わなかった。

　澪は「では」と言って、寮のほうへ曲がった。私は馬車に乗った。

　馬車の中で、私は自分の膝を見ていた。あの教室で、私は母を守ったのだと自分に言おうとした。言おうとして、それが三分の一しか本当でないことを知っていた。残りの三分の一は意地で、もう三分の一は、どうせ何も戻らないという、諦めだった。

　諦めは、楽だった。十歳の朝から、私はその楽さに寄りかかってきた。もう遅い、と自分に言えば、何もしなくていい。

　＊

　二月の終わりの夜、私は一度だけ、帰りたいと思った。

　布団の中で、目を閉じて、あのゲームのタイトル画面を思い浮かべた。帝都の空と、桜と洋燈の意匠と、始まりの音。十歳の最初の夜にやったのと同じように。

　何も出なかった。

　七年前も出なかった。分かっていた。それでも、澪の「そうですか」を聞いてしまったこの冬だけは、どこかに帰り道があってほしかった。

　帰りたい、と思ったのは、六畳の部屋が恋しかったからではなかった。あそこへ帰れば、帳面を出すか出さないかを、もう決めなくていい。澪の顔を見なくていい。饅頭の日に、走らなくていい。そう思ったとき、胸のどこかがひどく痛んだ。澪と張り合えなくなるのは嫌だった。嫌なのに、その夜の私は、それでも帰りたかった。

　帰りたいというのは、私の場合、選ばずに済む場所へ行きたいということだった。

　出ないと分かってから、私はしばらく暗い天井を見ていた。

　あの画面は、少なくとも、私が呼んで出るものではない。十歳の最初の夜と、十七の冬のこの夜。二つの夜に何度も呼んで、一度も出なかった。

　帰れないのだから、ここで決めるしかない。そう思ったのに、私はその夜も決めなかった。決めないまま、四月が来た。

　それから十八の夜まで、私は一度もタイトル画面を思い浮かべなかった。

---
