# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第八章　揺りかごの話

　三か月で、目が見えるようになった。

　正確には、輪郭がぼやけなくなった。人の顔が顔として見える。誰が誰かが分かる。天井の木目が追える。それだけのことが、私にはとても大きかった。

　最初にちゃんと見たのは、母の顔だった。

　細い人だった。抱かれていると、顎の線が上のほうに遠い。背が高いのだ。目が切れ長で、目尻が少し上がっている。十歳の朝、鏡の中で見た私の目と、同じ形だった。着物は、藤色の地に白い花を散らしたような、明るいものを好んだ。抱かれると、髪油の下から香の匂いがした。

　二十四歳の母は、私の知っている母より頬が丸かった。

　見えるようになって気づいたのは、自分が人の口ばかり見ているということだった。

　声だけでは、この家の誰が何を言っているのか掴みきれない。誰の口が動いたかを見れば、話者が分かる。私は無意識にそれをやっていた。

　母が私を抱いて、庭を見ながら女中と話していた。私は母の顎の下から、母の口を見上げていた。

　母が、途中で黙った。

　私を見た。

　目が合った。

　私は――しまった、と思った。思ったときには遅かった。赤ん坊は、目が合ったら笑うか、そらすか、泣くかする。私はどれもせず、母の口を見つめ返してしまった。

「……瑠璃」

　母は私の顔を、正面から覗き込んだ。

　私は今度こそ目をそらした。そらし方が遅かった。

　その日から三日、母は私の前で喋らなくなった。

　抱く。乳を飲ませる。おむつを替える。全部する。何も言わない。歌わない。「よしよし」も言わない。無言で、丁寧に世話をする。

　三日目の夜、私は試した。

　母が私を抱いたとき、私は目を閉じた。閉じて、眠ったふりをした。首の力を抜いて、口を少し開けた。

　しばらくして、母が話し始めた。

「今日はね、庭の梅を切ったの。切りすぎたと女中頭が言うのだけれど、あれくらいでいい」

　私は目を閉じたまま聞いていた。

　この人は、私が見ていないときには喋る。

　この人にとって、私はまだ人間ではないほうがいい。人間になった瞬間に、この人は口を閉じる。

　その二日後、お絹が私を抱いた。

　お絹は十八の女中で、この春に入ったばかりだった。小柄で、丸い顔で、よく笑う。笑うと目がなくなる。いつも前掛けをしていて、前掛けからは糠と石鹸の匂いがした。彼女は私を抱くとき、必ず自分の顔を私の顔のすぐ前に置く。

　私は、彼女の口を見た。

　お絹は、私が口を見ているのに気づいた。気づいて、こう言った。

「あー」

　口を大きく開けて、はっきりと。

「あー。あーって言うんですよ。お嬢様。あーあー」

　彼女は私の視線に合わせて、口の形を作ってみせた。

「うー。うーうー。ほら、口が違いますでしょう」

　私は嬉しくなって、手足をばたつかせた。ばたつかせたのは、私が動かしたのではない。この身体が勝手にやった。でも、そのとき私は本当にばたつかせたかった。

「わあ、喜んだ」

　お絹は私を抱き直して、部屋中を歩き回った。

　同じことをして、母は三日黙り、お絹は口の形を教えてくれた。

　＊

　眠ったふりは、そのうち私の仕事になった。

　母は、夜、私が眠ったと思うと話をした。揺りかごの縁に手をかけて、低い声で。梅の枝のこと、客のこと、兄のこと。それから、いちばん長く、宗一郎のことを。

　私は、聞くつもりで聞いていた。

　四年後の夏の形が、この人の頭の中のどこかにあるなら、それを拾いたかった。いつ思いついたのか。誰と話したのか。どこまで決めているのか。星の間で知ったことの、始まりのほうを、この耳で確かめたかった。

　なかった。

　ひと月聞いても、ふた月聞いても、母の話の中に、湖も舟屋も薬もなかった。

　あったのは、別の話だった。

「百合子さまが、また臥せっておいでなの」

　ある夜、母はそう言った。

「今年の冬は、ずっと。宗一郎さまは、朝と晩に、必ずお部屋へお顔を出されるのですって。お忙しいのに」

　母の指が、揺りかごの縁を撫でていた。

「お優しい方なの。お優しすぎて、決められない。お身体の弱い奥様を、置いてどこへも行けない方」

　しばらく、揺りかごが揺れていた。

「でも、いつか」

　母は言った。

「いつか、宗一郎さまが選んでくださる。あなたと、私を。そうしたら、あなたは本家の娘。瑠璃丸の瑠璃。誰にも分家の子だなんて言わせない。あなたのお父様が、あなたを自分の子だとおっしゃる日が来る」

　声は、夢の話をするときの声だった。

「待つのは、慣れているの」

　母は、少し笑った。

「……こんなことを考えては、いけないのにね」

　それが何のことなのか、母は言わなかった。言わずに、揺りかごを揺らした。

　本家になる日、と母が言うのは、これのことだった。

　宗一郎が死ぬ日ではない。宗一郎が、自分と娘を選ぶ日だ。

　私は目を閉じたまま、息をしていた。

　前の人生で、私はこの人の、待っているところを一度も見なかった。十歳から十八歳まで、私が見たのは、もう待つのをやめた人だった。十二歳の夏、珈琲を淹れながら、百合子さんが亡くなっても選ばれなかった、と言った人。その声には恨みしかなかった。

　十八歳の夜、三村弁護士の封書の中で、私は母の手紙を読んだ。宗一郎に宛てた手紙だった。せめて亡くなったときに効く紙を、と書いてあった。私はもう待ちません、と書いてあった。

　もう、ということは、その前は待っていたのだ。

　私はその一行を読んだのに、その前のほうを一度も考えなかった。

　この人は、待つ人だった。

　私はそれを、揺りかごの中で初めて知った。

　待つ人の待ち方なら、私は少し知っている。次はぜひ、と送って、次を自分からは作らない。相手が決めてくれるのを待つ。待っているあいだは、何も壊れない。何も始まらない代わりに。

　母は、それを三歳の十二月まで続ける。そして、やめる。

　やめた人がどうするかを、私は知っている。

　＊

　四か月のころ、夜泣きがひどくなった。

　私は泣きたくて泣いていたのではない。夕方になると腹のあたりが張って、身体が勝手に泣く。止め方が分からない。夜中に三度も四度も起きる。

　ある晩、母が匙を持ってきた。小さな器と、茶色い小瓶を盆に載せていた。

「糖蜜です」と母は言った。開いた襖のところに、お絹が控えていた。

「私が小さいころ、母がこうしてくれたの。泣きやまない子には、これを少しだけ。朝までよく眠るから」

　母は小瓶を傾けて、器の糖蜜に何滴か落とし、匙でかき混ぜた。

　匙が唇に当たった。甘い匂いがした。

　私は口を開けた。開けてしまった。この身体は甘い匂いに勝てない。

　舌に載った瞬間、私はそれを吐き出した。

　甘さの下に、苦いものがあった。舌の奥のほうが、じん、と痺れるような苦さだった。私は顔を背けて、口の中のものを全部押し出した。頬から首へ、生温かいものが流れた。

「あら」

　母は布で私の顎を拭いた。

「いやなの」

　母はもう一度、匙をすくった。

　私は首を横に振った。振ったつもりだった。実際には頭が左右に揺れただけだと思う。それでも、母の手が止まった。

「変な子ね」

　母は匙を器に戻した。

「甘いのに」

　母は顎を拭いた布をお絹に渡し、下で洗ってくるよう言った。お絹が頭を下げ、足音が階段を下りていった。

　母は私を抱き上げて、揺らした。

「眠ってしまえば、怖いことは何もないのよ」

　子守唄の声だった。

　私は動かなかった。

　匙。糖蜜。茶色い小瓶。

　四年後の八月十五日、この人は、同じ匙で、四歳の娘を眠らせる。眠った娘を、舟屋に置く。

　その匙が、いま、ここにある。

　この人はいま、何も企んでいない。夜泣きの子を眠らせたいだけだ。自分の母親にそうしてもらったとおりに。

　だから、怖かった。

　四年後の匙は、四年後に思いつかれたものではない。この人の手が、ずっと前から知っているものだった。

　母は十分ほど私を揺らして、それから、揺りかごへ戻した。戻す手つきは丁寧だった。私の頭を最後に支えて、そっと離した。

　母が出ていってしばらくして、私はまた泣いた。

　今度は、私が泣いた。

　足音がした。

「おう、おう、どうした」

　恭介だった。

　彼は私を抱き上げた。四か月経って、彼の抱き方はずいぶん良くなっていた。左手が首の後ろに来て、右手が背中を包む。安定していて、揺れの周期が一定している。

　私の身体は、その揺れで泣きやんだ。

　泣きやんでしまった、と私は思った。

　私はいま、四年後の匙を見たばかりだ。それなのに、この身体は、抱かれた瞬間に安心してしまう。心臓が落ち着いて、手足の力が抜けて、瞼が重くなる。

　私は、自分の身体に裏切られている気がした。

　同時に、それが救いだった。

　元の世界で、私は夜中に目が覚めても、誰も来なかった。誰かに来てほしいと思ったこともない。そういうものだと思っていた。

　ここでは、泣けば誰かが来る。この差は、私が思っていたより、はるかに大きい。

「腹が減ったか。おむつか。どっちだ」

　恭介は真面目に私の顔を覗き込んだ。

　灯りの下で見ると、この人は大きかった。肩が厚くて、首が太い。顔も腕も日に焼けていて、顎に無精ひげが伸びかけている。私の背中に当たっている指は、一本一本が私の手首くらいあった。

「父さんには分からん。すまん」

　彼はそのまま、部屋を三十周くらい歩いた。私は途中で眠った。

　＊

　九月、宗一郎が来た。父が、造船所の夜の当番で帰れないと言って出た晩だった。

　昼間ではなかった。夜だった。玄関からではなく、庭から入ったらしい。私は母の部屋の隅の揺りかごにいて、灯りは落とされていた。

　私は目を閉じた。目を閉じているほうが、この家では話が聞ける。

「百合子さまのお加減は」

　母の声だった。

「変わらない。変わらないのがいちばん良い、と蘆田は言う」

「そう」

　衣擦れの音がした。

「藤乃。私は、百合子を置いては行けない」

「存じております」

「あれは、身体のことで、ずっと肩身の狭い思いをしてきた。子ができないのも、あれのせいではない。私が離縁すれば、あれは帰るところもない」

「存じております。宗一郎さまは、そういう方ですもの」

「すまない」

「謝らないでください」

　沈黙があった。

「親族会が、一臣を養子にと言っている」

　宗一郎が言った。

「貞光君だ。私は、否とも応とも言っていない」

「瑠璃がいるのに」

「……あの子は、恭介君の子だ。そう届けた」

　母は何も言わなかった。

「私は、決めるのが下手だ。それは知っている」

「知っています」

　母の声が、少しだけ笑った。

「ですから、待ちます」

「藤乃」

「待つのは、得意ですから」

　また沈黙があった。

　私は目を閉じたまま、聞いていた。

　この二人は、いま、互いを好きなのだと思う。少なくとも母のほうは間違いなくそうだ。声の温度が違う。母がこの声で喋る相手を、私は他に知らない。

　前の人生では、この声の人が、この声の相手を死なせる側に回った。

　私は自分の指を握った。この身体の指は、握るか開くかしかできない。

　今夜の母は、殺す話をしていない。待つと言っている。

　待つと言った人が、どこで待つのをやめるのか。

　私はその日付を知っている。

　＊

　十月、天導貞光が来た。

　応接ではなく、母の居間に通された。私はまた隅にいた。

「一臣の件だが」

　貞光の声は、十八年後と同じだった。よく通る。

「親族会の三人には、もう話してある。百合子さんに子ができんのは、もう誰の目にも明らかだ。万一の折は、一臣を本家の養子に入れる。宗一郎も、否とは言わん」

「兄様」

「あれは、何も言わん男だ。言わんことは、否とは違う」

　母が黙った。

「本家のことは、本家に決めていただくものでは」

「決めんから、こちらで整えてやるんだ」

　貞光は茶を飲んだ。

「お前も、本家には出入りを控えろ。一臣の話が固まるまで、妙な波風を立てられては困る」

　母は、しばらく黙っていた。

　私は、母が反論するのを待っていた。

　母は、こう言った。

「……はい」

　貞光は茶を飲み終えて、帰った。

　玄関の戸が閉まる音がして、しばらくしてから、母が揺りかごのそばへ来た。

　私は目を閉じていた。

「一臣さんではありません」

　母は、ほとんど声にならない声で言った。

「あなたです」

　それから、揺りかごを一度だけ揺らして、出ていった。

　私は、天井を見ていた。

　前の人生で、伯父は、事件のあと私の後見人になった。私が十三になるころには、一臣さんとの婚約を進めはじめていた。

　今夜、伯父は一臣さんを本家の養子に入れる話をしている。十何年か先には、私と一臣さんを結ぶ話をする。一臣さんが跡取りになっても、私が跡取りになっても、本家は伯父の家のものになる。

　いちばん先に動いていたのは、伯父のほうだった。

　そして母は、兄に「はい」と言って、兄が帰ったあとで、娘にだけ「あなたです」と言う。

　この兄と妹が、四年後に一緒に何かをする。そのことを、私はまだうまく想像できなかった。

　＊

　同じころ、宗一郎が昼間に来た。

　こちらは隠れて来たのではなかった。玄関から入って、女中頭が茶を出して、母と二人で話をして、それから座敷に来た。

　私は、この人を初めてちゃんと見た。

　痩せていて、背が高い。座ると膝が高く出る。顔は穏やかで、目尻に笑い皺があった。二十八だと聞いていたが、こめかみのあたりの髪に、もう白いものが混じっていた。話しながら、懐中時計の鎖を指に巻いたりほどいたりする。その指先だけが、ほかのところより忙しかった。

　仏間の写真より、若かった。当たり前だ。あの写真は、この人が死ぬ少し前のものだ。

　彼は私を抱かなかった。抱き方を知らないらしく、座布団の上の私を上から覗き込むだけだった。

「大きくなったな」

「そうでしょうか」

「七夜のときより重そうだ」

「持ってごらんになれば」

「いや、落とす」

　彼はそう言って笑った。

　それから、彼は私の顔を見て、こう言った。

「瑠璃花」

　私の身体が、跳ねた。

　この人も、その名前を使う。この人がつけたのは「瑠璃」なのに、この人も「瑠璃花」と呼ぶ。

「よく動く子だ」

　彼はそう言った。

「藤乃。この子の目は、私に似ているか」

「さあ」

「似ていないほうがいい」

　母は返事をしなかった。

「百合子が、この子を見たいと言っている」

　宗一郎が言った。

「一つになって、外へ出られるようになったら、一度連れてきてくれないか。あれは、赤ん坊を抱いたことがないんだ」

　母は、少し間を置いた。

「……はい。いずれ」

　彼はそれで立った。

　帰り際、彼は玄関で恭介と会った。

「恭介君。花の字は、よかった」

「はあ」

「私は、あの晩、少し迷った。迷ったのは、断る理由を探したからだ。船の名を大事にしたかった。だが、あれでよかった」

「……ありがとうございます」

「あの子が庭で走るところを、私も見たい」

　彼はそう言って、行った。

　＊

　秋の日曜に、子どもが二人来た。

　分家の一臣と、蘆田先生の子の慎だった。六つと五つ。慎はその日、先生に連れられて来ていた。

　私は座敷の座布団の上に寝かされていた。首は据わっている。転がることもできる。まだ座れない。

　二人が私を覗き込んだ。

　六歳の天導一臣は、痩せていて、眉がまっすぐだった。自分の顔の半分くらいある絵本を、脇に抱えていた。真面目な顔で私を見て、それから言った。

「父上が、この子とは仲良くしておけって」

　大人たちが笑った。「気の早い」と誰かが言った。

「仲良くって、どうするの」

「指を出してごらんなさいませ」とお絹が言った。

　一臣は、指を一本、私の手のそばに置いた。私の手が勝手にその指を握った。

「握った。これで、仲良く？」

　五歳の慎が、横から言った。柔らかい、小さな声だった。

「赤ちゃんは、やくそくできないよ」

「なんで」

「しゃべれないから」

　一臣が黙った。

「そうか」

　一臣は納得したらしい。

「握りますよ、赤ちゃんは」とお絹が言った。「誰の指でも握ります」

「じゃあ、やくそくじゃないね」

「そうですね」

　一臣は指を抜いて、絵本を抱え直して、庭へ走っていった。慎がついていった。

　私は座布団の上に残された。

　前の人生で、私はこの人に、駆け落ちしてください、と言ったことがある。私もちゃんと働くので。お菓子作りとか。一臣さんは本を抱えたまま、「……は？」と言った。それで終わった。十六で正式に婚約して、十八の夜に別れた。

　その人の、六つのときの指を、いま私は握った。

　この子は、あの人ではない。あの人は、ここにいない。ここにいるのは、赤ん坊に指を握られて、握るだけなら約束ではないと納得して庭へ走っていく六歳の子どもだ。

　それでも、「父上が、仲良くしておけって」は、十何年か先の婚約と同じ人の口から出ていた。

　私は、庭のほうを見ていた。

　＊

　その夜、お絹が私を寝かしつけた。

「お嬢様は、よく人の顔を見なさる」

　彼女は揺りかごの横に座って、繕い物をしていた。

「わたしの村ではね。赤ん坊は、生まれるときに前のことを忘れるって言うんですよ」

　私は目を開けた。

「生まれる前は、みんな知っているんですって。誰の子になるかも、どこへ行くかも。それを、生まれるときに、ぜんぶ忘れる。忘れないと、生きていられないから」

　彼女は糸を切った。

「だから赤ん坊が泣くのは、忘れた直後で心細いからだって、うちの婆様が言っておりました」

「……」

「お嬢様は、あんまり泣きませんね」

　私は天井を見ていた。

　忘れないと生きていられない、というのは、たぶん本当だ。

　私は忘れていない。二十七年と八年。全部覚えている。覚えたまま、この揺りかごにいる。四年後の日付まで覚えている。

　私は生きにくい。

　夜が更けて、恭介が帰ってきた。

　彼は服を着替えてから、私の部屋に来た。

「起きとるか」

　彼は揺りかごの横に座った。座って、しばらく黙っていた。

「今日な、船台で若いのが足を挟んだ。骨は折れとらん。折れとらんが、あれは治るまで二月かかる」

　彼は自分の膝を見ていた。

「わしがもう少し早う声をかけとれば、ああはならんかった」

　彼はそう言って、また黙った。

「瑠璃花」

　私の身体が、また跳ねた。何度呼ばれても、跳ねる。

「父さんはな、口が下手だ。奥様に、そういうことを言うと、言い訳をするなと言われる。言い訳じゃないんだ。ただ、話しておきたいんだ」

　彼は私の手のあたりに、自分の指を置いた。

「お前は、まだ何も分からんから、いいな」

　私は彼の指を握った。

　この身体は、誰の指でも握る。お絹がそう言った。それは本当だ。

　でも今夜は、私が握った。

　彼はしばらくそのままでいて、それから、私が眠るまでそこにいた。眠るまで、というのは正確ではない。私は眠ったふりをして、彼がいつまでいるかを確かめていた。

　彼は、私が眠ったと思ってからも、長いことそこにいた。

　＊

　冬が来るころ、私は床を這えるようになっていた。

　腹を床につけて、腕で身体を引く。最初の日は、敷物の端から端まで行くのに、昼から夕方までかかった。膝が使えるようになってからは速くなった。九か月で、私は自分の部屋から廊下の角まで、一人で行けた。

　角の先へは行かなかった。行けば、誰かに見つかる。見つかれば、どこまで分かってやっているのかを測られる。

　指先でものをつまめるようになったのは、十か月のころだ。畳の目に落ちた米粒を、親指と人差し指で拾った。拾えたことが嬉しくて、何度も拾った。拾っているうちに、母が部屋の入口に立っているのに気づいた。

　私は米粒を口に入れた。赤ん坊がそうするように。

　母は何も言わずに行ってしまった。

　その夜、私は揺りかごの中で、歯を食いしばった。この身体にはまだ歯が二本しかなかったので、食いしばったのは歯茎だった。

　急ぎたかった。

　口の中では、もう言葉の形ができかけていた。お絹が毎日口の形を見せてくれたおかげで、「あ」と「う」と「ま」の違いを、私は舌で覚えていた。出そうと思えば、たぶん、もうすぐ何か一つは出せる。一つ出せれば、二つ目も出せる。早く喋れるようになれば、早く何かを伝えられる。春が来れば、一歳になる。一歳の年に、蘆田先生は帝都を離れる。

　でも、急げない。

　身体が追いつかない、というだけではなかった。母は、私が人間になった瞬間に口を閉じる人だ。一つにもならない子が大人の言葉を話せば、母は二度と揺りかごのそばで喋らない。それに、誰もそれを一つの子の話としては聞かない。気味の悪い子の話として聞く。

　急ぐことが、いちばん遅い道だった。

　だから、赤ん坊の速さでやることにした。一歳の少し前に、意味のある音を一つ。それまでは、意味のない音だけ。お絹に褒められても、恭介に「もう一回」とせがまれても。

　喃語を、私は練習した。意味のない音を、意味がないように出す練習だった。「だ、だ、だ」「ば、ば」。やってみると、これがいちばん難しかった。意味のある言葉を知っている口で、意味のない音を出すのは、嘘をつくのに似ていた。

　夜、揺りかごの中で、四年の残りを数えかけた。三年と少し。そこまで数えて、やめた。

　十一か月で、私はつかまり立ちをした。

　恭介の膝につかまって、立った。膝が震えた。この身体の膝は、私の体重を初めて持ち上げていた。

「おお」

　恭介が息を呑んだ。

「立った。お前、立ったぞ」

　彼は私の脇を支えて、立ったままの私を、しばらく眺めていた。

「奥様。奥様、この子が」

　彼は大きな声で呼んだ。母は来なかった。お絹が来て、「まあ」と言って、手を叩いた。

　私は立ったまま、恭介の顔を見上げた。影の塊しか見えなかった日は、もう遠かった。彼の目尻の皺まで、よく見えた。

　この人の喜び方には、測るところが一つもない。私がどこまで分かっているかを、この人は一度も測ったことがない。

　私はその顔を見ながら、膝を曲げて、座布団の上に尻もちをついた。わざとではなかった。本当に、膝がもたなかった。

　恭介が笑った。お絹も笑った。私も、笑った。意味のない音で。

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