# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第十二章　灯籠

　帝都から汽車で一日かかった。

　朝に出て、途中で二度乗り換えて、夕方に町へ着いた。町は湖の手前の谷にあって、駅前に郵便局と、宿が二軒と、雑貨屋があった。

　馬車に乗り換えるあいだ、恭介が郵便局の前で立ち止まった。

「電話があるな」

　彼は看板を見上げていた。

「星見荘にも電話はあったな。本社への照会は、ここからでも繋がるか」

「繋がりますよ」と馬車の御者が言った。「繋がるまでに時間はかかりますがね。三十分か、一時間か」

「ほう」

　彼は郵便局の場所を、しばらく見ていた。

「ここから湖まで、どのくらいだ」

「山道を一時間ですな。車ならもう少し早い」

「車があるのか」

「宿に一台あります。使う人はめったにおりません」

　恭介は頷いた。

　私はその横で、彼の袖を持っていた。彼が何を覚えようとしているのか、私には分かった。私は何も足さずに、その袖を握っていた。

　父は、湖で自分が呼び出されたときに、その呼び出しが本物かどうかを確かめる道を覚えているのだと思った。十一日の夜に「湖では、お前から離れん」と言った人が、離れなければならなくなったときのことを、先に考えている。前の人生で父を湖から引き離したのは、八月十五日の電報だった。私はそれを言わなかった。言えば、また夢の話になる。父が自分で考えて覚えた道なら、その日、父は自分でそれを歩く。

　馬車は山道を登った。曲がるたびに車体が傾いて、母が私の肩を押さえた。木が途切れて、湖が見えた。

　夕方の湖は、鉛の色をしていた。向こう岸の山が黒く、その上の空だけが明るかった。

　星見荘は、湖の東の斜面に建っていた。木造の二階建ての洋館で、屋根が深い。前庭から、湖へ向かって桟橋が伸びている。桟橋は思ったより長かった。杭の上に板を渡して、湖の中へ二十メートルほど出ている。付け根から少し離れたところに、小さな舟屋があった。

　玄関に、男の人が立っていた。

「お着きでございます」

　小野弥吉だった。三十六歳。日に焼けて、痩せていて、背筋がまっすぐだった。

「小野さん。手紙は」

「頂戴しました」と小野は言った。「昨日、桟橋を見ました」

「どうでした」

「何もございませんでした。明日の朝、もう一度見ます」

　彼はそれだけ言って、行李を運び始めた。

　玄関脇には電話があった。受話器を上げた女中の声が、階段まで聞こえた。恭介はそちらを一度見て、荷物を下ろした。

　玄関の奥から、天導貞光が出てきた。

「遅かったな」

「兄様。もういらしていたの」

「十二日に着いた。一臣も連れてきた」

　貞光は私を見た。

「大きくなった」

「はい」

　母がそう答えた。私は答えなかった。

　その夜、私は小野の娘に会った。

　台所の裏で、五歳の女の子が椅子に座って、豆をつまんでいた。日に焼けて、髪を短く切っていて、膝に擦り傷があった。

「澪、ご挨拶を」と小野が言った。

　彼女は椅子から降りて、両手を前で組んだ。

「小野澪です。五つです」

　私は、彼女を見ていた。

　前の人生の澪。私が十六だった春に学院へ転入してきて、良い子でいようとしていた私に「いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ」と言った人。ぶとうとして止まった私の手を見て、「なんでぶたないんですか？」と訊いた人。張り合いの果てに、同じ菓子を半分に割って、桟橋の番人だった父親の話をした人。十八の夜、「あのとき言ってくれていたら、私はあなたを守れた」と言った人。

　その人が、いま五歳で、豆をつまんでいる。

　目だけは同じだった。人をまっすぐ見る目だ。

「るりか」

　私は言った。

　名字を言うべきだったかもしれない。四歳だから、それでよかった。

「るりかちゃん」

　彼女はそう言った。

　私は、少しだけ息が詰まった。

　るりかちゃん。

　この世界で私をそう呼んだ人は、いない。父は「瑠璃花」と呼ぶ。母は、七夜の晩に一度口にしたきり、花をつけずに「瑠璃」と呼ぶ。お絹は「お嬢様」だ。

「ちゃん」がついた瞬間に、それは、元の世界の呼ばれ方に近づいた。

　私はそれを、ただ嬉しいと思った。

　嬉しいと思って、それから、自分に言った。

　――この子は、私を知らない。

　この子が呼んでいるのは、四歳の天導瑠璃花だ。名前が同じだから私が呼ばれているのではない。同じ名前を持った子が、いま、ここにいるだけだ。

「豆、たべる？」と澪が言った。

「たべる」

　私たちは生の豆を三つずつ食べて、小野に叱られた。

　＊

　八月十四日の昼に、宗一郎が着いた。

　彼は一人だった。

「静子さんは」と母が訊いた。

「この暑さだ。今年はやめておくと言うので、そうさせた」

「まあ」

「無理をさせても仕方がない」

　私は、母の顔を見た。

　母の顔は、動かなかった。

　それより前、午前中に私は桟橋へ行こうとした。

　行こうとした、というのは、確かめたかったからだ。柱を、自分の目で見たかった。四歳の目で見て何が分かるわけでもないが、見たかった。

　前庭を横切って、桟橋の付け根に足をかけたところで、身体が持ち上がった。

「お嬢様！」

　お絹だった。

「桟橋はいけません」

「みる、だけ」

「いけません。落ちたら、わたくしがどうなるかご存じですか」

　彼女は私を抱いたまま、前庭へ戻った。

　私は彼女の肩越しに、桟橋を見た。

　板がずっと先まで並んでいて、付け根から少し離れたところに舟屋がある。杭は水面から上に一メートルほど出ていて、下は見えない。

　見えないものは、見えない。

　午後、澪と貝殻を集めた。お絹は岸のすぐ上に座り、ときどき私たちの籠を覗き込んだ。

　湖に貝がいるとは思っていなかったが、岸には小さな二枚貝の殻がたくさん落ちていた。白いのと、薄紫のと、内側が虹色になっているのがあった。

　澪は虹色のを探すのがうまかった。

「これ、いちばんいい」

「うん」

「はんぶんこ」

　彼女は虹色の殻を二つ、私にくれた。私は白いのを三つあげた。

　その途中で、澪が私の髪を見た。

「それ、なに」

「ほし」

「きれい」

　彼女は手を伸ばして、触った。

「ぎんいろ」

「うん」

「いいなあ」

　澪は、その次に、こう言った。

「ちょうだい」

　私は、口を開けた。

　あげる、と言いかけた。

　言いかけて、止めた。

　喉のところで、言葉が止まった。

　――だめだ。

　これは、私のものではない。

　母がこれを私の髪に留めた。母は「本家の子ですから」と言った。この身体が生まれる前に宗一郎が注文して、裏に「瑠璃へ」と彫らせた。この星は、この身体の子のものだ。

　私が友達を作りたいからといって、あげていいものではない。

「ごめん」

　私は言った。

「あげられない」

「なんで」

「おじさまが、くれたから」

　生まれる前からこの子へ贈られていたことまで、説明する言葉は見つからなかった。

　澪は、少し口をとがらせた。

　それから、貝殻を見た。

「じゃあ、これでいい」

　彼女は虹色の殻を、自分の掌の上で並べ直した。

「これ、ぎんいろよりきれい」

「うん」

「ほんとに、きれいだもん」

　彼女は本気でそう言っているようだった。

　私たちは日が傾くまで、貝を並べていた。

　＊

　夕方の前に、澪が私を裏山の入口まで連れて行った。

「あっちに、いちごがある」

「いちご」

「ちいさいの。すっぱい」

　私たちは、小野に「山へ入るな」と言われていたので、お絹に見てもらいながら、入口の草のところだけを探した。赤い実が三つあった。澪が二つ取って、一つを私にくれた。

　すっぱかった。

「すっぱい」

「でしょ」

　澪は笑った。彼女は、笑うとき、口を大きく開ける。前の人生の彼女は、私の前で、こんなふうに口を開けて笑ったことはなかった。口の端だけで笑う人だった。

　五歳の彼女は、こうやって笑うのか、と私は思った。

「るりかちゃんは、いつまでいるの」

「わかんない」

「あしたも、いる？」

「いる」

「あさっても？」

「いる」

「じゃあ、あしたも、いちご」

「うん」

　＊

　十四日の夕方、大人たちが岸へ出た。

　桟橋ではなかった。桟橋から少し北へ寄った、砂利の岸だった。水が浅くて、子どもが入っても膝までしかない。

　小野が先に来て、石を並べて、足元を整えていた。

「こちらのほうが安全でございます」

「そうだな」と宗一郎が言った。

　子どもは三人いた。私と、澪と、一臣。一臣は靴を脱いで水に入って、すぐ小野に叱られた。

　宗一郎が、紙の灯籠を一つ持ってきた。

「一つだけだ」

　彼は言った。

「明日、たくさん流す。今日は、これだけ」

「なんで、きょう？」

　私が訊いた。

「今日は、私が流したいからだ」

　彼は、水際に膝をついて、灯籠に火を入れた。

「誰の？」

「妻の」

　彼は言った。

「百合子という。お前を一度、抱いたことがある。お前は、覚えておらんだろう」

　私は、宗一郎の手元の火を見ていた。

　覚えている、と言いたかった。細い腕で、抱き方が下手だった。赤ん坊を抱いたことがないから重いのか軽いのか分からない、と笑った人だ。言えなかった。

　一歳の年に、私はこの人の奥様の部屋のほうを指差して、蘆田先生の袖を離さなかった。先生は発った。百合子さんは、二歳の冬に亡くなった。百合子さんが亡くなって、二度目の夏だった。

「明日は、みんなで流す。今日は、私が一人で流す。それだけだ」

　彼は灯籠を水に置いた。

　その灯籠の火が、紙を通して、青みがかった白に見えた。

　私は、それを見た。

　息が、止まった。

　――青みがかった白。

　フミが言った。

　前の人生の十歳の八月、私の髪を梳きながら。お嬢様は帰ってからひと月ばかり、灯籠のお話ばかりなさいました。青いのが一つあった、あれは誰のだった、あれはどこまで行くの、と。

　こんな光だったのかもしれない。

　前の人生の灯籠は、十五日の夜だった。今は十四日の夕方だ。あの子の見た一つと同じ物ではない。それでも、話さずにはいられなかった気持ちが、少し分かった。

　灯籠は、風のない水面をゆっくり離れていった。

　澪が「あっ」と言った。

「まわった」

　灯籠は、少し回りながら進んだ。

「あれ、どこまでいくの」

　澪が訊いた。

　宗一郎は、少し考えて、言った。

「向こう岸までは行かん。途中で沈む」

「かわいそう」

「そういうものだ」

　私は、水の上の光を見ていた。

　この子が話し続けた光は、こんなふうに揺れただろうか。私はいま、自分の目で水の上の火を見ている。

　＊

　夕食は、広間で皆そろってとった。宗一郎、貞光、母、父、分家の夫人と一臣。小野は給仕に立っていた。

　汁物が出たところで、分家の夫人が私に笑いかけた。

「瑠璃花ちゃんは、湖は楽しい？」

　私が答える前に、母が言った。

「この子は、桟橋へ行きたがって困るの」

　母は笑っていた。

「今朝も一人で行こうとして、お絹に抱いて戻されたんですよ。春から、夢に見るらしくて。湖がどうとか、桟橋がどうとか。怖いくせに、行きたがるの」

「まあ、子どもはそういうものですわ」

「目を離すと、すぐいなくなるから」

　母はそう言って、私の髪の星を指で直した。

　宗一郎が「気をつけねばな」と言った。貞光が「小野、明日は桟橋の付け根に縄を張っておけ」と言った。小野が「はい」と答えた。

　食事のあいだに、母は同じことを、言い方を変えてもう二度言った。一度は宗一郎に、一度は給仕の小野に向かって。

　私は、匙を持ったまま動けなかった。

　春から、私は何度も「みずうみ、いや」と言った。「みずうみで、だれか、しぬ」と言った。本家の廊下で「みんな、みずうみ、こないで」と言った。

　それを母は、この家じゅうに、「桟橋を怖がって、桟橋へ行きたがる変な子」として配っていた。今朝、柱を見ようとして桟橋へ行きかけたことまで、母は話の種にした。

　明日の晩、私がいなくなれば、ここにいる全員が、同じことを思う。やっぱり、あの子は桟橋へ行った。

　私の警告は、母の迷子の口実になっていた。

　私はその夜から、人前で桟橋という言葉を口にするのをやめた。湖の話も、しなかった。そして、お絹の袖を、寝るときも離さなかった。

　私が桟橋の話をするたびに、母の話が本当らしくなる。だから、口に出さない。それから、迷子は一人でいる子にしか起きない。お絹がそばにいて、父がそばにいれば、私は迷子になれない。七月にお絹と約束したのは、この一つのためだった。

　＊

　その夜、私は聞いてしまった。

　母が私を寝かせたのは、二階の奥の部屋だった。母が廊下を去ったあと、私はお絹の袖を引いて、彼女にあてがわれた部屋までついていった。壁を隔てた隣が、貞光の部屋だった。

　私はお絹の隣の布団にいた。お絹は眠っていた。

　隣の部屋から、母と貞光の声がした。

「明日の晩だ」

「はい」

「灯籠のあとに人が散る。あのときが一番いい」

「はい」

「子は」

「眠らせます」

「眠らんかったら」

「舟屋へ置きます。あの子は桟橋のことばかり言っていますから。いなくなれば、皆、桟橋だと思います」

　私は、布団の中で目を開けていた。

「舟屋へ置けば、迷子だ」

「はい」

「探す。皆で探す。宗一郎は先に走る。あれは走る男だ」

「はい」

「桟橋は暗い」

　それだけだった。

　声が止んで、襖の音がして、足音が離れた。

　私は、天井を見ていた。

　薬と舟屋は、前の人生で知ったものと同じだった。でも、聞こえた相談は、眠らなくても娘を置き、探しに走らせるというものだった。前の人生で小野が書いた、灯籠の見回りに誘う手口だけではない。

　夕食の席で母が三度同じことを言ったのは、このためだった。眠らせられなくても、皆が「あの子は桟橋へ行った」と先に思っていれば、舟屋に置いただけで迷子になる。

　私は隣のお絹を揺すった。彼女が目を開けるまで、袖を離さなかった。

「ふねごや。かあさま、おくすり」

　お絹は壁のほうを見た。もう声はしなかった。それでも、私を抱いて座り直してくれた。

　すぐにお絹を起こしたのは、朝になってから私が父に言うだけでは足りないからだった。朝に言えば、夢を見たのだと言われる。夜中に私が揺り起こして同じことを言ったと、大人のお絹が父に言えば、それは朝に作った話ではなくなる。

　翌朝、お絹についてきてもらい、父の部屋へ行った。

「かあさまと、さだみつさま。ふねごやに、おくって」

「お前をか」

「おくすりで、ねかせるって」

　父はお絹を見た。お絹は、言葉は聞けなかったが私が夜中に起こし、同じことを言った、と答えた。

「分かった。お前を舟屋へは行かせん」

　父は私を膝に乗せたまま、お絹へ顔を向けた。

「奥様が何とおっしゃっても、この子から離れんでください。薬はわたしか医師が確かめるまで飲ませないでください。責められたら、わたしの指図だと言ってください」

　お絹は、背筋を伸ばして「はい」と言った。

　＊

　十五日の午後、小野が来た。

　彼は玄関ではなく、裏の勝手口から入ってきて、恭介を呼んだ。

　私は廊下の角にいた。

「旦那様。桟橋の先の柱ですが」

「はい」

「新しい痕があります」

　恭介の声が変わった。

「痕」

「鋸の痕です。水面のすぐ下、二本目と三本目の杭の内側に、切り込みが入っております。深さは半分ほど。上から板を踏んでも、すぐには落ちません。人が集まれば、折れるおそれがあります」

「いつのものです」

「昨日はございませんでした」

　小野は、はっきりそう言った。

「わたしは十二日に一度、十四日の朝に一度、見ております。十二日は何もございませんでした。十四日の朝も、あの位置は見ました。ございませんでした」

「では」

「二日のうちのものです。それより古い痕ではございません。木の色が違います。それから、杭の根元に泥が塗ってございます。上から見ると、痕が見えません」

　私は廊下の角で、七月の封筒を思い出していた。私が枕の下に入れて一晩寝た、あの封筒だ。父が「着く前に一度見ておいてください」と書いたから、小野は十二日にも十四日の朝にも柱を見ていた。前と後を見た人がいるから、この痕がいつ付いたかを言い切れる。

　沈黙があった。

「小野さん」

「はい」

「わたしは、これを、本家の旦那様に申し上げたい」

「わたしが申し上げます」

「……なぜ見たのかと訊かれたら、わたしが答えんといかん」

　恭介はそこで黙った。小野は父の顔を見たまま、返事を待っていた。

　点検を頼んだ理由を話せば、妻とその兄を疑っていることまで伝わる。父はそれを恐れたのだと思う。けれど、柱はもう切られている。二人が黙っているあいだに、私が持っていけばいい。見た人の名前を。

　私は、廊下の角から出た。

「とう」

　二人が振り返った。

「瑠璃花。ここにおったのか」

「おのさんが、みた」

　私は言った。

「おのさんが、はしらを、みた。それ、おじさまに、いう」

　恭介が私を見た。

　私は返事を待たずに座敷へ行った。宗一郎は縁側にいた。

「おじさま」

「おう」

「おのさんが、はしらを、みたって」

「柱？」

「さんばしの、はしら。あたらしい、きずが、あるって」

　宗一郎の顔が、変わった。

　彼は立ち上がった。

「小野！」

　小野が来た。恭介が来た。

　宗一郎は自分で二人に確かめた。小野が同じことをもう一度言った。恭介が診療所の話はせずに、手紙で点検を頼んだこと、その理由は子どもの言葉だったことだけを言った。

　私が宗一郎に渡したのは、「おのさんが、みた」という一言だけだった。見た人がそこにいれば、宗一郎は子どもの話ではなく、小野の目を確かめられる。

　宗一郎は、湖のほうを見た。

　三十二歳の彼は、決めない人だと言われている。時計を十年直せていない。静子さんとの縁談も、親族会に急かされるまで決めなかった。

　その人が、この日は、五分で決めた。

「今夜の灯籠は、中止だ」

　彼は言った。

「桟橋の先は封鎖する。小野、綱を張ってくれ。誰も入れるな」

「はい」

「柱は、そのままにしておけ」

「そのまま、でございますか」

「直すな。切ったところを削ったり、板を替えたりするな。誰かが見たときに、そのままの形で残っていなければならん」

「承知しました」

「それから」

　彼は少し考えた。

「舟を一艘、岸寄りに出しておけ。人が乗れるやつだ。櫂も入れておけ」

「はい」

　小野は行った。

　三十分後、桟橋の中ほどに、綱が二本張られた。杭に結んで、腰の高さと、膝の高さ。板の上に「あぶない」と書いた板が置かれた。

　私はそれを前庭から見ていた。

　私が四年前から知っていた桟橋が、いま、封鎖された。

　＊

　午後三時に、電報が来た。

　配達の男が自転車で山道を登ってきて、玄関で紙を渡した。

　恭介が受け取って、広げた。紙を裏返したところで、一度、手が止まった。

「本社からです」

　彼は言った。

「至急、戻れと」

　母が廊下に出てきた。

「何ですって」

「本社からの呼び出しです。船台の件でしょう。材の寸法で揉めておりましたから」

「今日？」

「今日と書いてあります」

　私は、彼の袖を掴んだ。

「とう」

「うん」

「いかないで」

　彼はしゃがんだ。

「行かんといかん」

「いかないで」

「瑠璃花」

　彼は私の手を、自分の手で包んだ。

　その手に、力が入っていた。

「父さんは、行く」

　彼は言った。

「行って、確かめてくる」

　私は彼の目を見た。

　彼の目は、私を見ていた。私だけを見ていた。

　――確かめてくる。

　彼は、そう言った。ただ行かねばならない、というだけではなかった。確かめてくる、と言った。

　父はお絹にも、朝の頼みをもう一度確かめた。それから立ち上がって、母のほうを向いた。

「奥様。用を確かめてまいります」

「無理をなさらないで」

「はい」

　三時半に、彼は出た。

　馬車で山を降りていくのを、私は前庭から見ていた。母も見ていた。貞光も、二階の窓から見ていた。

　母は、玄関に戻るとき、少し肩の力を抜いた。

　私は、それを見た。

　＊

　午後六時に、恭介が戻った。

　馬車の音はしなかった。裏口から入ってきたので、家の中の誰も、彼が戻ったことにしばらく気づかなかった。

　最初に気づいたのは、お絹だった。

「旦那様！」

　彼は靴が泥だらけで、汗だくだった。

「奥様には、まだ言うな」

　彼は言った。

「小野さんと、旦那様を呼んでくれ」

　父が表の道を来なかったわけは、私にも分かる気がした。電報で父を遠ざけた人は、父が今夜は戻らないと思っている。そう思わせたまま、先に宗一郎と小野に話すつもりなのだ。

　三人は、玄関脇の小部屋に入った。

　私は、その隣の部屋にいた。お絹に抱かれていた。

　声は、よく聞こえた。

「電話を借りました」

　恭介が言った。

「郵便局の電話です。ここの玄関で話せば、家中に聞こえます。先に疑いだけを知らせたくなかった。三十分待って、本社に繋がりました」

「それで」

「誰も、電報を出しておりません」

　沈黙があった。

「本社の当番に、電報を扱う係へ確かめてもらいました。今日、湖へ電報を出した者はいないと。船台の件は先週片づいた、と言われました」

「では、この電報は」

「紙にある局の名が町の局でしたので、窓口で記録を見せてもらいました。この電報は、帝都から来たものではありません。今日の昼過ぎに、あの町の窓口で打たれております。打ちに来たのは若い男だったと、窓口の者が申しました。名前までは分かりません」

　紙を置く音がした。

「原本は、わたしが持っております」

「恭介君」

　宗一郎の声だった。

「はい」

「これは、君を遠ざけるためのものだ」

「……はい」

「柱が切られ、君が呼び出された」

「はい」

「二つとも、今日だ」

　誰も、何も言わなかった。

　しばらくして、宗一郎が言った。

「警察を呼ぶ」

「旦那様」

「町の駐在では足りん。郡の警察を呼ぶ。私が電話をかける」

　今度は隠す必要がない、と宗一郎は言った。玄関へ出て、この家の電話で警察へ話した。電報の原本も、切られた柱も、そのままにしておくと伝えた。

　照会が済むまでは、父が町の電話で黙って確かめた。電報が偽物だと分かったから、今度は家じゅうに聞こえる電話で呼ぶ。警察が来ると皆が知れば、今夜、誰も桟橋にも舟屋にも手を出せない。宗一郎はわざと玄関の電話を使ったのだと、私は思った。

　掛け時計は六時五分だった。受話器を置いた宗一郎は、こちらへ向き直った。

「車で一時間ほどだそうだ。それまで、小野は舟と桟橋を頼む」

「承知しました」

「それから、今夜の宴は中止だ」

　宗一郎が言った。

「灯籠も中止、宴も中止。家の者は、全員、大広間に集めろ。集まって、待つ」

「集めるので？」

「散らさないためだ。人が散るのが、一番まずい」

　彼は立ち上がったらしかった。

「子どもは」

「別室に」と恭介が言った。「お絹が見ております」

「それでいい。目を離すな」

　＊

　私は、二階の小さな部屋にいた。

　お絹と、田中という若い使用人が一緒だった。田中は連絡役で、廊下と部屋を往復していた。

　夕食は、握り飯だった。酒は出なかった。宴が中止になったので、酒は蔵から出されていない。

　私は握り飯を半分食べて、残した。

　母が来たのは、六時二十分ごろだった。

　襖を開けて、母は部屋の入り口に立った。

「お絹」

「はい」

「台所へ行きなさい」

　お絹は、私の横に座ったままだった。

「お絹」

「奥様」

　お絹の声は、震えていた。

「わたくしは、ここにおります」

　母は、動かなかった。

「なんですって」

「お嬢様の側におります。旦那様からも、そう申しつかっております」

「私が行けと言っています」

「行きません」

　沈黙があった。

　母は、田中を見た。田中は下を向いた。

　母は、部屋を出て行った。

　私は、お絹の袖を握っていた。彼女の手も震えていた。

　「おきぬ」

「はい」

「ありがとう」

「まだ何もしておりません」

　彼女はそう言った。

　私は、天井を見ていた。

　古い手口は、崩れた。

　電報は照会された。柱は封鎖された。灯籠は中止された。宴は中止された。酒は出ていない。子どもは別室にいて、大人が二人ついている。警察が呼ばれた。

　前の人生で私が知っていた道筋の、ほとんど全部が塞がった。

　どれも、私が一人で塞いだのではない。父は七月に自分の目で帳面を見て、小野に手紙を書いた。だから小野は柱を前と後で見ていて、新しい痕に気づけた。父は着いた日に町の電話を覚えていたから、電報を本社に照会できた。お絹は七月に「離れません」と言い、今朝、父から「わたしの指図だと言ってください」と言われていた。だから、母に「行きません」と言えた。

　私は、少しだけ、息をついた。

　その二十分後に、母が戻ってきた。

　母は、茶色い小瓶と、匙を持っていた。

　＊

「瑠璃」

　母は言った。

「眠りなさい」

　母は畳に膝をついた。瓶の栓を抜いた。匙を出した。

「大人の話が長くなります。あなたは眠っていなさい」

　母は瓶を傾けた。

　匙の上に、透明な液が落ちた。

　母は匙を持って、私のほうへ来た。

　四か月の夜、糖蜜の上に傾いた瓶も、あの色だった。甘い匂い。舌の奥の苦さ。顔を背けて吐いたこと。

　私は、襟のことを考えていた。もし飲まされたら、飲んだふりをして襟に吐こう。襟に薬が残れば、それが証拠になる。四年、私はそれを考えていた。

　匙が、近づいた。

　その手首を、お絹が掴んだ。

　速かった。

　お絹は膝立ちになって、両手で母の手首を掴んでいた。匙が傾いて、液が畳に落ちた。

「奥様」

　お絹の声は、震えていた。震えたまま、はっきりしていた。

「なりません」

　母が、お絹を見た。

　母の顔から、表情が抜けた。

　私は、その顔を見た。

　この人は、いま、初めて止められた。

　この人は、娘へ飲ませる匙を、こんなふうに止められたことがなかった。乳をやり、おむつを替え、糖蜜を飲ませ、髪を梳き、星を留めた。毎日、母がすることだった。名前には父が一字を足したし、本家への引越しにも反対した。でも、この小さな匙を持つ手には、誰も触れなかった。この家では、母親のすることに、女中は口を出さない。

　いま、女中が手首を掴んでいる。

　七月の台所の裏で、「叱られたら、叱られます」と言った手だった。今朝、父から「薬はわたしか医師が確かめるまで飲ませないでください」と言われた手でもあった。

「離しなさい」

「離しません」

「お絹」

「奥様。これは、なりません」

　母は、匙を持ったまま動かなかった。

　匙の中身は、もう畳に落ちていた。

　田中が立ち上がって、廊下へ走り出した。

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