# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第十三章　桟橋

　お絹は、母の手首を離さないまま、身体をずらした。

　自分の背中で、私を母から隠す位置に動いた。それから、片手で私の襟の後ろを掴んで、後ろへ押した。

「お嬢様、下がって」

　私は畳の上を後ろへ滑った。

　お絹は母の手首を離した。離すと同時に、母の手から匙を取った。取った匙を、そのまま畳の上に置いた。

「奥様。これは、このままにしておきます」

　彼女は、匙に触った手を、着物の脇でこすった。

「田中さん」

　廊下へ出かけていた田中が、戻ってきた。

「お嬢様を抱いてください。そのまま、廊下の柱のところに立っていてください」

「は、はい」

　田中は私を抱き上げた。若い男で、抱き方が下手だった。私の脇が痛かった。

　お絹は、卓の上の茶碗と、湯冷ましの入った器を、隅へ寄せた。

「これも、洗いません」

　彼女は誰にともなく言った。

　母が、畳の上の小瓶へ手を伸ばした。

　お絹が、その前に立った。

　押さえはしなかった。ただ、母と私のあいだに立った。

　母は小瓶を取って、袂に入れた。

「お絹」

「はい」

「あなたは、明日から」

「はい」

　母は、それ以上言わなかった。

　母は立ち上がって、部屋を出た。

「田中さん、旦那様方に」

「もう、呼びました。廊下の者に言ってあります」

　階下で、人が動く音がした。

　それから、母の声が聞こえた。

　庭からだった。

「瑠璃！」

　私は、田中の腕の中で、身体を固くした。

「瑠璃がいません！」

　母の声は、大きかった。よく通った。

「誰か！ この子がいません！」

　私には、その声の意味が分かった。

　子どもがいない、と母が叫べば、大人は探しに走る。湖の夜に子どもを探す人は、まず水際を見る。母は湖に着いてから、この子は桟橋へ行きたがって困る、と客の前で何度も言っていた。いま庭にいる誰もが、桟橋を思い浮かべる。宗一郎も。

　匙を止められても、母は、迷子の話だけはまだ使おうとしていた。

　お絹が、窓を開けた。

　彼女は身を乗り出して、庭に向かって叫んだ。

「ここにおります！」

　声が裏返っていた。

「お嬢様は、ここにおります！ 二階の、この部屋におります！ わたくしと、田中さんがついております！」

　庭が、静かになった。

　私は、田中に抱かれたまま、窓のほうを見た。

　窓の下の芝に、母が立っていた。母は、こちらを見上げていた。

　その少し離れたところに、一臣がいた。

　十歳の彼は、母のほうを向いて立っていた。彼は、たぶん、母に何か訊かれたのだ。

「僕――」

　彼の声がした。

「僕、桟橋かもって言ったけど」

　彼は、大人たちのほうを向いた。

「見てない」

　彼ははっきりそう言った。

「見てないです。おばさんが、桟橋のほうへ行かなかったかって訊いたから、行ったかもって言っただけです。僕、見てないです」

　誰かが「よし」と言った。

　母は、動かなかった。

　＊

　お絹が開けた窓から、下の声はよく聞こえた。

　宗一郎と恭介は、前庭の、陸寄りの場所にいた。

　桟橋の付け根から十メートルほど手前。そこは芝で、平らで、湖から離れている。

　二人は、田中が降りていくのを待たずに、お絹の声を聞いていた。

「二階だそうだ」と宗一郎が言った。

「はい」

「では、探す必要はない」

　彼は、そこから動かなかった。

　宗一郎は、走らなかった。桟橋へ行かなかった。子どもがどこにいるかを聞いて、聞いた場所にいるなら、それでいいと判断した。

　小野は、岸寄りに出してあった舟の横にいた。彼はそこを離れなかった。灯りを一つ持って、桟橋のほうを照らしていた。

　その灯りの先で、人が動いた。

「旦那様！」

　小野が叫んだ。

「桟橋に人が入っております！」

　綱が、外されていた。

　桟橋の付け根に、小野が置いていった見回りのカンテラがあって、その灯りが手前の板を照らしていた。腰の高さの綱が板の上に落ちていて、その先に、人影が一つ。屈んで、板を持ち上げようとしている。

「貞光さん！」

　宗一郎が叫んだ。

　貞光だった。

　彼は板の一枚を外して、それを桟橋の上に置いていた。手には、鉄の棒のようなものがあった。板の下へ棒を差し込み、切られた杭に残る木片を剥がそうとしていた。

　鋸の痕が残る木片さえ剥がしてしまえば、柱は古くなって傷んでいた、と言い張れる。

「貞光さん！ 何をしている！」

　貞光は顔を上げた。

　灯りの中で、彼の顔がこちらを向いた。

「危ないから、片づけている」

　彼は言った。

「危ないだと」

「柱が切れているのだろう。子どもが入ったら落ちる。片づけておいたほうがいい」

「触るな！」

　宗一郎は、桟橋の付け根に立っていた。付け根から先へは、行かなかった。

「そのまま置け」

「置いてどうする」

「警察が来る」

　貞光の手が、止まった。

「警察」

「この家から電話した。もうすぐ着く」

「……宗一郎」

「貞光さん、こちらへ来い」

　宗一郎は、手を出した。

「切られた柱を、警察に見せる。電報もだ。本社は出していない。町の窓口で打った男も、警察に探してもらう」

　貞光は、鉄の棒を持ったまま立っていた。

「電報まで、残してあるのか」

「原本がある」と恭介が答えた。宗一郎のすぐ後ろ、傷のない陸寄りの板まで来ていた。

　貞光は、しばらく切られた杭のほうを向いていた。どちらか一つを隠せば済む話ではなくなった。その顔は、窓からは見えなかった。

「触らずに、置いて、こちらへ来い」

　しばらく、誰も動かなかった。

　湖の水が、杭に当たる音がしていた。

　貞光が、鉄の棒を板の上に置いた。

　置いて、両手を上げた。

「分かった」

　彼は言った。

「分かった。片づけん」

　彼は歩いてきた。

　板を踏んで、綱の落ちたところを跨いで、こちらへ歩いてきた。

「宗一郎。私は、この家のためを思って――」

「いいから来い」

「何も決めずに、私に任せてきたくせに」

　貞光の声が、急に大きくなった。

　貞光は、桟橋の付け根まで来た。

　宗一郎の正面に立った。

　二人の距離は、一メートルもなかった。付け根の右手は芝で、左手は水だった。水面までは一メートル半ほど。下は杭と、石だ。

　貞光は、両手を下ろした。

　二つの影が、重なった。

　＊

　何が起きたのかは、見えなかった。

　二階の窓から、庭側は見えた。灯りは前庭に二つ、小野の手に一つ、付け根に置かれたカンテラが一つ。カンテラは足もとの板を照らしていて、人の胸の高さまでは届かなかった。桟橋の付け根は、家から見ると横向きになる。人が二人立っているのは見えた。何をしているかまでは、四歳の目には分からなかった。

　見えたのは、片方の影が、急に消えたことだった。

　水の音がした。

　大きな音だった。石を投げ込んだのとは違う、重い音。

　それから、叫び声がいくつも重なった。

「旦那様！」

「宗一郎！」

　人が走る音がした。

　陸寄りにいた影が、数歩走った。走りながら、上着を脱いで捨てた。

　恭介だった。

　彼は付け根まで走って、そこから飛び込んだ。

　もう一度、水の音がした。

「とう！」

　私は叫んだ。

　窓枠に手をかけて、身を乗り出した。

「お嬢様！」

　お絹が、私の胴を掴んだ。

「出てはいけません！」

「とう！」

「見えます、ここから見えます。見ていてください。出てはいけません」

　彼女は私を抱いたまま、窓の内側に膝をついた。

　私は、彼女の腕の中から、湖を見ていた。

　小野の灯りが、桟橋のほうへ動いた。

「旦那様！ 息はございますか！」

「ある！ 顔は出とる！」

　恭介の声だった。

　水の中から聞こえてくる声は、変な響き方をした。

「小野さん、舟！」

「今、行きます！」

　灯りが岸寄りへ戻って、それから、水の上へ出た。舟が出た。櫂の音がした。

　私は、それを見ていた。

　息をするのを忘れていた。

　――生きている。

　顔が出ている、と父は言った。父の声が聞こえた。それは、父が水の上にいるということだ。

　二人とも、生きている。

　私は、それを確かめたくて、また身を乗り出した。お絹の腕が、私の腹に食い込んだ。

「お嬢様」

「はなして」

「離しません」

「みたい」

「見えます。ここから見えます」

　彼女は、私を離さなかった。

　＊

　小野が舟を寄せた。

　恭介が、下から宗一郎の身体を持ち上げた。小野が舟の上から引き上げた。二人がかりで、時間がかかった。

　宗一郎は、舟の底で咳をした。

　咳の音が、水の上を渡って、二階まで届いた。

　人々が岸へ走った。使用人が、女中が、書生が。舟が岸に着いて、宗一郎が担ぎ上げられた。誰かが「布を！」と叫んだ。

　貞光は、桟橋の付け根に立っていた。

　立ったまま、動かなかった。

　男が四人、家のほうから走ってきて、彼を囲んだ。囲んで、家のほうへ連れて行った。彼は抵抗しなかった。

　誰かが「医者を！」と叫んだ。書生が村のほうへ走った。

　母は、前庭の芝に立っていた。

　母は動かなかった。誰も母に触らなかった。誰も母に何も言わなかった。

　その中を、恭介が歩いてきた。

　全身から水を垂らして、髪が額に貼りついていた。彼は家の下まで来て、上を見た。

「お絹さん！」

「はい！」

「瑠璃花を、こっちへ連れてきてくれ」

　お絹は私を抱いて、階段を降りた。

　玄関を出て、芝の上に降りた。夜の空気が冷たかった。

　恭介が、私のところへ来た。

　濡れた手で、私の顔を挟んだ。

「怪我はないか」

「ない」

「そうか」

　彼はしゃがんだ。しゃがんだら、膝が震えていた。

「そうか」

　彼はもう一度言った。

　＊

　母が、そこへ来た。

　誰も止めなかった。恭介が立ち上がって、私の前に半分出た。

「藤乃さん」

「近くには行きません」

　母は言った。

「話をさせて」

　母は、二歩手前で膝をついた。

　私と母の顔の高さが、同じになった。

「瑠璃」

「かあさま」

「あなたは、誰」

　三月の夜と、同じ問いだった。

　私は、母の顔を見た。

　母の顔は、汚れていなかった。着物も乱れていなかった。ただ、目のまわりが赤かった。

　私は父の脇から出て、母の膝のそばまで行き、耳もとへ顔を寄せた。

「ゆりかごから、きいてた」

　小さな声だった。母にだけ届く声だった。父もお絹も、私の後ろにいた。二人には聞こえなかったと思う。

「きいてた」

「揺りかご」

「うん。かあさま、ほんけになるひの、はなし、してた。おじさまが、いつか、かあさまと、るりを、えらんでくれるって」

　母は、動かなかった。

「ゆりこさまの、ぐあいが、わるいって、はなしも、してた」

　母の目が、大きくなった。

「かあさまは、まってた」

　母は、しばらく黙っていた。

　それから、言った。

「待ちました」

　母の声は、低かった。

「あなたが生まれる前から、待ちました。百合子さまがお悪いのを知っていて、待ちました。そういう自分を恥ずかしいと思いながら、待ちました」

　母は自分の膝を見た。

「百合子さまが亡くなって、やっと、と思いました。思ったことを、あなたの前で口にしたかもしれません。眠っている子の前なら、何を言ってもいいと思っていました」

「かあさま」

「はい」

「なんで」

　母は、顔を上げた。

「宗一郎さまは、私を選びませんでした」

　母は言った。

「静子さんを選んで、私には紙を一枚くれました。私が、せめて、と頼んだ紙です。死ななければ効かない紙です」

　母は、そこで一度、息をした。

「決めない人でした。だから、私が決めました。あなたを、この家の子にすると」

「きめた」

「決めました。春から、私が作りました」

　母は、その言葉を使った。

　私は、その言葉を聞いた。

　この人は、いま、自分で言った。誰かに強いられたとも、兄に引きずられたとも言わなかった。作った、と言った。

　私は、それを聞いて、何かが自分の中で片づくのを感じた。

　同時に、私は自分に言った。

　――これは、この人が自分について言ったことだ。

　私が母を四年間見ていて、私が母の言葉を四年間集めていて、私がそこから何を考えるかは、私の側のことでしかない。この人が本当のところ何を思って四年を過ごしたのか、私には分からない。

　母が、私の顔を見た。

「瑠璃」

「うん」

「あなたに、名前をつけたのは」

　母は、そう言いかけて、止めた。

　私は待った。

「あの人です」

　母は、恭介のほうを見なかった。見ないまま言った。

「私は、瑠璃という名前がほしかった。船の名前です。この家で一番古い名前です。それを、あなたにつけたかった」

「うん」

「あの人が、花を足しました」

　母は、少し笑った。笑ったように見えた。

「私は、あの晩、腹が立ちました」

「うん」

「いまも、少し立っています」

　母は、まだ私を見ていた。最初の問いの答えを、待っているのだと思った。あなたは、誰。

　四歳の口では、言えない。言えたとしても、ここでは言えない。芝の上には人が多すぎた。

「かあさま」

「はい」

「わたしが、だれか。あとで、ちゃんと、いう」

　母は、瞬きをした。

「……あとで」

「うん。ちゃんと」

　母は、それ以上訊かなかった。

　母は立ち上がった。

「それだけです」

　母は、そう言って、家のほうへ歩いていった。

　女が二人、母について行った。

　＊

　村の医師が来た。宗一郎は座敷に寝かされて、毛布をかけられていた。肋を打っていたが、骨は折れていなかった。水はあまり飲んでいなかった。

　彼は、半身を起こして、貞光に会うと言った。

　貞光は、別の部屋で、男四人に囲まれて座っていた。

「貞光さん」

　宗一郎は、そこまで運ばれた椅子に座って言った。

「あんたは、私を押した」

「足が滑った」

「滑ったのは私だ。あんたの手は、私の胸にあった」

「証拠がない」

「小野が見ていた。恭介君も見ていた。あの二人は、あんたが手を出したところを見ている」

　貞光は黙った。

「それから、一臣のことだ」

　宗一郎はそう言った。

「あの子は、桟橋かもしれないと言った。あれは、大人が訊いたからだ」

　彼は、部屋の隅を見た。母は、そこにはいなかった。

「十歳の子に、自分が見ていないことを言わせた。それをやったのは大人だ。あの子は、すぐに自分で訂正した。あの子は何もしていない」

　彼は座り直した。

「今夜、灯籠をやめた。宴もやめた。無駄だったとは思わん」

　彼は、恭介と小野のほうを見た。

「舟が出ていた。人が水際にいた。私は引き上げられた。あれがなければ、私はいま喋っていない」

　警察が着いたのは、七時半を過ぎたころだった。郡の警察から二人と、駐在が一人。

　彼らはまず、桟橋を見た。切られた杭、外された綱、板の上に置かれた鉄の棒、貞光が外して脇へ置いた板。何も動かされていなかった。

　次に、二階の部屋を見た。畳の上の匙。隅に寄せられた茶碗と器。どちらも洗われていなかった。

　小瓶は、母の袂にあった。

　警察の一人が、母に「持っておられるものを出してください」と言った。母は袂から小瓶を出して、卓の上に置いた。警察はそれを、母の袂から出たものとして書き留めた。

　恭介は、そのあいだ、何もしなかった。彼は母に近づかなかったし、袂に手を入れなかった。彼は、電報の原本を出しただけだった。

　＊

　その夜、警察が持って行ったものは、こうだった。

　未洗浄の匙と、茶碗と、湯冷ましの器。母の袂から出た小瓶。受け取った電報の原本と、恭介が町の郵便局で写してもらった窓口の記録。切られた杭の位置を示した小野の書付。外された綱。板の上の鉄の棒。

　現場の経緯を証言したのは、主に三人だった。小野弥吉、天導恭介、お絹。

　小野は、十二日と十四日朝に柱を見たこと、十五日午後に痕を見つけたこと、夜に貞光が桟橋へ入ったこと、宗一郎の胸に貞光の手があったことを話した。

　恭介は、電報のこと、町での照会のこと、桟橋で見たことを話した。

　お絹は、匙のことを話した。話しながら、途中で泣いた。泣いてから、「わたくしは、四年前も、同じ薬らしいものを見ております。あのときも茶色い小瓶から、糖蜜に落としておいででした」と言った。

　私は、何も訊かれなかった。

　警察は、四歳の子どもには話を聞かなかった。座敷の隅にいる私を一度見て、それだけだった。

　それで、よかった。

　私の言葉が要らなかったということが、私には嬉しかった。この四年、私が誰かに何かを伝えようとして、伝わらなかったことがたくさんあった。それでも、届いた言葉があった。父はそれを覚えて、自分で確かめに行った。

　大人たちは、自分で見て、自分で調べて、自分で証言した。

　私の出番は、なかった。

　＊

　廊下の隅に、一臣が座っていた。

　膝を抱えて、壁に背をつけていた。誰も彼のところへ行かなかった。大人は皆、警察と、宗一郎と、母のところにいた。

　私は、お絹の手を引いて、そこまで行った。

　彼は顔を上げなかった。

「僕、なんにもしてないよ」

　彼は言った。

「うん」

「桟橋かもって言っただけだよ。おばさんが訊いたから」

「うん」

「見てないって、ちゃんと言ったよ」

「いった」

　彼は、膝に顔を埋めた。

「父さん、どうなるの」

　私は、答えられなかった。

　この子の父は、たったいま、人を水に落とした。それを小野と恭介が見ていて、これから警察に渡される。この子は十歳で、明日から、その息子として生きる。

　前の人生の、十三年先の彼は、自分の父の机から紙を取って、それを自分の手で人に渡す。彼は、父を疑いたくないと言いながら、それでも紙を確かめようとした。

　この子が、そういう人になるかどうかは、私には分からない。

「わかんない」

　私は言った。

「わかんないけど」

　私は、彼の靴の先を見ていた。彼は靴のまま廊下に座っていた。誰も叱らなかった。

「かずおみは、みてないっていった」

「うん」

「それは、じぶんでいった」

　彼は顔を上げた。

　目が赤かった。

「そうだよ」

「うん」

　彼は、袖で顔を拭いた。

　お絹が、握り飯を一つ持ってきて、彼に渡した。彼は両手で受け取って、廊下でそれを食べた。

　＊

　夜が更けて、座敷に人が減った。

　宗一郎は毛布にくるまって、まだ座敷にいた。医師が、動かさないほうがいいと言った。

　恭介は、着替えて、宗一郎の横に座っていた。二人とも、何も喋らなかった。

　私は、その部屋の隅で、お絹の膝にいた。

　小野が入ってきた。彼は澪を抱いていた。澪は眠っていた。五歳の子は、騒ぎの途中で寝てしまったらしかった。

「起きませんでした」と小野が言った。

「そりゃいい」と宗一郎が言った。

　小野は座って、澪を膝の上で抱え直した。

　私は、その二人を見ていた。

　部屋には、二人の父がいた。

　湖に落ちて生きている人と、飛び込んで引き上げた人。片方は私の血の父で、片方は私を「瑠璃花」と呼ぶ父だ。

　二人とも、この部屋にいる。

　どちらも、死んでいない。

　私は、昨日の夕方の灯籠を思い出した。

　青みがかった白い光。水の上をゆっくり回りながら離れていった。あれはどこまでいくの、と澪が訊いた。向こう岸までは行かん、途中で沈む、と宗一郎が答えた。

　あの光を、この子は、ひと月のあいだ話し続ける。

　――話し続ける？

　私は、そこで少し混乱した。

　前の人生でフミが言った「お嬢様は帰ってからひと月、灯籠のお話ばかりなさいました」というのは、あの世界での話だ。この世界の八月十五日は、もう別のものになった。

　同じ夕方の、同じ灯籠ではなかった。それでも、私も光の行き先を目で追った。あの子が何度も話したくなった夜を、死のことだけで埋めずに思い浮かべられた。

　私は、それでいいと思った。

「瑠璃花」

　恭介が言った。

　私の身体が、跳ねた。

「眠いか」

「うん」

「寝ろ」

「ここで」

「ここでいい」

　彼は自分の膝を叩いた。

　私は、お絹の膝から降りて、彼のところへ這っていった。四歳にもなって這うのはおかしいが、その夜は足に力が入らなかった。

　彼は私を膝に乗せて、片手で背中を支えた。

　私は、その手の重さを感じながら、目を閉じた。

　この人の声で名前を呼ばれると、私は毎回跳ねる。四年経っても跳ねる。

　私は、ここで眠りたいと思った。

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