# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# 第十四章　生まれてこなければ

　九月の初めに、親族会が開かれた。

　本家の座敷に、親族会の三人と、宗一郎と、三村弁護士と、恭介が座った。私は隣の部屋にいた。襖は閉まっていたが、隙間があった。

　最初に読み上げられたのは、警察から回ってきた供述の写しだった。

　辰巳という男の供述だった。湖の町の局から電報を打った男で、貞光の家に住み込んでいる二十二歳の書生だった。八月十五日の朝、貞光から金を受け取り、文面を渡され、指定の時刻に打つよう言われたと、彼は話していた。

　三村がそれを読み終えると、しばらく誰も喋らなかった。

　それから、宗一郎が言った。

「三村さん。あれを」

　三村は、封筒を出した。

「天導宗一郎名義の遺言。認知の条項を含みます。日付は昨年の十二月。原本は当職が保管しております」

「開けてくれ」

「よろしいので」

「私が生きているうちに開ける」

　紙を開く音がした。

　宗一郎は、読み上げさせなかった。自分で言った。

「瑠璃花は、私の子だ」

　座敷が、静かになった。

「藤乃との間の子だ。去年の暮れ、静子さんとの話が決まったとき、藤乃に頼まれて、私はそれを紙にした。三村さんに預けた。私が死んだら効くようにした」

　彼は続けた。

「私は、死ぬまで言わないつもりだった。生きているうちに言えば、面倒が起こると思った。だから紙にした。決めなくても効く紙を作った」

　彼は、そこで一度、息を吸ったようだった。

「その紙が、私を殺す理由になった」

　誰も何も言わなかった。

「だから、いま言う。私は生きている。生きているあいだに、自分の口で言う」

　三村が言った。

「では、遺言による認知は」

「実行しない。あれは死んだときに効くものだ。私は死んでいない」

「死んだあとにも効かせない。認知の条項を撤回する書面を、いま作ってくれ」

「承知しました」

　三村が紙を広げ、しばらく筆を動かした。書き上げた文を読み、宗一郎に署名を求めた。隙間から、紙の上を動く宗一郎の手が見えた。

「ご署名、確かに。こちらも保管いたします」

「登録上の父は、いかがなさいますか」

　三村は、恭介のほうを見た。

　恭介は、座り直した。

「わたしは、否認しません」

　彼は言った。

「嫡出の否認は、しません。あの子は、わたしの子として届けてあります。そのままにします」

「よろしいので」

「はい」

「血のことは、いま旦那様がおっしゃったとおりです。それを承知のうえで、ということになりますが」

「承知しております」

　恭介は、はっきり言った。

「わたしは、名前をつけました」

　彼は、それだけ言った。

　三村が「承りました」と言った。

　父の声は、揺れていなかった。

　十一月の夕方、玄関の上がり口で手紙を読んだ人だ。あの日から、この座敷まで、十か月あった。父はそのあいだ、誰にも急かされずに、自分がこの子の何なのかを考えていたのだと思う。考えて、いま、それを一行で言った。

　私は、襖の隙間の前で、いま決まったことを順に並べた。

　死んだときにだけ効く紙は、なくなった。宗一郎を殺しても、あの紙で得をする者は、もういない。母が求めて書かせた紙は、この日、宗一郎自身の手で、効かない紙になった。

　宗一郎は、生きたまま、私が自分の子だと言った。恭介は、それを聞いたうえで、私の父のままでいると言った。私は、血の父を知ったまま、名前をつけた人の娘でいられる。

　その日の親族会で、決まったことは、いくつかあった。

　天導貞光は、本家の一切の役職を解かれた。後見人の指名も、まだ効いていないので取り消された。彼の刑事のことは警察と裁判所の仕事になる。

　蘆田医師との侍医の契約は、終えることになった。処方を続けた判断に、家としてもう信頼を置けない、という宗一郎の意向だった。母と示し合わせていたと決まったわけではない。処方の記録は、捜査のために残された。

　天導藤乃は、司法の手に渡った。親族会は、この件について何も決めなかった。決められないから決めない、と三村が言った。

　最後に、三村が言った。

「本件の資料は、すべて写しを当職が保管いたします。捜査に要る原本は提出し、残る保管物も所在を届け出ます。写しは、当家が仲直りをなさっても、破棄いたしません」

「なぜ」

　親族会の一人が訊いた。

「二十年後に、また同じことを考える者が出たときのためです」

　三村はそう答えた。

　＊

　その週に、いくつかのことが決まった。

　小野弥吉は、星見荘の管理人を続けることになった。宗一郎が自分でそう言った。「あの人がいなければ舟は出ていなかった」というのが理由だった。

　澪の学費についても、宗一郎が申し出た。小野は最初、断った。

「うちの娘に、そこまでしていただく義理はございません」

「義理ではない」

「では、何でございますか」

「私が、そうしたい」

　小野は、しばらく考えて、それから、「娘が大きくなったときに、娘に決めさせてやってください」と言った。宗一郎は「そうしよう」と言った。

　九月の半ばに、慎が挨拶に来た。

　九歳になっていた。父に連れられて、玄関で頭を下げた。

「父の診療所は、これからも町にございます。ただ、こちらのお屋敷には、伺わなくなります」

　彼は、そう言った。子どもが大人の言葉を暗記して言っているのが分かった。

　私は玄関に出て行った。

「しん」

「はい」

「またね」

　彼は、少し困った顔をした。

「……はい」

　彼は、それから、自分で考えて、こう言った。

「僕は、大きくなったら、お医者になるかもしれません」

「うん」

「なるかもしれないし、ならないかもしれません」

「うん」

「まだ、わかりません」

「うん」

　私は、それでいいと思った。

　この子が十一年先に詩集を貸してくれる人になるかどうかは、この子が決めることだ。私が決めることではない。

　同じ月に、宗一郎と静子の婚礼について、話があった。

　一年、延ばすことになった。

　静子が自分でそう言ったのだという。

「あの家が落ち着くまで、私は入りません。入っても、私は片づけをしに来た人になってしまいます」

　彼女はそう言ったと、本家から来た佐伯が話しているのを、私は聞いた。

「それで、宗一郎様は何と」

「分かった、と。それから、待つ、と」

「まあ」

「あの旦那様が、待つとおっしゃったのは、初めてでございましょう」

　＊

　九月十四日に、母に面会した。

　場所は、警察の建物の一室だった。恭介が連れて行った。お絹もついてきた。二人は部屋の外の廊下にいた。中には、私と、母と、立ち会いの人が一人いた。

　机があって、椅子が二つあった。私は椅子に座ると足が床に届かなかった。

　母が入ってきた。

　着物は自分のものだった。髪は結っていなかった。後ろで束ねているだけだった。

　母は座った。

　机の上に、茶が二つ出された。母のほうは湯呑で、私のほうは湯冷ましだった。

「熱いよ」

　私は言った。

　母の茶から湯気が立っていた。母は、湯呑に手を伸ばしかけていた。

「……そう」

　母は手を引いた。

「ありがとう」

　母は、そう言った。

　それから、しばらく黙っていた。

「瑠璃」

「うん」

「娘だと思って抱いていたのは」

　母は、そこで一度、言葉を切った。

「誰ですか」

　私は、母を見た。

　三月の夜も、湖の夜も、母が私に訊いたのは「あなたは誰」だった。今日は、違う訊き方だった。

「わたし」

　私は言った。

「わたしだよ」

「あなた」

「うん」

　私は、自分の言葉を選んだ。四歳の口で言える言葉を、湖から帰ってからずっと考えていた。

「わたしは、べつのところに、いた」

「別のところ」

「べつの、せかい。おおきいひとだった。おとなだった」

　母の目が、動いた。

「はじめは、じゅっさいだった」

「十歳」

「ここのおうちで、じゅっさいから、じゅうはちまで、いた」

　母は、まばたきをした。

「じゅうはちで、いろいろあって、それで、じぶんで、もどってきた」

「戻って」

「あかちゃんのところに」

　母は、机の上で手を組んだ。

「あなたは、四年前に生まれた子ではないのですか」

「からだは、そう」

「中身が」

「うん」

　母は、長く黙っていた。

「では、私の娘は」

　私は、答えを、湖から帰ってからずっと考えていた。四歳の口で言える形に、何度も並べ直していた。

「じゅっさいの、あさ」

　私は言った。

「はちがつ、じゅうごにち。わたしが、はじめて、きたひ。このこ、ないてた。まくらが、ぬれてた」

　母は動かなかった。

「のどに、ことばが、のこってた。このこの、ことば。『……なければ、よかった』って。おしまいの、ところだけ。うまれてこなければ、よかった、って、いったんだと、おもう」

「……」

「わたしは、そのあとに、きた。かあさまと、はなしたあとだった。なにを、はなしたかは、しらない」

　母は、長いあいだ、机の木目を見ていた。

　それから、顔を上げた。

「分かります」

　母は言った。

「十の子が、あの日の朝に私のところへ来て、湖のことを訊いて、パパはいつ帰ってくるのかと訊いたら」

　母の声は、淡々としていた。淡々としているぶん、自分の中の何かを正確に読み上げているように聞こえた。

「私は、こう言うでしょうね。あなたは宗一郎さまの子として、本家に入るために生まれたの。それ以外のあなたは、要らない。パパの娘でいたいなら、生まれてこなくてよかった」

　パパ、と母は言った。石盤の字と同じ呼び方を、この人生で初めて聞いた。

　私は、椅子の上で、自分の手を握っていた。

「言うでしょうね。私なら」

　母は、それを否定しなかった。言い訳もしなかった。前の人生で、宗一郎の六度目の命日の、酒の残る朝に、この人が十歳の娘に言ったであろう言葉を、この人は、いま、四歳の私の前で、自分の口で組み立ててみせた。

「このこは、それで、うまれるのを、やめたんだと、おもう」

　私は言った。

「わたしは、あいてた、からだに、はいった。……わたしは、そう、おもってる」

　母は、目を閉じた。

「その子は」

　母は、目を閉じたまま言った。

「戻ってくるの」

　私は、すぐには答えなかった。

　この問いが来ることは、湖から帰ってからずっと分かっていた。答えを並べ直すたびに、「もどす」と言いたくなった。そう言えば、この人は目を開けるだろう。でもそれは、私の持っていない約束だった。

「……もどしたい」

　私は言った。

「もどしたい。でも、もどしかたを、しらない」

　母は、目を閉じたままだった。

「とびらが、あるの。わたしにしか、みえない、とびら」

　あの三行のことを四歳の口で言える形にすると、とびら、になった。

「でも、わたし、じぶんでは、あけられない。じゅっさいの、さいしょのよる、あけようとした。でなかった。じゅうななの、ふゆにも、やった。ここへ、きてからも。いっかいも、でなかった」

「……自分では、開けられない」

「うん。あくときは、かってに、あく。じゅうはちの、よるは、かってに、あいた」

「開かなかったら」

「わからない」

　私は、そこで自分の限界をはっきり言った。

「あかなかったら、わたしが、このからだで、おおきくなる。それしか、できない」

　私は証明していない。誰も保証していない。扉がもう一度開くのか、開いたときにあの子が戻るのか、どちらも私には分からない。分からないことを、分かっている顔で言ってはいけなかった。この人の前では、とくに。

「開いたら、あなたは、どこへ行くの」

「しらない。とびらの、さきは、かいてない」

　母は、黙った。

「でも、もし、あいたら」

　私は続けた。

「こんどは、あとまわしに、しない」

　それだけは、私が自分で決められることだった。扉を開けることはできない。でも、開いた扉の前で「次はぜひ」と言わないことなら、私が決められる。

「もし、そのこが、もどったら」

　これも、湖から帰ってから、ずっと考えていた言葉だった。言い方を、何度も直した。

「かあさまを、かあさまって、よぶかどうかは、そのこが、きめる」

　母は、目を開けた。

「これは、やくそく、じゃない」

　私は言った。

「わたしが、きめちゃ、いけないこと。わたしも、とうも、きめちゃ、だめ。そのこが、きめる」

　約束なら、守れるかどうかを私が請け負うことになる。これは違った。この子の口を借りて、この人を母と呼んでみせることも、呼ばせないと決めることも、私はしてはいけない。それを、この人の前で、自分に言い聞かせておきたかった。

　母は、私の顔を見ていた。

「……そう」

　母はそう言って、それ以上、何も言わなかった。

「かあさま」

「はい」

「わたしは、ここに、いたかった」

　母が、顔を上げた。

「じけんを、とめたかった。それは、ほんと。でも、それだけじゃない」

　私は、言葉を探した。

「ごはん、たべたかった。とうと、ふねを、うかべたかった。かあさまに、かみを、といてもらいたかった」

　母は、動かなかった。

「ぬのを、えらんだこと、おぼえてる」

「布」

「みどりの、あおいの。にあうって、いってくれた」

　母の顔が、少し崩れた。

　それは、何年も先の記憶だ。母にとっては、まだ起きていないことだ。母には、何のことだか分からない。

　分からないまま、母は、それを聞いた。

「わたし、うれしかった」

　私は言った。

「あれ、うそじゃない」

　母は、湯呑を持った。

　もう、湯気は立っていなかった。母は一口飲んで、置いた。

「私は」

　母は言った。

「あなたが誰でも、乳をやって、着替えさせて、四年間、あなたを抱いていました」

「うん」

「それだけは、あなたが誰でも、変わりません」

「うん」

　母は、それ以上何も言わなかった。

　立ち会いの人が「時間です」と言った。

　私は椅子から降りた。降りるのに苦労した。母は手を出さなかった。出せなかったのかもしれない。

「かあさま」

「はい」

「いく」

　母は、何か言いかけた。

「瑠璃――」

　そこで、母は止まった。

　続きを、母は言わなかった。「花」を足さなかった。足さないまま、「瑠璃」で止まった名前を、母は飲み込んだ。

　七夜の晩に一度口にしたきり、四年のあいだ、母は私を「瑠璃花」と呼ばなかった。命名紙に書かれた花の一字を、母の口は、今日も足さなかった。

「……はい」

　私は、扉のところで振り返った。

　母は座ったままだった。私を見ていた。

　私は、この人に、許してくださいとも、許さないとも言わなかった。扉が開いたら行きなさい、とも、行かないで、とも、この人の口から聞きたくなかった。扉の前で何を選ぶかを、この人の許しや命令で決めたくなかった。それに、私はまだ、この家の朝がほしかった。

　だから、それ以上は言わなかった。

　＊

　面会から、二週間、私は家で暮らした。

　帝都の家だ。母のいない家だった。母の居間の襖は閉まっていた。母の揺り椅子は、もう庭の物置にあった。

　お絹がいた。女中頭がいた。恭介が毎日帰ってきた。

　九月の終わりの日々は、驚くほど普通だった。

　朝、起きる。顔を洗う。飯を食う。庭で遊ぶ。昼寝をする。おやつを食べる。夕方、玄関で音がする。「今日は何だ」と言われる。「なんもない」と答える。

　私は、その二週間で、何も役に立たなかった。

　役に立たなくても、食卓に私の席があった。私の茶碗が出た。私の靴が玄関に並んでいた。

　その二週間のあいだに、宗一郎が一度、家へ来た。

　肋がまだ痛むらしく、歩き方がゆっくりだった。彼は座敷に座って、恭介と何か話した。話は短かった。

　それから、彼は私を呼んだ。

「瑠璃花」

「はい」

「私が、お前の血の父だという話は、聞いたか」

　私は頷いた。

「そうか」

　彼は、それだけ言って、しばらく庭を見ていた。

「私は、お前をこの家から連れて行かん」

「うん」

「私が引き取れ、と親族会で言う者もいる。だが、恭介君が届けを出した父だ。名前もあの人がつけた」

「跡取りのことも、いまは決めん。お前が大きくなったら、お前と、そのとき生きている当主とで決めればいい。死んでから効く紙は、もう作らん」

　彼は、湯呑を持った。

「私は、決めるのが下手だ。今度だけは、早く決めた」

　決めない人が、決めたのだと思った。私を手元に引き取らないこと。死んでから効く紙に、あとのことを決めさせないこと。決めるのを、生きている者に残すこと。

「おじさま」

「なんだ」

「とけい、なおした？」

　彼は、私を見た。

　それから、笑った。笑って、肋が痛んだらしく、顔をしかめた。

「まだだ」

「なおして」

「……そうだな」

　彼は、帰るときに、玄関で恭介にこう言った。

「時計を直せる者を探す。見つかったら、この子を呼ぶ」

「はあ」

「あの部屋の音は、全部鳴っていたほうがいい」

　彼は帰った。

　その二週間、私は何度か学院の話を聞いた。いずれ通うことになる。女中頭が先々のためにと制服の見本を持ってきて、お絹が「まだ大きゅうございます」と言った。

　夕方には、庭で遊んだ。木の船を盥に浮かべた。帆柱は、恭介が一臣の抜いたところへ楔を打って、直してあった。

　私は、盥の縁に顎を乗せて、船が回るのを見ていた。

　この生活が続くところを、私は想像できた。

　想像できてしまうことが、少し困った。

　だから、私は毎晩、あの三行を待った。

　面会の日から、夜ごとに、布団の中で思い浮かべた。前の人生の十歳の最初の夜にやったのと同じように。つづきから。はじめから。やめる。文字の形まで細かく思い描いた。

　出なかった。

　出ないことは知っていた。前の人生の十歳の夜も、十七の冬の夜も、この人生の三月の夜も出なかった。自分では開けられないと母に言ったのは、私だ。それでも、思い浮かべるのをやめられなかった。

　この子の四つの秋を、私は一日ずつ使っていた。朝の飯も、盥の舟も、夕方の「今日は何だ」も、本当はあの子が受け取るはずのものだった。扉が開かなければ、私はそれを使い続ける。使い続けるうちに、きっと惜しくなる。惜しくなれば、開いた扉の前で、私はまた「次はぜひ」と言う。

　私は自分のことを、それくらいには知っていた。

　だから、早く来てほしかった。この家の朝を惜しむ気持ちが、まだ扉を選ぶ気持ちより小さいうちに。

　十八の夜まで、扉は八年開かなかった。今度も八年かもしれない。十年かもしれない。一生、開かないのかもしれない。

　そう思いながら、毎晩、目を閉じた。毎晩、瞼の裏は暗いままだった。昼の私は盥の舟を見て笑い、夜の私は来ないものを待った。どちらも、本当だった。

　＊

　九月二十七日の夕方、恭介が帰ってきて、こう言った。

「明日は休みだ」

「うん」

「明後日、造船所へ行くか」

　私は、立ち上がった。

「いく」

「よし。朝が早いぞ」

「いく」

「靴を出しとけ」

　私は棚から箱を下ろした。赤い靴だった。

　湖へ持って行って、湖では一度も履かなかった。荷ほどきのときに布に包んだまま、棚に戻してあった。

　私は靴を出して、玄関に並べた。彼が貼った革が、内側についていた。踵は滑らない。

「はいる」

「入るか」

「はいる」

　翌二十八日の夜、彼は私が寝るまで部屋にいた。

　いてくれと、私が言った。

「とう」

「ん」

「ここに、いて」

「おるよ」

「ずっと」

「ずっとは無理だ。父さんも寝る」

「ねるまで」

「寝るまでな」

　彼は、私の布団の横に座った。胡座をかいて、壁に寄りかかった。

　私は、天井を見ていた。

「とう」

「ん」

「もういっかい、よんで」

　彼は、笑った。

「また、それか」

「うん」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花。瑠璃花」

　私は目を閉じた。

　彼の声は、四年前と同じだった。七夜の晩、私の顔を覗き込んで、慌てて「泣くな、泣くな、瑠璃花」と三回呼んだときと、同じ声だった。

「そんなに、呼ばれたいか」

「うん」

「変な子だ」

「うん」

　彼は、私が眠るまでそこにいた。

　＊

　九月二十八日の夜。

　彼は、私が寝入ったと思って、隣の部屋へ戻った。襖の向こうで布団を敷く音がして、それから、静かになった。

　私は目を開けた。

　天井が見えた。障子越しに、廊下の灯りが弱く入っていた。枕元の棚に、銀の星と、木の船があった。

　そのとき、目の前に文字が浮かんだ。

　私は何もしていなかった。今夜だけは、思い浮かべてもいなかった。父に名前を呼ばれているあいだ、私は三行のことを忘れていた。面会の日から毎晩呼んで、一度も出てこなかったものが、呼ぶのを忘れた夜に、そこにあった。十八の夜の星の間と同じだった。

　面会から、十四日。八年かかった前の扉より、ずっと早かった。

　早すぎる、と思った自分に、私は少し驚いた。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「はじめから」は、灰色だった。

　ゲームなら、と私は思った。エンディングのあとに出る画面だ。物語が終わったあとに。

　今度は、終わりまで来たのだ。湖の夜は、誰も死なずに終わった。

　私は、「つづきから」を見た。

　長く見た。

　これを選べば、明日の朝が来る。造船所へ行く。船台を上から見る。赤い靴を履いて、うるさい場所を歩く。帰ってきて、飯を食う。

　いずれ、学院に上がる。宗一郎が父だと公表された家の子として。母のいない家で、父と、お絹と、女中頭と暮らす。

　十歳になる。十六歳になる。十八歳になる。

　その十六歳の春に、天導一臣は二十二歳だ。彼の父は服役しているか、その後どうなっているか分からない。彼は商会にいるかもしれないし、いないかもしれない。彼と私は、たぶん婚約しない。

　十三の春に駆け落ちを申し込んで、「……は？」と言われる日は、来ない。

　十六の春に澪が転入してきて、「もう遅いですよ」と言う日も、来ない。この世界では、まだ何も遅くない。

　あの人たちは、もう、いない。

　私は、そのことを、はっきり惜しんだ。

　あの人たちは、私が元の世界へ帰るための教材ではなかった。現実で人と関われるようになるための練習台でもなかった。ハーレムエンドの攻略対象でもなかった。そういう冗談を心の中で言いながら、私はあの人たちと八年暮らした。

　天導一臣は、駆け落ちを申し込んだ私に「……は？」と言った人だ。それから三年して私の婚約者になって、十七の秋には、自分の父の机から下書きを持ってきた。父を疑いたくないと言いながら。

　蘆田慎は、「急ぐと、詩がかわいそうですから」と言った人だ。百合子さんのことで自分の父がずっと悔やんでいると、十五の私に話してくれた人だ。

　早瀬遼は、市場で私の手首をつかんで「はぐれるなよ」と言った人だ。あの子だって誰かの娘だろ、と、私のことを言ってくれた人だ。

　小野澪は、同じ菓子を半分に割った人だ。十八の夜に、あのとき言ってくれていたら守れた、と言った人だ。

　あの人たちに、私はもう会えない。

　この世界には、十歳の一臣と、九歳の慎と、十二歳の遼と、五歳の澪がいる。会える。会えるけれど、それはあの人たちではない。

　私は、布団の中で、しばらく泣いた。

　声は出さなかった。

　＊

　泣きやんでから、私は考えた。

　七夜にもらった名前は、この子に残る。

　瑠璃花。父がつけた名前。命名紙に書かれて、十二月の遺言認知の文書に書かれて、これから学院の名簿に書かれる名前。

　私が持って帰るのではない。私はこの名前を、四年間、横で聞いていただけだ。

　それでも、私が救われたことは、消えない。

　三分息をしなかった子のために父が足した一字が、たまたま私の名前と同じだった。それは偶然で、天命でも所有権でもなくて、この世界が私のために誂えられた証拠でもない。

　偶然だったのに、私は救われた。

　あの晩、生まれて七日の身体で、私は返事をしようとして泣いた。あの涙を、私は取り消さない。三歳の誕生日に「もういっかい」と言った。あれも取り消さない。

　私は、この家で、たくさん笑った。

　盥で沈んだ舟を笑った。大きすぎる靴を笑った。指で足を測った人を笑った。

　あれは、全部、私が笑ったのだ。

　私は左手を、枕元へ伸ばした。

　指が銀の星に触れた。星は冷たかった。

　左手が、星を握った。

　私は、その手を見ていた。

　これが返事なのかどうかは、分からない。この手は、四年間、私の意思と関係なく星へ伸びた。父の足音へ伸びた。それを、私は「あの子だ」と思ってきた。

　思ってきただけだ。

　証明は、していない。

　私は、右手で、左手をそっと外した。星を棚に戻した。

　＊

　元の部屋のことを、私は思い出した。

　六畳と台所。折りたたみの机。充電したままのゲーム機。

　仕事がある。月末だけ忙しい。北原さんがいる。麻辣の店の誘いを、私は断った。次はぜひ、と打った。

　あの「次」は、まだ来ていない。

　あちらの時間がどうなっているか、知らない。あちらへ戻れるのかどうかも、知らない。

　――一回だけ、自分から出せた。

　私は、そのことを思い出した。

　十七の冬に、澪に「知りません」と言った。母の帳面を、春まで鏡台の底にしまっておいた。それでも十八の夜、星の間で、私は自分の手でそれを出した。遅かった。遅かったけれど、出したのは私だ。

　それから、十三の春に、一臣さんに駆け落ちを申し込んだ。「……は？」と言われた。

　断られても、私は死ななかった。次の朝には、ちゃんと朝ご飯を食べた。

　どちらも、私がやったことだ。

　私は、まだできるかもしれない。

　私は、三行を見た。まだ、そこにあった。

　「つづきから」を選べば、明日は造船所へ行ける。それから、また夜ごとに待てばいい。そう思いかけた。

　思いかけて、その形に覚えがあった。

　次はぜひ、と打った夜と同じ形だった。行きたいのに、次があると思って、今を断る。

　この扉が次にいつ開くのか、画面は何も言っていない。十歳から十八まで、一度も開かなかった。次は、もう開かないのかもしれない。開いたとしても、そのときの私は、この家の朝を今夜よりもっと惜しんでいる。

　面会の日、私は母に言った。もし開いたら、今度は後回しにしない、と。扉を開けることは、私にはできなかった。開いた扉の前で待たないことだけが、私に決められることだった。

　扉は、開いた。思っていたより、ずっと早く。

　今度は、後回しにしない。

　「やめる」に意識を向けた。

　　このゲームを終了します。
　　二度と再開できません。
　　よろしいですか？

　十八の夜と、同じ文だった。

　帰れる、とは書いていない。元の部屋へ、とも。この身体がどうなるのかも、あの子が戻るのかも、どこにも書いていない。終了する、とだけある。

　私は、四つのことを並べた。

　左手は、まだ星へ伸びる。

　あの子が生まれるのをやめた理由。十歳の朝に、母から言われるはずだった言葉。その朝は、もう来ない。母は逮捕された。宗一郎は生きている。父は追い出されない。この子は、パパの娘でいていい。

　父は、恐ろしい三分のあとで、この子に花を足した。庭で笑うところを見たい、と。父が名前をつけたのは、これから生きる子だった。

　そして、私は、この身体をもう返す。

　それで、あの子が戻ってくると、私は信じたい。

　信じたい、というのは、証明ではない。母が保証したのでもない。画面が約束したのでもない。私も、母に約束はしなかった。私は見届けない。

　私自身がどうなるのかも、分からない。元の部屋で目が覚めるのかもしれない。目が覚めないのかもしれない。

　もし、帰れたら。

　北原さんに、自分から送ろう。麻辣の店、まだ行けますか、と。服のことも、二時間何を話すかも、三回目のことも考えずに。断られたら、また誘う。次がなくても、もう一回は言う。駆け落ちを断られた次の朝にも、私は朝ご飯を食べられたのだから。

　もし、帰れなかったら。

　それでも、この子の朝が来るなら、それでいい。

　隣の部屋で、父が寝返りを打った。

　私は、目を閉じたまま、その音を聞いた。

　――ありがとう。

　言わなかった。言えば、この人は起きてしまう。

　天導瑠璃花。てんどう、るりか。

　私が七夜に、返事をしようとして泣いた名前。

　天導ルリカは、ここで、生まれるのをやめる。

　　このゲームを終了します。
　　二度と再開できません。
　　よろしいですか？

　はい。

　最後に感じたのは、手だった。

　私の右手を、誰かの左手が、そっと離した。握っていたのは私のほうだったのか、向こうだったのか、分からなかった。

　私は、選んだ。

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