# 天導ルリカは生まれるのを止めた

作者：公式配布ページの作者欄を参照（この下書きでは名義表記を省略）

原稿版：1.0／テキスト版：2026-10-27 JST／未公開下書き。
本文と「この本について」を収録。挿絵・巻末資料・あとがきは含みません。

公式配布ページ：https://huggingface.co/datasets/currnya/rurika

本文やキャラデザを AI に渡して、別の展開や挿絵づくりを楽しめます。作ったものを公開するときは、公式配布ページの利用条件と二次創作の手引きをご確認ください。

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# この本について

この物語は、何度も書き直されました。

最初の版から数えて、いくつもの形がありました。悪役令嬢が十歳で目を覚ます話。生まれた日からやり直す話。帳面を隠す話と、すぐに渡す話。恋をする話と、事件を解く話。どれにも、良いところと足りないところがありました。良いところをすべて入れた百点満点の一本は、とうとう作れませんでした。

かといって、同じような話を何本も読んでもらうのは、しのびない。

そこで、一冊の中に、切り口の違う物語をまとめて収めることにしました。どの物語も、同じ一つのゲーム『帝都恋綺譚』の世界の、別々の世界線で起きます。細部が食い違うのは、そのためです。

序を読んだあと、好きな編から読んでください。次の添え書きが目安です。

- 序　帝都恋綺譚――ゲームの紹介。五つの編すべての前提です。
- 第一編　ミステリー編――犯人は分かっている。どう証明し、どう止めるか。
- 第二編　一臣編――結ばれる道のない二人が、どうするか。一臣に興味のない方は飛ばしてかまいません。
- 第三編　0歳転生編――本編のクライマックスです。恋愛に興味のない方は、ここだけ読んでも大丈夫です。
- 第四編　恭介編――裏シナリオ。家を出た娘が、家を出た父のところへ行く話。
- 第五編　澪編――裏シナリオ。最後に読むと、少しだけ軽い気持ちで本を閉じられます。

巻末の人物相関図は、全編のネタバレを含みます。第五編を読んだあとにどうぞ。

本の題名『天導ルリカは生まれるのを止めた』は、第三編の題名でもあります。

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# 序　帝都恋綺譚

花の帝都、洋燈の灯る学院で――あなたは、恋をする。

パッケージの表には、金の箔押しで、この一行だけが刷ってある。

裏を返すと、もう一行ある。

湖に沈んだ父の名誉。あの夜を知っているのは、誰？

　＊

『帝都恋綺譚』は、大正浪漫風の帝都を舞台にした恋愛アドベンチャーゲームである。

主人公は小野澪。湖の別荘の番人の娘で、村の小学校で先生の手伝いをしていた。その先生の推薦を受け、名家の子女が通う帝都の学院へ、奨学生として転入してくる。十七歳の春のことだ。父の弥吉は、六年前の夏、別荘の桟橋で起きた事故の責めを負って職を解かれ、その後、病気で亡くなっている。澪の手元には、父が亡くなる前の十日間に書いた一通の遺書がある。

学院の毎日は、恋でできている。放課後に誰と過ごすかを選び、返事を選ぶ。ある場面に辿り着くと、画面いっぱいに一枚絵が出る。一枚絵は画廊に集まり、何度でも見返せる。攻略できる相手は三人。どのルートにも、終盤に告白の場面があり、最後に求婚の場面がある。

そしてどのルートでも、前半の恋の下から、後半になると湖の事件が顔を出す。澪は好きになった人と一緒に、父が責めを負わされた湖の事件の真相を追い、好きになった人は、澪のために自分の家や父親と向き合う。告白の台詞が胸にくるのは、そこまでに二人で事件の重さを運んできたからだ。

　＊

物語の中心にいるのは、天導家である。

帝都でいちばん古い海運の家で、初代は瑠璃丸という一艘の船から身を起こした。家は本家と分家に分かれ、本家の当主が一族と商会を束ねる。

天導家には家憲がある。最初の条にこう書かれている。当主は、初代の血を引く者とする。そして第四条に、嫡出の子は、認知された子に先んずる、とある。ゲームの中で家憲の文面が画面に出る場面は少ないが、湖の事件を解く鍵は、この二つの条にある。

帝都の法律では、人は二十歳で成年になる。天導家には、それとは別に、十八歳の誕生日に一族の前で成年披露を行う習わしがある。本家の血筋の子は、その夜、黒地の着物を着る。

本家の屋敷の奥に、星の間と呼ばれる部屋がある。

壁の一面に星図が、向かいの一面に海図が貼られ、残りの壁を四十三の船舶時計が埋めている。天導の船が一艘退くたびに、その船の時計がこの部屋に掛けられてきた。いちばん古いのは瑠璃丸の時計だ。当主の天導宗一郎が生きていたころ、四十三の時計は少しずつずれて時を刻み、部屋の中は、雨が屋根を叩いているような音で満ちていた。時計を巻くのは、宗一郎の役目だった。

宗一郎が死んでからは、家令が毎朝一台だけを巻く。残りの四十二台は、それぞれ違う時刻で止まっている。ゲームの最後の夜、成年披露が開かれるのは、この部屋である。

湖の別荘は、星見荘という。湖畔に建つ洋館で、岸から桟橋が湖へ延び、そのたもとに舟屋と番人小屋がある。毎年八月、天導の一族はここで盆を過ごし、十五日の夜には、桟橋から灯籠を流す宴を開く。

　＊

攻略対象の三人と、それぞれのルートでいちばん多く語られた場面を、一つずつ紹介する。ゲームは学院での二年間を追う。ここに挙げる一枚絵と告白は、どれも澪が十八歳になってからの、後半の場面である。

天導一臣は、分家の当主・貞光の一人息子で、本家の跡取りである天導瑠璃の婚約者だ。背が高く、無口で、眉がまっすぐな青年。序盤はずっと不愛想で、澪に本を貸しても、感想には「そうか」としか返さない。第四章、澪が風邪で読書会を休んだ日、一臣は寮の門で待っている。用事は本を返してもらうことで、返してもらったあとも帰らない。「用はなくなったが、まだいる」と言う。

一臣は、最後まで澪を「小野」と呼ぶ。それが変わるのは、澪の卒業式の朝だ。学院の並木道で、一臣は手袋を片方だけ外し、素手を差し出す。一枚絵は、差し出された大きな手と、それを見下ろす澪の横顔である。

「澪」

初めて、名前で呼ぶ。

「婚約は、父が決めたことだった。これは、私が決める。本を貸す口実がなくなっても、私の隣にいてくれないか。これから先、ずっと」

澪がその手を取ると、一臣は少しだけ力を入れて握り返し、「手袋越しでは、嫌だった」と言う。

蘆田慎は、天導家の侍医・蘆田医院の院長の息子で、医学校の学生だ。眼鏡をかけ、柔らかい声で話し、白衣のかくしにいつも詩集を入れている。言葉を急がない人で、詩を読むときは行の終わりで必ず一拍おく。澪が「早く続きを」とせかすと、「急ぐと、詩がかわいそうですから」と言う。

慎のルートでいちばん人気があるのは、夕立の帰り道の一枚絵だ。診療所から寮まで、一本の傘に二人で入って歩く。慎は何も言わずに傘を澪のほうへ傾けていて、寮の門に着いたとき、慎の左の肩だけがぐっしょり濡れている。澪が「どうしてそんなにゆっくり歩いたんですか」と訊くと、慎は「急ぐと、あなたが濡れますから」と答える。詩の台詞と同じ形になっていることに、多くのプレイヤーは二周目で気づく。告白は、そのあとの詩の会で来る。いつもの一拍のところで、慎は次の行を読まない。本を閉じて、「これだけは、急いで言います。あなたが好きです」と言う。一拍おかない慎は、あとにも先にもその一回しか出てこない。

早瀬遼は、帝都日報の若い記者だ。癖毛で、日に焼けていて、いつもどこかが動いている。声が大きい。取材のためなら塀を乗り越え、危ないところへ澪を連れていって叱られる。六年前の湖の夜、見習いとして先輩の鞄を持って駐在所にいた。

遼のルートには、南の港町の市場の場面がある。人混みで、遼は澪の手首をつかんで「はぐれるなよ」と言う。人混みを抜けても離さない。澪が「もう、はぐれませんけど」と言うと、遼は前を向いたまま「知ってる」と答えて、手首から手のひらへ握り直す。一枚絵は、つないだ二人の手だけの一枚で、顔は描かれていない。告白の台詞は記者らしい。「記事にできないことが一つある。おれが、きみに惚れてることだ。裏は取れてるから、書かずに言う」。

三人の中で遼だけが、悪役の令嬢・天導瑠璃について、一度だけこう言う。

「あの子だって、誰かの娘だろ」

　＊

ここから先は、TRUEルートの内容に触れる。

六年前の八月十五日、星見荘で灯籠流しの宴が開かれた。

本家当主の天導宗一郎は三十八歳だった。二年前の春に病身の妻・百合子を亡くし、十月には静子という女性との婚礼を控えていた。

宴の途中、分家の娘の瑠璃――当時十歳――の姿が見えなくなった。瑠璃の父の恭介は、その日の夕方、本社からの至急の電報で帝都へ戻っていて、宴にはいなかった。宗一郎は瑠璃を探しに暗い桟橋へ出た。桟橋の先端が折れ、宗一郎は湖に落ちた。遺体は翌朝、杭のあいだで見つかった。瑠璃は舟屋で眠っているところを見つけられた。

事件は事故として処理された。当主が死んだのは、番人の見回りが足りなかったから。公にはそう言われた。番人の小野弥吉は、その年の秋に職を解かれた。瑠璃の父の恭介も、娘を置いて帝都へ帰ったと責められ、九月の親族会で、自分が瑠璃の父であることを否む書類に署名させられて、家を去った。瑠璃は宗一郎の遺志として本家の養女になり、跡取りに定められた。後見人には、瑠璃の伯父である分家当主・貞光がついた。

物語は、その六年後の春に始まる。

慎のルートでは、蘆田医院の処方簿に、瑠璃の母・藤乃が眠り薬を受け取った記録が見つかる。一臣のルートでは、父・貞光が湖の年の七月に親族会の長老たちへ出した、後見の根回しの手紙の下書きが出てくる。遼のルートでは、家を追われた瑠璃の父と、元女中のお絹を探し当て、あの日の証言を得る。三人全員と友人になったとき、三つの証拠が澪のところで一つになり、TRUEルートが開く。

十七歳の冬、瑠璃は澪の動きに気づき、母の家計簿と、三村という弁護士から届いた封書を、暖炉にくべる。画面には、炎の中で頁がめくれる絵が一枚出るだけで、何が書いてあったのかは最後まで明かされない。

十八歳の四月二十日、瑠璃の成年披露の夜。止まった時計に囲まれた星の間で、澪は父の遺書と三つの証拠を一族の前に出す。桟橋の柱に鋸を入れたのは貞光だった。偽の電報で恭介を湖から遠ざけ、瑠璃の迷子を仕組み、宗一郎を桟橋の先へ走らせた。藤乃は兄に命じられて、娘を薬で眠らせ、舟屋に置いた。主犯は伯父で、母は従犯。澪の父の名誉は、ここで回復される。

そして瑠璃は、学院で澪や下級生を虐めたこと、証拠を焼いたことを、一つずつ数え上げられる。跡取りの資格を取り上げられ、婚約を破棄され、海の向こうの修道院へ送られることが決まる。

最後の場面は、屋敷の門の外だ。荷物を一つだけ持った瑠璃の前に、作業着の大柄な男が立っている。男は名乗らずに言う。

「送っていこうか」

「……あなた、誰」

「昔、あなたを抱いていた者だ」

一枚絵には、日に焼けた男の横顔が描かれている。

エンディングの一枚絵で、瑠璃は船の甲板に一人で立っている。背中しか描かれていない。

瑠璃の本当の父親が誰なのか、ゲームは最後まで言わない。プレイヤーのあいだでは、宗一郎の子だろうと言われている。

　＊

天導瑠璃は、このゲームの悪役の令嬢である。

黒い髪を結い上げた、目のきつい少女で、取り巻きを連れて学院の廊下を歩く。転入してきた澪の靴を池へ投げ、下級生の小暮を階段で押す。一臣の婚約者で、本家の跡取りで、誰にも頭を下げない。

ゲームの中で、瑠璃が澪を憎む理由は、数行でしか語られない。

事件の前の年、九つの夏に、瑠璃は星見荘の岸で、番人の娘の澪と一度だけ遊んだことがある。二人で貝殻を拾い、虹色の殻を分けた。一年後、湖の夜が来た。瑠璃は、本家のおじさまが死んだのは番人の見回りが足りなかったからだ、と母に教えられて育つ。六年後、学院で再会した澪は、瑠璃にとって、おじさまを死なせた番人の娘だった。一度遊んだことのある子だったから、なおさら裏切られたように思えたのだろう、と画面の外の多くのプレイヤーが書いた。

発売のあと、いちばん多く語られたのは、どの恋の場面でもなく、門の外の一枚だった。瑠璃は十歳のとき、母に薬を飲まされて、暗い舟屋に置かれた子だった。その母をかばって帳面を焼き、それで全部を失った。ゲームの中で、瑠璃もあの夜の被害者だったと口にする人はいない。遼の一行だけが、少しそこに触れる。

　＊

湖の夏の人々

年齢は、湖の事件の夏（瑠璃十歳）のもの。ゲームの本編は、その六年後から始まる。

　小野澪　十一歳
　　星見荘の番人の娘。このゲームの主人公。日に焼けた健康な子で、木登りと水泳が得意。短めの髪。人をまっすぐに見る。何でも自分で確かめたがる。
　小野弥吉　四十二歳
　　星見荘の番人。澪の父。日に焼けて、首と腕が太い。毎朝、桟橋を見回る。
　天導瑠璃　十歳
　　分家の娘。のちの本家の跡取りで、悪役の令嬢。黒髪を肩で切りそろえ、目の形が母に似てきつい。頬にはまだ丸みがある。本家のおじさまが好きで、星の間に入れてもらえる、ただ一人の子ども。誕生日は四月二十日。
　天導藤乃　三十四歳
　　瑠璃の母。分家の生まれで、初代の血を引かない。細身で背が高く、切れ長の目。華やかな色の着物を好み、いつも香の匂いがする。
　天導恭介　四十一歳
　　瑠璃の父。分家の婿養子で、造船技師。大柄で指が太く、日に焼けている。無精ひげ。低い声で、「わし」「〜とる」と話す。
　天導宗一郎　三十八歳
　　本家の当主。瑠璃の「おじさま」。痩せて背が高く、穏やかな顔。髪には早くから白いものが混じる。時計と船の模型をいじる指先が器用。二年前の春に最初の妻・百合子を病気で亡くし、この年の十月に静子と再婚する予定だった。
　百合子
　　宗一郎の最初の妻。病弱で、子はなかった。瑠璃が八つの春に亡くなった。ゲームの中では名前しか出てこない。
　静子　二十七歳
　　宗一郎の婚約者。背が高く、髪をきっちり結う。荷物は人に持たせず、自分で持つ。
　天導貞光　四十四歳
　　分家の当主。藤乃の兄。一臣の父。瑠璃の後見人になる。恰幅がよく、赤みのある顔。目の形だけが藤乃と同じ。人前で声を荒らげない。
　天導一臣　十六歳
　　貞光の息子。攻略対象。瑠璃の六つ上の従兄で、のちに婚約者。背が高く、無口で、眉がまっすぐ。いつも本を持っている。
　蘆田慎　十五歳
　　侍医・蘆田医院の院長の息子。攻略対象。眼鏡。柔らかい声。詩集を持ち歩く。
　早瀬遼　十八歳
　　帝都日報の見習い。のちに記者。攻略対象。癖毛で日焼けしていて、よく動き、声が大きい。記者の帽子と手帳。
　お絹　二十八歳
　　瑠璃付きの女中。小柄で丸顔。よく笑う。前掛けの紐をきゅっと結ぶ。
　フミ　五十八歳
　　古参の女中。瑠璃が生まれたときから世話をしている。
　三村　五十歳
　　宗一郎の弁護士。依頼人の秘密を守る。
　佐伯　五十五歳
　　本家の家令。家の支払いの帳簿を年ごとに綴じて保管している。
　辰巳　二十八歳
　　貞光の商会の手代。貞光の使いで方々へ出る。

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# 第一編　ミステリー編

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# 第一話　舟屋で目を覚ます

八月十六日、未明。

最初に分かったのは、板の匂いだった。水を吸って乾き、また吸った木の匂い。次に、頬の下にある毛布の目の粗さ。三番目に、頭の重さ。

目を開けても暗かった。目が慣れるまで、数を数えた。三十まで数えたところで、屋根の隙間から入る細い光が見えた。月の光だった。光は斜めに床へ落ち、そこだけ板目が白く浮いていた。

外で男の声がした。

「旦那様が、桟橋から――」

続きは水音と、別の誰かの叫び声で消えた。足音が二つ、三つ、板の上を走っていく。金具が杭に当たる音が、遠くで何度も鳴った。舟を繋いだ鎖の音だろう、と思った。

起きようとして肘をついたところで、私は一度止まった。身体が小さい。肘から手首までの長さが、私の知っている腕の三分の二ほどしかない。指を開くと、爪が小さく丸かった。

そこで、二つの記憶が同時に来た。

ひとつは、この身体の持ち主のものだった。天導瑠璃、十歳。帝都の天導家、その分家の娘。毎年八月は、湖の別荘・星見荘で盆を過ごす。昨日は十五日で、灯籠流しの宴があった。

もうひとつは、別の女のものだった。白石澄、二十九歳。損害保険会社の事故調査部に七年いた。車両事故、火災、工場での転落。現場を見て、写真を撮り、関係者に話を聞き、報告書を書く。報告書の一行目には、いつも日時と場所を書いた。

白石澄の最後の記憶は、火曜の夜の帰りの電車だった。その先はない。どうしてここにいるのかは分からない。分からないことは、分からないと書く。それが仕事だった。

分かっていることを先に並べる。

私は、この名前を知っている。

休日に遊んでいた乙女ゲーム『帝都恋綺譚』の、悪役の令嬢の名前だ。十八歳の成年披露の夜、主人公の小野澪に断罪される人。エンディングの一枚絵で、瑠璃は船の甲板に一人で立っていた。背中しか描かれていなかった。

私は毛布の上で自分の手を見た。あの背中の、八年前の手だった。

　＊

ゲームがこの夜に割いた分量を、私は覚えている。TRUEルートの終盤、回想の一枚絵が一枚と、地の文が十数行。何度も読み返したから、ほとんど暗唱できる。

ゲームでは、この夜は事故として処理され、八年後に澪が真相を明らかにする。そのあいだの十七歳の冬に、ゲームの瑠璃は母の家計簿と弁護士の封書を暖炉で焼く。

私はその記録を三度、頭の中でなぞった。それから、仕事のときと同じ問いを立てた。この記録は、誰が、何を見て書いたものか。

答えは簡単だった。ゲームは澪の目で語られる。湖の夜の舟屋の中は、画面に出ない。十一歳の澪はこの夜、番人小屋で寝ていたはずだ。舟屋の中を見た者は、記録の中に一人もいない。

もう一つある。記録の真相は、焼かれたあとに残った紙で組み立てられている。家計簿と封書に何が書いてあったのか、ゲームは一行も見せなかった。瑠璃が焼いた、という事実だけが残っている。

燃えた書類を抜いて出された結論を、私は仕事で何度も見た。たいていは間違っていない。そして、たいていは全部ではない。

だから、今言えることは少ない。ゲームでは、この夜はこう終わる。ゲームは、それ以上のことを保証しない。

　＊

外の声は増えていた。

「舟を出せ」

「番人はどこだ。小野はどこにいる」

二つ目の声は伯父のものだった。低く、よく通る。十歳の瑠璃の耳が、それを覚えていた。

私は四つ這いで床を進んだ。脚に力が入らない。膝が板に当たるたびに、頭の奥が遅れて揺れた。薬だ、と白石澄が言った。酒でも熱でもない。事故を起こした運転手の聴取で、同じ揺れ方をする人を何人も見た。まぶたが重く、言葉の前に一拍空く。

舟屋の戸は半分開いていた。隙間から湖が見えた。

黒い水面に灯籠が浮いていた。数えた。岸に近いところに七つ。沖へ流れていくものが、見える範囲で十一。桟橋の杭に引っかかっているものが二つ。合わせて二十。そのうち三つは火が消えていた。現場に着いたら、まず動いているものを数える。止まってから数えても、動いていたときのことは分からない。

沖の灯籠は、岸からずいぶん離れている。流されてから時間がたっている。騒ぎのほうは、今始まったばかりの声だった。灯籠が流れてから人が騒ぎ出すまでに、間がある。私はその間を覚えておくことにした。意味は、まだ分からない。

桟橋は舟屋の右手、三十歩ほど先から湖へ延びている。付け根に提灯が四つ集まっていた。人影は六つか七つ。先端のほうには灯りがない。灯りの届くところまでで、桟橋の板は途切れていた。途切れた先の水の上に、何かの影が斜めに突き出ている。折れた柱の上半分だと思った。

救命舟は、まだ桟橋の脇に繋がれたままだった。

私は戸から手を離した。

十歳の脚で走っても、あの水には届かない。届いたところで、何もできない。ゲームでは、宗一郎が見つかるのは朝だ。その一行を、私は信じたくなかった。信じたくないことと、外れることは違う。

星見荘の大時計が、遠くで一つ鳴った。一時。

おじさま、と瑠璃の口が勝手に動いた。

本家のおじさまは、毎年、私に星の話をしてくれた。痩せて背の高い人で、髪にはもう白いものが混じっていた。帝都の屋敷に時計ばかりの部屋があって、そこへ入れてもらえる子どもは私だけだった。おじさまの指は、時計の裏蓋を開けるときも、私の髪に何かを留めるときも、同じように器用に動いた。去年の誕生日には、銀の星の髪飾りをくれた。十歳の瑠璃の記憶には、そういうことが細かく、たくさんあった。

白石澄は、その人を画面の中の一行でしか知らない。

どちらの記憶も、あの人は今夜もう戻らないと言っていた。

涙は出なかった。薬のせいかもしれないし、そうでないのかもしれない。

　＊

私は床に座り直し、仕事の手順に戻った。現場は、最初に入った者が壊す。だから、壊される前に見る。

月の光が落ちている範囲で確かめられたことは、次のとおりだった。

- 舟屋の床板は、戸口から三歩ぶんが湿っている。湖の飛沫と夜露。戸口の砂が、湿った板の上に筋になって残っている。
- その湿った板の上に足跡がある。大人の草履の跡が、戸口から私の寝ていた場所まで往復で一筋。形のはっきりしたものが五つ。
- 私の足跡はない。私の足袋の裏は白く乾いていて、砂が一粒もついていない。
- 私は、網の束の上に重ねた毛布に寝かされていた。頭の下に、もう一枚丸めてあった。
- 口の中が甘い。糖蜜の甘さで、奥に少し苦みがある。宴で子どもに出されるのは冷やした麦湯で、糖蜜ではない。
- 毛布から香の匂いがする。白檀に、花のような甘いものが混じった匂い。

最後の一つは、十歳の瑠璃がよく知っている匂いだった。母の部屋の匂いだ。

私はそこで、考えを先へ進めるのをやめた。

足跡が言うのは、私が自分で歩いてここへ来たのではない、ということだけだ。毛布の匂いが言うのは、この毛布が母の部屋を通った、ということだけだ。誰が私を運んだか。誰が糖蜜を飲ませたか。物はそこまでは言っていない。

ゲームは、母が兄に命じられて娘を眠らせた、と言う。私の見た物は、それと矛盾しない。矛盾しないことと、裏が取れたことは違う。

宴の最後の記憶を探した。

提灯の下の縁台。母の隣。向かいに伯父と、本家のおじさま。一臣さまは少し離れて湖を見ていた。背の高い、口数の少ない従兄で、宴の席でも膝に本を置いていた。

父の席は空いていた。夕方、本社から至急帰れという電報が来て、父は五時の汽車で帝都へ戻ったのだ。行きたくないなあ、と父は日に焼けた大きな手を私の頭に置いて言った。それが、十歳の瑠璃の覚えている最後の父だった。

お絹が女中頭に呼ばれ、台所へ立った。すぐ戻ります、と言った。

その先がない。

お絹が戻ったのか、戻らなかったのか。私は灯籠を流したのか。何を飲んだのか。十歳の瑠璃の記憶は、糸が切れたようにそこで終わっていた。

切れた場所を覚えておくことにした。調査でいちばん大事なのは、たいてい、証言が途切れる場所だ。

　＊

外で女の声がした。

「瑠璃！　瑠璃はどこ！」

声は近づいてきて、舟屋の前で止まった。戸が大きく開いた。提灯の光が、真正面から私の目に入った。

母だった。

天導藤乃。三十四歳。細身で、女にしては背が高い。切れ長の目をしていて、その形は、十歳の瑠璃が鏡で見慣れた自分の目と同じだった。髪が片側だけほどけて、肩に落ちていた。宴のために着た、紅と白の大きな花の浴衣に、薄物を羽織っている。その袖が片方ずれていた。提灯を持つ手が震え、光が床の上で揺れた。

母は提灯を床に置き、膝をついて私を抱きしめた。

強い腕だった。座り込んだ十歳の身体は、膝をついた母の胸にちょうど収まった。母の胸は熱く、心臓が速く打っていた。毛布と同じ香の匂いがした。母は泣いていた。声を殺さずに泣いていた。瑠璃、瑠璃、よかった、よかった、と何度も言った。外の男たちにも聞こえる声だった。

私は母の肩越しに戸口の床を見ていた。提灯の光で、さっきの足跡がよく見えた。母はその上に膝をついていた。五つのうち二つが、母の膝の下になった。

現場は、最初に入った者が壊す。

母の腕が少しゆるんだ。泣き声が一度途切れた。母は私の髪を撫で、そのまま唇を私の耳に寄せた。

「何も覚えていないわね」

小さな声だった。問いの形をしていなかった。外には届かない声だった。

十歳の瑠璃なら、何と答えただろう。母が怖いとき、瑠璃はいつも、母の欲しい答えを先に探した。

白石澄は、別のことを考えていた。ここで「覚えています」と答えた子どもが、この先どう扱われるか。ゲームは何も言っていない。ゲームにないことを、今の私は予測できない。

それに、私は本当に何も覚えていない。お絹が台所へ立ったところから先は、何も。

「はい」

と私は言った。

母はもう一度、私を強く抱いた。それから、また声を上げて泣いた。外に聞こえる声で。

　＊

母は私を立たせようとした。膝が言うことをきかなかった。母は私に背を向けてしゃがみかけ、途中でやめて、戸の外へ言った。

「誰か来て。この子が歩けないの」

村から手伝いに来ていた男が一人走ってきて、私を背負った。汗と、湖の水の匂いがした。母は男の横を歩き、私の手を握って離さなかった。

舟屋を出たとき、大時計が半を打った。一時半。

桟橋の付け根に人が増えていた。救命舟は、ようやく水に出ていた。櫂を握っているのは、番人の小野さんだった。四十過ぎの、首の太い人だった。番人小屋から走ってきたのか、寝間着の上に何も羽織っていない。舟の灯りが、折れた桟橋の先の水を行ったり来たりしていた。

「番人を呼んでも来なかった」と、伯父が誰かに言っていた。「あれだけ呼んだのに」

小野さんの舟の灯りは、何も見つけなかった。

私は男の背中から、湖の灯籠をもう一度数えた。火の消えたものが五つに増えていた。

ゲームのとおりなら、あの人は朝まで見つからない。小野さんは秋までに職を失い、父は帰ってこない。私は母の手で育てられ、八年後、成年披露の夜に断罪される。

失ったものを、報告書の損害の欄のように並べた。おじさま。父。番人の一家の暮らし。それから、まだ起きていない八年分の私。

十歳の瑠璃は、知らない男の背中で、母の手を握り返していた。その内側で、私は報告書の一行目を書いた。

八月十六日、午前一時。星見荘、舟屋。

調査は、ここから始まる。今度は、何も焼かずに済む方法で。

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# 第二話　良い子の方針

八月十八日から、翌年の三月まで。

　＊

宗一郎の遺体は、八月十六日の朝六時過ぎに見つかった。ゲームのとおり、桟橋の杭のあいだだった。

葬儀は十九日に帝都の本家で行われた。墓は、二年前の春に亡くなった奥様の百合子さまの隣に決まった。百合子さまは長く病気で、十歳の瑠璃の記憶の中では、いつも奥の間の障子の向こうにいる人だった。八つの春の葬儀で、瑠璃は白い菊を一本持たされた。私は母の隣に座り、焼香の順番を待った。前に三十人ほど並んでいた。そのうちの十一人が、焼香を終えて席へ戻る途中で、一度だけ私のほうを見た。

見られた回数を、私は数えた。現場で人の目の向きを数えるのは、調査の癖だった。数えておけば、あとで比べられる。

十一人のうち、七人は私を見てから母を見た。四人は私だけを見て、すぐに目をそらした。

四人のほうの目を、私は覚えておくことにした。あれは、迷子になった子のせいで人が死んだ、と思っている目だった。仕事で何度も見た。事故の原因が子どもにあると聞いた大人は、子どもを責めないように気をつけながら、子どもを見る。

一人だけ、誰のほうも見ずに焼香を終えた人がいた。背の高い女の人で、髪をきっちりと結い上げ、供えの包みを付き人に渡さずに自分で持っていた。静子さまだった。去年の冬、おじさまとの婚約の披露で、九つの瑠璃は一度だけこの人に挨拶をしていた。十月に本家へ入るはずだった人だ。

父は、葬儀の席にいなかった。

父が帝都に着いたのは十六日の朝で、本社で電報の件を確かめたあと、湖へとって返した。星見荘に着いたのは十六日の夜だった。そのときにはもう、宗一郎は運び出されていた。父は十七日と十八日、湖で警察と村の人に話を聞かれ、葬儀には間に合わなかった。

そう聞いたのは、十九日の夜だった。聞かせてくれたのは、お絹だった。

お絹は私付きの女中で、小柄で、顔が丸い。いつもは前掛けの紐をきゅっと結んで、よく笑う。その夜は笑っていなかった。

「旦那様は、電報を持って帰っておいででした。本社は、そんな電報は出していないと」

「電報を」

「はい。旦那様は、警察の方にもそうおっしゃったそうです。でも」

お絹はそこで口をつぐんだ。

「でも？」

「……お嬢様を置いて湖を離れたのは本当だから、と。そう言う人がいるのです」

私は礼を言った。お絹は、お嬢様に礼を言われるようなことは何も、と言って下がった。

その夜、私は帳面を一冊もらった。学院で使う習字の帳面の余りだと言って、古くからいる女中のフミが持ってきてくれた。私はそれを枕の下に入れた。表紙には何も書かなかった。

書く前に、鏡台の前に座った。舟屋の夜から、自分の顔をまだちゃんと見ていなかった。

黒い髪を肩で切りそろえた女の子がいた。目の形がきつい。母の目だった。頬にはまだ丸みが残っていて、その丸みのせいで、きつい目が少しだけ子どもの顔に収まっていた。泣いたあとのように、まぶたが腫れていた。泣いた覚えは、私にはなかった。

最初の頁に、白石澄の字で書いた。鉛筆は、十歳の瑠璃の左手に収まった。白石澄は右で書く人だった。左の手は、澄の書き癖を半分しか再現しなかった。

　八月十五日　電報　本社は出していない（父・お絹）
　八月十五日夜　宴　お絹台所へ　以後の記憶なし
　八月十六日一時　舟屋　足跡　大人の草履一筋　私の足跡なし
　同　口中　糖蜜　苦み
　同　毛布　母の部屋の香
　同　母「何も覚えていないわね」

それから、一行空けて書いた。

　迷子の子が、薬を飲んでいたのはなぜか。

ゲームは、この問いに答えている。母が兄に命じられて、娘を眠らせた。答えがあるからといって、問いを消していいわけではない。私はその一行を、帳面の最初の頁に残した。

　＊

九月十五日、親族会が開かれた。

私は出席していない。十歳の子は出ない。話の中身は、あとでいろいろな人の口から少しずつ入ってきた。女中頭が台所で話したこと、佐伯が母に報告したこと、母が私に言い聞かせたこと。それをつなげると、次のようになった。

　父は、宗一郎の死について責めを問われた。娘を置いて湖を離れたこと、見回りを番人任せにしていたこと。
　父は、偽の電報のことを言った。親族会は、それを調べるとは言わなかった。
　父は、血の検査の紙を見せられた。娘の血液型と、自分の血液型が合わないことを示す紙だった。この帝都では、血の型を調べるのはまだ新しい学問で、子どもの血まで調べてある家は珍しい。父は、その場で否認の書類に署名した。
　父は、家を去ることになった。
　私は、本家の養女になることが決まった。宗一郎の遺志だと説明された。
　私の後見人は、伯父の貞光になった。

最後の一行を聞いたとき、母は台所の横の廊下で、湯呑を落とした。私はそれを、階段の上から見ていた。湯呑は割れなかった。母は拾い上げて、しばらくそのまま立っていた。

母は、後見人になるつもりでいたのだろうか。

ゲームには、この場面はなかった。ゲームは、澪の目で書かれている。十一歳の澪は、この廊下にいなかった。

私は帳面に書いた。

　九月十五日　後見人は伯父　母は湯呑を落とした（知らなかった？）

括弧の中に疑問符をつけた。知らなかったから落としたのかもしれない。知っていたが、決まったことに耐えられなかったのかもしれない。湯呑一つでは、どちらとも言えない。

父は、その日のうちに家を出た。

玄関で、父は私の前にしゃがんだ。

天導恭介。四十一歳。大柄な人で、しゃがんでも、十歳の私の目より頭が高かった。日に焼けた顔に、剃り残しの無精ひげがあった。造船所で図面を引き、船台にも上る人の手は、指が太かった。背広は、この人にはいつも少し窮屈そうに見えた。その肩が、少し濡れていた。雨が降っていた。

「瑠璃」

「はい」

「父さんは、しばらく遠くで働く」

「はい」

「お前は、この家の子だ。そう決まった。いい子にしとれ」

父はそれだけ言って、私の頭に手を置いた。十五日の夕方、行きたくないなあ、と言ったときと同じ置き方だった。

十歳の瑠璃は、父の袖を掴んだ。白石澄は、それを止めなかった。掴んだ袖を、父はそっと外した。

「手紙を書きます」

私は言った。

父は、少し驚いた顔をした。

「字が書けるのか」

「書けます」

「そうか。じゃあ、待っとる」

父は雨の中へ出ていった。傘は差していなかった。

　＊

九月の終わり、私は方針を立てた。

帳面の二頁目に、白石澄の字で書いた。調査計画書の書式で。

　目的　十八歳の成年披露の夜に、断罪されないこと。

　断罪の理由（ゲームの記録）
　　一　学院での虐め
　　二　十七歳の冬、母の家計簿と弁護士の封書を焼いたこと

　方針
　　一　虐めない。これまでにした分は、謝る。
　　二　焼かない。家計簿と封書は、見つけても焼かない。
　　三　十八歳で澪が真相を明らかにするとき、澪の側に立つ。伯父の罪を明らかにする証拠を、澪に渡す。

　残る問題
　　迷子の子が、薬を飲んでいたのはなぜか。

書いてから、私はそれを三度読み返した。

悪くない計画だと思った。ゲームの瑠璃が断罪されたのは、ゲームの瑠璃がしたことのせいだ。したことをしなければ、断罪の理由は二つとも消える。消えれば、残るのは伯父の罪だけだ。伯父が罰を受け、母は従犯として扱われ、私は何もしなかった子として残る。

悪くない計画だった。

ただ、白石澄は、七年の仕事で一つだけ確かに学んだことがあった。

原因を取り除かない予防策は、たいてい、時期をずらすだけで終わる。

私はその一行を、計画書の余白に小さく書いた。書いてから、何の原因のことなのか、自分でもはっきりとは分からなかった。分からないまま、書いたものは消さなかった。

　＊

十月、学院へ戻った。

十歳の瑠璃は、学院で嫌われていた。ゲームでは、それは瑠璃が澪を虐めたからだった。でも、澪が来るのは六年も先だ。瑠璃はそれより前から、嫌われていた。

門で、皆が道を空けた。避けたのではなく、道を空けた。よく躾けられた動き方だった。

休み時間、私は十歳の瑠璃の記憶を探した。探すと、三人の顔が出てきた。

一人目は、下級生の小暮。階段で押した。落ちはしなかったが、膝を擦りむいた。
二人目は、同級の河合。筆箱を窓から庭へ捨てた。
三人目は、上級生の水野。水野の家の商会が天導の船から荷を外されたと聞いて、皆の前でそれを笑った。

十歳の瑠璃は、三つとも覚えていた。覚えていて、悪いことをしたとは思っていなかった。瑠璃の記憶の中で、三つとも、母に褒められたあとの日だった。母に褒められた日の瑠璃は、誰かを押したくなった。

私は、その記憶を帳面に書かなかった。調査の記録ではないと思った。

三人には、一人ずつ謝った。

小暮は、泣いて逃げた。河合は、「別に」と言って、目を合わせなかった。水野は、しばらく私を見てから、「あなたが謝るとは思わなかった」と言った。

三人とも、許してはくれなかった。許されたと思うな、と私は自分に言った。謝られた側は、謝った側が軽くなるのに付き合う義務はない。

それでも、謝ったことは、断罪の夜に数え上げられる行を一つずつ減らす。私はそう考えた。考えてから、それが謝罪ではなく勘定だと気づいた。気づいても、勘定はやめなかった。

　＊

十一月、父に手紙を書いた。

宛先は知らなかった。父がどこへ働きに行ったのか、誰も教えてくれなかった。母に訊いた。

「お父様に、手紙を出したいのですが」

母は、少し黙った。

「書いたら、私に渡しなさい。出しておきます」

私は書いた。十歳の字で、便箋一枚。お元気ですか。学院は始まりました。いい子にしています。

母に渡した。母は封筒を袂に入れた。

十二月にもう一通書いた。一月にもう一通。

返事は来なかった。

二月、帳面に書いた。

　父への手紙　三通　すべて母に渡す　返事なし

一行空けて、書いた。

　父が返事を書かない理由
　　一　父は私を待っていない（「待っとる」と言ったが）
　　二　手紙が父に届いていない
　　三　父が返事を書いたが、私に届いていない

三つ書いて、私はペンを止めた。

二と三を確かめる方法は、十歳の私にはなかった。郵便局へ一人で行くことはできない。父の住所も知らない。

私は、いちばん確かめにくい一を、いちばん信じやすいものとして選びそうになった。父は私を待っていない。家を去った人なのだから。

白石澄は、それを止めた。確かめていないことを、いちばん楽な形で信じるな。

私は、三つとも消さずに残した。

三月、四通目を書いた。母に渡した。

母は、それを袂に入れながら、私の頭を撫でた。

「あなたは、いい子ね」

私は、はいと答えた。

その夜、帳面の最初の頁を開いた。

　迷子の子が、薬を飲んでいたのはなぜか。

その下に、半年ぶりに一行を書き足した。

　母は、私が書いた手紙を、全部預かっている。

それが何を意味するのかは、まだ書かなかった。書けるだけの物が、まだなかった。

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# 第三話　帳簿を読む子

十二歳の春から、十四歳の冬まで。

　＊

十一歳の春、母と私は本家へ移った。

十二歳の四月、佐伯の帳簿の整理を手伝わせてもらうことになった。

きっかけは、算術の成績だった。学院の教師が、天導さんは数字の並びを見るのが上手い、と母に言った。母は喜んだ。母は、私が褒められると、そのたびに少し長く私の髪を撫でた。

「佐伯の手伝いをしてごらんなさい。家のことを覚えるのは、あなたのためになる。見るのは、本家の帳簿だけでいいの。私の帳面は、私がつけます」

母は、私の手の届く帳簿を、先に決めた。

佐伯は本家の家令で、五十を過ぎた、口数の少ない人だった。背が高く、白髪まじりの頭をきちんと撫でつけていた。本家の支払いの帳簿を、年ごとに綴じて保管している。私はその綴じ直しと、古い帳面の目録作りを任された。

最初の日、佐伯は私に言った。

「帳簿は、書いた者の癖が出ます。癖を覚えると、どこが違うかが分かります」

「違う、というのは」

「いつもと違う書き方をしているところです。急いでいたか、人に言われて書いたか。そういうところには、たいてい、あとで訊かれることがある」

白石澄は、その言葉を気に入った。仕事で先輩が同じことを言っていた。領収書の束は、書いた者の癖で読め。

　＊

十二歳の夏、私は八月の帳簿に辿り着いた。

二年前の、湖の年の帳簿だった。私は佐伯のいない時間に、それを開いた。開く理由は、目録作りだった。目録を作るには、中を見なければならない。

八月の頁は、他の月より行が多かった。葬儀の費用、湖からの運送、弔問客への返礼。

十五日の欄に、一行だけ、他と違う字があった。

　車代　辰巳　帝都往復

辰巳は、伯父の商会の手代だった。湖の年に二十八で、商会の帳場より、伯父の用事で方々へ使いに出ていることのほうが多い男だった。盆の湖行きの費用は、毎年本家が持つ。だから分家の者の車代も、本家の帳簿に載る。

十五日は、湖の宴の日だ。伯父は十二日から湖にいた。十五日に精算された、辰巳の帝都往復の車代。辰巳は、その日、湖にいなかったのかもしれない。

私は帳面を開いたまま、しばらくその一行を見ていた。

父に電報が来たのは、十五日の午後三時だった。本社から、至急帰京せよ。本社はそんな電報を出していなかった。

電報は、どこかの電信局から打たれている。受け取った紙には、打った局の名が入る。湖の近くの局から打てば、局の名で分かってしまう。本社から打ったように見せるには、本社のある帝都の局から打つしかない。

誰かが、十五日に、帝都にいなければならなかった。

私は目録の用紙に、何も書かなかった。その夜、自分の帳面に書いた。

　湖の年　八月十五日　本家支払帳　車代　辰巳　帝都往復
　辰巳＝伯父の商会の手代
　偽電報は帝都から？（未確認）

ゲームでは、伯父が偽電報を打たせたことになっていた。この一行は、それと矛盾しない。矛盾しないことと、裏が取れたことは違う。けれど、一つの紙が、ゲームと同じ方向を指していた。

私はそれを、少しだけ嬉しいと思った。嬉しいと思ってから、人が一人死んだ日の帳簿を読んで嬉しがっている自分に気づいて、帳面を閉じた。

　＊

十二歳の秋、母に珈琲の淹れ方を教わった。

母の居間で、宗一郎が外国から持ち帰った挽き具を使った。母は挽き方を細かく教えてくれた。私が淹れたほうは薄かった。

「薄い」と母は言った。「でも、湯の落とし方は上手」

母は窓のほうを向いて、それから、低い声で話し始めた。

兄に後見を奪われたこと。自分の生まれた分家には初代の血がないこと。この家では、自分は最後まで客だということ。宗一郎は、決めない人だったこと。

「奥様が亡くなってからも、あの人は何も決めなかった」と母は言った。「家の決めた方を、家の決めた日にお迎えすることにしただけ。決めたのは、あの人ではないの」

奥様というのは百合子さまで、家の決めた方というのは静子さまのことだった。百合子さまが亡くなったのは、私が八つの春。おじさまと静子さまの婚約が決まったのは、九つの冬。十歳の瑠璃の記憶の中で、その二つは、大人たちが声を低くして話していた季節として残っていた。

十歳の瑠璃なら、この話を聞いて泣いただろう。母がかわいそうだと思っただろう。

白石澄は、話を聞きながら、話の形を見ていた。

母の話には、日付がなかった。いつ兄に何を言われたのか。いつ何を知ったのか。母は「あの年」「あのとき」とだけ言った。日付の代わりになっていたのは、奥様が亡くなってから、という一か所だけだった。そして、母の話の中で、母はいつも何かを奪われる側にいた。

本人の話は、本人に都合がいい。私もそうだ。調査の聴取で、自分を悪く言う人はいない。悪く言わないことは、嘘をついていることと同じではない。ただ、それだけで事実の場所に置いてはいけない。

「かわいそう」

十歳の瑠璃の声で、私は言った。

母は、少し笑った。

「あなたは優しい子ね」

その夜、帳面に書いた。

　十二歳秋　母の話　兄に後見を奪われた　日付なし
　　「奥様が亡くなってからも、あの人は何も決めなかった」
　　何を決めなかったのか　（未詳）
　母は「知らなかった」とは言っていない

最後の一行を、私はしばらく見ていた。母は、奪われたとは言った。知らなかったとは、一度も言わなかった。

　＊

十三歳の秋、天導一臣が、婚約のことを先に私に言いに来た。

伯父の息子で、十九歳。背が高く、眉がまっすぐで、口数が少ない。本家へ来るときも、たいてい一冊、本を小脇に抱えていた。分家の商会の仕事をしていて、月に何度か帳簿を届けに本家へ来る。私は挨拶をするだけの間柄だった。

「父たちが、あなたと私の婚約を進めようとしている。嫌なら、私の父に言う」

ゲームの一臣は、婚約者の瑠璃に冷たかった。婚約は父たちの取り決めで、一度も話したことがない、と澪に言う人だった。

目の前の一臣は、話しに来た。

私は、少し考えさせてください、と言った。彼は、いくらでも、と言った。

その夜、帳面の三頁目に、小さく書いた。

　一臣　ゲームと違う

それから、その行を線で消した。調査の記録ではないと思った。消した線の下で、字はまだ読めた。

　＊

十四歳の冬、母の家計簿を見つけた。

探していたわけではなかった、と言えば嘘になる。ゲームの瑠璃は、十七歳の冬に母の家計簿を焼く。焼くためには、それがどこにあるのかを知っていなければならない。瑠璃は知っていた。なら、この家のどこかにある。

私は二年かけて、母が留守のときに、母の居間を一か所ずつ見た。見て、何も動かさずに出た。

文机の二段目には古い鉄の錠がついていて、違い棚の小箱にあった鍵で開いた。

見つけたのは、その奥だった。藍色の表紙の、古い帳面。表紙の年号は、湖の年だった。

家計簿だった。母の字で、呉服、炭、氷、書生の月謝、車代。几帳面な字で、月の合計まで出してある。

同じ字で、別の記入があった。

　四月　薬
　四月　薬
　五月　薬
　五月　薬
　六月　薬
　七月　薬

七月の欄の余白に、四つの語。

　八月　湖　灯籠　舟屋

私は、帳面を持ったまま、しばらく動かなかった。

ゲームでは、母は兄に命じられて娘を眠らせた。兄が妹に計画を持ちかけたのが、いつだったか。ゲームははっきりとは言っていなかった。ただ、伯父が親族会の三人に根回しを始めたのは、七月だった。澪の手に渡る伯父の下書きの日付が、七月だから。

薬は、四月から買われていた。

私は、帳面の最初の頁の問いを思い出した。迷子の子が、薬を飲んでいたのはなぜか。

その下に、何を書き足すべきか、私にはもう分かっていた。分かっていて、ペンを取らなかった。

十歳の瑠璃が、私の中で首を振っていた。

　＊

私は、帳面を持ち出さなかった。

持ち出せば、母は気づく。母は、この帳面が今もここにあるかを、ときどき確かめているはずだ。私が母なら、そうする。気づけば、母は何かをする。何をするかは分からない。分からないことを起こしたくなかった。

焼かないことも、決めてあった。ゲームの瑠璃は焼いた。焼いたから断罪された。

では、どうするか。

本家の星の間には、宗一郎の遺品の写真機がある。蛇腹の、三脚に載せる古い型だ。乾板が何枚か、箱に入ったまま残っている。宗一郎が生きていたころ、私に一度、撮り方を教えてくれた。十歳の瑠璃の記憶に、それがあった。

二月、母が親戚の家の茶会に招かれ、泊まりがけで出かけた夜、私は写真機を母の居間へ運んだ。十四歳の腕には重かった。三脚の脚を一本ずつ伸ばした。灯りを二つ寄せた。

家計簿の四月から七月の頁を開いて、一枚ずつ撮った。乾板は四枚使った。余白の四語が入るように、最後の一枚は少し引いて撮った。

撮り終えて、帳面を元の位置に戻した。文机の二段目の奥。表紙の向きも、元のとおりに。

写真機を星の間に戻したのは、夜中の二時だった。

乾板は、自分で現像しなかった。現像のしかたは知らなかったし、薬品もない。露光した乾板を、黒い紙に包んで、鏡台の底板の下に入れた。像が本当に写っているかどうかは、分からない。分からないまま、底板を戻した。

その夜、帳面に書いた。

　十四歳冬　母の家計簿　文机二段目奥　湖の年
　薬　四月から六回（四月二、五月二、六月一、七月一）
　余白　八月　湖　灯籠　舟屋
　原本はそのまま　乾板四枚　鏡台底

その下に、十歳の瑠璃が覚えている季節と、今夜見た物を並べた。

　八歳の春　　百合子さま亡くなる
　九歳の冬　　おじさまと静子さまの婚約
　十歳の四月　家計簿に最初の「薬」
　十歳の七月　伯父の根回し（ゲームの下書きの日付）
　十歳の八月十五日　湖
　十歳の十月　婚礼の予定　取りやめ

並べてみると、薬が始まったのは婚約の四か月あとで、婚礼の半年前だった。婚約と薬のあいだに何があったのかは、どの紙にも書いていない。

それから、一行空けて、最初の頁の問いの下に書き足した。

　薬は、伯父の根回し（七月）より先、四月から買われている。

書いたのは、それだけだった。

その先の一行――だから母は、兄に命じられる前から動いていた――を、私は書かなかった。

白石澄は、それを書くべきだと言った。物が指している方向を、書かずに置くのは、調査員の怠慢だ。

十歳の瑠璃は、書くなと言った。

私は、二人のどちらにも従わずに、帳面を閉じた。四月の二行は、伯父に言われる前から妹が眠れなかった、ということかもしれない。そういう可能性も、まだ消えていない。消えていないうちは、書かなくていい。

それが言い訳だと、私は分かっていた。

分かっていて、その冬、私はその一行を書かなかった。

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# 第四話　婚約と三つの経路

十五歳の十月から、十六歳の七月まで。

　＊

十五歳の十月、学院の門を出たところで、知らない男に名前を呼ばれた。

「天導瑠璃さんですね」

男は帽子を取った。二十三か四。帽子の下の髪は癖が強く、あちこちへ跳ねていた。日に焼けた顔で、話す前から片足に体重を移したり戻したりしている。背広の肘が擦れて光っていた。差し出された名刺には、帝都日報、早瀬遼とあった。上着のかくしから、角の丸くなった手帳がのぞいていた。

三人目だ、と白石澄が言った。ゲームの攻略対象の最後の一人で、記者。家を去った人たちを探し出す人。

「五年前の湖のことで、少しだけお話を」

「わたしは十歳でした」

「知っています」早瀬さんは帽子を胸に当てたまま言った。声の大きい人が、無理に落としている声だった。「あの年、私は社の見習いで、先輩の鞄を持って湖へ行きました。駐在所で、あなたのお父上が電報を握っていらした。本社はこんなものは出していない、と三度おっしゃった。私はそれを手帳に書きました」

彼は一度、言葉を切った。

「翌朝の記事には、娘を置いて帰京した父、とだけ載りました。電報の話は一行もなかった。書いたのは先輩で、削ったのは部長です。私ではありません。でも、私はその場にいた」

聴取で、こういう話し方をする人を何人か見た。自分の責任の範囲を先に言い、それから、範囲の外のことで苦しんでいる人。

「わたしの話は、記事になりますか」

「……十歳のときの記憶なら、なりません」

「では、話しません」

早瀬さんは少し笑った。怒ってはいなかった。名刺を私の手に残して、帽子をかぶり直した。

父の居場所を知っていますか、と訊きたかった。ゲームで父を見つけ出すのは、この人だ。訊けば、探しに行くだろう。

訊かなかった。記者と話したことが母に知れれば、母は理由を訊く。私はその理由を、母の前で言える形にしていなかった。

名刺は、帳面の裏表紙に挟んだ。

　＊

十六歳になる四月、誕生日の前の週に、一臣さまとの結納が交わされた。

一臣さまは二十二歳になり、分家の商会で船荷の割り振りを任されていた。三年前に婚約の話を先に言いに来た人は、この三年、月に一度は本家へ来て、私と庭を一周して帰った。話すことは、たいてい帳簿のことだった。

結納のあと、池の縁で、彼は言った。

「父は、今日、少し泣いていた」

「伯父さまが」

「君の後見を務めて、もうすぐ六年になる。君を本家の跡取りとして送り出すのが宗一郎様への務めだと、父はずっと言っている。今日でその半分が済んだ、と」

一臣さまは鯉を見ていた。

「十二のとき、父は私を倉へ連れて行って、荷札と帳面を一枚ずつ突き合わせさせた。合わないところを見つけるまで、夕飯を待っていてくれた。父は、人前で声を荒らげたことが一度もない」

私はその倉を思い浮かべた。ゲームでは、伯父の書斎の机に、七月の日付の下書きがある。それを見つけて澪に渡すのは、この人だ。荷札と帳面を突き合わせることを伯父に教わった息子が、いつか、伯父の書いた紙を伯父の言葉と突き合わせる。

「君は、この婚約を自分で決めたのか」

「はい」

嘘ではなかった。ゲームの筋を知っていて、自分で決めた。

「私もだ。父に言われたからではない。それだけは知っておいてほしかった」

ゲームの一臣は、婚約者とは一度も話したことがない、と澪に言う人だった。違いを作ったのは、たぶん私だ。虐めない子は、話しかけられる。

私はこの人の父を告発するつもりで、この人と婚約した。

その一文は、帳面に書かなかった。

　＊

四月の第二週、小野澪が転入してきた。

一学年上、十七歳。村の小学校から推薦を受けた奨学生だと、朝のうちに知れ渡った。午後には、もう一つ知れていた。天導家の湖の別荘の、番人の娘だと。

日に焼けた顔の子だった。短めの髪を、学院の決まりどおり後ろで一つに結んでいる。奨学生の制服は質素で、襟の糊だけが新しかった。教室の入口で名前を言うとき、澪は誰の顔も避けずに、端から順に見ていった。

十歳の瑠璃の記憶に、この子が一度だけいた。九つの夏、星見荘の岸で、日に焼けた女の子と貝殻を拾った。虹色の殻を二人で分けた。女の子は木に登るのがうまかった。

ゲームの瑠璃が、おじさまを死なせた番人の娘として憎む子だった。この六年、母は私にも、おじさまは番人の見回りが足りなくて死んだのだと何度か言った。私は、はい、とだけ答えてきた。

ゲームでは、瑠璃は転入の初日に澪の靴を池へ投げる。

私は投げなかった。その代わり、三日目の昼休み、渡り廊下で上級生の三人が澪を囲んでいるところに行き合った。澪の靴は踵を一度継いであり、一人がその踵を爪先で軽く蹴っていた。

「天導様のお家に、ずいぶんお世話になったんですってね」

私は三人の後ろから言った。

「小野さんに用があります」

三人は振り向き、私の顔を見て、道を空けた。五年前の門と同じ、よく躾けられた動き方だった。

放課後、澪が図書室の私の席まで来た。

「昼のことですが」

「はい」

「天導さんに庇ってもらう理由が、私にはありません。父は、天導の親族会に職を解かれました。それに」

澪は机の縁に手を置いた。指の関節に、古い擦り傷が並んでいた。

「天導さんがあの人たちを黙らせると、あの人たちは、次から天導さんの顔を見て黙るだけです。私の顔は見ません。言い返すのは、自分でできます」

助けたかった、と言えば、それは本当だった。けれど、澪の側に立つという方針が先にあって、その方針のために廊下で声を出したことも、本当だった。

「分かりました」

とだけ言った。澪は頷いて出ていった。

帳面に一行書いた。助けることは、相手の上に立つことでもある。書いてから、保険金を払う側にいたころ、先輩に同じことを言われたのを思い出した。払ってやると思った瞬間に、人は相手の話を聞かなくなる。

　＊

五月、学院の春の身体検査があった。嘱託医は蘆田医院で、院長の蘆田先生に、息子の慎さんが助手としてついてきた。医学校の最後の年だと聞いた。眼鏡をかけた、白衣の袖を一度折り返している人で、白衣のかくしには聴診器と一緒に、薄い詩集が一冊入っていた。声が柔らかく、話すときに急がなかった。

慎さんは本家にも年に二度、父親について来る。母の脈を取るのは父親で、慎さんはその横で帳面に書き取る係だった。去年の秋、私は一度だけ、何を書いているのかと訊いた。

「処方簿です。出した薬と、量と、日付。父は、処方簿は医者の良心だと言います。書いたものは消せない。消せないから、書く前に考える」

その慎さんが、身体検査の日、中庭の楡の下で、澪の足首に包帯を巻いていた。

下級生の帽子が風で枝に掛かり、澪が登って取ったのだという。降りるとき最後の一段を飛んで、足首をひねった。帽子はもう下級生の手に戻っていた。

ゲームにもこの場面はあった。一枚絵つきで。楡、包帯、帽子。

違ったのは澪の顔だった。一枚絵の澪は頬を染めて慎さんを見ていた。中庭の澪は、慎さんの手元から目を離さなかった。

「それ、自分でもできるようになりますか」

「なりますよ。三回巻けば」

慎さんは包帯を一度ほどき、澪の目の前で、もう一度巻き直した。

　＊

六月、学院の慈善会の会計係に、私と澪が選ばれた。算術の一番と二番を、担任が組ませただけだった。

品の半分は天導の商会から出ていた。前の日、一臣さまが荷を届けに来て、私たちの机の前で、荷札と品を一つずつ突き合わせていった。澪はその手つきを、黙って見ていた。

当日の放課後、二人で売上を締めた。私が数え、澪が書いた。合計を出したところで、澪が言った。

「ここ、一銭合いません」

数え直した。澪が正しかった。私が銅貨を一枚、二度数えていた。

「本当ですね。ありがとう」

合計から一銭引いた。澪が帳面の数字を書き直して、少しのあいだ私の顔を見ていた。

「今の天導さんは、普通でした」

「普通、ですか」

「廊下のときは、天導さんでした。今は、普通の会計係でした」

澪は笑わなかった。けれど帰り道が同じ方角だと言って、門まで並んで歩いた。

門の外に、早瀬さんが立っていた。帽子を取り、私ではなく澪に頭を下げた。

「小野弥吉さんの娘さんですね」

私は二人を残して迎えの車に乗った。窓から振り向くと、澪は腕を組んで、早瀬さんの手帳を覗き込んでいた。何でも自分で確かめたがる子の立ち方だった。

その夜、帳面の新しい頁に書いた。

　ゲームの三つの道
　　一臣　伯父の書斎の机　根回しの下書き（七月の日付）　商会の帳簿を任されている
　　慎　　蘆田医院　処方簿　医院の記録を扱う
　　早瀬　家を去った人たち　父とお絹の証言　湖の件を五年抱えている
　　三つの道が澪のところで一つになる（TRUE）

書いてから、長いあいだ見ていた。

ゲームをしていたころ、白石澄はこれを恋の話として読んでいた。誰を選ぶかで、どの証拠が先に澪の手に入るかが変わる。

今は、別の読み方ができた。三人は、もともと証拠に手の届く場所にいた。一臣さまは父親の机に、慎さんは医院の棚に、早瀬さんは五年前の駐在所に。恋が証拠を運んだのではない。証拠の近くにいた人たちが、何でも自分で確かめる子に出会った。

一覧を、もう一度上から読んだ。

どの道にも、母は出てこない。

四本目の道は一覧に書かなかった。書かなくても、どこにあるかは分かっている。私の鏡台の、底板の下だ。

　＊

七月、夏休みの前の日、澪が私を楡の下へ呼んだ。

「父は、三年前の冬に亡くなりました」

知っていた。ゲームにあった。知っている顔をしないように、私は楡の幹を見た。

「肺でした。最後の十日は起きられませんでした。そのあいだに、私宛てに一通書きました」

澪は封筒を出さなかった。持っているとも言わなかった。

「桟橋は毎朝見ていた、と書いてありました。あの年の八月十二日の朝も見た。柱に傷はなかった。自分は見回りを怠っていない。それを、いつか天導の人の前で言ってくれ、と」

澪は私の目を見た。

「天導さんは、舟屋で見つかったんですよね。あの夜のこと、何か覚えていますか」

問いの形をした問いだった。六年前の母の声とは違った。

十歳の瑠璃が、いつものように、相手の欲しい答えを探し始めた。白石澄はその前に、手元の物を数えた。

舟屋の足跡。糖蜜の甘さ。毛布の香。乾板四枚。現像していないから、像が写っているかも分からない。どれも母の方角を指していて、どれも母を名指ししてはいない。

確証のない話を、自分の父親の名誉を賭けている人に渡すわけにはいかなかった。渡せば、澪はそれを確かめに行く。確かめに行く先は、私の母だ。

「少しだけ、覚えています」

と私は言った。

「でも、今は言えません。わたしの覚えていることは、わたしが覚えているというだけです。物で裏が取れたら、小野さんに渡します」

澪はしばらく黙っていた。

「約束ですか」

「約束です」

澪は頷き、楡の枝を見上げた。

「じゃあ、私は先に物を集めます。二年あれば足りると思う」

ゲームでは、足りる。来年のうちに、三つの道から三つの物が、澪のところへ届く。

その夜、私は鏡台の底板を外した。黒い紙の包みは、一年半前に入れたときのまま、そこにあった。

現像しなければならない。物で裏が取れたら渡す、と約束したのだから。

---

# 第五話　設計者は誰か

十七歳の五月から、十月まで。

　＊

五月の日曜日、澪の下宿の二階で、蘆田慎さんが一冊の簿を畳に置いた。

下宿は学院から坂を上がって二十分の古い家で、澪の部屋は六畳だった。窓の下に机が一つ、壁際に行李が二つ。机の上では、村から持ってきたという小さな鉈が、文鎮の代わりをしていた。

私がそこにいたのは、澪に呼ばれたからだった。天導さんにも見てほしい、数字が読めるから、と。去年の会計係のあと、澪は私を、その理由でだけ呼ぶようになった。

表紙には、蘆田医院、処方簿、湖の年の年号、「七月ヨリ十二月マデ」。

「処方簿は半年で一冊です。五年を過ぎたものは、暮れに処分します」と慎さんは言った。「あの年の八月に使っていたこの一冊だけ、父が診察室の戸棚にしまっていました。上半期の簿は、もう蔵へ移したあとでした」

「なぜしまったの」と澪が訊いた。

「天導様のお名前があったから、警察に何か訊かれるかもしれない、と。訊かれませんでした」

慎さんは簿を開いた。頁の端に、糊の黄ばんだ付箋が一枚挟んであった。

　七月十日　天導藤乃様　不眠　抱水クロラール水薬　十日分　前回ニ同ジ

「父は何も言いません。この簿を貸してほしいと頼んだら、黙って戸棚の鍵を渡しました。付箋は、そのときにはもう挟まっていました」

付箋を挟んだのは父親のほうだった。七年近く、戸棚の中で、自分の出した薬の行き先を考えていたのだろう。

「その薬は、苦いですか」

私が訊くと、慎さんは少し驚いてから頷いた。

「ひどく苦くて、匂いもあります。子どもなら、甘いものに溶かさなければ、まず吐き出します」

「子どもが飲んだら」と澪が言った。

「この一回分の三分の一で、朝まで起きません」

澪は私のほうを見なかった。見ないようにしているのが分かった。

私は付箋の最後の一句を見ていた。前回ニ同ジ。前回は、この簿には載っていない。蔵へ移され、暮れに処分された一冊の中にあった。

四月に二回、五月に二回、六月に一回。私はそれを、藍色の表紙の家計簿で見ている。この部屋の三人のうち、私だけが。

口の中が、一瞬だけ甘くなった気がした。

　＊

七月、一臣さまが夜に本家へ来た。帳簿を届ける日ではなかった。

応接間で、彼は立ったまま、上着の内から封筒を出した。

「先月の慈善会で、小野さんに訊かれた。父があの年に書いた手紙が残っていないか、と。私は、父の潔白を確かめるつもりで、書斎の机を見た」

便箋が三枚。同じ文面の下書きで、宛名だけが違った。親族会の長老三人。日付は三枚とも湖の年の七月。

　万一の事あらば、後見の儀、当方にて相務め度く

「万一に備えるのは家の年長者の務めだ、と父なら言う。私もそう思いたい」

彼は一度、息を吸った。

「だが、宗一郎様は三十八で、病気もなかった。十月には婚礼が決まっていた。七月に、何の万一を思って、三人にこれを書く」

私は答えなかった。答えを、彼はもう自分で出していた。

「荷札と帳面を突き合わせろと、父に教わった。……私は今夜、夕飯を食べていない」

「小野さんに渡しますか」

「渡す。私が見つけた物だ。私が見つけたと言って渡す」

便箋を封筒に戻してから、彼は私を見た。

「君は、疑っていたのか。私の父を」

「伯父さまが後見人に決まった日、母が廊下で湯呑を落としました。それを、ずっと覚えていました」

嘘ではなかった。全部でもなかった。一臣さまはそれ以上訊かず、礼をして帰った。

　＊

九月の初め、早瀬さんが二か所から戻ってきた。南の港町、南浦の造船所と、湖の近くの村のお絹の郷里。澪の下宿で、手帳の聞き書きを読み上げた。

父は、造船所で図面を引いていた。

「電報のことは、七年、誰にも信じてもらえなかったと。それから、あの晩自分がいたら、娘がいないと聞いた途端、誰より先に探しに走っていた。それだけは一生悔やむ、と」

誰より先に。私はその言葉を、頭の中で線で囲んだ。

「お父上は、瑠璃さんに手紙を書いたそうです。最初の年から、ほとんど毎月、本家宛てに。返事が一通も来ないので、娘はもう自分を父と思っていないのだろう、と」

十歳の冬、帳面に三つの理由を書いた。一、父は私を待っていない。二、私の手紙が父に届いていない。三、父の返事が私に届いていない。

二と三の、両方だった。一だけが違っていた。

聞き書きの続きを促す声が出るまで、少しかかった。

お絹は、村で荒物屋をしていた。

「台所へ行けと言ったのは女中頭で、女中頭は奥様のお言いつけだと言った。用は氷を割ることだったが、氷はもう割ってあった。戻ると縁台にお嬢様がいなかった。奥様のお席の盆に、小さな銀の匙が一本、糖蜜で濡れていた。お嬢様にだけ出す子ども用の匙だった」

「どうして、そのとき言わなかったの」と澪が訊いた。

「誰にも訊かれなかったから。それと、翌年の春に暇を出されたとき、奥様から紹介状と三年分の給金をいただいた。受け取った日から、言えなくなった、と」

三年分の給金。母の家計簿の几帳面な字で、その額も書かれたのだろうか、と私は思った。

「お二人とも、呼ばれれば人前で同じことを話すそうです」

　＊

九月の終わり、澪は集まった物を畳に一列に並べた。父親の遺書。処方簿。下書き三枚。聞き書き二通。

「来年の四月二十日に出します」

「わたしの成年披露の夜ですね」

「親族の方が全員揃う夜です。父の職を解いたのは親族会だから、親族会の前で出す。どこか一か所で出したら、そこで消されると思う」

ゲームの澪がなぜあの夜を選んだのか、白石澄は画面の前で考えたことがなかった。今は分かった。証拠は、見た人の数だけ消えにくくなる。

「物は、天導貞光様を指しています」

澪は並べた物を順に指で押さえ、それから指を止めた。

「天導さんのお母様のことは、どう思う」

「物は、伯父を指しています」

澪の言葉を、そのまま返した。澪はしばらく私を見て、「分かった」とだけ言い、物を行李に戻した。分かった、の中身を澪は言わず、私も訊かなかった。

　＊

十月の初め、川向こうの写真館へ行った。家の者が誰も行かない町を選び、迎えの車は学院で待たせた。代金は二年かけて貯めた小遣いで払った。何に使ったかまでは、佐伯の帳簿に出ない。

三日後、四枚とも写っていた。

七年前の母の字が、印画紙の上に少し灰色がかって並んでいた。四月、薬。四月、薬。五月、薬。五月、薬。六月、薬。七月、薬。余白に、八月、湖、灯籠、舟屋。少し引いて撮った最後の一枚には、頁の端の氷代と書生の月謝の行まで入っていた。

九月のうちに、佐伯の書庫で二つを確かめてあった。成年の前に家の決まりを覚えたい、と言うと、佐伯は喜んで家憲の写しを桐の箱から出した。もう一つは、湖の年の八月の支払帳だった。

写しを机に並べ、帳面の新しい頁に書いた。

　証拠一覧（出所）
　　小野の遺書　八月十二日朝　柱に傷なし（澪）
　　処方簿　七月十日　藤乃　抱水クロラール　前回ニ同ジ（慎）
　　伯父の下書き　七月　後見の根回し　三通（一臣）
　　父の聞き書き　偽電報　「いたら、誰より先に探しに走っていた」（早瀬）
　　お絹の聞き書き　台所は奥様の言いつけ　銀の匙に糖蜜（早瀬）
　　辰巳の車代　八月十五日　帝都往復（本家支払帳）
　　家計簿の写し　薬　四月から六回　余白の四語（私）
　　家憲　当主は初代の血を引く者（佐伯の書庫）
　　家憲第四条　嫡出の子は認知の子に先んず（佐伯の書庫）
　　湖の年八月　御婚礼御支度　宗一郎・静子　十月予定（本家支払帳）

一覧を三度読み、一段ずつ踏んだ。

一段目は日付だった。処方簿で見えるのは七月だけ。下書きも七月。この二つを並べれば、七月に兄が計画を立て、妹に薬を用意させた、というゲームの筋になる。ゲームの澪も、この二つを並べたのだろう。写しの中では、薬は四月から買われている。

四月の薬が眠れない母のためだった、ということはありうる。十四歳の冬、私はその可能性を理由に一行を書かなかった。けれどそれなら、七月の薬だけが途中で娘へ回されたと、もう一つ仮定を足さなければならない。四月から一つの用途だったと考えれば、仮定は一つ少ない。調査では、仮定の少ない説明から疑う。先に動いたのは、母だった。

二段目は餌だった。この計画は、子どもがいなくなるところから始まる。いなくなれば、大人が探しに出る。探しに出た大人が、切られた桟橋の先へ走る。子どもを眠らせるには、苦い薬を甘いものに溶かし、子どもが疑わずに口を開ける相手の手で飲ませなければならない。眠った子を、宴の最中に舟屋へ運ばなければならない。十歳の子は軽くない。けれど縁台から舟屋までは百歩もなく、背の高い大人なら背負って行ける。舟屋の床の草履の跡は、大人一人の往復だった。伯父が姪を背負って縁台を離れれば、誰かが見て覚えている。母が眠そうな娘を背負って離れても、寝かせに行くのだと誰もが思う。お絹を台所へやったのは母の言いつけで、母の盆に匙があった。毛布は母の部屋の匂いがした。子どもを動かせる者が、この計画の芯にいる。

三段目は電報だった。打ったのは、十五日に帝都を往復した辰巳だろう。打たせたのは伯父かもしれない。けれど、電報が要る、と考えた者は別にいていい。父は、娘がいなくなれば誰より先に走る人だった。父がいれば、桟橋の先へ走るのは宗一郎ではなく父になる。相手を間違えないためには、父を湖から出しておかなければならない。父がそういう人だといちばんよく知っていたのは、十五年同じ家で暮らした妻だ。

四段目は得だった。事故は、誰が得をしたかから調べる。仕事の最初の日に、そう教わった。

親族会は、血の検査の紙で父を出し、私を本家の養女にした。宗一郎の遺志だと説明された。遺志は口では残らない。親族会が従ったのなら、紙で残っている。宗一郎は、自分が死んだときに効く紙を、どこかに残していた。

家憲は初めに、当主は初代の血を引く者、と定めている。初代の血のない子を当主にしない家が、父の子ではないと分かった私を、跡取りとして入れた。私には初代の血がある。父のものではない血が。湖の年に、本家で初代の血を引く大人の男は、宗一郎だけだった。星の間に入れてもらえる子どもは、私だけだった。

家憲の第四条は、嫡出の子が認知の子に先んずる、と言う。十月に婚礼があれば、いつか静子さまの産む子が、私より先に立つ。婚礼のあとでは、宗一郎が死んでも、静子さまが身ごもっているかもしれない。生まれるまで跡取りは決まらない。新しい奥様の家が、死んだときに効く紙をそのままにしておくとも思えない。その紙に値打ちがあるのは、婚礼の前までだった。

宗一郎が結婚の前に死んで得をするのは、私が宗一郎の子である場合だけだ。私が誰の子かを、この世でいちばん確かに知っているのは、母だ。伯父の後見の座に値打ちがあるのも、私が跡取りになると決まっている場合だけで、それを知らなければ根回しは七月に始まらない。伯父に、それを教えた者がいる。

十四歳の冬に並べた季節を、もう一度見た。百合子さまが亡くなったのが八つの春。婚約が九つの冬。薬が十の四月。十二歳の秋、母は、奥様が亡くなってからもあの人は何も決めなかった、と言った。

奥様が亡くなってから婚約までの一年半あまり、母は何かが決まるのを待っていたのかもしれない。決まったのは、家の決めた婚礼だった。その四か月あとに、母は薬を買い始めた。待っていたものが何だったのかは、物は言っていない。私はそれを推測の欄に一行だけ書き、確かめたことの欄には入れなかった。

四つの段の下に、線を引いた。

設計者は、母。伯父は、実行者。

十四歳の冬に書かなかった一行を、三年遅れて書いた。十歳の瑠璃は、今度は首を振らなかった。黙っていただけだった。

　＊

一覧の中で、いちばん得をした者の名前を、もう一度見た。

私だった。本家の跡取りになり、星の間も写真機も、四月には私の物になる。

調査員は受益者を最初に疑う。私は自分の名前を受益者の欄に書き、横に、十歳、薬で眠っていた、と添えた。十歳の子は設計できない。眠っていた子は実行できない。そう書いて、自分を欄から外した。

外してから、少しだけ、その欄を見ていた。

　＊

澪に話すかどうかを、十月のあいだ考えた。

話せば、澪はこの写しを確かめに行く。行く先は母の文机で、澪が本家の奥まで入れなくても、確かめようとしていることは、いずれ母に届く。気づけば母は何かをする。何をするかは分からない。三年前にもそう考えた。

披露の夜まで、母に気づかせなければいい。その夜は親族が全員揃う。そこで写しを出し、原本は母の文机の二段目にある、と言う。誰かが立って、確かめに行けばいい。

それに、母を名指しするのは澪ではなく、私であるべきだった。澪に私の母を告発させれば、澪は天導の奥方を裁いた番人の娘になる。私が出せば、私は証拠を隠した悪役ではなく、証拠を出した娘になる。

後のほうの理由が勘定だとは分かっていた。十歳の秋、三人に謝ったときと同じ種類の勘定だった。分かっていて、理由から外さなかった。

十月の終わり、帳面の最後の頁に、日付と一行だけを書いた。四月二十日、披露の夜、小野さんのあとに、自分で出す。

半年あった。母が気づいた様子は、まだなかった。

---

# 第六話　母の先手

十七歳の十二月から、十八歳の四月二十日まで。

　＊

十二月、佐伯が星の間の目録を作り直し始めた。

成年披露の日に、家の習わしで、本家の財産は後見の手を離れて私に引き渡される。宗一郎の遺品もその中にある。四十三の時計、望遠鏡、蔵書、写真機。佐伯は一つずつ番号を振り、古い目録と突き合わせた。私はそれを手伝った。十二歳の春からの、いつもの仕事だった。

写真機の番で、佐伯は乾板の箱を開けて数えた。

「四枚、少のうございますな」

指で押さえた古い目録は、宗一郎が亡くなった年の春に佐伯自身が作ったものだった。乾板、十二枚。箱の中は八枚。

「旦那様が最後の夏にお撮りになったのでしょう。焼いたものは、お部屋から出てまいりませんでしたが」

佐伯は新しい目録に、乾板八枚、と書き、備考の欄に小さく、四枚不明、と添えた。

「この目録は、どなたが見るのですか」

「お引き渡しの日に、後見人の伯父様と、奥様にお目通しいただきます」

そうですか、と私は言った。声は普段どおりに出た。

四枚。十四歳の二月、私が母の居間で使った数だ。

佐伯は、四枚を宗一郎が使ったと思っている。目録を読む人も、たぶんそう読む。四枚不明、という一行から、私の鏡台の底板までは遠い。

そう考えて、私は次の時計の番号を読み上げた。

　＊

正月の三日、母の居間に呼ばれた。

母は文机の前ではなく、火鉢のそばにいた。膝の上に、台紙に貼った写真が十枚ほどあった。

「佐伯の目録を見ていたら、思い出して」

一枚目は湖と桟橋。二枚目は星見荘の庭。三枚目に宗一郎がいた。縁台に座って、何かを言いかけて笑っている。私が覚えているより若かった。

「これだけは、あの人が撮ったのではないの」母は三枚目を指で押さえた。「私が撮ったのよ。あの人に教わって」

母が写真の話をするのを、私は初めて聞いた。

「あの人は、何を決めるのも遅い人だった。婚礼の日も、家のことも、何もかも。でも、写真を撮るときだけは早かった。三脚の脚を一本ずつ伸ばして、灯りを寄せて、すぐに決めた」

三脚の脚を一本ずつ、と母が言ったとき、私は十四歳の二月の夜を思い出した。思い出しただけだった。三脚の脚は、誰が伸ばしても一本ずつ伸びる。

「あなたも教わったでしょう。十の年に」

「少しだけ」

「覚えている？」

「あまり」

母は、そう、と言って笑い、三枚目をいちばん上に戻した。宗一郎の笑った顔の端を、指がまだ押さえていた。

母はこの人を好きだったのだ、と思った。そして、決めないこの人を、許さなかった。

十歳の瑠璃が、母の膝の写真に手を伸ばしかけた。私はそれを止めた。

帰り際に、母は言った。

「成年の日には、星の間の物は全部あなたの物になるのね。写真機も。大事になさい。あの人の物だから」

　＊

二月の半ば、母が茶会で家を空けた夜、私は三年ぶりに母の居間へ入った。

確かめておきたいことが一つあった。披露の夜、私は写しを出し、原本は母の文机にあると言うつもりでいる。誰かが確かめに行けば、写しは写しでなくなる。そのために、原本が今もそこにあることを見ておきたかった。

文机の二段目の錠前が、替わっていた。

三年前の錠は古い鉄のもので、鍵は違い棚の小箱に入っていた。今ついているのは、新しい真鍮の錠前だった。鍵穴のまわりの木に、釘の跡が四つ、まだ白く残っていた。取り付けて何か月もたっていない。

違い棚の小箱には、古い鍵だけが残っていた。差してみることはしなかった。合わないのは見れば分かった。こじ開ければ跡が残る。跡が残れば、母は気づく。

自分の部屋へ戻り、鏡台の底板を外した。黒い紙の包みが一つ、写しの封筒が一つ。乾板四枚、写し四枚。黒い紙の折り目は、私が折ったとおりの順だった。

底板を戻して、考えた。

四月二十日に後見が終わる。八年近く、この家の鍵を預かっていたのは伯父だった。その手が離れる前に、母は自分の物を自分で閉じた。伯父に見られたくない物が、あの引き出しにある。

人は、空の引き出しに新しい鍵をつけない。原本はあの中にある。鍵が、それを教えている。

帳面を開いた。

　成年前の変化（十二月〜二月）
　　十二月　　星の間の乾板　四枚不明（佐伯の目録）　佐伯は宗一郎の使用と解している　目録は伯父と母が見る
　　一月三日　母が写真の話をした（初めて）　遺品の目録を見たため
　　二月　　　文机二段目の錠前が新しい　伯父への備え　原本は在るとみる（確認できず）
　　鏡台の底　乾板四・写し四　異常なし
　　三村の封書　ゲームでは十七歳の冬に焼かれる　この冬、所在不明
　　母が私の調べに気づいた可能性　低い

最後の一行を見た。

低い、の横に根拠を書こうとした。書けるのは、鏡台の底が元のままだということだけだった。一つの根拠で判断の欄を埋めるな、と白石澄は新人のころに教わった。

私はその一行を消さず、書き足しもしなかった。四月二十日まで、あと二か月だった。

　＊

三月、澪の下宿で最後の段取りをした。

出す順番は澪が決めた。遺書、処方簿、下書き、お絹の話、父の話。お絹と父は、早瀬さんが前の日に帝都へ連れてくる。

「お父上は、当日まで瑠璃さんには会わないそうです」と早瀬さんが言った。「会えば、顔に出るから、と」

父らしい、と思った。七年半会っていない人を父らしいと思える自分が、少し不思議だった。

一臣さまは、澪が下書きを出すとき、その隣に立つと言った。

「私が見つけた物だ。父の前で、私が見つけたと言う」

婚約のことは、誰も口にしなかった。

帰り際、草履を履きかけた澪に、私は言った。

「披露の夜、小野さんのあとに、わたしも出すものがあります」

澪は手を止めた。

「物で、裏が取れたんですね」

「取れました」

澪は、何を、とは訊かなかった。九月の、分かった、と同じ顔をしていた。

「天導さんの順番は、天導さんが決めて。私は私の順番で出す」

　＊

四月二十日、十八歳の誕生日の朝、三村さんが本家へ来た。

宗一郎の代からの弁護士で、小柄で、灰色の髪を短く刈った人だった。声が低かった。私一人に会いたいと言った。母は朝のうちに髪結いへ出ていた。

応接間で、三村さんは革の鞄から封蝋を押した封筒を出した。

「旦那様のご遺言により、成年披露の朝に、ご本人へお渡しいたします」

「母には」

「ご遺言は、ご本人に、とだけ」

中には三つの物が入っていた。

一つ目は、遺言認知の写し。天導宗一郎は天導瑠璃を自分の子と認める、この遺言は遺言者の死亡の時に効力を生ずる。日付は、私が九つの年の十二月、暮れの押し詰まったころだった。

「認知の届は、あの年の九月、親族会のご了承を得て済ませてございます。表向きは、ご養女として」

二つ目は宗一郎の字の便箋一枚で、宛名はなかった。

　私たちの子に、名を考えた。女の子なら、瑠璃という。君がよいと言えば、そうしたい。
　銀細工屋に、星を一つ頼んだ。

日付はなかった。女の子なら、と書いてあるから、私が生まれる前の字だった。名を考えた人は、名を決めるのも、相手に預けていた。星を頼んだのも、生まれる前だった。私がその星をもらったのは、九つの誕生日だった。

三つ目は母の字だった。宗一郎に宛てた手紙で、日付は認知の紙と同じ年の十二月の初め。

　静子さんとのお話が決まったと伺いました。
　あなたが生きているあいだは、この子は恭介の子のままで構いません。あなたが決めない人だということは、もうよく分かりました。
　ですから、せめて、あなたが亡くなったときにだけ効く紙を、この子のために書いてください。三村さんに預けてください。
　私はもう待ちません。

私は三つ目を二度読んだ。

推理の四段目が、母自身の字で埋まった。宗一郎が死ねば私が跡取りになる。母はそれを知っていた。知っていたどころか、その紙を書かせたのは母だった。

日付を並べた。母の手紙が九つの年の十二月の初め。認知の紙が同じ月の終わり。おじさまと静子さまの婚約が決まった月だった。薬は翌年の四月から。婚礼は十月。

紙ができる前におじさまが死んでも、私は恭介の子のままで、誰も何も得ない。婚礼のあとでは、紙の値打ちは薄れていく。死んだときに効く紙があって、おじさまがまだ結婚していない。その二つがそろっているのは、十二月から十月までの十か月だけだった。母の計画は、その十か月の中でしか意味を持たなかった。

私はもう待ちません、と母は書いていた。何を待っていたのかを、手紙は言っていない。待つのをやめた日付だけが書いてあった。

「三村さん。母は、この手紙がここに入っていることを知っていますか」

三村さんは少しのあいだ私を見た。

「私は、ご依頼人の言葉をお運びするだけです。それ以上は、ご依頼人が亡くなられたあとも申し上げられません」

一礼して、三村さんは帰った。

帳面の、所在不明、の横に、四月二十日、三村さんより、と書き足した。封書の在りかだけは分かった。ゲームでは十七の冬に燃えたはずの封書が、なぜここでは十八の朝まで届かないのかは、分からないままだった。

封書は、乾板の写しと一緒に、今夜の手提げの底に入れた。

　＊

夕方、髪結いから戻った母が、私の部屋へ来た。

着物は母が選んだ振袖だった。黒地に、袖と裾の縁だけが深い紅で取ってある。天導の家では、本家の血筋の子が成年披露に黒地を着る。養女の私にそれを着せると決めたのも、母だった。お絹の後に私付きになった女中が帯を締めて下がると、母は私を鏡台の前に座らせた。

母の手に、銀の星があった。宗一郎が私の九つの誕生日にくれた髪飾りで、湖の年の親族会のあとは、ずっと母の手文庫にしまわれていた。

「今夜はこれをつけていなさい」

母は星を、左の鬢の上に留めた。指は冷たく、迷わなかった。

「あなたは本家の子。それ以外は要らない」

十歳の夏から何度も聞いた言葉だった。今夜の母は、それを耳元で囁かなかった。鏡の中の私に言い聞かせる声で言った。

私は底板のことを考えていた。底板の下には、乾板だけが残っていた。写しと封書は、足もとの手提げの中にある。

母は星の角度を指で一度だけ直した。鏡の中で目が合った。母は笑った。十二歳の秋、珈琲が薄いと言ったときと同じ笑い方だった。

「きれいよ、瑠璃」

「ありがとうございます」

星の間のほうで、時計が六時を打った。宗一郎が死んでから、四十三のうちで動いているのは、佐伯が毎朝巻く一台だけだった。

披露は七時から。澪は一臣さまの客として、六時半に着く。

私は手提げの紐を握った。母はそれを見ていたかもしれない。見ていなかったかもしれない。

私は、見ていなかったほうに賭けた。

---

# 第七話　十八歳の断罪

十八歳の四月二十日、夜。

　＊

披露は七時に始まった。

星の間には客が四十一人いた。親族会の長老三人が上座に並び、その後ろの壁に四十三の時計が掛かっていた。動いているのは一台だけだった。残りの四十二台は、それぞれ違う時刻で止まっていた。

伯父が立って挨拶をした。八年の後見を今夜で終えること。宗一郎様の遺志を果たせたこと。声は低く、よく通った。途中で一度だけ言葉に詰まり、客の何人かが目頭を押さえた。

伯父が座ったのは七時十八分で、澪が立ったのはその直後だった。一臣さまの客の席から風呂敷を一つ抱えて、長老たちの前へ出た。

「小野弥吉の娘、澪です。父の名誉のことで、皆さまにお見せしたい物があります」

座がざわめいた。真ん中の、いちばん年上の長老が手を上げて静めた。

「聞こう」

澪は、三月に下宿で決めた順番を変えなかった。

一つ目は父親の遺書だった。八月十二日の朝、柱に傷はなかった。澪はそれを読み上げ、長老の前に置いた。

二つ目は処方簿だった。慎さんが客の後ろから進み出て、蘆田医院の記録であると述べた。七月十日、天導藤乃様、抱水クロラール。付箋のところで、慎さんの指は止まらなかった。

三つ目は下書きで、一臣さまが澪の隣に立った。

「父の書斎の机から、私が見つけました」

長老三人は、それぞれ自分の宛名の一枚を手に取った。三人とも、八年前にその清書を受け取った人たちだった。真ん中の長老が便箋を置いた音は、動いている一台の時計の音より大きかった。

四つ目に、早瀬さんがお絹を廊下から連れてきた。地味な縞の着物を着ていた。台所への言いつけ、もう割ってあった氷、盆の上の銀の匙。お絹は一度も私を見なかった。見ないことで私を庇っているのだと、私は思った。

五つ目に、父が入ってきた。

七年と七か月ぶりだった。背広は、家を出た日に着ていたものではなかった。大きな身体の、肩が少し落ちていた。日に焼けた顔は、南の港の日で、前より深く焼けていた。父は長老の前にあの年の電報を広げ、本社の返書を広げた。それから、娘がいなくなったと聞けば自分は誰より先に走った、と言った。

言い終えて、父は一度だけ私を見た。会えば顔に出る、と言った人の目は、そのとおりになっていた。

「辰巳」

と伯父が言った。

手代の辰巳は、伯父の後ろの壁際にいた。湖の年に二十八だった男が、三十六になった顔を青くしていた。伯父は名前を呼んだだけで、その先を言わなかった。

「辰巳は、私の言いつけで帝都へ出しただけだ」

誰も訊いていないことに、伯父は答えた。答えてから座り、あとは下書きの一枚を見ていた。

ここまではゲームのとおりだった。一枚絵の構図も同じだった。上座の長老三人、畳の上の紙、立っている澪、うつむく伯父。画面の中では、このあと悪役の令嬢の罪状が読み上げられる。

長老が佐伯に何か耳打ちし、佐伯は一礼して出ていった。

　＊

私は手提げを持って立ち、澪の隣へ出た。七時四十一分だった。

「わたしからも、出す物があります」

写しを四枚と三村さんの封書を、長老の前に並べた。

「母の家計簿の写しです。十四歳の二月に、宗一郎様の写真機で撮りました。原本は母の居間の文机の二段目にあります。薬は四月から買われています。伯父様の下書きは七月です。先に動いたのは、母です」

続けて、三つのことを短く述べた。眠った子を運べたのは誰か。父が誰より先に走る人だと、いちばんよく知っていたのは誰か。宗一郎様が結婚の前に亡くなって、誰の子が跡取りになったか。最後に、封書の中の母の手紙を示した。

「せめて、あなたが亡くなったときにだけ効く紙を、この子のために。――母の字です。おじさまと静子さまの婚約が決まった月に書かれています」

座が静まった。

母は前列にいた。すぐには泣かなかった。座ったまま、少し首を傾けて写しを見ていた。十二歳の秋、私の淹れた珈琲を見たときと同じ傾け方だった。

それから、母は泣いた。声を殺さずに泣いた。八年前に舟屋で私を抱いたときと同じ、外に聞こえる泣き方だった。

「兄に、言われていました」

母は泣きながら話した。婚礼の話が決まった冬に兄に呼ばれたこと。娘を本家の子にしてやる、聞かなければ生まれを親族会に出す、と言われたこと。眠れなくなり、四月から蘆田先生に薬をもらったこと。七月に、その薬を娘に飲ませろと言われたこと。

「藤乃、お前は――」

「兄さんは黙っていて」

母はその一言だけをはっきりした声で言い、また泣いた。

「文机の二段目を確かめてください」と私は言った。「原本があります」

母は袂から、真鍮の新しい鍵を出した。泣いたまま長老に差し出した。

「どうぞ。お確かめください」

長老の付き人が鍵を持って出ていった。八時二分に出て、八時十一分に戻った。手に藍色の表紙の帳面を一冊持っていた。

「二段目には、これだけでございました」

表紙の年号は今年のものだった。

「湖の年の帳面は、暮れに焼きました」と母は言った。「兄に手を貸した年の帳面を、手元に置いておけませんでした。この子の成年の前に、きれいにしておきたかったのです」

人は空の引き出しに新しい鍵をつけない。二月に、私は帳面にそう書いた。

母は、空の引き出しに鍵をつけたのだ。中にまだあると、私に思わせるために。

　＊

母は涙を拭き、戻っていた佐伯を見た。

「佐伯。星の間の目録を、皆さまに」

佐伯が今年の目録を長老の前に置いた。乾板八枚。備考、四枚不明。

「この子は、三年前に私の帳面を写して、今日まで黙っていました」

母の声は、もう震えていなかった。

「私と兄が捕まれば、この子の上に立つ大人は一人もいなくなる。後見の要らなくなる成年披露の夜まで、それを知っていて、三年待ったのです。原本が無い今、この写しは、この子が作った物です。この子が作って、今夜まで隠していた物です」

母は封書に目を落とした。

「その手紙は私が書きました。あの人の子に、あの人の名を残したかった。それが罪なら、罰を受けます」

それから、母は私の髪を見た。

「今夜この子にあの人の星を留めたのは、私です。この子があの人の子だと、皆さまに分かっていただくために。――あの人が亡くなって、この紙で得をしたのは誰です。今夜ここに、あの人の星をつけて立っているのは誰です」

四十一人の目が、私の左の鬢に集まった。

長老が私に訊いた。

「三年前に写したのは、本当か」

「本当です」

「なぜ黙っていた」

確証がなかったこと。母に気づかれたくなかったこと。親族の皆さまが揃う夜に出したかったこと。私は、そのとおりに答えた。

「皆が揃う夜は、あなたが跡取りになる夜でもある」

私は答えなかった。答えられることは、もう全部言っていた。

私が言ったことは、全部本当だった。本当のことを並べると、母が言ったとおりの形になった。写しを作ったのは私で、三年黙っていたのも私だった。十四歳の冬に私が守った物が、今夜、私が待っていたことの証拠になった。

　＊

警察は八時四十分に着いた。長老三人は隣の間で十九分話し、戻ってきて、真ん中の長老が読み上げた。

天導貞光と天導藤乃を、警察に引き渡す。天導瑠璃は、母の罪を知りながら黙し、当主の死によって益を得る立場にあった。よって、本家跡取りの儀は親族会の預かりとし、天導一臣との婚約はこれを解く。瑠璃は星見荘に移り、追って外国へ遣る。

藤乃の罪は兄に強いられた従犯に留まるだろう、と長老は言い添えた。

一臣さまが半歩前に出た。長老に名前を呼ばれて、足を戻した。父親が警官に腕を取られるのを、立ったまま見ていた。

父は壁際から動かなかった。否認の書類に署名した日から、父はこの家の親族会で何かを言える人ではなくなっていた。

伯父が連れ出され、辰巳が続いた。

澪が私の前に来た。長老の前に置いた父親の遺書を両手で風呂敷に戻しながら、澪は私を責めなかった。言ったのは、それだけだった。

「どうして、もっと早く」

私は答えられなかった。物で裏が取れたら渡す、と十六の夏に約束したのは私だった。

裏は、半年前に取れていた。

　＊

母は警官に付き添われて席を立った。もう泣いていなかった。

私の前で、母は足を止めた。娘に一言かけるのだと思ったのか、警官は止めなかった。

母は私の鬢の星に指で一度だけ触れた。角度は直さなかった。そのまま、唇を私の耳に寄せた。

「あなたは頭が良すぎた」

問いの形はしていなかった。外には届かない声だった。

一拍、間が空いた。

「……あなたなんか、産まなければよかった」

母はそれだけ言って、廊下へ出ていった。振り向かなかった。

動いている一台の時計が九時を打った。残りの四十二台は、止まった時刻を指したままだった。

私は星を外さなかった。外せとは、誰も言わなかった。

---

# 第八話　二度目の八月十五日

十八歳の八月十五日。それから、十歳の七月十五日。

　＊

星見荘へ移ったのは、四月二十八日だった。

湖は、十歳の夏と同じ色をしていた。桟橋は事件の翌年に架け替えられていて、板も杭も新しかった。番人小屋には、村から来た六十過ぎの男が一人で住んでいた。小野さんの一家がいたころの鉢植えは、一つも残っていなかった。

四月から八月までに起きたことは、多くない。

伯父は起訴された。母の審理は秋に始まる。弁護人は、兄に強いられた従犯として争うと聞いた。跡取りの儀は親族会の預かりのままになっている。決まったのは、私が九月二十日の船で南の港を出ることだけだった。

一臣さまからは、五月に一度だけ手紙が来た。婚約が解かれたことへの詫びと、父親の弁護人のことが、帳簿のような字で書いてあった。私は返事を書き、今度は自分で村の郵便局へ持っていった。

六月、警察が母の手文庫から手紙の束を見つけた。父から本家に宛てた手紙が七十一通と、私が十歳の冬に書いた四通だった。どれも封は開いていた。母は八年間、父と私のあいだの手紙を止めていたことになる。束は警察の封をされたまま、私の手元に届いた。

父からは、それから毎週手紙が来るようになった。私は毎週返事を書いた。父の手紙はいつも、待っとる、で終わっていた。どこで待っているのかは書いていなかった。

澪からは、何も来なかった。私も書かなかった。どうして、もっと早く。あの問いに答える手紙の書き方を、私は知らなかった。

　＊

八月十五日の夕方、番人の男に灯籠を一つ頼んだ。

「お一人で流されますか」

「一人で」

男は、白い紙を貼った四角い灯籠と、蝋燭を一本持ってきた。代金は受け取らなかった。

村のほうから、盆踊りの太鼓が聞こえていた。星見荘の宴は、あの年から開かれていない。岸には誰もいなかった。

八時を過ぎて、私は桟橋を歩いた。

板は四十二枚あった。一歩ずつ数えた。十歳の夜、私はこの板を歩いていない。舟屋で眠っていた。私の知るかぎり、あの夜この桟橋を先端まで行ったのは、走った人と、切られた柱を見に来た人だけだ。

先端で膝をついて、蝋燭に火を入れた。灯籠を水に置くと、しばらく杭の近くで回っていたが、やがて沖へ流れていった。

村の灯籠が、湖の向こう岸にいくつも浮いていた。数えようとして、やめた。こちらから流れていくのは一つだけだった。

おじさま、と口が動いた。十歳の瑠璃の声ではなかった。十八歳の、私の声だった。

灯籠の火が見えなくなるまで、先端に座っていた。星見荘の大時計が十時を打った。

　＊

部屋へ戻り、帳面を開いた。十歳の八月にフミがくれた習字の帳面は、最後の頁まで埋まっていた。その裏表紙の内側に、八年前と同じ書式で書いた。

　敗因（湖の件）
　　一　事件が起きたあとでは、証拠は時間とともに消える。
　　　　家計簿の原本、上半期の処方簿、小野さんの口、お絹と父の八年。
　　二　私が守った証拠は、私の沈黙の証拠に作り替えられた。
　　　　乾板四枚。目録の一行。写しは、原本が消えれば、作った者の物になる。
　　三　母は私より一手早かった。母は、娘を見ていた。
　　　　乾板の数、写真の話、錠前、星。私は、母が見ていない方に賭けた。
　　四　良い子でいることは、断罪の理由を一つ減らしただけで、原因を一つも減らさなかった。

書いてから、一行ずつ読み直した。

一つ目について。調査員は、いつも事故が起きたあとに呼ばれる。現場は最初に入った者が壊し、証言は日がたつほど本人に都合よくなる。私は八年かけて、消えていく物を追いかけた。追いつけたのは、消え残った物までだった。ゲームの澪がそうだったのと同じように。

二つ目について。私は焼かなかった。焼かなかった物が、私を焼いた。

三つ目について。三脚の脚を一本ずつ、と正月に母が言ったとき、私は、誰が伸ばしても脚は一本ずつ伸びる、と考えた。母は、私がそう考えることまで見ていたのだと思う。あなたは頭が良すぎた、と母は言った。良すぎたのではなかった。母には、読みやすかったのだ。

四つ目について。十歳の九月、計画書の余白に書いた一行がある。原因を取り除かない予防策は、たいてい、時期をずらすだけで終わる。書いたとき、何の原因のことか自分でも分かっていなかった。

今は分かる。私の破滅の原因は、虐めでも焼却でもなかった。あの夜の事件そのものだった。事件があったから、母は娘を本家の子として育て、娘を見張り、最後に娘を差し出した。事件が起きた世界で、母の娘が無事でいる筋はなかった。虐めないことも焼かないことも、断罪を八年先から八年先へ送っただけだった。ずらしてさえいなかった。

四つの敗因の下に、線を一本引いて書いた。

　この事件は、起こさせないしかなかった。

書いてから、その一行をしばらく見ていた。

調査員の報告書は、たいてい再発防止策の欄で終わる。次に同じことが起きないように、と書く。けれど、この事件に次はない。宗一郎は一度しか死なない。私は一度しか十歳にならない。

起こさせないしかなかった事件は、もう起きている。

報告書としては、欠陥のある結論だった。防止策の欄に書けることが何もない。それでも、ほかに書くことがなかった。私はそれを消さずに、帳面を閉じた。

大時計が一時を打った。八年前、舟屋で聞いたのと同じ時刻だった。

灯りを消して横になった。窓の外で、湖が杭に当たる音がしていた。

　＊

蝉の声で目が覚めた。

最初に分かったのは、天井の低さだった。星見荘の天井ではなかった。板ではなく漆喰で、隅に雨の染みが一つあった。その形を、私は知っていた。

次に分かったのは、手の小ささだった。上掛けの上に出した手が、十歳の瑠璃の手をしていた。爪が小さく丸かった。

起き上がって、部屋を見た。

帝都の家の、二階の私の部屋だった。十一歳の春に本家へ移るまで住んでいた部屋だ。窓の簾が半分下りていて、その隙間から朝の光が畳に落ちていた。鏡台は小さく、底板は外されていなかった。

壁に日めくりがかかっていた。

　七月十五日

その横に、夏休みの予定表が貼ってあった。母の字だった。

　八月十三日　湖へ

階下で父の声がした。

「行ってくる」

玄関の戸が開いて、閉じた。父が造船会社へ出かける時刻だった。

私は窓の簾を上げなかった。見れば確かめられる。確かめたら、何かが変わってしまう気がした。調査員の考えることではないと分かっていた。分かっていても、少しのあいだは動けなかった。

それから、調べられることを調べた。

鏡台の引き出しを開けると、銀の星の髪飾りが入っていた。九つの誕生日にもらったもので、ゆうべは星見荘の枕元に置いたはずの物だった。裏を返すと、刻印の線に、まだ磨かれていない細かい傷があった。

廊下へ出て、階段の下の新聞受けから朝刊を抜いた。日付は日めくりと同じだった。年号は、湖の年だった。一面の下の欄に、天導の造船所が新しい船の進水を秋に予定している、とあった。

新聞を戻して、部屋へ上がった。

なぜこうなったのかは分からない。分からないことは、分からないと書く。夢だという可能性もある。夢なら、醒めたときに困るだけで済む。夢でなかったときに困るほうを、先に考えておくべきだった。

あの人は、帝都の本家で、今朝も時計を巻いているはずだ。四十三の時計を全部。

父は、今日も造船会社へ行った。

母は、この家のどこかにいる。四月から数えて、家計簿にはもう五回の薬が書かれているはずだった。七月の欄は、まだ埋まっていない。

私は日めくりの前に立ち、指で数えた。今日から八月十五日まで、三十一日。

帳面はなかった。フミが習字の帳面の余りをくれるのは、湖のあとの八月十九日だった。私は学院の算術の帳面を一冊出し、最後の頁を開いた。母が表から開くことはあっても、裏から開くことはない帳面だった。

白石澄の字は、十歳の手では、やはり半分しか出なかった。

　二度目があると思って動く調査員はいない。

書いてから、その下に報告書の一行目を書いた。

　七月十五日、午前六時。帝都、自室。

蝉がまた鳴き始めた。

---

# 第九話　調査計画

十歳の七月十五日。八月十五日まで、あと三十一日。

　＊

最初の一時間で、確かめられることを確かめた。

日めくりも朝刊も、湖の年の七月十五日を指していた。星の細かい傷は、九つの誕生日にもらってから一年と少しの、まだ新しい傷だった。

七時に朝食の席へ降りた。母がいた。父の席は空いていた。父はもう造船会社へ出ていた。

母は三十四歳だった。十八歳の四月に最後に見た母より、頬に肉があった。髪はきちんと結ってあり、ほどけてはいなかった。私が席に着くと、母は箸を置いて、私の顔を見た。

「よく眠れた？」

「はい」

「顔色が悪いわ」

「夢を見ました」

言ってから、しまったと思った。母は少し首を傾けた。十二歳の秋、珈琲が薄いと言う前に見せたのと同じ傾け方だった。

「どんな夢」

「覚えていません」

母は、そう、と言って箸を取った。

私はその場で、自分への最初の規則を決めた。この人の前では、夢の話をしない。

　＊

朝食のあと、学院の算術の帳面の最後の頁に、白石澄の書式で書いた。

　件名　湖の件（予防）
　期限　八月十五日　夜
　日数　三十一日

　分かっていること（ゲームと、前回の八年で見た物による。括弧の中は出どころ）
　　四月から七月　母が蘆田医院で薬を受ける　抱水クロラール　家計簿に六回
　　　　（家計簿の写し　処方簿）
　　七月　伯父が親族会の三人に後見の根回し　三通
　　　　（伯父の下書き）
　　八月十二日　伯父が星見荘へ先乗り
　　　　（十歳の記憶）
　　八月十二日朝　小野さんが柱を見る　傷なし
　　　　（小野さんの遺書）
　　八月十三日　家族が湖へ　十四日　おじさまが湖へ
　　　　（十歳の記憶）
　　八月十五日十五時　父に偽電報　打ったのは帝都にいた辰巳か
　　　　（父の聞き書き　本家支払帳の車代）
　　同十七時　父が汽車で帝都へ
　　　　（十歳の記憶）
　　八月十五日夜　宴　お絹が台所へ　私に薬　糖蜜　銀の匙　舟屋へ
　　　　（お絹の聞き書き　舟屋で見た物）
　　同　「瑠璃がいない」　おじさまが桟橋の先へ走る　柱が折れる
　　　　（ゲーム）
　　同　救命舟が遅れる　伯父「番人はどこだ」
　　　　（舟屋の戸口で見た物）

　私の制約
　　十歳。帝都から湖まで汽車で一日。
　　母の家に住んでいる。手紙は母の手を通る（父宛ては止められていた）。
　　大人は十歳の言葉を信じない。
　　郵便局へ一人で行けない。本家へは、呼ばれたときだけ行ける。

一覧を上から読んで、三つ目の欄を書いた。

　私への規則
　　一　誰も死なせない。
　　二　八月十五日まで、誰にも気づかせない。
　　三　証拠は、大人が自分の目で確かめた物だけを使う。私の言葉は証拠にしない。
　　四　最後に、殺しても何も得られないようにする。

　＊

規則の一つずつに、理由を書き添えた。書いておかないと、あとで自分が規則を破る理由を作るからだ。十四歳の冬、私は書かなかった一行のために、三年を失った。

一つ目には、理由は要らなかった。

二つ目の理由は、こう書いた。

　未来の記録の値打ちは、相手が計画を変えないあいだだけ。

私が知っているのは、前回の八月十五日だ。電報の時刻、汽車の時刻、舟屋、糖蜜、桟橋の先。母と伯父がその計画のまま動くあいだは、私は二人より一手先にいる。

母が、娘が何かを知っていると気づけば、計画は変わる。日を変えるかもしれない。手段を変えるかもしれない。八月十五日を外しても、十月の婚礼までは、まだ二か月ある。湖でなくても、人は死ぬ。

そうなれば、私の記録は役に立たなくなる。私の知らない殺人が、私の知らない日に来る。

だから、今おじさまに言ってはいけない。今言えば、おじさまは湖へ行かないかもしれない。行かなければ、母は別の機会を探す。

三つ目の理由は、長くなった。

十八歳の四月二十日の夜、私の出した物は、全部私の言葉になった。乾板四枚は私が撮った物で、写しは私が焼き付けさせた物で、三年黙っていたのは私だった。原本が消えたとき、私の物は、私が作った物になった。

物が証拠になるのは、誰が見つけたかではなく、誰が確かめたかで決まる。調査員の報告書が保険会社で通るのは、調査員が偉いからではない。写真と、現場と、第三者の証言が、報告書の外に残っているからだ。

今度は、私は何も持たない。何も撮らない。何も写さない。見つけた物は、見つけた場所に置いたまま、大人をそこへ連れて行く。大人が自分の目で見て、自分の口で言う。

十歳の子の言葉は、夢で済まされる。大人が自分で見た物は、夢では済まない。

四つ目の理由は、まだ半分しか書けなかった。

　宗一郎が十月の婚礼の前に死ねば、死亡時に効く認知で私が跡取りになる。
　跡取りの後見に値打ちがある。
　紙は九つの年の十二月にできた。婚礼は十月。母の窓は、その十か月。
　その紙がなければ、殺しても何も得られない。

紙を消す方法を、私は知らなかった。紙は三村さんが持っている。書いたのはおじさまで、書かせたのは母だ。紙を消せるのは、書いた人だけだった。

四つ目の横に、小さく書いた。

　おじさまに、いつ、どう言うか。（未定）

　＊

昼前に、母の居間の前を通った。

襖は閉まっていた。中で母が誰かと話していた。女中頭の声だった。献立の話だった。

十八歳の私は、あの部屋の文机の二段目に何があるかを知っている。湖の年の家計簿。今年の家計簿だ。今この瞬間も、あの帳面は、母の手でつけられている。四月に二回、五月に二回、六月に一回。七月の欄は、まだ埋まっていない。

前回、慎さんが澪の下宿で開いた処方簿には、七月十日の一行があった。十日分の水薬。前回ニ同ジ。薬はもう、この家のどこかにある。家計簿の七月の行は、たぶん月末に、払いをまとめて書く。母はそういうつけ方をする人だった。

私は襖の前で足を止めなかった。

見に行けば、見られる。見られれば、母は理由を考える。十歳の子が母の文机に何の用があるのか。母は理由を考え始めたら、答えが出るまでやめない人だった。

規則の三つ目を、私は廊下で一度思い出した。見つけた物は、見つけた場所に置いたまま。

家計簿は、もう見つけてある。八年後の私が。

　＊

学院は、もう夏休みに入っていた。午後、私は庭の縁台で、十歳の瑠璃の記憶を順に開いた。

十歳の瑠璃は、この七月を覚えていた。覚えていたのは、大人から見れば何でもないことばかりだった。

七月の第一週、父が造船所から模型の船を持って帰ってきた。父は私に、竜骨の組み方を教えようとして、途中で母に呼ばれた。

七月の十日ごろ、本家へ行った。おじさまが星の間の時計を巻くのを見せてくれた。四十三の時計を、端から一つずつ。おじさまは巻きながら、この時計は何々丸に、この時計は瑠璃丸に載っていた、と一つずつ教えてくれた。十歳の瑠璃は、それを全部覚えようとして、半分で眠くなった。

七月に入ってから、母はときどき眠れないと言っていた。夜中に母の部屋の灯りがついていることがあった。

白石澄は、最後の一つに線を引いた。

眠れない人は、薬を飲む。飲む人の家計簿には、薬の行がある。行がある理由は、眠れないからだ。そういう筋は、前回、十四歳の私が選びかけたものだった。

十歳の瑠璃が覚えていたのは、母の部屋の灯りだけだった。薬を飲む母を見たことは、一度もない。

私はそれも書いておいた。見ていないことは、見ていないと書く。

　＊

夕方、父が帰ってきた。

玄関の戸が開く音がして、父の声がした。「ただいま」。

私は階段を下りた。途中で足が止まった。

父は玄関で靴を脱いでいた。背広の肩に、造船所の鉄の粉が少しついていた。四十一歳だった。十八歳の四月、星の間の壁際に立っていた人より、肩が高かった。

父が顔を上げて、私を見た。

「どうした。変な顔をして」

「……おかえりなさい」

「おう」

父は私の頭に手を置いた。八年前の九月十五日、雨の玄関で置いたのと同じ置き方だった。私の知っている最後の置き方は、今の父にとっては、まだ来ていない。

十歳の瑠璃の目から、何かが出そうになった。白石澄は、それを止めた。止めた理由は、規則の二つ目だった。泣けば、母が理由を訊く。

「今日は何をしとった」

「算術の帳面を」

「えらいな」

父はそう言って、居間へ入っていった。

夕食は三人だった。父は造船所の話をした。秋に進水する船の竜骨が、今日やっと据わったという。母は、そうですか、と言った。私は、父の顔を見ないようにして、父の話を全部聞いた。

八月十五日の十七時の汽車に、この人を乗せない。

それを、私は規則の一覧に加えなかった。加えなくても、忘れないと思った。

　＊

夜、帳面の頁をもう一度開いた。

一覧の最後に、今日一日で分かったことを書き足した。

　七月十五日
　　母　「顔色が悪い」「どんな夢」　（夢の話はしない）
　　母の居間　入らず
　　家計簿　未確認（見に行かない）
　　父　造船会社　竜骨の話
　　宿題　誰を味方にするか

最後の行を、しばらく見ていた。

味方にする相手の条件は、三つあった。母に報告しないこと。自分の目で見たものを、人前で自分の口で言えること。八月十五日の夜、湖にいること。

三つとも満たす人は、この家に何人いるだろう。

白石澄は、七年の仕事で、証人を選び間違えたことが二度あった。一度目は、話が上手すぎる人を選んだ。二度目は、会社に義理のある人を選んだ。どちらも、証言台に立つ前に話を変えた。

十歳の瑠璃が、布団の中で一つの名前を出した。

お絹。

私付きの女中で、二十八歳。丸い顔で、笑うと目がなくなる。十歳の瑠璃は、お絹が好きだった。前回、早瀬さんの聞き書きでは、あの夜、台所へ行かされた人だ。戻ったら盆に銀の匙があって、糖蜜で濡れていた。翌年の春に暇を出され、三年分の給金と紹介状を受け取って、八年間、口を閉じていた人。

その人を、もう一度、あの夜の湖へ連れて行く。

私は灯りを消した。窓の外で、帝都の夜の電車が一台通った。

三十日。

---

# 第十話　味方の条件

七月十六日から、七月二十一日まで。八月十五日まで、あと三十日から二十五日。

　＊

七月十六日の朝、帳面の新しい頁に、候補を一人ずつ並べた。条件は三つ。母に報告しないか。自分で見たものを、自分の口で言えるか。十五日の夜に湖にいるか。

　お絹
　　母に報告しない　　？
　　自分で見て言える　？　前回は八年黙った
　　十五日の夜　　　　湖にいる
　父
　　母に報告しない　　×　母に言う
　　自分で見て言える　○
　　十五日の夜　　　　いない　電報で帝都へ
　おじさま
　　母に報告しない　　？
　　自分で見て言える　○
　　十五日の夜　　　　湖にいる　狙われる人
　小野さん
　　母に報告しない　　○　母とも伯父とも縁が薄い
　　自分で見て言える　○　遺書を書いた人
　　十五日の夜　　　　湖にいる
　フミ
　　母に報告しない　　○
　　自分で見て言える　？
　　十五日の夜　　　　いない　帝都に残る

父の欄に×をつけたとき、手が少し止まった。

父は母に逆らえない人だった。前回、否認の書類に署名したのは父だった。血の検査の紙を見せられて、その場で署名した。娘に何か言われれば、父はきっと母に相談する。相談するのが、この人の優しさの形だった。

だから、父には八月十五日まで言わない。言うのは、電報が来る日の朝だ。電報が来ることを、電報が来る前に言う。当たれば、父は自分の目で見たことになる。

おじさまの欄の「？」は、母に報告しないかどうかだった。

おじさまは、母を好いている。前回の八年で見たものから、私はそう読んでいた。母の居間で、母が写真の話をしたとき。母が撮ったという縁台のおじさまは、撮る人のほうを向いて笑っていた。

好いている人の悪い話を、人は聞かない。聞いても、確かめる前に本人に訊く。本人に訊けば、母に届く。

おじさまにも、今は言わない。

小野さんは、湖にいる。母とも伯父とも、縁が薄い。前回、柱を毎朝見ていて、八月十二日の朝の記録を遺書に残した人だ。自分で見たものを自分の字で書き残す人だった。

条件は三つとも満たしている。ただ、私は小野さんと話したことがない。前回は、舟屋の夜に、救命舟の櫂を握っているのを見ただけだ。十歳の瑠璃の記憶にも、ほとんどない。去年の夏、星見荘の庭で、麦わら帽子をかぶった男の人が桟橋の板を一枚替えていた。それだけだ。

その人の娘は、覚えていた。

十一歳の、日に焼けた女の子。去年の夏、一度だけ一緒に遊んだ。岸で貝殻を拾って、虹色の殻を二人で分けた。女の子は、木に登るのがうまかった。

小野澪。

　＊

お絹を試したのは、七月十七日だった。

試す、という言葉を帳面に書くとき、私は少し嫌な気がした。気がしただけで、書いた。調査で証人を選ぶときは、いつも誰かを試している。

方法は簡単なものにした。小さな秘密を一つ預けて、それが母に届くかを見る。

昼過ぎ、私はお絹に言った。

「お絹。内緒のことがあるの」

「まあ、なんでございましょう」

「かあさまの櫛の歯を、一本折っちゃった」

本当だった。朝のうちに、母の鏡台の櫛の歯を一本、自分で折っておいた。一番端の、目立たない歯だった。

お絹は目を丸くしてから、笑った。

「端のですか」

「うん」

「では、わたくしは何も見ておりません。お嬢様も何もなさっておりません」

「かあさまに、言う？」

「言いませんとも。櫛の歯の一本くらい」

お絹は笑いながら、繕い物に戻った。

私は夕方まで待った。夕方、母が鏡台の前に座った。櫛を取って、髪を梳き始めた。三度梳いて、手が止まった。母は櫛を目の前に上げて、端の歯を見た。

私は廊下からそれを見ていた。

母は櫛を置いた。女中頭を呼んだ。

「この櫛、誰か落とした？」

女中頭は知らないと言った。母は、そう、と言って、別の櫛を出させた。

お絹は呼ばれなかった。私も呼ばれなかった。

翌日も、その次の日も、母は櫛のことを言わなかった。

帳面のお絹の、母に報告しない、の横の「？」を消して、○を書いた。

横に、小さく書き添えた。櫛の歯一本では、八月十五日の重さは量れない。

それは分かっていた。前回のお絹は、櫛どころではないものを見て、八年黙った。黙ったのは、紹介状と三年分の給金を受け取ったからだった。人は、見たことの重さよりも、受け取ったものの重さで黙る。

今のお絹は、まだ何も受け取っていない。

　＊

七月十九日、本家へ行った。

おじさまが、土曜の朝は時計を巻く日だから見においで、と前の週に言っていた。十歳の瑠璃が覚えていた約束だった。母が車で送ってくれた。母は本家の奥の間で、女中頭と話をしていた。

星の間の襖を開けたとき、音が違った。

四十三の時計が、全部動いていた。

秒針はそれぞれ少しずつずれて刻んでいて、部屋の中は、雨が屋根を叩いているような音で満ちていた。十八歳の四月二十日の夜、ここで動いていたのは一台だけだった。残りの四十二台は、それぞれ違う時刻で止まっていた。

私は襖のところで、しばらく動けなかった。

「どうした、瑠璃。耳が痛いか」

おじさまが、梯子の上から言った。

天導宗一郎。三十八歳。梯子に片足をかけて、上の段の時計の裏蓋を開けていた。白いシャツの袖をまくっていた。痩せて背が高く、梯子の上では、天井の梁に頭が届きそうだった。穏やかな顔で、髪には、三十八の人にしては白いものが多く混じっていた。裏蓋の小さな螺子を外す指だけが、別の生き物のように速く動いた。

生きていた。

十歳の瑠璃は、この人を毎週のように見ていた。白石澄は、この人を、画面の中の一行と、縁台の写真一枚でしか知らない。二人の目が、同じ人を見た。

「いいえ」

私は言った。声が震えないように、腹に力を入れた。

「音が、きれいだから」

「そうだろう。ずれているのがいいんだ。全部揃っていたら、ただの大きな時計の音になる」

おじさまは鍵を回して、梯子を一段下りた。

「巻いてみるか」

私は梯子の下まで行った。おじさまは梯子を下りて、部屋の隅から踏み台を一つ持ってきた。私が乗ると、一番下の段の時計が、ちょうど目の高さに来た。真鍮の鍵を渡された。

「右へ。ゆっくり。止まったら、それ以上回すな」

鍵を回した。ぜんまいが巻かれる手応えが、指に伝わった。十一回で止まった。

「上手だ」

おじさまはそう言って、次の時計へ移った。

私は、自分が巻いた時計の秒針を見ていた。この時計を、前回の私は、十八歳の誕生日に目録の上で受け取った。止まったまま。

　＊

時計を巻き終えると、おじさまは窓際の机で、帳面を開いた。一台ずつ、巻いた日と、遅れと、進みを書いていく。字は細かく、几帳面だった。

私は横に座って、それを見ていた。

十月に婚礼がある人の机だった。机の端に、婚礼の支度の見積書が一枚、伏せて置いてあった。

「おじさま」

「うん」

「湖は、今年も行くの」

おじさまは筆を止めずに答えた。

「行くよ。十四日に行く。仕事が片づかなくてな、十三日には行けない。瑠璃たちは先に行っておいで」

「灯籠は」

「十五日だ。毎年のとおり」

私は、次の問いを口の中で止めた。

――桟橋の先へは、行かないで。

言えば、おじさまは笑う。どうして、と訊く。十歳の子が答えられる理由はない。夢を見た、と言えば、この人はたぶん優しく聞いてくれる。そして、母に言う。瑠璃が湖の夢を見て怖がっている、と。

規則の二つ目を、私は星の間で思い出した。

「瑠璃。どうした、黙って」

「時計、全部、ずっと動いてる？」

おじさまは筆を置いて、私のほうを向いた。

「私が巻いているうちはな」

そう言って、笑った。

私はその笑い方を、縁台の写真で知っていた。撮る人のほうを向いた笑い方だった。

　＊

帰りの車の中で、母が言った。

「おじさまと、何を話していたの」

「時計のこと」

「それだけ？」

「湖に、いつ来るかって」

母は窓の外を見ていた。

「十四日よ。お仕事が忙しいの」

「うん」

「あなた、湖が好きね」

私は答えなかった。答え方を、まだ決めていなかった。

母は、それ以上訊かなかった。

　＊

七月二十一日の夜、帳面の候補の頁を書き直した。

　お絹
　　候補。櫛のことは母に届かなかった。湖へ着いてから頼む。
　父
　　十五日の朝、電報が来る前に言う。
　おじさま
　　今は言わない。
　小野さん
　　澪を通じて、手紙で頼む。
　フミ
　　手紙を郵便へ運んでもらう。

小野さんへの手紙を、十歳の子が大人に直接書けば、不審に思われる。澪への手紙なら、子ども同士の手紙になる。去年の夏に遊んだ子への暑中見舞いだ。その中に、一つだけ頼みごとを入れる。

お父さんに、八月の初めから、毎朝、桟橋の柱を見て、傷があったら書き留めてもらって。理由は、湖で会ったら話す。

前回、澪が教えてくれた遺書で、小野さんは八月十二日の朝に柱を見たと書いていた。見ていたのに、防げなかった。柱が切られたのは、小野さんが見た十二日の朝より後で、十五日の夜より前だ。伯父が星見荘へ入ったのも、十二日だった。毎朝見て、書き留めてもらえば、切られた日が分かる。切られた日が分かれば、その日に湖にいた者が分かる。

手紙は、フミに頼んで郵便へ出す。母の手を通さない。父への手紙は、前回、全部母に止められていた。母の手を通さなければ、止められない。

帳面の端に、その夜の最後の一行を書いた。

　二十五日。明日、澪に手紙を書く。

---

# 第十一話　小野さんへの手紙

七月二十二日から、七月二十五日まで。八月十五日まで、あと二十四日から二十一日。

　＊

手紙は、七月二十二日の朝に書いた。

便箋は、十歳の瑠璃が母に買ってもらった朝顔の柄のものを使った。子どもの手紙は、子どもの便箋で書く。白石澄の字で書けば、大人の手紙になる。私は十歳の瑠璃の字を、なるべく崩さずに使った。

　澪ちゃんへ

　暑中お見舞い申し上げます。
　去年の夏は、貝がらをありがとう。虹色の、まだ持っています。
　今年も八月十三日に湖へ行きます。また遊んでね。木登りを教えてください。

　それから、おねがいがあります。
　澪ちゃんのお父さんに、八月のはじめから毎朝、桟橋の柱を見てもらってください。
　きずがあったら、日にちといっしょに書いておいてもらってください。
　どうしてかは、湖で会ったときに話します。
　ほかの人には言わないでね。

　お返事は、下の宛名にください。

　天導瑠璃

最後に、宛名を一つ書き添えた。フミの実家の住所だった。帝都の下町の、フミの妹が営む足袋屋だ。十歳の瑠璃は、フミに連れられて一度そこへ行ったことがあった。

返事の宛先を別にしたのは、母が私宛ての郵便を見るからだった。

前回、父の手紙は一通も私に届かなかった。父から私への七十一通は、全部母が受け取って、手文庫にしまっていた。

だから、澪からの返事が私宛てに来れば、母が先に読む。

足袋屋宛てにすれば、母は読まない。

便箋を三つに折って、封筒に入れた。封は、飯粒を指で練って閉じた。封じ目に、墨で小さく〆と書いた。字の上半分が蓋に、下半分が封筒の胴にかかるように。手紙の封はこうするのよ、と十歳の瑠璃に教えたのは母だった。

　＊

昼前、フミの部屋を訪ねた。

フミは五十八歳で、本家から分家へ私の世話係として移ってきた人だった。白くなった髪を小さな髷にまとめ、老眼鏡を紐で首から提げている。十歳の瑠璃が生まれたときから、ずっとそばにいる。

「フミ。お手紙、出してくれる？」

「まあ、どなたへ」

「湖の、澪ちゃん。暑中見舞い」

フミは封筒を受け取って、老眼鏡をかけて宛名を見て、にこにこした。

「番人さんの娘さんですね。去年、一緒に貝を拾っておいでだった」

「うん。それでね、お返事が来たら、足袋屋さんに来るようにしたの。フミが取ってきてくれる？」

フミは少し不思議そうな顔をした。

「お家にいただけばよろしいのに」

「……内緒の手紙なの。かあさまに見られると、恥ずかしい」

十歳の子が言いそうなことを、十歳の子の顔で言った。フミは笑った。

「分かりました。お嬢様にも、内緒の文通をなさるお年頃になりましたか」

フミは封筒を前掛けのかくしに入れた。

「午後の郵便に出しておきます」

私は礼を言って、部屋へ戻った。

　＊

昼過ぎ、私は縁側で本を読むふりをしていた。

女中頭が、玄関脇の文箱を両手で抱えて、奥の廊下へ入っていった。毎日この時刻に見る景色だった。蝉が鳴いていた。私は本の頁をめくった。

しばらくして、女中頭が文箱を抱えて戻ってきて、玄関脇の棚に置いた。

私の手紙は、フミの前掛けのかくしにある。

二時を過ぎて、フミが前掛けを外して出てきた。玄関脇の棚から手紙の束を取り、買い物の籠の底に入れ、勝手口から出ていった。郵便局は、市場の手前にある。

一時間ほどで、フミは戻ってきた。籠に茄子と胡瓜が入っていた。

夕方、私はフミに訊いた。

「お手紙、出してくれた？」

「はい、出しましたよ。ちゃんと切手も貼って」

フミは嘘をつく人ではない。

私は、それでいいと思った。

　＊

七月二十三日と二十四日は、何も起きなかった。

何も起きなかったので、私は別のことを調べた。

母の居間の前の廊下を、朝と夕方に一度ずつ通った。襖が開いているときは、中を見ずに通り過ぎた。閉まっているときは、中の声を聞いた。

二十三日の夕方、母は女中頭に、湖へ持っていく荷物の話をしていた。行李が五つ。布団は向こうにある。蚊帳は新しいのを一張り。

二十四日の朝、母は一人で居間にいた。声はしなかった。筆を置く音と、紙をめくる音だけがした。

帳面に書いた。

　七月二十三日　母　湖の荷物　行李五　蚊帳一
　七月二十四日　母　居間に一人　筆の音　紙の音（家計簿か、手紙か）

書いてから、これが調査としては何の役にも立たないことを認めた。筆の音からは、何も分からない。分からないことを、分かった気になって書くのはやめろ、と白石澄は自分に言った。

分からない、と書き足した。

　＊

二十四日の夜、父が模型の船を持って私の部屋に来た。

七月の第一週に持って帰ってきた、竜骨だけの船だった。前回の十歳の瑠璃は、この続きを教わらなかった。父は母に呼ばれて途中でやめ、そのあとに湖があって、父は家を出た。

「続きをやるか」

「うん」

父は畳の上に新聞紙を広げて、肋材の木片を並べた。父の指は太く、爪の際に造船所の油が黒く残っていた。その指が、爪楊枝ほどの木片を一本ずつつまんだ。

「これが肋骨だ。竜骨が背骨で、これが肋骨。船は、人と同じ組み方をする」

「人と同じ」

「そうだ。背骨が曲がっとったら、どんなにいい板を張っても沈む。だから造船所では、竜骨を据える日がいちばん大事な日だ。先週、秋の船の竜骨が据わった。据わったから、父さんは安心して、今夜はこれができる」

父は肋材を一本ずつ、竜骨の刻みに差し込んでいった。私は膠の瓶を持っていた。

「瑠璃は、手が器用だな」

「とうさまのほうが」

「わしのは、仕事の手だ」

十本目の肋材を差し込んだとき、父は、膠を指につけたまま私の顔を見た。

「湖では、何をして遊ぶ」

「木登り」

「木登りか。落ちるなよ」

「落ちない」

「落ちるときは、落ちると言ってから落ちろ。父さんが下で受ける」

私は、笑った。十歳の瑠璃の顔で笑った。白石澄も、少しだけ笑った。

八月十五日の十七時、この人は汽車に乗る。前回は。

今回は、乗せない。そう決めてあった。決めてあることを思い出して、私は膠の瓶を持つ手に力を入れた。

「どうした」

「なんでもない」

「そうか」

父は十一本目の肋材を差し込んだ。

　＊

七月二十五日、帳面に書いた。

　七月二十二日　澪へ手紙　フミが郵便へ　返事は足袋屋宛て
　予定　澪が受け取るのは二十四日か二十五日　返事が来るのは早くて二十八日

　小野さんが毎朝柱を見る　八月一日から
　柱が切られた日が分かる
　切られた日に湖にいた者が分かる（前回　伯父は十二日から）

一覧を読み返した。

計画は、動き出していた。私が動かしたのは、手紙一通だけだった。手紙一通で、湖の番人が八月一日から毎朝柱を見る。十四日の朝までに、十四回見る。

白石澄は、それを少し誇らしく思った。予防策としては、よくできている。費用が少なく、痕跡も少ない。

十歳の瑠璃は、澪の返事を楽しみにしていた。虹色の貝殻を、今年も拾えるだろうか。

二十一日。

---

# 第十二話　変化

七月二十六日から、七月二十九日まで。八月十五日まで、あと二十日から十七日。

　＊

七月二十六日の夕食で、母が言った。

「今年の灯籠の晩は、遅くまで起きていていいわ」

私は箸を止めた。

父が先に言った。「いいのか。去年は八時に寝かせたろう」

「もう十歳ですもの」母は笑った。「灯籠が沈むまで見ていなさい。去年、あなた泣いたでしょう。見たかったって」

十歳の瑠璃は、去年の夏に泣いたことを覚えていた。灯籠を最後まで見られずに寝かされて、布団の中で泣いた。

白石澄は、前回の八月十五日を覚えていた。前回、私は宴の途中で意識を失っている。お絹が台所へ立ったところで、記憶が切れている。寝かされたのではない。眠らされた。

前回の母は、あの夜、娘に起きていてほしくなかった。

今回の母は、起きていていい、と言っている。

私は「はい」と答えて、箸を動かした。飯の味がしなかった。

その夜、帳面に書いた。

　七月二十六日　夕食
　母「今年の灯籠の晩は、遅くまで起きていていい」
　前回　宴の途中で眠らされた（薬）
　→　変化その一

変化、と書いてから、その字をしばらく見ていた。

母が優しくなっただけかもしれない。十歳の誕生日から、娘を少し大人扱いすることにしたのかもしれない。去年泣いたことを覚えていて、今年は叶えてやろうと思ったのかもしれない。

可能性は並べられた。並べてみて、どれも前回の母とは合わなかった。前回の母は、あの夜のために四月から薬を買っていた。その母が、今年は娘を起こしておくと言う。

薬は、もう家のどこかにある。七月十日に十日分が出ている。

　＊

七月二十七日、分家の客が来た。

伯父の妻の、分家の奥様だった。一臣さまの母親で、小柄で頬のふっくらした人だった。話すときに、少し首を傾げる。婚礼の支度のことで母に相談があるという。私は挨拶をして、隣の間で習字をしていた。襖は少し開いていた。

話の途中で、分家の奥様が私のことを訊いた。

「瑠璃さん、湖は楽しみでしょう」

母が答えた。

「それが、この子、このところ湖の悪い夢を見るらしくて」

私は筆を止めた。

「まあ」

「桟橋が怖い、って言うの。夜中に起きて。それなのに、昼は湖へ行くのを楽しみにしているのよ。子どもって、変なものね」

分家の奥様が笑った。母も笑った。

私は、湖の夢の話を、母に一度もしていない。

七月十五日の朝、夢を見た、とだけ言った。どんな夢かと訊かれて、覚えていないと答えた。そのあと、この人の前では夢の話をしないと決めた。決めたとおり、一度もしていない。

桟橋が怖い、と言ったこともない。

母は、私がしていない話を、客にしている。

　＊

その夜、帳面に書いた。

　七月二十七日　分家の奥様
　母「湖の悪い夢を見る」「桟橋が怖いと言う」
　私はその話をしていない
　→　変化その二

それから、白石澄の書式で、変化その二の意味を三つ並べた。

　一　母の思い違い（私が寝言で言った？）
　二　母の作り話（何のために）
　三　母が、私が桟橋を気にしていると知っている

一つ目は、ありうる。私は七月十五日から、毎晩、桟橋のことを考えて眠っている。寝言くらい言うかもしれない。ただ、母は私と同じ部屋で寝ていない。

二つ目を考えた。十歳の娘が湖の悪い夢を見る、と客に話して、母に何の得があるか。

調査では、人がわざわざ言うことには理由がある。わざわざ言うのは、あとでその話が必要になるときだ。保険金の請求で、事故の前に「最近ブレーキの調子が悪くて」と周りに話していた人を、私は何人も見た。前もって言っておけば、あとで起きたことが、その話の続きに見える。

娘が桟橋を怖がる夢を見ていた。その娘が、八月十五日の夜、桟橋で何かを言っても、夢の続きになる。

娘が桟橋のことを言い出す前に、母は、娘の言葉を夢の話にしておこうとしている。

私は、三つ目を見た。

母が、私が桟橋を気にしていると知っている。

どうやって。

私は、七月十五日からの二週間を、一日ずつ思い出した。母の前で桟橋と言ったことはない。湖に行くのかと、おじさまに訊いた。母は車の中で、湖が好きね、と言った。それだけだ。

それだけで、桟橋までは届かない。

帳面の、三つ目の横に「？」を書いた。答えは、まだ出なかった。

　＊

七月二十八日。

私は母の居間の前の廊下を、朝と夕方に一度ずつ通った。何も聞こえなかった。

二十九日の昼、フミが足袋屋から戻ってきた。前掛けのかくしから、封筒を一通出した。

「お嬢様。内緒のお手紙が来ておりましたよ」

私は礼を言って、封筒を受け取り、自分の部屋へ上がった。

封筒の字は、鉛筆で、大きかった。宛名はフミの妹の足袋屋で、その下に、天導瑠璃さまへ、と書き足してあった。

開けた。

　るりちゃんへ

　おてがみありがとう。貝がら、まだもってるの？　あたしも一つもってる。
　木のぼり、おしえてあげる。うらの山のくりの木がいいよ。

　おとうちゃんに言いました。八月一日から毎朝見るって。紙に書いておくって。
　おとうちゃんは、なんで？　って言ったけど、るりちゃんがあってから話すって言ったら、わかったって。

　それから、おてがみのふうとうが、いちど開いたみたいでした。
　のりが二回ついてた。しめの字も、上と下がちょっとずれてた。
　ゆうびんやさんがあけたのかな。
　でも中はちゃんとあったよ。

　みお

私は、その手紙を二度読んだ。

三度目は、封筒のことを書いた終わりの段だけを読んだ。

のりが二回ついてた。しめの字も、上と下がちょっとずれてた。

　＊

私は、便箋を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。

飯粒の糊の上に、もう一度糊を塗った。〆の字の上半分と下半分がずれた。封を一度剥がして、閉じ直した者がいる。閉じ直した者は、〆の字を書き直さなかった。蓋を元の位置に合わせきれなかった。

郵便屋さんは、封を開けない。開ける理由がない。

では、封筒は、郵便屋さんの手に渡る前に、どこを通ったか。

私が封をしたのは、朝、自分の部屋だった。昼前にフミの前掛けのかくしへ入った。二時過ぎに、フミが玄関脇の棚から手紙の束を取って、籠の底に入れた。

フミの前掛けのかくしから、玄関脇の棚まで。そのあいだのことを、私は見ていない。

見たのは、昼過ぎ、女中頭が玄関脇の文箱を抱えて奥の廊下へ入り、しばらくして戻ってきたことだった。毎日見る景色だったから、見ても、何も書かなかった。

私は階下へ降りて、台所の土間で豆を剥いていたフミの隣にしゃがんだ。

「フミ。この前のお手紙、かくしから、そのまま郵便局に持っていってくれた？」

フミは豆の莢を割りながら、首を振った。

「いいえ。お昼の支度の前に、文箱に入れておきましたよ。いつもそうしますから。奥様が切手を見てくださいますし」

「かあさまが」

「ええ。お昼のあとに、女中頭が文箱を奥様のお部屋へお持ちして、奥様が切手の足りないのに貼り足してくださるんです。それから、わたくしがまとめて持って出ます。……内緒のお手紙でしたのに、いけませんでしたか」

「ううん。ちゃんと届いたから」

フミは、よかった、と笑った。

私は二階へ戻った。

分家の家では、出す手紙は全部、玄関脇の文箱に入る。文箱は、郵便の前に一度、母の居間を通る。十歳の瑠璃は、それを毎日見ていた。毎日見ていたから、決まりとして思い出さなかった。

父への手紙のとき、私は母に手渡しした。だから、母の手を通したのは、あの手紙だけだと思っていた。今度はフミに渡した。母の手を通さない道を選んだつもりだった。

選んだ道の途中に、母の居間があった。

　＊

母は、封を開けて、読んで、糊で閉じ直した。そして、出した。

止めなかった。

前回、父への手紙は全部止められていた。父への手紙は、返事が来なくても、十歳の娘は父が遠くにいるせいだと思う。澪への手紙が止まれば、娘は澪の返事が来ないことに気づく。気づけば、別の道を探す。読んで出せば、娘は何も気づかない。

私は、止められていないことを、読まれていないことだと思っていた。確かめたことは、一度もなかった。

帳面を開いて、変化その二の三つ目の「？」の横に書いた。

　七月二十二日　澪への手紙　封を開けて閉じ直した跡（糊が二回　〆の字のずれ　澪）
　封筒の道　私→フミのかくし→玄関脇の文箱→母の居間→フミ→郵便局（フミ）
　→　母が読んだ

　母が知ったこと
　　娘が、小野さんに、八月一日から毎朝、桟橋の柱を見てもらうよう頼んだ
　　理由は、湖で会ってから話す
　　ほかの人には言わないで

一行ずつ、母の目で読んだ。

十歳の娘が、番人に、桟橋の柱を毎朝見てくれと頼んでいる。理由は言わない。ほかの人には言うなと書いている。

私が母なら、何を考えるか。

この子は、桟橋に何かがあると知っている。誰かから聞いた。兄の手代か、兄本人の口の軽さか。あるいは、眠っているふりをして、どこかで何かを聞いた。

どこから知ったのかは、手紙のどこにも書いていない。読んだ母にも、そこは分からない。分かるのは一つだけだ。

娘は、八月十五日に、何かが起きると思っている。

変化その一と変化その二が、一本の線でつながった。

母は二十二日に手紙を読んだ。二十六日に、灯籠の晩は起きていていいと言った。二十七日に、娘は湖の悪い夢を見る、桟橋を怖がる、と客に話した。

母は、計画を変え始めている。

　＊

私は帳面を閉じて、窓の外を見た。

蝉が鳴いていた。帝都の夏の蝉は、湖の蝉より声が低い。

規則の二つ目を、私は自分で破った。八月十五日まで、誰にも気づかせない。気づいたのは、いちばん気づかせてはいけない人だった。

十四歳の冬に乾板を撮った夜も、私は母が見ていない方に賭けた。十八歳の四月、手提げの紐を握ったときも。

三度目だった。

「私はまた、母より一手遅い」

声に出さずに言った。

十歳の瑠璃が、膝の上の便箋を見ていた。虹色の貝殻を、澪はまだ一つ持っている。くりの木がいい、と書いてある。

白石澄は、帳面をもう一度開いた。

一手遅いなら、遅れた一手の先を読むしかない。母が何を変えたのかを、母が変えた物から読む。変えた物は、必ずどこかに出る。人は、計画を変えるとき、何かを買い、誰かに何かを言いつけ、何かを別の場所へ動かす。

私は新しい頁の一番上に、日付と、件名を書いた。

　七月二十九日　件名　母の新しい計画（推定）

その下は、まだ白いままだった。

十七日。

---

# 第十三話　新しい計画を読む

七月三十日から、八月五日まで。八月十五日まで、あと十六日から十日。

　＊

七月三十日と三十一日、母は何も変えなかった。

少なくとも、私の見えるところでは。朝食の席で母は新聞を読み、昼は女中頭と湖の荷物の話をし、夕方は父の帰りを待った。私は母の居間の前の廊下を、朝と夕方に一度ずつ通った。

変えた物は、必ずどこかに出る。二十九日の夜にそう考えた。出るまで、待つしかなかった。

　＊

八月一日、母がお絹を居間へ呼んだ。

私はそれを、廊下の角で聞いていた。

「お絹。十五日の晩は、あなたも村の盆踊りへ行っておいで。去年は一晩中台所だったでしょう。今年は、瑠璃の世話はいいから」

「まあ、奥様。よろしいのですか」

「いいのよ。毎年働かせてばかりで悪いと思っていたの。お小遣いも少しあげる」

お絹の声が、嬉しそうに弾んだ。

「ありがとう存じます」

私は廊下の角から離れた。

前回のお絹は、宴の途中で台所へ行かされた。氷を割れと言われて。氷はもう割ってあった。戻ったとき、私はもう縁台にいなかった。

お絹を遠ざけるのに、前回の母は、宴の途中の三十分を使った。

今回の母は、お絹を、晩のあいだじゅう遠ざける。

帳面に書いた。

　八月一日　母→お絹
　「十五日の晩は、盆踊りへ行っておいで。瑠璃の世話はいい」
　前回　宴の途中で台所へ（三十分）
　→　変化その三

　＊

八月二日は土曜で、本家で時計を巻く日だった。

母は、今日は行かなくていいと言うかもしれない、と私は思っていた。母は何も言わなかった。いつものように車で送り、奥の間で女中頭と話をした。

星の間では、四十三の時計が鳴っていた。

おじさまと二人で、下の段から巻いた。私が十三台、おじさまが三十台。巻き終えると、おじさまは窓際の机で帳面をつけ始めた。私は横で、巻いた時計の番号を読み上げた。

十一時過ぎ、佐伯が月末の払いの束を持ってきた。

「旦那様、七月分でございます。お目通しを」

「そこへ置いてくれ」

佐伯は束を机の端に置き、一番上の一枚だけを指で押さえた。

「一件だけ、先にお耳に入れておきます。分家の貞光様から、星見荘の物置用にと、細工鋸を一挺。本家のお払いにしてくれとのお申しつけでございました。金物屋の請取はこちらに。三十日の日付でございます」

「細工鋸」

「はい。板の下から挽く、柄の曲がったものだそうで。桟橋の板の継ぎを直すのにお使いになると」

おじさまは、少し笑った。

「貞光さんは、毎年、湖で大工の真似をする」

「さようで」

「払っておいてくれ」

佐伯は一礼して下がった。

私は、時計の番号を読み上げる声を止めなかった。止めれば、おじさまが私の顔を見る。

　＊

帰りの車の中で、私は何も書けなかった。母が隣にいた。

家へ戻って、部屋の襖を閉めてから、帳面の新しい頁に書いた。

　八月二日　本家　星の間
　佐伯「貞光様から、星見荘の物置用に細工鋸を一挺。本家のお払いに」
　　「板の下から挽く、柄の曲がったもの」
　　「桟橋の板の継ぎを直すのに」
　　請取の日付　七月三十日
　前回　伯父が柱を切った鋸は、星見荘の物置の鋸（ゲーム）
　→　変化その四

前回の伯父は、星見荘の物置にある鋸で、桟橋の先端の柱を切った。物置の鋸で足りたからだ。わざわざ買う必要はなかった。

今回、伯父は新しい鋸を買った。板の下から挽くための、柄の曲がった鋸を。

新しい道具を買うのは、古い道具で足りない仕事をするときだ。

盆の湖行きの費用は、毎年本家が持つ。桟橋の修繕用としてそこへ入れれば、鋸の請取があっても怪しまれない。おじさまは、目の前で笑って払いを認めた。

　＊

八月三日、母が私を居間に呼んだ。

居間の卓の上に、紙の灯籠が一つ置いてあった。白い紙を貼った四角いもので、角に小さな瑠璃色の紙の星が一つ貼ってあった。子どもの手で持てる大きさだった。

「あなたの灯籠よ。銀座の紙屋で作らせたの」

母は灯籠を私の手に載せた。軽かった。

「今年は、あなたが一人で、桟橋の先から流しなさい」

私は灯籠を持ったまま、母の顔を見た。

「一人で」

「もう大きいんだから。大人の後ろからじゃなくて、一番先から流すのよ。おじさまも喜ぶわ」

母は笑っていた。

「怖い？」

私は答えなかった。

「怖いなら、無理にとは言わないわ。桟橋、怖いんでしょう。夢に見るくらい」

母は、私がしていない話を、今度は私にしていた。

「……怖くない」

「そう。えらいわね」

母は私の髪を撫でた。

　＊

その夜、帳面の四つの変化の下に、五つ目を書き足した。

　八月三日　母→私
　子ども用の灯籠（瑠璃色の星）
　「今年は、あなたが一人で、桟橋の先から流しなさい」
　「怖いなら無理にとは言わない」「桟橋、怖いんでしょう」
　→　変化その五

五つの変化を、一覧にした。

　前提　母は七月二十二日に、私の手紙を読んだ（澪の手紙の封　フミの話）
　一　灯籠の晩は起きていていい（七月二十六日　私へ）
　二　娘は湖の悪い夢を見る、桟橋を怖がる（七月二十七日　客へ）
　三　お絹を晩のあいだ盆踊りへ（八月一日　お絹へ）
　四　伯父が細工鋸を買う　板の下から挽くもの（七月三十日の請取　佐伯）
　五　娘に一人で桟橋の先から灯籠を流させる（八月三日　私へ）

白石澄は、仕事でこういう一覧を何度も作った。事故の前に起きた、いつもと違うことの一覧。一つずつなら、どれも説明がつく。並べると、一つの形になる。

私は、その形を読んだ。一段ずつ。どの段も、一覧のどの行から来たのかを横に書きながら。

　＊

一段目は、場所だった。前提と、四から。

私の手紙は、小野さんに、桟橋の「柱」を毎朝見てくれと頼んでいた。前回、伯父が切ったのは先端の柱だった。母はそれを知っている。同じところを切れば、八月一日から毎朝柱を見ている番人に、翌朝見つかる。

だから、切る場所を変える。番人が見ない場所へ。

伯父が買ったのは、板の下から挽く鋸だった。桟橋の板の下には、杭と杭をつなぐ梁が横に渡してある。梁は、上からは見えない。桟橋の上に立っても、岸から見ても、板に隠れている。見るには、舟で桟橋の下へ入らなければならない。

柱を見てくれと頼まれた番人は、柱を見る。梁は見ない。

私の手紙が、伯父に切る場所を教えた。

二段目も、場所だった。梁は、付け根から先端まで何本もある。どれを切るか。

付け根の近くは浅い。前回の十八歳の夏、架け替えられた桟橋の下で、番人の男が膝まで水に入って杭を打っていた。そこで落ちても、大人は立てる。先端の近くは、灯籠を流す者が膝をつく場所で、番人が柱を見る場所でもある。

残るのは中ほどだった。落ちれば足がつかない深さがあり、付け根から走り出した大人が、いちばん速くなっているところ。

　梁　中ほど（推定　確かめていない）

と私は書いた。確かめていないことは、確かめるまで推定と書く。

三段目は、眠りだった。一と五から。

前回、母は娘を眠らせた。眠らせた子は、迷子にするしかない。迷子にするには、子どもを背負って舟屋へ運ぶ手間と、運ぶところを誰にも見られない時間が要る。前回、母はそのために、お絹を三十分遠ざけた。

今回、母は娘を起こしておくと言った。そして、一人で、桟橋の先から灯籠を流せと言った。

起きている子は、自分の足で歩く。自分の足で、梁の上を通って、桟橋の先まで。

四段目は、重さだった。

私は、帳面の余白で数字を書いた。十歳の子の目方は、九貫目に届かない。大人の男は、十六、七貫目。歩く子どもは、一歩ずつ体重を板に載せる。走る大人は、一歩ごとに、自分の目方の倍近い重さを板に叩きつける。

梁を、子どもの歩く重さでは折れないが、大人が走れば折れるところまで挽いておく。

白石澄は、そういう壊れ方をした足場を、工場の転落事故の現場で一度見たことがあった。点検のときには折れなかった。点検した人が、歩いて渡ったからだ。

挽き加減を誤れば、梁は私の足の下で折れる。その先は、書かなかった。

五段目は、そばにいる人だった。三から。

お絹は盆踊りにいる。娘のそばに誰もいない。娘が本当はどこにいるのかを、すぐに言える者が、桟橋のまわりにいなくなる。

六段目は、叫び声だった。

子どもが桟橋の先にいるとき、闇の中で水音がする。誰かが叫ぶ。

「瑠璃が落ちた」

叫ぶのは、たぶん母だ。娘に一人で先へ行けと言ったのは母で、娘のそばからお絹を外したのも母だった。娘の居場所を知っているはずの人が、娘が落ちたと言えば、誰も疑わない。

水音を立てるのが誰かは、一覧からは読めない。私はそこを空けておいた。

七段目は、走る人だった。

おじさまは、走る。前回も、走った人だった。娘がいないと聞いて、暗い桟橋の先へ。

走る大人の目方で、中ほどの梁が折れる。

父は、また電報で遠ざけられるだろう。前回の電報の理由は、今回も変わらない。娘が落ちたと聞けば、父は誰より先に走る。父が先に走れば、折れた梁の上に落ちるのは父になる。相手を間違えないためには、父がいてはいけない。

八段目は、あとのことだった。二から。

娘が湖の悪い夢を見ていると、母は客に話してある。

あとで、娘が何を言っても、それは夢の続きになる。桟橋の梁のことを言っても。叫んだのは母だと言っても。

そして、おじさまが死んだあと、娘は、自分が桟橋の先にいたからおじさまが走った、と一生思う。

　＊

一覧に、一行だけ、変わっていないものがあった。日付だ。

母は、娘が何かを知っていると気づいた。それでも、八月十五日をやめていない。灯籠の晩のための支度を、一つずつ進めている。

なぜ日を変えないのか。

三村さんのところの紙は、去年の十二月にできた。おじさまと静子さまの婚礼は、十月。死んだときに効く紙があって、おじさまがまだ結婚していない。そのあいだにしか、この計画に意味はない。残りは、もう二か月半だった。

その二か月半のうちに、おじさまが暗い水のそばへ来て、大勢の目の前で、自分から危ない所へ走る夜は、灯籠の晩しかない。帝都の本家で人が死ねば、事故とは呼ばれにくい。

それに、母が読んだのは手紙一通だった。娘が桟橋を気にしている、としか母には分からない。何をどこまで知っているかは、分からない。分からない相手に対して、母は計画の骨組みを残し、娘に読まれた部品だけを替えた。

私は、ペンを置いた。

指が冷たかった。八月の夜なのに。

一覧の一番下に、結論を書いた。

　餌は、今度も私。
　ただし今度は、眠っていない私。

書いてから、しばらくその二行を見ていた。

私が予防のためにした、たった一つのこと。澪への手紙。小野さんに柱を見てもらうための手紙。それが、伯父に切る場所を教え、母に娘を起こしておく理由を与え、娘の恐れを夢の話にする口実を与えた。

母は、私の予防策を、罠の部品にした。

十八歳の四月、私が守った乾板を、母は私の沈黙の証拠にした。十歳の七月、私が送った手紙を、母は私を歩かせる道にした。

同じ手口だった。母は、私が作った物を使う。

　＊

白石澄は、帳面の最初の頁を開いた。規則の一覧だ。

　一　誰も死なせない。
　二　八月十五日まで、誰にも気づかせない。
　三　証拠は、大人が自分の目で確かめた物だけを使う。私の言葉は証拠にしない。
　四　最後に、殺しても何も得られないようにする。

二つ目に、線を一本引いた。

気づかせてはいけない人に、もう気づかれた。母は、娘が何かを知っていると気づいている。ただ、何をどこまでかは、手紙一通からは読めないはずだ。それだけが、まだ私の手の中にある。

線の横に、書き足した。

　二（改）　母に、私が新しい計画を読んだことを気づかせない。

それから、七月二十一日に候補の頁に書いたことを、一つ取り消した。

　おじさま
　　今は言わない。

その行にも線を引いた。

母が計画を変えた以上、私一人では八月十五日の夜を守れない。梁の下へ入るには、大人の手が要る。走らない、と決めるのは、おじさま自身でなければならない。

ただ、おじさまに言う方法は、規則の三つ目に従わなければならない。十歳の子の言葉ではなく、おじさまが自分の目で確かめられる物で。

そして、母に気づかれない場所で。

四日と五日、私は帳面の予定の欄を何度も見た。

　八月十二日　夜　本家で夕食（湖へ発つ前の晩の、毎年の習い）

本家の星の間には、母は入らない。おじさまが時計を巻くとき、母はいつも奥の間にいる。

　八月十二日　夜　星の間　おじさまに言う

書いて、ペンを置いた。

十日。

---

# 第十四話　おじさまの星の間

八月六日から、八月十二日まで。八月十五日まで、あと九日から三日。

　＊

八月六日から十一日までの六日間、私は何も変えなかった。

変えないことが、いちばん難しかった。

朝は七時に起きて、朝食の席で母に「おはようございます」と言った。昼は縁側で本を読み、夕方は父の模型の船を手伝った。母が灯籠のことを言えば、楽しみ、と答えた。母が桟橋のことを言えば、黙った。黙るのは、十歳の子が怖いものの話をされたときの黙り方にした。

母は、私を見ていた。見られていることを、私は知っていた。知っていることを、顔に出さないようにした。

白石澄は、仕事で一度だけ、自分が調べている相手と毎日同じ事務所で顔を合わせたことがあった。三か月間、その人に茶を淹れた。三か月のあいだ、その人の机の上の書類を一度も見なかった。見なくても、何が起きるかは分かっていたからだ。

今度も、見なくていい。母が何をするかは、もう読んである。

見ないことで、母に、私がまだ読んでいないと思わせる。

　＊

八月九日の夕方、父が模型の船を仕上げた。

竜骨と肋材の上に、薄い板が張られていた。甲板には、小さな帆柱が一本立っていた。父は船底に、自分で削った小さな鉛の錘を膠でつけた。

「これで、ひっくり返らん」

「浮かべていい？」

「湖でな」

父は船を私の手に載せた。軽かった。母の灯籠と、同じくらいの重さだった。

「名前をつけろ」

私は少し考えた。

「るりまる」

父は笑った。

「本家の船と同じ名か。大きく出たな」

父は筆を持ってきて、船の舳先に小さく「るりまる」と書いた。字は下手だった。

「湖で、おじさまに見せてやれ。あの人は、船が好きだ」

私は船を抱えた。

十歳の瑠璃は、嬉しかった。白石澄は、その嬉しさを止めなかった。止める理由がなかった。

　＊

八月十二日。

毎年、湖へ発つ前の晩は、本家で夕食をとる習いだった。伯父はその朝、一足先に湖へ発っていた。

夕食は、おじさまと、母と、父と、私の四人だった。父は造船所の竜骨の話をした。おじさまは秋の進水式の話をした。母は、湖の荷物の話をした。

食事が終わると、おじさまが言った。

「瑠璃。今夜は時計を巻かないが、見ていくか」

「はい」

母が私を見た。

「あまり遅くならないように」

「すぐ戻る」とおじさまが答えた。

母は奥の間へ、父は庭へ煙草を吸いに出た。

星の間の襖を閉めると、四十三の時計の音が、部屋じゅうに満ちた。

　＊

窓際の机の端に、写真立てが一つあった。

百合子さまの写真だった。おじさまの最初の奥様で、長く病気がちで、二年前の春に亡くなった。十歳の瑠璃の記憶の中で、百合子さまはいつも奥の間の障子の向こうにいる人だった。障子を開けてもらえた日は、床の上に起き上がって、枕元の小箱から干菓子を一つくれた。

去年の暮れに、おじさまと静子さまの婚約が決まった。十月に婚礼がある。机の上の写真立ては、まだそのままだった。

おじさまは窓際の椅子に座って、私を膝の前の小さな腰掛けに座らせた。

「湖では、何をする」

「澪ちゃんと、木登り」

「番人の娘か。あの子は猿のように登る」

おじさまは笑った。

私は、膝の上で手を組んだ。十歳の手だった。指を組んでも、震えは止まらなかった。

白石澄は、証人に最初の質問をするとき、いつも決めていたことがあった。最初に、相手しか知らないはずのことを、こちらから言う。こちらが何者かを、相手に先に決めさせるために。

「おじさま」

「うん」

「わたしの名前は、おじさまがつけたの？」

おじさまの笑いが、止まった。

「……誰に聞いた」

「『私たちの子に、名を考えた。女の子なら、瑠璃という。君がよいと言えば、そうしたい。銀細工屋に、星を一つ頼んだ』」

私は、便箋の文面を、そのとおりに言った。前回の十八歳の朝、三村さんの封書の中で読んだ、宛名のない一枚。

おじさまは、動かなかった。

「その手紙は、藤乃に」

「それから、三村さんのところに、紙があります」

私は続けた。

「おじさまが亡くなったときにだけ、わたしをおじさまの子にする紙。去年の暮れの日付です。静子さまとのお話が決まった月です。その月の初めに、母が、手紙で頼みました」

四十三の時計が鳴っていた。

「『あなたが生きているあいだは、この子は恭介の子のままで構いません。あなたが決めない人だということは、もうよく分かりました。ですから、せめて、あなたが亡くなったときにだけ効く紙を、この子のために書いてください。三村さんに預けてください。私はもう待ちません』」

おじさまの顔から、血の気が引いていった。

「瑠璃」

「はい」

「それを、誰から聞いた。藤乃か。三村か」

「誰からも」

「では、どうして」

私は答えなかった。答えられる言葉を、十歳の私は持っていなかった。八年後の四月に読んだ、と言えば、おじさまは私を、湖の悪い夢を見る子にする。母が分家の奥様に言ったように。

「どうしてかは、言えません」

私は言った。

「でも、わたしの言うことを信じてくださいとは、言いません」

　＊

私は、帳面の頁を一枚破って、おじさまの膝の上に置いた。

前の晩に書いたものだった。十歳の瑠璃の字で、大人の書式で。

　おじさまへのお願い

　一　湖に着いたら、小野さんの舟で、桟橋の中ほどの下へ入ってください。
　　　板の下の梁に、新しい切り口があります。
　　　触らないでください。直さないでください。
　二　十五日の午後三時に、とうさまに、本社から「至急帰京せよ」という電報が来ます。
　　　本社は、その電報を出していません。
　　　郵便局の電話で、本社に確かめてください。

　一と二が、両方ほんとうだったら、
　十五日の晩は、わたしの言うとおりにしてください。

　一か二が、ちがっていたら、
　この紙のことは、忘れてください。

おじさまは、紙を読んだ。二度読んだ。

「桟橋の梁」

「はい」

「誰が切る」

「確かめてから、訊いてください」

おじさまは、紙から目を上げて、私を見た。

長いあいだ、見ていた。十歳の子を見る目ではなかった。何を見ているのか、この人自身にも分かっていないような目だった。

「私に何が起きる」

おじさまが訊いた。

私は、答えるかどうか、一度迷った。

「十五日の晩、灯籠のあとで、誰かが『瑠璃が落ちた』と叫びます。おじさまは、桟橋の先へ走ります。梁が折れます」

「……それで」

「朝まで、見つかりません」

おじさまは、目を閉じた。

　＊

私は、最後の頼みを言った。

これだけは、紙に書かなかった。紙に書けば、いつか誰かが読む。

「おじさま。三村さんのところの紙を、生きているうちに、書き換えてください」

おじさまは目を開けた。

「死んだら効く紙がある限り、この家では、誰かがおじさまの死を待ちます」

おじさまは、しばらく何も言わなかった。

九時になった。四十三の時計のうち、鐘のあるものが、少しずつずれて鳴り始めた。一台が鳴り終わる前に次が鳴り、音が重なって、長い雨のように部屋を満たした。

鳴り終わってから、おじさまが言った。

「藤乃が、そう頼んだのは、本当だ」

「はい」

おじさまは、机の端の写真立てを見た。

「百合子が死んだ春から、藤乃は、私が決めるのを待っていた。私は決めなかった。親族会の持ってきた静子さんとの話を受けて、藤乃には、紙を一枚渡した。死んだときに効く紙なら、生きているうちの私は、何も決めなくて済む」

おじさまは、少し間をおいた。

「決めなくても効く紙だ。藤乃はそれを、せめて、と言った。私は、それで許されたつもりでいた」

おじさまは、私の紙を二つに畳んで、胸のかくしに入れた。

「確かめる」

おじさまは言った。

「一と二を、確かめる。当たっていなかったら、今夜のことは忘れる。お前が何を言ったかも。……当たっていたら」

「はい」

「そのときは、お前の言うとおりにする」

それから、少し笑った。笑い方が、いつもと違った。

「三村の紙は、明日、三村に会う。湖へは十四日に発つ。紙のことは、三村に会ってから考える」

考える、と言った。決める、とは言わなかった。

それでもよかった。この人は、確かめると言った。確かめる人は、自分の目で見る。

　＊

星の間を出ると、廊下の先に母が立っていた。

「遅かったわね」

「時計の話を」

母は私の顔を見た。私は母の顔を見なかった。見れば、母は私の目の中に何かを探す。

「顔が赤いわ」

「部屋が暑かったから」

「そう」

母は私の手を取った。母の指が、私の手首を掴む位置は、いつもより少し上だった。

分家の家へ戻る車の中で、母は一度だけ言った。

「おじさまは、あなたを可愛がりすぎるわね」

私は答えなかった。窓の外を、帝都の夜が流れていった。

家に着いて、部屋の襖を閉めてから、帳面に書いた。

　八月十二日　本家　星の間
　おじさまに言った
　　命名の便箋（文面）　三村さんの紙（死亡時の認知　去年の暮れ）　母の十二月の手紙
　　願い一　桟橋中ほどの梁　小野さんの舟で確かめる
　　願い二　十五日十五時　電報　本社へ電話
　　願い三（口頭）　三村さんの紙を、生きているうちに書き換える
　おじさま「確かめる」「当たっていたら、お前の言うとおりにする」
　　「三村には、明日会う」
　　「百合子が死んだ春から、藤乃は私が決めるのを待っていた」
　母　廊下で待っていた　「顔が赤い」「可愛がりすぎる」

最後の一行を見た。

母が知ることができたのは、娘が星の間に長くいたことまでのはずだった。中で何を話したかは、襖の外には出ていない。

私は、規則の二つ目（改）の横に、小さく印をつけた。まだ、破っていない。たぶん。

たぶん、と書いたのは、この夏で四度目だった。

三日。

---

# 第十五話　湖へ

八月十三日。八月十五日まで、あと二日。

　＊

朝七時の汽車で帝都を発った。

母と、父と、私と、お絹。女中頭とフミは帝都に残った。行李が五つと、蚊帳が一張りと、私の手提げが一つ。手提げの中には、母の灯籠と、父の船が入っていた。

汽車の窓から、田んぼが見えた。十歳の瑠璃は、去年もこの窓から同じ田んぼを見た。前回の私は、十八歳の四月の終わりに、この線路で一人で湖へ移された。九月の二十日には、南の港から船に乗ることになっていた。その日が来る前に、私は十歳の七月に目を覚ました。

母は窓際に座って、本を読んでいた。父は通路側で、新聞を広げて眠っていた。お絹は私の隣で、籠の中の握り飯を数えていた。

「お嬢様、お腹は」

「まだ」

「湖に着いたら、澪ちゃんと遊べますね」

「うん」

お絹は、十五日の盆踊りのことを話した。村の櫓の上で、太鼓を叩く若い衆がいる。去年は一晩中台所にいたから、見られなかった。今年は奥様が行かせてくださる。浴衣を一枚、持ってきた。

私は、うん、うん、と聞いていた。

十五日の晩、この人に盆踊りへ行かないでと頼むのは、明日にしようと思った。今日頼めば、お絹は今夜、嬉しさを一つ失う。明日頼んでも、失うものは同じだ。それでも一日、延ばした。

延ばしてから、それが調査員の判断ではないと気づいた。十歳の瑠璃の判断だった。私はそれを、取り消さなかった。

　＊

星見荘に着いたのは、午後四時過ぎだった。

湖に向いて建つ、白い板張りの洋館だった。二階の窓はどれも湖のほうを向いていて、庭の芝が岸の砂利まで下りている。庭の端から、桟橋が一本、湖へ延びていた。桟橋の付け根から三十歩ほど離れたところに、舟屋がある。舟屋は半分が陸に、半分が湖の上に建っていて、湖の側の板の張り出しの下から、舟が出入りする。

湖は、十八歳の夏と同じ色をしていた。違ったのは、桟橋だった。

前回の十八歳の夏、桟橋は事件の翌年に架け替えられて、板も杭も新しかった。今、目の前にある桟橋は古かった。板は灰色に褪せ、杭には緑の苔がついていた。先端の脇に、救命舟が一艘、舫ってあった。

伯父は、縁側で茶を飲んでいた。

母より肉の厚い顔で、目の形だけが母と同じだった。

「着いたか」

伯父は、母に言った。私には目を向けなかった。十歳の瑠璃の記憶の中で、伯父はいつもそうだった。私に話しかけるのは、人前で私を褒めるときだけだった。

番人小屋の前で、麦わら帽子の男が頭を下げた。

小野弥吉。四十二歳。日に焼けて、首と腕が太かった。

その後ろから、女の子が走り出てきた。

「るりちゃん！」

小野澪。十一歳。短く切った髪が、走るたびに耳の上で跳ねた。日に焼けた顔で、膝に擦り傷が二つあった。私の手を取って、引っ張った。

「来て。貝がら、とっておいた」

十歳の瑠璃が、笑った。白石澄も、今度は止めなかった。

十九歳の澪は、星の間で私に「どうして、もっと早く」と言った。風呂敷に父親の遺書を戻しながら。十一歳の澪は、私の手を引っ張って、岸へ走っていく。

　＊

岸で、澪は袂から虹色の貝殻を一つ出した。

「これ、今年いちばん」

「きれい」

「あげる。そのかわり」

澪は声を低くした。人の顔をまっすぐ見て話す子だった。

「おてがみの、あれ。なんで？」

私は、周りを見た。お絹は縁側で行李をほどいていた。母は部屋の中だった。伯父は縁側で、まだ茶を飲んでいた。岸から縁側までは、四十歩ほどある。

「澪ちゃん。お父さん、毎朝見てくれてる？」

「うん。八月一日から。紙に書いてる。『異常なし』って、毎日」

「柱だけ？」

「柱だけ。るりちゃんが、柱って書いたから」

私は頷いた。

「澪ちゃん。桟橋の下、入れる？」

澪は目を丸くした。それから、少し得意そうな顔をした。

「入れるよ。あたしの小さい舟で。板の下で、梁をつかんで、手で引っぱって進むの。あたし、よく入る」

「一緒に入って」

「なんで」

「見たいものがあるの。見たら、話す」

澪は、少し考えた。何でも自分で確かめたがる子の考え方をしていた。

「いいよ」

　＊

五時半、日が傾いて、湖の上が少し暗くなった。

お絹には、澪と岸で貝を拾う、と言った。お絹は縁側から手を振った。

澪の舟は、舟屋の脇の葦のあいだに舫ってあった。畳一枚ほどの、底の平たい舟だった。澪が竿で岸を突いて、葦の陰を伝い、桟橋の付け根まで舟を寄せた。番人の子が舟で遊ぶのは、毎年のことだった。縁側から見えても、誰も気にしない。

桟橋の付け根で、澪は竿を置いた。舟を板の下へ押し込み、自分も首をすくめて入った。私も続いた。

板の下は、座った十歳の子の頭が、梁にぎりぎり触れない高さだった。杭が二列に並び、その上を、杭から杭へ梁が横に渡っていた。上の板を支える、太い角材だった。澪は座ったまま、頭の上の梁を両手でつかみ、舟を先へ引いた。次の梁をつかみ、また引いた。

暗かった。板の隙間から、夕方の光が細く落ちていた。

付け根のあたりでは、舟底の下に砂利が透けて見えた。澪が竿の先を水に入れた。竿は膝ほどの深さで底に着いた。桟橋の中ほどまで来ると、澪はもう一度竿を入れた。竿は半分以上沈んで、まだ底に着かなかった。

「ここから深いの。大人でも足つかない」

澪が、付け根から数えて十三本目の杭のところで、手を止めた。

「るりちゃん。これ」

澪の指が、頭の上の梁の下側を指していた。

梁の下の面に、切り口があった。

新しかった。木の色が白く、切り口の縁に細かい木屑がまだ残っていた。梁の太さの半分と少しまで、下から挽いてあった。上からは見えない。桟橋の上に立っても、岸から見ても、板に隠れている。

切り口の真下の水面に、木屑が浮いて、杭の苔に引っかかっていた。

私は、手を伸ばさなかった。

「触らないで」

澪は、伸ばしかけた手を止めた。

「これ、なに」

「誰かが、切ったの」

「なんで」

私は答えなかった。答える前に、確かめることがあった。

十三本目の杭は、桟橋のちょうど中ほどだった。先端の柱ではない。小野さんが毎朝見ている場所ではない。

中ほど、と帳面に書いたのは、推定だった。推定は、今、当たった。私の手紙が、切る場所を教えた。書いたとおりになっていることを、私は少しも嬉しいと思わなかった。

「澪ちゃん。お父さん、呼んできて。一人で。誰にも言わないで」

　＊

澪は舟を付け根まで引き戻して、岸へ上がり、走っていった。

私は付け根の下の浅いところで、舟の中に座って待った。板の隙間の光が、少しずつ細くなった。十三本目の杭のほうを振り返ると、梁の切り口は、暗くなっても白く見えた。

小野さんは、澪に手を引かれて、岸へ来た。膝まで水に入って舟の艫をつかみ、付け根の下から引き出した。小野さんが乗ると、舟が少し沈んだ。澪は岸に残った。

小野さんは櫂で舟を桟橋の外側へ回し、十三本目の杭に舫った。舟べりに身を寄せ、脇から梁の下を覗いた。私も身体を低くして、同じところを見た。

長いあいだ、見ていた。それから、指で木屑を一つつまんで、鼻に近づけた。

「……今日か、昨日の晩だ。木屑が湿ってない。松の脂の匂いが、まだする」

小野さんは、梁の下を指でなぞって、切り口の幅を測るように指を開いた。

「十一日に、舟の底の具合を見に、ここを通りました。梁にこんな白いところがあれば、気がついたはずです。そのときは、無かった」

小野さんは舟を岸へ戻した。私を降ろしてから、澪の顔を見て、それから私を見た。

「お嬢様。これは、お嬢様が」

「わたしは見つけただけです」

「どうして、ここに何かあると」

私は、十歳の子の声で、十歳の子には言えない答えを探した。見つからなかった。

「澪ちゃんの手紙に、お父さんが毎朝柱を見てるって書いてあったから。柱じゃないところも、見たくなって」

小野さんは、それ以上訊かなかった。訊かないことを、この人は自分で決めたようだった。

「小野さん。お願いがあります」

私は言った。

「これを、今日の日付と一緒に、紙に書いておいてください。小野さんの字で。何時に見たか、どこの杭か、切り口がどのくらいか。十一日には無かったことも」

「……はい」

「それから、直さないでください。触らないでください」

小野さんの顔が、固くなった。

「お嬢様。これを直さずに置けば、誰かが落ちます」

「落ちないようにします」

私は言った。

「明日、おじさまが来ます。おじさまにも、小野さんと一緒に、ここを見てもらいます。それまで、このままにしてください」

小野さんは、桟橋へ目を向けた。それから、私を見た。

澪が、父親の袖を引いた。

「おとうちゃん。るりちゃんの言うこと、今まで全部、ほんとだったよ」

十一歳の澪の「今まで」は、去年の夏の一日と、手紙一通だけだった。

小野さんは、長く息を吐いた。

「……明日の、旦那様が見るまで。それまでは、このままにします。夜は、私が岸で見張ります。この舟は、付け根の下へ戻しておきます。旦那様をお連れするのに要りますから」

　＊

その夜、帳面に書いた。

　八月十三日　十七時四十分ごろ　星見荘　桟橋の下
　付け根から十三本目の杭　梁の下面　新しい切り口（梁の太さの半分余り）
　木屑　湿っていない　松脂の匂い（小野さん「今日か昨日の晩」）
　小野さん　十一日に舟で通ったときには無かった
　深さ　付け根は膝　中ほどは竿が届かない（澪）
　見た者　澪（十一）　私　小野さん（大人の証人　一人目）
　小野さん　日付と時刻を自分の字で記録　直さない　今夜は岸で見張る　舟は桟橋の下に置く

最後の行を読み直した。

一人目、と書いた。大人の証人が一人いる。十歳の子の言葉ではなく、番人が自分の目で見て、自分の字で書いた物が一枚ある。

十一日には無く、十三日の夕方にはあった。伯父が星見荘に来たのは、十二日だった。

十八歳の四月、私の手の中にあったのは、私が作った物だけだった。

今夜の紙は、小野さんの物だ。

蚊帳の中で、お絹の寝息が聞こえた。十五日の晩、盆踊りに行かないでと頼むことを、私は明日へ一日延ばしていた。

二日。

---

# 第十六話　十四日

八月十四日。八月十五日まで、あと一日。

　＊

朝、小野さんが縁側の下で私を待っていた。

「夜の間、誰も来ませんでした」

小野さんは小声で言った。帽子のつばの下で、目が赤かった。一晩中、岸にいたのだと分かった。

「ありがとうございます」

「朝、柱も見ました。異常なし、と書きました。梁のことは、別の紙に」

小野さんは、前掛けのかくしを指で押さえた。紙がそこにあるのだと思った。

「旦那様は、夕方にはお着きだそうです」

　＊

昼前、私はお絹に頼んだ。

台所の裏で、お絹は豆を選っていた。私はその横に座った。

「お絹」

「はい、お嬢様」

「明日の晩、盆踊り、行かないで」

お絹の手が止まった。

「……まあ」

「わたしのそばに、いて。わたしの見えるところに」

お絹は、私の顔を見た。それから、豆の笊を見た。

「奥様が、行っておいでとおっしゃいました」

「知ってる」

「お嬢様のお世話はいいから、と」

「知ってる」

お絹は、しばらく黙っていた。

「……お嬢様。何か、ございますか」

私は、答えを選んだ。十歳の子が言えることで、嘘でないことを。

「明日の晩、わたし、一人になりたくないの」

お絹は、笊を横へ置いた。

「浴衣は、来年も着られますね」

「ごめんね」

「いいえ」

お絹は、私の頭に手を置いた。父の置き方とは違った。もっと軽かった。

「奥様には、わたくしから申しません。当日、お嬢様がぐずったことにいたします。そうすれば、奥様もお叱りにはならないでしょう」

「ありがとう」

お絹は笑った。目がなくなる笑い方だった。

前回のお絹は、八年黙った。黙った理由は、受け取ったもののせいだった。今のお絹は、浴衣を一枚、来年へ回した。

受け取ったものではなく、自分で手放したもので、人は動く。私はそれを、帳面には書かなかった。

　＊

おじさまが着いたのは、午後四時過ぎだった。

母が出迎えた。伯父も縁側から立った。

「静子さんは」と母が訊いた。

「この暑さだ。今年は来ない」

「まあ」

母の声は、残念そうだった。十歳の瑠璃には、そう聞こえた。白石澄には、少しだけ違って聞こえた。人が一人少ないのは、母の計画には都合がいい。

おじさまは、私を見た。いつものように、少し笑った。

「瑠璃。船を持ってきたか」

「はい。とうさまが作ってくれた」

「見せてくれ。岸で」

おじさまは、そう言って、縁側から庭へ降りた。私は手提げから父の船を出して、ついていった。母は縁側に残った。伯父も残った。

岸で、おじさまは船を受け取った。舳先の「るりまる」の字を見て、笑った。

「恭介君の字だな。下手だ」

それから、声を低くした。

「三村に会ってきた」

私は、黙って待った。

「紙は、あった。お前が言った日付の、お前が言った文面で。藤乃の手紙も、名の便箋も、三村が預かっていた」

おじさまは、船の帆柱を指で弾いた。

「三村に、撤回の書面を作らせた。署名してきた。死んだら効く紙は、昨日で無くなった。代わりに、生きているうちに、私が決める。……まだ何を決めるかは、決めていないが」

おじさまは、少し笑った。苦い笑い方だった。

「半分は、信じていない。お前が何を知っているのか、どうして知っているのか、私には分からない。ただ、あの紙がある限り、誰かが私の死を待つ、というお前の言葉だけは、否定できなかった」

「はい」

「小野はどこだ」

　＊

夕方五時、日が傾いた。

母は女中に呼ばれて家の奥へ入り、伯父も風呂へ立った。縁側が空いたのを見て、小野さんが付け根の下から舟を引き出した。

おじさまは着物の裾をからげ、水に入って舟に乗った。小野さんが続き、桟橋の向こう側へ漕いだ。十三本目の杭に舟を寄せると、二人は腰を低くした。桟橋の板に隠れて、顔は見えなくなった。私と澪は、岸の砂利の上で待った。

二人が岸へ戻ってきたのは、十分後だった。

おじさまの着物の裾が、腿まで濡れていた。顔が、白かった。

おじさまは、岸の砂利の上で、しばらく湖を見ていた。それから、私のほうへ来て、しゃがんだ。

「一つ目は、当たった」

おじさまは言った。

「十三本目。梁の下。小野は、十一日に通ったときには無かったと言う。昨日の夕方に見て、紙に書いてある」

「はい」

「貞光さんは、十二日から来ている」

おじさまは、それ以上言わなかった。

「二つ目は、明日の三時だな」

「はい」

「当たったら」

「わたしの言うとおりに」

おじさまは頷いた。それから、私の顔をまっすぐ見た。

「瑠璃。明日の晩、お前はどこにいる」

「桟橋の先に」

おじさまの目が、大きくなった。

「母が、わたしに一人で灯籠を流しなさいと言いました。わたしは、そうします。行かなければ、母は別のやり方をします。わたしの知らないやり方を」

「駄目だ」

「梁は、子どもの重さでは折れません。そういうふうに切ってあるはずです。走る大人の重さで折れるように」

おじさまは、黙った。

「それに、小野さんに、梁の下に支えの角材を一本入れてもらいます。上からは見えないように。罠の見た目は残して、危ないところだけを抜きます」

小野さんが、おじさまの後ろで、帽子を取った。

「今夜のうちに入れます。杭の苔の色に合わせた古材で。上からは、分かりません。子どもどころか、大人が跳ねても持つようにいたします」

おじさまは、長いあいだ、私と小野さんを交互に見ていた。

「……お前は、何者だ」

私は答えなかった。

おじさまは、立ち上がった。

「……明日を止めても、十月までに別の日を選ぶか」

おじさまは、桟橋を見た。

「紙の撤回を知らせれば、梁の細工も隠される。誰がやったのか、私にも言い逃れをするだろう」

それから、小野さんへ向き直った。

「支えを入れたら、君の重さで確かめてくれ。駐在には、私が話す。今夜のうちに。内密に」

　＊

日が沈むころ、おじさまは自分の母親のために、灯籠を一つ流した。

毎年、十四日の夕方にする習いだった。岸の、桟橋から少し北へ寄った砂利のところで。子どもは三人いた。私と、澪と、一臣さま。

一臣さまは、十六歳だった。伯父の息子で、この夏も湖へ来ていた。学校の用が残っていて、一人だけ十三日の夜の汽車で着いたのだと、お絹から聞いた。背が高く、まっすぐな眉をしていた。帝都の学校の学生服のまま来ていて、脇に本を一冊挟んでいた。十歳の瑠璃の記憶の中で、一臣さまはいつも少し離れたところで湖を見ている人だった。

「瑠璃さん。その船、君の？」

一臣さまが、私の手の船を見た。

「とうさまが作ってくれた」

「竜骨がちゃんとしてる」

一臣さまは本を小脇に挟み直して、船を受け取り、底をひっくり返した。

「錘も入ってる。これなら、ひっくり返らない」

前回の八年で私の知った一臣さまは、荷札と帳面を一枚ずつ突き合わせる人だった。十六歳の一臣さまは、渡された船をまず裏返して、底を確かめる人だった。

私は、この人の父親を、明日の晩、人前に出す。

おじさまの灯籠が、水の上をゆっくり離れていった。

　＊

夜十時過ぎ、私は庭に面した廊下で、母と伯父の声を聞いた。

寝かされた部屋は二階だった。お絹が寝入ったあと、私は便所へ行くふりをして下りた。便所は廊下の端にある。廊下の途中に、庭へ下りる沓脱ぎがある。そこに座ると、庭の植え込みの向こうの声が届いた。

十歳の瑠璃の記憶に、この場面はなかった。前回の十四日の夜、瑠璃は二階で眠っていた。

「明日は、子に灯籠を持たせる」

伯父の声だった。

「持たせてあります」と母が言った。「一人で先から流すと、本人が言いました」

「怖がっているのではなかったか」

「怖がっていると、皆に言ってあります。言ってあるから、行くのです。あの子は、怖いと思われるのが嫌いな子だから」

私は、沓脱ぎの上で膝を抱えた。

「水音は」

「私が叫びます。水音は、兄様に」

「丸太を一本、舟屋の張り出しに置いた」

「番人は」

「盆踊りだ。村の櫓で太鼓を叩く。毎年のことだ」

小野さんは、今年は櫓に上らない。ゆうべから、岸で見張っている。伯父の口ぶりでは、それを知らないようだった。

「恭介さんは」

「三時だ。辰巳が帝都から打つ。今朝、一臣に駅まで送らせた」

「分かりました」

少し、間があった。

「藤乃。後見のことだがな」

「はい」

「あれは、親族会で決まるものだ。お前の気持ちは分かるが、最後は三人が決める」

母は、答えなかった。

足音が一つ、植え込みの向こうへ遠ざかった。もう一つの足音は、しばらくそこに立っていた。

それから、母の声がした。独り言だった。

「……決めるのは、私です」

足音が、家のほうへ戻ってきた。

私は沓脱ぎから立って、便所の戸を開け、閉め、それから階段を上がった。音を立てないように。十歳の子の体重で、階段の板は鳴らなかった。

　＊

蚊帳の中で、帳面に書いた。灯りはつけなかった。窓の月明かりで、字は半分しか見えなかった。

　八月十四日
　お絹　盆踊りへ行かない　当日ぐずったことにする（お絹から）
　おじさま　三村の紙　撤回の書面に署名済み（十三日）
　おじさま・小野さん　十七時　梁を確認（大人の証人　二人目）
　小野さん　今夜、支えの角材を入れる
　おじさま　駐在へ内密に
　二十二時過ぎ　庭　母と伯父
　　「子に灯籠を持たせる」「怖がっていると皆に言ってある。だから行く」
　　「水音は兄様に」「丸太を舟屋の張り出しに」「番人は盆踊り」
　　「恭介さんは三時。辰巳が帝都から打つ」「今朝、一臣に駅まで送らせた」
　　伯父「後見は親族会で決まる」　母（独り言）「決めるのは、私です」

最後の一行を、私はしばらく見ていた。

十二歳の秋、母は私に、兄に後見を奪われた話をした。日付のない話だった。

前回、九月十五日の親族会のあと、母は廊下で湯呑を落とした。知らなかったから落としたのか、知っていたが耐えられなかったから落としたのか、湯呑一つでは分からない、と十歳の私は書いた。

今夜、伯父は、後見は親族会で決まる、と言った。母は答えなかった。一人になってから、決めるのは私です、と言った。

母はたぶん、今夜まで、後見は自分のものだと思っていた。今夜、兄の口ぶりで、そうではないかもしれないと知った。知って、それでも計画をやめると言わなかった。

前回の湯呑の意味が、半分だけ分かった気がした。半分なのは、前回の十四日の夜、私は二階で眠っていて、庭の声を聞いていないからだ。

決めるのは、私です。

一日。

---

# 第十七話　三時の電報

八月十五日、朝から夕方まで。

　＊

朝食は、広間で皆そろってとった。

おじさま、伯父、一臣さま、母、父、私。小野さんは給仕に立っていた。澪は番人小屋にいた。お絹は台所だった。

私は父の隣に座った。

父は、味噌汁の椀を持ったまま、湖を見ていた。

「今日は、晴れるな。灯籠日和だ」

「とうさま」

私は、椀で口元を隠して、小声で言った。

「今日の三時に、本社から電報が来ます」

父は、椀を下ろさなかった。

「ん？」

「至急帰京せよ、って。うそです。本社は出していません」

父は、私の顔を見た。

「何を言っとる」

「郵便局から、本社へ電話してください。汽車には乗らないで」

父は、少し笑った。笑って、私の頭を撫でた。

「夢でも見たか」

「……うん。夢」

私はそう言って、飯を食べた。

父は、それ以上何も言わなかった。母は、向かいの席で伯父と話していた。こちらを見ていなかった。見ていなかったと、私は思った。

言葉は、証拠にしない。規則の三つ目だった。父が今、私の言葉を信じなくていい。三時になれば、父は電報を自分の手で受け取る。受け取ったとき、朝の娘の言葉を思い出す。思い出したことは、父が自分で思い出したことになる。

　＊

昼前、澪と裏山の入口で木苺を探した。

「るりちゃん。今晩、何があるの」

澪は、赤い実を一つ口に入れて、酸っぱそうな顔をした。

「灯籠」

「そうじゃなくて」

澪は私の顔を見た。十一歳の目だった。何でも自分で確かめたがる子の目だった。

「おとうちゃん、昨日の晩、寝てない。夜中に、あたしの舟に角材を一本積んで、十三本目の杭の脇に舫ってた。そこから梁の下に角材を入れたんだって。三度、上で跳ねて、びくともしないって言ってた。今朝は舟屋の裏で、その舟の舳先に、カンテラを吊るす鉤をつけてた」

「うん」

「なんで」

私は、木苺を一つ摘んだ。

「今晩、澪ちゃんは、お父さんのそばにいて」

「なんで」

「お父さんが、澪ちゃんのそばにいてほしいから」

澪は、しばらく私を見ていた。

「るりちゃんは」

「わたしは、お絹のそば」

澪は、木苺をもう一つ私にくれた。

「あしたも、いちご」

「うん。あしたも」

約束した。前回の十歳の瑠璃は、この約束をしていない。前回の十五日は、澪と木苺を探す前に終わっていた。

　＊

午後三時。

私は縁側で、父の船を膝に載せていた。父は縁側の端で、将棋盤を出して、一臣さまに駒の動かし方を教えていた。

玄関で、声がした。

「電報でございます。天導恭介様」

村の郵便局の配達人だった。自転車の鈴が一度鳴った。

父が立った。玄関へ行った。私は縁側から、父の背中を見ていた。

父は、電報の紙を開いた。

読んだ。

父の手が、止まった。背中が、動かなくなった。

十秒か、二十秒。父は玄関の土間に立ったまま、電報を見ていた。それから、ゆっくり振り向いて、縁側の私を見た。

私は、父の船を膝に載せたまま、父を見返した。

父の顔から、血の気が引いていた。

「……本社からだ」

父は、広間のほうへ向かって、大きな声で言った。

「至急帰京せよ、と。秋の船のことで、何かあったらしい」

母が広間から出てきた。

「まあ。今日でなくても」

「本社の言うことだ。仕方ない」

父は、母の顔を見なかった。

「五時の汽車で行く。駅まで、先に郵便局へ寄って、社に電話を入れておく。何があったか聞いておかんと」

「電話なら、ここの帳場にもありますよ」

「帳場の電話は、声が広間まで筒抜けだ。社の話は、人に聞かせるもんじゃない」

父はそう言って、二階へ上がった。背広に着替えて、鞄を一つ持って、下りてきた。

伯父が縁側から言った。

「恭介君、灯籠は残念だな」

「はい。すみません」

父は玄関で靴を履いた。履きながら、一度だけ縁側の私を見た。

何も言わなかった。

父は、自転車の配達人が来た道を、歩いて村のほうへ下りていった。

　＊

父が戻ってきたのは、午後六時過ぎだった。

玄関からではなかった。裏の林を抜けて、舟屋の脇から庭へ入ってきた。背広の裾に、草の実がいくつもついていた。

私はお絹と、裏庭の井戸端にいた。お絹に頼んで、そこにいてもらったのだった。

父は、私たちを見つけて、足を止めた。

お絹が、息を呑んだ。

「旦那様。お汽車は」

「乗っとらん」

父は、井戸端にしゃがんで、私の顔を見た。しゃがんだ父の目の高さが、立っている私の目の高さと同じだった。

「郵便局から、社に電話した。部長が出た。電報など打っとらん、と言った。何のことだと言われた」

私は、頷いた。

「それから、駐在さんに頼んで、警察から帝都の電信局に電話してもろうた。今日の午後二時半ごろ、帝都の局から湖の郵便局へ打たれた電報がある。打ちに来た者の書いた頼信紙が、局に残っとる。それを、捨てずに取っておいてくれと頼んだ」

父は、そこで一度、息を吸った。

「局の者が、打ちに来た男を覚えとった。二十七か八の、商家の手代ふうの男だったそうだ。本社の者なら、社の封筒を持って来る。そいつは、何も持っとらんかった」

「瑠璃」

「はい」

「朝、お前は、三時に電報が来ると言うた」

「はい」

「うそだと言うた」

「はい」

「うそだった」

父の声は、震えていた。

「なんで、分かった」

私は、答えなかった。答えられる言葉は、この人にも、十歳の私にはなかった。

父は、答えを待たなかった。私の頭に手を置いた。前回、雨の玄関で最後に置いたのと同じ置き方だった。

「お前が何を知っとるのかは、父さんには分からん。分からんが、今日は父さんは、お前から離れん」

「とうさま。おじさまのところへ行って」

私は言った。

「おじさまが、待ってる。電報が本当かどうか、おじさまも知りたがってる」

父は、目を丸くした。

「宗一郎さんが」

「お絹が、ここにいてくれる」

お絹が、背筋を伸ばした。

「わたくしが、お嬢様のそばにおります。旦那様」

父は、お絹を見て、私を見て、それから立ち上がった。

「……分かった」

父は、裏口から家に入った。おじさまは、夕方から自分の部屋で書き物をしていると言っていた。

　＊

六時半、母が私を呼びに来た。

「瑠璃。灯籠の支度をしましょう。浴衣を着替えて」

母は、井戸端のお絹を見た。

「お絹。あなた、盆踊りは」

「お嬢様が、ぐずりまして」

お絹は、困った顔を作って笑った。

「一人になりたくないと、おっしゃるのです。今年は、お側におります」

母は、少しのあいだ、お絹を見ていた。

「……そう。仕方のない子ね」

母は、私の手を取った。

「では、お絹、浴衣を着せてあげて。灯籠は、七時半から。あの子の灯籠は、縁側に置いてあります」

母は、家の中へ戻っていった。

母の指が、私の手首を掴んでいた位置は、いつもと同じだった。

　＊

七時。浴衣に着替えて、縁側に出た。

縁側の端に、母が銀座で作らせた灯籠が置いてあった。白い紙の、四角いもの。角に瑠璃色の紙の星。中に、短い蝋燭が一本立っていた。

岸には、もう提灯が並んでいた。伯父が、提灯の列の端に立って、小野さんを探していた。

「番人はどうした」

「盆踊りだと、聞いております」と星見荘の留守番の女中が答えた。

伯父は、そうか、と言った。

小野さんは、桟橋のそばにいた。日のあるうちに、澪の舟を、桟橋の脇の十三本目の杭の陰に入れてある。岸の提灯の光は、そこまで届かない。支えの角材は、ゆうべのうちに入れてある。

角材のことは、昼に澪から聞いていた。

おじさまが、一人で縁側に出てきた。

おじさまは、私の前に立って、しゃがんだ。

「二つ目も、当たった」

おじさまは、小声で言った。

「恭介君は、もう付け根の下にいる。今は帝都へ向かう汽車の中にいることにしてくれと頼んだら、黙って頷いた。お前が戻ってくるまで、そこを動かんと言っていた。駐在は、舟屋の裏手の林だ。村の若い者を二人連れてきた。張り出しへは、舟屋の外を回って出られる」

「はい」

「瑠璃。今夜、私は何をすればいい」

私は、おじさまの目を見た。

「走らないでください」

「……それだけか」

「それだけです。わたしが落ちたと誰かが叫んでも、走らないで。灯りを掲げて、桟橋の付け根に立っていてください」

おじさまは、私の顔を見ていた。

「お前は、桟橋の先へ行くのか」

「行きます。行かなければ、母は別のことをします」

「私が代わりに行く」

「おじさまが行ったら、罠のとおりです」

おじさまは、黙った。

紙を撤回したことを、母に知らせたとは聞いていない。今夜を止めても、十月までに別の日を選ぶ。十四日の夕方、岸で小野さんが角材の話をしたとき、おじさま自身がそう言った。今、皆の前で手を出させるしかないと、私は思った。

角材は、小野さんが自分の体重で三度確かめたと、澪から聞いた。舟屋の裏手の林には駐在がいる。杭の陰には、小野さんと澪の舟がいる。落ちても、落ちた場所に大人がいる。おじさまは、桟橋へ目を向けたまま、まだ黙っていた。

七時二十分だった。

---

# 第十八話　灯籠の夜

八月十五日、夜。

　＊

七時三十分、灯籠流しが始まった。

岸に提灯が十二並んでいた。客は、分家の人たちと、村の世話役が数人。合わせて二十人ほど。大人たちは、岸の砂利の上で、一人ずつ灯籠に火を入れて、水に置いた。灯籠は、風のない湖面をゆっくり離れていった。

前回の十歳の瑠璃は、この光景を見ていない。宴の途中で眠らされていた。白石澄が十六日の未明に舟屋の戸口から数えたのは、流れたあとの二十の灯籠だった。

今、私は流れる前の灯籠を見ている。

母が、私の隣に来た。

母は、紅と白の大きな花を染めた浴衣を着ていた。前回、舟屋の戸口で、髪を片側ほどいて膝をついた母が着ていた浴衣だった。宴の夜の母は、いつも岸でいちばん目立つ色を着る。

「瑠璃。あなたの番よ」

母は、縁側から持ってきた瑠璃色の星の灯籠を、私の手に載せた。蝋燭に、母が自分の手で火を入れた。

「一人で行けるわね。もう大きいんだから」

「はい」

「一番先から流すのよ。皆が見ているわ」

母は、周りの客にも聞こえる声でそう言って、私の背中を軽く押した。

私は、桟橋の付け根へ歩いた。

歩きながら、岸の提灯の列を見た。七時に列の端に立っていた伯父の姿が、そこになかった。一臣さまは、列の中ほどに一人で立っていた。

付け根には、おじさまが立っていた。提灯を一つ持っていた。父は、付け根の板の下にいるはずだった。板が提灯の光を遮っていた。岸の列からは見えない。

私が付け根に着くと、おじさまが小声で言った。

「戻ってこい」

「はい」

私は舟屋と反対側の縁にしゃがみ、灯籠を持ち直した。板の下から、大きな手が一度だけ伸びてきて、私の頭に置かれた。父は、何も言わなかった。

私は、桟橋の一枚目の板に、足を載せた。

　＊

板は、三十六枚あった。

一枚ずつ数えた。前回の十八歳の夏、架け替えられたあとの桟橋を、私は四十二枚数えた。今夜の桟橋は、古い桟橋だった。灰色に褪せた板で、ところどころ、釘の頭が浮いていた。

灯籠の火が、足元の板を照らしていた。

十枚目。

背中に、岸の提灯の光があった。前には、暗い湖があった。流れていった灯籠が、湖の中ほどに、いくつも浮いていた。

十五枚目。

十八枚目で、十三本目の杭の上に来た。

板が、少しだけ鳴った。鳴っただけだった。私の足の下で、梁は持った。下に、小野さんの入れた角材がある。桟橋の脇の暗がりに、澪の舟と小野さんがいる。見えなかった。見えないようにしてある。

十歳の瑠璃の膝が、震えていた。白石澄は、それを止めなかった。止めても、止まらなかった。

二十枚目。

岸からの声が、遠くなった。自分の息の音だけが聞こえた。

二十六枚目。二十七枚目。

前回、おじさまはこの板を、暗闇の中で走った。娘がいないと聞いて。灯りも持たずに。前回折れたのは、先端の柱だった。今夜、切られているのは、中ほどの梁だった。どちらも、この人を殺すために切られた木だった。

三十枚目。

三十六枚目。

先端に着いた。

私は、振り返らなかった。膝をついて、灯籠を水面に下ろした。瑠璃色の星の灯籠は、水に触れて、少し傾いて、それから真っ直ぐに浮いた。

指を離した。

灯籠は、杭の近くでしばらく回ってから、ゆっくり先端を離れ始めた。

　＊

そのときだった。

桟橋の脇の、舟屋のほうの暗がりで、大きな水音がした。

重いものが、水に落ちた音だった。水しぶきが上がる音が、先端まで届いた。

一拍おいて、岸から叫び声がした。

「瑠璃が落ちた！」

母の声だった。

「瑠璃が、瑠璃が落ちたわ！　桟橋から！」

続けて、伯父の声がした。岸の提灯の列からではなかった。舟屋のほうの暗がりからだった。

「先端だ！　落ちたぞ！　宗一郎、先だ！」

岸の提灯が、一斉に揺れた。客たちの声が重なった。何、どこ、と誰かが叫んだ。

私は、先端に立ったまま、振り返った。

桟橋の付け根で、おじさまの提灯が揺れた。

揺れて、止まった。

おじさまは、走らなかった。

提灯を、頭の上へ掲げた。

「瑠璃なら、そこにいる」

おじさまの声は、よく通った。十四日の夕方、自分の母親のために灯籠を流したときの声とは違った。星の間で時計の話をするときの声とも違った。四十三の時計を、全部自分で巻いている人の声だった。

私は、灯籠を離したばかりの手を、上へ掲げた。火はもう、手元になかった。代わりに、浴衣の白い袖を振った。

「おじさま。わたしは、ここです」

岸の声が、止まった。

先端から少し離れたところで、私の灯籠がまだ回っていた。その火が、浴衣の白い袖をかすかに照らしていた。二十人の目が、桟橋の先の私を見た。

　＊

桟橋の脇から、灯りが上がった。

澪の小さな舟だった。十三本目の杭の陰から、舟が一艘、ゆっくり出てきた。舳先の鉤に、カンテラが一つ吊るしてあった。小野さんは、櫂を片手に、もう一方の手でカンテラを外して高く上げ、板の下へ差し入れた。

光が、桟橋の下を照らした。

梁の下の面の、白い切り口が見えた。その真下に、古い角材が一本、斜めに差し込まれていた。

岸の何人かが、声を上げた。

小野さんは、カンテラを舟屋のほうへ向けた。

伯父が、そこにいた。

舟屋の、湖の上に張り出した板の端に。伯父の足元の板が、水に濡れて黒く光っていた。伯父の右の袖が、肘まで濡れていた。張り出しの端から、湖の水面まで、濡れた筋が一本垂れていた。その先の水面に、丸太が一本、浮いていた。

舟屋の裏手の林から、人影が三つ、外壁に沿って出てきた。駐在と、村の若い者が二人。

駐在が、伯父の濡れた右腕を取った。

伯父は、振り払おうとした。若い者の一人が、伯父の反対の腕を取った。

「何をする。私は、姪が落ちたと聞いて――」

「姪御さんは、あちらに」

駐在は、桟橋の先の私を、顎で指した。

伯父は、桟橋の先を見た。

浴衣の白い袖を振っている十歳の子を。

伯父の口が、開いたまま、閉じなかった。

　＊

一臣さまが、岸の提灯の列から、一歩前へ出た。

一臣さまは、舟屋の張り出しの父親を見ていた。濡れた袖と、湖に浮いた丸太と、それから桟橋の先で手を振っている私を、順に見た。

一臣さまは、何も言わなかった。

言わなかったが、その顔を、私は覚えておくことにした。昨日の夕方、渡された船をまず裏返して底を確かめた人が、今は、自分の父親が叫んだことと、目の前にある物を、一つずつ突き合わせている顔だった。

　＊

母は、岸の砂利の上に立っていた。

叫んだ口のまま、立っていた。

母の周りの客たちが、少しずつ母から離れた。誰も、何も言わなかった。村の世話役の一人が、隣の人に小声で言うのが聞こえた。

「奥様は、瑠璃さんが落ちたと……」

言いかけて、世話役はやめた。桟橋の先の私のほうを見て、それから、また母を見た。

母は、私を見ていた。桟橋の先の私を。

十八歳の四月二十日の夜、星の間で、母は泣いてから話した。今夜の母は、泣かなかった。泣く順番を、なくしたのだと思った。

　＊

私は、桟橋を戻った。

三十六枚の板を、一枚ずつ。今度は数えなかった。

付け根で、父が待っていた。騒ぎのあいだに、板の下から砂利へ上がり、光の中へ出てきていた。

父は、付け根から一歩も先へは動いていなかった。私が最後の板から砂利へ降りたとき、父は砂利に膝をついて、両手を広げた。

私は、父の腕の中へ入った。

膝をついた父の肩に、十歳の私の顎がちょうど載った。父の胸が、速く打っていた。背広の肩に、林の草の実がまだついていた。

「……戻ってきたな」

「うん」

「落ちるときは、落ちると言ってから落ちろと、言うたろう」

「落ちなかった」

「そうだな」

父は、私の背中を大きな手で二度叩いてから、腕をほどいた。立ち上がって、私の手を握った。父の手は、私の手をすっかり包んだ。

おじさまが、提灯を下ろした。下ろして、しばらく桟橋の先を見ていた。私の灯籠は、もう湖の中ほどの、他の灯籠の中にまぎれていた。

「あれは、どこまで行く」

おじさまが、誰にともなく言った。

「向こう岸までは行かん。途中で沈む」

自分で答えて、おじさまは少し笑った。

それから、お絹を呼んだ。

「お絹。瑠璃を、家の中へ。私の部屋へ。今夜は、この子から離れるな」

「はい、旦那様」

父が、握っていた私の手を、お絹の手に渡した。

家へ入る前に、私は一度だけ振り返った。

岸の提灯の列の中で、母はまだ、砂利の上に立っていた。誰も母のそばにいなかった。

母の顔は、私のほうを向いていた。

　＊

おじさまの部屋で、お絹が私に麦湯を飲ませてくれた。

冷たかった。糖蜜の味はしなかった。

私は、湯呑を両手で持ったまま、帳面を開いた。お絹が、灯りを寄せてくれた。

　八月十五日
　十九時三十五分ごろ　提灯の列に伯父がいない（七時には列の端にいた）
　十九時四十一分ごろ　桟橋の先で灯籠を流す
　同　水音（舟屋のほう）　母「瑠璃が落ちた」　伯父（舟屋のほうから）「先端だ、落ちたぞ、宗一郎、先だ」
　同　おじさま　走らず　「瑠璃なら、そこにいる」
　同　小野さんの舟　梁の切り口と支えの角材を照らす
　同　伯父　舟屋の張り出しの端　右袖が濡れている　丸太が水面に
　同　駐在　伯父の腕を取る
　同　一臣さま　列の中ほど　父親の叫びを聞いた
　見た者　岸の客二十人ほど

書いてから、最後の行を見た。

二十人。

十歳の子の言葉ではなかった。二十人の大人が、それぞれ自分の目で見た。

白石澄は、報告書の一行目を書き直す必要がないと思った。

ここまでは、予防だった。

ここから先は、調査だった。

---

# 第十九話　十歳の逆断罪

八月十五日、深夜。星見荘、広間。

　＊

十時を過ぎて、おじさまが私を広間へ呼んだ。

お絹は反対した。こんな時刻に、こんなお子を、と。おじさまは、お絹に私の手を引かせたまま、言った。

「この子が始めたことだ。終わるところを、この子に見せる」

広間には、灯りが六つ入っていた。

上座に、おじさまが座った。その右に、父。左に、駐在と、村の世話役が一人。伯父は、広間の真ん中に座らされていた。両脇に、村の若い者が一人ずつ。伯父の右の袖は、まだ湿っていた。

母は、伯父から少し離れて、壁際に座っていた。誰も母の腕を取っていなかった。取る理由が、まだなかった。叫んだだけの人の腕は、取れない。

小野さんと澪が、縁側に近い下座にいた。一臣さまは、父親の後ろの壁際に立っていた。分家の客たちは、帰らずに、広間の端に並んでいた。

私は、お絹に手を引かれて、父の隣に座った。

十八歳の四月二十日の夜、星の間で、私は親族会の長老三人の前に立った。証拠を出した順番は、澪が決めたものだった。最後に私が出した物は、私が作った物で、私の沈黙の証拠になった。

今夜の順番は、私が決める。

そして、私は何も出さない。

　＊

「瑠璃」

おじさまが言った。

「はい」

「皆に、話すことがあるか」

私は、立った。十歳の身長では、座っている大人たちとほとんど同じ高さだった。

「わたしの言葉は、証拠にしません」

広間が、少しざわめいた。

「わたしは十歳です。十歳の子の言うことは、夢で済みます。母が、そう言っていました。わたしが湖の悪い夢を見る、と」

壁際で、母の肩が動いた。

「だから、わたしは何も言いません。見た人が、見たことを言ってください。順番だけ、わたしが言います」

おじさまが、頷いた。

「小野さん」

　＊

小野さんは、下座で立ち上がった。帽子を胸に当てていた。

「八月一日から、毎朝、桟橋の柱を見ておりました。娘に、お嬢様からの手紙で頼まれまして」

小野さんは、前掛けのかくしから、紙を二枚出した。

「一枚目は、柱です。八月一日から今朝まで、十五日分。毎朝、異常なし」

駐在が、紙を受け取った。

「二枚目は、梁です。八月十三日、夕方五時四十分。付け根から十三本目の杭の、梁の下の面に、新しい切り口。梁の太さの半分と少し。木屑が湿っておりませんでした。切られたのは、その日か、前の晩です」

小野さんは、一度、紙から目を上げた。

「十一日の昼に、私は舟の底を見に、桟橋の下を通っております。そのときには、梁に切り口はございませんでした」

「十一日から十三日のあいだに、湖へ来たのは」と駐在が訊いた。

「分家の旦那様が、十二日の夕方からおいででした。手代の辰巳さんがご一緒で。ご家族様は十三日の午後四時過ぎ。本家の旦那様は十四日」

小野さんは、それだけ言って、座った。

伯父は、黙っていた。

　＊

「おじさま」

私は言った。

おじさまは、座ったまま話した。

「十四日の夕方五時、小野と二人で、舟で桟橋の脇へ回った。脇から板の下を覗いた。十三本目。梁の下。小野の言ったとおりの切り口があった。私が、自分の目で見た」

おじさまは、伯父のほうを向いた。

「八月二日、佐伯が私に、星見荘の物置用に細工鋸を一挺、本家の払いにしてくれと言ってきた。請取は七月三十日。板の下から挽く、柄の曲がったものだと。注文したのは、貞光さん、あなただ」

伯父の顔が、少し動いた。

「大工の真似をする、と私は笑った。笑って、払った」

駐在が言った。

「その鋸は、さきほど、分家の旦那様のお部屋の行李の底から出ました。刃の目に、新しい木屑が詰まっております。桟橋の梁と同じ松です」

広間の端で、分家の客の誰かが息を呑んだ。

　＊

「とうさま」

父は、立った。立って話した。

「今日の午後三時に、本社から至急帰京せよという電報が来ました。郵便局の電話で本社に確かめました。部長は、そんな電報は打っていないと言いました」

父は、懐から電報の紙を出して、駐在に渡した。

「帝都の電信局に、打ちに来た者の頼信紙が残っております。駐在さんに頼んで、警察から、捨てずに取っておくよう電話してもらいました。午後二時半ごろ、帝都の局です。局の者は、打ちに来たのは二十七か八の、商家の手代ふうの男だったと言うとります」

父は、伯父を見た。

「辰巳君は、今日、湖におりますか」

伯父は、答えなかった。

一臣さまが、壁際から言った。

「……辰巳は、昨日の朝、父の使いで帝都へ戻りました」

伯父が振り向いた。一臣さまは、父親の顔を見なかった。駐在の顔を見ていた。

「父に言われて、私が駅まで送りました」

　＊

「お絹」

お絹は、私の後ろで立った。私の肩に手を置いたまま話した。

「八月一日に、奥様から、十五日の晩は村の盆踊りへ行っておいでと言われました。お嬢様のお世話はいいから、と。お小遣いも、いただきました」

お絹は、袂から紙に包んだ小銭を出して、膝の前に置いた。

「行きませんでした。お嬢様が、そばにいてとおっしゃったので」

母が、お絹を見た。

お絹は、母を見返さなかった。私の肩の上の手に、少し力を入れただけだった。

　＊

「一臣さま」

一臣さまは、壁際で、しばらく動かなかった。

それから、一歩前へ出た。父親の後ろではなく、父親の横に立った。

「灯籠が始まる少し前に、父は提灯の列を離れました。舟屋のほうへ歩いていきました」

一臣さまの声は、低かった。

「水音がしたあと、叔母が、瑠璃が落ちた、と言いました。それから、父の声が、先端だ、落ちたぞ、宗一郎、先だ、と言いました。列からではなく、舟屋のほうの暗がりからでした。父の声です。聞き違えません」

一臣さまは、そこで一度、息を吸った。

「瑠璃さんは、落ちていませんでした。先端に立っていました。瑠璃さんの流した灯籠の火で、列の中ほどにいた私からも、浴衣の袖が見えました。舟屋の張り出しからなら、私のいた所より近い」

伯父が、息子の名前を呼んだ。

「一臣」

「はい」

一臣さまは答えて、それ以上何も言わなかった。

　＊

「駐在さん」

駐在が、手帳を開いた。

「十九時四十一分ごろ、舟屋の裏手の林で待っておりました。水音のあと、分家の旦那様が舟屋の張り出しの端におられました。右の袖が肘まで濡れておりました。張り出しに置いてあった丸太が、水面に浮いておりました」

駐在は、手帳を閉じた。

「それから、先ほど、ご一行のお荷物を改めさせていただきました。本家の旦那様のお許しを得て」

駐在は、壁際の母のほうを向いた。

「奥様の行李から、袱紗の包みが一つ出ました。中に、茶色の小瓶が一本。蘆田医院の札がついております。抱水クロラール水薬。七月十日、十日分。中身は、半分ほど減っておりました」

広間が、静まり返った。

「同じ包みに、糖蜜の小壺が一つと、子ども用の銀の匙が一本」

私は、駐在の手の上の匙を見た。

宴の夜に、私にだけ出される匙だった。前回、お絹が母の盆の上に見たのは、糖蜜で濡れた、この匙だった。

今夜の母の計画に、薬は要らなかったはずだった。娘が桟橋を怖がって行かなかったときの、もう一つのやり方だったのだろう。

　＊

伯父が、立ち上がりかけた。若い者二人が、伯父の肩を押さえた。

「計画は、妹のものだ」

伯父は言った。声が裏返っていた。前回の十八歳の四月、星の間で、辰巳の名前を呼んだときと同じ声だった。

「私は、妹に頼まれた。宗一郎が婚礼の前に死ねば、娘が跡取りになる。そう言ったのは藤乃だ。私は、手を貸しただけだ」

分家の客たちが、顔を見合わせた。恭介の娘が、なぜ本家の跡取りになるのか。その問いが、声にならないまま広間の端を回った。

母が、壁際で顔を上げた。

「兄様」

母の声は、落ち着いていた。

「兄様は、昨日の晩、庭で、後見は親族会で決まるものだとおっしゃいました。私に手を貸したのではなく、私の娘の後見を取るために、手を貸したのでしょう。親族会のお三方には、もう何かお書きになって、お送りになったのではありませんか」

伯父の顔が、固まった。

前回、一臣さまが伯父の書斎の机から見つけた下書きは三枚で、日付は七月だった。母はその紙を見ていないはずだった。伯父の顔が、母の問いに答えていた。

「藤乃」

「決めるのは私だと、昨日、兄様には申しませんでしたけれど」

母は、そこで口を閉じた。

分家の客の一人が、低い声で何かを言った。世話役が、その人を制した。

一臣さまは、父親の横に立ったまま、叔母の顔を見ていた。

伯父と母は、互いを見ていた。兄と妹が、互いの計画を、互いの口で並べ終えた顔をしていた。

　＊

母が、私を見た。

「皆さま」

母は、広間の大人たちに向かって言った。前回の十八歳の四月、星の間で、泣き終えてから話した声と同じだった。震えていなかった。

「この子は、このところ、湖の悪い夢を見る子です。桟橋が怖いと、夜中に泣くのです。今夜のことも、この子が夢で見たことから始まったと、皆さまはお聞きになったでしょう」

母は、私を指さしはしなかった。目だけを、私に向けた。

「十歳の子の夢を、皆さまは信じるのですか」

声が、少し高かった。兄がもう自分で話したあとで、夢の話をしても、何も戻らない。それが分からない人ではなかった。分かっていて、ほかに言うことがなかったのだと思う。

広間の大人たちが、私を見た。

私は、母を見返した。

「わたしの言ったことは、ひとつも使っていません」

私は言った。

「梁の切り口は、小野さんが見ました。おじさまも見ました。鋸は、佐伯がおじさまに言い、駐在さんが見つけました。電報は、とうさまが受け取って、本社に確かめました。盆踊りのことは、お絹が言われました。先端だと叫んだ声は、一臣さまが聞きました。濡れた袖と丸太と薬の瓶は、駐在さんが見ました」

私は、息を吸った。

「わたしは、順番を言っただけです」

母は、何も言わなかった。

私は、父の隣に座り直した。父の大きな手が、私の肩に載った。

　＊

おじさまが、上座で背を伸ばした。

「皆が話したことを、私が並べる」

おじさまは言った。

「瑠璃の言ったことは入れない。私が自分で見たことと、今ここで皆が言ったことだけで並べる」

広間が、また静かになった。

「梁を切ったのは、貞光さんだ。切り口は、十一日には無く、十三日の夕方にはあった。十一日から、藤乃たちの着いた十三日の夕方までに湖へ来たのは、十二日の貞光さんと辰巳だけだ。梁を下から切る鋸を注文したのも、その鋸を行李に入れていたのも、今夜、丸太を湖へ落としたのも、貞光さんだ」

伯父は、畳を見ていた。

「だが、梁を切っただけでは、人は死なない。誰かが、桟橋の先へ走らなければ、梁は折れない。走らせるには、桟橋の先に、落ちたと言われる子がいなければならない」

おじさまは、広間の端の客たちを見た。

「今夜、瑠璃に、一人で一番先から流しなさいと言ったのは誰だ」

分家の客の一人が、小さな声で答えた。

「……奥様が。皆が見ているわ、と。私どもの前で」

「お絹を盆踊りへやって、瑠璃のそばを空けたのは誰だ。瑠璃は落ちていないのに、落ちたと最初に叫んだのは誰だ」

誰も答えなかった。答えは、岸にいた全員が見ていた。

「恭介君に偽の電報を打ったのは、恭介君がいれば、娘が落ちたと聞いた途端に、誰より先に走るからだ。私ではなく、恭介君が走る。……恭介君がそういう人だと、十五年、同じ家で見てきたのは誰だ」

私の肩の上で、父の手が固くなった。

「最後に、なぜ今年なのか。なぜ、十月の婚礼の前なのか」

おじさまは、懐から封筒を一つ出した。

「三村が預かっている紙がある。私が死んだときにだけ、瑠璃を私の子にする紙だ。去年の暮れに、藤乃に頼まれて書いた」

広間の端で、分家の客たちが顔を見合わせた。瑠璃が誰の子か。それを、おじさまは今、自分の口で言った。

私の肩の上の、父の手は、動かなかった。

「婚礼の前に私が死ねば、瑠璃は私のただ一人の子として、この家の跡を取る。幼い跡取りには後見がつく。婚礼のあとで静子さんに子ができれば、その子が瑠璃より先に立つ。だから、十月の前だった。貞光さんが後見を欲しがったのも、この紙があるからだ。この紙は、藤乃が頼み、私が書き、三村が預かった」

おじさまは、母のほうを向いた。

「藤乃。計画は、お前のものだ。貞光さんは手を貸し、自分の分を別に取ろうとした」

母は、答えなかった。

　＊

おじさまは、封筒から一枚の紙を出して、駐在と世話役に見せた。それから、母の前に置いた。

「十三日に、帝都で三村に会った。その紙を撤回する書面を作らせて、署名した。これが、その写しだ」

母は、紙を見下ろした。

「死んだときに効く紙は、十三日で無くなった」

おじさまは言った。

「今夜、私が桟橋から落ちて死んでも、瑠璃は跡取りにはならない。恭介君の娘のまま、分家の子のままだ。誰の後見も、要らない」

母は、紙を見ていた。

長いあいだ、見ていた。

それから、母の肩が、ゆっくり下がった。

前回の十八歳の四月、星の間で、母は泣いてから話した。今夜の母は、泣かなかった。泣いても、もう何も得られない。この人は、それを誰よりも早く計算できる人だった。

　＊

おじさまが、低い声で言った。

「百合子が死んだ春から、お前は、私が決めるのを待っていた」

母は、紙から目を上げなかった。

「私は、決めなかった。静子さんとの話を受けて、お前には紙を一枚渡した。……この夏のことは、あの紙から始まった。私が渡した紙から」

母が、顔を上げた。

「十年、待ちました」

声は小さかった。広間の端までは届かなかったと思う。父の隣にいた私には、届いた。

「百合子様がいらしたあいだは、待つのが当たり前だと思っていました。この子がまだ赤ん坊のころ、あなたが本家へ迎えてくださる日の話を、毎晩しました。百合子様が亡くなった春に、今度こそと思いました」

母は、撤回の写しの端に指を置いた。

「あなたは、静子さんをお選びになりました。私には、紙を一枚くださいました。……好きでもない方を待つほど、私は辛抱強くありません。だから、もう待たないと書いたのです。書いたとおりにしただけです。決めない方の代わりに、私が決めたのです」

母は、写しから指を離した。

「その紙も、あなたがお決めになったのではないのでしょう」

母は、おじさまではなく、私を見ていた。

　＊

「瑠璃」

「はい」

「あなたは、誰」

問いの形をしていた。前回の舟屋で、母が私の耳に寄せた「何も覚えていないわね」とは違った。

母の目が、私の顔の上を動いていた。額から、目へ、口へ。十二歳の秋に珈琲の色を見たときのように首を傾けることは、しなかった。

私は、母のそばへ歩いた。

父の手が肩から離れた。お絹が、私のすぐ後ろについてきた。駐在が一歩前へ出た。おじさまが、手で制した。

私は、母の耳に口を寄せた。母がいつもそうしたように。外には届かない声で。

「八年後に、あなたが、産まなければよかったと言う娘です」

母の身体が、固くなった。

私は、母から離れた。お絹の手の中へ戻った。

母は、私を見ていた。

何か言おうとして、唇が動いた。言葉は出なかった。

　＊

夜明け前、町の警察が着いた。

伯父が連れ出され、母が続いた。母は玄関で、一度だけ振り返った。私を見た。何も言わなかった。

私は、父の隣に座って、父の腕にもたれて、それを見ていた。

縁側の外で、湖が白み始めていた。流した灯籠は、一つも見えなかった。途中で沈んだのだと思った。

父が、私の頭の上で言った。

「紙のことは、夕方、宗一郎さんの部屋で聞いた」

私は、父の顔を見上げた。父は、湖を見ていた。

「聞いて、何か変わるかと思うた。変わらんかった。お前は今日、父さんを汽車に乗せんかった。それで足りとる」

父は、それだけ言った。

おじさまが、私の反対の隣に座った。

「瑠璃」

「はい」

「さっき、藤乃に何と言った」

私は答えなかった。

おじさまは、それ以上訊かなかった。訊かないことを、この人も自分で決めたようだった。

「生きているうちに決める、と三村に言った」

おじさまは、湖を見ながら言った。

「まだ、何を決めるかは決めていない。……だが、一つだけは今決めた。星の間の時計は、私が死ぬまで全部巻く。私が死んだら、お前が巻け」

「はい」

私は、父の腕にもたれたまま、帳面を開いた。最後の頁だった。

　八月十六日　午前四時五十分　星見荘
　死者　なし

報告書の結論の欄には、それだけを書いた。

再発防止策の欄は、空けておいた。この事件に次はない。宗一郎は、一度も死ななかった。

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# 第二十話　十八歳の夜

八年後、十八歳の四月二十日、夜。

　＊

披露は七時に始まった。

星の間には客が四十人いた。上座には、親族会の長老が二人と、当主の天導宗一郎が並んでいた。長老の一人は、三年前に亡くなっていた。

その後ろの壁に、四十三の時計が掛かっていた。

四十三とも、動いていた。

秒針はそれぞれ少しずつずれて刻んでいて、部屋の中は、雨が屋根を叩いているような音で満ちていた。十歳の夏から、私は毎週土曜の朝、おじさまと二人でこれを巻いてきた。十四歳からは、下の段の二十台が私の受け持ちになった。今朝も巻いた。

前回の十八歳の夜、この部屋で動いていたのは一台だけだった。残りの四十二台は、それぞれ違う時刻で止まっていた。

止まっていた時刻を、私はもう覚えていない。覚えていなくていいと思った。

　＊

今夜の着物は、黒地に、袖と裾の縁だけ深紅を置いた振袖だった。天導の家で、本家の血筋の子が成年披露に着る色だった。仕立てを頼んだのは、おじさまだった。

髪は結い上げて、左の鬢に銀の星を留めた。

星は、自分で留めた。鏡の中の顔は、十歳の頬の丸みをなくして、目の形が年ごとに母に似てきていた。切れ長で、少しきつい。その目で、星の角度を一度だけ確かめた。

　＊

おじさまが立って、挨拶をした。

四十六歳になっていた。痩せた背の高さは変わらなかったが、髪の白いものが増え、目の下の皺が深くなった。声は、よく通った。

湖の夏のあと、おじさまは静子さまと結婚した。婚礼は一年延びて、翌年の十月になった。延ばしたのは静子さまで、あんなことのあった家に、十月には嫁げません、と自分で言いに来た。そのときも、手土産の風呂敷包みを付き人に持たせず、自分で提げて本家の門をくぐった、と佐伯から聞いた。静子さまは、湖の夜のことも、私が誰の子かも、全部おじさまの口から聞いてから来た人だった。

子どもは二人いる。六つの男の子と、四つの女の子。二人とも、前列の静子さまの膝の横で、時計の音に聞き入っていた。静子さまは、今夜も髪をきっちりと結っていた。

おじさまは挨拶の終わりに、私の名前を呼んだ。

「天導瑠璃。今夜、十八になった」

それから、少し間をおいて、言い添えた。

「私の娘だ。恭介君の娘でもある」

八年前の湖の夜、おじさまは広間で、瑠璃が誰の子かを自分の口で言った。それから一年かけて、親族会の前で、生きているうちに私を自分の子として認めた。死んだら効く紙ではなく、生きている人の署名で。親族会の記録に、宗一郎の子として。

私は、恭介の娘のまま、戸籍を動かさなかった。跡取りのことは、別に決めた。本家の跡取りは、静子さまの息子が継ぐ。そう決めたのは、おじさまと、父と、私の三人だった。十四歳の夏に、星の間で。そのとき静子さまの息子はまだ二つで、決めたのは、私が跡取りにならない、ということのほうだった。

決めた日、おじさまは笑った。私は決めるのが遅いが、今度は三人で早く決めた、と。

客の拍手のあいだに、父が私の隣へ来た。

四十九歳の父は、自分の背広を着ていた。去年、造船会社の技師長になったときに仕立てたもので、大きな肩に、縫い目がちゃんと合っていた。今朝はひげも当たってきたらしく、日に焼けた頬がいつもより青かった。

　＊

澪が、人の輪を抜けてこちらへ来た。

十九歳。帝都の女子師範の二年だった。湖の夏のあと、おじさまが学費を出すと言い、澪は一度断った。二度目に、借りるのなら、と受けた。卒業したら湖の村の小学校に戻る、と決めている。

澪は、淡い青の洋装を着ていた。去年、私が贈ったものだった。

「借りているつもりでいますから」

「返さなくていいのに」

「そういう問題じゃないの」

いつもの言い合いだった。八年前から、ずっと。

澪は、私の隣に座った。

前回の十八歳の夜、澪は、この部屋で父親の遺書を読み上げた。星の間の真ん中に立って、長老たちの前で、父の名誉のために。

今夜の澪には、読み上げる物がない。小野さんは、今夜も湖で桟橋を見ているはずだった。湖の夏の翌年、桟橋は全部架け替えられた。板が四十二枚になった。杭も梁も新しいものに替えて、小野さんは今も毎朝、柱と、梁と、杭を見ている。小さな舟で、板の下に入って。

「お父様から、手紙」

澪が、封筒を一通出した。小野さんの大きな字で、瑠璃さまへ、とあった。

開けた。

　十八のお誕生日おめでとうございます。
　今朝も桟橋を見ました。異常なし。

それだけだった。

私は笑った。澪も笑った。

　＊

一臣さまは、分家の商会の若い主人として来ていた。

二十四歳。背広の似合う人になっていた。湖の夏のあと、伯父は服役した。商会は親族会の預かりになり、三年前、一臣さまが自分で帳簿を全部開いて、引き継いだ。

私と一臣さまのあいだに、婚約はない。

十六歳の春、分家の商会から、婚約の話が来た。親族会が仲立ちした。私は、自分で断った。

「あなたのお父様を、人前に出した夜の娘と婚約するのは、あなたに酷だから」

一臣さまは、そのとき、少し考えてから言った。

「それは、私が決めることだ」

「では、決めてください。わたしも、自分で決めます」

それから二年、一臣さまは、月に一度、本家へ帳簿を届けに来る。来るたびに、私と庭を一周して帰る。話すことは、たいてい帳簿のことだ。ときどき、船のことを話す。父が作った「るりまる」は、今も一臣さまの机の上にあるらしい。竜骨がちゃんとしている、と一臣さまは言う。

今夜、一臣さまは、会釈をしただけだった。私も会釈を返した。

それで足りた。

　＊

母は、今夜ここにいない。

殺人未遂の共謀で、母は十二年の刑を受けた。刑務所は帝都の北にある。

母からは、一度だけ手紙が来た。去年の秋、私の十八の誕生日の半年前に。三村さんを通して届いた。

私は、その手紙を開けていない。

封筒は、鏡台の引き出しに入っている。底板の下ではない。一番上の引き出しの、星の髪飾りをしまう小箱の隣に。

開けるかどうかは、自分で決める。今夜ではない。

　＊

九時少し前、宴が終わりに近づいたころ、私は星の間の窓際へ行った。

窓の外に、帝都の夜が見えた。どこかで電車が一台通った。

白石澄のことを、私はときどき思い出す。

二十九歳の、損害保険の事故調査員。休日に乙女ゲームを遊んでいた人。報告書の一行目に、いつも日時と場所を書いた人。

あの人が、どうしてここへ来たのか、私は今も知らない。二度目があったのはなぜか、それも知らない。分からないことは、分からないと書く。あの人の書式のとおりに、私は帳面にそう書いている。

ただ、一つだけ分かっていることがある。

良い子でいることは、足りなかった。十歳から十八歳までの八年、私は虐めず、焼かず、澪の側に立った。それでも断罪は来た。断罪の理由は、私がしたことではなく、あの夜の事件そのものだった。事件が起きた世界で、私の選んだやり方では、母の娘は無事でいられなかった。

だから、事件を起こさせなかった。

そして、起こさせなかったのは、十歳の私ではなかった。自分の目で柱と梁を見た番人と、自分で舟に乗って梁の切り口を見た当主と、三時の電報を自分の手で受け取った父と、浴衣を一枚来年へ回した女中と、伯父の声を暗がりの向こうに聞き分けた従兄と、濡れた袖を見た駐在だった。

私は、順番を言っただけだった。

　＊

九時になった。

四十三の時計のうち、鐘のあるものが、少しずつずれて鳴り始めた。一台が鳴り終わる前に次が鳴り、音が重なって、長い雨のように鳴った。

鳴り終わるまで、私は窓際に立っていた。

おじさまが、隣に来た。

「瑠璃。明日の朝、巻くか」

「巻きます。下の二十台」

「上の二十三台は、私が巻く」

おじさまは、そう言って、少し笑った。私が死ぬまで全部巻く、と湖の夜明けに言った人は、四十三のうち二十台を、娘に渡した。

それでいい、と私は思った。決めるのが遅い人が、それだけは早く決めた。

私は、帳面を持っていなかった。十八歳の夜に、帳面は要らなかった。

それでも、頭の中で、一行だけ書いた。

　四月二十日、午後九時。帝都、本家、星の間。

八月十五日は、今年も来る。

何も起きない日として。

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# 第二編　一臣編

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# 第一章　九月の窓

　朝の四時に、店の灯りをつける。

　祖母がそうしていたからではない。四時に始めないと、十時の開店に間に合わないからだ。シュークリームの皮を四十、カスタードを二キロ、ショートケーキの台を二台。マドレーヌの生地は前の晩に仕込んで冷蔵庫で寝かせてあるので、朝は型に流して焼くだけでいい。バターを四百五十グラム量って、室温に戻しておく。量りの数字が四百五十で止まるのを見ると、朝が始まった気がする。

　店の名前は「洋菓子きりたに」。駅から商店街を三分歩いた角の、昭和のころからある小さな店だ。祖母が四十年やって、二年前に亡くなった。私は製菓学校を出てから四年、祖母の横で働いていたので、そのまま継いだ。二十四歳。人は雇っていない。仕込みも、店番も、夜の片づけも、帳面も、一人でやる。

　いちばん売れるのは、祖母の代からずっとマドレーヌだった。貝の形の、端がこんがりした焼き菓子。近所のおばあさんたちは、孫が来る日に六個ずつ買っていく。

　祖母の口癖は「生地は待ってくれないよ」だった。シューの生地は、火からおろしたら冷めないうちに絞る。メレンゲは、立てたらすぐに混ぜる。迷っているあいだに、生地のほうが先に駄目になる。だから決める。決めて、手を動かす。私はそういうふうに育った。

　去年の秋に、オーブンを買い替えた。祖母の代からのオーブンは、奥の右側だけ焼き色が濃くなる癖があって、焼いている途中で天板を回すのが私の仕事の一つだった。回しても追いつかなくなった。新しいオーブンは信用金庫から借りたお金で買って、返済は月に五万四千円。シュークリーム一個の原価は、材料と光熱費をざっと足して六十八円で、二百八十円で売る。何個売ればいくら返せるか、という勘定は夜の帳面の仕事で、朝はしない。

　定休日は水曜で、火曜の夜だけは、店を閉めたあとに好きなことをしていいことにしている。

　好きなことは、一つしかなかった。

　『帝都恋綺譚』。祖母の入院先の待合室で時間をつぶすために買ったゲームだ。いまは火曜の夜に一時間だけ遊ぶ。一時間で止める。止めないと、朝の四時に起きられない。

　私の推しは、天導一臣だった。

　無口で、本ばかり読んでいて、主人公に本を貸しても感想には「そうか」としか返さない人。その人が中盤で、主人公が風邪で読書会を休んだ日、寮の門で待っている。用事は本を返してもらうことで、返してもらっても帰らずに立っていて、「用はなくなったが、まだいる」と言う。

　初めてその場面を見た夜、私はゲーム機を膝に置いて、厨房の天井を見た。

　用がなくなってもいる人。私の周りには、そういう人はいなかった。常連のおばあさんたちは用が済むと帰る。業者さんも帰る。学校の友だちは、店の定休日と自分の休みが合わないので、少しずつ誘ってこなくなった。私のほうも、用がないのに誰かのそばにいたことは、たぶん一度もない。

　一臣のルートの最後で、彼は父親の決めた婚約を断って、主人公に手を差し出す。婚約は父が決めたことだった、これは私が決める、と言う。

　自分で決める男の人が好きだった。私も決める人間だからだと思う。

　その「父が決めた婚約」の相手が、天導瑠璃だった。

　悪役の令嬢で、一臣の婚約者で、一臣とは一度も口をきかない。一臣は彼女について、あの婚約は父たちの取り決めで、私は一度も彼女と話していない、としか言わない。初めて遊んだとき、私はその台詞に少し腹を立てた。一度も話していないのは、一臣のほうにも半分の責任がある。それから瑠璃にも腹を立てた。婚約者なのに、どうして一度も話しかけないのか。話しかけないで、主人公を虐めて、最後は断罪される。

　TRUEルートで、十七歳の瑠璃は母親の帳面と、弁護士から届いた封書を暖炉にくべる。燃える頁の絵が一枚出る。

　あの絵が出るたびに、私は声に出して言った。

「焼くな。出しなよ」

　焼いたら、何も残らない。出せば、少なくとも、自分で選んだことになる。

　その火曜の夜も、私はTRUEルートの終わりまで行った。一時間を少し過ぎた。門の外で作業着の男の人が「送っていこうか」と言うのを見て、画面を消して、厨房の奥の丸椅子に座ったまま、配合表のノートを開いた。来週から出す栗のタルトの、アーモンドクリームの配合を詰めるつもりだった。

　アーモンドプードル百グラム、バター百グラム、砂糖九十グラム、卵、と書いたところで、そのあとが切れている。

　　＊

　目を開けると、天井が高かった。

　黒い梁が見えた。厨房の天井は白い化粧板で、換気扇の音がする。ここでは何の音もしなかった。遠くで、砂利を踏む音がした。

　身体を起こした。起き上がる勢いが軽すぎて、前へつんのめった。布団についた手が小さい。腕が短い。

　部屋の隅に鏡台があった。覗いた。

　十歳くらいの女の子がいた。黒い髪を肩で切りそろえて、目のかたちがきつい。切れ長で、目じりが少し上がっている。頬には、まだ丸みがある。口の端が下を向いていた。泣いたあとの顔ではなかった。泣くのをやめた顔だった。

　天導瑠璃だった。

　ゲームの立ち絵よりずっと幼い。それでも、眉の角度も口の端の下がり方も、何度も見た顔だった。一臣の婚約者で、帳面を焼く子だ。

　夢だと思うには、足の裏の畳が冷たすぎた。

　鏡台の横の柱に、日めくりの暦が掛かっていた。九月十五日。その下に、筆で小さく「親族会」とある。

　九月の親族会。

　ゲームの中で、何度も文字で読んだ言葉だった。湖の事件のあと、九月の親族会で、瑠璃の父親は家を出され、瑠璃は本家の養女になった。事件は、瑠璃が十歳の年の八月十五日。

　湖の夜から、ちょうどひと月だった。

　鏡台の上に、銀の小さな髪飾りが置いてあった。星の形をしている。裏返すと、細い字で「瑠璃へ」と彫ってあった。ゲームの成年披露の場面で、瑠璃が髪に挿していたものだ。

　机の上には石盤があった。学院で使うものらしい。黒い石の板に、白い蝋石で字が書いてある。

　「パパは　かえってくる」

　子どもの字だった。「る」の最後が長く伸びている。板の左の縁だけが、こすれて白く曇っていた。左手で書いて、手の側面が字の上を通ると、こうなる。私は右利きだ。この字を書いた子は、左利きだった。

　その下に、もう一行あった。こちらは新しい字だった。

　「くがつ　じゅうごにち」

　今日だ。

　この子は、父親が今日この家に来ることを知っていた。知っていて、書いた。

　私は石盤を机に戻した。消さなかった。

　　＊

　襖が開いた。

　背の高い、細い女の人が立っていた。切れ長の目が、鏡の中の子と同じ形をしていた。似すぎている、と思った。着物は黒に近い鼠色で、帯だけが深い紅だった。華やかな色の似合いそうな人が、似合わない色を着ている。香の匂いがした。

　天導藤乃。この子の母親。

　ゲームでは、兄に言われて、十歳の娘を薬で眠らせ、湖の舟屋に置いた人だ。

　この子を、だ。

「起きていたのね」

　声は低くて、平らだった。

「今日は、お部屋から出ないように。お昼すぎに伯父さまがいらっしゃって、お話があります。お行儀よく聞くのよ」

「……はい」

　自分の声が高くて、驚いた。

　母は私の顔を見た。何か言いかけて、やめた。それから鏡台の櫛を取って、私の髪を二度梳いた。二度で、櫛を置いた。

「十月のご婚礼も、なくなりました」

　私に言ったのか、鏡に言ったのか分からなかった。

「宗一郎さまのお相手の方には、兄がお詫びの手紙を出したそうよ」

　母は出ていった。香の匂いが、しばらく部屋に残った。

　宗一郎は、十月に静子という人と結婚するはずだった。ゲームの人物紹介に、一行だけそう書いてあった。前の奥さまを病気で亡くして、何年か経っての再婚だったはずだ。その人は、湖で死んだ。婚礼は、なくなった。

　　＊

　窓は縦に長く、二階から前庭が見下ろせた。砂利を敷いた車寄せと、その先の黒い門。

　朝のうちに、玄関から男の人が一人出てきた。

　大柄で、肩幅が広い。背広を着ているのに、背広のほうが身体に負けている。日に焼けた首。顎に、剃り残したような無精ひげ。手に、小さな鞄を一つだけ提げていた。指が太くて、鞄の持ち手が細く見えた。

　玄関から、誰も見送りに出てこなかった。

　男の人は、砂利の上を門へ歩いた。右の足を、少しだけ引きずっていた。急がなかった。ゆっくりでもなかった。仕事の現場から次の現場へ移るような歩き方だった。

　私の手は、いつのまにか窓の硝子についていた。自分でつけた覚えがなかった。硝子が冷たかった。

　振り返って、と思った。思ったのが私なのか、この身体なのか、分からなかった。

　男の人は振り返らなかった。門を出て、左へ曲がって、見えなくなった。

　天導恭介。この子の父親。

　ゲームの最後に、門の外で「送っていこうか」と言う人だ。「昔、あなたを抱いていた者だ」と言う人。その八年前の同じ人が、いま、振り返らずに門を出ていった。

　ゲームのとおりなら、今朝の親族会で、この人は書類に署名したはずだった。この子が自分の子ではないと認める書類に。署名をして、この家を出て、南のどこかの造船所へ行く。

　私は窓から手を離した。硝子に、小さな手の跡が残っていた。

　あの人を引き止める言葉を、私は持っていない。この子の記憶は、私の中に一つもなかった。パパ、と呼べば、あの人は振り返ったかもしれない。でもそれは、この子の言葉で、私の言葉ではない。

　私は硝子の手の跡を、袖で拭かなかった。

　　＊

　部屋でじっとしていられなかった。

　待つのは苦手だ。オーブンの中で生地が膨らむのは、いくらでも待てる。自分では何もできないことが、どこかで勝手に決まっていくのを待つのは、昔から駄目だった。

　廊下へ出た。階段を下りた。下りたところの廊下の奥に、閉じた両開きの扉があって、その向こうから大人の声が低く聞こえた。

　扉の手前の窓際に長椅子が一つあって、男の子が座っていた。

　詰襟の学生服を着ている。背が高い。座っていても、膝が長椅子からはみ出していた。眉がまっすぐで、目を伏せて本を読んでいる。頁をめくる指が長い。

　天導一臣だった。

　顔を見た瞬間に分かった。けれど、私の知っている一臣ではなかった。ゲームの一臣は二十二、三の大人で、最後には二十四になる。この子は、どう見ても十六か、十七だ。首が細い。詰襟の首回りが、少し余っている。

　高校生だ、と私は思った。推しの、弟くらいに見えた。

　一臣が顔を上げた。

　寝間着のままの、十歳の女の子を見た。

「……天導さん」

　声は低かった。声変わりは、もう済んでいた。

　この家では、誰もが天導だ。この子も、母親も、扉の向こうの大人たちも、彼自身も。その中で、十歳の従妹を、彼は大人に言うのと同じ呼び方で呼んだ。

「部屋にいるように言われていたのでは」

「言われてました」

「そうか」

　それだけ言って、彼は本に目を戻した。叱らなかった。部屋へ戻れとも言わなかった。

　私は長椅子の端に座った。足が床に届かなかった。

　扉の向こうで、誰かが大きな声で何か言った。よく通る声だった。一臣の、頁をめくる手が一度止まった。

「伯父さまですか」と私は訊いた。

「父だ」

「何を決めているんですか」

　一臣は少し考えた。十歳の子どもに、何をどこまで言うかを考えている顔だった。それから本を閉じて、膝の上に置いた。

「あなたのことだ」と彼は言った。「あなたが、どこの家の子になるか。誰が、あなたの後見をするか」

　ごまかさなかった。子ども向けの言い方にも、しなかった。

「父が後見になると思う。あなたの母上は、それを喜ばないと思う」

「恭介さんは」

　言ってしまってから、しまったと思った。十歳の娘が父親を名前で呼ぶのは、変だ。

　一臣は、変だとは言わなかった。

「さっき、出ていかれた」

「見ました。窓から」

「そうか」

　彼は、私の顔を見ていた。私がどういう顔をしていたのかは分からない。鏡台の前の、泣くのをやめた顔のままだったかもしれない。親を亡くしたばかりの子の顔、というものがあるなら、たぶんそれだった。

　一臣は、膝の上の本を持ち上げた。

「これを置いていく」

　革の背の、厚い本だった。表紙に『北方回航記　上』とあった。

「子どもの本ではない。北の海で、船が氷に閉じこめられる話だ。分からない言葉が多いと思う。分からないところは飛ばしていい。飛ばしたところは、訊かれたら私が答える」

「……いま、一臣さんが読んでいた本じゃないですか」

「読み終わった。二度目だった」

　嘘だと思った。栞が、まだ真ん中あたりに挟まっていた。

「読む」と私は言った。言ってから、慌てて付け足した。「……読みます」

　店では敬語だったが、祖母の前では最後までうまく敬語が使えなかった。慌てると、気持ちのほうが先に口から出て、敬語があとから走ってくる。十歳の口になっても、その癖はついてきたらしい。

　一臣は、ほんの少しだけ口の端を動かした。笑ったのかどうか分からないくらいの動き方だった。

　彼は立ち上がって、本を私の膝ではなく、長椅子の横の低い棚の上に置いた。私が座ったまま手を伸ばせば届く高さだった。

「重いから」と彼は言った。

　扉が開いて、恰幅のいい男の人が出てきた。黒い羽織。赤みのある顔。よく通る声の持ち主だと、顔を見る前から分かっていた。天導貞光。一臣の父で、この子の伯父。ゲームでは、桟橋の柱に鋸を入れた人だ。

「一臣。先に車へ行っていなさい」

　伯父は私に気づいて、「おお、瑠璃。よく休んだか」と言った。優しい声だった。私は「はい」と言った。声が震えなかったので、少しほっとした。

　一臣は玄関のほうへ歩きだして、廊下の角で一度だけ振り返った。何も言わなかった。私も言わなかった。

　棚の上の本に、私は手を伸ばした。重かった。

　　＊

　昼すぎ、帰りぎわの伯父が部屋へ来て、決まったことを話した。

　私は今日から、本家の子になる。宗一郎さまのご遺志で、本家の養女として、いずれこの家を継ぐ。二十になるまでは、伯父が後見をする。母と私は、いずれ本家に移って住む。恭介さんは、遠くで働く。

「恭介は、自分から身を引いたのだ。立派なことだ」

　伯父はそう言って、私の頭に大きな手を置いた。

　ゲームで読んだとおりだった。

「はい」と私は言った。

　　＊

　その夜、眠れなかった。

　布団の中で、店のことを考えた。明日は水曜で、定休日だ。木曜の朝四時に、誰も灯りをつけなかったらどうなるか。冷蔵庫で寝かせたマドレーヌの生地は、木曜までならもつ。金曜には駄目になる。常連の佐藤さんが、下りたままのシャッターの前で首をかしげる。信用金庫の返済日は二十五日だ。

　考えても、どうにもならなかった。帰り方が分からない。

　祖母の顔を思い出した。生地は待ってくれないよ。

　ここで待っていても、誰も迎えには来ない。来ないなら、決めるしかない。

　私は起き上がって、机の引き出しを探った。学院で使う帳面が何冊かあった。いちばん後ろの、白い頁の多い一冊を取った。洋燈の火を小さくして、鉛筆を持った。右手で持った。

　配合表を書くときのように、書いた。

　　九月十五日　夜
　　　品名　一臣さんと結ばれる
　　　材料　一臣さんの好み（分からない。本。ほかは？）
　　　原価　自分の悪評
　　　　ゲームでは、虐め。取り巻き。帳面を焼く。
　　　　これから一つも増やさない。
　　　仕込み　八年
　　　焼き上がり　十八の春

　書いてから、鉛筆を止めた。

　十六の男の子と、十歳の女の子だ。どちらも子どもだった。いまの一臣を、私は好きにはなれない。高校生を相手に二十四の私がどうこう思うのは、どう考えてもおかしい。

　私が好きなのは、ゲームの中で二十四になった一臣だ。自分で決めて、本を貸して、用がなくなってもいる人。

　今日、廊下で会った十六の男の子は、その人になる途中にいた。十歳の子どもに、本当のことを本当のまま言った。自分の読みかけの本を置いていった。手の届く高さに。

　あの子が大人になる八年のあいだに、私もこの身体で大人になる。仕込むのは一臣ではない。私のほうだ。婚約者と一度も口をきかなかった令嬢を、一臣が自分で選べる人にする。

　ゲームの瑠璃は、どこで間違えたのか。

　一臣と話さなかった。主人公を虐めた。帳面を焼いた。

　なら、話す。虐めない。焼かない。母親の帳面は、この家のどこかにある。見つけて、主人公の小野澪が学院に来たら、さっさと渡す。

　そうしたら、この家はどうなるか。伯父は捕まる。この子の母親も、たぶん捕まる。

　一臣の父親が捕まる、ということでもあった。

　ゲームの一臣ルートでも、一臣は父親の罪を、自分の手で明るみに出す。それで父親を失う。一臣はそういう人だ。だから好きになった。私はそう考えて、その先は考えなかった。

　それから、もう一つのことに気づいた。

　ゲームの断罪の場面で、瑠璃が数え上げられたのは、虐めと、焼いた帳面だけではなかった。誰も口に出さなくても、皆が知っていることがあった。宗一郎が死んで、いちばん得をしたのは瑠璃だ。跡取りになって、本家を継ぐ。

　虐めなくても、焼かなくても、それだけは残る。

　私は原価の行の下に、小さく書き足した。

　　　　受益者

　その下に、もう一行書いた。

　　　見込み　帳面を出せば、跡取りは止められる。婚約は解かれる。この子の血は、そのまま。

　残るものは、減らせない。減らせないなら、受け取らなければいい。どうやって受け取らないのかは、まだ分からなかった。八年ある。

　頁の余白に、小さく貝の形の焼き菓子を描いた。店で、配合が決まった日にいつも描いていた印だ。筋を五本、扇の形に引く。祖母はそれを見るたびに、決まったね、と言った。

　石盤の「パパは　かえってくる」が、洋燈の横で白く見えた。明日も消さないことにした。この子が書いたものだ。

　それから、『北方回航記』の上巻を開いた。栞は抜かずに、最初の頁から読み始めた。分からない言葉が、一頁に四つあった。四つとも、帳面の余白に書き写した。

　次に会ったとき、訊くためだった。

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# 第二章　行き止まりの三十歩

　十歳の秋から、私は良い子をやった。

　学院の門で馬車を降りると、正面にいた女の子たちが横へ寄った。避けたというより、道を空けた。よく躾けられた動きだった。誰も私を見なかった。見ないようにすることを十人ぐらいが同時にやると、朝の空気が冷える。

　昼の廊下で、小柄な子とすれ違った。眼鏡をかけて、教科書を胸に抱えている。一つ下の組の、小暮という子だった。私が足を止めると、その子の肩が跳ねた。

　何をしたのかは、教室の噂で知った。夏休みの前に、この身体の子が、小暮さんのリボンを取って池に投げたのだという。ゲームの瑠璃は、学院でこの子を階段で突き飛ばす。それより前にも、いろいろやっていたらしい。

「小暮さん」

　小暮さんは、教科書を抱いたまま動かなかった。

「リボンのこと、ごめんなさい。許さなくていいです。もうしません、と言いに来ただけです」

　言い終わる前に、小暮さんは走って逃げた。

　それでいい、と思った。謝るのは、謝った側が軽くなるためではない。店で注文を取り違えたときも、祖母はそう言っていた。頭を下げたら、あとは次の注文を間違えないこと。

　冬になって、朝、教室の戸口で「おはようございます」と言うと、二人か三人が返してくれるようになった。小暮さんも、そのうちの一人だった。目は合わせない。合わせないまま小さな声で言って、自分の席へ行く。

　それで十分だった。

　　＊

　家庭教師の先生が、私の手元を見て首をかしげたのは、十歳の十一月だった。

「お嬢様、右でお書きになるのですね」

　私は筆を持ったまま固まった。この身体は左利きだった。石盤の曇りで知っていたのに、何も考えずに右で持っていた。

「この夏に、直しましたの」

　襖の向こうから、母の声がした。いつから廊下にいたのか分からない。母は襖を少しだけ開けて、先生に微笑んだ。

「左では字が汚れるでしょう。うるさく言いましたのよ」

「さようでございましたか。よくお直りになりました」

　先生は書き取りに戻った。母は襖を閉めた。

　私は筆を握ったまま、閉まった襖を見ていた。この夏に左利きを直した、という話は、たぶん本当ではない。母はそれを、先生の前で、何でもない顔で言った。

　なぜ、とは訊けなかった。訊けば、この身体の中身が違うことを、自分から言うことになる。

　　＊

　本家の台所には、入れてもらえなかった。

　一度だけ、朝の仕込みの時刻に下りていった。料理番の男の人が、竈の前で目を丸くして、「お嬢様がお入りになる所ではございません」と頭を下げた。その日のうちに母の耳に入って、母は「台所は、あなたのいる所ではありません」とだけ言った。

　手が、生地を触りたがっていた。

　四時に起きる癖は、十歳の身体になっても抜けなかった。まだ暗い部屋で目を覚まして、することがない。私は布団の中で、店の配合を一つずつ思い出して、ノートに書いた。マドレーヌ。シュー。カスタード。スポンジ。この世界の量りは匁で目盛りを振ってあるので、グラムを匁に直して書いた。バター百グラムは、二十六匁と少し。

　書いていると、夜明けまでの時間が短くなった。

　　＊

　十一歳の春、家令の佐伯に、恭介さんの行き先を訊いた。

　佐伯は五十代の半ばの、背の高い人だった。白髪まじりの頭を、いつもきちんと撫でつけている。書状の宛名書きを手伝わせてもらった日の帰りぎわに、私は訊いた。

「佐伯さん。恭介さんは、いま、どこにいますか」

　佐伯は筆を置いた。長く黙っていた。それから、反故紙の端に鉛筆で書いた。

「南浦の、蓬田造船という所に、人が入ったと聞いております。同じ方かどうかは存じません」

　私は礼を言って、その紙をノートの頁に挟んだ。

　手紙は書かなかった。

　書こうとして、便箋を出したことはある。書き出しで手が止まった。この子の父親に、この子の名前で手紙を書く。あの人は、娘から来たと思って読む。中身は、あの人のことを何も覚えていない二十四の菓子屋だ。

　あの人が振り返らずに門を出ていった朝の、硝子の冷たさを思い出した。

　便箋はしまった。佐伯の紙は、ノートに挟んだままにした。捨てもしなかった。

　石盤の字は、春になっても消さなかった。机の上に出しておくと女中が拭いてしまうので、布に包んで、引き出しの奥に入れた。

　　＊

　一臣は、月に一度か二度、伯父について本家に来た。

　伯父は後見人として、本家の帳簿に判を押しに来る。そのあいだ、一臣は応接の外の長椅子で本を読んで待っている。十六のときも、十七になっても、同じ長椅子の同じ端に座っていた。

　私はそこへ、ノートを持っていった。

「一臣さん。訊いてもいいですか」

「どうぞ」

　余白に書き写した言葉を、一つずつ読み上げた。開氷面。定着氷。測程儀。転桁索。一臣は一つずつ答えた。答えられないものは、「それは私も分からない」と言った。十歳の子の前で、分からないと言うのを少しも嫌がらなかった。次に来たとき、彼は答えを書いた紙を持ってきた。字は細くて、右上がりだった。

「調べた」

　それだけ言って、紙を渡した。

　十一の秋に、上巻を読み終えた。読み終えたと言うと、一臣は「どこがよかった」と訊いた。

「犬のところです。氷の上で、乗組員が犬を飼いはじめるところ」

「なぜ」

「そこから、記録の書き方が変わるので。それまでは、何日に何をした、ばかりだったのに、犬に名前がついてから、日記みたいになるんです」

　一臣は、少し黙った。

「私も、そう思った」

　それから、ほんの少しだけ口の端を動かした。十歳の秋に、長椅子で見たのと同じ動き方だった。

　暦に、小さな点を打つようになったのは、そのころだった。伯父が本家に来る日が決まると、女中たちが前の日から応接の支度を始める。私はそれを見て、自分の部屋の暦の、その日に鉛筆で点を打った。

　点を打つと、次の点までの日が数えられる。二十八日。二十一日。三十日。

　祖母の店では、暦に印をつけるのは材料の届く日と、返済の日だけだった。人が来る日に印をつけたことは、なかった。

　　＊

　十二歳の春、一臣は帝都の大学に入った。

　長椅子に、来なくなった。伯父は一人で来て、一人で帰る。

　私は、待たなかった。

　手紙を書いた。宛先は分家の一臣さんで、本家の家令に頼めば届く。婚約の話がまだ表に出ていなくても、親戚の子どもが従兄に手紙を出すのは、どこもおかしくなかった。

　　一臣さん
　　大学はどうですか。
　　北方回航記の上巻の、八十頁の「氷圧」が分かりません。辞書にありませんでした。
　　余白の絵は、マドレーヌという焼き菓子です。
　　瑠璃

　返事は、十日で来た。

　　天導さん
　　氷圧は、氷が船を両側から押す力のこと。船はそれで持ち上がることもあるし、潰れることもある。北方回航記の船は、持ち上がったほうだ。
　　マドレーヌは、見たことがない。
　　一臣

　短かった。それでも、一行も手を抜いていなかった。

　次の手紙には、分からない言葉を二つと、シュークリームの絵を描いた。返事には、言葉の答えが二つと、最後に一行あった。

　　この絵に似たものを、銀座の店で見た。食べたことはない。

　私はその一行を、机に肘をついて何度も読んだ。この世界にもシュークリームがある。一臣は、それを店の硝子越しに見ている。食べたことはない。

　食べさせたい、と思った。

　思ってから、便箋の上で手が止まった。

　十二の私は、十八の彼に手紙を書いている。十八は、もう子どもではなかった。学生服の首回りは、この春に会ったとき、もう余っていなかった。肩が広くなって、歩くのが速くなった。推しの弟には、もう見えなかった。

　かといって、ゲームの中の二十四の人でもない。その途中の人が、氷圧の説明を丁寧に書いてくる。

　私は、その人に手紙を書くのが楽しかった。楽しいことを、二十四の私の頭で、少しだけ怪しんだ。怪しんでも、次の手紙は書いた。

　　＊

　十三歳の秋に、一臣が庭に来た。

　伯父の用で本家に来た日で、彼は十九になっていた。応接を出たあとで、庭の東屋にいた私のところへ、まっすぐ歩いてきた。

「天導さん」

「はい」

「立ち話ですまないが、先に本人へ言っておきたいことがある」

　私は東屋の椅子から立った。

「父たちが、あなたと私の婚約を進めようとしている」

　息が止まった。

　知っていた。ゲームの瑠璃は一臣の婚約者で、婚約は伯父たちの取り決めだった。いつか来ると分かっていた。分かっていたのに、息が止まった。

「まだ決まっていない。形が決まるのは、あなたが十六になる春だろうと聞いた。それまで三年ある」

「……はい」

「嫌なら、私の父に言う」

　彼は、正面から私を見て言った。

「私が父に言えば、あなたが断ったという形にせずに済む。あなたの母上に断らせるのも、角が立つだろう。私が言うのがいちばん早い。ただ、あなたが本当にどう思っているのかを、私が代わりに決めるわけにはいかない。だから訊いている」

　ゲームの一臣は、婚約者と一度も口をきかなかった。

　いま私の前に立っている人は、十三の娘に、自分から話しに来ている。先に本人へ、と言って。

「ぜんぜんやじゃない！」

　庭じゅうに響いた。

　植木の向こうで、庭師の鋏の音が止まった。

「……です！」

　敬語が、あとから走ってきた。間に合っていなかった。

　一臣は、しばらく何も言わなかった。私は自分の顔が熱くなっていくのを、どうすることもできずに立っていた。十三の身体は、顔に出るのが早い。

「……そうか」と彼は言った。

　それから、少し間があった。

「では、父には何も言わない」

「はい」

「聞こえた。一度で」

「……はい」

　植木の向こうで、鋏の音がまた始まった。さっきより、少しゆっくりだった。

　一臣は、東屋の柱のほうを見ていた。私のほうを見なかった。耳のあたりが、日に焼けているのとは違う色をしていた。

「門まで戻る」

「お見送りします」

　庭の小径を、二人で歩いた。門は屋敷の反対側にあるのに、彼は庭の端の生垣のほうへ歩いた。私はついて歩いた。どちらも何も言わなかった。落ち葉を踏む音が、二人ぶん続いた。

　生垣のところで、彼は立ち止まった。

「こちらは行き止まりだ」

「そうです」

「気づいていた」

「はい」

「では、戻ろう」

　彼は本当に踵を返して、来た道を戻った。私はそのあとをついて歩いた。門で彼は「では」と言い、私は「お気をつけて」と言った。それだけだった。

　彼が門を出てから、私は庭の小径へ戻った。

　東屋から生垣まで、一人で歩いてみた。三十歩と少しだった。

　あの人は、行き止まりを知っていて歩いたのか。知らずに歩いて、ごまかしたのか。十九の男の人の背中からは、どちらとも分からなかった。

　部屋へ戻って、ノートを開いた。

　　十月十日
　　　婚約の話（まだ予告）。十六の春。
　　　ぜんぜんやじゃない、と言った。声が大きかった。庭師の鋏が止まった。
　　　東屋から生垣まで、三十歩と少し。
　　　行き止まりを、知っていたのか。

　最後の行を、しばらく見ていた。

　書いたことの半分は、菓子の配合表にはいらないことだった。いらないことを書いてしまったので、余白には何も描かなかった。

　婚約の中身は、ノートに書かなくても分かっていた。伯父の一手だ。宗一郎さまが死んで、本家の跡取りはこの子になった。一臣は、宗一郎さまに子がないあいだ、本家の養子に入ると言われていた分家の息子だ。この子と一臣を結べば、どちらが本家を継いでも、伯父の家が本家を握る。伯父は、帳簿に判を押すだけでは足りない人なのだろう。

　その一手の上に、あの「ぜんぜんやじゃない」が乗っている。

　私は、それを恥ずかしいとは思わなかった。伯父の一手だろうと、私が嫌ではないことは嫌ではない。そこは、私が決めることだ。

　　＊

　十三歳の冬、母の文机を探った。

　口実は切手だった。学院の先生に礼状を出すつもりで、それ自体は本当だった。でも切手なら、女中に訊けば済む。私が母の居間に一人で入ったのは、十歳の秋から探していたものが、そこにあるかもしれなかったからだ。

　ゲームの瑠璃は、十七の冬にそれを燃やす。だから、それまではこの家のどこかにある。母の部屋か、居間か、仏間の奥か。母が留守にするたびに、私は一か所ずつ見てきた。見ても何も触らず、元どおりにして出た。

　切手は、文机の二段目にあった。二段目の奥に、藍色の表紙の帳面があった。

　家計簿だった。表紙の年号は、三年前――宗一郎さまが湖で死んだ年だった。呉服、炭、氷、車代、書生の月謝。母の字は几帳面で、月ごとの合計まで出してある。

　同じ字で、別の記入があった。

　　四月　薬
　　四月　薬
　　五月　薬
　　五月　薬
　　六月　薬
　　七月　薬

　四月の、最初の薬の横に、小さく四つの言葉が続いていた。薬の記入と同じ墨だった。

　　八月、湖、灯籠、舟屋。

　私は帳面を持ったまま、畳に座り込んだ。

　ゲームでは、この帳面は燃やされる。燃える頁の絵が一枚出るだけで、何が書いてあったかは最後まで出てこない。燃やされたあとで主人公が医院の処方簿を見つけて、母親が眠り薬を何度も受け取っていたことが分かる。主犯は伯父で、母親は兄に言われて娘を眠らせた。ゲームはそう言っていた。

　でも、この四つの言葉は、四月に書いてあった。

　祖母は、年末に出す焼き菓子の段取りを、秋のうちに暦に書いた。いつ焼くか先に決めて、そこから材料を揃える。人に言われて焼く菓子なら、段取りは言われてから書く。

　この人は、四月に、八月の湖と舟屋を書いている。

　伯父がいつこの人に話を持ちかけたのか、ゲームには書いていなかったと思う。書いてあったとしても、私は読み飛ばしていた。だから、ここから先は私の考えでしかない。けれど、この四月の行は、言われて書いた人の字には見えなかった。

　その字は、学院の書類の保護者欄と同じ字だった。私が熱を出した夜、枕元で薬湯の分量を書きとめていた字だった。あの夜、この人は朝まで枕元にいた。

　私はしばらく、そこから動けなかった。

　動けるようになってから、帳面を懐に入れた。

　焼かない。十歳の夜に決めたとおりだ。

　いま誰かに見せることもしない。見せる相手が、この家にはいない。後見人は伯父で、帳簿も判も伯父が握っている。十三の娘が母の家計簿を持って出ても、握りつぶすのは簡単だろう。それに、帳面一冊では足りない。ゲームでも、証拠は主人公と三人の相手が一つずつ集めて、揃ったときにやっと本当のことが出た。

　渡す相手は、決まっていた。父親の名前を取り戻しに学院へ来る、小野澪。ゲームの筋なら、澪が来るのは私が十六の年だ。

　三年ある。

　三年のあいだ、一臣は伯父について本家に来る。この帳面がこの家にあるうちは、この家は続く。そう考えた自分に気づいて、懐に入れた手が少し止まった。

　止まったまま、私は決めた。三年後に、渡す。澪が来たら、すぐに。

　自分の部屋に戻って、鏡台の底の板を外した。帳面をそこへ入れた。板を戻して、白粉の瓶を上に並べた。

　文机の抽斗を開けっぱなしにしてきたことに気づいたのは、夕食のあとだった。母が風呂に入っているあいだに居間へ戻って、抽斗を閉めた。切手は一枚だけ取った。礼状は、翌朝出した。

　その夜、ノートの新しい頁に、仕入れ帳のように書いた。

　　十二月三日
　　　入庫　藍の帳面　一冊
　　　置き場　鏡台の底
　　　出庫　小野澪さんが学院に来たら、すぐ

　書いておけば、あとで言い訳ができない。祖母の店で、帳面をつけるのはそのためだった。

　余白には、何も描かなかった。

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# 第三章　本を汚さない菓子

　十四歳の春に、分家の台所で天火を見つけた。

　分家は、伯父の家だ。婚約の話が内々に進んでからは、母に連れられて、月に一度はお茶に呼ばれるようになっていた。その日、伯母さまが台所の奥へ案内してくれた。

「主人が、外国の船で運ばせたのですけれど」

　伯母さまは、一臣の母親だ。伯父とは反対に小柄で、ふっくらした頬をしていて、話すときに少し首を傾げる。洋食が好きで、伯父はそれで、この鉄の箱を港から運ばせたのだという。

　黒い鉄の箱だった。下に炭を入れる口があって、上の段に天板が二枚入る。扉の真ん中に、温度計の丸い目盛りがついていた。

「誰も使い方が分からなくて。料理番がパンを一度焼いて、真っ黒にしてしまってから、それきり」

　私は扉を開けて、中を覗いた。煤の匂いがした。奥の壁に、焦げの跡が片寄ってついている。炭の口の真上だけが、黒い。

「伯母さま。これ、使ってみてもいいですか」

　伯母さまは目を丸くして、それから笑った。

「瑠璃さんが？」

「はい。焼き菓子を、焼いてみたいんです」

　母は応接に残っていた。私は、母のいないところで訊いた。本家の台所で断られてから、三年半たっていた。

　伯母さまは、台所の女中頭を振り返った。年のいった、口の固そうな人だった。女中頭は何も言わなかった。言わないのが、この家では「どうぞ」の代わりらしかった。

「火傷だけは、しないでちょうだいね」

　　＊

　最初に焼いたのは、ビスケットだった。

　型がなくても焼ける。粉と、砂糖と、バタと、卵。分家の台所には、港から来たメリケン粉の袋と、バタの缶があった。量りは匁の目盛りで、私はノートの換算表を見ながら量った。

　天火の火加減は、手で見た。

　温度計の針は、どこまで信じていいか分からなかった。祖母は若いころ、ガスのオーブンが入る前の窯で働いていて、そのころのやり方を一度だけ見せてくれたことがある。扉を開けて手を入れて、数を数える。熱くて手を引くまでに、いくつ数えられるか。数が少なければ火が強い。多ければ弱い。

　私は手を入れて、数えた。七つで手を引いた。少し強い。炭を一つ、端へ寄せた。

　最初の天板は、奥の右だけが焦げた。

　私は天板を引き出して、焦げた端を見て、笑ってしまった。祖母の店の、古いオーブンと同じ癖だった。奥の右だけ、焼き色が濃くなる。

「何がおかしいの？」と伯母さまが訊いた。

「知っている窯に、似ていたので」

　二枚目は、途中で天板を回した。焼き色が揃った。

　伯母さまは、焼き立てを一枚つまんで、熱い熱いと言いながら齧った。齧って、目を閉じた。

「まあ。……まあ」

　それしか言わなかった。女中頭も、一枚取った。何も言わずに、もう一枚取った。

　　＊

　一臣が帰ってきたのは、夕方だった。

　二十になっていた。大学の最後の年で、学生服ではなく、着物に袴で帰ってきた。背が、また少し伸びていた。十歳の秋に廊下の長椅子で膝をはみ出させていた男の子は、もうどこにもいなかった。玄関で母親と話す声を、私は台所の戸の陰で聞いていた。

　伯母さまが、皿にビスケットを載せて縁側へ持っていった。

「瑠璃さんが焼いてくださったのよ」

　一臣は縁側に座って、本を開いていた。皿を受け取って、「そうですか」と言った。それから、本を読みながら、一枚取って齧った。

　私は台所の窓から、それを見ていた。

　ビスケットの粉が、頁に落ちた。一臣は読むのを止めて、頁を傾けて、粉を縁側の外へ落とした。それから、指先を袴で拭いた。拭いてから、頁の端を見た。指の脂が、紙に薄く残っていたらしい。彼はその染みを、しばらく見ていた。

　二枚目には、手を伸ばさなかった。

　甘いのが嫌いなのではない、と思った。一枚目は、最後まで食べていた。食べ方の問題だった。あの人は、本を読みながら食べる。片手で。頁から目を離さずに。

　そういう人が食べられる菓子は、粉が落ちなくて、指に脂がつかないものだ。

　私はノートを開いて、材料の行に書き足した。

　　材料　一臣さんの好み
　　　本を読みながら食べる。片手。
　　　粉が落ちるのは嫌。指の脂で頁が汚れるのは、もっと嫌。
　　　甘いのは、たぶん平気。

　十歳の秋に「分からない」と書いた行の横だった。四年かかって、一つ分かった。

　　＊

　それから、土曜ごとに分家の台所へ通った。

　母は止めなかった。婚約の家へ行くのだから、止める理由がなかったのだと思う。一度だけ、「分家の台所で、何をしているの」と訊かれた。

「お菓子を焼いています」

「……そう」

　母はそれ以上、何も訊かなかった。

　ノートには、焼くたびに書いた。

　　四月十三日　二回目
　　　バタを減らす。固すぎる。
　　　一臣さん、噛む音が大きくて、頁をめくり損ねた。
　　四月二十日　三回目
　　　バタを戻して、塩をひとつまみ。
　　　薄く伸ばして、長めに焼く。粉は落ちない。指に脂が少し残る。
　　四月二十七日　四回目
　　　卵は黄身だけ。表に卵白を薄く塗って、乾かしてから焼く。
　　　指に、何も残らない。

　バタの缶は、伯母さまの財布で買ったものだった。三回目から、私は自分の小遣いで一缶買って持っていった。伯母さまは「そんな」と言ったけれど、材料は自分で持つものだ。祖母の店で、それだけは曲げなかった。

　四回目の天板を出した日、一臣は縁側で、いつものように本を読んでいた。

　私は皿を持って、自分で縁側へ出た。台所の窓から見ているだけでは、分からないことがある。

「一臣さん。これ、食べてみてください」

「今日も焼いたのか」

「焼きました」

　彼は一枚取って、読みながら齧った。本から目を離さなかった。粉は落ちなかった。彼はもう一枚取った。取るときも、目は頁にあった。三枚目を取るときには、皿のほうを見もしなかった。

　私は縁側の端に座って、黙っていた。

　一時間くらいたった。皿が空になって、一臣の指が皿の上で空を掴んだ。彼はそこで初めて顔を上げて、空の皿を見た。それから、自分の指を見た。それから、開いている頁を見た。

「……これは、本が汚れない」

　言われた瞬間、声が出そうになった。

　出さなかった。出したら、合格を取り消されそうな気がした。私は縁側の端で、膝の上の手を握りしめていた。

「名前は」と彼は訊いた。

「まだ、ありません」

「では、本の菓子だ」

　彼はそう言って、また頁に目を戻した。

　私はその夜、ノートの四回目の欄の下に、大きく書いた。

　　合格
　　品名　本の菓子（一臣さんが名づけた）

　余白に、丸い、縁の薄いビスケットの絵を描いた。貝の形のマドレーヌより、ずっと簡単な絵だった。簡単な絵のほうを、なぜか長く描いていた。

　　＊

　口づけをせがんだのは、その次の土曜だった。

　合格の次の週で、私は浮かれていた。浮かれているのが自分でも分かっていて、分かっていても止まらなかった。

　縁側で、一臣は本の菓子を三枚食べて、四枚目を取りながら言った。

「母が、あなたにお礼をしたいと言っている。何か欲しいものはあるか」

「伯母さまに、ですか」

「私からでもいい。本の菓子の礼だ」

　本を貸すとか、辞書をくれるとか、そういうものを考えている顔だった。

「……ご褒美、ですか」

「そういうことになる」

「じゃあ」

　口が先に動いた。

「口づけ、して！」

　庭の雀が、いっせいに飛んだ気がした。

「……ください」

　敬語は、やっぱり間に合わなかった。

　一臣は、四枚目を持ったまま動かなかった。それから、本を閉じた。閉じて、膝の上に置いて、菓子を皿に戻した。

「はしたない」

　静かな声だった。怒ってはいなかった。

「十四の娘が、男に言うことではない。言われた男のほうも、聞かなかったことにするしかない」

　私は、縁側の板の目を見ていた。

「今日は、聞かなかった」

　一臣は立ち上がって、台所へ行った。伯母さまに何か言っている声がした。戻ってきたのは女中頭で、「お嬢様、お迎えの車を呼びましたので」と言った。

　帰りの車の中で、私は膝に顔を埋めた。

　正しいのは、一臣だった。この身体は十四だ。二十の男の人に、十四の娘が言うことではない。中に二十四の私が入っていても、身体は十四で、あの人から見えるのは十四の娘だ。あの人は、それを見たとおりに扱った。

　恥ずかしかった。死にたいくらい恥ずかしかった。

　それと同じくらい、あの人がああ言える人だったことが、嬉しかった。

　二十の男の人が、十四の娘に、はしたない、と言う。聞かなかった、と言う。笑いもしないで、説教もしないで、それだけ言って立つ。

　私の好きな人は、そういう人だった。

　次の土曜、一臣はいつもどおり縁側で本の菓子を食べた。先週のことは、何も言わなかった。私も言わなかった。伯母さまだけが、少しだけ私の顔を長く見た。

　ノートには、一行だけ書いた。

　　五月十一日　十四の私は、もう言わない。

　　＊

　勇気が出なかった日も、あった。

　十五の夏、八剣神社の祭りに、伯母さまと一臣と三人で行った。母は、人混みは嫌いだと言って来なかった。伯母さまは途中で知り合いに会って、話しこんでしまった。

　夜店の並ぶ参道を、一臣と二人で歩いた。人が多かった。肩が、何度も人にぶつかった。

　袖を、つかもうと思った。

　はぐれないように、という顔をして、一臣の着物の袖を、指で少しだけ。それくらいなら、はしたなくはない。十五の娘が、人混みで従兄の袖をつかむのは、誰が見てもおかしくない。

　手を伸ばしかけて、下ろした。

　もう一度伸ばしかけて、また下ろした。

　一臣は、歩くのが速い人だった。その夜は、速くなかった。人混みの中で、ずっと私の半歩前を、私の歩く速さで歩いていた。私は、その半歩前の袖を見ていた。見ているだけで、参道の端まで来てしまった。

　端の飴屋で、一臣は飴を二本買って、一本を私にくれた。

「母を探してくる。ここにいてくれ」

　彼が人混みに戻っていくのを、私は飴を持って見送った。

　帰ってから、ノートを開いた。何も書かなかった。書くことが、なかった。つかめなかった袖のことは、配合表のどの行にも入らなかった。

　　＊

　十五の秋に、私から誘った。

　便箋に、用件だけを書いた。

　　一臣さん
　　来週の日曜、銀座の明星軒へ行ってください。一緒に。
　　シュークリームを食べます。偵察です。
　　瑠璃

　書いてから、「行ってください」はおかしいと思った。「行きませんか」と書き直そうとして、やめた。行きませんか、と書けば、行かないという返事を選べる。選ばせたくなかった。

　返事は、三日で来た。

　　行く。
　　一臣

　その日曜、明星軒の硝子戸の前で、一臣は先に来て待っていた。背広だった。この春に大学を出て、分家の商会で働きはじめていた。背広を着た一臣を見るのは、それが初めてだった。

　大人だった。

　ゲームの立ち絵の、二十四の人に、もう半分くらい近づいていた。私は硝子戸の前で、一瞬、歩き方を忘れた。

「偵察とは、何をする」

「食べて、見て、書きます」

　店の中は、洋燈の光と、焼けた砂糖の匂いがした。硝子のケースの中に、シュークリームが並んでいた。祖母の店のものより、ひとまわり大きい。皮が厚くて、上に粉砂糖がかかっている。

　私は二つ頼んで、一つを一臣の前に置いた。自分の一つは、まず割った。

　皮の厚さを見た。中のクリームを、匙の先で少し取って、舌に載せた。卵の黄身が多い。砂糖も多い。バニラの代わりに、何か別の香りがする。レモンの皮かもしれない。

　私はノートを出して、書いた。大きさ。皮の厚さ。クリームの色と、甘さ。値段。客の入り。ケースの並べ方。

　一臣は、自分のシュークリームに手をつけずに、私の手元を見ていた。

「何を書いている」

「値段と、大きさと、皮の厚さと、クリームの味です」

「なぜ」

「いつか、お店を出すので」

　彼は、少し黙った。

「店」

「はい。菓子屋です」

「……どこに」

「下町に。ここのより小さくて、安いのを。お屋敷町の人じゃなくて、下町の、近所のおばあさんが、孫の来る日に六つ買えるくらいのを」

　言いながら、祖母の店のケースを思い出していた。マドレーヌが六個ずつ、紙の袋に入っていく。

　一臣は、私の顔を見ていた。冗談を聞いている顔ではなかった。帳簿の数字を聞いているときの顔だった。

「帳場は」

「私です」

「焼くのも、あなただろう」

「はい」

「両方は、無理だ」

「……じゃあ、そのときになったら、考えます」

　一臣は、それには何も言わなかった。自分のシュークリームを、やっと手に取った。持ち上げて、しばらく眺めてから、齧った。粉砂糖が、背広の襟に少し落ちた。彼はそれを指で払った。

「甘い」

「甘いのは、お嫌いですか」

「嫌いではない。本を読みながらは、食べられない」

　私は笑ってしまった。

　一臣は、残りのシュークリームを皿に置いて、言った。

「あなたは、決めているんだな」

「決めてます」

「……私は、まだ決めていない」

　彼は、皿の上の半分のシュークリームを見ていた。

「何をですか」

「自分が何をするか。父の商会に入ることは、決まっていた。決まっているのと、自分で決めたのは、違う」

　私は、ノートを閉じた。

　ゲームの一臣は、最後に、これは私が決める、と言う。いま目の前にいる人は、まだ決めていないと言った。二十一の人が、十五の娘に、自分がまだ決めていないことを、そのまま言った。

　私はそれを聞いて、嬉しかった。この人がいつか決めるところを、そばで見られるかもしれない。

「一臣さん」

「なんだ」

「残りのシュークリーム、食べないなら、ください。偵察なので」

　一臣は、皿を私のほうへ押した。

　帰りの車の中で、私は暦の次の点までの日を数えなかった。次の点は、もう打ってあった。店を出るとき、一臣が「次の日曜は、港の荷がない」と言ったからだ。

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# 第四章　門までは近すぎた

　十五歳の三月に、一臣へ手紙を書いた。

　　一臣さん
　　婚約の日に着る着物の色で、迷っています。
　　藍と、緑がかった青と、どちらがいいと思いますか。
　　瑠璃

　迷ってはいなかった。どちらでもよかった。一臣が選んだほうにすると、先に決めていた。

　返事は、四日で来た。

　　天導さん
　　緑がかったほう。
　　理由は、ない。
　　一臣

　理由はない、と書いてあるのが嬉しかった。理由をこしらえない人だった。

　　＊

　四月のはじめに、母に連れられて呉服屋へ行った。

　座敷に反物が並んで、番頭が次々に広げた。母は私の顔の下に布をあてて、光の向きを変えた。

「これは駄目。顔が黄色く見える」

「はい」

「これも駄目。婚約の席に着せる色ではない」

　母は五本ほど退けてから、藍と、その隣の、少し緑がかった青を並べた。

「瑠璃。こちらとこちら、どちらが好き？」

　私は、すぐに緑がかったほうを指した。

　母は、しばらくその布を見ていた。

「あなたは目がいい」と母は言った。「その色はね、瑠璃という色に近いの。染屋がいちばん手を抜けない色よ」

「そうなんですか」

「あなたに似合う。よく似合う」

　目がいいのは、一臣さんのほうです、と心の中で言った。

　母は番頭に反物を頼んだ。帰りの車で、母は窓の外を見ていた。私は膝の上に手を置いて、さっきの言葉を頭の中でもう一度聞いていた。

　あなたに似合う。

　鏡台の底には、藍色の帳面が入っている。四月の行に、八月、湖、灯籠、舟屋、と書いた人の帳面だ。その人が、いま、私に似合う色を選んだ。

　どちらも、同じ人だった。私はどちらも、取り消さずに持って帰った。

　　＊

　婚約は、四月の下旬に正式になった。

　儀式らしいことは、何もなかった。本家の応接に、伯父と伯母さまと母が並んで、家令の佐伯が書付を読み上げた。私は「はい」と言った。一臣は隣にいて、書付が読まれるあいだ、まっすぐ前を見ていた。二十二になって、背広がもう体に馴染んでいた。

　読み上げが終わると、一臣は私の袖のあたりを見て、小さく言った。

「その色で、よかった」

　私は、うつむいた。うつむいたまま、顔が熱くなっていくのが分かった。

　それから一臣は、もっと小さな声で言った。

「これで、あなたが断るときの手続きが増えた。すまない」

　私は笑ってしまって、母に見られた。

　母の目がそれたあとで、私は小声で訊いた。

「一臣さんは、嫌ではなかったんですか」

　彼は、前を見たまま答えた。

「嫌なら、三年前に自分の分も父に言っている」

　それだけだった。

　三年前の庭で、嫌なら私の父に言う、と彼は言った。あれは私の分の話だった。彼は自分の分を、三年のあいだ、一度も父親に言わなかった。

　気づいてから、私は書付を畳む佐伯の手元ばかり見ていた。顔を上げたら、何かが顔に出てしまいそうだった。

　　＊

　その夜、本家で夕食があった。

　伯父がよく喋り、よく飲んだ。伯母さまが笑い、母はあまり箸をつけなかった。一臣は、ほとんど喋らなかった。

　食事のあと、私は一臣を庭へ誘った。

「少し、歩きませんか」

　四月の夜で、庭はまだ冷えていた。東屋に洋燈が一つ、吊るしてあった。女中が気をきかせたのだと思う。二人で東屋に入って、腰を下ろした。

　言うことは、決めてあった。十三の秋に、婚約の話を聞いた夜から、ずっと。

「一臣さん。この婚約のことで、先に言っておきたいことがあります」

「なんだ」

「この婚約は、伯父さまの一手です。私が本家を継いでも、一臣さんが継いでも、伯父さまの家が本家を握れるように」

　一臣は、すぐには答えなかった。洋燈の芯が、小さく鳴った。

「知っている」

　彼は言った。

「父の考えそうなことだ」

　驚かなかった。彼は、そういうことを知らずにいる人ではなかった。十三の秋、先に本人へ言っておきたい、と言いに来た人だ。

「でも」と私は言った。「そうはならないんです」

　一臣が、こちらを見た。

　私は、膝の上で手を握った。握った手の中で、爪が掌に当たった。

「一臣さん。本家の乗っ取りなんて、ぜんぜんできない運命だけど、それでも私と結婚してくれる？」

　言ってから、敬語を忘れていたことに気づいた。

「……くれますか？」

　庭の奥で、何かの虫が一度だけ鳴いた。

「運命」と一臣は言った。

「はい。そういうふうになるんです。私には、分かるんです」

　理由は言えなかった。言えば、ゲームの話になる。夢で見た、と言うこともできた。言わなかった。一臣に、嘘の理由をこしらえたくなかった。

「信じなくていいです。ただ、先に言っておきたかったんです。伯父さまの思うとおりには、ならない。それでも、って」

　一臣は、長いあいだ黙っていた。

　彼の沈黙は長い。長いあいだ、私の顔を見ていた。笑わなかった。子どもの言うことを聞き流す顔もしなかった。帳簿の数字の、合わないところを見ているときの顔だった。

「どうなるかは分からない」

　彼は言った。

「……自分がどうしたいかは、自分たちで決めよう」

　洋燈の火が、少し揺れた。

　自分たち、と彼は言った。

　祖母の店を継ぐと決めたのは、私一人だった。オーブンを買い替えると決めたのも、借金を返す段取りを決めたのも、一人だった。一人で決めることには慣れていた。誰かに、一緒に決めよう、と言われたことはなかった。

　いま、言われた。

「……私は、決めてます」

　やっと、それだけ言えた。

「知っている」と一臣は言った。「明星軒で、そう言っていた」

　私はうつむいた。うつむいて、笑ってしまった。笑いながら、目の奥が熱くなった。泣かなかった。泣くのは、窯の火を落としてからにしな、と祖母は言っていた。今夜の窯は、まだ火が入ったばかりだった。

　部屋に戻って、ノートを開いた。

　　四月二十七日
　　　婚約（正式）。緑がかった青。その色でよかった、と言われた。
　　　夜、東屋で。
　　　「どうなるかは分からない。……自分がどうしたいかは、自分たちで決めよう」

　余白に、マドレーヌを二つ描いた。並べて描いた。

　　＊

　五月に、一臣をお茶に誘った。

　今度は、用件をこしらえなかった。

　　一臣さん
　　今度の日曜、お茶にいらしてください。用事はありません。
　　瑠璃

　用事はありません、と書くのに、便箋を三枚使った。一枚目は「お尋ねしたいことが」と書いてしまって、破った。二枚目は「北方回航記の下巻を」と書いてしまって、破った。用事をこしらえれば、断られない。それは分かっていた。分かっていて、こしらえたくなかった。

　一臣は来た。

　東屋に茶を出した。彼は茶を飲んで、庭の話を少しして、茶碗を置いた。十五分くらいだった。

「では」

　彼は立ち上がった。

　私は、膝の上で手を握った。

　この人は、用が済むと帰る。お茶に来てくださいと書いたから、お茶が済んだら帰る。それだけのことだった。誠実に用を果たしたから、帰るのだった。

　彼が二歩歩いた。

「あの」

　声が、思ったより大きかった。

　一臣が振り返った。

「お茶が済んでも、いてくださいませんか」

　言ってから、耳が熱くなった。庭の日差しが、急に強くなった気がした。彼は立ったまま私を見ていた。三秒か四秒だったと思う。私にはとても長かった。

「……ああ」と彼は言った。

　彼は椅子に戻った。座り直すとき、椅子の脚が石を擦って鳴った。

「すまない。私は、用が済むと帰る癖がある。父にもよく言われる」

「お茶が、用事だったんですか」

「違うのか」

「……お茶は、口実です」

　一臣は湯呑を持ち上げて、中を見て、空だと気づいて置いた。私は新しく注いだ。

「そうか」

　それから四十分、私たちは何ということもない話をした。港に入った船の話。大学の図書館の、いちばん奥の棚の話。私は明星軒のシュークリームを、分家の天火でどこまで真似できたかを話した。皮はできた。クリームは、まだできない。卵の黄身が、明星軒ほど買えない。

「高いのか」

「高いです。一個あたり、黄身の値段だけで、向こうの半分になります」

「では、黄身を減らせばいい」

「減らしたら、明星軒に負けます」

「負けてもいいのではないか。下町で売るなら」

　私は湯呑を持ったまま、しばらく黙った。そうだった。私は明星軒の真似をするために焼いているのではなかった。

　帰りぎわ、門のところで、一臣は言った。

「次の日曜は、空いている」

「え」

「用はない。港の集金は、土曜に終わる。日曜は何もない」

　彼はそう言って、私の返事を待った。

「いらしてください」と私は言った。

　　＊

　次の日曜は、朝から雨だった。

　東屋は使えないので、南の小広間に通した。窓の外で、庭の敷石に雨が跳ねていた。屋根の樋がひとところ壊れていて、そこだけ水が滝のように落ちる。

　一臣は、少し濡れて来た。女中のフミが手拭いを持ってきて、彼は肩を拭いた。フミは六十を過ぎた人で、この身体の子が生まれたときから世話をしてきた女中だった。手つきがゆっくりしている。一臣の背広の上着を受け取って、窓際の椅子の背に干した。

「傘は」と私は訊いた。

「持って出た。途中で人にやった」

「人に」

「橋のところで、赤ん坊を負ぶった人が濡れていたので。私は濡れても平気だ」

「風邪をひきます」

「ひかない」

　本当に、ひかなそうな顔をしていた。

　その日、彼は『北方回航記』の下巻と、もう一冊、薄い本を持ってきていた。『灯台守の記録』という本だった。

「これは、あなたが好きかどうか分からない」

「読みます」

「まだ何も言っていない」

「読みます」

　彼は笑った。声を出さない笑い方だった。

　二人で、それぞれの本を読んだ。彼は下巻を、私は灯台守を。三十分くらい、雨の音しかしなかった。私は活字を追いながら、この時間がずっと続けばいいと思っていた。四頁進んだところで、それに気づいた自分が恥ずかしくなって、六頁戻った。

「天導さん」

「はい」

「あと何頁で終わる」

「え？」

「その本、あと何頁ある」

　私は残りを指でつまんだ。

「二十くらい」

「では、まだ灯台守は死なない」

「え」

「残りの厚みで、話の終わりが分かる。二十頁も残っていれば、まだ大きな不幸は起こらない。三頁なら死ぬ」

「ひどい読み方です」

「本の読み方に、善悪はない」

「あります」

　私は真面目に言い返した。それから、彼が自分の下巻の残りを指でつまんで、厚みを測っているのを見て、笑ってしまった。

「いま、ご自分でやりました」

「習慣だ」

「じゃあ、何頁残っていますか」

「六十。まだ全員生きている」

　私は声を出して笑った。笑ったら、彼が本を持ったまま少し驚いた顔をして、それから、また声を出さずに笑った。

　彼は本を伏せた。伏せて、また持ち上げた。

「一臣さん、逆さです」

「？」

「本が、逆さです」

　彼は自分の手元を見た。持ち替えた。

「……いま、話をしていたので」

「はい」

「話をしていたので、頁を見ていなかった」

「はい」

　私は、笑うのをこらえるのに失敗した。彼は耳のあたりが赤かった。耳を赤くするところは、十三の秋の庭で一度見ていた。二度目だった。

　雨が強くなった。樋の壊れたところの音が大きくなって、彼の声が聞こえにくくなった。

「聞こえない」と彼が言った。

「私もです」

　私は、自分の椅子を持ち上げて、彼の側へ移した。移してから、近すぎたと思った。移した以上、戻すほうが変だった。

　二人で並んで座って、それぞれの本を膝に置いた。肩と肩のあいだに、指二本ぶんの隙間しかなかった。彼が頁をめくるたびに、その隙間の空気が動いた。

　そこから、私は一行も読めなかった。

　目が同じ行を四回なぞって、意味が入ってこない。隣で彼の頁がめくれる音がする。めくれる間隔が、ずいぶん長い。長すぎる。

　顔を横に向けたら、彼と目が合った。

　二人とも、すぐ本に戻った。戻ってからも、耳が熱かった。

　そのあと彼が「灯台守の話をしてくれないか」と言って、私は最初の三十頁を話した。話すのが下手で、途中で人物の名前を取り違えた。彼が「その男は、さっき死んだと言わなかったか」と言い、私が「死んでません、船が沈んだだけです」と言い、彼が「船が沈んで、男が生きているのか」と言って、また二人で笑った。

　雨がやんだのは、五時前だった。

　庭が光った。樋の音が止まって、部屋が急に静かになった。

「やんだ」と彼が言った。

「やみましたね」

　どちらも、立たなかった。

　窓から入る光が、斜めになっていた。隣に、指二本ぶんの隙間があった。

　今だ、と思った。

　十四の春に、口で言って、はしたないと言われた。口で言わなければいい。十六の私は、目を閉じた。顔を少しだけ、隣のほうへ向けて。

　心臓の音が、うるさかった。

　衣擦れの音がした。一臣が立ち上がる音だった。足音が、窓のほうへ行った。戻ってきた。

　肩に、何かが掛かった。

「眠いのか」

　目を開けた。背広の上着が、私の肩に掛かっていた。窓際の椅子で乾かしてあったものだった。

「雨のあとは、冷える」

　一臣は、もう自分の椅子に戻って、窓の外の庭を見ていた。

　私は、上着の襟を両手で握った。

「……眠いです。すごく」

「そうか」

　伝わらなかった。何ひとつ、伝わらなかった。私は上着の中で、膝を抱えたくなった。膝を抱えるのは我慢した。上着は、重かった。

　一分くらいして、彼が「帰る」と言った。私は上着を返して、玄関まで送った。彼は靴を履きながら言った。

「今日は、用がなかった」

「はい」

「用がないほうが、長かった」

　彼が門を出て、角を曲がるまで、私は玄関に立っていた。

　部屋に戻って、布団に顔を埋めた。夕食まで一時間、そこで一人で笑ったり、うめいたりしていた。フミが呼びに来たとき、まだ顔が熱かった。

　ノートには、こう書いた。

　　六月六日　雨
　　　逆さの本。
　　　目を閉じた。眠いのか、と言われて、上着を掛けられた。
　　　用がないほうが、長かった。

　最後の行の横に、何か描こうとして、何を描けばいいか分からなかった。上着の絵は、菓子の形をしていなかった。

　　＊

　七月の第一日曜は、その夏はじめての暑い日だった。

　一臣は『灯台守の記録』の下巻を持ってきた。上巻の終わりで、灯台守は灯を点け忘れて、それがもとで船が一隻、岩に乗り上げる。

「結末は、知っていますか」

「知らない。厚みで測るのは、やめた」

「やめたんですか」

「あなたに、本の読み方には善悪があると言われたので」

　東屋に出た。蝉がうるさかった。彼は上着を脱いで、椅子の背にかけた。

　二時間、灯台守の話をした。

「灯を点け忘れたのは、あの男の落ち度ではない」と彼は言った。「灯を一人で守らせる仕組みが悪い」

「落ち度です」と私は言った。「仕組みが悪いのと、あの人が悪いのは、両立します」

　彼は少し黙って、「そうかもしれん」と言った。

　帰る時刻になって、夕立が来た。

　さっきまでの晴れが嘘のように、東屋の屋根が鳴った。私はフミから番傘を受け取って、門まで送ると言った。傘は一本しかなかった。フミは、二本目を探しに行こうとしなかった。

　一臣が傘を持った。

　彼は、傘を傾けなかった。まっすぐ、二人の真ん中に差した。敷石を半分も行かないうちに、彼の左の肩と、私の右の肩が、同じくらい濡れて色を変えた。

　この人は、こういうふうに傘を差すのだ、と思った。どちらかだけを濡らさない。二人ぶんを、半分ずつ濡らす。

　私は傘の柄に手を添えて、少しだけ彼のほうへ傾けようとした。彼の手の上に、私の手が重なった。彼は傘を傾けなかった。私も手を離さなかった。傘はまっすぐのまま、私たちは歩いた。歩くたびに、私の肩が彼の腕に当たった。どちらも謝らなかった。

　小径の分かれ目で、彼は門のほうではなく、生垣のほうを見た。

「三年前の秋、初めて庭の端まで歩いた日のことだが」

「行き止まりでした」

「行き止まりなのは、知っていた」

　私は彼を見上げた。

「知っていて、歩いたんですか」

「門までは、近すぎた」

　彼はそれだけ言って、門のほうへ歩きだした。傘の中なので、私もついて行くしかなかった。三年のあいだ分からなかったことの答えを、彼は雨の音にまぎらせるようにして言った。耳が熱くて、雨が冷たいのかどうかも分からなかった。

　東屋から生垣まで、三十歩と少し。あの日、一臣はその三十歩を、わざと歩いた。

　門の庇の下で、彼は立ち止まった。

「来月は、八月だ」

「はい」

「八月は、商会が忙しい。船が動く」

「はい」

「来られないかもしれない。言っておかないと、あなたが待つと思ったので」

「待ちません」

　一臣が、こちらを見た。

「待たないので、来られる日を教えてください」

　彼は少し黙った。庇から落ちる雨が、私たちのあいだで細い簾になっていた。

「……二十日。夕方なら」

「二十日の夕方ですね」

　彼は頷いて、傘を私に渡して、雨の中へ出ていった。濡れても平気だ、と言う人の背中だった。

　部屋に戻って、暦の八月二十日に点を打った。いつもより、少し濃く打った。

---

# 第五章　さしあげます

　十六歳の九月に、小野澪が学院へ来た。

　ゲームでは、春に来るはずだった。四月にも五月にも来なかったので、私は夏のあいだ、鏡台の底の板を何度か外して、また戻した。

　秋の学期の初めの日だった。奨学生として、一つ上の組に編入された。寮に入るのだという。朝の礼拝のあとで、教師が名前を読み上げたとき、講堂の後ろのほうで、何人かが私のほうを振り向いた。

「小野って、あの」

「湖の、番人の」

「天導さんのおじさまが亡くなったときの」

　声は小さかった。小さくても、言いたいことは全部聞こえた。

　六年前の湖のことは、この学院では皆がうっすら知っていた。天導の当主が湖に落ちて死んだ。桟橋の番人の見回りが足りなかった、と新聞に書かれた。番人は暇を出されて、何年かあとに病気で死んだ。その娘が、天導の分家の商会の奨学金で、天導の跡取りと同じ学院に来た。

　皆、天導の令嬢は番人の娘を憎んでいる、と思っていた。そういう筋書きのほうが、話としてはよくできている。

　私は、振り向いた顔を一つずつ見返した。見返すと、皆、前を向いた。

　　＊

　最初の一週間、私は遠くから澪を見ていた。

　日に焼けた子だった。学院の女の子たちは、皆、日傘の下で育った色をしている。その中で、澪の首筋と手の甲だけが、夏の湖の色をしていた。髪は肩の上で短く切ってあって、学院では後ろで一つに結んでいる。制服は奨学生の揃いの、飾りのない紺だった。何度も洗ったらしく、袖口が少し白っぽい。

　目が、まっすぐだった。

　誰かに話しかけられると、澪は相手の顔をまっすぐ見て答える。見られた相手のほうが、先に目をそらす。

　三日目の昼休みに、中庭の銀杏に帽子が引っかかった。風で飛ばされた、下の組の子の帽子だった。持ち主は木の下で泣きそうな顔をしていた。小暮さんだった。

　澪は、何も言わずに木に登った。

　靴を脱いで、幹に手をかけて、するすると登った。見ていた女の子たちが悲鳴を上げた。澪は二番目の枝まで登って、帽子を取って、下りてきた。下りてきて、帽子の埃を払って、小暮さんに渡した。

「湖のそばで育ったので」

　それだけ言って、靴を履いた。

　五日目には、澪の周りに人がいた。昼休みに、澪が包みを開けると、三人か四人が寄っていった。小暮さんも、その中にいた。

　私は、渡り廊下の端から、それを見ていた。

　主人公は、本当に主人公だった。

　ゲームの画面で、私は澪の返事を選ぶ側だった。澪が何を感じているのかは、選んだ返事の向こうにしかなかった。いま目の前にいる澪は、誰にも選ばれずに、自分で木に登る。

　この子を、一臣が好きになる。ゲームでは。

　　＊

　九月の終わりに、一臣が学院へ来た。

　奨学金の手続きの書類を、商会から届けに来たのだという。放課後、職員室の隣の応接で、澪と会っていた。私は、たまたまその前の廊下を通った。たまたまではなかった。一臣が来ると、朝のうちに聞いていた。

　応接の扉は、少し開いていた。

「覚えています」と澪の声がした。「一臣さまは、湖で、父の舟に乗せてもらっていた方でしょう。星見荘の坊ちゃまの」

「……坊ちゃまは、やめてくれ」

　澪が、声を出して笑った。

　私は扉の隙間から見た。一臣は、椅子に座って書類を揃えながら、口の端を動かしていた。声を出さない、あの笑い方だった。逆さの本を持ち替えたときの。

　私は、廊下を歩いた。足音を立てないように歩いた。立てないように歩いているのが、自分でも馬鹿みたいだった。

　ゲームの一臣は、澪の率直さに気づいて、好きになる。いま、一臣は澪の前で笑った。

　寮の門で待っている一臣の絵が、頭に浮かんだ。用はなくなったが、まだいる、と言う一臣が、澪の前に立っている。私が七周ぶん見た絵だった。

　胃の上のほうが、固くなった。

　私は、嫉妬していた。十六の身体で、二十四の頭で、両方で。

　その夜、鏡台の底の板を外した。

　藍色の帳面は、三年前に入れたときのまま、そこにあった。

　ノートの頁をめくった。十三の冬に書いた行があった。出庫、小野澪さんが学院に来たら、すぐ。

　すぐ、と書いてあった。澪が来てから、もう三週間たっていた。

　　＊

　十月の最初の日の放課後、澪を銀杏の下に呼んだ。

　朝のうちに、澪の机に紙を一枚置いておいた。「放課後、銀杏の下で。天導」。それだけ書いた。

　澪は来た。鞄を両手で持って、私の前で立ち止まった。

「天導さま。今日は、何をなさるんですか」

　警戒している声だった。無理もなかった。天導の令嬢に、人のいないところへ呼ばれた。番人の娘が。

「小野さん」

　私は、風呂敷の包みを差し出した。

「これを、さしあげます」

　澪は、包みを見た。受け取らなかった。

「何ですか」

「母の家計簿です。六年前の。宗一郎さまが湖で亡くなった年のものです」

　澪の顔が、動かなくなった。

「四月から七月まで、蘆田医院の薬を、六回受け取っています。四月に二回、五月に二回、六月と七月に一回ずつ。最初の四月の行に、八月、湖、灯籠、舟屋、と書いてあります。母の字です」

「……なぜ、これを、私に」

「小野さんは、お父さまのことを調べに来たんでしょう」

「どうして、それを」

「私なら、そうするので」

　澪は、私の顔をまっすぐ見た。見返されても、私は目をそらさなかった。そらしたら、この子は受け取らない気がした。

「これはさしあげますから、一臣さまに色目を使ったり、一臣さまのことを悪く言ったりしないって約束してください」

　澪が、まばたきをした。

「……色目」

「はい」

「私が、一臣さまに」

「はい。一臣さまは、とても素敵なので」

　言ってから、顔が熱くなった。熱くなっても、引っこめなかった。

　澪は、何か言いかけて、やめた。包みと私の顔を、何度か見比べた。

「それから」と私は言った。「私のことは、どう言っていただいても結構です。断罪される覚悟はできていますので」

「断罪」

「たぶん、そういうことになります。私はこの家の跡取りで、この帳面を書いた人の娘なので」

　銀杏の葉が、一枚落ちてきた。二人のあいだを通って、足元に落ちた。

　澪は、長いあいだ黙っていた。

「天導さまは」

「はい」

「私を、憎んでいらっしゃると聞いていました。おじさまを死なせた番人の娘だから、と」

「憎んでいません」

　澪の目が、少しだけ大きくなった。

「小野さんのお父さまが、見回りを怠ったとも、思っていません」

「それは、この帳面に書いてあるんですか」

「書いてあるのは、母のことだけです。お父さまのことは、書いてありません。……私が、そう思っているだけです」

　澪は、包みに目を落とした。

　それから、両手を伸ばして、包みを受け取った。受け取る手が、少し震えていた。震えているのに、落とさなかった。

「約束は」と澪は言った。「一つ目は、守れます。色目の使い方を、存じませんので」

　私は、笑いそうになって、こらえた。

「二つ目は、一臣さまが悪いことをなさっていなければ、悪くは言いません。それで、よろしいですか」

　正直な子だった。できない約束は、しない。

「していません。……それで、結構です」

「では、いただきます」

　澪は、包みを鞄の中に入れた。入れてから、鞄を胸の前で抱えた。

「もう一つ、お願いがあります」と私は言った。

「何でしょう」

「これが私から出たことは、一臣さまには言わないでください」

「なぜです」

「いずれ、一臣さまのお父さまのことも、出てくると思うので。そのとき、一臣さまが、私から何かを聞いたから、ということにしたくないんです」

　澪は、少し考えた。

「訊かれたら、嘘はつきません」

「……それで、結構です」

　澪は、頭を下げた。下げたまま、少しのあいだ動かなかった。それから顔を上げて、寮のほうへ歩いていった。途中で一度、振り返った。私はまだ銀杏の下にいた。澪は、もう一度頭を下げて、それから走った。

　　＊

　帰りの車の中で、膝の上の手を見ていた。

　軽かった。三年間、鏡台の底にあったものが、もうない。

　軽いのと同じだけ、怖かった。あの帳面は、もう私の手を離れた。いつ、誰の前で、どう出るのかは、澪が決める。母がいつ連れていかれるのかも、伯父がいつ連れていかれるのかも。

　この子の母親だ。私の母親ではない。そう思おうとした。思おうとしたところで、呉服屋の座敷が浮かんだ。あなたに似合う、よく似合う。

　私は目を閉じた。閉じたまま、屋敷に着いた。

　夜、鏡台の底の板を外した。何もなかった。白粉の瓶の跡が、板の上に丸く残っていた。

　ノートの、十三の冬の頁を開いて、その下に書いた。

　　十月一日
　　　出庫　藍の帳面　一冊
　　　渡した先　小野澪さん
　　　条件　一臣さまに色目を使わない。一臣さまを悪く言わない（悪いことをしていなければ）。
　　　私のことは、どう言われてもいい。

　書いてから、祖母の店の厨房を思い出した。丸椅子に座って、ゲームの画面に向かって言った言葉を。

　焼くな。出しなよ。

　出した。

　余白に、何も描かなかった。描けるものが、なかった。けれど、十三の冬のように、描かなかったのとは違った。

　　＊

　次の日曜、一臣が来た。

　東屋は、もう少し肌寒かった。フミが膝掛けを持ってきてくれた。一臣は、商会の秋の荷の話をして、私は本の菓子の新しい配合の話をした。胡麻を入れてみた。香ばしいけれど、胡麻が一粒、頁に落ちる。

「一粒なら、構わない」

「構います」

「そうか」

　そういう、いつもの話だった。

　いつもの話が途切れたところで、私は訊いた。

「一臣さん。小野さんのこと、どう思いますか」

　一臣は、湯呑を置いた。

「奨学生として、よくやっていると思う。成績もいい」

「そうですか」

「……なぜ、訊く」

「やきもちです」

　言ってしまった。

　一臣は、しばらく何も言わなかった。東屋の外で、落ち葉が風に鳴った。私は膝掛けの端を握っていた。

　見ると、一臣の耳が赤かった。三度目だった。

「……そうか」

　それから、彼は庭のほうを見て言った。

「小野さんは、湖の番人の娘さんだ。私は子どものころ、あの人の父親の舟に乗せてもらった」

「はい」

「あの人の父親は、見回りを怠るような人ではなかった」

　私は、膝掛けを握ったまま、一臣の横顔を見た。

「子どもの目で見たことだ。当てにはならない」と彼は言った。「ただ、新聞に書かれたことと、私の覚えている人が、合わない。ずっと、合わないと思っていた」

　一臣は、湯呑をもう一度持ち上げて、冷めた茶を飲んだ。

　この人は、合わないものを、合わないまま持っている人だった。帳簿の、合わないところを見ているときの顔で、六年前の湖のことを見ている。

　あの帳面は、もう澪の手にある。澪は調べる。調べた先に、何が出てくるのか、私は知っている。

　私は、何も言わなかった。

「やきもちは」と一臣が言った。

「はい」

「焼かなくていい」

　それだけ言って、彼は立ち上がって、「帰る」と言った。

　玄関で靴を履きながら、彼は振り返らなかった。私も、何も訊き返さなかった。焼かなくていい、が、どういう意味なのか。訊けば、答えてくれる人だった。訊かなかった。訊かないでおくと、その言葉を、夜じゅう持っていられる。

　　＊

　十月の終わり、図書室の奥で、澪に声をかけられた。

「天導さん」

　天導さま、ではなかった。

「蘆田医院の息子さんに、会いました。慎さんという、医学生の方です。お父さまの診療所の処方簿を、見てくださるそうです」

「そうですか」

「天導さんのことは、誰にも言っていません」

「……ありがとうございます」

　澪は、本棚から一冊抜いて、頁を開いた。開いたまま、読まずに言った。

「天導さんは、なぜ、焼かなかったんですか」

「え」

「あの帳面。お母さまのものでしょう。焼いてしまえば、誰にも分からなかったのに」

　私は、棚の背表紙を見た。

「焼いたら、何も残らないので」

　澪は、頁から顔を上げて、私を見た。まっすぐな目だった。

「出せば、少なくとも、自分で選んだことになるので」

　澪は、何も言わなかった。本を閉じて、棚に戻して、「では、また」と言った。

　その「また」を、私は帰りの車の中で、何度か思い出した。

---

# 第六章　二曲目

　十七歳の春から、私はお菓子係になった。

　言い出したのは澪だった。三月の図書室の奥で、澪は本棚の陰から私を手招きして、小声で言った。

「土曜の午後、蘆田医院の書庫で集まります。慎さんと、それから、新聞社の方が一人」

「新聞社」

「早瀬さんという方です。六年前の湖のことを、ずっと調べておられて」

　ゲームで、澪の三人目の相手になる人だった。

「天導さんも、来てください」

「私が行っていいんですか」

「お菓子を持って」

　澪は、真面目な顔で言った。

「話が長くなるので、お腹が空きます。慎さんは、食べるのを忘れる方なので」

　　＊

　蘆田医院の書庫は、診療所の裏の、土蔵を直した建物だった。窓が小さくて、紙と薬の匂いがした。棚に、年号ごとに紐で括った帳面が並んでいた。

　私は、本の菓子を缶に詰めて持っていった。

「天導の……お嬢さん？」

　最初に声を上げたのは、戸口の近くに立っていた男の人だった。声が大きかった。書庫の中で、その声だけが壁に跳ね返った。

　癖のある髪を、帽子の中に押しこんでいる。日に焼けていて、背広の肘が擦り切れている。手帳を片手に持ったまま、もう片方の手で帽子を取った。取った帽子を、落ち着きなく指で回していた。

「早瀬さん、声」と澪が言った。「私の友人です。お菓子係です」

「お菓子係」

「はい」

　早瀬遼は、私と澪の顔を見比べて、それから缶を見た。

「……それは、ありがたい。朝から何も食ってない」

　奥の机にいた人が、眼鏡を上げて、こちらを見た。

　細い人だった。医学生の白衣を、背広の上から羽織っていた。白衣の胸の物入れに、薄い本が一冊差してあった。背表紙の字が、詩集のものだった。

「蘆田慎です」と、その人は言った。柔らかい声だった。「どうぞ。狭いところですが」

　机の上に、帳面が二冊、開いて並べてあった。一冊は、紐で括られていた跡のある、古い処方簿。もう一冊は、藍色の表紙の、見覚えのある家計簿だった。

　私は、缶を机の端に置いた。置いて、少し離れた椅子に座った。

「父の処方簿と、こちらの帳面の日付が、全部合います」

　慎は、指で二冊の頁を順に押さえながら言った。

「四月に二回、五月に二回、六月、七月。宛は天導家、奥様のお名前で、不眠の薬です。四月の最初のものは、父がふだん出す量の三倍あります」

　慎は、処方簿の頁から指を離した。

「父は、何も知らずに出したのだと思います。それでも、この量を続けて出したのは、父の落ち度です。父には、私から話します」

　誰も、この帳面がどこから来たのかを訊かなかった。

　早瀬は、私のほうを一度だけ見た。見て、手帳に目を戻した。慎は、最初から私のほうを見なかった。見ないようにしているのだと分かった。

　私は、机の端の缶の蓋を開けた。

「どうぞ。本を読みながらでも、食べられます」

　早瀬が一枚取って、齧って、「うまい」と大きな声で言った。澪が「早瀬さん、声」と言った。慎は、処方簿の頁を見たまま、一枚取った。取って、しばらく持ったまま頁を読んで、それから口に入れた。粉は、頁に落ちなかった。

　　＊

　四月の二度目の集まりで、早瀬が言った。

「残りは、人だ。あの晩、湖にいて、口を閉じてる人。番人の小野さんはもう亡くなってる。女中が一人、暇を出されて、湖の近くの村にいるらしい。それから、天導恭介」

　早瀬は、帽子を指で回した。

「恭介さんの行き先が、どこを当たっても出てこない。南のどこかの造船所だって話までは聞いたんだが」

　私は、鞄からノートを出した。

　十一の春から、同じ頁に挟んだままの紙があった。佐伯が反故紙の端に書いた、鉛筆の字。

「南浦の、蓬田造船です」

　早瀬が、帽子を回す手を止めた。

「……お嬢さん、これ、どこで」

「家令が、六年前に書いてくれました。同じ人かどうかは分からない、と言っていました」

　早瀬は紙を受け取って、手帳に写した。写してから、紙を私に返した。

「会いに行く。あんたの伝言は」

「ありません」

　早瀬が、私の顔を見た。

「私から、言うことはありません。早瀬さんが会って、あの人が話したいことを、聞いてあげてください」

　早瀬は、しばらく黙っていた。それから、「分かった」と、珍しく小さな声で言った。

　　＊

　早瀬が南浦から戻ったのは、六月の初めだった。

　書庫の机に、早瀬は手帳を広げた。日に焼けた顔が、さらに焼けていた。

「会えた。蓬田造船の、船渠の技師だ。名前も、恭介のまま」

　あの晩、本社から至急の呼び出しの電報が来た。それで湖を出た。帝都の本社で、誰もそんな電報は出していないと言われた。戻ったときには、宗一郎さんは湖から引き上げられていた。電報は、捨てずに持っている。

　早瀬は、手帳を読み上げてから、顔を上げた。

「帝都へ出てきて話すかと訊いたら、話す、と言った。いつでも、と」

「……そうですか」

「それから」

　早瀬は、帽子を膝の上に置いた。

「娘さんは元気か、と訊かれた。元気で、菓子を焼いてる、と言ったら、そうか、と言って、しばらく黙ってた。それだけだ」

　私は、机の端の缶を見ていた。

　振り返らずに、門を出ていった人だった。十歳の朝、私は二階の窓から、その背中を見ていた。硝子に手の跡が残った。

　あの人の娘は、菓子を焼かなかった。焼いているのは私だ。そう言いたかった。言っても、誰にも分からない。

「ありがとうございます」と、私は言った。

　澪が、私の顔を見ていた。何も言わなかった。

　湖の近くの村の女中も、見つかった。お絹という人で、澪が三度通って、三度目に話してくれたという。何を話したのかを、澪は書庫では言わなかった。「ご本人が、ご本人の口で話すとおっしゃったので」とだけ言った。

　澪は、三月に十八になっていた。父親の小野弥吉が、十八になったら開けろと言って遺した手紙の封を、澪はその誕生日の夜に一人で切っていた。何が書いてあったかを、澪はそれまで私に言わなかった。七月の書庫で慎と早瀬に話したあと、帰り道で、私にだけ一言言った。

「父は、見回りを怠っていませんでした」

　それだけだった。

　私は、「はい」と言った。十月の銀杏の下で、私はそう思っていると澪に言った。思っていただけのことが、父親の字で書いてあったのだ。

「あと一つです」と澪は言った。「伯父様の側のものが、まだありません」

　伯父様、と澪は言った。私の伯父で、一臣の父親だ。

「一臣さんに、訊いてもいいですか。商会のことや、後見が決まったときのことを」

　澪は、私の顔をまっすぐ見ていた。

　訊かないで、と言えば、澪は訊かないかもしれなかった。そういう子だった。去年の秋、一臣さまを悪く言わないで、と頼んだとき、澪は、悪いことをしていなければ、と答えた。

「それは、小野さんが決めることです」と私は言った。

　澪は、頷いた。

　　＊

　八月の終わりに、分家の商会の舞踏会があった。

　港に新しい倉庫ができた祝いで、帝都のホテルの広間を借りていた。本家も名を連ねていて、私は跡取りとして、婚約者として、一度だけ出るように言われた。婚約の日の着物と同じ緑がかった青で、この夏のために洋装を一着仕立ててもらっていた。

　学院の奨学生も何人か、給仕の手伝いという名目で招かれていた。その中に澪がいた。借り物の白い前掛けをつけて、盆を持って、壁際に立っていた。

　広間の奥の壇で、伯父が挨拶をした。

　よく通る声だった。北の航路を開いたときの話をして、新しい倉庫の話をして、それから、壇の下に立っていた一臣を手で示した。

「この倉庫の図面を最後まで詰めたのは、息子の一臣です。親の欲目ではありますが」

　広間に笑いが起きて、拍手が起きた。

　一臣は、拍手の中で頭を下げた。下げてから、顔を上げて、壇の上の父親を見た。

　私は、その顔を見ていた。

　褒められて嬉しい顔では、なかった。照れている顔でもなかった。自分の父親を、下から見上げている息子の顔だった。十歳の廊下で、扉の向こうのよく通る声に、頁をめくる手を止めた男の子の顔と、同じだった。

　私は、扇を持った手に力を入れた。

　楽隊が三曲目を終えたとき、私は人のあいだを歩いた。

　一臣は、荷主の年寄りに捕まっていた。話が途切れたところで、私は横から言った。

「一臣さん。一曲、お相手いただけますか」

　一臣は、少し驚いた顔をした。

「……私から言うつもりだった」

「遅いです」

　荷主の年寄りが、愉快そうに笑って、「行った行った」と手を振った。

　彼の手が、型どおりに私の背に回った。私の右手は、彼の左手の中にあった。

　彼は、踊りが上手ではなかった。四拍目で、いつも半歩遅れる。遅れるたびに、私の右手を握っている手に、少しだけ力が入った。謝るかわりのようだった。

　私が笑うと、彼は言った。

「これは仕事ではないので、練習していない」

「知っています」

「知っているのか」

「四拍目で、分かります」

　曲の途中で、彼は言った。

「あなたは、この家の人間に見えないときがある」

「どういう意味ですか」

「褒めている」

「褒め方が下手です」

「知っている」

　ゲームで、一臣はこれに近い台詞を、澪に言う。彼のルートの中盤で、澪の率直さに気づく場面だ。

　いま、それは私に向かって来た。

　私は嬉しかった。舞い上がるほど嬉しかった。

　曲が終わっても、彼は私の手を離さなかった。

「もう一曲。四拍目を、直したい」

「練習ですか」

　彼は少し黙った。

「……口実だ」

　二曲目も、彼は四拍目で遅れた。直す気がないのだと分かって、私は笑いをこらえるのに苦労した。

　お茶が済んでも、いてくださいませんか、と頼んだのは、私だった。この人は、口実を作ってまで、いてくれた。

　二曲目が終わって、手が離れた。

　広間の向こうの壇の脇で、伯父が誰かと話して笑っていた。一臣は、そちらを一度だけ見た。私は、一臣の横顔を見ていた。

　鏡台の底は、空だった。藍色の帳面は、澪の鞄の中にある。慎の処方簿と並べられて、日付が全部合った。南浦の人は、電報を持っている。湖の近くの村の人は、話すと言った。澪の父親の手紙には、何かが書いてあった。

　残りは、伯父の側のものだけだった。

　私は、二曲目の四拍目のことだけを考えようとした。考えようとして、うまくいかなかった。

　　＊

　十月の半ばに、一臣が一人で本家へ来た。

　伯父の用ではなかった。帳簿を届ける日でもなかった。フミが「一臣様が、お嬢様にと」と呼びに来て、私は南の小広間へ下りた。

　一臣は、座らなかった。窓のところに立って、外を見ていた。雨の日曜に、壊れた樋から水が落ちていた窓だった。

「父の机にあった」

　彼は、窓の外を見たまま、懐から折った紙を出した。

　私は受け取った。

　下書きだった。伯父の字で、親族会の三人に宛てた文面が、途中まで書かれていた。日付は、七年前の七月だった。

　――万一の事あらば後見の儀、当方にて引き受け候。瑠璃の件、御含み置き願い上げ候。

「小野さんに、後見が決まったときのことを訊かれた」と一臣は言った。「商会の古い記録を見てほしい、と。それで、父の書斎の箱を開けた。記録を探していて、これが出てきた」

「……はい」

「宗一郎さんが亡くなったのは、八月十五日だ。これは、七月に書かれている」

　私は、紙を見ていた。

　ゲームの一臣ルートで、何度も見た紙だった。画面の中で、それは澪の手に渡る。渡すのは一臣で、それで一臣は父親を失う。

「私は、父を疑いたくない」

　一臣は、まだ窓の外を見ていた。

「父は、私を殴ったことがない。学費を出してくれた。奨学の制度も、父が押し切って作った。小野さんが学院にいるのは、父の金だ。私は、その金で育った」

　彼の手が、窓枠の上で拳になった。

「それでも、これは七月の日付だ」

　拳が、窓枠の上で白くなっていた。

　私は、紙を持ったまま、窓のところへ行った。

　行って、彼の拳の上に、自分の手を置いた。

　何も考えていなかった。考える前に、手が動いていた。気持ちが先に出て、あとから考えが走ってくる。口だけではなく、手もそうなのだと、そのとき知った。

　拳が、少しずつ、ゆるんだ。

　一臣は、私のほうを見なかった。私も、彼の顔を見なかった。窓の外の庭を、二人で見ていた。東屋の屋根に、落ち葉が溜まっていた。どのくらいそうしていたのか、分からない。庭で鵯が鳴いて、私はそっと手を離した。

「どうするかは、私が考える」と一臣は言った。

　私は、下書きを彼に返した。彼はそれを、背広の内側にしまった。

　彼は、私に何も訊かなかった。この紙を見て、私が何を思うか。私が何か知っているか。何ひとつ、訊かなかった。

　私も、何も言わなかった。

　あなたのお父さまのことは、もう全部分かっています。母の帳面は、一年前に私が小野さんに渡しました。あなたが決めても、決めなくても、伯父さまはもうすぐ捕まります。

　言えることは、いくらでもあった。

　言えば、この人は、私から聞いたから決めた、ということになる。十六の春の東屋で、自分がどうしたいかは自分たちで決めよう、と言った人が、父親のことだけは、私に決められる。

　それは、嫌だった。

　一臣は、「では」と言って、帰った。玄関で靴を履くとき、一度だけ振り返った。何も言わなかった。私も、何も言わなかった。

　　＊

　その夜、母が部屋に来た。

　ノックはなかった。母は私の机の上を見なかった。見なかったのが、かえって不自然だった。

「近ごろ、いろいろな人が家のことを聞き回っているそうね」

「……はい」

「新聞の人が、分家の商会に来たと聞きました」

　母は、畳に座って、膝の上で手を重ねた。

「瑠璃。あなたはこの家の跡取りです。十八になれば、成年披露がある。あと少しなのよ」

「はい」

「今さら、家を壊さないでちょうだい」

　責める声ではなかった。疲れた人の声だった。

　母は立ち上がって、簞笥の上の肩掛けを取って、私の肩に掛けた。掛けてから、両手で襟のあたりを整えた。

「冷えるから、早くお休みなさい」

　襖が閉まった。

　私は、肩掛けの端を握っていた。温かかった。

　　＊

　眠れなかった。

　四時に目を覚ます身体が、その夜は、四時まで眠らなかった。

　布団の中で、十歳の夜のことを思い出した。洋燈の火を小さくして、配合表を書いた夜。帳面を渡せば、伯父は捕まる。一臣の父親が捕まる。ゲームの一臣ルートでも、一臣は父親の罪を自分の手で明るみに出す。それで父親を失う。一臣はそういう人だ。だから好きになった。

　あの夜の私は、それを筋書きとして読んでいた。

　今日、窓の前に立っていたのは、筋書きではなかった。父親に学費を出してもらって、父親の商会で図面を詰めて、父親に壇の上から褒められて、その父親を下から見上げていた人だった。その人の拳が、窓枠の上で白くなっていた。

　この人は、父親を失う。

　私は、それを七年前から知っていた。知っていて、この人を好きになった。知っていて、帳面を澪に渡した。渡したことは、後悔していない。焼くな、出しなよ、と画面に言っていた私が、出した。それは、何度やり直しても、同じようにする。

　後悔していないのと、つらくないのは、別のことだった。

　仕組みが悪いのと、あの人が悪いのは、両立します。灯台守の話をした日、私はそう言った。帳面を出したのが正しいのと、この人に黙っているのがつらいのも、両立していた。

　明日、会いに行って、全部言ってしまおうか。

　そう思った。思ってから、自分の手を見た。今日、あの人の拳に置いた手だった。

　言わない、と決めた。

　あの人が、自分で決める。父親のことを、自分の手で。私はそれを、そばで待つ。

　十歳の秋から、私は待たないと決めてきた。待つのは苦手だった。自分では何もできないことが、どこかで勝手に決まっていくのを待つのは、昔から駄目だった。

　これは、勝手に決まっていくことではなかった。あの人が、決めることだった。

　だから、待つ。

　私は起き上がって、洋燈をつけて、ノートを開いた。

　　十月十七日
　　　一臣さん　父上の紙（七年前の七月）。
　　　父を疑いたくない、と。
　　　どうするかは、私が考える、と。
　　　私は、何も言わなかった。
　　　待つ。

　最後の一行を、しばらく見ていた。祖母の店の帳面に、この言葉を書いたことは一度もなかった。

　余白に、何か描こうとして、鉛筆が止まった。止まったまま、洋燈の火が短くなっていった。

　結局、何も描かなかった。描かなかった余白を、私はそのままにして、ノートを閉じた。

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# 第七章　婚約解消していません

　十七歳の十二月十八日、年の暮れの親族会は、星の間で開かれることになった。

　ふだんの親族会は応接で済む。星の間を使うと決めたのは三村弁護士で、三村にそう頼んだのは小野澪だった。呼ぶ人が多いので、広い部屋が要ります、と澪は言ったそうだ。澪は私にもそう言った。三日前の、学院の図書室の奥で。

「天導さんは、座っていてくださればいいです」

「座っているだけで、いいんですか」

「座っているだけが、いちばん難しいと思います」

　澪はそう言って、本を閉じた。

　一臣さんも来るのか、とは訊かなかった。十月の夜に、待つと決めた。訊いたら、待っていることにならない。

　その朝、母が私の髪を結った。

　鏡台の前に座らされ、櫛が入った。母の指は冷たかった。十二月の朝の指は、いつも冷たい。十歳の秋から七年、この人は月に何度か、こうして私の髪を梳いた。自分でできると言っても、母は櫛を放さなかった。

「今日は、上げなさい」

「はい」

「星をつけて」

「はい」

　銀の星の髪飾りが、結い上げた髪の根元に挿された。母は鏡の中の私を見て、少し首を傾げ、一度だけ挿し直した。

　この人の手で髪を結ってもらうのは、たぶん今日が最後だった。

　私はそれを知っていて、黙って座っていた。澪の言ったとおりだった。座っているのが、いちばん難しかった。

　鏡の中で、母の切れ長の目が私の目を見た。同じ形の目だった。十歳のとき、私はこの顔を初めて鏡で見て、母親に似すぎていると思った。七年経って、似ているのは形だけではなくなっている気がした。決めたら、待たない。そういうところが。

「顔色が悪いわね」

「寒いので」

「白粉を少し足しなさい」

　母は部屋を出て行った。香の匂いだけが残った。

　　＊

　星の間には、四十三の時計がある。

　壁一面の星図と海図の前に、船の時計が四十三、棚に並んでいる。天導の船が一艘退くたびに、一つずつ掛けられてきたものだ。動いているのは一台だけだ。おじさまが亡くなってから、佐伯が毎朝その一台だけを巻いている。その日は、時計の棚の前に椅子が三十ほど並べられていた。

　親族会の三人。伯父の貞光。母。家令の佐伯。三村弁護士。学院の教師が二人。蘆田先生と、慎。記者の早瀬遼。それから、私の知らない人が何人か。

　一臣は、伯父の隣には座らなかった。壁際の、いちばん端の椅子にいた。背広の膝に、何も置いていなかった。

　澪は、部屋の真ん中に立った。

　奨学生の質素な制服のまま、髪を後ろで一つに結んでいた。日に焼けた首筋が、洋燈の光の中でまっすぐだった。

「小野弥吉の娘、澪です。七年前の八月十五日、湖の星見荘の桟橋で、天導宗一郎様が亡くなりました。父はその晩、桟橋の番をしておりました」

　澪の声は、震えていなかった。震えないように何度も練習してきた声だと、私は知っていた。図書室で、一度聞かされたことがある。

　それから、一時間と少しかかった。

　澪は父の遺した手紙を読み、慎は父の診療所の処方簿を出した。お絹という人が呼ばれて、八月十五日の晩、奥様がお嬢様に匙で何か飲ませるのを見た、と言った。「十のお嬢様は、迷子になったのではありませんでした」。お絹はそう言って、泣いた。

　私は、自分の膝を見ていた。その晩、舟屋で眠らされていたのは、この身体だった。私がこの身体で目を覚ましたのは、その一か月後の九月の朝で、匙の味を覚えていない。覚えていないまま七年暮らした晩のことを、いま人の口から聞いていた。

　後ろの扉のそばに、大柄な男が立っていた。日に焼けて、背広が明らかに借り物だった。十歳の九月の朝、二階の窓から、門を出て行くのを見た人だった。天導恭介は、捨てられなかったという偽の電報を懐から出して三村に渡し、元の場所へ戻る途中で、一度だけ私のほうを見た。私は頭を下げた。それ以上のことは、どちらもしなかった。

　澪が、次の名前を呼んだ。

「天導一臣さん」

　伯父が、壁際を振り返った。

　一臣は立った。立って、背広の内側から、折った紙を出した。

「父の書斎にあった下書きです。親族会の三人に宛てたもので、日付は七年前の七月です」

　三村が読み上げた。

　――万一の事あらば後見の儀、当方にて引き受け候。瑠璃の件、御含み置き願い上げ候。

「宗一郎さんが亡くなったのは、八月十五日です」と一臣は言った。「この紙は、その一か月前に書かれています」

「一臣」

　伯父の声は、まだよく通った。

「それを、どこから持ち出した」

「父の書斎の箱からです。私が取りました」

　一臣は、父親のほうを見て言った。

「出すと決めたのも、私です」

　それ以上、何も言わなかった。座らずに、紙を三村に渡して、壁際へ戻った。戻ってからも、座らなかった。

　私は、あの人の背中を見ていた。父を疑いたくないと言っていた人だった。窓の外を見ながら、父は自分を殴ったことがない、と言っていた人だった。その人が、父の顔を見て、私が決めた、と言った。

　ゲームの一臣は、澪に求婚するとき、「これは、私が決める」と言う。画面の中の台詞を、この人は知らない。知らないまま、同じ言葉を、恋のためではなく、自分の父のことに使った。

　誇らしいのと、遠いのとが、同じ重さで来た。

　澪が、最後に、藍色の帳面を出した。

「これは、天導藤乃様の家計簿です。去年の秋、天導瑠璃さんが私に渡してくださいました」

　部屋じゅうの顔が、こちらを向いた。

　私は立った。座っているだけでいいと言われていたけれど、名前を呼ばれたら立つものだと、ここの七年で体が覚えていた。

「母の家計簿です。十三の冬に、母の文机の奥で見つけました。三年近く、自分の鏡台の底に入れていました。去年の秋に、小野さんに渡しました」

　声は思ったより出た。

「薬の買い入れが六回あります。最初の四月の行に、八月、湖、灯籠、舟屋、と書いてあります」

　母は、座ったままだった。一度も立たず、誰の話にも異を唱えず、私が立ったときも振り向かなかった。

　伯父が立ち上がった。

「四月に、湖のことまで？」

　声が、裏返っていた。

「それは妹が勝手に考えたことだ。私が相談を受けたのは六月だ。四月の計画まで、私は知らん」

　広間の音が止まった。自分が何を言ったのかに、伯父は少し遅れて気づいたようだった。

　壁際で、一臣が目を閉じるのが見えた。

　三村弁護士が、宗一郎様の遺言に、亡くなったときに瑠璃様を実子と認める条項がある、と明かした。八年前の冬、静子様とのご婚約が決まった折に、藤乃様のお求めで書かれたもの。ゲームでは十七の冬に帳面と一緒に暖炉で燃えた紙の中身を、三村がいま口で言っていた。

　死んだら効く紙を書かせたのは、母だった。今朝、あの人の指が、私の髪を結った。

　警察が来たのは、それから三十分ほど後だった。

　伯父は、何か言いながら連れて行かれた。何を言ったのかは、聞き取れなかった。

　母は、自分で立った。誰にも腕を取らせなかった。扉のところで一度だけ振り返って、私を見た。何も言わなかった。私の髪の、星のあたりを見たのだと思う。それから、前を向いて出て行った。

　　＊

　その夜のうちに、親族会の結論が出た。

　三村弁護士が、応接で読み上げた。

　一つ。天導瑠璃は宗一郎の実子である蓋然性が高い。ただし、遺言の認知の条項は藤乃の求めで書かれたものであり、養女指名の手続は貞光が進めた。したがって、調べが済むまで、瑠璃の跡取りとしての権限を停止する。

　二つ。この停止は、血縁の否定ではない。

　三つ。天導瑠璃と天導一臣の婚約は、これを取り決めた貞光が罪に問われる以上、解く。

　三村はそこまで読んで、私に小さく頭を下げた。

「帳面の件は、隠していたと言うには、あなたが自分から出しておられます。一年と少し前に。隠滅には問えません」

「はい」

「ご不満は」

「ありません」

　本当に、なかった。十歳の秋の夜、配合表の見込みの行に、私は書いた。帳面を出せば、跡取りは止められる。婚約は解かれる。この子の血は、そのまま。三つとも、そのとおりになった。

　残ったのは、同じ頁の原価の行の下に、小さく書き足した一語だけだった。受益者。

　　＊

　応接を出ると、廊下の先に澪がいた。

　人のいない窓の前で、外の暗い庭を見ていた。私の足音で振り向いた。

「天導さん」

「小野さん。……お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

　澪は少し笑った。笑ってから、真顔に戻った。

「約束は、守りました」

「約束」

「一臣さんには、色目を使っていません」

　私は、一瞬なにを言われたのか分からなかった。去年の秋、帳面を渡すときに、私がこの人に言ったことだった。これはさしあげますから、一臣さまに色目を使ったり、悪く言ったりしないって約束してください。

「……それは、ありがとうございます」

「悪くも言っていません。今日は、言うことがありませんでした」

「はい」

「天導さんは、断罪されませんでしたね」

「されませんでした」

「覚悟はできている、とおっしゃっていたのに」

「拍子抜けです」

　澪は、今度ははっきり笑った。笑うと、日に焼けた頬に皺が寄った。

　それから、ふいに窓のほうへ顔を戻した。

「私、今日、父の名前を返してもらいました。桟橋を見ていなかった番人、ではなくて、小野弥吉という名前を。……天導さんが帳面をくださらなかったら、もっと、ずっとかかりました」

「私は、座っていただけです」

「座っているだけが、いちばん難しいと言ったでしょう」

　澪は、そのまま少し黙っていた。

「天導さんは、これから、どうなさるんですか」

「一つだけ、決めてあります」

「一つだけ」

「一つだけです。まだ、言う相手に言っていないので」

　澪は私の顔を見て、それ以上訊かなかった。頭を下げて、寮へ帰る馬車のほうへ歩いて行った。

　　＊

　廊下の端で、一臣に会った。

　深夜だった。星の間の灯りは消されて、廊下の突き当たりの洋燈だけがついていた。彼は柱に片手をついて立っていた。

「一臣さん」

「天導さん」

　彼は手を柱から離して、姿勢を直した。まっすぐな眉が、洋燈の下で影になっていた。

「今日のことは、正しかった」

「はい」

「あなたがやったことは、正しい。それを言いに来た」

　私は頷いた。

「私は、父の息子だ」

　彼は自分の手を見た。

「今日、あの紙を出した。出したからといって、逃げたことにはならない。私はあの人の金で学校へ行き、あの人の商会で働いてきた。明日から、商会の帳簿を全部開く。本家から分家の商会へ流れた金がどこへ行ったか、誰かに調べられる前に、自分で調べる」

「はい」

「婚約は、解かれた」

「聞きました」

「あれは、父の計画の最後の一手だった。本家の娘と、分家の息子を結ぶ。どちらが跡を取っても、本家は父の家のものになる。十六の春に、あなたにそう言われて、私は、知っていると答えた」

「はい」

「欲の深い親の、欲の深い取り決めだと思っていた。父の考えそうなことだと。その下に何があったのかは、考えなかった」

「私は、知っていました」

　彼が顔を上げた。

「本家の乗っ取りなんてぜんぜんできない運命だけど、って、言いましたよね。あれは、知っていたから言ったんです」

「……運命、と言っていた」

「言いました」

　彼は長いあいだ黙っていた。洋燈の芯が、一度小さく鳴った。

「あなたは、帳面を去年の秋から小野さんに預けていた」

「はい」

「私の父のことも、そのときにはもう知っていた」

「はい」

「私には、言わなかった」

「言いませんでした」

　私は、そこだけはまっすぐに言おうと決めていた。言い訳の順番まで、何日も前から決めてあった。

「言ったら、一臣さんは、お父様の紙を、私のせいで出すことになったと思います。私に言われたから出した、になる。……それは嫌でした。一臣さんが、自分で決めて出すまで、待っていました」

　待たない、と十歳の秋に決めた。菓子の仕込み以外で待ったのは、これが初めてだった。

「待っていた」

「一臣さんが、自分で決めるところが、好きなので」

　言ってから、しまった、と思った。好き、と言うつもりはなかった。いまの話の中で言うつもりは。

　彼は何か言いかけて、やめた。耳が赤くなったのかどうかは、洋燈が暗くて見えなかった。

「……それでも、私は、少し傷ついている」

「はい」

「今すぐ、傷ついていないふりはできない」

「しなくていいです」

「それから、私はいま、あなたに何も約束できない」

「はい」

　そこまでは、分かっていた。分かっていたから、この先を用意してきた。

「一臣さん」

「なんだ」

「自分がどうしたいかは、自分たちで決めようって、言いましたよね。十六の春に」

「……言った」

「家の都合で婚約解消になっても、私は、婚約解消していません」

　彼が、私を見た。

「二年後に、帝都の下町で、菓子屋を探してくださいませんか」

　洋燈の芯が、また鳴った。

「菓子屋」

「菓子屋です」

「……探して、どうする」

「婚約してください。天導の本家の娘とじゃなくて、菓子屋の女と。今度は、私から申し込みます」

　言えた。十四のとき、口づけをせがんで、はしたないとたしなめられた。十六のとき、目を閉じて待って、眠いのかと上着をかけられた。言えなかった日もあった。今夜は、言えた。

　彼は、長いこと何も言わなかった。

「約束は、できない」

「約束はいりません。探してくれれば。探して、見つけて、嫌だったら、お菓子を一つ買って帰ってください。それでおしまいにします」

「一つ」

「一つです。二つ買ったら、嫌じゃなかったことにします」

　彼は、息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。声を出さない笑い方をする人なので、暗いところでは分からない。

「二年は、長い」

「仕込みには、ちょうどいいです」

「仕込み」

「お店を一軒、ちゃんと回るようにするには、そのくらいかかります」

　彼は、それには何も言わなかった。代わりに、廊下の窓の外を見た。庭は真っ暗で、何も見えなかった。

「風邪をひく。部屋へ戻ったほうがいい」

「一臣さんも」

「ひかない」

「知っています」

　彼は「では」と言って、行った。角を曲がる前に、一度だけこちらを見た。それだけだった。

　私は、洋燈の芯がもう一度鳴るまで、そこに立っていた。

　　＊

　部屋へ戻って、髪から星を外した。

　鏡台の上に置くと、小さな音がした。今朝、母が挿し直した星だった。裏返すと、「瑠璃へ」と彫ってある。十歳の秋から何度も見た字だった。

　私は机に向かって、ノートを開いた。

　十歳の秋から使っている、配合表のノートだ。最初の頁は、とうに端がめくれている。品名、一臣さんと結ばれる。原価、自分の悪評。仕込み、八年。焼き上がり、十八の春。十歳の私の字は、子どもの手の字なのに、書いていることがかわいくなかった。

　十八の春には、まだ四か月ある。焼き上がりの前に、窯の扉が開いてしまった。

　私は新しい頁に、今日の日付を書いた。

　　十二月十八日
　　　婚約　解消（家）
　　　婚約　継続（私）
　　　あと七百三十日

　書いてから、余白に貝の形の焼き菓子を一つ描いた。筋を五本、扇の形に引く。配合が決まった日の印だった。祖母なら、決まったね、と言うところだ。三本目の筋を引いているときに、手が震えているのに気づいた。

　震えは、しばらく止まらなかった。

　母は今夜、どこで眠るのだろう。伯父は。一臣は、帰った家で、父のいない書斎の机を開けるのだろうか。恭介という人は、借り物の背広のまま、どこへ帰ったのだろう。

　私は、それを一つずつ考えて、一つずつ、考えるのをやめた。考えても、明日の仕込みは減らない。

　祖母がよく言っていた。泣くのは、窯の火を落としてからにしな。

　私はノートを閉じて、灯りを消して、それから、少しだけ泣いた。

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# 第八章　原価表

　年が明けて一月の親族会で、私の身の振り方が話し合われた。

　応接の長い卓に、親族会の三人と三村弁護士が座っていた。伯父の席は空いていた。母の席も。伯父が連れていかれてから、私の後見は親族会が預かっていた。私は卓の端に座らされて、三人の話を聞いていた。

　案は二つ出た。

　一つは、西の遠縁の家に預ける案。もう一つは、海の向こうの修道院。どちらも、調べが済むまでのあいだ、ということになっていた。どちらも、調べが済んだあとに私を帝都へ戻す話は、していなかった。

　ゲームの瑠璃は、断罪のあと、海の向こうの修道院へ送られる。私は帳面を焼かなかったし、誰も虐めなかった。それでも話は、同じ場所へ向かって転がっていた。受益者という一語だけで、そこまで行ける。

「私から、一つ申し上げてもいいですか」

　三人が私を見た。

「私は、この家を出ます」

　白髪の大叔父が、眉を上げた。

「出て、どうする」

「働きます。下町で、菓子を焼いて売ります。天導の家の物は、何も持っていきません。名前も、使いません」

「十七の娘が」

「十八になります。四月に」

「十八でも、二十までは後見のもとにいるのだぞ」

「はい。後見は、親族会のままで結構です。住むところを、家の外にしていただくだけです。お金は一銭もいただきません。何かあったときは、三村先生にお知らせします」

　三人は顔を見合わせた。

　私には、三人が何を量っているのか分かった。預け先を探す手間。修道院へ払う寄進。帝都の新聞。それから、本家の血を引く娘が、罪人の母の娘として家の中にいつづけることの、居心地の悪さ。

　出て行きたいと言うのなら、出て行かせればいい。そう顔に書いてあった。

「……菓子など、焼けるのか」

「焼けます」

　それだけは、嘘ではなかった。

　受益者であることは、減らせない。おじさまが死んで、この身体は本家の跡取りになった。その事実は、私が何をしても残る。減らせないなら、受け取らないしかない。この家にいれば、朝の粥も、冬の炭も、学院の月謝も、全部この家から出る。一日いれば、一日ぶん受け取る。

　だから、出る。

　三村が、卓の向こうで目を伏せた。止めもしなかったし、賛成もしなかった。親族会はその日のうちに、私の居所を「三村弁護士の知るところ」とすることに決めた。調べが済むまでの、仮の扱いとして。

　　＊

　下町の住まいは、フミが見つけてくれた。

　川向こうの千鳥町に、フミの姪が住んでいる。おしげという四十すぎの人で、煙草屋をやっている。その隣が、亡くなった舅の煎餅屋で、店を閉めてから三年、空いたままになっている。店先の土間と、奥の三畳と、二階の四畳半。

「お嬢さまがお住まいになるようなところでは、ございませんよ」

　フミはそう言って、私の荷物を風呂敷に包むのを手伝ってくれた。六十五になるフミの指は、節が太くて、結び目が固かった。

　持っていくものは、少なかった。着物を三枚。そのうちの二枚は、質に入れるつもりだった。下着と足袋。配合表のノート。それから、銀の星の髪飾り。

「それは、お持ちになるのですね」

「これは、私の名前が彫ってある物なので。家の物じゃないです」

　フミは何か言いかけて、やめた。代わりに、風呂敷の結び目をもう一度締め直した。

　二月一日の朝、私は本家の裏門から出た。見送りは、フミ一人だった。正門から出なかったのは、正門には、十歳の九月の朝の記憶があるからだった。二階の窓から、大柄な男の人が振り返らずに門を出ていくのを見た。同じ門から出ると、あの朝の続きのような気がした。

　私は、あの朝の続きをするために出るのではなかった。

　　＊

　千鳥町は、川の匂いがした。

　路地の幅は大人が三人並べば塞がるくらいで、どの家の軒先にも鉢植えと洗濯物が出ていた。朝は納豆売りの声で始まり、昼は鋳掛屋が来て、夕方には子どもが路地を走り回る。おしげの煙草屋の前には、一日じゅう誰かが立ち話をしていた。

「あんたが、フミおばさんのとこのお嬢さん」

　おしげは小柄で、声が大きかった。前掛けで手を拭きながら、私を上から下まで見た。

「お嬢さんはやめてください。瑠璃です。……桐谷瑠璃、ということにしておいてください」

「きりたに」

「桐の木の、谷です」

「へえ。どっから出てきた名前だい」

「祖母の店の名前です」

　嘘ではなかった。祖母の店は、洋菓子きりたに、という。駅から商店街を三分歩いた角で、祖母が四十年やって、祖母が亡くなってからは私が一人で回していた店だ。この世界のどこにもない店の名前を、私はこの路地で名乗った。

　天導の名前は、使わないと約束した。新聞には、天導家の事件が何度も載った。天導瑠璃という名前も、一度は載った。この路地で天導を名乗れば、菓子を買いに来る人より、顔を見に来る人のほうが多くなる。

　瑠璃のほうは、捨てなかった。そちらは、捨てる理由がなかった。

　　＊

　二月三日に、質屋へ行った。

　着物二枚で、十四円になった。一枚は七歳の正月に仕立てたもので、もう小さくて着られない。一枚は十五のときの訪問着で、母が選んだ。母が選んだほうが、九円だった。

　その日のうちに、ノートの新しい頁に書いた。

　　二月三日
　　　入　質　十四円
　　　出　天火　二円八十銭
　　　　　七輪　四十銭
　　　　　炭　一俵　一円十銭
　　　　　粉　一袋　四円
　　　　　砂糖　五斤　一円
　　　　　鍋・鉢・篩　一円三十銭
　　　　　家賃（二月）　二円五十銭
　　　残　九十銭

　九十銭で、卵を買うと、あと何日暮らせるか。私は頁の端で計算して、途中でやめた。計算しなくても分かった。売るしかない。

　この天火は、七輪の上に載せる鉄の箱だ。上と下から炭で焼く。十四の年から土曜ごとに借りた分家の天火は、港から来た上等のもので、扉に温度計の目盛りがついていた。この箱には、目盛りがない。あるのは、この鉄の箱と、七輪と、四畳半の窓から入る川風だけだった。

　この町の粉屋も砂糖屋も、斤と匁で売る。祖母の配合は、私の頭の中にグラムで入っている。十歳の秋から、私はそれをノートの中で匁に直してきた。ここへ来てから、その匁を、さらに斤に直して仕入れるようになった。それでも、一度頭の中でグラムに戻さないと、どうしても味が思い浮かばない。

　　＊

　最初の日、私はボーロを四十、焼いた。

　卵と砂糖と粉だけで作る、小さな丸い焼き菓子だ。バタを使わないので、原価が安い。ここで手に入るものだけで、祖母の味にいちばん近づける。そう考えた。

　四十のうち、十二が焦げた。

　天火は、下の炭が強すぎると底が焦げ、上の炭が弱いと表が白いままになる。この箱は、四隅が全部違う。右の奥が一番熱い。左の手前は、いつまでたっても焼けない。祖母のオーブンも、分家の天火も、右の奥が熱かった。窯というものは、どこの世界でも右の奥が熱いのかもしれない。

　分家の台所でしていたように、扉を開けて手を入れて、数えた。四つで手を引いた。強すぎた。気づいたときには、もう十二個が焦げていた。

　焦げた十二は、自分で食べた。焦げていないところは、祖母の味に少しだけ似ていた。

　残りの二十八を、店先の台に並べた。一つ三銭と書いた紙を、横に貼った。

　売れたのは、四つだった。

　夕方、路地の子どもが三人、台の前にしゃがんだ。じっと見て、紙を見て、顔を見合わせて、走って行った。煙草を買いに来たおじいさんが一人、「なんだいこりゃ」と言った。

「ボーロです。卵のお菓子です」

「ぼうろ。……三銭か」

　おじいさんは首を振って、煙草だけ買って帰った。

　夜、四畳半で、私はノートを開いた。

　　二月七日
　　　ボーロ　四十
　　　　焦げ　十二
　　　　売れ　四（十二銭）
　　　　残り　二十四
　　　原価　一つ　八厘

　一つ八厘で作って、三銭で売る。原価率は三割を切る。祖母の店で、祖母が決めていた割合だった。商店街の洋菓子店なら、それで回る。

　ここは、商店街の洋菓子店ではなかった。

　この路地の子どもは、一厘の飴と、二厘の煎餅を買う。一銭あれば、大当たりだ。三銭は、子どもの小遣いの一週間ぶんだった。大人は、見たことのない西洋の菓子に三銭は出さない。出すなら、知っている大福に出す。

　私は、原価表を一から書き直した。

　ボーロを小さくした。粒の差し渡しを半分にして、五つで一銭。粉も卵も八分の一で済む。炭と手間は減らない。原価は一つ一厘五毛。三割どころか、七割を超える。売れれば売れるほど、少しずつしか残らない。

　それでも、売れないよりは残る。

　書き直した頁の余白に、小さな丸を五つ描いた。一銭ぶんの、ボーロの絵だった。

　　＊

　五つで一銭にした次の日、子どもが来た。

　昨日の三人のうちの一人で、七つか八つの男の子だった。握った手を台の上で開くと、汗で湿った一銭玉が出てきた。

「五つ」

「はい、五つ」

　紙の袋に入れて渡すと、男の子はその場で一つ食べた。食べて、目を丸くした。二つ目を食べた。三つ目を口に入れる前に、振り返って路地の奥へ叫んだ。

「おい、うめえぞ、これ」

　その日の夕方までに、ボーロは全部なくなった。

　勘太という子だった。父親は車夫で、母親は内職で紙袋を貼っている。勘太はそれから毎日、一銭を握って来た。一銭がない日は、台の前にしゃがんで見ていた。見ているだけの日は、焦げたのを一つやった。焦げたのでいい、と勘太は言った。焦げたのがいい、とも言った。

　二月の終わりには、黒糖の蒸しパンを始めた。これは天火が要らない。鍋と蒸籠で蒸す。一つ一銭。朝の早い車夫と、工場へ行く女の人たちが買った。三月には、カステラの切れ端を袋に詰めて、一袋三銭で売った。四角く焼いて、端を切り落として、切り落としたほうを売る。中の四角いところは、少し先の酒屋の旦那が、客へのお使い物にまとめて買ってくれた。

　本の菓子は、焼かなかった。

　薄く伸ばして、表に卵白を塗って、指に何も残らないように焼く、あのビスケットだ。十四の春に四回焼いて、合格をもらった。配合はノートの四月二十七日の頁にある。この路地で、本を読みながら菓子を食べる人はいない。それに、あれは一人のために詰めた配合だった。その一人が、いまはいない。

　四月の家賃は、質屋の金を使わずに払えた。

　ノートの頁の左側に、毎日、売上を書いた。右側に、仕入れを書いた。いちばん下に、残りを書いた。それから、頁の右下の隅に、もう一つ数字を書いた。

　　四月一日
　　　家賃（四月）　二円五十銭
　　　あと六百二十六

　誰に見せるものでもなかった。十二月十八日から、一日に一つずつ減っていく数だった。

　　＊

　四月二十日の朝、三村弁護士が来た。

　店先の土間で、私は蒸籠を下ろしているところだった。三村は、路地の狭さに少し驚いた顔をして、それから帽子を取った。

「十八のお誕生日に、お渡しするようにと申し付かっております」

　差し出されたのは、封書だった。

「宗一郎様から。十八歳の誕生日に、瑠璃様へ」

　私は前掛けで手を拭いて、封書を受け取った。三村を奥の三畳へ通して、番茶を出した。三村は、湯呑を両手で持って、何も言わなかった。

　封を切った。

　三通入っていた。

　一通目は、遺言の写しだった。十二月に、三村が星の間で口にしたものだ。

　――余、天導宗一郎、天導瑠璃を余の実子として認知す。本条項は余の死亡により効力を生ずるものとす。

　日付は、瑠璃が九歳の年の十二月。

　二通目は、手紙の写しだった。

　――藤乃へ。

　――私たちの子に、名を考えた。

　――男の子なら勝手にせよ、女の子なら瑠璃としたい。瑠璃丸の瑠璃だ。船の名を人につけるのは縁起が悪いと父は言うだろうが、あの船は沈まなかった。

　――銀細工屋に星を頼んだ。裏に名を彫らせる。生まれる前に彫らせるのは気が早いが、私は気が早い。

　日付は、瑠璃が生まれる二か月前だった。

　私は、懐に入れていた髪飾りを出した。裏を見た。「瑠璃へ」。

　生まれる前に彫られた名前だった。

　三通目は、母の字だった。

　――宗一郎様。私はあなたに何も求めません。ただ、この子の身分だけは、あなたの手で確かにしてください。

　――生きておられるうちに言えないのでしたら、せめて亡くなったときに効く紙を、三村先生へ預けてください。

　――あなたは決めない人です。決めないことで、人を待たせて、待たせていることに気づかない人です。私はもう待ちません。

　私は三通を膝の上に並べた。

　私はもう待ちません。

　母の字で、そう書いてあった。

　十歳の秋、私はこの身体で目を覚まして、最初に一つ決めた。待たない。欲しいものがあるなら、自分から取りに行く。祖母の店を一人で回していたころから、私はそうしてきた。粉の値が上がれば問屋を替えた。客が減れば、次の週には品書きを変えた。待っていて良くなったことは、生地の発酵のほかに、一つもなかった。

　同じ言葉を、母はこの紙に書いていた。

　母は、待つのをやめて、決めない男の代わりに決めた。決めたことの先に、湖があった。桟橋の柱の、鋸の痕があった。

　私も、待つのをやめた。

　待たないこと自体は、たぶん、母と私で違わない。違うのは、待たないと決めたあとで、何をするかだけだった。私はそれを、この三畳の番茶の湯気の前で、ようやく言葉にできた気がした。できた気がしただけで、手の震えは止まらなかった。

「……ありがとうございました」

　三村は湯呑を置いた。

「お名前のことですが」

「はい」

「親族会には、桐谷と名乗っておられると、お伝えしてあります。瑠璃のほうは」

「瑠璃は、残します。父がつけた名前なので」

　三村は頷いた。頷いてから、少し言いにくそうにした。

「もう一つ、お伝えしておかねばならないことがございます。裁判は、来年の春には済むと見られております。済みましたら、親族会は、瑠璃様の身の振り方を、あらためて決めるつもりでおります」

「修道院ですか」

　三村は答えなかった。答えないのが、答えだった。

「あなたは二十歳まで、後見のもとにおられます。住むところも、結婚も、後見の同意が要ります」

「知っています」

「私は、天導家の弁護士です」

「知っています」

「……ですから、これは、私が申し上げたことではありません」

　三村はそう言って、帽子を手に立った。土間で、蒸籠の中の蒸しパンを一つ買って帰った。一銭だった。

　その夜、ノートの右下の数字は、六百七だった。

　　＊

　五月に、澪が来た。

　学院の制服ではなく、紺の木綿の着物だった。店先の台の前で立ち止まって、紙の値札を見て、それから私の顔を見た。

「本当に、お菓子屋さんでした」

「本当に、お菓子屋さんです」

「ボーロを、五つください」

　一銭玉を受け取って、紙の袋に五つ入れた。澪はその場で一つ食べた。

「甘すぎません」

「甘すぎないように作ってます」

「書庫の缶のは、もっと甘くなかったです」

「あれは、本の菓子なので。別の人用です」

　澪は二つ目を食べた。それから、店の奥の天火と七輪を見た。二階へ上がる梯子のような階段を見た。土間の隅に積んだ粉の袋を見た。

「天導さん」

「桐谷です、ここでは」

「……桐谷さん。お一人で、全部」

「全部です」

　澪は、何か言おうとして、やめた。代わりに、ボーロの袋を大事そうに懐に入れた。

「月に一度、買いに来てもいいですか」

「毎日でもいいです」

「月に一度です。贅沢は、月に一度と決めているので」

　それから澪は、裁判の話を少しした。伯父と母の調べが続いていること。一臣が、分家の商会の帳簿を全部開いて、流れた金を本家に返したこと。商会を辞めたこと。そのあと、どこへ行ったのか、誰も知らないこと。

「知らない」

「慎さんも、早瀬さんも、知りません。一臣さんは、誰にも言わずに行かれました」

　私は、頷いた。

　頷いて、ノートの数字のことを考えた。あと六百と少し。探してくださいとは言った。約束はいらないとも言った。あの人が、自分で決めることだった。

「桐谷さん」

「はい」

「一臣さんに、色目は使っていません。……会っていないので」

「それは、ありがとうございます」

　澪は笑って、帰った。約束どおり、月に一度来た。来るたびに、五つで一銭のボーロを買って、その場で一つ食べた。

　母には、五月に一度だけ手紙を書いた。三村に託した。元気でいること。菓子を焼いていること。三村から預かった三通を読んだこと。それだけを書いた。

　返事は、来なかった。

　　＊

　七月に、窯を買った。

　隣町のパン屋が店を閉めることになって、鉄の窯が売りに出た。天火の四倍の大きさで、下に焚き口があって、上の段と下の段に一度に天板が入る。二十四円だった。

　二十四円は、なかった。

　粉を買っている丸十という粉屋の主人が、立て替えると言ってくれた。月に二円ずつ、一年で返す。利子は取らない。その代わり、粉はこの先も丸十で買う。

「娘っ子に貸すのは、初めてだがね」

　丸十の主人はそう言って、帳面と筆を私の前へ置いた。桐谷瑠璃。私が自分で書いた字だった。

　　七月十日
　　　借　丸十　二十四円
　　　　月二円　十二回

　窯が入ってから、貝の形の焼き菓子を始めた。

　マドレーヌ。祖母の店で、いちばん売れた菓子だった。十二の年、一臣さんへの手紙の余白に描いて、見たことがない、と返事をもらった菓子だ。貝の形の型は、この町にはない。路地の奥のブリキ屋に絵を描いて見せて、十二個ぶん打ってもらった。ブリキ屋は、貝の筋を一本ずつ、鏨で入れてくれた。

　バタは高い。一斤が一円を超える。一円あれば、卵が二十五買える。私はバタを三分の一にして、残りをラードで補った。祖母の配合から、いちばん遠くなった菓子だった。それでも、貝の形に焼き上がったのを型から外したとき、私は土間で一人、声を出しそうになった。

　一つ五銭。土曜だけ。

　最初の土曜は、三つしか売れなかった。次の土曜は七つ。三か月目の土曜には、十二個が昼までになくなるようになった。買っていくのは、酒屋の旦那と、表通りの洋服屋の奥さんと、給金の出た日の女工さんたちだった。女工さんたちは、二人で一つを買って、半分に割って食べた。

　　＊

　その夏には、失敗が二つあった。

　梅雨の終わりに、蒸しパンに黴が出た。朝蒸したものを、夕方まで台に出しておいた。それまでは大丈夫だった。雨が三日続いて、土間の湿気が上がった日に、夕方の蒸しパンの裏に、白い点が出た。

　私が気づいたのは、勘太の母親が、それを持って戻ってきたときだった。

「悪いんだけどさ」

　勘太の母親は、怒っていなかった。怒っていないのが、つらかった。

　その日の蒸しパンを全部捨てた。その日のぶんを買った人の家を、おしげに聞いて、一軒ずつ回った。一銭ずつ返して、頭を下げた。二十三軒あった。

　その週の売上は、仕入れを下回った。

　八月には、掛けが焦げついた。

　紡績工場の女工さんたちには、給金の日まで掛けで売っていた。一人、給金の日の前に工場を辞めて、田舎へ帰った人がいた。マドレーヌを、四週続けて二つずつ、掛けで買っていた人だった。

　四十銭。

　私は、その人の顔を覚えていた。細い首の、よく笑う人だった。田舎がどこなのか、誰も知らなかった。知っていても、私は取り立てに行かなかったと思う。

　丸十への返済は、七月の末に二円返して、八月は一円しか返せなかった。丸十の主人は「来月、三円でいい」と言った。九月に、三円返した。

　　九月三十日
　　　借　残り　十八円

　　＊

　冬に、風邪をひいた。

　十二月の初めだった。朝、窯に火を入れようとして梯子段を下りたら、足がもつれた。土間に座り込んで、しばらく立てなかった。

　店を六日、閉めた。

　六日のあいだ、四畳半の布団の中で、天井の染みを見ていた。窯が冷えていく音が聞こえる気がした。粉の袋が湿気る気がした。六日ぶんの売上を、頭の中で何度も数えた。数えるたびに、熱が上がった。

　二日目に、おしげが粥を持ってきた。

　三日目に、勘太が、自分の家の梅干しを一つ、紙に包んで持ってきた。

　四日目に、酒屋の旦那が、卵を三つ置いていった。

　五日目に、表通りの洋服屋の奥さんが、湯たんぽを貸してくれた。

　六日目の夕方、熱が下がって、私はノートを開いた。その週の頁は、売上の欄が全部空いていた。

　私は空いた欄の横に、線を一本引いて、もう一つ欄を作った。

　　もらった物
　　　粥　三回（おしげさん）
　　　梅干し　一つ（勘太）
　　　卵　三つ（酒屋さん）
　　　湯たんぽ（洋服屋の奥さん。返す）

　書いてから、しばらく頁を見ていた。

　祖母の店を一人で回していたころ、私は熱が出ても店を開けた。誰にも頼まなかった。頼めば、誰かを待つことになると思っていた。待たない、と決めたつもりで、私は、頼むこともしなかった。

　この町では、頼まなくても、戸口に粥が置いてあった。

　七日目に、店を開けた。勘太が一銭を握って来て、「焦げたのでいい」と言った。その日は、焦げたのがなかった。

　　＊

　十二月十八日の夜、ノートの右下の数字は、三百六十五になった。

　ちょうど一年だった。

　私は、この一年の頁を、最初からめくった。質屋へ行った日の頁。焦げたボーロの頁。五つで一銭に書き直した頁。貝の型。丸十の借り。黴の出た日。焦げついた掛け。もらった物の欄。十月から、土曜の頁に並ぶ、港の小僧、マドレーヌ、二。裏表紙に挟んだ包み紙。

　家賃は、一度も遅れなかった。

　それだけは、胸を張ってもいいと思った。十七で家を出た娘が、下町の四畳半で、十一か月、自分の焼いた菓子で家賃を払った。一銭ずつの売上で、粉を買い、炭を買い、窯の借金を返した。誰の金も受け取らなかった、とは言えない。梅干しも卵ももらった。それでも、天導の家の物は、一銭も受け取らなかった。

　この包み紙の字は、やっぱり、一臣さんの字なのだろうか。

　私は、その問いを、ノートの余白に書かなかった。書けば、数字の横に置くことになる。数字の横に置けば、毎晩それを見ることになる。

　代わりに、貝の形の絵を、一つ描いた。

　　＊

　四月二十日、十九になった。

　その朝、私はマドレーヌを一つだけ、余分に焼いた。売り物にしない一つだった。

　祖母は、私の誕生日には、いつも店の売れ残りのマドレーヌに、蝋燭を一本立てた。売れ残りでごめんね、と言って。売れ残りでよかった。売れ残りがあるうちは、店があるということだったから。

　蝋燭はなかったので、火のついていない付け木を一本、真ん中に立てた。

　一人で食べた。

　ラードの匂いが少しした。祖母の味から、まだ遠かった。一年と二か月で、少しだけ近づいた。

　ノートの右下の数字は、二百四十二だった。

---

# 第九章　土曜の貝

　土曜の昼前に、港の小僧が来る。

　去年の十月からだった。十二か十三の、耳の大きな男の子で、紺の法被の背中に「浜田」と白く染め抜いてある。港の、浜田回漕店の小僧だ。千鳥町から港までは、川沿いを歩いて半刻かかる。その道を、土曜ごとに歩いてくる。

「貝のやつ、二つ」

　毎回、同じことを言う。

　お代は、紙に包んである。五銭玉が二つ。包み紙の上に、墨で「十銭」と書いてある。釣りが要ったことは、一度もない。

　最初の土曜、私はその包み紙を、なんとなく捨てずに取っておいた。二度目の土曜も取っておいた。三度目の土曜に、四畳半で三枚を並べて見た。

　十銭。十銭。十銭。

　細い字だった。右へ少しずつ上がっていく。はねるところで、はねない。止めるところで、きちんと止める。

　この字を、私は十の年から見てきた。分からない言葉の答えを書いた紙。大学から届いた手紙。氷圧は、氷が船を両側から押す力のこと。マドレーヌは、見たことがない。そういうことが、この字で書いてあった。

　私は包み紙を、ノートの裏表紙の内側に挟んだ。

　それから、十月の頁の端に書いた。

　　十月七日
　　　港の小僧　マドレーヌ　二（十銭）

　次の土曜にも、書いた。その次の土曜にも。

　確かめようとは、しなかった。字が似ているだけかもしれない。帝都に、細い右上がりの字を書く人は何百人もいる。確かめて違ったら、ノートの右下の数字を、また一から信じ直さなければならない。私はそれが怖かった。待たない、と決めた人間が、確かめるのを待っていた。

　　＊

　三月の終わりに、一度だけ、小僧に訊いた。

「それ、誰に頼まれてるの」

　小僧は、マドレーヌの袋を懐に入れながら、きょとんとした。

「帳場の村瀬さん」

「村瀬さん」

「おいらの分と、村瀬さんの分。一つはおいらが食っていいって」

　松吉という子だった。聞けば、家は漁師で、兄弟が七人いて、回漕店に奉公に出て二年目だという。

「村瀬さんって、どんな人」

「どんなって」

　松吉は、首をひねった。

「背が高い。喋らない。昼飯のとき、本を読んでる。帳面の間違いを見つけるのが早い。番頭さんより早い」

「そう」

「眉毛が、こう」

　松吉は、自分の眉の上に指で横に一本、線を引いた。

「まっすぐ」

　私は、「そう」ともう一度言った。声が変にならないように、蒸籠の蓋を持ち上げた。湯気が顔にかかって、ちょうどよかった。

「村瀬さんは、雨の日に傘を人にやっちまうんだ。こないだも、橋のとこで、赤ん坊負ぶったおかみさんに。で、自分はびしょ濡れで帰ってくる。番頭さんに怒られてた」

「……風邪、ひかないの」

「ひかないって言ってた」

　松吉が帰ってから、私は土間にしゃがんで、しばらく立てなかった。

　熱が出たときと同じだった。足に力が入らない。違うのは、胸の中が熱いことだった。

　あの人は、帝都にいた。港の帳場で、村瀬という名前で、昼に本を読んでいた。傘を人にやって、濡れて帰っていた。そして、マドレーヌは見たことがない、と書いてきた人が、半年前から毎週、松吉に十銭を持たせて、この店にマドレーヌを買いに来させていた。

　探して、見つけて、嫌だったら、お菓子を一つ買って帰ってください。二つ買ったら、嫌じゃなかったことにします。

　私は、十二月の廊下で、そう言った。

　あの人は、毎週、二つ買っていた。

　　＊

　四月二十七日の土曜、私はマドレーヌを二つ、紙の袋に入れた。三年前に、婚約が正式になった日だった。わざとその日にした。袋の中に、小さく畳んだ紙を一枚、一緒に入れた。

　書くのに、三晩かかった。

　最初の晩は、便箋に一枚書いた。長すぎた。読み返すと、天導の家で書いていた手紙と同じ調子だった。よろしければ、とか、お時間がございましたら、とか。二晩目は、半分にした。まだ長かった。三晩目に、粉の袋の値札の裏に、こう書いた。

　　村瀬様
　　見つけてくださって、ありがとうございます。
　　見つけたなら、入ってきてください。
　　　　　　　　　　　　　桐谷

　松吉は、いつものように袋を懐に入れて、いつものように帰っていった。

　その夜、ノートの右下の数字は、二百三十五だった。

　二年と言ったのは、私だった。あと二百三十五日、待てばいい。待てば、あの人のほうから来るかもしれない。十二月十八日に、七百三十と書いたのは、そういうつもりだった。

　でも、あの人は、もう見つけていた。見つけて、半年、店の前まで来なかった。

　半年、来なかった人が、あと二百三十五日で来るとは、私には思えなかった。

　　＊

　五月四日の土曜、松吉は来なかった。

　昼を過ぎても来なかった。マドレーヌは、取り置きの二つを除いて、十個とも昼前に売れてしまった。取り置きの二つは、夕方、自分で食べた。ラードの匂いがした。

　五月十一日の土曜も、昼を過ぎても来なかった。

　その日、私は昼過ぎに、取り置きの二つを、勘太とその妹にやった。勘太は「今日はどうしたの、姉ちゃん、顔がこええ」と言った。

「こわくない」

「こええよ」

　店の奥で、ノートを開いた。土曜の欄に、港の小僧の行がなかった。二週続けて、なかった。

　あの人は、紙を読んだのだ。読んで、松吉をよこすのをやめた。

　入ってきてください、と書いた。それで、来なくなった。

　私は、ノートを閉じた。閉じて、四畳半の天井を見た。

　十四のとき、はしたないと言われた。十六のとき、眠いのかと言われた。どちらのときも、私はあの人に向かって一歩出て、あの人は一歩も動かなかった。動かないで、上着をかけてくれた。

　あの人は、そういう人だった。自分が決めることは、二か月でも二年でも考えて、最後は自分で動く。自分が決めていないことには、一歩も動かない。

　だとしたら、いまあの人は、何を決めたのだろう。

　私は、決めた。

　月曜の朝、蒸しパンを売り終えたら、店を閉めて、港へ行く。浜田回漕店の帳場へ行って、村瀬さんをください、と言う。

　馬鹿みたいだった。馬鹿みたいで、ちょうどよかった。私は待たない人間だった。待たないと決めて、十歳の秋からここまで来た。最後の二百二十一日だけ待つのは、筋が通らない。

　　＊

　その日の夕方、店を閉めようとしていた。

　土曜はマドレーヌの日で、夕方には台の上に何も残らない。私は台を拭いて、雨戸を一枚ずつ立てていた。最後の一枚を持ち上げたとき、路地に人の影が伸びた。

　背の高い人だった。

　背広を着ていた。袖口が擦り切れて、白い糸が見えていた。肩のあたりが、前よりも薄い。髪は、前よりも短く刈ってある。上着のポケットから、本の背が少しだけ覗いていた。

　まっすぐな眉だった。

　私は、雨戸を持ったまま立っていた。重かった。重いので、下ろせばよかった。下ろせなかった。

　その人が、口を開いた。

「天導さん」

　十の秋から聞いてきた声だった。天導の家では、誰もが天導だった。母も伯父も、この人自身も。それなのに、この人の口から出る天導さんだけは、一拍もかからずに私に届いた。

　いまも、届いた。届いてしまった。

「……ここには、天導はいません」

　自分の声が、思ったより低く出た。

「桐谷です」

　その人は、少し黙った。

「……桐谷さん」

　言い慣れない名前を、一度、口の中で確かめるような言い方だった。

　私は、ようやく雨戸を下ろした。敷居に立てかけて、前掛けで手を拭いた。拭いても、手は乾かなかった。

「入ってください」

「いや」

「入ってきてくださいって、書きました」

「読んだ」

「読んだなら」

「読んだから、来た」

　その人は、店の敷居の外に立ったまま、入ってこなかった。路地の夕日が、背中から差していた。顔が、少し陰になっていた。

「松吉を、よこすのをやめた」

「知っています。二週、来ませんでした」

「すまない。……それを、言いに来た」

　私は、その人の顔を見た。

　頬が、こけていた。前にはなかった線が、口の横に一本あった。目の下が青い。それでも、眉はまっすぐだった。まっすぐなまま、私を見ていなかった。私の肩の向こうの、店の奥の、冷えかけた窯を見ていた。

「どこから、話せばいいか分からない」

「どこからでもいいです」

「では、終わりから話す」

　その人は、息を吸った。

「あの夜のあと、商会の帳簿を全部開いた。本家から流れた金を、三村先生を通して、本家へ返した。返しきるのに、三か月かかった。それから、商会を辞めた。天導の名前は、港ではみんな知っている。新聞に何度も出た。だから、名前を替えた。村瀬というのは、思いついた名前だ。浜田の帳場で、月に十八円もらっている。母は、郷里の兄のところへ帰した。私は、港の長屋に一人で住んでいる」

　一息で言った。用意してきた言葉なのだと分かった。

「春から、下町の菓子屋を、一軒ずつ見て回った」

「……春から」

「帳場が休みの日に。川の向こうから、順に。九月に、この店を見つけた。台の前に子どもがしゃがんでいて、あなたが、焦げたのを一つやっていた」

　勘太だ、と私は思った。

「窓から見た。あなたは一人で、窯に火を入れて、粉を量って、子どもに焦げたのをやって、掛けの帳面をつけていた。前掛けが、粉で白かった」

「……入ってくれば、よかったのに」

「入らないと決めた」

　その人は、ようやく私を見た。

「あなたは、一人で、ちゃんとやっていた。天導の家の物を何も持たずに、自分の手で。それが分かれば、十分だった。十分だと、決めた」

「じゃあ、どうして、松吉を」

　その人は、答えなかった。答えないまま、目をそらした。耳が、夕日のせいではなく赤くなった気がした。

「あなたは、菓子を一つ買って帰れと言った」

「言いました」

「……それだけは、しておこうと思った」

「毎週」

「毎週」

「二つ」

「一つは、松吉のだ」

　私は、何か言おうとした。言う前に、その人が続けた。

「今日は、それを終わりにしに来た。あなたの紙を読んで、自分がしていることが、あなたにどう見えるか分かった。半年、あなたを、待たせるようなことをした。すまなかった。もう、松吉はよこさない。この路地にも来ない」

「どうしてですか」

　声が、震えた。震えないようにしようとして、失敗した。

「どうして、来ないって、決めるんですか。私に、訊きもしないで」

　その人は、長いあいだ黙っていた。

　路地の奥で、誰かが雨戸を閉める音がした。夕飯の支度の匂いがした。川のほうから、蒸気船の汽笛が一つ、長く鳴った。

「私は、罪人の息子だ」

　その人は、言った。

「父は、宗一郎さんを、湖に落とした。桟橋の柱に、自分の手で鋸を入れた。あなたの母上と組んで、あなたが眠らされて舟屋に置かれる夜を、段取りした。父の金で、私は学校へ行った。父の商会で、父の帳簿をつけた。あなたとの婚約は、父の計画の最後の一手だった」

　その人の手が、背広の脇で、一度握られて、開いた。

「罪人の息子が、あなたの隣にいる資格はない」

---

# 第十章　朝四時の窯

　路地の奥で、また雨戸の閉まる音がした。

　その人は、敷居の外に立っていた。背広の脇で、手を握って、開いた。言うことを言い終えた人の顔をしていた。これで終わりにする、と決めて来た人の顔だった。

　私は、その顔を見ていた。

　十二月の廊下で、私はこの人に言った。自分で決めるところが好きだ、と。言うつもりのなかった言葉だった。

　この人はいま、自分で決めて、ここへ来た。終わりにすると決めて。

　好きなところで、振られに来られた。

　腹が立った。腹が立ったら、頭がはっきりした。祖母の店で、業者に納品の日を勝手に延ばされたときと同じだった。怒ると、私は計算が速くなる。

「一臣さん」

　その人の肩が、少し動いた。村瀬さんではなく、天導さんでもなく、名前で呼ばれたからだと思う。

「私は、罪人の娘を止めて出てきました」

　その人が、私を見た。

「あなたも、もう罪人の息子ではありません」

「……何を」

「なので、『資格が無い』という言い分は、もう効きません」

　言えた。声は震えなかった。震えるより先に、口が動いた。

　その人は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくり首を振った。

「止めた、と言って、止められるものではない。血は、そのままだ」

「そのままです」

　私は頷いた。

「私の血も、そのままです。天導宗一郎の娘で、天導藤乃の娘です。おじさまが死んで、いちばん得をしたのが私だったことも、残ります。残るものは、減らせません。十歳のときから、分かっていました」

「では」

「だから、受け取らないことにしたんです」

　私は、店の中を手で示した。天火と、窯と、粉の袋と、台の上の空の籠と、壁に貼った紙の値札。五つで一銭。一つ一銭。一袋三銭。土曜だけ、一つ五銭。

「罪人の娘っていうのは、罪人のしたことの上で、ご飯を食べてる娘のことです。私は、あの家の粥も、炭も、月謝も、受け取るのをやめました。この店のものは、質屋に入れた着物二枚と、丸十さんの立て替えと、あとは全部、五つで一銭のボーロでできてます。一年と三か月、そうしてきました。家賃は、一度も遅れてません」

「……それは、あなたの話だ」

「一臣さんの話もします」

　私は、その人の擦り切れた袖口を見た。

「お父様の紙を、自分で出しました。商会の帳簿を全部開いて、流れたお金を、三か月かけて本家へ返しました。商会を辞めました。名前まで、置いてきました。いまは浜田の帳場で、月に十八円、自分で稼いでます。お父様のお金は、一銭も受け取ってないでしょう」

　その人は、答えなかった。

「受け取ってないなら、もう罪人の息子じゃありません。罪人の息子を止めた人です。私と、同じです」

　川のほうで、また汽笛が鳴った。今度は短かった。

「……それでも」

　その人は、低い声で言った。

「私の父は、宗一郎さんを死なせた。あなたに、赦してもらえるようなことでは」

「赦しは、出せません」

　その人が、顔を上げた。

「私は、一臣さんに何もされてないので。されてないことは、赦せません。赦しは、出せないんです」

　言いながら、私は祖母のことを思い出していた。

　十六の冬、店の手伝いを始めて最初の年末だった。店が一年でいちばん忙しい週に、私はシューの皮を四十、全部焦がした。オーブンの温度を、一段まちがえた。粉も卵もバターも、四十個ぶん、ごみ箱に入った。私は厨房の隅で、ごめんなさい、を二十回くらい言った。

　祖母は、いいよ、とは言わなかった。

　じゃあ、明日は三時半に来な、と言った。

　それだけだった。私は次の朝、三時半に厨房の灯りをつけた。祖母は四時に来て、焦がしたのと同じ数のシューを、私と並んで絞った。謝るのは、その日から、しなくなった。

　謝っている人に要るのは、いいよ、ではない。明日の朝、何時に来ればいいかだ。

「一臣さんに要るのは、赦しじゃないと思います」

「……では、何だ」

「仕事です」

　その人は、黙った。

「明日の朝、四時に来てください」

「四時」

「窯に火を入れる人が、いないんです」

　私は、店の奥を指した。冷えかけた鉄の窯。

「この窯、焚き口が低いんです。私がしゃがんで火を入れると、髪が焦げます。三回焦がしました。それから、粉を二袋、いっぺんに担げる人がいません。丸十さんの小僧さんに頼むと、一袋一銭取られます。それから、掛けの取り立てに行ける人がいません。私は、取り立てが下手です。四十銭、取りはぐれました。それから――」

　指を折って数えていたら、途中で止まらなくなった。

「それから、帳面を見てくれる人がいません」

　言いながら、十五の秋の明星軒を思い出していた。帳場は、とこの人は訊いた。私です、と私は答えた。両方は無理だ、とこの人は言った。

「明星軒で、両方は無理だって、言いましたよね」

「……言った」

「無理でした。一年と三か月やって、やっぱり無理でした。原価の計算は速いですけど、足し算を二回まちがえます。浜田の帳場で、番頭さんより早く間違いを見つける人が、要ります」

　その人は、私の指を見ていた。四本折ったところで止まった、私の右手の指を。

「……松吉が、そう言ったのか」

「言いました。眉毛が、こう、って」

　私は、自分の眉の上に、指で横に一本、線を引いた。

　その人は、何とも言えない顔をした。口の端が、ほんの少しだけ動いた。十の秋に、長椅子で見たのと同じ動き方だった。

　　＊

「それに、一臣さん」

「……なんだ」

「十二月の廊下で、私、言いましたよね。探して、見つけて、嫌だったら、お菓子を一つ買って帰ってくださいって」

「言われた」

「二つ買ったら、嫌じゃなかったことにしますって」

「一つは、松吉のだ」

「知ってます」

　私は、店の奥の棚からノートを取ってきた。十月の頁を開いて、その人の前に差し出した。

　　十月七日
　　　港の小僧　マドレーヌ　二（十銭）

　頁をめくった。

　　十月十四日
　　　港の小僧　マドレーヌ　二（十銭）

　めくった。十月二十一日。十月二十八日。十一月四日。

「私が風邪で店を閉めてた土曜を除いて、二十九回。全部、二つです」

　その人は、ノートを見ていた。長いこと、見ていた。

「……数えていたのか」

「数えるのは、得意なので」

「一つは、松吉の」

「それでも、二つです。二つ買ったら、嫌じゃなかったことにするって、私が決めました。一臣さんに、その決まりを変える資格は、ありません」

　言ってから、しまった、と思った。資格、という言葉を、今度は私のほうが使っていた。

　その人も、それに気づいたらしかった。

　声を出さずに笑った。笑うと、口の横の新しい線が、少しだけ消えた。

　それから、その人は、一歩、前へ出た。

　敷居を、越えた。

　土間に、その人の靴が載った。粉の白い土間に、靴の跡が一つついた。

　　＊

　店の奥の三畳で、番茶を出した。

　その人は、背広の上着を脱いで、畳んで、膝の横に置いた。ポケットから本がはみ出していた。背表紙が見えた。『北方回航記　下』。

「まだ、読んでるんですか」

「三度目だ」

「三度目」

「読むものが、ほかになかった」

　嘘だと思った。港の帳場の近くには、古本屋がいくらでもある。

　私は、三村のことを話した。十八の誕生日に来た封書のこと。三通の中身のこと。そのあとで三村が、これは私が申し上げたことではありません、と言って置いていった話のこと。

「裁判は、この春で済みました」

「知っている。新聞で読んだ」

「親族会は、私の身の振り方を、決め直すそうです。三村先生は、修道院とは言いませんでした。言わなかったのが、答えだと思います」

　その人の手が、湯呑の上で止まった。

「あなたは、まだ二十になっていない」

「来年の四月です」

「それまでは、後見の同意がなければ、結婚もできない」

「できません」

「住むところも、後見が決められる」

「決められます」

　その人は、湯呑を置いた。

　置いて、しばらく、畳の目を見ていた。私は黙っていた。この人が黙って考えているときは、口を挟まない。十の秋の長椅子から、ずっとそうしてきた。

　店の外は、もう暗かった。路地のどこかの家で、子どもが父親に叱られていた。勘太の声ではなかった。

「北に、函崎という港がある」

　その人が、言った。

「北方回航記の船が、最後に帰ってきた港だ。氷が緩んで、船が持ち上がったまま、流されて、あの港に着いた。上巻の最後に地図がある」

「覚えてます。港の形が、手のひらみたいだった」

「分家の商会の船が、昔、あそこへ荷を出していた。帳簿で見た。冬は港が凍る。夏は、霧が出る。菓子屋は、港の近くに二軒しかない」

「……二軒」

「帳簿で見た」

　帳簿で菓子屋の数まで見る人がいるだろうか。いる、と私は思った。この人なら、見る。

「天導の名前は、北までは届いていない。親族会も、北までは探しに来ない。あなたが二十になるまで、あと一年だ」

　その人は、顔を上げた。

　まっすぐな眉の下で、目が、まっすぐに私を見ていた。十二月の廊下のときのように、窓の外を見てはいなかった。

「行こう」

　その人は、そう言った。

　十の秋から、この人は、自分のことをいつも自分で決めてきた。門まで戻る。父には何も言わない。私が決めた。どれも、この人が、この人のことを決めた言葉だった。

　私のことまで一緒に決めた言葉を聞いたのは、初めてだった。

「行く！」

　三畳じゅうに響いた。

　隣の煙草屋から、おしげの咳払いが聞こえた。

「……行きます」

　敬語が、あとから走ってきた。やっぱり、間に合っていなかった。

　その人は、今度は声を出して、少しだけ笑った。

　　＊

「一臣さん」

「なんだ」

「私のこと、これから、なんて呼ぶんですか」

　その人は、黙った。

「天導さん、は、もう違います。桐谷さん、は、言いにくそうでした」

「……言いにくい」

「じゃあ」

　その人は、湯呑を持ち上げて、中が空だと気づいて、置いた。十六の五月の東屋で、初めて見た癖だった。

「瑠璃」

　呼ばれた。

　この身体の名前だった。宗一郎という人が、生まれる前に、船の名前から取った名前だ。十歳の秋から、何百回も呼ばれてきた。母に。伯父に。フミに。三村に。

　この人に呼ばれたのは、初めてだった。

「はい」

　返事をしたら、目の奥が熱くなった。

　十四のとき、私はこの人に、口づけをせがんだ。はしたない、と言われた。十六のとき、目を閉じて待った。眠いのか、と言われて、上着をかけられた。

「一臣さん。十六のとき、私が目を閉じてたの、覚えてますか」

「……雨の日曜の」

「そうです」

「眠いのかと思った」

「違います」

　その人は、少し考えた。考えて、ようやく分かった、という顔をした。耳が赤くなった。今度は、夕日のせいにできなかった。夕日は、とうに沈んでいた。

「……そうだったのか」

「そうでした」

「三年、気づかなかった」

「三年です」

　私は、目を閉じた。

　十九の春だった。この人は二十五だった。十歳の秋に、私は配合表のノートに書いた。仕込み、八年。焼き上がり、十八の春。一年、遅れた。一年遅れて、それでも、ちゃんと膨らんだ。

　今度は、上着はかけられなかった。

　　＊

　その夜、ノートを開いた。

　右下の隅に、いつものように数字を書いた。

　　五月十一日
　　　あと二百二十一
　　　焼き上がり　十九の春
　　　十歳の見込みより、一年遅い
　　　十二月の見込みより、二百二十一日早い

　遅いのか、早いのか。予定から外れて焼き上がったものは、ふつうは疑ってかかる。祖母なら、どっちでもいいから割って中を見な、と言う。

　割らなくても、分かった。

　書いてから、頁をずっと前までめくった。十四の年の、同じ日付に、一行だけ書いてあった。

　　五月十一日　十四の私は、もう言わない。

　十四の私は、あの約束を守った。十九の私も、言わなかった。目を閉じただけだった。

　余白に、貝の形を描いた。筋を五本、扇の形に。決まったね、と祖母の声がした気がした。

　　＊

　次の朝の四時、店の戸を叩く音がした。

　私は梯子段を下りて、雨戸を一枚外した。

　外はまだ暗かった。路地の向こうの空だけが、少し青かった。その人は、背広の上着を着ないで、シャツの袖をまくって立っていた。

「四時だ」

「四時です」

　その人は、窯の前にしゃがんだ。焚き口が低いので、背の高い人には、なおさら低かった。私は付け木を渡した。その人は、焚き口の奥に薪を組んで、付け木を差し入れた。

　火が入った。

　鉄の窯の中で、薪がはぜる音がした。その人の横顔が、焚き口の火で赤く見えた。

「火が大きすぎます。もう一本、抜いてください」

「分かった」

「それから、右の奥が熱くなりやすいので、薪は左に寄せて」

「分かった」

「分かったばっかり」

「分かったのだから、仕方がない」

　私は、粉の袋の口を開けて、量りを出した。五つで一銭のボーロの生地を、今日は八十、仕込む。卵、砂糖、粉。

　それから、別の小さな鉢に、本の菓子の材料を量った。粉と砂糖に、バタと、黄身と、塩をひとつまみ。薄く伸ばして、表に卵白を塗る。ノートの四月二十七日の頁は、開かなくても覚えていた。

「それは」と、焚き口の前から声がした。

「売り物じゃないです。本の菓子です」

　その人は、何も言わなかった。焚き口の火のほうへ、顔を戻した。耳が赤いのは、火のせいだということにしておいた。

　粉を量った。量りの針が、決めた目盛りで止まった。止まるのを見て、朝が始まった気がした。

---

# 第十一章　北の港

　決めてからは、早かった。

　一臣は、月曜の朝に浜田回漕店へ暇を願い出た。番頭は引き止めたそうだ。月末までは帳場に座る、ということで話がついた。帳面を途中で放り出して辞めることは、この人にはできない。

　そのあいだ、朝の四時には、店の戸が鳴った。

　一臣は窯に火を入れ、粉を二袋担いで、五時半に港へ帰っていった。港まで、川沿いを歩いて半刻かかる。五時半に出れば、帳場が開く六時半に間に合う。

「寝ていないでしょう」

「寝ている。帳場の昼休みに」

「本を読んでるって、松吉が」

「……半分は寝ている」

　三日目の朝に、おしげが煙草屋の戸を開けて、焚き口の前にしゃがむ背中を見た。見て、何も言わずに戸を閉めた。昼すぎに、私を煙草屋の奥へ呼んだ。

「あんたの、いい人かい」

「いい人です」

「そうかい」

　おしげは、それだけ言って、煙管に火をつけた。

「フミおばさんには、あたしから言っとくよ。言っていいんだろ」

「いつか、言ってください。ひと月くらい、あとで」

　おしげは、煙を吐いた。私の顔を見て、もう一度吐いた。

「ひと月あとね」

　それで、分かったのだと思った。

　　＊

　窯は、隣町のパン屋の息子が買い戻してくれた。

　去年、店を閉めた人の息子で、父親の窯でもう一度パンを焼きたいのだという。十五円だった。二十四円で買って、十か月使って、十五円。丸十の主人は「いい値だ」と言った。代金は先に受け取って、窯は、六月一日の朝の仕込みが済んでから引き渡す約束にした。

　丸十への借金は、残り四円だった。

　私は、十五円のうちから四円を出して、丸十の帳場に置いた。

「月末まで、待ってもいいんだがね」

「待たないでください。今日、返したいんです」

　丸十の主人は、帳面の私の名前の横に、朱で線を一本引いた。引いてから、帳面を私のほうへ回して見せた。

　　七月十日　借　二十四円
　　　　　　　完済

「娘っ子に貸したのは、初めてだったが」

　主人は、帳面を閉じた。

「娘っ子に返されたのも、初めてだ」

　ノートの頁に、私も書いた。

　　五月二十日
　　　丸十　四円　返済
　　　借　残り　なし

　書いてから、残りの字の横に、小さな丸を一つ描いた。貝ではない、ただの丸だった。

　　＊

　五月の終わりに、澪が来た。

　月に一度の日だった。いつものように台の前で立ち止まって、紙の値札を見て、私の顔を見た。

「ボーロを、五つ」

　一銭玉を受け取って、紙の袋に五つ入れた。澪は、その場で一つ食べた。

「澪さん。奥で、お茶を飲んでいきませんか」

　澪は、二つ目を口に入れかけて、止めた。

「……はい」

　奥の三畳で、番茶を出した。

　私は、話した。港の小僧のこと。二つのマドレーヌのこと。五月十一日の夕方のこと。朝の四時の戸の音のこと。三村の、修道院と言わなかった話のこと。

　澪は、ずっと黙って聞いていた。聞き終わってから、湯呑を置いた。

「行かれるんですね」

「行きます」

「どちらへ」

「函崎です」

　澪は、目を上げた。

「……私に、言っていいんですか」

「澪さんにだけ、言います」

「どうして」

　私は、少し考えた。考えてあったことを、もう一度考えた。

「親族会には、三村先生を通して、手紙を出します。探さないでください、って。それで、たぶん、探そうとする人が出ます。そのとき、場所を知っている人が一人もいないと、私は、誰にも、探さないでくださいを頼めません」

「……」

「探さないでください、を守ってくれる人に、一人だけ、場所を知っていてほしいんです。何かあったときに、澪さんにだけは、菓子を送れるように」

「私に、何をしろと」

「何もしないでください」

　澪が、瞬きをした。

「探しに来ないでください。探そうとする人がいても、放っておいてください。場所を訊かれても、知りませんって言ってください。……澪さんは、頼まれたことを、ちゃんとやる人なので」

　澪は、長いこと、湯呑の中を見ていた。

「知りません、と言えばいいんですね」

「はい」

「私、嘘は下手です」

「知ってます。だから、嘘じゃなくていいです。知りませんって言わなくても、黙っててくれれば」

　澪は、湯呑を持ち上げて、飲まずに、また置いた。

「天導さん」

「桐谷です」

「……瑠璃さん」

　澪に、名前で呼ばれたのは、初めてだった。

「一臣さんに、色目は使っていません。最後まで」

「知ってます。ありがとうございました」

「悪くも言いませんでした」

「知ってます」

「……一度だけ、言いたくなりました。舞踏会で、瑠璃さんと二曲続けて踊っていらしたとき」

「なんて」

「下手だって」

　私は、笑ってしまった。

「言いませんでした。約束なので」

「……はい」

「函崎へ行かれたら、約束の期限は切れますか」

「切れません」

「そうですか」

　澪は、ようやく番茶を一口飲んだ。飲んでから、少し笑った。日に焼けた頬に、皺が寄った。

「ボーロ、あと五つください。函崎は、遠いので」

　帰りぎわに、澪はもう一度、台の前で振り返った。

「探しません」

「はい」

「誰にも、探させません」

　そう言って、澪は路地を曲がっていった。

　探させません、とまでは、私は頼んでいなかった。

　　＊

　六月一日の夜、千鳥町を出た。

　昼のうちに、勘太とその妹に、最後のボーロを一袋ずつやった。一銭は、取らなかった。勘太は袋を握って、「姉ちゃん、どっか行くのか」と訊いた。

「行く」

「どこ」

「内緒」

「いつ帰ってくんの」

「帰ってこない」

　勘太は、袋を握ったまま、私の顔を見ていた。泣くかと思った。泣かなかった。代わりに、袋を開けて、一つ食べた。

「うめえ」

「知ってる」

「焦げたのも、うまかった」

　勘太は、袋を持って路地の奥へ走っていった。振り返らなかった。この路地の子は、振り返らない。

　持っていくものは、来たときより少し多かった。着替えが三枚。配合表のノートが二冊。ブリキ屋の貝の型が十二。銀の星の髪飾り。一臣の荷物は、柳行李一つと、本が七冊だった。七冊のうちの二冊が、『北方回航記』の上巻と下巻だった。

「上巻も、持ってたんですか」

「あなたから、返してもらった」

「……返しましたね」

「それから、ずっと持っていた」

　夜汽車は、北へ向かう線の、いちばん端の三等だった。

　窓の外で、帝都の灯りが少しずつ減っていった。一臣は、下巻を膝の上で開いていた。開いているだけで、頁はめくっていなかった。

「読まないんですか」

「読んでいる」

「めくってません」

「……厚みを測っている」

「やめたって、言ってました」

「今夜は、やめるのをやめた」

　私は笑った。笑ったら、汽車が大きく揺れて、肩が一臣の腕に当たった。私は謝らなかった。一臣も、腕をどけなかった。

　夜半を過ぎて、私は眠った。眠るつもりはなかった。目を開けると、窓の外が白くなっていて、私の肩には、背広の上着が掛かっていた。

「眠いのかと思った」と一臣は言った。

「今度は、本当に眠かったです」

「そうか」

　一臣は、窓の外を見ていた。口の端が、少しだけ動いていた。

　　＊

　函崎は、霧の中にあった。

　汽車を降りると、駅の屋根の向こうが白くて、何も見えなかった。潮の匂いがした。帝都の港とは違う、冷たい匂いだった。六月なのに、襟元が肌寒かった。

　霧が晴れてから、港を見た。

　手のひらの形をしていた。親指と小指が岬になって、湾を抱えている。指のつけ根のあたりに、倉庫と、船具屋と、漁師の家と、小さな造船所が並んでいた。北方回航記の上巻の、最後の地図と同じ形だった。

「ここに、船が流れ着いたんですね」

「氷が緩んで、持ち上がったまま、流されて」

「氷圧」

「覚えていたのか」

「十二の年に、教えてもらいました」

　一臣は、湾のほうを見ていた。見ながら、何か言いかけて、やめた。やめてから、もう一度口を開いた。

「ここにする」

「はい」

　決めたのは、この人だった。それでよかった。

　店は、港の坂の途中に見つけた。前は網元の干物を売っていた店で、土間に魚の匂いが残っていた。二階に六畳が二間。煉瓦の小さな窯が、裏の小屋についていた。干物を燻すための窯で、菓子を焼くには温度が低い。一臣が、焚き口を広げればいいと言った。

　二階の二間は、襖で分けた。

　大家は、港の古い網元の後家さんで、私たちを見て「ご夫婦かい」と訊いた。

「まだです」と私は言った。

「まだ」

「来年の春に」

　大家は、一臣の顔を見た。一臣は、黙って頭を下げた。大家は、ふうん、と言って、家賃を月に二円と決めた。帝都の下町より、五十銭安かった。

　看板は、一臣が板に書いた。細い字で、右へ少しずつ上がっていく字だった。

　　洋菓子　きりたに

「洋菓子、でいいのか。ボーロも蒸しパンも売るのだろう」

「いいんです。祖母の店が、そうだったので」

　祖母の店、と私が言っても、一臣は何も訊かなかった。訊かずに、その通りに書いた。

　　＊

　店は、七月の初めに開いた。

　最初の一か月は、帝都の下町の最初の一か月と、同じだった。ボーロは売れた。蒸しパンは、少し売れた。マドレーヌは、売れなかった。港の人は、見たことのない貝の形の菓子に五銭は出さない。

　売れたのは、別のものだった。

「これを、船に積めないか」

　七月の半ばに、一臣が言った。

　手には、本の菓子が一枚あった。私が朝、自分たちの分だけ焼いたものだった。薄くて、粉が落ちなくて、指に何も残らない。

「船ですか」

「港の漁船は、一度出ると三日は戻らない。船の上で食べる物は、握り飯と干物と、固い乾麺麭だけだ。乾麺麭は、湿気るとまずいし、粉が落ちる。船の上は、揺れる。片手で綱を持って、片手で食べる」

　一臣は、本の菓子を指でつまんだまま言った。

「本を読みながら食べられる菓子は、綱を持ちながらも食べられる」

　私は、しばらく何も言えなかった。

　十四の春に、分家の縁側で、この人が頁から目を離さずに三枚食べた菓子だった。一人のために詰めた配合だった。それが、一人のためでなくなるかもしれない。

「湿気らないようにするなら、焼きを強くして、厚みを少し足します。バタは減らします。代わりに、ラードと、塩を少し多く。……長く持たせるなら、缶が要ります」

「缶は、船具屋にある。茶を入れる缶を、船主に回してもらう」

「値段は」

「それは、私が決める」

　一臣は、そう言って、坂を下りていった。

　三日後に、網元の船が二艘、本の菓子を缶で積んでいった。一缶に四十枚。一缶三十銭。原価は、缶を返してもらう約束で、一缶十一銭。一臣は、船主と、缶を返す約束と、湿気た分は取り替える約束と、代金は漁から戻った日に払う約束を、一枚の紙に書いて、両方で判を押した。

「掛け、ですか」

「掛けだ。取り立ては、私がやる」

　一臣は、取り立てが上手かった。

　怒鳴るわけでも、紙を突きつけるわけでもなかった。船が戻った日の夕方に、坂の下の網元の家へ行って、戸口で頭を下げて、「本の菓子の缶を、いただきに参りました」と言う。それだけだった。網元たちは、空の缶と一緒に、代金を払った。払わない家には、次の日の夕方にも同じことを言いに行った。三日目には、払った。

「どうやったんですか」

「毎日、同じことを言いに行っただけだ」

「それだけ」

「用が済むまで、帰らない」

　十六の年、この人は私に言った。私は用が済むと帰る癖がある、と。

　癖は、変わっていなかった。用が済むまでは、帰らない。

　八月には、網元の船が七艘になった。九月には、港の外から来る運搬船の事務長が、缶を二十、まとめて頼んでいった。港の人は、その菓子を、本の菓子とは呼ばなかった。船の菓子と呼んだ。

　ノートの原価表に、私は新しい行を足した。

　　船の菓子（本の菓子）
　　　一缶　四十枚
　　　売　三十銭
　　　原　十一銭
　　　帳場　一臣さん

　帳場、の行を書くのは、初めてだった。

　　＊

　十月に、その客が来た。

　昼すぎの、店がいちばん空いている時刻だった。一臣は裏の小屋で、窯の焚き口の煉瓦を積み直していた。私は、台の前で、夕方のボーロの袋を折っていた。

　戸が開いて、影が差した。

　大柄な男の人だった。

　紺の作業着を着ていた。袖を肘までまくっていて、日に焼けた腕が見えた。指が太い。顎に、剃り残しのような無精ひげがあった。髪に、白いものが増えていた。作業着の胸に、刺繍の文字があった。蓬田造船。

　港の外の造船所に、南の造船所から船が一艘、引き渡しに来ている。そう、網元の家で聞いたのは、三日前だった。

　十七の六月、早瀬さんは南浦でこの人に会って、娘さんは元気で菓子を焼いてる、と言ったそうだ。この人は、そうか、と言って、しばらく黙っていたという。

　その人は、台の上を見た。紙の値札を、一枚ずつ見ていた。ボーロ、五つで一銭。蒸しパン、一つ一銭。船の菓子、一缶三十銭。マドレーヌ、一つ五銭。

　十歳の九月の朝、二階の窓から見た背中だった。十七の十二月、星の間で、借り物の背広を着て、電報を胸の高さで持っていた人だった。

　その人は、私の顔を見なかった。値札を見ていた。

「これを」

　低い声だった。

「一缶。……それと、その、貝のを、一つ」

「はい」

　私は、船の菓子の缶を一つ台に載せて、マドレーヌを一つ、紙の袋に入れた。

「三十五銭です」

　その人は、作業着の胸のポケットから、小銭を出した。太い指で、一枚ずつ台に置いた。十銭が三枚。五銭が一枚。釣りは、要らなかった。

　私は、その三十五銭を見ていた。見て、手に取った。

「ありがとうございました」

　祖母の店で、何万回も言った言葉だった。千鳥町の路地でも、この坂の店でも、一日に何十回も言う。今日も、同じ声で言えた。

　その人は、缶を小脇に抱えて、紙の袋を作業着のポケットに入れた。入れてから、一度だけ、台の向こうの私を見た。

　何も言わなかった。

　私も、言わなかった。

　その人は、戸を開けて、出ていった。坂を、下へ歩いていった。急がなかった。ゆっくりでもなかった。仕事の現場から次の現場へ移るような歩き方だった。

　振り返らなかった。

　裏の戸が開いて、一臣が煉瓦の粉をはたきながら入ってきた。

「今の人は」

　一臣は、戸口のほうを見ていた。星の間で、あの人が電報を出したとき、この人も壁際にいた。

「お客さんです」

　私は言った。

　一臣は、しばらく戸口を見ていた。それから、「そうか」と言った。それ以上、訊かなかった。

　どうしてこの店に来たのかは、訊かなかった。追いかけて、訊くこともできた。坂の下まで走れば、まだ間に合った。訊けば、答えをあてにすることになる。あの人の答えを、この店の帳面のどこかに書くことになる。

　あの人は、十歳の九月の朝、振り返らずに門を出た。今日も、振り返らずに坂を下りた。私は、あの人をあてにしない。あの人も、私に何かをしに来たのではなかった。菓子を買いに来た。一缶と、一つ。三十五銭。

　その夜、ノートの売上の欄に、いつものように書いた。

　　十月十四日
　　　船の菓子　一缶（客）
　　　マドレーヌ　一（客）
　　　三十五銭

　客、の字を、二回書いた。

　書いてから、余白に何か描こうとした。何を描けばいいか分からなかった。缶の絵を描いた。缶は、菓子の形をしていなかった。

　　＊

　十二月に、港が凍った。

　湾の奥の、指のつけ根のあたりから、白くなっていった。漁船は岸に引き上げられて、網元の家の前に並んだ。船の菓子の注文は止まった。代わりに、港の外の運搬船が、冬の長い航海のために、缶を三十まとめて頼んでいった。

　夜、二階の六畳で、火鉢に炭を足した。

　一臣は、火鉢の向こうで『北方回航記』の下巻を読んでいた。四度目だった。膝の横の皿に、本の菓子が五枚載っていた。一臣は頁から目を離さずに、一枚取って、齧った。

　粉は、落ちなかった。

　私は、ノートを開いていた。今月の原価表を締めて、来月の仕入れを書いていた。書きながら、ときどき火鉢の向こうを見た。

　襖は、夜になると閉めた。閉める前の、この一時間だけ、二人で同じ火鉢に当たった。

「一臣さん」

「なんだ」

「氷に挟まれた船は、沈まないんでしたよね」

「持ち上がる。氷圧で」

「危ないのは、氷が緩むときでしたね」

「そうだ」

　一臣は、頁をめくった。

「緩んだら、流される。流されて、どこかの港に着く」

「この港みたいに」

「この港みたいに」

　窓の外で、湾の氷が鳴った。低い、長い音だった。汽笛に少し似ていた。

　一臣は、皿の上の最後の一枚を取ろうとして、指が空を掴んだ。そこで初めて顔を上げて、空の皿を見た。それから、自分の指を見た。それから、私を見た。

「もう一枚、焼いてあります」

「……もらう」

　私は、台所へ下りていった。梯子段の途中で、ノートの右下の隅のことを思った。

　あの数字は、五月十一日から、書いていない。

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# 第十二章　いなくなった二人

## 六月の親族会――澪

　本家の応接は、声が大きかった。

　小野澪は、扉の外の長椅子に座って、それを聞いていた。三村弁護士に頼んで、ここまで入れてもらった。話があります、と言った。瑠璃さんのことで、と。三村はしばらく澪の顔を見て、それから、何も訊かずに頷いた。

　扉の向こうで、白髪の大叔父の声がした。

「本家の血を引く娘が、罪人の息子と、だぞ」

「分家の嫁の郷里にも、息子から手紙が来たそうだ。探さないでくれ、と。娘のほうと、一字一句同じ文句だ」

　別の声が言った。

「警察に届けるべきだ。二十前の娘だ。後見の同意もなく、家を出た。連れ戻す理由はいくらでもある」

「探偵を雇えばいい。帝都の中なら、ひと月で見つかる」

「帝都の中にいればな」

「新聞に嗅ぎつけられたら、どうする。裁判が済んで、やっと静かになったところだ」

「だから、嗅ぎつけられる前に、連れ戻すのだ」

　澪は、膝の上で手を組んでいた。

　学院の制服ではなかった。紺の木綿の着物で、髪を後ろで一つに結んでいた。膝の上の巾着の中に、紙の袋が一つ入っていた。袋の中に、ボーロが一つだけ残っていた。函崎は遠いので、と言って五つ余分に買った、そのうちの最後の一つだった。

　扉が開いた。三村弁護士が顔を出した。

「小野さん。どうぞ」

　　＊

　応接の長い卓に、親族会の三人が座っていた。三村が、その端に立った。

　澪は、卓の前に立った。

　一年半前、この家の星の間で、澪は父の遺した手紙を読んだ。あのときと同じ三人だった。あのときより、三人とも少し痩せていた。

「小野さん」と大叔父が言った。「あなたは、瑠璃と親しかったと聞いた。下町の店にも、通っていたそうだな」

「月に一度です」

「では、行き先を知っているのではないか」

　澪は、大叔父の顔を見た。

　知っている。函崎。北の港。瑠璃さんは、下町の店の奥の三畳で、番茶を出しながら、そう言った。何もしないでください、と言った。探しに来ないで。探そうとする人がいても、放っておいて。

　放っておいては、いけないと思った。

　放っておけば、この三人は探偵を雇う。探偵は、ひと月かふた月で、下町の路地の煙草屋に行き着く。煙草屋から、フミという女中に行き着く。そこから先は、分からない。分からないけれど、行き着くかもしれない。

　瑠璃さんは、黙っていてくれれば、と言った。

　黙っているだけでは、足りない。澪はそう考えて、ここへ来た。

　星の間の日の三日前に、澪は瑠璃さんに言った。座っているだけが、いちばん難しい、と。今日は、その逆だった。立っているのは、難しくなかった。難しいのは、一言で済ませることだった。

　澪は、口を開いた。

「親が犯罪者であると知った二人はいなくなりました」

　応接が、静かになった。

　澪は、それ以上言わなかった。言うことは、それだけだった。

　大叔父の口が、少し開いて、閉じた。隣の一人が、何か言いかけて、やめた。三人目は、卓の上の自分の手を見ていた。

　親が犯罪者だと知った。だから、いなくなった。二人を追い出したのは、罪を犯した親たちと、その罪を七年余り黙って吸ってきたこの家だ。澪の一言は、ここに座っている大人たちへの断罪でもあった。

　世間は、それで納得する。新聞も、それで納得する。天導家の事件の、最後の一行として。罪人の娘と、罪人の息子が、恥じて姿を消した。それ以上の記事にはならない。

　探せば、その一行の続きが始まる。

　連れ戻せば、罪人の娘は、もう一度、本家の娘として帝都に戻ってくる。罪人の息子と一緒に。新聞は、それを書く。裁判が済んで、やっと静かになったものが、もう一度、騒がしくなる。

　澪は、それを口に出さなかった。口に出さなくても、この三人には分かる。三人とも、この家の名前を守るために、この卓に座っている人たちだった。

「……それだけか」

　大叔父が、ようやく言った。

「それだけです」

「行き先は」

　澪は、答えなかった。

　知りません、とは言わなかった。嘘は下手だった。瑠璃さんも、それを知っていた。嘘じゃなくていいです、と瑠璃さんは言った。

　澪は、黙って立っていた。

　長い沈黙だった。卓の端で、三村弁護士が、一度だけ目を伏せた。

「……捜索願は、出さん」

　大叔父が言った。

「探偵も、雇わん。本家の娘は、事件のあと、身を慎んで家を出た。それで話は済んでいる。済んだ話を、蒸し返す理由はない」

　隣の一人が、「しかし」と言った。

「済んでいる」と大叔父は繰り返した。

　澪は、頭を下げた。

　　＊

　本家の門を出て、澪は、しばらく歩いた。

　正門だった。瑠璃さんは、一年と少し前、ここではなく裏門から出ていったと聞いた。

　澪は、正門の前で立ち止まって、巾着を開けた。

　紙の袋の中の、最後のボーロを出した。小さくて、丸くて、少し焦げていた。瑠璃さんは焦げたのを売らなかったから、これはたぶん、紛れこんだのだと思った。

　口に入れた。

　甘すぎなかった。

　一年半前の十二月、星の間で、澪は父の名前を返してもらった。瑠璃さんの帳面がなければ、もっとずっとかかった。あのとき澪は、瑠璃さんに、何も返せなかった。

　今日、一つだけ返せた気がした。

　守る、というのは、隣に立つことだけではないのだと、澪は思った。黙っていることでも、いい。一言で済ませることでも、いい。探させないことでも。

　澪は、門の前から歩き出した。振り返らなかった。

　北のほうの空は、帝都の煤で、よく見えなかった。

## 二十歳の春――瑠璃

　四月二十日の朝の四時に、店の戸が鳴った。

　鳴らなくてもいいのに、と私は思う。一臣は、もう二階の襖の向こうで寝起きしている。わざわざ裏の小屋の窯に火を入れてから、表へ回って、店の戸を叩く。千鳥町の頃の癖だ。

「四時だ」

「四時です」

　一臣は、窯の焚き口の前にしゃがんだ。去年、一臣が広げて積み直した煉瓦の焚き口は、広くなって、背の高い人でも火が入れやすくなった。薪を左へ寄せる。右の奥は、この窯でもやっぱり熱い。

　私は、量りを出した。

　ボーロを百。蒸しパンを六十。船の菓子の生地を、缶に十二。マドレーヌを十二。今日は土曜ではないけれど、マドレーヌを焼く。売り物にしない一つを入れて、十三。

　今日、私は二十歳になった。

　　＊

　函崎の役場は、港の坂を下りきったところにあった。

　昼すぎ、店を大家の後家さんに頼んで、二人で坂を下りた。大家は、店番を頼むと、ふうん、と言って、前掛けを締めた。

「来年の春に、って言ってたね」

「今日が、その春です」

「ふうん」

　大家は、台の上の値札を眺めて、自分でボーロを一袋取って、一銭を缶に入れた。

　日曜で、役場の表は閉まっていた。裏の宿直の窓口で、紙を一枚もらった。

　一臣が、夫の欄を書いた。細い、右へ少しずつ上がっていく字だった。名前。本籍。生年月日。私は、妻の欄を、自分で書いた。

　後見人の同意、という欄があった。

　書かなくてよかった。二十歳になれば、要らない欄だった。その欄のために、私たちは帝都を出て、手のひらの形の港まで来た。紙の上では、空いたままの、細い一行だった。

　名字の欄を書くとき、私は少し笑った。

　天導。

　夫の名字も、天導だった。天導の分家の息子と、天導の本家の娘だった。どちらの欄にも、同じ名字が並んだ。

「何がおかしい」

「紙の上では、私、ぜんぜん止まってないなって」

「……止まっていない」

「天導瑠璃のままです。天導一臣の奥さんの、天導瑠璃」

　一臣は、書き終えた紙を、窓口に出す前に、もう一度見た。見て、少し考える顔をした。

「看板は、きりたにだ」

「看板は、きりたにです」

「では、それでいい」

　一臣は、紙を窓口に出した。

　宿直の人が、判を押した。

　それで、終わりだった。儀式らしいことは、何もなかった。十六の春に、本家の応接で書付を読み上げられたときより、ずっと短かった。

　役場を出ると、湾の上に霧が出はじめていた。

　一臣は、坂の下で立ち止まって、傘を開いた。雨ではなかった。霧が、細かい粒になって降りてきていた。

　一臣は、傘を傾けなかった。

　まっすぐ、二人の真ん中に差した。坂を半分も上らないうちに、一臣の左の肩と、私の右の肩が、同じくらい湿って色を変えた。

　十六の夏、夕立の庭で、この人は同じように傘を差した。どちらかだけを濡らさない。二人ぶんを、半分ずつ濡らす。

　私は、傘の柄に手を添えた。一臣の手の上に、私の手が重なった。どちらも、傘を傾けなかった。

　　＊

　世間から見れば、これは破滅なのだと思う。

　本家の跡取りだった娘が、北の端の港で、罪人の息子と、五つで一銭のボーロを焼いている。実の父は湖で死んで、母は帝都の獄にいて、十歳の朝に門を出た恭介さんは、今度は坂を振り返らずに下りていった。天導の家には、二度と戻れない。戻れば、罪人の娘と罪人の息子として、帝都の新聞に、もう一度名前が載る。

　母には、年に一度、三村を通して手紙を出している。菓子を焼いていること。元気でいること。それだけを書く。

　返事は、来ない。

　澪には、季節ごとに、船の菓子を一缶送っている。差出人の名前は書かない。缶の蓋に、貝の絵を一つ描くだけだ。

　澪からも、返事は来ない。

　来ないのが、澪の返事だと思っている。探さないでください、と私は頼んだ。澪は、探さない人だった。誰にも、探させない人だった。去年の六月から、坂の下に、帝都から来た見慣れない人が立ったことは、一度もない。

　ときどき、湾に南から船が入る。そういう日は、私は台の前で、戸口のほうを少しだけ多く見る。

　あの作業着の客は、あれから一度も来ていない。

　それでいい、と思っている。あてにしない、と決めたのは私だった。あの人も、たぶん、そう決めている。

　　＊

　夜、二階の六畳で、ノートを開いた。

　今日の売上を書いた。ボーロ、蒸しパン、船の菓子、マドレーヌ。仕入れを書いた。残りを書いた。

　右下の隅は、空いていた。

　十二月十八日に七百三十から始めて、一日に一つずつ減らしていった数は、二百二十一で止まった。その先は、数える必要がなくなった。

　会える日を数えなくていいのは、毎日、会えるからだ。

　祖母の配合表には、数えないでいい欄が一つもなかった。粉も、砂糖も、卵も、バタも、全部グラムで書いてあった。数えないでいい欄を一つ持ったのは、私が初めてだと思う。

　余白に、貝の形を描いた。筋を五本、扇の形に引いた。

　それから、売り物にしなかった十三個目のマドレーヌを、半分に割った。

　半分を、火鉢の向こうに差し出した。一臣は、『北方回航記』から目を離さずに、それを受け取った。受け取って、齧って、粉が膝に落ちた。

　一臣は、頁から目を上げて、膝の粉を見た。

「これは、本が汚れる」

「本の菓子じゃないので」

「……そうだった」

　一臣は、本を閉じた。閉じて、膝の横に置いて、残りのマドレーヌを両手で持って、食べた。

　見たことがない、と書いてきた菓子だった。十二の年に。

　　＊

　朝の四時に、店の灯りをつける。

　祖母がそうしていたからではない。四時に始めないと、七時の坂の人通りに間に合わないからだ。

　量りを出す。粉を量る。針が、決めた目盛りで止まる。止まるのを見て、朝が始まる。

　裏の小屋で、薪のはぜる音がする。右の奥が熱くなりすぎないように、誰かが薪を左へ寄せている。

　私は、天導瑠璃を止めた。

　紙の上では、止まっていないらしい。それでも、坂の上の看板には、きりたに、と書いてある。細い、右へ少しずつ上がっていく字で。

　世間から見れば破滅で、私たちにとっては、朝の四時だった。

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# 第三編　0歳転生編

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# 第一章　十歳の部屋

　日曜の買い物帰り、コンビニで肉まんを買った。袋の口を握って歩くと湯気が指にあたって、それが嬉しいくらいには、私は普通に生きていた。

　部屋は六畳と台所。壁際に折りたたみの机、その上に会社の鞄と、充電したままのゲーム機。ベッドに座って肉まんを食べ、インスタントの味噌汁を一杯飲んだ。二十七歳の、九月最後の日曜日。仕事は事務で、忙しいのは月末だけで、今月の締めの山は金曜に越していた。恋人はいない。休日に誰かを誘うことも、めったにない。誘われることは、ときどきある。

　スマホが鳴った。同じ課の北原さんだった。

『瑠璃花さん、辛いの平気でしたっけ？　駅前にできた麻辣の店、来週の水曜どうですか』

　私は肉まんを皿に置いて、両手でスマホを持った。

　行きたかった。北原さんは笑う声が大きくて、話していると、こちらまで声が大きくなる。私はその時間が好きだ。辛いものも食べられる。来週の水曜には何の予定もない。

　なのに、指が止まった。

　水曜に着ていく服がない、と思った。会社の服のまま行くのは変だろうか。変ではない。でも北原さんはたぶん一度帰って着替えてくる。私が会社の格好で行ったら、誘われても嬉しくなかったのかと思わせるかもしれない。それに、店で二時間、何を話すのだろう。北原さんは話題を出してくれる人だけれど、こちらからも出さないと、いつか誘うのをやめる。三回誘って三回とも続かなければ、人は誘うのをやめる。私はそれを知っている。知っているのに、その三回目が怖くて、一回目から逃げる。

『わあ、麻辣いいですね！　ただ来週ちょっとバタバタしそうで……次はぜひ！』

　送ってから、天井を見た。

　北原さんに「次はぜひ」と返すのは、これで二回目だった。一回目は七月の、焼き鳥の店だった。ほかのことはすぐ忘れるのに、この回数だけは、いつもきちんと覚えている。

　来週はバタバタしない。次があるかどうかは、もう私が決めることではなくなった。北原さんが決める。私はそれを待つ。待っているあいだに、たいていのことは終わる。

　既読がついて、猫が両手で丸をつくっているスタンプが来た。それで終わりだった。

　＊

　ゲーム機を取った。電源を入れると、いつもの帝都の空が出る。桜と洋燈の意匠、始まりの三音。『帝都恋綺譚』。三年前に買って、これが七周目だった。

　主人公は小野澪という奨学生で、湖の別荘の番人の娘だ。攻略できるのは三人。分家の跡取りの天導一臣、医者の息子の蘆田慎、新聞記者の早瀬遼。三人のうち誰がいちばん好きか、と訊かれたら、私は答えられない。答えられないから七周した。

　甘いだけのゲームなら、七周もしなかったと思う。どのルートも、後半になると、恋の下から湖の事件が顔を出す。そしてその事件のいちばん奥に、悪役令嬢の天導瑠璃がいる。転入してきた澪や、小暮という下級生を虐める子だ。

　物語が始まる六年前、瑠璃が十歳の夏に、天導家の当主の宗一郎は湖の別荘で死んでいる。お盆の灯籠流しの夜に瑠璃がいなくなり、宗一郎は探しに出て、桟橋ごと湖に落ちた。十八歳の成年披露の夜、澪がその真相を明かす。主犯は伯父で、瑠璃の母は兄に命じられて、十歳の娘を薬で眠らせ、舟屋に置いた。瑠璃はその母をかばって、十七の冬に母の帳面を焼いていた。虐めと、焼いたことを一つずつ数え上げられて、瑠璃は全部を失う。

　最後の場面は、屋敷の門の外だ。荷物を一つだけ持った瑠璃の前に、作業着の男が立っていて、名乗らずに「送っていこうか」と言う。「……あなた、誰」と瑠璃が訊くと、男は「昔、あなたを抱いていた者だ」と答える。

　そこで私はいつも泣く。あの子は十歳で眠らされて、暗い舟屋に置かれた子だった。そのことを、ゲームの中で口にする人はいない。

　今夜も泣いた。エンディングの歌が終わって、画面が暗くなるまで見て、そのままベッドに倒れた。

　電気を消して、目を閉じた。麻辣、と思った。次はぜひ、と自分が打った文字を思い出した。

　ぜひ、って何なんだろう。

　＊

　枕が濡れていた。

　目が覚めて最初の一秒、私は泣きながら寝たのだと思った。次の一秒で、枕が違うと気づいた。硬い。頭を動かすと蕎麦殻が鳴る。麻の匂いがする。

　喉の奥に、言葉の尻尾のようなものが残っていた。自分が言い終えたのではない言葉。

　――……なければ、よかった。

　誰の声か分からなかった。私の声ではなかった。

　身体を起こした。腕が短い。持ち上げた腕に重さがなくて、勢いあまって布団に手をついた。天井が高い。黒い梁が見える。窓が縦に長く、外は明るい。蝉が鳴いている。朝ではなかった。日はもう高い。

　立ち上がると、膝が軽かった。走り出せそうな軽さ。自分が子どもだったころ、こういう軽さだったのかどうか、もう覚えていない。

　部屋の隅に鏡台があった。近づいて覗いた。

　十歳くらいの女の子がいた。黒い髪を肩で切りそろえて、目のかたちがきつい。頬にまだ丸みがある。泣いたあとの目をしている。

　天導瑠璃だった。

　ゲームの立ち絵より幼い。でも間違えようがない。眉の角度も、口の端の下がり方も、七周のあいだ何度も見た顔だった。

　鏡台の上に、紙が一枚あった。学院の夏休みの予定表で、今日の日付に鉛筆で丸がしてある。八月十五日。翌日の欄に「始業」。誕生日は四月二十日だと、ゲームの設定資料集で読んだ。この子は今年の春、十歳になったところだ。

　八月十五日。十歳。

　背中が冷たくなった。

　湖の事件の日だった。天導瑠璃が十歳の夏の、お盆の灯籠流しの夜。宗一郎は今夜、桟橋ごと湖に落ちる。

　私は窓に飛びついた。

　外は湖ではなかった。瓦屋根がどこまでも続いて、そのあいだに電柱の線が渡っている。遠くに煙突が見えた。星見荘ではない。帝都の屋敷だ。

　ここにいたら、湖に間に合わない。――そう思ってから、何に間に合うつもりなのか、自分でも分からなくなった。十歳の足で、どこへ行くのか。誰に、何と言うのか。今夜あなたは桟橋から落ちます、と、会ったこともない人に。

　分からなかった。ただ、今夜、人が一人死ぬ。それだけは知っていた。

　廊下から足音がした。

「瑠璃」

　女の人の声だった。低くて、はっきりしている。

　私は息を止めた。返事をしなければ、と思った。返事をしなければ誰かが入ってくる。入ってこられて、この中身が違うと知られたら――知られたらどうなるのかも分からないのに、怖かった。

「はい」

　自分の口から出た声が高くて、驚いた。

「起きたのなら、仏間へ来なさい」

　足音が遠ざかった。

　私は鏡の中の女の子を見た。この子が昨日まで何を考えていたのか、私には何も分からなかった。記憶が流れ込んでくることも、頭の中に誰かの声がすることもなかった。あるのは、あの「……なければ、よかった」という尻尾だけだった。

　この子はどこへ行ったのだろう、と一度だけ思った。答えは鏡の中にはなかった。

　＊

　仏間には珈琲の匂いがした。

　仏壇のある部屋で珈琲を淹れる人を、私は初めて見た。母――天導藤乃は、白っぽい薄物の襟を正して座っていた。細身で、座っていても背の高さが分かる。切れ長の目は、さっき鏡で見た目と同じ形をしていた。茶托の上に、小ぶりの白い碗が二つ。一つは母の前に、一つは仏壇の前に置かれている。仏壇の前のほうは、手をつけられないまま湯気を失いかけていた。

　三十四歳のはずだった。ゲームの回想の立ち絵より、痩せている。珈琲の匂いの下に、母の着物から来る甘い香の匂いがあって、そのさらに下に、古い甘さが薄く混ざっていた。お酒だ、と分かった。昨夜のものか、今朝のものか。

　仏壇の横に、写真が掛かっていた。三十を少し過ぎたくらいの男の人。痩せた顔で、穏やかに口を結び、少しだけ笑いかけている。若いのに、こめかみに白いものが混じっていた。

　天導宗一郎。

　写真だった。仏壇の横の、黒い縁の。

　ゲームでは、物語が始まったときにはもう死んでいる人だった。事件のすべての中心にいて、一度も喋らない人。今夜死ぬはずの人が、もう写真になっている。

　私は座った。座り方が分からなかったので、母を真似た。すぐに膝が痛くなった。

「今日で六年です」と母は言った。「宗一郎さまが、湖でお亡くなりになって」

　六年。

　私は膝の上で、指を折りかけた。十から六を引く。四。

　四つ。

　ゲームでは、十歳だった。天導瑠璃が十歳の夏に、宗一郎は湖で死ぬ。物語が始まるのはその六年後だ。七周のあいだ、私はずっとそう読んできた。設定資料集の年表にも、そう書いてあった。

　ここでは、事件はこの子が四つの夏に、もう終わっている。

　母は自分の碗を置いた。音を立てない置き方だった。

「瑠璃。今朝は話の途中で部屋へ戻ってしまいましたね。泣いて済むことではありません。あなたも十になったのだから、最後まで聞いておきなさい」

　今朝、この子は何の話を聞いたのだろう。何を言って部屋へ戻ったのだろう。私は訊けなかった。訊けば、それを知らないことが知られる。濡れていた枕も、喉に残っていたあの尻尾も、きっとその話のあとのものなのだろう、とだけ思った。

「あなたがパパと呼んでいた人はね」と母は言った。「あなたを差し出して、この家を出ていったの」

「……差し出した？」

「あの夜、あの人は湖にいなかった。いるべきときに、いなかった。宗一郎さまを死なせた夜にそばにいなかった者を、天導は置いておけません。あの人は言い訳をしなかった。家を離れる代わりに、あなたを天導へ置いていくことを承知した。だからあなたは、宗一郎さまのお決めになったとおり、本家の子として育っている」

　母の声には、震えがなかった。平らだった。平らなぶん、聞いている側がどう受け取るかまで決めてあるように聞こえた。

「わたしを、いらないって言ったの」

「そうは言わなかった。ただ、置いていった」

　母は仏壇の前の碗を見た。

「宗一郎さまは、珈琲がお好きでした」

　それだけ言って、母はしばらく何も言わなかった。

　私は膝の上で、自分の小さな手を握った。

　筋は、ゲームで読んだとおりだった。瑠璃は宗一郎の遺した書面で本家の養女になり、父親は家を出た。そしてTRUEルートでは、この人は兄に命じられて、娘を薬で眠らせた人だ。

　年だけが違う。ゲームの瑠璃は十歳で眠らされた。この家の瑠璃は、四つで眠らされたのだ。

　どうしてずれているのか、考えても分からなかった。私の覚え違いではない。七周した。年表まで読んだ。それでもここでは、六年、早い。

　ずれているのは、そこだけなのだろうか。ほかにも、ゲームと違うところがあるのだろうか。

　目の前にいるのは、珈琲を二つ淹れて、一つには手をつけない人だった。

　そして宗一郎は死んでいる。六年前に死んだ人は、私がここでどれだけ良い子にしても、帰ってこない。

　そのことに気づいて、私は初めて本当に怖くなった。さっき窓に飛びついたとき、私は、間に合うかもしれないと思っていたのだ。十歳で目を覚ましたのだから、せめて事件の前だろうと。

　ここは、頑張れば皆が助かる物語の途中ではなかった。もう終わってしまったことの、あとだった。

　＊

　自分の部屋へ戻ると、机の上に石盤があった。学院で使うものらしい。黒い石の板に、白い蝋石で字が書ける。

　書きかけの字があった。

　「パパは　かえってくる」

　子どもの字だった。ゆっくり書いた字だ。「かえってくる」の「る」だけ、線が長く伸びている。

　私は布で消した。右手で持って、右から左へ。消してから、どうして消したのか分からなくなった。誰かに見られたら困ると思ったのだ。誰に。

　石盤を傾けると、縁に白い粉が溜まっていた。板の左側だけが、こすれて曇っている。左手で書いて、手の側面が字の上を通れば、こうなる。私は右利きだ。この石盤に字を書いていた子は、左利きだったのだ。

　廊下に出ると、白髪まじりの男の人が立っていた。

「お目覚めでしたか、お嬢様」

「あなたは」

「佐伯でございます」

　家令の佐伯。ゲームでは、養女指名の書面に使われた印のことを証言する人だ。ここでは、私の顔を見て一歩だけ近づいてくる、背の高い人だった。

「佐伯さん。おじさまが亡くなったとき、わたし、いくつでしたか」

　佐伯は少し眉を動かした。

「四つでございました。お誕生日を過ぎて、四つの夏で」

「……そう」

　四つだった。私の聞き違いでも、母の数え違いでもなかった。

「それから、あの、恭介さんは、いまどこにいますか」

　佐伯の顔が、一瞬止まった。

「……お父上のことは、奥様にお尋ねになるのがよろしいかと」

「佐伯さんは知らないんですか」

「存じませんと申し上げるのが、正しゅうございます」

　それは、知らないという意味ではなかった。言えない、という意味だった。

　押入れに写真帖があった。革の表紙で、綴じ糸が緩んでいる。開くと、最初の頁に赤ん坊がいた。次の頁に、赤ん坊を抱いた男の人がいた。大柄で、日に焼けた顔。顎に無精ひげが残っていて、作業着の襟がよれている。赤ん坊を支える指が太い。笑い方が下手で、写真のために作った顔だと分かる。

　赤ん坊の左手が、その人の指を握っていた。石盤の曇りと同じ側の手だ、と思った。

　ゲームの最後に門の外に立っていた人だ。昔、あなたを抱いていた者だ、と言った人。

　私はしばらく、その写真を見ていた。

　これは借りた身体だ。私はこの人たちの誰でもない。写真の赤ん坊でもない。分かっていた。分かったうえで、私はまだ少し、わくわくしていた。

　この身体は軽い。ここには学院がある。慎がいる。遼がいる。一臣もいる。画面越しに見ていた人たちが、どこかで生きて歩いている。二十七歳の私が水曜の麻辣を断ったのと同じ人間でも、ここでなら、あるいは。

　そう思った自分を、私は消さなかった。

　＊

　夜、眠れなかった。

　布団の中で梁を数えた。五本まで数えたところで、帰りたい、と思った。

　麻辣の返事を書き直したかった。月曜の朝、給湯室で北原さんに会いたかった。やっぱり水曜行きます、と言いたかった。私の部屋の、充電したままのゲーム機。あれが、帰り道のように思えた。

　目を閉じて、タイトル画面を思い浮かべた。

　桜と洋燈の意匠。始まりの三音。その下に並ぶ、見慣れた文字。

　何も出なかった。

　瞼の裏は暗いままだった。もう一度、今度は文字の形まで細かく思い描いた。つづきから。はじめから。何度も押したボタンの感触まで思い出そうとした。出なかった。目を開けて、天井に向かって思い描いた。声に出して「タイトル」と言ってみた。子どもの声が、梁のあいだで小さく消えた。

　庭で虫が鳴いていた。廊下を誰かが歩いていった。世界は止まらずに、私をここに置いたまま続いていた。

　十回ほどやって、やめた。

　帰り道はない。少なくとも、私には見えない。

　泣いた。声を出すと誰かが来るので、枕に顔を押しつけて泣いた。この枕は、今朝もこうやって濡れていたのだと思った。

　泣き終わると、少し頭が冷えた。冷えた頭で、私は並べた。仕事で締めの前にやるのと同じように。

　八年後、この子は十八の成年披露で断罪される。ゲームのとおりなら、理由は三つある。学院での虐め。母の帳面と三村の封書を焼いたこと。それから、誰も口に出さなくても皆が知っている一つ――瑠璃は、宗一郎が死んだことでいちばん得をした子だということ。

　最後の一つは、私にはどうにもできない。六年前に終わっている。

　今朝、窓に飛びついた自分を思い出した。今夜のはずだった。ゲームのとおりなら、今夜なら、まだ何かできたかもしれない。十歳の足で何ができたのかは分からない。それでも、あれは「間に合うかもしれない」と思えた最後の時間だった。十歳からでは、もう遅い。

　それでも、残りの二つは、まだ起きていない。

　一つ目の手。ゲームの瑠璃と同じように、証拠を消す。帳面がどこにあるのかを見つけて、誰よりも先に燃やす。そうすれば母は捕まらないかもしれない。でもそれは、あの子が十七でやったことだ。そして、人が死んだことを隠す側に、自分の手で入ることだ。桟橋の番人は、名前を汚されたまま死んだ。その娘が、いつか学院に来る。私は彼女の返事を七周ぶん選んできた。

　やめた。

　二つ目の手。逃げる。この家を出る。十歳の身体に、お金はない。行き先もない。この世界の地図も、汽車の乗り方も知らない。父がどこにいるのかは、佐伯が言えないと言った。ゲームでは遼が南のどこかの港まで探しに行ったけれど、町の名は一度しか出てこなくて、私は覚えていない。

　汽車に一晩揺られて、着いたら大人になっていた、というようなことでも起これば別だけれど、そんなことは起こらない。起こったら、それはそれで困る。

　これも、やめた。

　三つ目の手。良い子でいる。小暮さんを虐めない。澪が来ても虐めない。そして、焼かない。帳面は、ゲームの瑠璃が十七で燃やしたのだから、それまではこの家のどこかにある。私が自分で見つけて、自分で持っておく。燃やさずに持っていれば、いつかそれを出す日が来る。いつ出すかは、そのとき私が決めればいい。

　それにした。

　決めてから、理由を確かめた。

　一つ目は、はっきりしていた。画面の前で泣いた、あの子のことだ。眠らされて、十八で全部を数え上げられて、門の外で「あなた、誰」と言った子。この子を、断罪されない十八歳にしてあげたい。それは私がこの三年、七回、思ったことだった。

　二つ目は、うまく言葉にならなかった。

　仏間で、母の声は一度も震えなかった。人を死なせる手伝いをした人の声が、あんなふうに平らでいられるものだろうか。それとも、平らにしておかないと崩れる何かがあるのだろうか。手をつけない珈琲を、仏壇の前に一つ置く人。私には分からなかった。分からないまま、あの人が警察に連れていかれるところを思い浮かべると、胃が縮んだ。

　今日初めて会った人なのに。

　どちらにしても、この子の母だ。帳面を焼かずに自分で持っておけば、それをいつ、誰に出すのかも私が決められる。この人が連れていかれる日を、少なくとも私の手で早めずにすむ。二つ目の理由は、たぶんそういうことだった。私はそれ以上考えるのをやめて、目を閉じた。タイトル画面は、もう思い浮かべなかった。

　＊

　翌朝、学院の門で、皆が退いた。

　馬車を降りて石畳に足を置いた瞬間、正面にいた三人の女の子が横へ寄った。避けたというより、道を空けた。よく躾けられた動きだった。誰も私を見なかった。見ないようにする、ということを十人ぐらいが同時にやると、空気の温度が下がる。

　教室でも同じだった。私の席の左右は空いていた。授業のあいだ、教師は私を三度あてた。三度とも、答えられるように易しい問いだった。

　昼、下級生の組の前の廊下で、小柄な子とすれ違った。眼鏡をかけて、教科書を胸に抱えている。名札に「小暮」とあった。

　ゲームの中で、天導瑠璃が階段で突き飛ばした子だ。持ち物を庭に捨てられた子だ。回想の一枚絵でしか出てこない。

「あの」と私は言った。

　小暮さんの肩が跳ねた。

「この前は、ごめんなさい」

　この前というのが、いつのことか私は知らない。何をしたのかも知らない。それでも、この子に謝るべきことが、この身体にはある。

　小暮さんは私を見た。眼鏡の奥の目が、みるみる潤んだ。そして教科書を抱えたまま、走って逃げた。

　私は廊下に立っていた。

　許してもらえたと思うな、と自分に言った。あれは赦しではない。恐怖だ。私は謝って自分が軽くなろうとして、この子をもう一度怖がらせた。昨夜決めた「良い子」は、私が決めただけで、この子にはまだ何の関係もない。

　午後の授業で、後ろの席の子が消しゴムを落とした。私の椅子の下まで転がってきた。拾って渡すと、その子は「ありがとうございます」と言った。とても小さな声だった。

　その「ありがとうございます」を、私は帰りの馬車で三回思い出した。

　三回思い出してから、自分に呆れた。消しゴムを拾って礼を言われただけだ。それを三回思い出す二十七歳が、ここにいる。

　でも、それが今日いちばん良かったことだった。

　窓の外を、知らない街が流れていった。石畳と、洋燈の柱と、看板の文字。読める文字と、読めない文字が混ざっている。この世界の暮らしを、私はまだ何も知らない。

　＊

　屋敷に戻ると、女中のフミが髪を梳いてくれた。六十近い人で、手つきがゆっくりしている。

「お嬢様、今日はお静かでいらっしゃいますね」

「フミさん。わたし、灯籠って見たことある？」

　どうしてそんなことを訊いたのか、自分でも分からなかった。仏間の二つの珈琲と、写真帖の左手と、石盤の「かえってくる」が、頭の中で混ざっていた。

「まあ」とフミが手を止めた。「お忘れですか。四つのときに、湖でご覧になったでしょう」

「……覚えてない」

「そうでしょうねえ。あんなことがあった年ですから。でもお嬢様は、帰ってからひと月ばかり、灯籠のお話ばかりなさいました。青いのが一つあった、あれは誰のだった、あれはどこまで行くの、と」

「青い？」

「青みがかった白でしょうか。ほかは橙でしたのに、一つだけそういう色だったと。何度もおっしゃるので、こちらも覚えてしまいました」

　フミは櫛を置いて、私の髪の分け目を直した。

「お嬢様のお話は、いつも同じところで止まるのです。あれはどこまで行くの、と。行き先だけは、誰も答えられませんから」

　鏡台の上に、銀の星の髪飾りがあった。今朝、母が「今日はつけていきなさい」と言って挿したものだ。

　私はそれを裏返した。

　「瑠璃へ」

　小さく彫ってある。それだけ。

　フミが横から覗いて、「旦那様が、お生まれになる前にご用意なすったものです」と言った。

「生まれる前？」

「ええ。まだ男か女か分からぬうちに、銀細工屋へ注文なさったと聞いております」

　旦那様というのが誰のことか、私は訊かなかった。この家でフミがそう呼ぶ人は、仏間の写真の人だろうと思った。

　私は星を指で撫でた。冷たかった。

「お生まれのときも、よい泣き声でした。すぐに泣いてくだすって、産婆さんが笑っておられましたよ」

　フミは、鏡の中の私にそう言った。

　夜、私は明日の授業の本を開いた。教科書の三十二頁から。読んでも頭に入らなかったが、それでも一頁ずつ進めた。

　この身体は借り物だ。この家には嘘がある。六年前の人は死んでいる。ゲームの年表は、ここでは六年ずれている。帰り道は見えない。全部そうだ。

　それでも、明日また学院へ行く。誰かと話せる人になろう。麻辣を断った私が、ここで一度くらい、はい行きますと言える人になれるかもしれない。

　私はそう思って、教科書に指を挟んだまま眠った。

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# 第二章　良い子の勘定

　家庭教師の川口先生は、水曜と土曜の午後に来た。

　十歳の秋、最初の朗読で、私は失敗した。『海国志』の序という文章で、旧い言い回しばかりが並んでいる。読点の位置を間違えて、意味の切れないところで息を継いだ。二行目でつかえ、三行目で止まった。

　先生は待った。私はもう一度頭から読もうとして、また同じところで止まった。顔が熱くなった。二十七歳の人間が十歳の教科書につかえている、と思うと余計に喉が詰まった。

「お嬢様」と川口先生が言った。「今日はここまでにいたしましょうか」

「いいえ」

　自分でも驚くくらい早く出た。

「もう一回、読ませてください」

　先生は少し目を丸くして、それから紙を私のほうへ寄せた。

「では、息を継ぐところに、私が薄く印をつけます。印の場所で吸ってください。意味は、印のとおりに切れます」

　私は三度目を読んだ。印の場所で吸うと、文章がすっと通った。最後まで読み切ったとき、自分の声が部屋の中でちゃんと形を持っているのが分かった。

「よく通るお声です」と先生は言った。「急がずにお読みになれば、聞くほうも楽です」

　私は嬉しくて、その日は夕食まで自分の部屋で同じ文章を三回読んだ。

　この身体でうまくできたことは、それが最初だった。

　＊

　良い子でいる、と決めたのだから、何をするかを書き出しておこうと思った。

　石盤ではなく、帳面を一冊おろした。一行目に何を書くか迷った。こういうものは一行目に日付と場所を書くのだ、と誰かが言っていた気がした。誰だったかは思い出せない。ときどき、見たことのない夢を見る。罫線のノートを膝に置いて、一行目に必ず日時と場所を書く女の人の夢だ。その人は何でも表にする。時刻と、人と、証拠を。

　私は一行目に日付を書いた。二行目に「帝都　本家　自室」と書いた。三行目に「一、小暮さんに謝る（済）」と書いた。

　四行目で、何を書けばいいのか分からなくなった。

　帳面を閉じた。夢の人は、たぶん私よりずっと頭がいい。私は表を作ると、表を作ったことで安心して、中身を考えなくなる。会社でもそうだった。

　帳面は、それきり引き出しの奥に入った。

　＊

　冬になるころには、朝、昇降口で「おはようございます」と言うと、二人か三人が返してくれるようになった。下級生の小暮さんもそのうちの一人だった。彼女は目を合わせない。合わせないまま、小さな声で「おはようございます」と言って、すぐ自分の組の靴箱へ行く。

　それでよかった。彼女が返してくれるのは、私が怖くなくなったからではなく、返しても大丈夫だと思えるようになったからだろう。私にはその区別がついていた。ついていて、それでも、返事が返ってくると足取りが軽くなる。

　ゲームの瑠璃は、この子を階段で突き飛ばした。この身体の十歳までのあいだに、たぶん何かをした。私はそれを知らない。知らないまま、毎朝同じ時刻に同じ言葉を言った。八年後の断罪の席で読み上げられるはずの行を、一行ずつ減らしているつもりだった。

　礼儀正しくすると、生活が楽になった。使用人が私に話しかけてくれる。教師が私の名前を呼ぶ。母がときどき褒める。

　ある日、廊下でフミが盆を落として湯呑を割った。私は屈んで破片を集めるのを手伝った。フミは恐縮して、その週のあいだずっと私に甘くしてくれた。夜、寝る前に、私はその甘さを思い出して、少しいい気分になった。

　それから、こう思った。

　あと何回か手伝ったら、フミに恭介の居場所を訊いても答えてくれるだろうか。一回、二回――

　数えかけて、やめた。自分に嫌な気がした。嫌な気はしたが、その考えを捨てはしなかった。

　＊

　十一歳の春、佐伯から住所を得た。

　得た、というより、三月かけて少しずつ削り出した。年始の書状の宛名書きを手伝わせてもらい、返礼の整理を手伝い、古い名簿の綴じ直しを手伝った。何度目かに、私は言った。

「佐伯さん。お父様に、お手紙を書いてはいけませんか」

　佐伯は名簿を閉じた。長く黙っていた。それから、紙に鉛筆で書いた。

「南浦の、蓬田造船という所へ、三年前に人が入ったと聞いております。同じ人かどうかは存じません」

　私は「ありがとうございます」と言った。佐伯は何も言わなかった。

　その晩、便箋を出した。

　書き出しで一時間かかった。

　「パパへ」と書いて、消した。私の口はその言葉を出せなかった。二十七年ぶんの私は、この人の娘ではない。この人の娘だった子が、いまどこにいるか、私には分からない。呼びかけても、声は返ってこない。それでも、この人に読んでほしいものを書くなら、あの石盤の言葉を借りるしかない気がした。

　結局、こう書いた。

『お父様
　瑠璃です。十一になりました。
　わたしの部屋の石盤に、まえに書いた字がのこっていました。「パパは かえってくる」と書いてありました。
　わたしはそれを消してしまいました。ごめんなさい。
　でも、消したことを、あなたに知らせておきたいと思いました。
　お元気ですか。お仕事はどうですか。お返事がなくてもかまいません。
　瑠璃』

　三度書き直した。四度目を封に入れた。

　翌朝、切手を貼ろうとして、母に見つかった。

「何を出すの」

「……お父様に」

　母は封筒を手に取った。宛名を見た。表情は動かなかった。

「南浦」

「はい」

　母は封筒を袂に入れた。

「出しておきます」

「自分で出せます」

「あなたが郵便局へ行くのは、まだ早い」

　母はそう言って、行った。

　返事は来なかった。

　夏に二通目を書いた。母に渡した。秋に三通目を書いた。母に渡した。冬に四通目を書いた。母に渡した。

　五通目のとき、私は宛名の下に小さく「南浦 蓬田造船気付」と書き足した。母は何も言わずに受け取った。

　返事は、一度も来なかった。

　私は、あの人はもう私のことを考えていないのだと思った。ゲームの最後に門の外で待っていた人が、十一歳の娘の手紙に一度も返事をしない。ゲームは、そこまでは描いていなかった。差し出して出ていった人なのだから、そういうものなのだと思った。母がそう言ったからではなく、五通とも返事がないという事実からそう考えるのが自然だった。

　ただ、そう考えたときに胸の奥が痛んだので、私はまだこの家の子ではないなと自分で思った。

　＊

　同じ年の五月、母が布を選びに連れて行ってくれた。

　母は、その日は藤色に金の入った着物を着ていた。仏間の薄物とは別人のようだった。華やかな色を着ると、この人は背がもっと高く見える。

　呉服屋の座敷に反物が並んで、番頭が次々に広げる。母は私の顔の下に布をあてて、光の向きを変えた。

「これは駄目。顔が黄色く見える」

「はい」

「これも駄目。子どもに見せる色ではない」

　母は五本ほど却下してから、藍と、その隣の、少し緑がかった青を並べた。

「瑠璃。こちらとこちら、どちらが好き？」

　私は緑がかったほうを指した。理由はなかった。ただ、見た瞬間にそちらへ目が行った。

　母はしばらくその布を見ていた。

「あなたは目がいい」と母は言った。「その色はね、瑠璃という色に近いの。染屋が一番手を抜けない色よ」

「そうなんですか」

「あなたに似合う。よく似合う」

　母は番頭に反物を頼んだ。帰りの馬車で、母は窓の外を見ていた。私は膝の上に手を置いて、さっきの言葉を頭の中でもう一度再生していた。

　あなたに似合う。

　ここへ来て、九か月になる。誰かに似合うと言われたのは、そのあいだで初めてだった。

　この人はもう人を死なせる手伝いをした。私がここへ来る前に。私はそれを、ゲームで知っている。

　知っていて、その日の午後が嬉しかったことは、本当だった。私はその午後を、胸の中で取り消さなかった。取り消せなかった、というほうが正しいかもしれない。

　＊

　十二歳の夏、母に珈琲の淹れ方を教わった。

　仏間ではなく、母の居間だった。豆を挽く道具は宗一郎が外国から持ち帰ったものだという。母は挽き方を細かく指示した。粗すぎると薄い、細かすぎると苦い、その中間はここ、と、母は挽き終わった粉を私の掌に少し出して見せた。

　二人ぶんを淹れて、飲んだ。私が淹れたほうは薄かった。

「薄い」と母は言った。

「すみません」

「でも、湯の落とし方は上手。次はもう少し豆を増やしなさい」

　母は窓のほうを向いて、しばらく黙ってから、言った。

「宗一郎さまは、この道具を私に置いていったの」

「おじさまが」

「ええ。私の従兄。小さいころから、本家へ行くと一緒に遊んだ人です」

　母の声が、いつもより低かった。

「私の兄――貞光は、八年前の親族会で、私を後見人にしなかった」

　私は湯呑を置いた。

「あなたの後見人は、本来なら母親であるべきでしょう。それが取られた。兄が親族会に手を回して、自分が後見人になった。この家の帳簿も船も、いま全部あの人が握っている。私は自分の娘の学費の額さえ知らされないの」

「どうして」

「私に血がないから。私の生まれた家は、三代前に養子で入った天導の分家です。初代の血がない。だから、この家では私は最後まで客なの」

　母は珈琲を飲んだ。

「宗一郎さまには、百合子さまという奥様がいらした。お身体の弱い方でね。あなたが二つの冬に、お亡くなりになった」

　私は黙って聞いていた。

「その翌年の暮れに、あの人は静子さんという方と婚約なさった。久我様のお嬢さんで、お若い、家の決めた方。婚礼は、あなたが四つの年の十月のはずでした」

　母は碗の縁を指でなぞった。

「百合子さまがいらしたあいだは、選べないのだと思っていた。いらっしゃらなくなっても、あの人は私を選ばなかった。あの人はそういう人。人を傷つけないつもりで、決めないの」

　私は母の横顔を見ていた。

　ゲームにも、その一行はあった。宗一郎は病身の奥様を二年前に亡くし、秋には次の人との婚礼が決まっていた。ゲームでは、奥様が亡くなったのは瑠璃が八つのときで、事件は十歳の夏だった。ここでは、二つの冬と、四つの夏。奥様の死のあとに再婚が決まり、秋の婚礼を待たずに事件が起きる。その順序は同じだった。

　婚約と事件が、六年早い。

　ずれているのは事件だけではなかった。奥様が亡くなるところから、もうずれている。なぜそうなのかは、母の話からは分からなかった。

　そして、この人は、宗一郎を愛したままだ。選ばれなかった相手を、八年経っても愛したままで、その相手を死なせる手伝いをした。私はそう知っている。

　でも、いま母が語っているのは、兄に踏みつけられた女の話だった。

　――従わされたのだ。

　私はそう解釈した。

　ゲームでもそうだった。主犯は伯父で、母は兄に命じられて娘を眠らせた。いま目の前で、母は兄に後見を奪われた話をしている。二つはきれいに重なった。母は分家の家で育って、血がないと言われ続けて、兄に後見権を奪われた。あの計画も、たぶんこの兄が主で、母はそこへ引き込まれた。そう考えると、この人の弱さと、あの犯罪が一本につながる。

　つながると、私は楽になった。

　楽になったついでに、もう一本の線が引けた。

　帳面を見つけても、母は守れる。

　ゲームの澪が伯父を告発するとき、母の帳面さえ表に出なければ、罰を受けるのは伯父だけで済むかもしれない。母は従わされただけなのだから、それでいい。帳面は燃やさない。燃やせば、ゲームの瑠璃と同じになる。ただ、出す時期を、私が選ぶ。伯父が裁かれたあとでも、出さなくていいなら出さない。

　私はその夜、布団の中で、その線を何度もなぞった。なぞるたびに、線は太くなった。

　母が語ったのは、母の話でしかなかった。母がいつ何を知らされていたのか、母が誰の案で動いたのか、それを裏づけるものを、私は一つも持っていなかった。そのことは、布団の中でも分かっていた。分かっていて、私は自分が楽になれる解釈を選んで、それを事実の場所に置いた。

　＊

　十三歳の春、天導一臣が庭に来た。

　十九歳の彼は、そのころもう分家の商会の仕事に出ていて、月に一度か二度、天導へ帳簿を届けに来る。私は挨拶をするだけの間柄だった。背が高く、眉がまっすぐで、いつも帳簿と一緒に本を一冊抱えている。学生服を脱いだばかりの背広は、まだ肩のあたりが落ち着いていなかった。実物の彼は、ゲームの立ち絵より歩くのが速い。

　その日は、応接を出たあとに彼が私を探しに来た。

「天導さん」

「はい」

「立ち話ですまないが、先に本人へ言っておきたいことがある」

　私は庭の椅子から立った。

「父たちが、あなたと私の婚約を進めようとしている」

　知っていた。ゲームの瑠璃は一臣の婚約者だ。いつ決まったのかまでは、ゲームには出てこなかった。

「まだ決まっていない。形式が決まるのは、あなたが十六になる春だろうと聞いた。それまで三年ある」

「……はい」

「嫌なら、私の父に言う」

　彼は正面から私を見て言った。

「私の父に言えば、あなたが断ったという形にせずに済む。あなたの母上に断らせるのも角が立つだろう。私が言うのが一番早い。ただ、あなたが本当にどう思っているのかを、私が代わりに決めるわけにはいかない。だから訊いている」

　ゲームの天導一臣は、婚約者の天導瑠璃に冷たかった。会話の選択肢にすら出てこない。名前だけが「婚約者」として存在して、ルートの終盤で「あの婚約は父たちの取り決めで、私は一度も彼女と話していない」と言う。

　いま、私の前に立っている人は、ちゃんと話している。

　そして私は知っている。この婚約は、十八の夜に破棄される。婚約者の天導瑠璃は、断罪される側に立っている。この人が手袋を外すのは、澪の卒業式の朝だ。

　そこまで考えたところで、口が勝手に動いた。

「一臣さん、私と駆け落ちしてください。私もちゃんと働くので。お菓子作りとか」

「……は？」

　一臣は、本当に分からないという顔をした。眉がまっすぐのまま、少しだけ上がった。

「嫌なら父に言う、という話をしている」

「はい」

「駆け落ちは、嫌な相手とするものではないと思うが」

「……ですよね」

「それに、あなたは十三だ」

「はい。すみません。言ってみただけです」

　私は自分の足元を見た。庭の苔が、やけにきれいだった。

　どうしてお菓子作りなのか、自分でも分からなかった。私はお菓子を作れない。ホットケーキを焦がしたことしかない。どこかの台所で、粉の目方を量りながら、帳面に何か書きつけている女の人の夢を見たような気がする。その人は、一臣さんの好きなものまで帳面につけていた。気のせいだ。たぶん。

　軽く振られた。当たり前だった。

「嫌では、ないです」と私は言い直した。「……少し、考えてもいいですか」

「いくらでも」

　彼はそう言って、少し立っていた。それから、「門まで戻る」と言った。私は「お見送りします」と言った。門の前で彼は頭を下げて、帳簿と本を抱え直して出ていった。

　一臣さんは、いい人だった。ゲームの立ち絵より、ずっといい人だった。婚約者の顔を見て話す人だった。

　でも、あの人の手袋は、澪のために外されるものだ。私はそう思っていた。婚約は、たぶんこのまま決まる。ゲームのとおりに。私は何も言わずに、それを待つことにした。

　＊

　十四歳の夏に、学院で誘われた。

　講読会のあと、上級生の二人が「これから菓子屋に寄るのですが」と言った。

　私はその場で、三つのことを同時に考えた。着替えていない。馬車が門で待っている。菓子屋というのがどこの店か分からない。

　三つとも、断る理由になる。私は元の世界でも、こちらに来てからの四年も、この三つで断ってきた。「またぜひ」も、何度も言った。北原さんに言った「次はぜひ」は二回。こちらで言った「またぜひ」は、十回を越えたあたりで数えるのをやめた。

「行きます」

　言ってから、心臓が鳴った。

　馬車は帰した。御者に「一時間後に、菓子屋の前へ」と伝えた。伝えるのに、私は三回言い直した。

　店は学院から五分のところにあった。狭くて、机が四つしかなくて、天井に扇がついていた。上級生の一人が「ここの葛餅がおいしいのです」と言った。もう一人が「私は氷のほうがいいと思います」と言った。二人はそれで少し言い合った。

　私は葛餅を頼んだ。

　三十分、私はほとんど喋らなかった。

　喋れなかったのではない。二人が喋っていて、そこに入る隙が見つからなかった。頷いて、笑って、頷いた。同じことを二十回くらいした。

　途中で、一人が言った。

「天導さんは、お家では何をなさっているの」

「……本を読みます」

「まあ。どんな」

「船の本を」

「船？」

「氷に挟まれた船が出てきます。三か月動けなくて、乗っている人が犬を飼い始めます」

　二人が顔を見合わせた。

「犬」

「はい」

「船に犬が乗っているの」

「氷の上で拾ったみたいです」

「氷の上に犬がいるの？」

　三人で少し笑った。

　その笑いは、私が面白いことを言ったから起きたのではなかった。話が噛み合わなくて、噛み合わないことがおかしかっただけだ。それでも、笑いは起きた。

　一時間で店を出た。馬車は来ていた。

　帰りの馬車で、私は窓の外を見ていた。

　うまく喋れなかった。一時間のうち四十分は聞いていただけだった。二人は明日、私を誘わないかもしれない。

　それでも、私は行った。

　それだけで、帰りの馬車の中で、私は少し落ち着かなかった。落ち着かないのは、悪い落ち着かなさではなかった。

　二人はその後も、月に一度くらい誘ってくれた。三回に一回は、私の都合が悪くて断った。断っても、次があった。断っても次があるということを、私はそのとき、初めて経験した。

　＊

　十四歳の冬、私は母の文机を探った。

　口実は切手だった。学院の上級生へ礼状を出すつもりで、それ自体は本当だった。菓子屋に誘ってくれた二人の片方が、落とした手袋を届けてくれた。それだけのことに礼状を書くのは、私が人と続きを作るための、たぶん唯一の方法だった。

　でも、切手の場所なら女中に訊けば済む。私が母の居間に一人で入ったのは、四年前から探していたものが、そこにあるかもしれなかったからだ。

　ゲームの瑠璃は、十七の冬にそれを燃やす。だから、それまではこの家のどこかにある。母の部屋か、母の居間か、仏間の奥か。十歳の夏から、私は母が留守にするたびに一か所ずつ見てきた。見ても何も触らず、元どおりにして出た。四年かかったのは、私が慎重だったからというより、見つけるのが怖くて、毎回すこし早めに切り上げていたからだと思う。

　切手は二段目にあった。二段目の奥に、藍色の表紙の帳面があった。

　家計簿だった。古いものだった。表紙の年号は、十年前――宗一郎が死んだ年のものだった。呉服、炭、氷、書生の月謝、車代。字は几帳面で、月の合計まで出してある。

　同じ字で、別の記入があった。

　　四月、薬。
　　四月、薬。
　　五月、薬。
　　五月、薬。
　　六月、薬。
　　七月、薬。

　金額はまちまちで、四月のものが一番大きい。

　そして、最初の「四月、薬」の横に、小さく四つの語が続いていた。薬の記入と同じ墨だった。

　　八月、湖、灯籠、舟屋。

　私は帳面を持ったまま、抽斗を閉めるのを忘れて座り込んだ。

　膝が震えたのは、薬の回数のせいではなかった。ゲームでは、瑠璃がこの帳面を燃やしたあと、澪が医院の処方簿から薬の回数を数え直す。数は同じだった。けれど、この四語をゲームで見た記憶はない。

　震えたのは、その四語を母の字で見たからだった。

　その字は、私の学院の書類の保護者欄と同じ字だった。呉服屋への支払いと同じ列に、薬が並んでいる。同じ人が同じ日に、氷の代金と薬の代金を書いている。

　私は、母がこれを書いた瞬間の指を想像した。想像したくなかった。

　四月、と私はもう一度見た。最初の薬と同じ行の四語を、指でなぞらずに追った。ゲームで伯父が妹に話を持ちかけたのは、いつだったか。私は思い出そうとして、思い出せなかった。ゲームはそこまで細かく日付を出さなかった気がする。出していたとしても、七周のあいだの私は、そこを読み飛ばしていた。

　しばらくして、私は帳面を懐に入れた。

　燃やさない。四年前に決めたとおりだ。燃やせば、ゲームの瑠璃と同じになる。

　この帳面がここにあると誰かが気づいたら、母は捕まる。捕まったら、この家はどうなる。私はどうなる。

　――違う。

　私は自分に言い聞かせた。母を助けるためだ。この帳面がなければ、母は決定的な証拠を持たずに済む。私が持っていれば、母のしたことが明るみに出る時期を、私が選べる。伯父だけが裁かれて終わるなら、それでいい。

　自分の部屋に戻って、鏡台の底の板を外し、帳面をそこへ入れた。板を戻し、白粉の瓶を上に並べた。

　手が止まらなかった。

　止まらないまま、私はもう一つのことを考えていた。

　この帳面を誰かに見せたら、この家は終わる。この家が終わったら、朝の昇降口の「おはようございます」も、川口先生の薄い印も、フミの櫛も、月に一度の菓子屋も、なくなる。四年かけて、やっと手に入れた、小さい良い子の毎日が。

　私はそれを、そのとき、確かに考えた。

　考えたことを、「そんなつもりではなかった」と言い直すことは、できなかった。

　文机の抽斗が開いたままだったことに気づいたのは、夜になってからだった。私は夕食のあと、母が風呂に入っている間に居間へ戻って、抽斗を閉めた。切手は一枚だけ取った。礼状は、翌朝出した。

　母は、帳面がなくなったことに気づかなかった。少なくとも、私にはそう見えた。十年前の古い帳面を、母は毎日開くわけではない。

　鏡台の底の板は、その夜から少しだけ重くなった。重くなったのは板ではなく、私が板の前を通るときの足だった。

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# 第三章　夕立

　十五歳の春、母が寝込んだ。

　三日熱が下がらず、蘆田先生が呼ばれた。先生は往診で来られず、代わりに息子が来た。蘆田慎。二十歳。医学生で、父の指示で薬を届けに来たのだという。

　玄関に立った彼は、眼鏡をかけていた。鞄の口から、薬包の束と一緒に、薄い本の背がのぞいていた。医学校の白衣を畳まずに腕に掛けたまま来たらしく、フミが慌てて受け取った。

　彼は母を診て、脈をとり、目を見て、薬を置いていった。それから台所の隅で、私にこう言った。

「奥様は、夜に酒を召し上がりますか」

　柔らかい声だった。ゲームの声より、少し低い。

「……ときどき」

「今日置いていく薬は、酒と一緒になると効きすぎます。眠っているように見えて、呼吸が浅くなる。父は必ずそれを言えと言いました」

「はい」

「言いにくいことですが、量を管理する人が家に一人必要です」

　私は「わたしがします」と言った。

　慎は少し驚いた顔をして、それから頷いた。

「では、これを」

　彼は鞄から一冊出した。薄い詩集だった。

「待つあいだ、退屈でしょう」

　彼は縁側に座って、二篇読んでくれた。

　行の終わりで、彼は必ず一拍おいた。私は画面越しにその癖を知っていた。知っていたはずなのに、生きた声で聞くと、拍のあいだに庭の音が入るのだと初めて分かった。風とか、鳥とか、遠くの鋏の音とか。

「急がないんですね」

「急ぐと、詩がかわいそうですから」

　私は笑ってしまった。本物だ、と思った。本物が、うちの縁側で言った。慎が「変ですか」と言った。「いいえ」と私は言った。顔がゆるむのを止められなかった。

　詩集は二週間後に返した。返しに行くとき、私は玄関で三分ほど迷って、「面白かったところに紙を挟みました」と言った。慎は挟まった紙を見て、「これは私も好きです」と言った。

　その日の帰り道、私は馬車の中でずっと機嫌がよかった。

　＊

　それから、母の薬は私が取りに行くことになった。

　蘆田医院は屋敷から歩いて十五分ほどのところにある。馬車を出すほどの距離ではない、と私が言うと、母は少し考えてから「フミを連れて行きなさい」と言った。フミは膝が悪いので、三回目からは私一人で行った。

　薬は一週間ぶんずつ出る。私はそれを母の簞笥の小引出しに入れて、一晩に一包ずつ出した。酒の匂いのする夜は、出さなかった。母は何も言わなかった。言わなかったけれど、酒の匂いのする夜は少しずつ減った。

　医院へ行くと、慎がいることもあった。いない日もあった。いる日は、待合の隅で詩集を一冊貸してくれた。私はそれを一週間で読んで、次の薬の日に返した。挟む紙は、だんだん増えた。

　九月の、蒸し暑い午後だった。

　薬を受け取って医院を出ようとしたとき、空が急に暗くなった。表の敷石に、大粒の雨が一つ、二つ落ちて、次の瞬間には全部が鳴っていた。

　夕立だった。

「傘は」と、後ろから慎が言った。

「持ってきていません。晴れていたので」

「医院の傘が一本あります」

　一本。

　私は、その言葉を聞いて、背中がぞわっとした。

　慎は傘立てから番傘を一本抜いて、戸口で開いた。

「お屋敷まで送ります。父には言ってあります」

「え、でも」

「薬が濡れると困りますから」

　断る理由は三つくらいあった。慎さんの仕事がある。雨はすぐやむかもしれない。一本の傘に二人で入るのは近すぎる。私はそのどれも口に出さなかった。口に出したら、この先に起きることが起きなくなる気がした。

　二人で一本の傘に入った。

　傘を持つのは彼だった。持つと、傘は私のほうへ傾いた。医院の角を曲がるころには、彼の左の肩が濡れて色を変えていた。

　知っていた。

　七周のあいだ、画面のこちらから何度も見た。診療所から寮まで、一本の傘を澪のほうへ傾けて、左の肩だけをぐっしょり濡らしている、あのスチル。

　いま、傾いた傘の下にいるのは私だった。

　慎は、ゆっくり歩いた。雨の音で、話はほとんどできなかった。彼は前を見ていて、ときどき私の足元を見て、水たまりの手前で少しだけ歩幅を変えた。私はそのたびに、薬の包みを胸に抱え直した。

　屋敷の門の庇の下に入ったとき、彼の左の肩は、上着の色が変わるくらい濡れていた。右の肩は乾いていた。私はほとんど濡れていなかった。

　言ってはいけない、と思った。言ったら、ただの台詞の真似になる。

　言ってしまった。

「どうしてそんなに、ゆっくり歩いたんですか」

　慎は、傘を畳みながら、少し首をかしげた。

「急ぐと、あなたが濡れますから」

　私は門柱に手をついた。

　膝から力が抜けそうだった。同じだった。声も、言い方も、首のかしげ方も。画面の中のあの人は、ここにいた。

「大丈夫ですか」

「だいじょうぶです」

「顔が赤い。熱が」

「ありません。ぜんぜん、ありません」

　慎は眼鏡の奥で目を細めて、私の額に手の甲を当てた。医者の手つきだった。一秒で離れた。

「ないですね」

「ないです」

「お母様の薬を取りに来てくださる方を、濡らして帰すわけにはいきませんから」

　彼はそう言って、濡れた肩のまま、来た道を戻っていった。傘は私に預けていった。明日、返しに来てください、と言って。

　私は門の内側に立って、畳んだ番傘を抱えていた。

　これはもしかして、と思った。もしかして、慎さんとくっつきそうなのでは。

　思ってから、自分の頬を叩きたくなった。慎さんは、患者の家の十五歳の娘を濡らさなかっただけだ。医者の息子として当たり前のことをしただけだ。額に当てた手の甲だって、熱をみただけだ。

　分かっていた。分かっていて、その夜、私は布団の中で三回くらい、門柱に手をついたところを思い出した。

　＊

　傘を返しに行った日から、私は月に一度、蘆田の家の詩の会に呼ばれるようになった。

　慎の母上が、近所の女学生や医学生を集めて、座敷で詩を読み合う会を開いている。慎は読み役だった。私は詩のことは分からない。分からないまま、慎が行の終わりで一拍おくのを聞きに行った。

　詩の会と聞いたとき、私はまた背中がぞわっとした。ゲームの告白は、詩の会で来る。いつもの一拍のところで、慎は次の行を読まない。

　もちろん、あれは澪のための場面だ。私は分かっていた。分かっていて、会のある日は朝から落ち着かなかった。

　十五歳の冬の終わり、二月の会だった。

　座敷の火鉢に炭が足されて、窓の硝子が曇っていた。慎は、冬の海の詩を読んでいた。一行読んで、一拍おく。一行読んで、一拍おく。その拍のあいだに、火鉢の炭が小さく鳴った。

　三連目の終わりで、慎は次の行を読まなかった。

　本を閉じた。

　座敷の誰かが、あら、と小さく言った。

　私の心臓は、耳の横で鳴っていた。

「これだけは、急いで言います」

　慎は私を見た。

　来た、と思った。来てしまった。

「天導さん。あなた、ちゃんと眠れていますか」

　……。

　告白じゃなかった。

「顔色が、薬を取りに来てくださるたびに悪くなっています。秋の終わりあたりから。お母様の薬を管理するのはいい。でも、管理する人が眠れていないのは、よくない」

　座敷の人たちが、なんだ、という顔をして、それから気の毒そうな顔をした。私は膝の上で手を握った。顔から火が出そうだった。告白を待っていた自分と、眠れていないのを見抜かれた自分と、どちらのせいで顔が熱いのか分からなかった。

　眠れていないのは本当だった。鏡台の底に帳面を入れてから、一年と少し。夜中に目が覚めて、板の前を通れなくなる夜があった。

「……眠れて、ないです。ときどき」

「そうですか」

　慎は本を膝に置いた。

「すみません、会の途中に。父の口癖なんです。医者は、急ぐべきときに急がないと、一生悔やむ。私はいつも急がないので、急ぐべきときくらいは急ごうと思っています」

　会はそのまま続いた。慎は四連目から読み直した。行の終わりで、また一拍おいた。

　＊

　会が終わって、ほかの人たちが帰ったあと、私は縁側で慎と少し話した。

「さっきは、すみませんでした」と彼が言った。

「いえ。……ありがとうございました」

「眠れないときは、薬に頼る前に、一度うちへ来てください。父に診せます」

「はい」

　庭の梅が、ひとつだけ咲いていた。慎はそれを見ながら、少し黙った。彼の沈黙は長い。

「父の口癖、と言いましたが」

「はい」

「口癖になったのには、わけがあります」

　慎は膝の上の本の角を撫でた。

「父は、本家の百合子さまの侍医でした。宗一郎さまの、最初の奥様です」

　私は顔を上げた。

「百合子さまのご病気は、早く見つかれば治るものだったそうです。父はそう言います。あなたが一つの年に、父は一年、帝都を離れていました。戻ってきて百合子さまを診たときには、もう手遅れだった。百合子さまは、次の冬に亡くなりました。あなたが二つの冬です」

　慎は梅を見たまま言った。

「父は、あのとき帝都にいなかったことを、ずっと悔やんでいます。口には出しません。ただ、毎年その日になると、一人で墓参りに行きます。私は子どものころ、なぜ父が急げと言うのか分かりませんでした。いまは、少し分かります」

　私は、何も言えなかった。

　百合子さまは、ゲームでは一行しか出てこない人だった。病身の奥様。二年前に亡くなった。それだけだった。

　この世界では、奥様が亡くなるところから六年ずれている。私はそれを、十二の夏に母の話で知った。なぜずれているのか、ずっと分からなかった。

　一人の医者が、一年、帝都にいなかった。

　それだけで、奥様の病が見つかるのが遅れた。奥様が早く亡くなって、婚約が早く決まって、事件が四つの夏に来た。――そういうことなのかもしれない。私にはそこまでしか分からなかった。それでも、ずっと宙に浮いていたものが、一か所だけ地面に着いた気がした。

　どうして蘆田先生はその年に帝都を離れたのですか、と訊こうとして、やめた。慎の横顔が、それ以上を話す顔ではなかった。

「慎さんのお父様のせいじゃないです」

　口から出たのは、それだけだった。

「そう言ってくださる人は、多いです」と慎は言った。「父は、そう言われるたびに、頭を下げます」

　帰りの馬車で、私は窓の曇りを指で拭いた。

　もしあの年に、蘆田先生が帝都にいたら。ゲームと同じように、奥様はもう何年か生きて、事件は十歳の夏に来たのかもしれない。十歳で目を覚ました私は、窓に飛びついたあの朝に、まだ間に合ったのかもしれない。

　考えても仕方のないことだった。十歳の私が目を覚ましたとき、奥様はもう八年近く前に亡くなっていた。

　＊

　奨学生が来る、という話は、冬のうちから学院で出ていた。地方の中学から選ばれた学生が三名。分家の商会が出している奨学金だそうよ、と上級生たちが話していた。じゃあ天導さんの婚家ね、と誰かが言って、それから、ばつが悪そうに黙った。私は笑って、「まだ何も決まっていませんよ」と言った。

　三名の中に、小野という名前があることを、私は名簿を見る前から知っていた。

　十六歳の春、その三名が来た。

　小野澪。十七歳。湖の星見荘を守っていた小野弥吉の娘。私が七周、返事を選んできた主人公。年は私より一つ上だけれど、編入の試験の都合で、私と同じ組に入った。

　初日、彼女は教室に入るなり、窓を開けた。誰に断るでもなく、当たり前のように。日に焼けた腕が、窓枠の上で動いた。髪は短めで、首のうしろで一つに結んでいる。奨学生の制服は、私たちのものより生地が薄く、袖口が少し擦れていた。

　振り返ったときの目が、まっすぐだった。人を見るときに、途中で逸らさない目。

　ゲームの立ち絵と同じ顔で、立ち絵より日に焼けていた。

　私はその週、何度も練習した。朝、鏡台の前で。馬車の中で。仲良くしましょう、は気持ちが悪い。天導の家を代表して、は偉そうだ。私は、ただの同じ組の生徒として、一回目で、ちゃんと言うことにした。

　四日目の昼休み、廊下で彼女を呼び止めた。

「小野さん。天導です」

　澪は振り返って、私を上から下まで見た。露骨だった。

「存じております」

「学院のことで、分からないことがあったら、何でも訊いてください。教室の場所とか、講読会の決まりとか。それから、あの、困っていることがあったら」

　私は右手を出した。握手のつもりだった。

　澪は、その手を見た。見て、取らなかった。

「いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ」

　廊下の音が、遠くなった。

「天導さんのことは、来る前から聞いていました。十の年まで、下級生を階段で突き飛ばしていた方だと。それから急に、良い子になったと」

　澪の声は落ち着いていた。

「急に良い子になる方は、何か理由があって良い子になるんです。私は、その理由に使われるのはごめんです」

　もう遅い。

　その言葉が、頭の中で鳴った。

　十歳の朝、仏間で、六年前に死んだ人の写真を見たときから、私はずっとその言葉を自分に言い聞かせてきた。もう遅い。十歳からでは、もう遅い。それでも良い子でいようと決めた。六年、朝の「おはようございます」を一日も休まなかった。小暮さんは、いまでは目を合わせて返してくれる。

　それを、この子は、会って四日で、もう遅いと言った。

　知っている。そんなことは、私がいちばんよく知っている。

　くっそ、この子、いじめてやる！

　気がついたら、右手が上がっていた。握手のために出した手が、そのまま頬の高さまで上がっていた。

　澪は、よけなかった。目も閉じなかった。まっすぐ私を見たまま、立っていた。

　手が、止まった。

　澪の頬の、ほんの手前で。自分の手のひらの向こうに、日に焼けた頬の産毛が見えた。

　澪が、少し首をかしげた。

「なんでぶたないんですか？」

「いや、暴力はさすがにダメだ」

　口から出たのは、二十七年ぶんの私の声だった。

　澪が、瞬きをした。

「……ダメだ、って」

「ダメです。暴力は。いじめるにしても、もっとちゃんとしたやり方でやります」

「ちゃんとした」

「そうです」

　私は上げた手を下ろした。下ろし方が分からなくて、スカートの横で一度握って、開いた。

　澪は、しばらく私の顔を見ていた。それから、ほんの少しだけ、口の端を動かした。笑ったのか、呆れたのか、分からなかった。

「では、楽しみにしています。ちゃんとしたいじめ」

　彼女は教室へ戻っていった。

　私は廊下に立っていた。十歳の秋、小暮さんに逃げられたときと、同じ場所だった。あのときは、謝って怖がらせた。今日は、ぶとうとして止まった。どちらがましなのか、分からなかった。

　＊

　ちゃんとしたいじめ、というものを、私は三日考えた。

　持ち物を隠す。無視する。悪い噂を流す。ゲームの瑠璃がやっていたことは、全部覚えていた。覚えていて、どれもやる気にならなかった。靴を隠そうとして靴箱の前に立ったら、澪の靴の踵が擦り減っているのが見えて、揃え直して帰ってきてしまった。

　だから、勝負にした。

　一つ目は成績だった。前期の試験の順位表が廊下に貼り出されて、澪は一番だった。私は二十六番だった。

「小野さん。後期は、わたしが上に行きます」

「どうぞ」

　その夏から、私は夜中まで勉強した。眠れない夜の使い道ができた。

　二つ目は席だった。講読会の、窓際の一番前の席。澪は毎回、誰より先に来てそこに座り、窓を開ける。私は一度だけ、始業の一時間前に行ってその席に座った。澪は来て、私を見て、隣に座った。そして私の側の窓を開けた。私は五月の風をまともに浴びて、一時間くしゃみをした。

「窓、閉めてもいいですか」

「天導さんの席ですから、どうぞ」

「……開けたの、小野さんですよね」

「空気が悪かったので」

　三つ目は菓子だった。学院の購買には、月に一度、角の菓子屋から栗饅頭が十個だけ届く。昼休みの鐘と同時に、上級生も下級生も走る。私は、それまで一度も走ったことがなかった。澪は、毎月一つ買っていた。

　私は、その月から走った。

　最初の月は、私が九個目を取り、澪が十個目を取った。二人とも取れた。次の月は、澪が九個目を取り、私の目の前で最後の一つを下級生が取った。私は下級生に「どうぞ」と言った。言ってから、澪が私の顔を見て、何も言わずに自分の饅頭を持って行くのを見送った。

　いじめにはならなかった。一つも。

　帰りの馬車で、私は窓に額をつけた。

　くやしかった。成績も、席も、饅頭も。くやしいのに、毎月一日が近づくと、少しだけ楽しみになっている自分がいた。朝の「おはようございます」とは、違う種類の楽しみだった。

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# 第四章　はんぶんこ

　澪と廊下でやり合ったのと同じ月に、婚約が正式になった。

　といっても、儀式らしいことは何もなかった。応接に伯父と母がいて、書付が読まれ、私は「はい」と言った。伯父の天導貞光は、恰幅のいい人で、書付を読む声がよく通った。一臣の父でもある。一臣は私の隣にいて、書付が読まれるあいだ、まっすぐ前を見ていた。終わったあと、彼は私に「これで、あなたが断るときの手続きが増えた。すまない」と小声で言った。

「駆け落ちの手続きは、増えましたか」と私は小声で訊いた。

「……まだ言うのか」

「言ってみただけです」

　一臣は前を見たまま、少しだけ眉を寄せた。怒ったのではなく、困ったときの顔だった。私は笑ってしまって、母に見られた。

　一臣さんは、いい人だ。三年前の庭でもそう思った。いまも思う。婚約者として、きちんと隣に立ってくれる。それだけで、ゲームの婚約者よりずっといい。

　ただ、書付を読み終えた伯父が満足そうに頷くのを見て、私は少し寒くなった。この婚約は、十八の夜に破棄される。ゲームのとおりなら。

　＊

　張り合いは、夏を越えても続いた。

　秋の中間の順位表で、澪は一番だった。私は十四番だった。前期の二十六番から、十二上がった。

「上がりましたね」と澪が言った。

「上がりました」

「私より上に、とおっしゃいました」

「次は行きます」

　講読会の窓際の席は、澪がほとんど毎回取った。私は三回に一回、早く来て取った。私が取った日、澪は隣に座って私の側の窓を開けた。十月になると、窓を開けられるのはさすがに寒かった。

「閉めてもいいですか」

「天導さんの席ですから、どうぞ」

「開けたの、小野さんですよね」

　同じ言い合いを、私たちは四回くらいした。四回目には、周りの生徒が先に笑った。

　栗饅頭は、毎月一日に十個届く。私はもう、鐘と同時に走ることに慣れていた。取れる月も、取れない月もあった。澪は、毎月取った。

　十月の一日だった。

　その日は下級生の組が早く終わっていて、私と澪が購買の前に着いたとき、盆の上には一つしか残っていなかった。

　二人で、同時に手を伸ばした。

　指が、饅頭の上でぶつかった。

　澪は手を引かなかった。私も引かなかった。購買のおばさんが、私たちの顔を交互に見た。

「……小野さんが、毎月取っているのは知っています」

「天導さんが、今年から走り始めたのも知っています」

「譲りません」

「私も譲りません」

　後ろに、下級生が二人並んだ。一つしかないのを見て、残念そうに帰っていった。

　私は、饅頭を取った。取って、両手で持って、真ん中から割った。

　栗が、ちょうど半分ずつになった。

「はんぶんこにしましょう」

　澪は、割れた饅頭を見た。それから私の顔を見た。

「……いじめではないんですか」

「いじめです。半分しか食べられないので」

　澪は、しばらく黙っていた。それから、半分を受け取った。

　＊

　講堂の裏に、日の当たるベンチがある。私たちは、そこで饅頭を食べた。

　澪は、一口が大きかった。半分を三口で食べ終えて、指についた餡を見て、それも舐めた。令嬢の方の前ですみません、と言いながら。

「小野さんは、どうして毎月、栗饅頭を買うんですか」

「父が好きだったんです」

　澪は、ベンチの背にもたれた。

「父は、湖の別荘の番人をしていました。天導家の星見荘です。天導家に十二年お仕えしました。帝都から来る方々は、お土産によく角の店の栗饅頭を持ってきてくださって、父はそれを一つだけもらって、半分を私にくれました。半分こだ、と言って」

　私は、手の中の饅頭を見た。

「十二年前の夏に、天導の旦那様が湖で亡くなりました。桟橋が崩れて。父は、見回りが足りなかったと言われて、次の春に暇を出されました」

　知っていた。ゲームで読んだ。桟橋の番人は、管理の不行き届きを責められて職を失い、何年かあとに病気で亡くなった。一行で、そう書いてあった。

「それからは、海のほうの親戚の家で、網の繕いや、荷揚げや、できることは何でもしました。でも、胸を悪くして」

　澪は、空を見ていた。

「私が十三の年に、死にました」

　一行で読んだことが、いま、横に座っている人の口から出た。饅頭を半分こにした人の口から。

　ゲームの中では、澪の父はもう死んでいる人だった。宗一郎と同じだった。物語が始まったときにはいない人。私は七周、その人のことを「澪の父」としか思っていなかった。栗饅頭が好きだったことも、半分こだと言ったことも、知らなかった。

「父は、死ぬまで、私には、あの夜のことを話しませんでした。一度も」

　澪は、膝の上で指を組んだ。

「父が遺したものがあります。封がしてあって、十八になったら開けろと言われています。だから私は、まだ読んでいません」

「……開けたら、どうするんですか」

「分かりません。読んでから決めます」

　澪は、それ以上言わなかった。私も訊かなかった。

　鏡台の底の帳面のことを、私は考えていた。澪の父が話さなかった夜のことを、母は帳面の余白に四つの語で書いていた。私はそれを、二年近く板の下に置いている。

　言えなかった。饅頭の甘さが、急に喉に貼りついた。

「それから」と澪が言った。「天導さんとは、一度だけ会ったことがあるんですよ」

「え」

「あの夏、湖で。あなたは四つで、私は五つでした。岸で貝殻を拾いました。虹色のが出るのを、私が探すのがうまいと言って、あなたはずっと私の籠を覗いていた」

　澪は、私の顔を見た。

「覚えていないでしょう」

「……覚えてないです。ごめんなさい」

　本当に覚えていなかった。私は、その夏にはいなかった。この身体の子は、いたのだ。貝殻を覗いていたのだ。

「謝られると困ります」と澪は言った。「四つの子が覚えていないのは、当たり前ですから」

　澪は立ち上がった。スカートの裾の砂を払った。

「饅頭、ごちそうさまでした。来月は、私が取ります」

「来月は、わたしが取ります」

　澪は、少しだけ笑った。前に廊下で見たのと同じ、口の端だけの笑い方だった。今度は、呆れているのではないと分かった。

　澪が行ってしまってから、私はしばらくベンチに座っていた。

　もう遅いですよ、と澪は言った。あのとき私は、自分のことを言われたのだと思った。十歳までの天導瑠璃が小暮さんにしたことを、いまさら取り消せない、と。

　澪の父は、もう死んでいた。あの子が言った「もう遅い」の中に、その人がいたのかどうか、私には分からなかった。

　＊

　一人では持っていられない、と思った。

　私は白石さんのように頭がよくない。――白石さんというのが誰なのか、私は知らない。ときどき見る夢の、罫線のノートの人の名前が、なぜかそれだった。あの人なら、たぶん一人で表を作って、一人で決めるのだろう。私にはできない。表を作っても四行目で止まる。

　だから、相談することにした。人に。帳面のことは言えない。言えることだけを。

　最初に慎に訊いた。

　十一月の、薬を取りに行った日だった。待合に人がいなくなるのを待って、私は言った。

「慎さん。眠り薬を、四つくらいの子どもに飲ませたら、どうなりますか」

　慎は、詩集を閉じた。

「……どなたが、どなたに」

「たとえばの話です」

　慎は私を見ていた。彼の沈黙は長い。その日の沈黙は、詩の会のどの一拍よりも長かった。

「量によります」と彼は言った。「少なければ、よく眠るだけです。多ければ、呼吸が浅くなる。大人の量なら、死ぬこともあります。子どもは、大人が思うよりずっと薬に弱い」

「はい」

「天導さん」

　慎は声を落とした。

「十二年前、湖で、あなたは迷子になって、舟屋で眠っていたと聞いています。朝まで起きなかったと」

　私は、何も言わなかった。

「父の古い帳面を、見てみてもいいですか」

　見てほしい、と言えばよかったのか。見ないでください、と言えばよかったのか。私には分からなかった。分からないまま、口が動いた。

「……わかりません。見てほしいのか、見てほしくないのか、自分でも」

　慎は、しばらく私の顔を見て、それから小さく頷いた。

「分かりました。それなら、私が決めます」

　＊

　一臣には、父のことを訊いた。

　婚約が決まってから、彼は月に一度、本家に顔を出すようになっていた。婚約者としての挨拶で、たいてい三十分で帰る。私はその日、応接を出た彼を庭で呼び止めた。

「一臣さん。わたしの父が、どうしているか、ご存じですか」

　一臣は少し驚いた顔をした。

「南浦の造船所にいると聞いて、十一の年から五通、手紙を書きました。一通も返事がありません。生きているのかどうかも、分かりません」

「……私は知らない」

　一臣は、抱えていた本を持ち直した。

「だが、父の書類には、何かあるかもしれない。本家から出ていった人の行き先を、父が知らないとは思えない。見てみる」

「いいんですか。お父様の書類を」

「婚約者の父親の居所を知りたいと言われて、断る理由はない」

　彼はそう言って、少し考えた。

「ただ、起きたことは変えられない。叔父上――あなたの父上が家を出たのは、十二年前だ。いまさら居所が分かっても、戻ってくるとは限らない」

「分かっています」

「変えられるのは、これからどうするかだけだ」

　それは、正しかった。一臣さんはいつも正しいことを言う。

　＊

　十七歳の春、学院の門の前で、帽子をかぶった男に呼び止められた。

「天導瑠璃さん？　早瀬っていいます。新聞の」

　声が大きかった。門の前にいた下級生が、二人振り返った。

　日に焼けた顔で、帽子の下から癖のある髪がはみ出している。手には、角の擦り切れた手帳を持っていた。立っているあいだも、片方の足で小さく拍子を取っていて、じっとしていない。

　早瀬遼。二十五歳。

　ゲームで、塀を乗り越える人だ。

「十三年前の湖の件を調べてましてね。小野さんに話を聞こうとしたら、父の封を開けるまでは話さない、と断られた。筋が通ってる。で、天導家の方にも、一言いただけないかと」

　逃げるべきだと思った。天導の娘が記者と話すなんて、伯父が知ったら何と言うか。

　でも、私は相談する相手を探していた。

「わたしも、訊きたいことがあります」

　早瀬は、手帳を持った手を止めた。

「……へえ」

「どこか、話せるところはありますか」

　早瀬は懐中時計を見た。

「いまから河岸で人に会う。歩きながらでいいなら、ついてきな。馬車は？」

「一時間後に来ます」

「じゃあ一時間で戻す」

　＊

　河岸の市場は、朝の競りが終わったあとでも人でいっぱいだった。

　魚の匂いと、氷の溶ける匂いと、人の汗の匂いがした。桶を担いだ男が怒鳴りながら通り、籠を背負った女の人がその脇をすり抜ける。私は三歩で、早瀬の帽子を見失いかけた。

　手首を、つかまれた。

「はぐれるなよ」

　早瀬は前を向いたまま言った。私の手首を握る手は、乾いていて、力が強かった。

　私は、息が止まりそうになった。

　知っていた。人混みで、遼は澪の手首をつかんで「はぐれるなよ」と言う。人混みを抜けても離さない。七周のあいだ、画面のこちらから見ていた。

　早瀬は、人のあいだを縫うように歩いた。桶をよけ、荷車をよけ、私の手首を引いた。私はついていくだけで精いっぱいだった。

　市場の奥の、小さな魚屋の前で、早瀬は止まった。

　店の奥から、年を取った男が出てきた。片方の目が白く濁っている。早瀬を見て頷き、それから私を見た。

「……誰だ、その娘は」

「天導の」

　男の顔が、変わった。

「天導の娘を、ここへ連れてくるとは、どういう了見だ。あの家は、弥吉を追い出した家だぞ。弥吉が桟橋を見てなかったなんて、よくもまあ」

　男は私に向かって、濁っていないほうの目を細めた。

「当主が死んで、いちばん得をしたのは、その娘だろうが」

　私は、何も言えなかった。本当のことだった。

　早瀬が、私の手首を握ったまま、半歩前へ出た。

「親方。あの子だって、誰かの娘だろ」

　男が黙った。

「親に何をされたか、当時四つだった子に分かるわけがない。得をしたかどうかは、この子が決めたことじゃない」

　私は、早瀬の背中を見ていた。帽子の下の癖毛が、耳の上で跳ねていた。

　ゲームで、遼はその一行を、天導瑠璃について言った。画面のこちらで、私はいつもその一行のところで手を止めた。いま、その一行は、私の目の前で、私のために言われた。

　男は、しばらく黙っていた。それから、店の奥の木箱に腰を下ろした。

「……わしは、星見荘で舟を出してた。弥吉とは、二十年の付き合いだ」

　男はそれだけ言って、早瀬の質問に答え始めた。私は店の軒下で、それを聞いていた。男が話したのは、どれも昔の湖の話だった。最後に男は言った。

「弥吉は、死ぬまで、あれは事故じゃねえと言ってた。言っただけだ。誰も聞かなかった」

　＊

　帰り道も、人混みだった。

　早瀬は、また私の手首をつかんだ。市場を抜けて、広い通りに出た。人がまばらになった。

　手は、離れなかった。

　私は、言ってしまった。言ってはいけない、と思いながら。

「……もう、はぐれませんけど」

「知ってる」

　早瀬は前を向いたまま答えた。

　私は、次を待った。手首から、手のひらへ。

　早瀬は、手を離した。

「悪い。妹の手を引く癖でさ。下に三人いるんだ」

　彼は帽子をかぶり直して、手帳を開いた。

　スチルの続きは、来なかった。

　来なくてよかった、と私はすぐに思った。たぶん、よかった。私は十七で、この人は二十五で、この人にとって私は取材先の家の子どもだ。妹と同じように手首を引いた、それだけのことだ。

　それでも、手首のところが、しばらく熱かった。

「で、あんたが訊きたいことって何だ」

　広い通りを歩きながら、早瀬が言った。

　私は、帳面のことは言わなかった。言えることだけを言った。

「父を探してほしいんです。天導恭介。十三年前に家を出て、南浦の造船所にいると聞きました。五通手紙を書いて、一通も返事がありません」

　早瀬は、手帳に何か書いた。

「心当たりはある。確かめたら知らせる」

「それから」

　私は、少し迷った。

「いまさら調べても、死んだ人は戻らないのに、どうして調べるんですか」

　早瀬は、立ち止まった。

「戻らないよ」

　あっさり言った。

「記事は、死んだ人を生き返らせない。そんなことは、記者なら誰でも知ってる。でも、名前は返せる。番人の名前も、あんたの親父さんの名前も。生きてるうちに返せたら、もっといい。死んでからでも、返さないよりはいい」

　彼はまた歩き出した。

「あんたの名前は、あんたが自分でどうにかしな。そこまでは、おれの仕事じゃない」

　門の前に、馬車が来ていた。早瀬の言ったとおり、ちょうど一時間だった。

　＊

　その夜、私は布団の中で、指を折った。

　夕立の傘で、左の肩を濡らしてくれた人。市場で手首を引いて、あの子だって誰かの娘だろ、と言ってくれた人。婚約者として、書付の読み上げのあいだ隣に立ってくれる人。

　……慎さんとくっつきそう。遼さんもいい。婚約者は一臣さん。

　私は、ハーレムエンドでも目指してるのか。

　そんなルートは、『帝都恋綺譚』にはなかった。あったとしても、主人公は澪で、私ではない。

　私は布団をかぶって、少し笑った。笑ってから、笑えなくなった。

　三人とも、優しかった。三人とも、正しいことを言った。死んだ人は戻らない。起きたことは変えられない。手遅れというものがある。三人とも、それを知っていて、それでも何かをしようとしていた。

　私はそれを聞いて、少し楽になった。楽になって、それで終わりにしていた。慎さんが帳面を見ると言った。一臣さんが書類を見ると言った。早瀬さんが父を探すと言った。三人が動くと言ってくれたから、私は動かなくていい気がしていた。

　麻辣の返事と同じだった。次があるかどうかは、相手が決める。私はそれを待つ。

　鏡台の底の板は、その夜も外さなかった。

　＊

　十七歳の夏、学院の夏の講読会で、澪が発表をすることになった。

　発表者は洋装で壇に立つのが習いだった。奨学生の三人は、制服で出ると言った。澪も、制服で出ると言った。

　私は母に頼んで、呉服屋に洋装を一着頼んだ。淡い青の、襟の高いものだった。澪に似合うと思った。母は、何のために、とは訊かなかった。

「小野さん。これ、着てください」

　講堂の裏のベンチで、包みを渡した。澪は包みを開けて、しばらく黙っていた。

「……いじめですか」

「いじめです。似合いすぎて、みんなが小野さんばかり見るので」

　澪は、洋装を膝の上で畳み直した。畳み直しながら、言った。

「借りているつもりでいます」

「返さなくていいんですけど」

「そういう問題ではないんです」

　発表の日、澪は淡い青の洋装で壇に立った。註の間違いを三つ指摘して、そのうち一つは自分の間違いでした、と壇の上で言った。講堂が笑った。

　私は後ろのほうの席で、手が痛くなるまで拍手をした。

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# 第五章　知りません

　十七歳の秋、蘆田慎が来た。

　二十二歳になっていた。彼は玄関ではなく、庭の勝手口から入ってきた。手に風呂敷包みを持っていた。

「天導さん。人のいないところで話せますか」

　東屋へ通した。彼は包みを解いた。中には帳面が二冊あった。表紙に年号と「処方」とある。

「父の診療所の処方簿です。去年、あなたに訊かれてから、探しました」

　私は動かなかった。

「十三年前の、春から夏の分です。天導藤乃様のお名前で、薬が六回出ています。四月と五月に二度ずつ、六月、七月」

　私は自分の顔が動かないように、頬の内側を噛んだ。

　ゲームの慎のルートで、何度も見た頁だった。画面の中では、それは澪の手に渡る。澪がそれを持って、湖の事件の最初の一行を書き足す。

「量が多い。四月のものは、通常の処方の三倍あります。父は、奥様が眠れないと訴えるので出したと言っています。父は何も知らなかったと思います。ただ、この量を続けて出したことは、父の落ち度です」

　慎は帳面を閉じた。

「私はこれを持ち出しました。父には言っていません。父が知れば、燃やすかもしれない。父は自分の落ち度を隠す人ではありませんが、患者の家のことを守る人です」

　彼は帳面を私のほうへ押した。

「これを、どうするべきか、あなたに」

　私は帳面を見た。

　その瞬間に、私の中で二つの声が同時に立った。

　一つは、受け取れ、と言った。受け取って隠せ。鏡台の底にはもう一冊入る。そうすれば、母を告発する道具が世界からもう一つ減る。

　もう一つは、この人にそれをさせるな、と言った。

　去年の十一月、私はこの人に「見てほしいのか、見てほしくないのか、分からない」と言った。この人は「それなら、私が決めます」と言って、父親に黙って帳面を持ち出した。私が決めなかったぶんを、この人が決めてくれた。その帳面を、今度は私に渡して決めさせようとしている。

　私は口を開いた。

「慎さん。それを、わたしに渡さないでください」

　慎が顔を上げた。

「わたしに渡したら、わたしはそれを隠します」

「……隠す」

「隠します。たぶん、今日のうちに」

　私は自分の声が震えているのを聞いた。

「わたしは、母を守りたいんです。守りたいから、そういうことをします。それは自分でわかっています。だから、渡さないでください」

　慎は長いあいだ黙っていた。彼の沈黙は長い。この日の沈黙は、たぶん今までで一番長かった。

「では、誰に渡せばいいのですか」

「小野澪さんに」

　私は言った。

「あの人は、自分で決められる人です」

　慎は帳面を包み直した。結び目を作る指が、一度ほどけて、やり直した。

「あなたは、この帳面が何を示すか、ご存じなのですね」

　私は答えなかった。慎はそれ以上訊かずに、勝手口から帰っていった。

　翌週、澪の机の上に、風呂敷包みがあった。私はそれを廊下から見た。澪は包みを開かないまま、授業のあいだずっと、机の端に置いていた。

　昼休み、栗饅頭の日だった。澪は走らなかった。私も走らなかった。

　＊

　同じ秋の終わり、一臣が手紙を持ってきた。

　彼は南の小広間に入って、座らなかった。窓のところに立って、外を見て、それから懐から折った紙を出した。

「叔父上の行き先を探していて、父の机の奥で見つけた。叔父上のことは、何も出てこなかった。これが出てきた」

　私は受け取った。

　下書きだった。天導貞光の字で、天導家の親族会の三人に宛てた文面が、途中まで書かれている。日付は十三年前の七月。

　――万一の事あらば後見の儀、当方にて引き受け候。瑠璃の件、御含み置き願い上げ候。

「万一の事」

　私は声に出して読んでしまった。

「そうだ」と一臣が言った。「宗一郎さんが亡くなったのは八月十五日だ。この下書きは七月に書かれている」

「これは」

「私は、父を疑いたくない」

　彼はまだ窓の外を見ていた。

「父は、私を殴ったことがない。学費を出してくれた。奨学の制度も、父が押し切って作った。小野さんが学院にいるのは父の金だ。私はその金で育った」

　彼の指が、窓枠を一度叩いた。

「それでも、これは七月の日付だ」

　私は紙を見ていた。

　七月。鏡台の底の帳面には、四月の薬と、その横の「八月、湖、灯籠、舟屋」があった。

　七月の下書きと四月の字を、私は並べた。並べて、すぐに目をそらした。ゲームでも伯父の根回しは夏だった。四語はあとから書き足したのかもしれない。母が先に薬を買っていたのは、眠れなかったからかもしれない。兄に言われる前から、兄の計画を察していたのかもしれない。理由はいくらでも作れた。作れる理由のうち、いちばん母に優しいものを、私はそのとき選んだ。

　この紙は、私に渡された。私はこれも隠せる。鏡台の底には、まだ隙間がある。

　しかも、この人にこれを探させたのは、私だった。父の居所を知りたい、と言ったのは私だ。

「一臣さん」

「なんだ」

「これを、わたしに預けないでください」

　彼が振り返った。

「わたしに預けたら、わたしは隠します」

　私は同じ台詞を、この秋二度言った。

　一臣は紙を私の手から取り戻した。

「私が持っている」と彼は言った。「どうするかは、私が考える」

　彼は二週間考えた。

　そのあいだに一度、彼は婚約者の挨拶に来た。応接で茶を出すと、彼は湯呑を持ったまま言った。

「父は、若いころ天導の船に乗っていたそうだ。あの人は、天導の名前を――」

「お茶が冷めます」

　彼は口を閉じた。閉じてから、私を見た。

「そうだな」

　その日、彼はいつもの三十分より早く帰った。帰り際に何も言わなかった。

　私はそのとき初めて、隠し事が人との間を削るということを、体で知った。彼が父の話をしようとしたところに私が茶を置いた。それだけで、部屋の中の何かが一段冷えた。彼が父の話をすれば、次は私が母の話をする番になる。だから止めた。嘘をついたのではない。話を始めさせないことで、隠した。

　二週間後、一臣は下書きを持って学院へ行き、小野澪に自分で渡した。

　そのことを、私は彼の短い手紙で知った。

『父の紙は、小野さんに渡した。私が決めた。』

　私はその短い手紙を、何度も読んだ。ゲームの一臣は、澪に求婚するとき「これは、私が決める」と言った。画面の中の台詞を、この人は知らない。知らないまま、同じ言葉を、恋のためではなく自分の父のことに使った。

　彼は二週間で決めた。自分の父のことを、自分の手で。慎さんも、父親に黙って帳面を持ち出した。私は三年近く、母の帳面を鏡台の底に置いたまま、一度も決めていなかった。

　＊

　冬に、早瀬遼に会った。

　珈琲店の二階だった。澪が呼び、私が付き添った。早瀬さんから、父のことで知らせがある、と手紙が来ていた。澪も、早瀬さんに会うと決めたところだった。

「父の封は、夏に開けました」と、店へ向かう道で澪が言った。「読んで、会うことにしました」

　何が書いてあったのか、澪は言わなかった。私も訊かなかった。

　早瀬は、コートの肩に雪を乗せたまま入ってきて、椅子に座る前から喋っていた。

「小野さん、どうも。今日は来てくれてありがとう。天導さんも」

「私が会うと決めたので、今日来ました」と澪が言った。

　早瀬は珈琲を三杯頼んだ。三杯とも自分の前に並べた。

「変ですか」と彼は言った。「一杯目は熱いうちに、二杯目は話しながら、三杯目は帰る前に。おれは喋ると喉が渇く」

　澪は自分から質問した。用意してきた紙を広げて、順に読み上げた。父の名前。星見荘。八月十五日。桟橋。事故と発表された経緯。

　早瀬は答えられるものには答え、答えられないものには「知らない」と言った。

　私は付き添いのふりをして黙っていた。黙っていれば安全だった。

　澪が最後の一つを読み終えたとき、早瀬が私のほうを向いた。

「天導さん。親父さんのこと」

　私は膝の上で手を握った。

「見つけた。南浦の蓬田造船に、九年いる。その前は三つ職を変えてる。名は恭介のままだ。会ってきた」

「会った」

「先月」

　早瀬は一杯目の珈琲を置いた。

「取材のことを、あんたたちに全部話す義理はない。話す気になったのは、あの人が、自分の口で話したがってるからだ」

「なんて」

「あの日、電報が来たと言ってる」

　私は息を詰めた。

「本社から至急の呼び出しだと。それで湖を出た。夕方の汽車で帝都へ向かい、翌朝、本社でそんな電報は出していないと言われた。それで戻った。戻ったときには、宗一郎さんは湖から引き上げられていた」

　澪が紙に何か書いた。

「電報を打った局は、湖の町の局だ。十三年も前だから控えは怪しいが、当時の局員が一人、まだ生きてた。打ちに来たのは若い男で、分家の書生さんだった気がする、と言ってる。いま、名前を当たってるところだ」

　早瀬は二杯目を持ち上げた。

「それから、あの人はこうも言ってる。娘さんから手紙が来ていないか、南浦へ移ってからずっと、何度も造船所の事務に確かめたそうだ」

　部屋の空気が、遠くなった。

「一通も来ていない。あの人はそれを、娘が書かないのだと思ってる」

　私は自分の手が冷たいのに気づいた。

「わたしは」と言いかけて、声が出なかった。

　五通、と言おうとした。十一の年から五通。全部、母に渡した。母は「出しておきます」と言った。

　言えなかった。言えば、次の言葉が出てくる。では、あの五通はどこへ行ったのか。

　早瀬は私を見て、それ以上何も訊かなかった。彼は「言うのは、あの人自身がすべきだ」と言った。「おれが代わりに書くと、あの人はただの証言者になる。あの人は、長いあいだ、誰にも話を聞いてもらえなかった人だ。おれは、あの人が自分で喋る場所を作りたい」

　彼は三杯目を飲み干してから、もう一つだけ付け足した。

「それと、小野さん。湖の近くの村に一人、話せるかもしれない人がいる。十三年前に天導家に勤めていた女中だ。名前はお絹。会うかどうかは、あんたが決めてくれ」

　澪は「会います」と即答した。

　早瀬は雪の中へ出て行った。

　店の前で、澪が私を見た。何か言いたそうだった。私は「寒いですね」と言った。澪は「寒いですね」と言って、寮のほうへ歩いていった。

　＊

　年が明けて二月、澪に空き教室へ呼ばれた。

　放課後で、窓の外はもう暗くなりかけていた。教室の暖炉は火が落ちていて、机の上の埃が白く見えた。澪は教壇の横に立っていて、手に何も持っていなかった。慎の処方簿も、一臣の下書きも、ここにはなかった。

「お絹さんに会いました」と澪は言った。

　私は扉を閉めた。

「湖の近くの村で、洗濯の仕事をしておられます。十三年前のことを、私に話してくださいました。最初は話したくないとおっしゃって、三度目に伺ったときに」

　澪は私の顔を見ていた。

「八月十五日の晩、奥様がお嬢様に匙で何かを飲ませるのを見た、とおっしゃいました。そのあと台所へ行けと言われて、行った。戻ったら、お嬢様がいなかった。明け方、舟屋で眠っているのを見つけた。揺すっても、なかなか起きなかった」

　私は黙っていた。

「四つのお嬢様は、迷子になったのではありませんでした。眠らされて、舟屋に置かれていたんです」

　澪の声は震えていなかった。震えないように、何度も練習してきた声だと思った。

「天導さん。私は、父の名前を返してもらいたいんです。桟橋を見ていなかった番人、という名前を。父は、あの柱の鋸の痕を見つけて、誰にも言えないまま死にました」

「……はい」

「それで、今日は、お願いがあって来ました」

　澪は一歩、こちらへ来た。

「奥様の帳面があるなら、あなたから出してください」

　私は澪を見た。

「慎さんの処方簿は、薬が出たことを示します。一臣さんの下書きは、伯父様が後見を準備していたことを示します。お絹さんの話は、あの晩に何があったかを示します。でも、それを誰の手が決めたのかは、まだ分かりません。私はそれを、奥様ご自身の字で確かめたいんです」

「……」

「今なら、まだ間に合います」

　澪はそこで一度、息を吸った。

「だから、表に出す前に、あなたにだけ訊きに来ました」

　教室の窓で、風が一度鳴った。

　言えばよかった。あります、と。鏡台の底に、と。八月、湖、灯籠、舟屋、と書いてあります、と。

　私は、口を開いた。

　開いて、閉じた。

　間に合う、と澪は言った。

　何に。

　頭の中で、三つのことが同時に動いた。

　一つ目は、意地だった。

　十六の春、廊下で、この子は私に言った。いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ。私はあの言葉で、手を上げかけた。あれから二年近く、成績と、窓際の席と、栗饅頭で張り合ってきた。饅頭を半分こにしても、洋装を贈っても、あの言葉は取り消されていない。

　もう遅いと言ったのは、あなたでしょう。

　それを、いまになって、間に合う、と言う。私は、それが悔しかった。こんなときに悔しがっている自分が情けなくて、それでも悔しかった。

　二つ目は、母だった。

　帳面を出せば、母は伯父と同じ席に座らされる。ゲームでは、母は従犯だった。兄に命じられて娘を眠らせた人で、それで済むはずのことを、私が母の字で重くする。

　布を選んでくれた人だ。あなたに似合う、と言ってくれた人だ。珈琲の淹れ方を教えてくれて、薄い、と言ったあとで、湯の落とし方は上手、と言ってくれた人だ。私が一晩に一包ずつ薬を出すのを、何も言わずに受け取って、酒の匂いのする夜を少しずつ減らしてくれた人だ。

　あの人が、警察に連れていかれる。私の出した帳面で。十歳の夜に胃が縮んだのと同じ場所が、いまも縮んだ。

　三つ目が、いちばん大きかった。

　出したら、誰が救われるんだろう。

　宗一郎さんは戻らない。澪さんのお父さんも戻らない。お絹さんが台所へ行った十三年も、父が造船所の事務に手紙を訊きに行った九年も、戻らない。

　澪さんは、帳面を出さなかったら『もっと早く出してくれれば救ってあげたのに』とか言いそうだけど、実際それで救われることってなくない？

　救う、というのは、死んだ人の名前のことだろう。番人の名前を返すこと。それは大事だ。早瀬さんもそう言った。でも、名前が返っても、あの人は栗饅頭をもう半分こにできない。母が捕まっても、仏間の写真の人は、写真のままだ。

　十歳の朝から、ずっとそうだった。もう終わってしまったことの、あとだった。いまさら何を出しても、終わったことは終わったままだ。

　三つは、別々のことのはずだった。それが、一つの結び目になっていた。どれか一つをほどけば、残りの二つもほどけたのかもしれない。私は、どれもほどかなかった。

　麻辣の店を断った夜と、同じ形だった。行きたいのに、服と会話と三回目のことを考えて、一回目から逃げる。

「知りません」

　言ってしまった。

　澪は、しばらく何も言わなかった。私の顔を見ていた。私は澪の顔を見られなかった。見れば、あれは嘘ですと言ってしまうと思った。言ってしまえばよかったのに、そう思った。

「……そうですか」

　澪はそれだけ言った。

　私たちは一緒に教室を出た。校門まで歩いた。歩けば、まだ言い直せる距離があった。校門までは二百歩ある。二百歩のあいだに、あれは嘘です、と言うことはできた。

　一歩ごとに、言う言葉を頭の中で作った。あれは嘘です。帳面はあります。鏡台の底に。作るたびに、言う前の息を吸った。吸って、吐いた。吐いた息は白くて、何の言葉にもならなかった。

　百歩目で、澪が言った。

「天導さん。去年の夏、服をくださったでしょう。あの青い」

「はい」

「あれ、まだ借りているつもりでいます」

「返さなくていいんです」

「そういう問題ではないんです」

　いつもの言い合いだった。いつもと同じように終わった。

　私は言わなかった。

　澪は「では」と言って、寮のほうへ曲がった。私は馬車に乗った。

　馬車の中で、私は自分の膝を見ていた。あの教室で、私は母を守ったのだと自分に言おうとした。言おうとして、それが三分の一しか本当でないことを知っていた。残りの三分の一は意地で、もう三分の一は、どうせ何も戻らないという、諦めだった。

　諦めは、楽だった。十歳の朝から、私はその楽さに寄りかかってきた。もう遅い、と自分に言えば、何もしなくていい。

　＊

　二月の終わりの夜、私は一度だけ、帰りたいと思った。

　布団の中で、目を閉じて、あのゲームのタイトル画面を思い浮かべた。帝都の空と、桜と洋燈の意匠と、始まりの音。十歳の最初の夜にやったのと同じように。

　何も出なかった。

　七年前も出なかった。分かっていた。それでも、澪の「そうですか」を聞いてしまったこの冬だけは、どこかに帰り道があってほしかった。

　帰りたい、と思ったのは、六畳の部屋が恋しかったからではなかった。あそこへ帰れば、帳面を出すか出さないかを、もう決めなくていい。澪の顔を見なくていい。饅頭の日に、走らなくていい。そう思ったとき、胸のどこかがひどく痛んだ。澪と張り合えなくなるのは嫌だった。嫌なのに、その夜の私は、それでも帰りたかった。

　帰りたいというのは、私の場合、選ばずに済む場所へ行きたいということだった。

　出ないと分かってから、私はしばらく暗い天井を見ていた。

　あの画面は、少なくとも、私が呼んで出るものではない。十歳の最初の夜と、十七の冬のこの夜。二つの夜に何度も呼んで、一度も出なかった。

　帰れないのだから、ここで決めるしかない。そう思ったのに、私はその夜も決めなかった。決めないまま、四月が来た。

　それから十八の夜まで、私は一度もタイトル画面を思い浮かべなかった。

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# 第六章　星の間

　十八歳の誕生日の朝、三村弁護士が来た。

　四月二十日。晴れていた。庭の桜はもう散っていて、敷石に花びらが張りついていた。

　三村は六十に近い、小柄な人だった。玄関で名刺を出し、「お嬢様に直接お渡しするようにと申し付かっております」と言って、封書を差し出した。

「どなたから」

「天導宗一郎様から。十八歳の誕生日にお渡しするようにと」

　ゲームの瑠璃は、この封書を読まずに燃やす。十七の冬に、母の帳面と一緒に。だから画面の中で、三村の封書の中身は一度も出てこなかった。あちらの瑠璃のところへは、もっと早く届いていたのかもしれない。この家では、十八の誕生日の朝に来た。

　私は封書を持って、自分の部屋へ上がった。

　鍵をかけた。窓を閉めた。座って、封を切った。

　三通入っていた。

　一通目。遺言の写し。

　――余、天導宗一郎、天導瑠璃を余の実子として認知す。本条項は余の死亡により効力を生ずるものとす。

　日付は、瑠璃が三つの年の十二月。証人二名の署名。宗一郎の署名。

　ただの「おじさま」ではなかった。

　私は自分がこの八年、「おじさま」の写真に手を合わせていたことを思った。仏間で、母の隣で、珈琲の匂いの中で。

　二通目。手紙の写し。

　――藤乃へ。

　――私たちの子に、名を考えた。

　――男の子なら勝手にせよ、女の子なら瑠璃としたい。瑠璃丸の瑠璃だ。船の名を人につけるのは縁起が悪いと父なら言っただろうが、あの船は沈まなかった。

　――銀細工屋に星を頼んだ。裏に名を彫らせる。生まれる前に彫らせるのは気が早いが、私は気が早い。

　日付は、この身体が生まれる二月前。

　私は髪飾りを取り出した。裏を見た。「瑠璃へ」。

　この三文字は、生まれる前に彫られたものだ。生まれる前に、この人はもう名前を決めていた。気が早い、と自分で書く人だった。十歳の朝から八年、私は写真の顔しか知らなかった。

　三通目。母の字だった。

　――宗一郎様。静子様とのご婚約のこと、兄から伺いました。

　――百合子様がお亡くなりになってから、一年、待ちました。この子が生まれてからは、三年。

　――私はあなたに、もう何も求めません。ただ、この子の身分だけは、あなたの手で確かにしてください。

　――生きておられるうちに言えないのでしたら、せめて、亡くなったときに効く紙を、この子にください。三村先生へお預けくだされば、それで結構です。

　――あなたは決めない人です。決めないことで、人を待たせて、待たせていることに気づかない人です。私はもう待ちません。

　日付は、一通目と同じ十二月だった。

　私は三通を膝に並べた。

　亡くなったときに効く紙。

　その紙は、宗一郎が死ななければ何の意味もない。宗一郎が静子と結婚して子を持てば、なおさら意味がない。その紙を求めたのは母だった。母の字で、母の言葉で。

　指を折った。十二の夏、母は言った。婚礼は、あなたが四つの年の十月のはずでした。

　三つの十二月に、この手紙。四つの四月に、帳面の最初の薬と、その横の四つの語。七月に、伯父の下書き。八月に、湖。十月に、婚礼のはずだった。

　指が、そこで止まった。数えるまでもなかった。

　四月は、七月より先だった。

　母は、被害者ではなかった。

　いや――被害者ではなかった、というのは正確ではない。母は血のない分家の娘で、兄に後見権を奪われて、愛した人には決めてもらえなかった。一年待って、三年待って、それでも選ばれなかった。それは全部本当だ。

　同時に、この紙を求めたのは母自身で、兄の下書きより三か月早く、湖と灯籠と舟屋を帳面に書いたのも、母自身だった。この三通と帳面だけで、あの夜の全部の手順が分かるわけではない。それでも、何も選べず兄に従わされたのだ、という私の説明では足りなかった。

　私が十二歳の夏に選んだ解釈は、私が楽になるための解釈だった。

　十四の冬、あの帳面を見つけた日に、私は四月という字を見た。見て、ゲームで伯父がいつ妹に話を持ちかけたのかを思い出そうとして、思い出せないふりをした。十七の秋、一臣の下書きの七月という字を見た。見て、いちばん母に優しい理由を選んだ。私は二度、見ていた。二度とも、見なかったことにした。

　手紙の中で、母は一度も、この子を名前で呼んでいなかった。

　この子の身分。この子にください。この子が生まれてからは。

　十歳の朝、この身体の喉に残っていた言葉の尻尾を、私は思い出した。

　――……なければ、よかった。

　あの朝、母は仏間で、この子に何かを話した。この子は話の途中で部屋へ戻り、枕を濡らした。何を話したのか、私は八年、訊けなかった。

　いまも分からない。分からないが、一つだけ思い当たる言葉があった。――生まれてこなければ。

　この子は、宗一郎の子として産まれて、恭介の子として届けられて、本家の子になるための紙を待たれて、その紙が効くために、四つの夏に眠らされた。そのあとの六年、この家で、母の話を聞いて育った。

　私は長いあいだ、膝の上の紙を見ていた。

　それから、南浦の人のことを思った。九年間、造船所の事務に、娘から手紙が来ていないかと訊き続けた人。私は五通書いた。五通とも母に渡した。母は「出しておきます」と言った。

　あの五通が、どこへ行ったのか。

　答えは、この三通目の字と同じ字で書かれているはずだった。

　母を守る理由の半分は、この朝、なくなった。残りの半分は、珈琲店の二階で南浦の人の話を聞いた冬に、もうなくなりかけていた。それでも私は、四月まで決めなかった。決めないまま、今日が来た。

　出す時期を自分で選ぶ、と十歳の夜に決めた。その私は、八年間、一度も選ばなかった。

　――私はもう待ちません。

　母の字だった。母はそう書いて、待つのをやめて、人を死なせた。

　私は、待つのをやめて、何をするのだろう。

　破滅は来るだろう。ゲームで見たとおりに来るかもしれないし、違う形で来るかもしれない。どちらにしても、それは私がこの八年に選んだことと、選ばなかったことの結果だ。私は、それを引き受ける。

　私は鏡台の底板を外した。

　三年余り隠してきた藍色の帳面を出した。今度は、戻すつもりで開かなかった。

　三村の封書と並べて、机の上に置いた。

　その日の午後、母が部屋に入ってきた。

　ノックはなかった。母は机の上を見た。三村の封書と、藍色の帳面。

　母は何も言わなかった。

　私も言わなかった。

　母は一分ほど立って、それから、私の髪に触れた。

「今夜は、髪を上げなさい」

「はい」

「星をつけて」

「はい」

　母は出て行った。

　母は帳面を取り上げていかなかった。私が出すと知ったのかどうか、訊く時間はもうなかった。

　＊

　黒と深紅の衣装だった。この家では十八の成年披露に、当主の血筋の子は黒地を着ることになっている。深紅は袖と裾の縁取りに使われていて、動くたびに黒の中から細く見える。裾は重く、歩幅を狭くしないと踏む。

　仕立ての最後の日に、袖口の深紅がもう少し見えるようにしてくださいと、私は仕立屋に頼んだ。腕を動かしたときに、赤が糸のように光るのがいいと思ったからだ。母がそれに気づくとは限らない。気づかなくてもいい。気づいたら嬉しい。そのくらいのことのために、私は三日迷って仕立屋に手紙を書いた。

　鏡には天導瑠璃がいた。

　十八の瑠璃。私が十歳の八月からずっと借りている顔。目のかたちが母に似ていて、そこだけ私は見るのが苦手だった。髪は結い上げてある。まだ髪飾りは挿していない。

「動かないで」

　母が後ろに来た。手には銀の星があった。

　六つの角を持つ、掌に隠れるほどの小さな星。母の指が私の髪に触れて、星を留めた。

「今夜はこれをつけていなさい」

「はい」

「あなたは瑠璃という名前で紹介されます。瑠璃丸の瑠璃。天導の船の名前。それだけ覚えていればいいの」

　鏡の中で母と目が合った。母は少し笑った。四十二歳の、疲れていない日の笑い方だった。

「よく似合っている。深紅は難しい色なのに」

　私は嬉しくなってしまった。今日の午後、机の上に何があったのかを知っている人に褒められて、嬉しくなってしまった。そういう自分に気づいて、袖口を直した。

　今夜、私は何を失うのだろう。数えかけて、やめた。数え始めると足が動かなくなる。

　＊

　星の間の壁には、天井の縁まで星図が貼られている。北の空をひとつ、南の空をひとつ、そのあいだに海図がいくつも並び、赤い糸で航路が引いてある。糸の折れ目に印がついているのは、天導の船が寄った港だという。祖父の代から誰も貼り替えていないから、いまでは実際の航路と合わない線もあるらしい。それでも誰も剥がさない。この家の人間は、古い紙をとても大事にする。

　壁の下半分には時計が並ぶ。船舶用の真鍮の時計が、四十三あると佐伯が言っていた。十二の冬に自分で数えようとして、二十を過ぎたあたりで、どれを数えたのか分からなくなってやめた。動いているのは十九だけだという。動いている十九の秒針がわずかにずれて刻むので、この部屋にいると、雨が屋根を叩いているような音がずっと続く。

　今夜は、その音の中で私の成年が披露される。

　悪人だけの集まりではない。この広間には、私が八年かけて挨拶を覚えた人たちがいる。川口先生がいる。学院の教師がいる。分家の商会の人がいる。去年、庭の薔薇の株を分けてくれた老婦人がいる。慎の父の蘆田先生もいる。慎も父の少し後ろにいた。帽子を脱いだ早瀬さんが、壁際で手帳を持っていた。一臣は伯父のそばに立っていた。

　澪が近づいてきた。十九歳。去年の夏に私が贈った淡い青の洋装を着ている。彼女はそれを着てくるとき、必ず同じことを言う。今日も言った。

「借りているつもりでいますから」

「返さなくていいんですけど」

「そういう問題ではないんです」

　澪は隣に座った。今夜、私の隣に座る人は、私が頼んで決めてもらっていた。

「天導さん」と澪が言いかけた。

　私は先に言ってしまった。

「言わないでください。今は」

「え」

「待ってしまうから」

　澪が黙った。何かを言いかけていた口が、そのまま閉じた。私は自分の膝を見ていた。彼女が今夜何をするつもりなのか、私はだいたい分かっていた。分かっていて、それでも、彼女が「今からやります」と言ってしまったら、私はその言葉に寄りかかって、自分では動かなくなる。誰かが始めてくれるのを待ってしまう。私はそういう人間だ。二十七年やって、こちらで八年やって、まだそうだ。

　正面の壇で、伯父が挨拶を始めた。

　天導貞光。五十二歳の声はよく通る。天導瑠璃の成年を祝う言葉、亡き宗一郎への言葉、家の航路への言葉。拍手が起こる。

　＊

　澪が立った。

「小野澪と申します。天導家に十二年お仕えした小野弥吉の娘です。父は湖の星見荘を守っておりました」

　部屋の音が変わった。秒針の音が急に大きくなったように聞こえた。

「十四年前の八月十五日、桟橋で何があったか、父が書き残したものがございます」

　澪は懐から封筒を出した。手が震えていた。震えたまま、彼女は続けた。封は十八の夏に自分で切った、と澪は言った。父の遺した紙だけでなく、今、生きて話せる人を探してきたのだと。

　小野弥吉は、八月十五日の午後、桟橋の柱に新しい鋸の痕を見つけたと書いていた。誰にも言えなかったと書いていた。そして、灯籠の見回りを口実に旦那様を桟橋の先へ誘ったのは天導貞光様で、落ちたあともすぐには人を呼ばなかった、と書いていた。

　叫び声のようなものが上がった。

　母のグラスが、指から滑って落ちた。石の床で割れた音は、思ったより小さかった。誰かが「奥様」と言った。母は動かなかった。母は澪を見ていなかった。私を見ていた。

　慎が処方簿を出した。彼の父の蘆田先生は、その場で「私の落ち度です」と言った。息子が持ち出したことを咎めなかった。

　一臣が、伯父の下書きを出した。自分の父の机から取ったと、はっきり言った。会場がざわめいた。伯父が「一臣」と言った。一臣は「はい」と答えて、それ以上何も言わなかった。

　お絹という人が呼ばれた。小柄で、丸い顔の人だった。丸い顔なのに、頬がこけていた。三十六歳だと、早瀬さんが紹介した。天導家を十三年前に解雇された女中で、澪が三度通って話を聞いた人だった。彼女は震えながら、八月十五日の夜、台所へ行けと言われたこと、その前に奥様が娘さんへ匙を運ぶのを見たこと、戻ると娘さんの姿がなく、明け方に舟屋で眠っているところを見つけたことを話した。話し終わったあと、彼女は「わたくしは、あの晩、台所へ参りました」と言って、泣いた。翌年に暇を出され、余計なことを言えば次の勤め口もないと言われたことを、泣きやんでから付け足した。

　早瀬さんが前へ出た。

「湖の町の局から、あの日の昼過ぎに電報が一通打たれています。宛先は星見荘の天導恭介さん。本社からの呼び出しという文面です。打ちに来たのは、辰巳という男でした。当時二十二歳。天導貞光さんの書生です。当時の局員が、顔と名前を覚えていました」

　伯父の顔が、少しだけ動いた。

「その電報を受け取った人が、南浦から来ています」

　天導恭介は、会場の後ろのほうに立っていた。

　大柄な人だった。写真帖の中より痩せていて、それでも肩幅は広く、人の頭一つぶん上に顔があった。日に焼けた顎に、剃り残しのひげが少しあった。背広が明らかに借り物だった。肩の縫い目が合っていない。袖から出た手の指が太かった。彼は、誰も抱いていない腕を、身体の前に置いて立っていた。

　四十九歳のはずだった。

　彼は前へ出て、電報のことを話した。低い声だった。八月十五日の十五時に電報を受け取ったこと。十七時の汽車で帝都へ向かったこと。翌朝、本社で誰もそんな電報は出していないと言われたこと。戻ったときには、宗一郎はもう亡くなっていたこと。

　それから、彼は言った。

「あのう、もう一つ、よろしいでしょうか」

　彼の言葉遣いは、この部屋の誰よりも丁寧で、この部屋の誰よりも不慣れだった。

「そのあと、九月の親族会で、血の検査の紙を見せられました。娘は二つのときの検査でAB、わたしはO、妻はAだと。わたしの子ではない、認めろと。あれは誰の子かまで分かる検査ではありませんでした。それでもわたしは、否認の書類に署名しました」

　彼はそこで口を閉じ、もう一度開いた。

「生まれたとき、宗一郎さんが瑠璃という名をお出しになって、わたしはそのまま従いました。それでも、わしが育てた娘でした。……わたしが。署名してよい理由には、なりませんでした」

「わたしは、九年、造船所の事務に、手紙が来ていないか訊いておりました。娘から来ていないかと。一通も来ませんでした」

　私は立っていた。

「わたしは、五通、書きました」

　自分の声が部屋に響いた。

「十一のときから、五通。全部、母に渡しました」

　恭介が私を見た。

　彼の顔が、ゆっくりと崩れた。崩れるという言い方しかできない。彼は口を開けて、閉じて、それから太い指の手で顔を覆った。

　私は「お父様」と言おうとした。言えなかった。「パパ」も言えなかった。この身体はそう呼んでいたはずなのに、私の口はどうしても動かなかった。私は八年、この人を心の中で「恭介さん」としか呼んでいなかった。

　伯父が立ち上がった。

「作り話だ」

　彼の声は、まだよく通った。

「小野という男は解雇された使用人だ。その娘が持ってきた紙に何が書いてあろうと、死人の作文だ。処方は医者の落ち度で、私とは関係がない。辰巳が電報を打ったのなら、辰巳に訊け。電報など――そこの男が、十四年前に自分の失態をごまかすために作った話だろう」

「わたしは、電報を持っております」

　恭介が言った。

　彼は懐から、折り畳んだ紙を出した。

「十四年前の八月十五日、十五時、湖の星見荘で受け取ったものです。ずっと持っておりました」

　彼は、その紙を胸の高さで持って、しばらくそこに立っていた。

「捨てられませんでした」

　誰かが息を吐く音がした。

　三村弁護士が前へ出て、紙を受け取った。裏を見て、局名と時刻を読み上げた。早瀬さんが手帳に書きつけた。

　母は、椅子に座ったままだった。

　母は一度も立ち上がらなかった。誰の話にも異議を唱えなかった。処方簿が読み上げられたときも、お絹さんが泣いたときも、恭介さんが顔を覆ったときも、母は前を見ていた。

　私は、その母の背中を見ていた。

　この人は、この八年、私に珈琲の淹れ方を教え、布を選んでくれ、髪を上げなさいと言った人だ。

　同じ人が、あの六行と四つの語を書いた。

　最後に、私が出した。

　三村の封書と、藍色の帳面。

「これは、母の家計簿です。十四歳の冬に、母の抽斗から取りました。薬の購入が六回。四月に二回、五月に二回、六月、七月。最初の四月の薬と同じ行に、八月、湖、灯籠、舟屋と書いてあります」

　誰も何も言わなかった。

「三年余り、隠していました。誰にも見せませんでした。今日まで、自分から出しませんでした」

　三村が帳面を受け取って、頁を繰った。四月の欄を、親族会の三人に見えるように開いた。

　そのとき、伯父が言った。

「四月に、湖のことまで？」

　声が裏返っていた。さっきまでのよく通る声ではなかった。

「それは妹が勝手に考えたことだ。私が相談を受けたのは六月だ。四月の計画まで私は知らん」

　広間の音が止まった。

　伯父は、自分が何を言ったのかに、少し遅れて気づいたようだった。口を開けたまま、次の言葉が出てこなかった。相談を受けた、と彼は言った。自分の罪を小さく見せるために、妹を先に立たせた。そうすることで、相談を受けたこと自体を認めてしまった。

　親族会の一人が、ゆっくりと「貞光さん」と言った。

　私は伯父を見ていなかった。私は母を見ていた。

　母は、前を見ていた。兄のほうを一度も見なかった。

　そして、私は分かった。

　四月の処方はゲームにもあった。けれど、医院の処方簿からは、母がその月に湖と灯籠と舟屋を思い描いたことまでは分からない。私は十四の冬に、その四語を見ていた。ゲームの瑠璃が燃やした帳面にしかなかった字だった。燃やされたあとで、澪が集められたのは、医院の処方簿と、伯父の下書きと、お絹さんと恭介さんの話だった。そこから組み立てれば、主犯は七月に根回しを始めた伯父になる。母は、兄に言われて娘を眠らせた人になる。

　ゲームの真相は、燃やされた帳面を抜いた真相だった。

　私が燃やさなかったから、四月の四語が残った。伯父はそれを見て妹を先に立たせた。母が兄より先に計画を持っていたことを、この広間の全員が、いま知った。

　私が十歳の夜に選んだ「焼かない」は、この子を断罪から守るための手のつもりだった。それは、母を守らなかった。

　警察が来たのは、それから四十分後だった。母と伯父が連れて行かれた。母は玄関で一度だけ振り返って、私を見た。何も言わなかった。

　その夜のうちに、親族会が開かれた。

　結論は、二つだった。

　一つ。天導瑠璃は宗一郎の実子である蓋然性が高いが、遺言認知の実行および養女指名の手続には、逮捕された二名が関与している。したがって、調査が終わるまで、瑠璃の跡取りとしての権限を停止する。

　二つ。この停止は、血縁の否定ではない。

　三村弁護士が、そう読み上げた。読み上げてから、私に小さく頭を下げた。

　追放、とは言われなかった。修道院、とも。証拠を隠していた娘は、隠していたものを自分で出した。三村はあとでそう言った。燃やしていれば、話は違いました、とも。

　＊

　廊下の手前で、澪に呼び止められた。

　星の間の扉の外で、人がまだ何人も立って話していた。澪はその人たちから少し離れたところにいて、私が出てくるのを待っていたようだった。淡い青の洋装の襟が、少し曲がっていた。

「天導さん」

「はい」

　澪は、しばらく私の顔を見ていた。二月の空き教室と同じ顔だった。

「あのとき、言ってくれていたら」

　澪の声は、あのときと違って、少し震えていた。

「私はあなたを守れた。……守りたかったんです」

　私は、澪の顔を見た。

「間に合う、と言ったのは、あなたのことです」

　澪は言った。

「二月なら、表に出す前に、早瀬さんや大人の方たちと相談できました。四つのときに眠らされて舟屋に置かれたことと、そのあとで帳面を持っていたことを、分けて話す支度ができた。あなたを、あの晩の子として、私の隣に立たせる支度が。それで何もかも免れたとは言いません。でも、一人で皆さんの前に立たせずに済みました」

　澪は、一度、息を吸った。

「私は、あなたに訊いたんです。あなたは、知りません、と言いました」

　私は、息ができなかった。

　二月の教室で、私は思ったのだ。出したら、誰が救われるんだろう、と。死んだ人は戻らない。救われることってなくない？　と。

　救われる人は、いた。

　私だった。

　澪は、死んだ人の話をしていたのではなかった。十六の春に廊下で、もう遅いですよ、と言った人が、十七の冬には、まだ間に合う、と言いに来た。私のために。私は、自分がもう遅いと言われたことに意地を張って、そのことを聞かなかった。

「ごめんなさい」と私は言った。

　澪はその言葉を、受け取らなかった。受け取らないまま、目を伏せた。

「借りているつもりの服は、お返しします」

「返さなくて」

「そういう問題ではないんです」

　いつもと同じ言葉だった。いつもと同じようには、終わらなかった。澪は頭を下げて、人のあいだへ戻っていった。

　二月に澪が用意してくれた席に、私は座らなかった。その席は、もうどこにもなかった。

　＊

　廊下で、一臣に会った。

　深夜だった。星の間の灯りは消されていて、廊下の端の洋燈だけがついていた。彼は柱に手をついて立っていた。

「一臣さん」

「天導さん」

　彼は姿勢を直した。

「今日のことは、正しかった。それを言いに来た」

「はい」

「あなたとの婚約は、続けられない」

　私は頷いた。分かっていた。

「あの婚約は、父の計画の最後の一手だった。本家の血を持つ娘と、分家の息子を結ぶ。それで乗っ取りが仕上がる。私はそれを知らずに、あなたに、嫌なら断れると言った。同じ形のまま続けたら、私は父の仕事を仕上げることになる」

「はい」

「明日から、商会の帳簿を全部開く。本家から分家の商会へ流れた金がどこへ行ったか、誰かに調べられる前に、自分で調べる」

　一臣は、少し言葉を切った。

「父の机を開けたのは、あなたに頼まれたからだ。叔父上の居所を探してくれと。頼まれなければ、私はあの紙を見つけなかった」

　私は顔を上げた。

「それだけは、言っておく」

　彼は「では」と言って、行った。角を曲がる前に、一度こちらを見た。それだけだった。

　十三の庭で、駆け落ちしてください、と言ったのを思い出した。……は？　と言われたのを。

　今夜は、言わなかった。

　＊

　私は星の間に戻った。

　誰もいなかった。割れたグラスは片づけられていた。四十三の時計のうち、動いている十九だけが鳴っていた。

　椅子に座った。黒い裾が重かった。髪の星を外そうとして、手を止めた。

　何も考えないようにしていた。考えれば、今日一日のことが、どれも自分の八年のどこかにつながってしまう。

　そのとき、目の前に文字が浮かんだ。

　私は何もしていなかった。目も閉じていなかった。タイトル画面を思い浮かべてもいなかった。七年のあいだ、何度呼んでも出てこなかったものが、呼んでもいないのに、そこにあった。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　私は息を止めた。

　暗い星の間に、三行だけが浮いている。手を伸ばしても触れない。目を閉じても消えない。十九の秒針の音が聞こえる。世界は止まっていない。廊下の遠くで、誰かが扉を閉める音までする。

　ゲームで、何百回も見た画面だった。エンディングの歌が終わって、画面が暗くなったあとに出る。物語が終わったあとに。

　終わったのだ、と私は思った。この身体で過ごした私の八年は、ここで終わった。

　「つづきから」に意識を向けた。

　　このまま続けます。

　それだけだった。この夜の続き。母のいない家、停止された権限、返される青い服、婚約のない春。

　「やめる」に意識を向けた。

　　このゲームを終了します。
　　二度と再開できません。
　　よろしいですか？

　それだけだった。

　帰れる、とは書いていなかった。元の部屋へ、とも。六畳の部屋も、充電したままのゲーム機も、北原さんも、麻辣の店も、この三行のどこにも出てこない。終了する、とだけある。終了したあと、私がどこにいるのかは、どこにも書いていない。

　私は、しばらくその行を見ていた。手が冷たかった。

　「はじめから」に意識を向けた。

　　最初から始めます。
　　やり直しは一度だけです。

　最初から。

　どこからだろう、と思った。

　頭のどこかに、数が一つ浮かんだ。三十一日。罫線のノートの夢の人が、事件の三十一日前の朝に戻って、そこから一か月で全部をひっくり返していた気がする。舟屋で目を覚まして、時刻表を作って。

　三十一日前じゃ足りない。

　事件は、四歳の八月だった。三十一日前に戻っても、この子は四つだ。母の帳面の四月の薬は、もう始まっている。

　四歳。……もっと前。

　三村の封書は、三つの十二月だった。百合子さまが亡くなったのは、二つの冬だった。蘆田先生が帝都にいなかったのは、この子が一つの年だった。

　もっと前。

　この身体の最初から、ということだと思った。この子が生まれるところから。

　十四年前の湖より前。宗一郎がまだ生きているとき。百合子さまが、まだ病の見つかる前のとき。恭介さんがまだこの家にいるとき。小野弥吉が鋸の痕を見つける前。お絹さんが台所へ行かされる前。

　零歳。首も据わらない。喋れない。歩けない。泣くことしかできない時間が、何年も続く。あの時間を、大人の意識のまま過ごす。想像しただけで、背中が冷えた。それに、戻ったからといって事件を変えられる保証はどこにもない。この画面は「変えられます」とは言っていない。「始めます」としか言っていない。

　それに、最初からへ行けば、ここで過ごした時間は、どこにも残らない。栗饅頭のはんぶんこも、夕立の傘も、市場の手首も、窓際の席のくしゃみも。最初からの世界で私が会う澪は、まだ一つの赤ん坊で、私を知らない。慎さんは五つで、早瀬さんは八つだ。取り戻しに行くのではない。ここでのことは、ここで失う。そう思うと、息が浅くなった。

　それでも、と私は思った。

　あの背広の肩の縫い目が合っていない人が、九年、事務に手紙を訊きに行っていたということ。台所へ行きましたと言って泣いた人。桟橋で鋸の痕を見つけて、誰にも言えないまま病気で死んだ人。栗饅頭を半分こだと言って娘に渡していた人。そして、私が一度も会ったことのない人。写真の中で、少しだけ笑いかけている人。気が早い、と自分で書いた人。

　その全部が、もう終わったあとだ。私が八年かけてやったのは、終わったあとの片づけだった。片づけすら、うまくできなかった。

　最初からなら、会える。生きている宗一郎に会える。恭介さんに、あの背広を着る前の彼に会える。お絹さんに会える。小野弥吉に会える。彼らが死ぬ前に、追われる前に、泣く前に、会える。

　それから、この子。

　十歳の朝、喉に言葉の尻尾だけを残していった子。生まれてこなければ、と言ったのかもしれない子。最初からなら、この子が生まれる前から、私はいる。生まれてきた日から、この子の隣にいられる。何ができるのかは分からない。分からないけれど、十歳の朝よりは、前だ。

　そして――これは、私が私のために言うことだ。

　私も、もう一度暮らしたい。

　この八年、私はここが好きだった。朗読を三度目でうまく読めた日が好きだった。菓子屋で「行きます」と言えた日が好きだった。饅頭を半分こにした日が好きだった。私はそれを、事件の前から、もう一度やってみたい。今度は、隠さずにやってみたい。

　自分を全部捨てて誰かを救いに行く、という気持ちではなかった。私はそんなに立派ではない。

　それから、もう一つ。

　今度は、待たない。

　出す時期を選べると思っているあいだ、私は一度も選ばなかった。三人が動くと言ってくれたから、私は動かなかった。澪が席を用意して待っていてくれたのに、私は座らなかった。もう遅い、と自分に言うたびに、私は楽になって、何もしなくなった。

　次は、分かった瞬間に動く。怖くても、服も会話も三回目のことも考えずに、一回目で言う。

　――私も、今度は。

　そう思って、私は選んだ。

　　最初から始めます。
　　やり直しは一度だけです。

　はい。

　十九の時計の音が、遠くなった。

---

# 第七章　七夜の花

　最初にあったのは、圧力だった。

　全身が締めつけられて、頭が押し出される感覚。ただしそれは、私が経験しているのではなかった。もう終わったことの余韻として、身体の側に残っていた。私はその余韻の中へ、あとから入った。

　肺に何もなかった。

　息を吸おうとした。吸えなかった。喉が詰まっているのではない。動かし方が分からない。この身体は、まだ一度も息を吸ったことがない。

　水の外の空気が、皮膚に触れて冷たかった。誰かが私を逆さに持ち上げた。背中を叩かれた。誰かが指を口に入れた。声がした。遠い。

「息をしていません」

「先生」

「湯を」

　――吸え。

　私は自分に命令した。命令の意味を身体が知らなかった。

　どのくらいそうしていたか、私には分からない。中にいると、時間ではなかった。

　誰かが私の胸を指で押した。押されたはずみに、肋のあたりが動いた。動いた場所を、私は掴んだ。掴んで、引いた。

　空気が入った。

　入った瞬間、私は泣いた。泣こうと思ったのではなかった。空気が通ると、この身体は勝手に泣くようになっていた。声が出るというより、身体全部が音になる。喉が焼けるように痛かった。

　部屋の中で、誰かが「あああ」と声を上げた。誰かが泣き出した。金盥の音がした。

「戻ってきた」

　女の人の声だった。かすれていて、力がなかった。

「戻ってきました。奥様、お嬢様です。息をしております」

「三分だ。よく戻った」

　男の人の声がした。落ち着いた声で、少し息が上がっていた。

「戻ってきた」

　もう一度、女の人が言った。

　私は目を開けようとした。開いたが、何も見えなかった。白い明るさと、黒い影の塊があるだけだった。

　布に包まれた。誰かの腕の中へ移された。

　その人の匂いがした。汗と、血と、髪油の匂い。そのもっと奥に、香の匂いがあった。

「瑠璃」

　その人が言った。

　天導藤乃。二十四歳。

　前の人生で私が知っていたのは、三十四歳からのこの人だった。十二歳の私に珈琲の淹れ方を教え、十八歳の夜に星の間で私を見た人。そして、この日から四年と四か月後の夏に、四歳の娘へ薬を飲ませる人。

　いま、この人は、私の頭のてっぺんに顎を乗せて、震えていた。

　私は、この人の腕の中で泣き続けた。

　＊

　それからの幾日かは、眠って、飲んで、泣いて過ぎた。口に押し込まれるものが何なのかは二度目に目が覚めたときに分かったが、分かっても、空腹のほうが羞恥よりずっと強かった。おむつが濡れても止められず、止められないものを誰かが開いて、拭いて、替えた。目は白い明るさと影の塊しか映さない。首は持ち上がらない。腕は、動かそうとすると一つの塊のように跳ねる。二十七年と、こちらで過ごした八年。三十五年近い意識が、それを全部、天井を見ながら受け取った。受け取るしかなかった。恥ずかしがっている暇は、すぐになくなった。

　考えなければならないことがあった。

　四歳の八月十五日。

　私はそれを、生まれた日から知っていた。

　前の人生の十八歳の夜に、私は全部を知った。

　母が組み立てて、伯父が実行した。四歳の四月から、母は蘆田医院で「眠れない」と言って薬を受け取っていた。八月十五日の夕方、偽の電報が父を帝都へ呼び出した。四歳の娘は匙で何かを飲まされて、舟屋に置かれた。桟橋の柱は、前もって切られていた。灯籠の夜、宗一郎はその桟橋から落ちた。九月の親族会で、父は血の検査の紙を見せられて、否認の書類に署名し、家を出た。

　その前のことも知っている。

　二歳の冬に、宗一郎の奥様の百合子さんが亡くなる。三歳の十二月に、宗一郎と静子さんの婚約が決まる。同じ月に、宗一郎は母に求められて、自分が死んだときにだけ効く認知の紙を書く。婚礼は、四歳の十月。

　その紙は、宗一郎が静子さんと結婚する前に死んだときにしか、母の望む意味を持たない。だから、四歳の夏だった。

　星の間で三行を見たとき、三十一日前じゃ足りない、と私は思った。四歳。もっと前。

　その「もっと前」に、いま、私はいる。首も据わらない身体で。

　四年しかない。

　四年のうち、初めの一年、私は喋れない。二年目も、たぶんまともには喋れない。三年目に喋れても、三つの子の言うことを大人がどこまで聞くだろう。四年目の夏には、もう終わる。

　それから、もう一つ、知っていることがあった。

　十五のとき、慎から聞いた話だ。百合子さんの病は、早く見つかれば治るものだった。私が一つの年、蘆田先生は遠方に出ていて、帝都に戻ったときには手遅れだった。慎は、自分の父がそれをずっと悔やんでいると言った。

　百合子さんが生きていれば、宗一郎は静子さんと婚約しない。婚約がなければ、あの紙は書かれない。紙がなければ、母には宗一郎を死なせる理由がない。

　最初の手は、そこにある。一歳の年だ。

　私はそれを、順番に並べようとした。一歳の年、蘆田先生。二歳の冬、百合子さん。三歳の十二月、婚約と紙。四歳の四月、薬。八月十五日。

　並べているうちに、乳の時間になった。

　飲んだ。飲むと眠くなる。眠気は、私が抗える種類のものではなかった。三十五年ぶんの意志は、この身体の眠気の前では何の役にも立たない。

　目が覚めると、並べたものの三つ目までしか思い出せなかった。

　私はもう一度並べ直した。並べ直している途中で、おむつが濡れて、泣いた。泣くと呼吸が乱れて、頭の中の順番が崩れた。

　四つ目、五つ目と数えかけて、私はやめた。数えると、残りの少なさばかりが目についた。

　＊

　三日目に、私は男の人に抱かれた。

　抱かれた瞬間に、これは下手だ、と分かった。

　腕の角度が悪い。頭が支えられていなくて、後ろへ落ちそうになる。慌てて直される。直したせいで今度は首が前へ折れる。また直される。身体が前後に揺すられて、私は不安で泣いた。

「あああ、すまん、すまん」

　男の声だった。低くて、少し掠れている。

「奥様、これは、どうも、わたしがやると」

「首を、支えて。手のひら全部で」

「はい」

「肘のほうへ寄せて」

「はい」

　直されて、やっと安定した。安定すると、私は泣きやんだ。

　その人の胸は硬くて、広かった。私の背中に回った手の指が太い。服の生地が厚くて、少し油の匂いがした。機械の油だ。この人は毎日、船を作る場所にいる。頬のあたりに、ざらりとしたものが当たった。剃り残しの髭だった。

　天導恭介。三十一歳。

　前の人生で、私はこの人を写真帖の中で見た。日に焼けた顔で、作業着の襟がよれていて、笑い方が下手だった。娘が四歳の夏に湖で電報に呼び出され、九月に否認の書類に署名して、南浦へ行った人。十八歳の夜に、肩の合わない背広を着て、星の間の後ろに立っていた人。

　いま、この人は、生まれて三日の赤ん坊を落としそうになって、汗をかいている。

　しばらくして、産婆が来て、私を取り上げた。

「旦那様、少し休まれては」

「ああ」

　私は産婆の腕の中から、その人のほうを見た。まだ、はっきりとは見えない。大きな影と、明るさの差だけだ。

　その人は、手を、そのままの形で持っていた。

　私を抱いていた形のまま、腕を胸の前に置いて、しばらくそこに立っていた。中身がなくなった腕を、下ろさずにいた。

　その形を、私は知っていた。

　十八歳の夜、星の間の後ろに立っていた人が、あのとき同じ姿勢をしていた。誰も抱いていない腕を、身体の前に置いて。

　この人は、娘を失う人だ。

　前の人生では四年後に、この人は娘を失った。娘は死なないが、この人からは取り上げられる。

　私は、この人をここに残したいと思った。

　宗一郎を死なせない、という計画の一項目としてではなく、この、抱き方の下手な人を、この家に残しておきたいと思った。

　＊

　五日目、産婆が帰る日に、彼女は母にこう言っていた。

「息をなさらなかった子は、あとから追いつきます。慌てずに」

「はい」

「蘆田先生がおいでで、ようございました。あの先生でなければ、どうなっていたか」

「ええ」

「泣き声がしっかりしておいでですから、大丈夫でございます」

　あの落ち着いた男の声は、蘆田先生だったのだ。私の胸を押した指は、あの人の指だった。

　慌てずに、と私は頭の中で繰り返した。

　慌てずに、と言われても。

　私は、その「大丈夫」のほうだけを、自分に言われたことにして聞いた。

　＊

　七日目の夜に、七夜の祝いがあった。

　私は襖を開け放った座敷の、真ん中の布団に寝かされていた。目はまだよく見えない。人の輪郭が四つ、五つ。声で誰かを見分けるしかなかった。

　産婆がいた。母がいた。恭介がいた。

　もう一人、いた。

「宗一郎様がお見えです」

　その声を聞いたとき、私の中で何かが跳ねた。

　仏間の写真でしか見たことのない人。前の人生で私が目を覚ましたときには、もう六年前に亡くなっていた人。

　その人が、畳を鳴らして入ってきた。細長い影だった。背が高くて、身体が薄い。

「藤乃。おめでとう」

　声は、思っていたより高かった。柔らかい。人を追い詰めない喋り方をする人の声だった。

「宗一郎さま」

「恭介君も。よく無事で」

「はい」

「三分と聞いた。蘆田が言うには、あれで戻る子は珍しいと」

　宗一郎は布団の横に膝をついた。私を覗き込んだのだと思う。私の視界の上半分が、暗くなった。

「小さいな」

　彼は言った。

「名前だが」

　彼は懐から紙を出した。紙を広げる音がした。

「藤乃に手紙で書いたとおりだ。女の子なら瑠璃。瑠璃丸の瑠璃。あの船は初代が乗って、初代が沈めなかった船だ。父が生きていれば、船の名を人につけるものではないと言っただろう」

　紙に何か書く音がした。

「これを命名紙とする」

　それから、彼はもう一つ、懐から出した。

「これも渡しておく」

　小さな、固いものが、私の枕元に置かれた。

「銀の星だ。生まれる前に注文した。裏に彫らせてある」

　母が「まあ」と言った。

「まだ男か女か分からないうちに、彫らせたのですか」

「気が早いのは昔からだ」

　私の枕元に置かれたそれを、私は見ることができなかった。でも、私は知っている。六つの角を持つ、掌に隠れるほどの星。裏に「瑠璃へ」。前の人生では十八歳の夜、母がそれを私の髪に留めて、私は星の間へ降りた。

　――何も、変わっていない。

　時間を巻き戻しても、この星の裏の文字は同じだった。

「ありがとうございます」と恭介が言った。

　彼の声は、部屋の隅から聞こえた。

「あの、ありがとうございます。あの」

　言葉が続かなかった。

　彼はもう一度、「ありがとうございます」と言った。

　それから、こう言った。

「あの、わたしも、一字、足させてもらえませんか」

　部屋が、静かになった。

　畳の擦れる音がした。誰かが姿勢を変えた。

「恭介さん」

　母の声だった。低い声だった。

「宗一郎さまがお決めになったものです」

「はい」

「あなたが口を出すことでは」

「はい」

　彼はそう答えた。答えて、それでも続けた。

「あの、三分、この子は息をしませんでした」

　声が震えていた。

「わたしは、廊下におりました。中で先生が湯を、と言うのが聞こえて、それから、誰も何も言わなくなって。わたしは、廊下で、立っておりました」

　彼は言葉を探していた。探して、見つからないまま喋っていた。

「そのとき、わたしは、この子を呼べませんでした」

　私は、白い明るさの中で、その声を聞いていた。

「名前がまだ決まっておりませんでしたから。息をしてくれと言うにも、呼ぶ名前がない。それで、ただ、あの、立っておりました」

　誰も何も言わなかった。

「この子は息をしました。それで、わたしは、これからこの子が庭で走るところを見たい。走って、転んで、笑うところを見たいと思いました」

　彼は一度、息を吸った。

「花の字を、いただけませんか」

　沈黙があった。

　長い沈黙だった。

　宗一郎が「ふむ」と言った。

「花」

「はい。あの、大それたことを申しました。取り消します」

「いや」

　宗一郎はそう言って、また黙った。

　私は、彼が何を考えているか分からなかった。この人は決めない人だ。十二歳の夏、母は珈琲を淹れながらそう言った。決めないことで人を待たせる人だ、と。

「瑠璃花」

　彼は言った。

「るりか。……語呂は悪くない」

「宗一郎さま」と母が言った。

「藤乃。恭介君はこの子の父だ」

　その一言で、部屋の空気が変わった。

　母は何も言わなかった。

「瑠璃丸の瑠璃に、花を足す。船に花か。悪くない。船首に花を彫る国もある」

　宗一郎は紙を引き寄せた。筆の音がした。

「天導瑠璃花。これでいい」

　産婆が「よいお名前です」と言った。声が明るかった。彼女は本当にそう思ったのだと思う。

　恭介は、何度も頭を下げているらしかった。畳の擦れる音が、何度もした。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

「そう何度も下げるな」

「はい」

　母は、そのあいだ、一度も声を出さなかった。

　私は母の顔を見ることができなかった。でも、母がそこにいて、黙っていることは分かった。

　宗一郎が選んだ「瑠璃」は、船の名で、本家の名だった。そこへ、夫が一字足した。母は反対して、通らなかった。「恭介君はこの子の父だ」と言ったのは、宗一郎だった。

　母は結局、こう言った。

「瑠璃花。……はい」

　その「はい」を、私は覚えている。

　＊

　人が座り直して、酒が運ばれてきた。

　恭介が、私のそばへ来た。

　彼は膝をついて、私の顔を覗き込んだ。視界の上半分が暗くなった。

「瑠璃花」

　彼は言った。

　私の身体が、跳ねた。

　跳ねてから、私は自分が何をしたのか分かった。

　――返事をしようとした。

　るりか。

　それは私の名前だ。二十七年、私が呼ばれてきた名前だ。母がそう呼び、学校の先生がそう呼び、会社の人がそう呼び、北原さんが「瑠璃花さん、辛いの平気でしたっけ」と打ってきた、あの名前だ。

　漢字まで同じだった。瑠璃花。

　前の人生の八年、この身体は瑠璃だった。誰も瑠璃花とは呼ばなかった。私は八年、自分の名前を一度も聞かなかった。

　私の喉が、勝手に鳴った。

　声を出そうとして、出せなくて、そうしたら涙が出た。この身体の涙腺は、私の意思とは関係なく働く。目尻から耳のほうへ、熱いものが流れた。

「おお、おお」

　恭介が慌てた。

「泣くな、泣くな。瑠璃花。瑠璃花」

　彼は名前を三回呼んだ。呼ぶたびに、私はもっと泣いた。

　この人は、私の名前を知らない。

　当たり前だ。この人は、私が別の世界から来たことも、私が二十七歳であることも、何ひとつ知らない。この人が「花」を足したのは、この子が庭で走るところを見たかったからだ。それだけだ。

　これは偶然だ。

　私はそう自分に言った。言いながら、涙が止まらなかった。

　――誰かが、私を呼んでいる。

　呼ばれた気がした。この子の名前としてではなく、私の名前として。だから私はここに来たのだろうか、と一瞬だけ思って、その考えはそこで止めた。答えの出る問いではなかった。

　この名前は、天導瑠璃花という別の子についた名前だ。私はそれを、あとから借りて聞いている。

　全部わかっていて、私は嬉しかった。

　嬉しかった、というのが、まず最初にあった。理屈はそのあとに来た。

　恭介が私を抱き上げた。今日はもう、少し上手になっていた。首が落ちなかった。

「瑠璃花。父さんはな、名前をつけたのは初めてだ」

　彼は誰にともなく言った。

「船には名前をつけたことがある。人は初めてだ」

　＊

　夜が更けて、人々が下がった。

　私は揺りかごに寝かされていた。灯りが一つ残っていた。

　母が来た。

　母は揺りかごの縁に手をかけて、しばらく黙っていた。それから、低い声で話し始めた。

「瑠璃」

　母は、花を足さなかった。命名紙には瑠璃花と書かれ、さっき母自身も「はい」と言ったのに、揺りかごの前で母が呼んだのは、宗一郎がつけた名前だけだった。

「瑠璃、というのはね。本家の船の名前なの」

　私は目を開けていた。

「初代が乗った船。この家で一番古い名前。あなたのお父様が――宗一郎さまが、あなたにその名をくださった。あなたはそれを持って生まれてきたの」

　母の指が、揺りかごの縁を撫でた。

「私も兄も、天導の名を持っています。でも、三代前の養子から続く分家には、初代の血がありません。私にはない血が、あなたにはある」

　母は少し笑ったようだった。

「いつか、あなたがこの家の本家になる日が来ます」

　私の背中が冷たくなった。

　本家になる日。

　前の人生で、この子が本家の跡取りになったのは、四歳の九月だった。宗一郎が桟橋から落ちて、ひと月あとの親族会で。

　この人は、もうその形を頭の中に持っているのだろうか。生まれて七日の娘の揺りかごの前で。

「おやすみ、瑠璃」

　母は揺りかごを軽く揺らした。

　揺れは優しかった。手つきに乱暴なところは一つもなかった。

　私は、その揺れの中で考えていた。

　同じ夜だ。

　父が「花」を足した夜と、母が「本家になる日」を語る夜が、同じ夜だ。私はこの二つを、別々の日に受け取ることができない。両方、今日だ。

　＊

　母が下がって、灯りが小さくなった。

　私は暗い天井を見ていた。見えるのは、灯りの滲んだ丸だけだった。

　三分、と宗一郎は言った。三分、呼ぶ名前がなかった、と父は言った。

　前の人生で、フミは、この子は生まれてすぐに泣いたと言っていた。産婆さんが笑っておられた、と。前の人生の七夜には、廊下で三分立ち尽くした父はいなかったのだと思う。だから父は花を足さなかったし、この子は十八年間、瑠璃のままだった。

　今度は、三分があった。父はその三分を廊下で過ごし、怖さのあとで、庭で笑うところを見たいと願って、一字足した。

　だとすれば、この世界で最初に変わったことは、私がしたことではない。私はまだ何もしていない。泣いて、乳を飲んで、眠っただけだ。名前を変えたのは、息のなかった三分と、その三分を廊下で過ごした父の怖さだった。

　なぜ前の人生になかった三分が、今度はあったのか。私があとからこの身体に入ったことと関係があるのかどうか。答えは出なかった。出ないものを、私はそのまま置いた。

　四年しかない、と昼に思った。一歳の年、蘆田先生。二歳の冬、百合子さん。三歳の十二月。四歳の四月。八月十五日。並べようとして、並べる前に、別のものが先に浮かんだ。

　瑠璃花、と呼んだあの人の声だった。

　私は、それが順番を間違えていることに気づいた。宗一郎を死なせない計画のほうが先でなければいけない。四年後の八月十五日を止めたい。あの人を追い出させたくない。それは本当にある。

　でも、いま、私の中でいちばん先に来ているのは、そんなに立派なものではなかった。

　名前を、もう一回呼んでほしい。

　明日の朝も、あの人は来るだろうか。

　眠気が来た。抵抗する方法はない。私はそれに負けながら、四年の順番を三つ目まで並べて、そこでやめた。

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# 第八章　揺りかごの話

　三か月で、目が見えるようになった。

　正確には、輪郭がぼやけなくなった。人の顔が顔として見える。誰が誰かが分かる。天井の木目が追える。それだけのことが、私にはとても大きかった。

　最初にちゃんと見たのは、母の顔だった。

　細い人だった。抱かれていると、顎の線が上のほうに遠い。背が高いのだ。目が切れ長で、目尻が少し上がっている。十歳の朝、鏡の中で見た私の目と、同じ形だった。着物は、藤色の地に白い花を散らしたような、明るいものを好んだ。抱かれると、髪油の下から香の匂いがした。

　二十四歳の母は、私の知っている母より頬が丸かった。

　見えるようになって気づいたのは、自分が人の口ばかり見ているということだった。

　声だけでは、この家の誰が何を言っているのか掴みきれない。誰の口が動いたかを見れば、話者が分かる。私は無意識にそれをやっていた。

　母が私を抱いて、庭を見ながら女中と話していた。私は母の顎の下から、母の口を見上げていた。

　母が、途中で黙った。

　私を見た。

　目が合った。

　私は――しまった、と思った。思ったときには遅かった。赤ん坊は、目が合ったら笑うか、そらすか、泣くかする。私はどれもせず、母の口を見つめ返してしまった。

「……瑠璃」

　母は私の顔を、正面から覗き込んだ。

　私は今度こそ目をそらした。そらし方が遅かった。

　その日から三日、母は私の前で喋らなくなった。

　抱く。乳を飲ませる。おむつを替える。全部する。何も言わない。歌わない。「よしよし」も言わない。無言で、丁寧に世話をする。

　三日目の夜、私は試した。

　母が私を抱いたとき、私は目を閉じた。閉じて、眠ったふりをした。首の力を抜いて、口を少し開けた。

　しばらくして、母が話し始めた。

「今日はね、庭の梅を切ったの。切りすぎたと女中頭が言うのだけれど、あれくらいでいい」

　私は目を閉じたまま聞いていた。

　この人は、私が見ていないときには喋る。

　この人にとって、私はまだ人間ではないほうがいい。人間になった瞬間に、この人は口を閉じる。

　その二日後、お絹が私を抱いた。

　お絹は十八の女中で、この春に入ったばかりだった。小柄で、丸い顔で、よく笑う。笑うと目がなくなる。いつも前掛けをしていて、前掛けからは糠と石鹸の匂いがした。彼女は私を抱くとき、必ず自分の顔を私の顔のすぐ前に置く。

　私は、彼女の口を見た。

　お絹は、私が口を見ているのに気づいた。気づいて、こう言った。

「あー」

　口を大きく開けて、はっきりと。

「あー。あーって言うんですよ。お嬢様。あーあー」

　彼女は私の視線に合わせて、口の形を作ってみせた。

「うー。うーうー。ほら、口が違いますでしょう」

　私は嬉しくなって、手足をばたつかせた。ばたつかせたのは、私が動かしたのではない。この身体が勝手にやった。でも、そのとき私は本当にばたつかせたかった。

「わあ、喜んだ」

　お絹は私を抱き直して、部屋中を歩き回った。

　同じことをして、母は三日黙り、お絹は口の形を教えてくれた。

　＊

　眠ったふりは、そのうち私の仕事になった。

　母は、夜、私が眠ったと思うと話をした。揺りかごの縁に手をかけて、低い声で。梅の枝のこと、客のこと、兄のこと。それから、いちばん長く、宗一郎のことを。

　私は、聞くつもりで聞いていた。

　四年後の夏の形が、この人の頭の中のどこかにあるなら、それを拾いたかった。いつ思いついたのか。誰と話したのか。どこまで決めているのか。星の間で知ったことの、始まりのほうを、この耳で確かめたかった。

　なかった。

　ひと月聞いても、ふた月聞いても、母の話の中に、湖も舟屋も薬もなかった。

　あったのは、別の話だった。

「百合子さまが、また臥せっておいでなの」

　ある夜、母はそう言った。

「今年の冬は、ずっと。宗一郎さまは、朝と晩に、必ずお部屋へお顔を出されるのですって。お忙しいのに」

　母の指が、揺りかごの縁を撫でていた。

「お優しい方なの。お優しすぎて、決められない。お身体の弱い奥様を、置いてどこへも行けない方」

　しばらく、揺りかごが揺れていた。

「でも、いつか」

　母は言った。

「いつか、宗一郎さまが選んでくださる。あなたと、私を。そうしたら、あなたは本家の娘。瑠璃丸の瑠璃。誰にも分家の子だなんて言わせない。あなたのお父様が、あなたを自分の子だとおっしゃる日が来る」

　声は、夢の話をするときの声だった。

「待つのは、慣れているの」

　母は、少し笑った。

「……こんなことを考えては、いけないのにね」

　それが何のことなのか、母は言わなかった。言わずに、揺りかごを揺らした。

　本家になる日、と母が言うのは、これのことだった。

　宗一郎が死ぬ日ではない。宗一郎が、自分と娘を選ぶ日だ。

　私は目を閉じたまま、息をしていた。

　前の人生で、私はこの人の、待っているところを一度も見なかった。十歳から十八歳まで、私が見たのは、もう待つのをやめた人だった。十二歳の夏、珈琲を淹れながら、百合子さんが亡くなっても選ばれなかった、と言った人。その声には恨みしかなかった。

　十八歳の夜、三村弁護士の封書の中で、私は母の手紙を読んだ。宗一郎に宛てた手紙だった。せめて亡くなったときに効く紙を、と書いてあった。私はもう待ちません、と書いてあった。

　もう、ということは、その前は待っていたのだ。

　私はその一行を読んだのに、その前のほうを一度も考えなかった。

　この人は、待つ人だった。

　私はそれを、揺りかごの中で初めて知った。

　待つ人の待ち方なら、私は少し知っている。次はぜひ、と送って、次を自分からは作らない。相手が決めてくれるのを待つ。待っているあいだは、何も壊れない。何も始まらない代わりに。

　母は、それを三歳の十二月まで続ける。そして、やめる。

　やめた人がどうするかを、私は知っている。

　＊

　四か月のころ、夜泣きがひどくなった。

　私は泣きたくて泣いていたのではない。夕方になると腹のあたりが張って、身体が勝手に泣く。止め方が分からない。夜中に三度も四度も起きる。

　ある晩、母が匙を持ってきた。小さな器と、茶色い小瓶を盆に載せていた。

「糖蜜です」と母は言った。開いた襖のところに、お絹が控えていた。

「私が小さいころ、母がこうしてくれたの。泣きやまない子には、これを少しだけ。朝までよく眠るから」

　母は小瓶を傾けて、器の糖蜜に何滴か落とし、匙でかき混ぜた。

　匙が唇に当たった。甘い匂いがした。

　私は口を開けた。開けてしまった。この身体は甘い匂いに勝てない。

　舌に載った瞬間、私はそれを吐き出した。

　甘さの下に、苦いものがあった。舌の奥のほうが、じん、と痺れるような苦さだった。私は顔を背けて、口の中のものを全部押し出した。頬から首へ、生温かいものが流れた。

「あら」

　母は布で私の顎を拭いた。

「いやなの」

　母はもう一度、匙をすくった。

　私は首を横に振った。振ったつもりだった。実際には頭が左右に揺れただけだと思う。それでも、母の手が止まった。

「変な子ね」

　母は匙を器に戻した。

「甘いのに」

　母は顎を拭いた布をお絹に渡し、下で洗ってくるよう言った。お絹が頭を下げ、足音が階段を下りていった。

　母は私を抱き上げて、揺らした。

「眠ってしまえば、怖いことは何もないのよ」

　子守唄の声だった。

　私は動かなかった。

　匙。糖蜜。茶色い小瓶。

　四年後の八月十五日、この人は、同じ匙で、四歳の娘を眠らせる。眠った娘を、舟屋に置く。

　その匙が、いま、ここにある。

　この人はいま、何も企んでいない。夜泣きの子を眠らせたいだけだ。自分の母親にそうしてもらったとおりに。

　だから、怖かった。

　四年後の匙は、四年後に思いつかれたものではない。この人の手が、ずっと前から知っているものだった。

　母は十分ほど私を揺らして、それから、揺りかごへ戻した。戻す手つきは丁寧だった。私の頭を最後に支えて、そっと離した。

　母が出ていってしばらくして、私はまた泣いた。

　今度は、私が泣いた。

　足音がした。

「おう、おう、どうした」

　恭介だった。

　彼は私を抱き上げた。四か月経って、彼の抱き方はずいぶん良くなっていた。左手が首の後ろに来て、右手が背中を包む。安定していて、揺れの周期が一定している。

　私の身体は、その揺れで泣きやんだ。

　泣きやんでしまった、と私は思った。

　私はいま、四年後の匙を見たばかりだ。それなのに、この身体は、抱かれた瞬間に安心してしまう。心臓が落ち着いて、手足の力が抜けて、瞼が重くなる。

　私は、自分の身体に裏切られている気がした。

　同時に、それが救いだった。

　元の世界で、私は夜中に目が覚めても、誰も来なかった。誰かに来てほしいと思ったこともない。そういうものだと思っていた。

　ここでは、泣けば誰かが来る。この差は、私が思っていたより、はるかに大きい。

「腹が減ったか。おむつか。どっちだ」

　恭介は真面目に私の顔を覗き込んだ。

　灯りの下で見ると、この人は大きかった。肩が厚くて、首が太い。顔も腕も日に焼けていて、顎に無精ひげが伸びかけている。私の背中に当たっている指は、一本一本が私の手首くらいあった。

「父さんには分からん。すまん」

　彼はそのまま、部屋を三十周くらい歩いた。私は途中で眠った。

　＊

　九月、宗一郎が来た。父が、造船所の夜の当番で帰れないと言って出た晩だった。

　昼間ではなかった。夜だった。玄関からではなく、庭から入ったらしい。私は母の部屋の隅の揺りかごにいて、灯りは落とされていた。

　私は目を閉じた。目を閉じているほうが、この家では話が聞ける。

「百合子さまのお加減は」

　母の声だった。

「変わらない。変わらないのがいちばん良い、と蘆田は言う」

「そう」

　衣擦れの音がした。

「藤乃。私は、百合子を置いては行けない」

「存じております」

「あれは、身体のことで、ずっと肩身の狭い思いをしてきた。子ができないのも、あれのせいではない。私が離縁すれば、あれは帰るところもない」

「存じております。宗一郎さまは、そういう方ですもの」

「すまない」

「謝らないでください」

　沈黙があった。

「親族会が、一臣を養子にと言っている」

　宗一郎が言った。

「貞光君だ。私は、否とも応とも言っていない」

「瑠璃がいるのに」

「……あの子は、恭介君の子だ。そう届けた」

　母は何も言わなかった。

「私は、決めるのが下手だ。それは知っている」

「知っています」

　母の声が、少しだけ笑った。

「ですから、待ちます」

「藤乃」

「待つのは、得意ですから」

　また沈黙があった。

　私は目を閉じたまま、聞いていた。

　この二人は、いま、互いを好きなのだと思う。少なくとも母のほうは間違いなくそうだ。声の温度が違う。母がこの声で喋る相手を、私は他に知らない。

　前の人生では、この声の人が、この声の相手を死なせる側に回った。

　私は自分の指を握った。この身体の指は、握るか開くかしかできない。

　今夜の母は、殺す話をしていない。待つと言っている。

　待つと言った人が、どこで待つのをやめるのか。

　私はその日付を知っている。

　＊

　十月、天導貞光が来た。

　応接ではなく、母の居間に通された。私はまた隅にいた。

「一臣の件だが」

　貞光の声は、十八年後と同じだった。よく通る。

「親族会の三人には、もう話してある。百合子さんに子ができんのは、もう誰の目にも明らかだ。万一の折は、一臣を本家の養子に入れる。宗一郎も、否とは言わん」

「兄様」

「あれは、何も言わん男だ。言わんことは、否とは違う」

　母が黙った。

「本家のことは、本家に決めていただくものでは」

「決めんから、こちらで整えてやるんだ」

　貞光は茶を飲んだ。

「お前も、本家には出入りを控えろ。一臣の話が固まるまで、妙な波風を立てられては困る」

　母は、しばらく黙っていた。

　私は、母が反論するのを待っていた。

　母は、こう言った。

「……はい」

　貞光は茶を飲み終えて、帰った。

　玄関の戸が閉まる音がして、しばらくしてから、母が揺りかごのそばへ来た。

　私は目を閉じていた。

「一臣さんではありません」

　母は、ほとんど声にならない声で言った。

「あなたです」

　それから、揺りかごを一度だけ揺らして、出ていった。

　私は、天井を見ていた。

　前の人生で、伯父は、事件のあと私の後見人になった。私が十三になるころには、一臣さんとの婚約を進めはじめていた。

　今夜、伯父は一臣さんを本家の養子に入れる話をしている。十何年か先には、私と一臣さんを結ぶ話をする。一臣さんが跡取りになっても、私が跡取りになっても、本家は伯父の家のものになる。

　いちばん先に動いていたのは、伯父のほうだった。

　そして母は、兄に「はい」と言って、兄が帰ったあとで、娘にだけ「あなたです」と言う。

　この兄と妹が、四年後に一緒に何かをする。そのことを、私はまだうまく想像できなかった。

　＊

　同じころ、宗一郎が昼間に来た。

　こちらは隠れて来たのではなかった。玄関から入って、女中頭が茶を出して、母と二人で話をして、それから座敷に来た。

　私は、この人を初めてちゃんと見た。

　痩せていて、背が高い。座ると膝が高く出る。顔は穏やかで、目尻に笑い皺があった。二十八だと聞いていたが、こめかみのあたりの髪に、もう白いものが混じっていた。話しながら、懐中時計の鎖を指に巻いたりほどいたりする。その指先だけが、ほかのところより忙しかった。

　仏間の写真より、若かった。当たり前だ。あの写真は、この人が死ぬ少し前のものだ。

　彼は私を抱かなかった。抱き方を知らないらしく、座布団の上の私を上から覗き込むだけだった。

「大きくなったな」

「そうでしょうか」

「七夜のときより重そうだ」

「持ってごらんになれば」

「いや、落とす」

　彼はそう言って笑った。

　それから、彼は私の顔を見て、こう言った。

「瑠璃花」

　私の身体が、跳ねた。

　この人も、その名前を使う。この人がつけたのは「瑠璃」なのに、この人も「瑠璃花」と呼ぶ。

「よく動く子だ」

　彼はそう言った。

「藤乃。この子の目は、私に似ているか」

「さあ」

「似ていないほうがいい」

　母は返事をしなかった。

「百合子が、この子を見たいと言っている」

　宗一郎が言った。

「一つになって、外へ出られるようになったら、一度連れてきてくれないか。あれは、赤ん坊を抱いたことがないんだ」

　母は、少し間を置いた。

「……はい。いずれ」

　彼はそれで立った。

　帰り際、彼は玄関で恭介と会った。

「恭介君。花の字は、よかった」

「はあ」

「私は、あの晩、少し迷った。迷ったのは、断る理由を探したからだ。船の名を大事にしたかった。だが、あれでよかった」

「……ありがとうございます」

「あの子が庭で走るところを、私も見たい」

　彼はそう言って、行った。

　＊

　秋の日曜に、子どもが二人来た。

　分家の一臣と、蘆田先生の子の慎だった。六つと五つ。慎はその日、先生に連れられて来ていた。

　私は座敷の座布団の上に寝かされていた。首は据わっている。転がることもできる。まだ座れない。

　二人が私を覗き込んだ。

　六歳の天導一臣は、痩せていて、眉がまっすぐだった。自分の顔の半分くらいある絵本を、脇に抱えていた。真面目な顔で私を見て、それから言った。

「父上が、この子とは仲良くしておけって」

　大人たちが笑った。「気の早い」と誰かが言った。

「仲良くって、どうするの」

「指を出してごらんなさいませ」とお絹が言った。

　一臣は、指を一本、私の手のそばに置いた。私の手が勝手にその指を握った。

「握った。これで、仲良く？」

　五歳の慎が、横から言った。柔らかい、小さな声だった。

「赤ちゃんは、やくそくできないよ」

「なんで」

「しゃべれないから」

　一臣が黙った。

「そうか」

　一臣は納得したらしい。

「握りますよ、赤ちゃんは」とお絹が言った。「誰の指でも握ります」

「じゃあ、やくそくじゃないね」

「そうですね」

　一臣は指を抜いて、絵本を抱え直して、庭へ走っていった。慎がついていった。

　私は座布団の上に残された。

　前の人生で、私はこの人に、駆け落ちしてください、と言ったことがある。私もちゃんと働くので。お菓子作りとか。一臣さんは本を抱えたまま、「……は？」と言った。それで終わった。十六で正式に婚約して、十八の夜に別れた。

　その人の、六つのときの指を、いま私は握った。

　この子は、あの人ではない。あの人は、ここにいない。ここにいるのは、赤ん坊に指を握られて、握るだけなら約束ではないと納得して庭へ走っていく六歳の子どもだ。

　それでも、「父上が、仲良くしておけって」は、十何年か先の婚約と同じ人の口から出ていた。

　私は、庭のほうを見ていた。

　＊

　その夜、お絹が私を寝かしつけた。

「お嬢様は、よく人の顔を見なさる」

　彼女は揺りかごの横に座って、繕い物をしていた。

「わたしの村ではね。赤ん坊は、生まれるときに前のことを忘れるって言うんですよ」

　私は目を開けた。

「生まれる前は、みんな知っているんですって。誰の子になるかも、どこへ行くかも。それを、生まれるときに、ぜんぶ忘れる。忘れないと、生きていられないから」

　彼女は糸を切った。

「だから赤ん坊が泣くのは、忘れた直後で心細いからだって、うちの婆様が言っておりました」

「……」

「お嬢様は、あんまり泣きませんね」

　私は天井を見ていた。

　忘れないと生きていられない、というのは、たぶん本当だ。

　私は忘れていない。二十七年と八年。全部覚えている。覚えたまま、この揺りかごにいる。四年後の日付まで覚えている。

　私は生きにくい。

　夜が更けて、恭介が帰ってきた。

　彼は服を着替えてから、私の部屋に来た。

「起きとるか」

　彼は揺りかごの横に座った。座って、しばらく黙っていた。

「今日な、船台で若いのが足を挟んだ。骨は折れとらん。折れとらんが、あれは治るまで二月かかる」

　彼は自分の膝を見ていた。

「わしがもう少し早う声をかけとれば、ああはならんかった」

　彼はそう言って、また黙った。

「瑠璃花」

　私の身体が、また跳ねた。何度呼ばれても、跳ねる。

「父さんはな、口が下手だ。奥様に、そういうことを言うと、言い訳をするなと言われる。言い訳じゃないんだ。ただ、話しておきたいんだ」

　彼は私の手のあたりに、自分の指を置いた。

「お前は、まだ何も分からんから、いいな」

　私は彼の指を握った。

　この身体は、誰の指でも握る。お絹がそう言った。それは本当だ。

　でも今夜は、私が握った。

　彼はしばらくそのままでいて、それから、私が眠るまでそこにいた。眠るまで、というのは正確ではない。私は眠ったふりをして、彼がいつまでいるかを確かめていた。

　彼は、私が眠ったと思ってからも、長いことそこにいた。

　＊

　冬が来るころ、私は床を這えるようになっていた。

　腹を床につけて、腕で身体を引く。最初の日は、敷物の端から端まで行くのに、昼から夕方までかかった。膝が使えるようになってからは速くなった。九か月で、私は自分の部屋から廊下の角まで、一人で行けた。

　角の先へは行かなかった。行けば、誰かに見つかる。見つかれば、どこまで分かってやっているのかを測られる。

　指先でものをつまめるようになったのは、十か月のころだ。畳の目に落ちた米粒を、親指と人差し指で拾った。拾えたことが嬉しくて、何度も拾った。拾っているうちに、母が部屋の入口に立っているのに気づいた。

　私は米粒を口に入れた。赤ん坊がそうするように。

　母は何も言わずに行ってしまった。

　その夜、私は揺りかごの中で、歯を食いしばった。この身体にはまだ歯が二本しかなかったので、食いしばったのは歯茎だった。

　急ぎたかった。

　口の中では、もう言葉の形ができかけていた。お絹が毎日口の形を見せてくれたおかげで、「あ」と「う」と「ま」の違いを、私は舌で覚えていた。出そうと思えば、たぶん、もうすぐ何か一つは出せる。一つ出せれば、二つ目も出せる。早く喋れるようになれば、早く何かを伝えられる。春が来れば、一歳になる。一歳の年に、蘆田先生は帝都を離れる。

　でも、急げない。

　身体が追いつかない、というだけではなかった。母は、私が人間になった瞬間に口を閉じる人だ。一つにもならない子が大人の言葉を話せば、母は二度と揺りかごのそばで喋らない。それに、誰もそれを一つの子の話としては聞かない。気味の悪い子の話として聞く。

　急ぐことが、いちばん遅い道だった。

　だから、赤ん坊の速さでやることにした。一歳の少し前に、意味のある音を一つ。それまでは、意味のない音だけ。お絹に褒められても、恭介に「もう一回」とせがまれても。

　喃語を、私は練習した。意味のない音を、意味がないように出す練習だった。「だ、だ、だ」「ば、ば」。やってみると、これがいちばん難しかった。意味のある言葉を知っている口で、意味のない音を出すのは、嘘をつくのに似ていた。

　夜、揺りかごの中で、四年の残りを数えかけた。三年と少し。そこまで数えて、やめた。

　十一か月で、私はつかまり立ちをした。

　恭介の膝につかまって、立った。膝が震えた。この身体の膝は、私の体重を初めて持ち上げていた。

「おお」

　恭介が息を呑んだ。

「立った。お前、立ったぞ」

　彼は私の脇を支えて、立ったままの私を、しばらく眺めていた。

「奥様。奥様、この子が」

　彼は大きな声で呼んだ。母は来なかった。お絹が来て、「まあ」と言って、手を叩いた。

　私は立ったまま、恭介の顔を見上げた。影の塊しか見えなかった日は、もう遠かった。彼の目尻の皺まで、よく見えた。

　この人の喜び方には、測るところが一つもない。私がどこまで分かっているかを、この人は一度も測ったことがない。

　私はその顔を見ながら、膝を曲げて、座布団の上に尻もちをついた。わざとではなかった。本当に、膝がもたなかった。

　恭介が笑った。お絹も笑った。私も、笑った。意味のない音で。

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# 第九章　左手

　一歳の四月に、歩いた。

　つかまり立ちは三月からできていた。立てるのに歩けないのは、恐怖のせいだった。頭が重い。重心が高い。倒れたときに手が間に合わない。二十七歳の頭で計算すると、この身体で前へ踏み出すのは、竹馬で走るのと同じくらい無謀に思えた。

　その日、恭介が縁側にいた。

　仕事が早く上がった日で、彼は袖をまくって、木の切れ端を削っていた。私は柱につかまって立っていた。距離は、大人の三歩ぶん。

　彼が顔を上げた。

「おう」

　彼は削るのをやめて、膝を立てた。

「来るか」

　両手を、私の高さに出した。

　私は柱から手を離した。

　離した瞬間に、身体が前へ倒れかけた。倒れないように足が出た。出た足の上に体重が乗って、また倒れかけて、もう一方の足が出た。

　一歩。二歩。三歩。

　四歩目が出なかった。

　尻もちをついた。畳の上だったので痛くはなかったが、衝撃で頭が前に振れて、私は自分の膝に額をぶつけた。

「おおおお！」

　恭介が畳を叩いた。

「歩いた！　見たか、おい、誰か、いま歩いたぞ！」

　彼は私を抱き上げて、そのまま立ち上がった。天井が近づいた。

「奥様！　瑠璃花が歩きました！」

　母が廊下から出てきた。

「聞こえています」

「三歩です。三歩、こっちへ」

「そう」

　母は私を見た。

「よかったこと。あなたが仕事を休んだ日に歩いてくれて」

「はい！」

　恭介は嬉しそうに答えた。

　私は彼の腕の中から母を見た。母は少し笑って、廊下の奥へ戻った。

　彼は、いま自分が何を言われたか、たぶん分かっていない。

　その鈍さのことを、私は昔なら、情けないと思ったかもしれない。この日は思わなかった。彼が母の言い方に気づかなかったおかげで、この家の縁側は十秒間だけ、何の含みもない場所になった。

　それから、私は自分のことを考えた。

　私は嬉しかった。

　三歩歩けたことが、素直に嬉しかった。この一年、私は寝返りを打てた日に嬉しかったし、座れた日に嬉しかったし、離乳の粥を自分で飲み込めた日に嬉しかった。

　二十七歳の人間は、新しく歩けるようになったりしない。

　嬉しいのと同じだけ、もどかしかった。三歩では、どこへも行けない。本家までは馬車で四十分かかる。

　＊

　言葉は、歩行より遅かった。

　口の中の構造が、私の知っている構造と違う。舌が短い。上顎が浅い。息の量が足りない。二十七年ぶん喋ってきた私が、同じつもりで発音しようとすると、まったく違う音が出る。

　私が最初に狙ったのは、「とう」だった。

　父さん、は無理だ。四音は出ない。とう、なら二音だ。「と」は舌先を上の歯茎につけるだけ。「う」は唇を丸める。

　私は昼のあいだ、一人で練習した。

「た」

「て」

「とぅ」

　お絹が通りかかって、笑った。

「お嬢様、独り言でございますか」

　彼女は座って、私の前に茶碗を置いた。

「まんま。ま、ん、ま」

「……ま」

「そう！　まんま！」

「まー」

「上手！」

　お絹は手を叩いた。彼女は「上手」と言うとき、必ず手を叩く。

　私は「まんま」を三日で覚えた。「まんま」は便利だった。食べ物を要求できる。要求が通ると、生活が変わる。私は自分の生活を要求で動かせるようになったことに、思っていた以上に感動した。

　「とう」が出たのは、それから二週間後だった。

　夕方、玄関で音がした。私は廊下へ這っていった。歩けるのに這うのは、そのほうが速いからだ。

　恭介が上がってきた。

「とう」

　彼が止まった。

「とう」

「……いま」

「とう」

　彼はその場に荷物を落とした。落として、廊下を走ってきた。

　彼は走ってきて、私の前で膝をついて、それから、自分の顔を両手で覆った。

「とう」

「はい」

　彼は手をどけた。目が赤かった。

「はい。父さんです」

　私はもう一度、「とう」と言った。

　彼は私を抱き上げて、そのまま玄関に置いてきた荷物を取りに戻り、荷物を持ったまま台所へ行き、お絹に「いま、とうと言いました」と報告した。お絹は「まあ！」と言って手を叩いた。

　その夜、母が私に「言ってごらんなさい」と言った。

　母は私の前に座って、待っていた。

「とう、と言えるのでしょう」

　私は黙っていた。

「瑠璃」

　私は母の膝を見ていた。

　声が出せなかった、のではない。出さなかった。

　母の前で新しいことをすると、母はそれを覚える。この子は何か月で何ができたか、何を聞いていたか。母はそういうことを覚えておく人だ。

「そう」

　母はそれだけ言って、立った。

　私は、その夜、少し胸が痛んだ。母は言葉を待っていた。待っていたのは間違いない。私はそれを与えなかった。

　ひとつ、私が自分に禁じたことがある。

　私は、彼に「パパ」と言わない。

　石盤の字を、私は知っている。「パパは　かえってくる」。十歳の朝に私が見つけた、あの字を書いたのは、この身体の持ち主だ。あの呼び方は、あの子のものだ。

　私はそれを借りて、この人を喜ばせることができる。たぶん、とても喜ぶ。

　でも、それは私の言葉ではない。

　私は「とう」と呼ぶ。二音の、私が自分で作った呼び方で呼ぶ。

　＊

　五月の初めに、蘆田先生が遠方へ出ると聞いた。

　台所で、女中頭がお絹に話していた。私はお絹の背中にくくりつけられて、それを聞いた。

「来月から、帝都を離れられるのですって。一年ほどは戻られないとか」

「では、お嬢様に何かあったら」

「町のほかの先生に来ていただくしかないわね」

　お絹の背中で、私は身体を固くした。

　この年だった。

　私が一つの年に、一年、と慎は言った。いつ発ったのかまでは、言わなかった。私も訊かなかった。十五の私にとって、それはもう済んだ昔の話だった。

　一年。来月から。

　同じ月の末に、母は私を連れて本家へ行った。

　宗一郎が去年の秋に言ったとおりだった。百合子が、この子を見たいと言っている。一つになって、外へ出られるようになったら。

　母は、その約束を半年あまり「いずれ」のままにしていた。それが急に決まったのは、本家から改めて使いが来たからだった。先生がしばらくいなくなる前に、奥様がお加減のいいうちに、と。

　馬車で四十分だった。お絹がついてきた。

　本家の廊下は長かった。いくつも角を曲がった先の、庭に面した座敷に、百合子さんはいた。

　寝床の上に起きていた。色の白い、痩せた人で、髪を一つに編んで肩の前に垂らしていた。膝に薄い羽織をかけていた。

　この人に、私は前の人生で一度も会っていない。この身体が二歳の冬に、この人は亡くなっていた。私は名前しか知らなかった。

「まあ。いらしてくださったの」

　声は小さかったが、明るかった。

「藤乃さん。お久しぶりね」

「ご無沙汰しております。お加減は」

「今日はいいの。先生が、今日はいいとおっしゃったから、いいのよ」

　百合子さんは笑った。笑うと、目尻が下がった。

「瑠璃花さん、ね。宗一郎さんから伺っています。花の字を、恭介さんが足されたのですって。いいお名前」

　母は「恐れ入ります」と言った。

「抱かせていただいても、いいかしら」

　母は、少し間を置いた。

　それから、私を百合子さんの膝へ渡した。

　百合子さんの腕は細かった。細くて、ぎこちなかった。抱き方が、七夜のころの恭介と同じくらい下手だった。

「軽いのね。……いえ、重いのかしら。赤ん坊を抱いたことがないから、分からないわ」

　私は、百合子さんの顔を見上げた。

　見ようとした。

　どこが悪いのか。顔色か。目の色か。息の音か。私は、この人の身体のどこかに、病の印を探そうとした。

　分からなかった。

　色が白いのは、もともとなのかもしれない。痩せているのも、手首が細いのも、ずっとそうなのかもしれない。いつも具合の悪い人の、いつもと違う具合の悪さを、一歳の私にどうやって見分けられるだろう。医者でもない、二十七年と八年の私に。

　私が知っているのは、早く見つかれば治る、ということだけだった。どんな病なのかも知らない。

「よく人の顔を見る子ね」

　百合子さんが言った。

「はい。誰の顔でも、じっと見るんです」と母が言った。

「宗一郎さんも、子どものころ、そうだったんですって。お義母さまがおっしゃっていたわ」

　母の膝の上の手が、動かなくなった。

　百合子さんは、それ以上何も言わなかった。私の頬を指で一度だけ撫でて、「ありがとう」と言って、私を母へ返した。

　＊

　帰り際、玄関に蘆田先生がいた。

　往診を終えたところだった。大きな鞄を提げて、本家の女中頭と話していた。その後ろに、六つの慎がいた。慎は、小さな丸い眼鏡をかけるようになっていた。

「いつものお薬のことは、町の岩井先生に申し送ってございます。何かあれば、岩井先生に」

「承知いたしました。先生もお気をつけて」

　私はお絹に抱かれて、その横に来た。

　一年、と台所で聞いた。

　それでは、遅い。

　私はお絹の腕から身を乗り出した。乗り出して、先生の袖を掴んだ。

「おや」

　先生が振り向いた。

　私は掴んだ袖を、握れるだけ強く握った。一歳の指の、いちばん強い力だった。

「だめ」

　私は言った。

　言ってしまった。「まんま」と「とう」しか言わない子が。

「だめ。だめ」

「お嬢様、先生のお袖を」とお絹が言った。

　私は放さなかった。放さないまま、もう一方の手で、廊下の奥を指した。いま出てきた、長い廊下の奥。角をいくつも曲がった先の、庭に面した座敷のほうを。

「あっち」

「あっち？」

「あっち。ゆり」

　先生は、私の指した方を見た。

「ああ、百合子さまですか。百合子さまには、さきほどご挨拶しましたよ。今日はお加減がよろしい」

「だめ」

「父上」と慎が言った。「あっちに、なにかあるの？」

　慎は、廊下の奥を覗き込んだ。覗き込んで、何もないのを確かめて、先生の顔を見上げた。

　先生は笑った。

「引き止められてしまったな。この子の胸を押したのは私だから、覚えてくれているのかな」

　先生は膝をついて、私と目の高さを合わせた。穏やかな目だった。

「お嬢様。先生はね、しばらく遠くへ参ります。来年の今ごろには戻ります。戻ったら、また診て差し上げますからね」

　来年では遅い。

　来年では遅いと、私は言えなかった。一歳の口には、その言葉がなかった。あったとしても、誰もそれを一歳の子の言葉としては聞かない。

　母が来て、私の指を、一本ずつ袖から外した。

「申し訳ございません。人見知りをしない子で」

「いえいえ。光栄です」

　最後の一本が外れた。

　私は泣いた。泣こうと思ったのではなかった。身体が勝手に泣いた。泣きながら、廊下の奥を指し続けた。

「眠いのね」と母が言った。

　先生は鞄を持ち直して、慎の手を引いて、門を出ていった。慎が一度だけ振り返った。

　伝わらなかった。

　＊

　帰りの馬車で、私は母の膝の上にいた。

　母は窓の外を見ていた。一度も私を見なかった。

　宗一郎さんも、子どものころ、そうだったんですって。百合子さんのあの一言のあと、母はずっとこの顔をしていた。

　私は、自分のしたことを考えた。

　袖を掴んだ。指を差した。「だめ」と「あっち」と「ゆり」を言った。

　一歳の私に使えるものは、それで全部だった。

　どんな病なのかも言えない。早く見つかれば治る、とも言えない。来年では遅い、とも言えない。言えたとしても、一歳の子が何を知っているのかと訊かれる。訊かれても、答えられない。

　十五の冬の終わりに、縁側で慎がそれを話してくれたとき、私は、ずっと宙に浮いていたものが一か所だけ地面に着いた気がした。それだけだった。先生も、慎も、百合子さんも、遠い昔の、よその家の話だった。

　その昔の中に、いま私はいた。袖を掴んで、外された。

　先生はこのまま発つ。一年、戻らない。百合子さんは、先生のいないあいだに病が進んで、二つの冬に亡くなる。

　私はそれを、馬車に揺られながら、止められないものとして抱えていた。

　＊

　その夏、私は自分の左手のことに気づいた。

　夜だった。私は布団に寝かされていた。枕元の小さな棚に、銀の星が置いてあった。母が「これはあなたのものだから」と言って、そこに置くようになっていた。実際に髪に挿すのは、まだ何年も先だ。

　部屋は暗かった。障子越しに、廊下の灯りが弱く入っていた。

　私の左手が、上がった。

　上がって、棚のほうへ伸びた。

　私は右手で自分の左手首を掴んだ。

　掴んでから、心臓が鳴った。

　私は左手を動かそうと思っていなかった。

　この一年余り、私はこの身体の勝手な動きに散々つきあってきた。抱かれれば安心する。甘い匂いに口が開く。誰の指でも握る。それは全部、赤ん坊の身体がそうできているからだ、と説明できた。

　これは、違う。

　棚の上には、星の他に何もない。星は暗くて、光ってもいない。なぜそこへ手が伸びるのか、ただの反射だと片づけることが、私にはできなかった。

　私は左手首を掴んだまま、しばらく息をしていた。

　試した。

　右手で左手を放した。左手は、また上がった。星のほうへ。指が開いて、握るような形になって、それから力が抜けて落ちた。

　私は左手を、自分の胸の上に置いた。

　――いるの。

　声には出さなかった。出せる年齢でもなかった。

　返事はなかった。

　その数日後、廊下から足音がした。

　恭介の足音だ。彼は右足を少し引きずるように歩く。船台で昔やった怪我だと聞いた。

　その音が、まだ襖の向こうにいるうちに、私の左手が上がった。

　私は驚いて、右手で押さえた。押さえたが、左手は襖のほうを向いたままだった。

　襖が開いた。

「起きとるか」

　彼が入ってきた。

　私の左手が、彼のほうへ伸びた。

　私は――そのとき、押さえなかった。

　彼はその手を見て、笑った。

「お、なんだ」

　彼は私の左手を、自分の手で包んだ。大きな手だった。指の腹が硬い。

　私はそのまま、しばらく彼に手を握られていた。

　その夜、私は考えた。

　この手は、私の手だ。私が使っている。でも、この手には、私の都合ではない動きがある。星へ伸びる。この人の足音へ伸びる。

　あの子は、いない。

　いないはずだ。私はこの身体に一年余りいて、頭の中で誰かの声を聞いたことは一度もない。夢に別人が出てきたこともない。

　いないのに、手が伸びる。

　＊

　その少しあと、私は母の前で一度だけ、左手を押さえた。

　昼間だった。母が私を膝に乗せて、髪を梳いていた。

　窓の外を、恭介が通った。

　私の左手が上がった。

　私は右手で、それを押さえた。押さえて、母のほうを向いて、言った。

「かあ」

　母の手が止まった。

「……いま」

「かあ」

　母は櫛を置いて、私の顔を両手で挟んだ。

「もう一度」

「かあ」

　母は、笑った。

　この一年余りで、母がいちばんはっきり笑った顔だった。目のまわりに皺が寄って、口が開いて、歯が見えた。二十五歳の母の、こんな顔を、私は初めて見た。

「かあ、ね。かあさん」

「かあ」

「上手ね」

　母は私を抱きしめた。強く抱きしめた。私の耳が母の鎖骨に当たって痛かった。

　私は母の肩越しに、庭を見ていた。

　いま自分がやったことを、私はごまかさずに確かめた。

　私は、母を安心させるために、左手を押さえて「かあ」と言った。父へ伸びた手を隠して、母のほうへ言葉を渡した。母の機嫌がよければ、この家は静かで、私は話を聞きやすい。

　打算だった。

　同時に、母が笑ったのを見て、私も嬉しかった。それも本当だった。

　私はこの一つのことについて、自分に言い訳をしない。私が母と同じだとか、私が母を欺いた極悪人だとか、そういう大きな話ではない。ただ、私はこの日、そういうことをした。

　＊

　一歳の秋の終わりに、恭介が舟を作った。

　手のひらに乗るくらいの、木の舟だった。船体を彫って、帆を紙で作って、爪楊枝の帆柱を立ててある。

「見とれよ」

　彼は庭の盥に水を張った。私は縁側に座らされて、それを見ていた。お絹が後ろにいた。

　彼は舟を水に置いた。

　舟は、置いた瞬間に横倒しになって、沈んだ。

　帆の紙が水を吸って、白いものが盥の底へ沈んでいった。

　沈黙があった。

「……あー」

　彼が声を出した。

　お絹が吹き出した。

「旦那様、船をお作りになる方が」

「言うな」

　彼は盥に手を突っ込んで、舟を拾い上げた。ぐったりした紙の帆が垂れた。

「錘が要る。底に鉛を入れんといかん。分かっとったんだ。分かっとったが、鉛を削るのが面倒でな」

　彼は濡れた舟を持ったまま、私を見た。

「瑠璃花。父さんの計算が悪かった」

　私は笑った。

　声を出して笑った。この身体で、たぶん初めて、腹から笑った。笑いすぎて縁側から落ちそうになって、お絹に支えられた。

「あ、笑っとる。笑うか。父さんの失敗を笑うか」

　彼も笑っていた。

　その日、彼は縁側で鉛を削った。削って、舟の底に埋めて、もう一度浮かべた。今度は浮いた。浮いたが、帆が水を吸って重くなっているので、ゆっくり傾いた。

「明日、紙を張り替える」

「とう」

「ん」

「とう」

「はい、はい」

　夕方の風が出て、盥の水面が揺れた。傾いた舟が、ゆっくり回った。

　これは、私が役に立ったから与えられた時間ではなかった。

　前の人生で、私はこの家の「良い子」を八年やった。良い子でいると、生活が楽になり、人が優しくなる。私はその交換に慣れすぎていた。

　この午後、私は何もしていない。彼の失敗を笑っていただけだ。

　それでも、この午後は起きた。

　私は、母にはこの話をしなかった。まだ話せる口でもなかったが、話せたとしても、しなかったと思う。母に話すと、母は「まあ」と言うだろう。言ったあとで、たぶん何かもう一つ言う。

　言われたくなかった。

　＊

　一歳の秋から冬にかけて、お絹が私に言葉を教えた。

　彼女の教え方は、物を持ってきて名前を言う、というだけだった。柄杓。笊。桶。手拭。庭の石。庭の木。

「これは、なんでございましょう」

「いし」

「そう。こちらは」

「いし」

「これも石でございますね。では、こちらは」

「き」

「木でございます。上手」

　彼女は手を叩いた。

　ある日、彼女が茶碗を落として割った。

　欠片が畳に散った。彼女は「ああ」と声を出して、すぐに拾い始めた。

　私は、そこへ這って行こうとした。

「お嬢様、いけません！」

　彼女は私を片手で押し戻して、片手で欠片を集めた。

「割れたものは、触ってはいけません」

「われた」

「はい。割れました」

「おきぬ、いたい？」

　彼女は手を止めた。

「……いいえ、痛くございません」

　彼女は指を見せた。少し切れていた。

「ちょっとだけ」

「ちょっとだけ」

「はい」

　彼女は笑った。

　その夜、私は彼女の指に巻かれた布を見ていた。

　四歳の八月十五日の夕方、この人は、台所へ行くように言われて、行った。前の人生の十八の夜に、この人は「わたくしは、あの晩、台所へ参りました」と言って泣いた。

　行ったのは、この人が弱いからではない。この人には、そのとき、誰も何も頼まなかったからだ。

　今度のあの夏には、この人に、母の匙を止めてもらえないだろうか。

　私は、それをこの冬に考え始めた。

　＊

　年が明けて、一月の末に、本家の奥様が倒れた。

　本家から来た佐伯が母に告げるのを、私は隣の部屋で聞いた。

「今朝、お廊下で。すぐに岩井先生が来られたそうですが」

「……そう」

「旦那様が、おそばを離れられないと」

「そう」

　母は、それ以上何も訊かなかった。

　その夜、母は、私の寝床の横に座った。私は一歳九か月で、もう揺りかごには入らない。母の部屋の続きの間に、床を取られていた。

　私は目を閉じていた。

「百合子さまが、お倒れになったの」

　母は言った。

「宗一郎さまが、ずっとおそばにいらっしゃるのですって」

　しばらく、母は黙っていた。

「……いけないわね」

　何がいけないのか、母は言わなかった。

　私は目を閉じたまま、手を握っていた。

　この人はいま、自分の中に浮かんだものを、自分で叱っている。浮かんだことは本当で、叱っていることも本当だった。

　二歳の五月に、蘆田先生が戻った。

　お絹が台所で、女中頭から聞いてきた。

「本家の奥様を診られて、もっと早くに分かっていれば、とおっしゃったそうで。先生、お顔の色が変わっておいでだったと」

「まあ」

「発たずにいて、冬のうちに一度でも診ていれば、と」

　お絹は、私を抱いたまま、それを聞いていた。

　発たずにいて。

　私は、あの人が発つ日に、あの人の袖を掴んでいた。

　＊

　二歳の六月、母子の健康検査があった。

　蘆田先生が来て、母と私を診た。血を採るというので、私は身構えた。二歳の身体で針を刺されるのが痛いのは分かっていたが、それより、何の検査かが分かっていた。

　先生の後ろに、七つの慎がいた。

「息子です。見学させております」

「大きくなられて」と母が言った。

　慎は白い前掛けのようなものをつけて、綿と瓶の載った盆を持っていた。手が緊張していて、盆が少し傾いていた。眼鏡が、鼻の上で少しずれていた。

　先生は、一年前より痩せていた。

　私の腕から血が採られた。痛かった。私は泣いた。二歳の身体は、痛ければ泣く。それでよかった。

　慎が綿を差し出した。彼は、押さえるところを間違えて、針の跡より少し下を押さえた。先生が黙って位置を直した。慎の耳が赤くなった。

　片づけのあいだに、先生が母に言った。

「去年、発つ日に、このお嬢様に袖を引かれましてね」

「よく覚えておいでで」

「ええ」

　先生は、鞄の留め金をかけようとしていた。その手が、少し止まった。

　それから、留め金をかけた。

「では、結果は来週」

　先生はそれ以上、何も言わなかった。

　翌週、結果が来た。

　母が紙を見ていた。私は畳の上で積み木を積んでいた。積み木は五個までしか積めない。手の震えのせいだ。

　母は紙を長く見ていた。

　それから、女中頭を呼んだ。

「これは、私が預かります」

「はい」

「蘆田先生には、結構ですとお伝えして」

「はい」

　母は紙を折って、袂に入れた。

　その日の夕方、恭介が帰ってきた。

「検査、どうでした」

「異状ありません」

「そりゃよかった」

　彼はそれで納得した。手を洗いに行った。

　母は、紙を出さなかった。

　私は積み木を六個目で崩しながら、それを見ていた。

　前の人生で父が見せられた紙には、この子はAB型とあった。恭介はO型、母はA型。十八歳の夜に、父自身から聞いた。今回の紙は、母の指に隠れて読めなかった。

　いま、この家で、その紙は母の袂の中にある。

　前の人生では、四歳の九月に、その検査結果が父へ突きつけられた。今度もそうなるとは限らない。そうさせないために、私はここにいる。

　＊

　二歳の夏に、二つのことがあった。

　一つは、庭でのことだった。

　夕方、恭介が縁側に座っていた。私はその横で、石を並べていた。石を大きさの順に並べるのが、そのころの私の遊びだった。二歳の指では、これがけっこう難しい。

「瑠璃花」

「とう」

「あのな」

　彼は庭を見ていた。

「お前が生まれる前な、父さんは、月を数えたんだ」

　私は石を置いた。

「奥様が、身重だと分かった月から数えて、いつ生まれるかを数えた。数えて、数えて、それでな」

　彼は言葉を切った。

「途中でやめた」

　蝉が鳴いていた。

「数えるのをやめた。それだけだ」

　彼は何も言わなかった。

　二歳の私には、その意味が分かった。

　彼は数えた。数えて、合わなかった。合わないことに気づいて、それ以上数えるのをやめた。

　この人は、知りたくなかったのだ。知らなければ、この子は自分の子だ。知ってしまえば、この子は自分の子でなくなるかもしれない。だから、途中でやめた。

　数えかけてやめるのは、私にも覚えのあることだった。

　私は石を置いて、彼のほうへ這って行った。這って、彼の胸に額を寄せた。

　彼は、しばらく動かなかった。それから、私の背中に手を置いた。

「すまんな」

　彼は誰に謝ったのか、言わなかった。

　＊

　もう一つは、その数日後だった。

　母が私を膝に乗せて、髪を撫でながら、いつもの話をしていた。

　私が眠たげにしていると、母はこの話をした。生まれた夜から、何十回も。揺りかごが寝床に変わっても、母は同じ話をした。

「瑠璃。あなたはね、本家の子です。あなたのお父様は、宗一郎さま。瑠璃というのは、本家の船の名前で――」

　母の指が、私の髪の分け目を行ったり来たりしていた。

「百合子さまは、冬を越せないかもしれないのですって。蘆田先生が、そうおっしゃったそうよ」

　母の指が止まって、また動いた。

「そうしたら、宗一郎さまは……」

　その先を、母は言わなかった。

　その日、私は疲れていた。昼寝を逃していた。母の膝は温かくて、髪を撫でる指の周期は、恭介の揺れと同じくらい眠気を呼んだ。

　口が、勝手に動いた。

「るり、ほんけ」

　母の手が止まった。

　止まって、二秒くらい何も起きなかった。

　私は自分が何を言ったか気づいて、身体を固くした。

　母は、私を膝から下ろした。

　下ろして、正面に座らせて、私の顔を見た。

「いま、なんて言ったの」

「……」

「瑠璃」

「まんま」

　私はそう言った。

　母は動かなかった。

「まんま」

　母は、しばらく私を見ていた。

　それから、立ち上がって、部屋を出た。

　私は畳の上に一人で座っていた。

　――やばっ。

　あと二年しかないのに。

　二年と、ひと月と少し。四歳の八月十五日まで。そのあいだに、私はやらなければならないことが山ほどある。そのいちばん最初の道具を、いま、自分の口で壊した。

　母は今日から、私が眠っていても喋らなくなる。母にとって、この部屋はもう安全な部屋ではない。

　それから、私は母の顔を思い出した。

　膝から下ろして、正面から私を見た顔。あれは怒っている顔ではなかった。

　怖がっている顔だった。

　母が怖いのは、「ほんけ」ではない。

　分家の娘が大人の真似をして「本家」と言っても、客は笑うだけだ。母が怖いのは、その次の言葉だ。

　あなたのお父様は、宗一郎さま。

　母はその言葉を、生まれた夜から二年、この子の耳のそばで言い続けてきた。眠っていると思って。何も分からないと思って。この子が「ほんけ」を覚えていたのなら、それも覚えているかもしれない。

　この子がいつか、恭介の前でそれを言ったら。客の前で言ったら。伯父の前で言ったら。本家の、死にかけている奥様の枕元で言ったら。

　母の夢は、そこで終わる。宗一郎が母を選ぶ日は来なくなる。母は分家の不義の女になり、この子は分家の不義の子になる。

　母はまだ、何も企んでいない。湖も舟屋も、母の頭の中にはない。

　隠したいのは、娘の父親が誰かということだけだった。

　それだけのために、母はこれから何かをする。

　その夜、母の部屋の灯りは遅くまで消えなかった。

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# 第十章　もう一度呼んで

　秋になって、母の揺り椅子が運び出された。

　私の部屋の隅に、ずっと置いてあったものだ。母がそこに座って、私を膝に乗せて、髪を撫でながら本家の話をしていた椅子だった。

　男二人が来て、それを廊下から運び出した。私は襖のところに立って見ていた。

　代わりに、私の部屋には低い棚が入った。母が座る場所は、なくなった。

　母は、その週から、私の部屋で長く過ごさなくなった。

　その代わりに、廊下から見るようになった。

　私が積み木をしていると、襖が少し開いていて、母が立っている。目が合うと、母は「はい」と言って、行ってしまう。何を「はい」と言ったのか分からない。

　寝る場所も替わった。それまで夜は、母の部屋の続きの間に床を取られていた。宗一郎が庭から来た夜も、伯父が一臣さんの話をした日も、私は母の部屋や居間の隅にいて、目を閉じて聞いていた。秋からは、昼も夜も、茶の間の隣の部屋で過ごすことになった。母の居間からは、廊下を二つ曲がった先だった。

　私は、母のしたことを順に考えた。

　揺り椅子をどけたのは、もうこの部屋では話さない、ということだ。部屋を替えたのは、母の居間で交わされる話を、私の耳から遠ざけるためだ。母はたぶん、私がどの夜に、どの部屋の隅にいたかを思い出したのだと思う。宗一郎が庭から来て、「あの子は、恭介君の子だ。そう届けた」と言った夜。伯父が帰ったあとで、母が揺りかごのそばに来た日。

　母は、私が何を聞いたのかを確かめようとはしなかった。確かめるには、私に尋ねなければならない。尋ねれば、何を聞かれて困るのかを、私に教えることになる。だから母は何も尋ねずに、聞こえる道のほうを塞いだ。

　十一月に、たみという女中が、私の部屋の前の廊下に座るようになった。

　二十四か五で、口数が少ない。母に言われてそこにいるのだと、誰に教わらなくても分かった。たみは私が部屋を出ると立ち上がり、私が戻ると座った。私が何を手に持っているかを、見るともなく見ていた。

　見張りだった。私がどの部屋へ行くか、何を持ち出すか、誰のそばへ寄るかを、母の代わりに見ている人だ。

　私は、自分の部屋の中から、廊下のたみの背中を見ていた。

　あと一年と九か月。

　揺りかごのそばで聞けたことは、もう聞けない。母の居間の話は、廊下を二つ曲がった先で交わされる。私は二歳半で、どこへ行くにもたみがついてくる。

　＊

　十二月の半ばに、百合子さんが亡くなった。

　朝、佐伯が本家から知らせに来た。母は「そう」と言って、しばらく帳面を閉じたまま座っていた。

　三日後に、本家で葬儀があった。私は黒い着物を着せられて、お絹に抱かれて行った。

　本家の座敷は、人でいっぱいだった。線香の匂いがした。一年半あまり前に、百合子さんが寝床の上に起きていた座敷だった。いまは、白い布のかかった箱が、その場所に置かれていた。

　宗一郎は、いちばん前に座っていた。

　背中しか見えなかった。痩せた背中が、もっと薄くなっていた。弔問の客が頭を下げるたびに、彼も頭を下げた。下げて、上げるまでが、ほかの人より長かった。

　蘆田先生がいた。いちばん後ろの隅に座って、畳を見ていた。慎がその横にいた。

　母は、黒い着物を着ていた。

　母が黒を着るのを、私は初めて見た。いつも藤色や、朱や、花の散った明るいものを着る人だった。黒を着ると、母はいつもより背が高く、細く見えた。

　母は焼香をして、宗一郎の前で手をついた。

「このたびは」

「ああ。……来てくれて、ありがとう」

　それだけだった。二人のやりとりは、ほかの客とのやりとりと、何も違わなかった。

　帰りの馬車で、母は窓の外を見ていた。

　泣いていた。

　声は出さずに、目の端だけが濡れていた。母はそれを指で拭いた。拭いて、また外を見た。

　泣いていたのは本当だと思う。百合子さんは、母に「お久しぶりね」と言った人だった。母の娘を、下手な抱き方で抱いた人だった。

　馬車が本家の門を出て、しばらく行ったところで、母は一度だけ、息を長く吐いた。

　泣いたあとの息なのか、そうでない息なのか、私には分からなかった。

　私はお絹の膝の上で、馬車の揺れに合わせて揺れていた。

　袖を掴んで、指を差して、外された。あれから一年と七か月で、百合子さんは死んだ。私が知っていたとおりの冬に。

　――やっぱり、四歳で解決は無理じゃね。

　頭の中で、そう言った。言ってから、自分の声が二十七歳の、夜中のコンビニの帰り道みたいな声だったので、少し驚いた。

　無理じゃね、と思った。

　いちばん早い一手が、これだった。いちばん確かに分かっていて、いちばん止めやすいはずの一手だった。一人の医者が、帝都を離れないでいればよかった。それだけのことが、一歳の私には止められなかった。

　この先に残っているのは、もっと止めにくいものばかりだった。婚約。紙。薬。電報。匙。柱。

　お絹が、私の背中を撫でた。

「お嬢様、お寒くございませんか」

「……ううん」

　お絹は、私を着物の前で包むようにして、抱き直した。

　私は、お絹の胸に額をつけた。

　無理じゃね、と思って、それで何かをやめられるなら楽だった。やめられなかった。この人も、あの夏、台所へ行かされる。

　＊

　年が明けて、一月の終わりに、母が恭介に話をした。

　夜だった。私は寝かされていて、隣の茶の間から声が聞こえた。母は私の前では喋らなくなったが、茶の間の声までは消せない。

「この子を、本家で育てようと思います」

　箸を置く音がした。

「本家、といいますと」

「宗一郎さまのお屋敷です。あちらは、奥のことをする方がいなくなって、困っておいでなの。人手も、教える者もあります。学院のことを考えても、本家から出るほうがいい」

「はあ」

「あなたは造船所がありますから、通いにくくなるでしょうけれど」

　沈黙。

「奥様」

「はい」

「それは、いつからの話ですか」

「この春から」

　また沈黙があった。

　私は布団の中で、身体を固くしていた。

　――行きたくない。

　それは、計画のための判断ではなかった。本家へ移れば、宗一郎の近くにいられる。母と宗一郎の話が聞けるかもしれない。冷静に考えれば、そちらのほうが有利ですらある。

　それでも、私は行きたくなかった。

　恭介の声がした。

「わたしは、反対です」

　私は息を止めた。

「ここが、この子の家です」

　母が何か言った。低くて、聞こえなかった。

「はい。わたしは造船所の人間です。学もありません。それはそうです。ですが、この子はここで生まれて、ここで歩きました。庭のどこに石があるかも、この子は知っております」

　母がまた何か言った。

「はい。……はい。ですが、わたしは、反対です」

　その日の話は、それで終わったらしかった。

　声が震えていた。

　七夜に宗一郎に向かって「一字足させてほしい」と言ったときと、同じ震え方だった。でも、あれと、今夜のこれは、違う。宗一郎はこの人を毎日見ている人ではない。今夜の相手は妻だ。この家で毎日一緒に飯を食う人だ。反対すれば、明日から空気が変わる。

　震えたまま言ったのだということを、私は聞いていた。

　春になっても、私は移されなかった。

　夫の反対が効いたのか、本家のほうが首を縦に振らなかったのか。母はどちらとも言わなかった。

　言い出した理由のほうも、一つには決められなかった。

　妻を亡くした人の家に、自分の娘を入れる。娘の父親が本当は誰なのかを、いちばん知られたくない人から、娘を遠ざける。どちらでも、母にとっては同じ一手だった。

　＊

　同じころから、母の話し声が、別の場所で聞こえるようになった。

　台所の女中頭に。弔問の礼に来た分家の夫人に。夕食のあとの恭介に。

「あの子は、ときどき気味の悪いことを言うの」

　私は襖の陰で、それを聞いた。

「夢と、起きているときの区別が、まだつかないのでしょうね。大人の言葉をどこかで拾ってきて、意味も分からずに繰り返すの。本家、なんて。二つの子が」

　客は笑った。「賢いお嬢様ですこと」

「賢いのかしら。私には、ときどき、気持ちが悪くて」

　母はそう言って、自分でも少し笑った。冗談のように聞こえるように。

　台所でも、同じ話を聞いた。お絹に抱かれて台所へ下りたとき、女中頭が若い女中に言っていた。

「お嬢様のおっしゃることは、話半分に聞いておきなさい。奥様がそうおっしゃったから」

「はい」

「怖い夢をご覧になるんですって。夜に何か言いだしても、いちいち騒がないこと」

「はい」

　お絹は黙って、私を抱き直した。何も言わなかった。言えないのだと思った。お絹は女中で、女中頭は女中頭だ。ただ、私の背中に置かれたお絹の手は、そのあいだずっと動かなかった。

　母が話したのは、座敷で一度、台所で一度だけだったのかもしれない。それでも、話は母の手を離れて、家の中を勝手に歩いた。十日もすると、私が縁側で何か言うたびに、誰かが少し笑うようになった。

　恭介には、もう少し静かに言った。

「あなたも、あの子の言うことを本気になさらないで。怖い夢を見て、それを本当のことのように話すことがあるの。本気にすると、あの子のためにならない」

「はあ」

「子どもの言うことです」

　私は襖の陰で、手を握っていた。

　母は、話すのをやめただけではなかった。

　この子がいつか、誰かの前で「るりのおとうさまは、そういちろうさま」と言っても、聞いた人が「また、あの子の夢の話か」と思うように。母はそれを、この子がまだ言う前に、家じゅうへ言って回っている。この子の口から出る言葉を、出る前に軽くしている。

　百合子さんが亡くなって、宗一郎は一人になった。母の夢は、生まれた夜からいちばん近いところにある。その夢を壊せるのは、いまこの家で、二歳の子の口だけだった。

　私は十歳から十八歳まで、この人の娘をやった。珈琲の淹れ方を教わり、布を選んでもらい、髪を上げてもらった。そのあいだ、私はこの人を、兄に従わされた人だと思っていた。十八の夜まで。

　この人は、先に手を打つ人だった。まだ何も企んでいないうちから。

　それが策だということは、分かっていた。分かっていても、「気持ちが悪くて」という母の声は、胸のどこかに刺さったまま抜けなかった。

　母は、自分が抱いて育てた子のことを、客の前で笑いながら、気持ちが悪いと言った。策のための言葉でも、言葉は言葉だった。

　十歳の朝のことを思い出した。前の人生で、この身体に入ったとき、喉に残っていた「……なければ、よかった」という声。あの朝、あの子に何があったのか、私は知らない。知らないが、母の口から自分を要らないもののように語られるのがどういう痛さなのかは、この冬に少し分かった。私には大人の意識があって、それでも痛かった。十歳の子なら、どうだっただろう。

　＊

　二月のある日、私は廊下でわざと転んだ。転んで、たみが近づいてきたときに、廊下から部屋の中の様子がどこまで見えるかを確かめた。見えた。部屋の奥の、棚の上まで。

　その次の日、たみが言った。

「お嬢様」

「はい」

「わたくしは、目が悪うございます」

「え」

「遠くのものが、よく見えません。奥様には申し上げておりません」

　彼女はそれだけ言って、また廊下に座った。

　昨日、転んだ私を起こしてくれたとき、たみは部屋の奥をちゃんと見ていた。私はそれを見ていた。目が悪い人の見方ではなかった。

　私は、それが何を意味するのか、しばらく考えた。

　考えて、たぶん、これはこの人が私にできる精一杯なのだと思った。この人は仕事を辞められない。母に逆らえない。廊下から離れることもできない。できるのは、自分の目が悪いと私に言うことだけだ。

　奥様は、たみの目が悪いことを知らない。だから、たみが「何も見えませんでした」と言えば、奥様はそれを見張りの報告として聞く。見えなかったことは、報告のしようがない。

　見ないことにする、と言ったのだと思う。見ないことにする人が、廊下に一人いる。

　私は、それを受け取った。受け取って、使える日まで、しまっておくことにした。

　＊

　その冬のうちに、私は自分の演技を変えた。

　母は私を見ている。廊下から、食卓から、庭から。

　母は、私が「分かっている子」かどうかを測っている。分かっている子なら、揺りかごのそばで話した言葉も覚えているかもしれない。分かっていない子なら、あれは口真似だった。

　だから、間違えることにした。母に「あれは口真似だった」と思ってもらうために。母が安心すれば、母はまた、どこかで何かを話すかもしれない。

　靴を左右逆に履いた。お絹が「あら、あべこべ」と言って直してくれた。

　「あさ」と「あか」を混ぜた。「あかごはん」と言って、お絹に笑われた。

　積み木を、わざと崩した。

　母は、見ていた。見ていて、何も言わなかった。ただ、少しずつ、廊下に立つ回数が減った。

　たみは、廊下に残った。母が自分で立たなくなった分を、たみが座って埋めていた。私はそれでいいと思った。たみは、遠くのものがよく見えない人だ。

　演技はうまくいった。

　うまくいくたびに、焦った。

　靴を逆に履いて直されるのに、朝の五分。「あかごはん」と言って笑われるのに、昼の三分。そういうものを積み上げて、私は一日を、分かっていない子として使い切る。そのあいだにも、あと一年と半分、と頭のどこかが言う。私はそれを最後まで数えずに、靴を逆に履いた。

　三月のある日、私は恭介に言った。

「とう。みずうみ、いや」

「みずうみ？」

「みずうみ、いっちゃ、だめ」

　彼は私の頭を撫でた。

「湖か。夏に行くかもしれんな。星見荘といってな、涼しいところだ」

「だめ」

「怖いか。水が怖いか」

「……」

「大丈夫だ。父さんが手を離さん」

　通らなかった。

　当たり前だ。私はこの冬じゅう、わざと言葉を間違える子をやっている。その子が「湖に行くな」と言っても、それは水を怖がる幼児の言葉にしか聞こえない。

　私は自分で自分の口を、信用されないものにしていた。

　それだけではなかった。父は、母から「あの子の言うことを本気になさらないで」と言われている。怖い夢を本当のことのように話す子だ、と。父が私の「だめ」を水を怖がる子の言葉として聞いたのは、父が鈍いからではない。母が先にそう教え、私がその教えどおりの子を演じていたからだ。

　母の評判と、私の演技。両方から、同じことが父に届いていた。この子の言うことは、本気にしなくていい。

　「普通の子」でいることは、母から身を守るのに役立った。同時に、それは私が誰かに何かを伝える力を、まるごと削っていた。

　＊

　その夜、私は布団の中で、手持ちのものを並べた。

　言葉は、使えない。母が先に軽くして、私が自分でも軽くした。この家で、私の言葉はもう「また、あの子が」だ。

　では、何なら使えるか。

　大人が、自分の目で見て、自分で確かめられるもの。私が言うのではなく、相手が読むもの、触るもの。二歳の子の言葉は夢だと言える。でも、二歳の子が持ってきた紙に書いてある字は、夢ではない。

　物だ、と私は思った。

　自分で書けばいい、とは思わなかった。お絹に鉛筆を握らせてもらったことはある。握るというより掴むので、線はどこへ行くか分からない。丸ひとつが閉じない。字は読めても、この手ではまだ書けない。それに、二歳の子が字を書いてみせれば、それこそ気味の悪い子の証拠になる。

　運ぶのは、はじめからこの家にある物だ。大人の字で書かれた紙。大人が見れば、誰の字か分かる紙。

　渡す相手は、父にすると決めた。

　宗一郎は、たまにしか来ない。お絹は私の言うことを笑わずに聞いてくれるが、女中の手で奥様の物に触れることはできない。父は毎晩帰ってくる。私のすることを測らない。私の言葉は本気にしなくても、自分の目で読んだ字なら、父は本気にするかもしれない。

　ただ、いきなり大事な物を持っていけば、それもまた「気味の悪い子」の証拠になる。だから、先に、何でもない物を持っていく子になる。持っていくことが、この家の当たり前になるまで。

　翌日から、私は外で拾ったものを恭介のところへ運んだ。

　石。椿の花。誰かの落とした真鍮のボタン。去年の蝉の抜け殻。彼が帰ってくると、両手で持っていって渡す。

「これは」

「あげる」

「そうか」

　彼は受け取って、縁側の棚に並べた。

　たみは、私が両手に何を持って廊下を通るかを見ていた。石。花。ボタン。見たとおりを、奥様に伝えたのだと思う。数日して、母が縁側の棚を一度だけ見に来た。石と花とボタンを見て、母は何も言わずに戻っていった。

　それでよかった。母のところへ届く報告が、毎日、石と花であればいい。この子が何かを持って父のところへ行くのは、いつものことだ。母にもたみにも、そう思っていてもらわなければならない。

　＊

　三歳の誕生日に、恭介が赤い靴を買ってきた。

　四月二十日。庭の桜がもう散っていて、敷石に花びらが張りついていた。

　彼は仕事から帰るなり、風呂敷包みを畳の上に置いた。

「開けてみろ」

　私は結び目と格闘した。三歳の指では結び目は解けない。彼が半分ほど解いてくれた。

　中から、赤い革の靴が出てきた。

　子どもの靴だ。つやつやしていて、爪先が丸くて、留め金が銀色だった。この家では見たことのない種類のものだった。町の店で売っているものだ。

「わあ」

　私は本気で声を上げた。

「履いてみろ」

　私は座って、右足を入れた。

　足が、中で泳いだ。

　左足も入れた。同じだった。踵が浮く。爪先まで、指二本ぶんくらい余っている。

「……おおきい」

「大きいか」

「おおきい」

「いや、そんなはずは」

　彼は靴を脱がせて、自分の指を中に入れた。

「うん。大きいな」

　彼は自分の指と、私の足を、交互に見た。

「あのな。店で、こう、店の人に、うちの子の足はこのくらいだと言うたんだ」

　彼は右手の親指と人差し指を広げてみせた。

「このくらいだと」

「とう」

「うん」

「それ、おおきい」

「そうだな」

　彼は自分の指を見て、それから、私の足に自分の指を当てた。

「これは、わしの指が太いんだ」

　お絹が横で吹き出した。

「旦那様、お測りになりませんでしたの」

「測った。指で測った」

「指でお測りになったのですね」

「そうだ」

「それはもう、旦那様のお指の長さでございましょう」

「そうなるな」

　私は笑った。笑いすぎて、後ろへ倒れた。

「紙を詰めよう」

　彼は新聞紙を丸めて、靴の爪先に詰めた。

「履いてみろ」

　私は履いた。今度は少しましだったが、歩くと爪先の紙が潰れて、また泳ぐ。

　私は縁側から庭へ出た。三歩で、右の靴が脱げた。

「あー」

　もう三歩で、左が脱げた。

　私は裸足で庭の砂利の上に立っていた。靴が二つ、後ろに転がっていた。

「瑠璃花！」

　彼が走ってきた。走ってきて、私を抱き上げた。

「砂利は痛いだろう」

「いたくない」

「痛い」

　彼は私を縁側まで運んで、座らせて、足の裏を払った。小石が二つついていた。

「痛くないか」

「いたくない」

「そうか」

　彼はもう一度、靴を私の足に当てた。当てて、自分の指と比べて、首を振った。

「もう少し、大きくなってから履くか」

「うん」

「今度、店へ一緒に行こう。店の人に足を見せて、それから買う」

「うん」

　彼は靴を並べて、そこに紙を詰め直して、箱に戻した。箱を棚の上に置いた。

「ここに置いとくからな。大きくなったら履け」

「いつ」

「そうだな」

　彼は考えた。

「来年か。再来年か」

「らいねん」

「来年でもいいな」

　その約束を、私はその場でしっかり受け取った。

　来年の四月二十日に、私は四つになる。その四か月後が、八月十五日だ。

　来年この靴を履く日に、この人はまだこの家にいる。その次の年の春に、この人がまだこの家にいるかどうかは、私にかかっている。

　盥に浮かべた舟が沈んだときも、私は笑った。あれは、その場で終わる笑いだった。今日の笑いには、続きがついている。来年、この靴を履く。そのときは店へ行く。

　この家の中で、私が「来年」の話をしたのは、これが初めてだった。

　彼が箱を置いてから、言った。

「瑠璃花」

　私の身体が跳ねた。三歳になっても跳ねる。

「もういっかい」

「ん？」

「もういっかい、いって」

　彼はきょとんとした。

「瑠璃花？」

「うん」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花。瑠璃花。瑠璃花。……なんだ、そんなに呼ばれたいか」

　彼は笑って、私の頭に手を置いた。

　私は畳の上に座って、その手の重さの下にいた。

　嬉しかった。

　三歳の私は嬉しかったし、二十七年ぶんの私も嬉しかった。私はこの人に、自分の名前を呼ばせている。呼ばせている、という言葉が正しい。私が「もういっかい」と言って、この人がそのとおりにしている。

　その嬉しさの端に、小さく、冷たいものがあった。

　この人が呼んでいるのは、この人の娘だ。三分息をしなかった子だ。庭で走るところを見たいと思った子だ。その子の名前を、私が「もういっかい」とせがんでいる。

　私はその冷たさを、その日は端に置いたままにした。置いたままにして、もう一度言った。

「もういっかい」

「瑠璃花」

　お絹が茶を持ってきた。

「旦那様、そろそろお茶になさいませ。お嬢様も、お手をお洗いになって」

　私たちは笑いすぎて疲れていた。彼は縁側に胡座をかいて、茶をすすった。私は隣に座って、湯冷ましを飲んだ。庭で鵯が鳴いていた。桜の花びらが、風で敷石の上を動いた。

　何も起きない午後だった。

　＊

　五月に、宗一郎が来た。

　喪が明けてから、初めてだった。玄関から入って、女中頭が茶を出して、母の居間へ通った。

　母の居間は、廊下を二つ曲がった先だった。

　私には、何も聞こえなかった。

　私は自分の部屋の敷居のところに座って、廊下の曲がり角を見ていた。たみが廊下にいた。宗一郎と母が何を話しているのか、私にはひとつも分からなかった。二年前なら、私はその部屋の隅で目を閉じていたはずだった。

　一時間ほどして、宗一郎は帰った。

　帰り際に、私の部屋の前を通った。

「瑠璃花。大きくなったな」

　彼は私を見て、少し笑った。笑ったが、目の下が暗かった。百合子さんの葬儀のときの背中と、同じくらい薄い人だった。

　彼が門を出たあと、母は庭に出た。

　私は縁側の端から、母を見ていた。

　母は、藤色の着物を着ていた。喪が明けて、また明るい色を着るようになっていた。前より、少し明るい色を。

　母は、門のほうを向いて、しばらく立っていた。

　それから、梅の木の下まで歩いて、枝に触れて、戻ってきた。戻ってくるときの顔は、何も映していなかった。

　私が知っているのは、この年の十二月のことだった。

　＊

　その春から夏にかけて、私は母を観察していた。

　母は変わっていなかった。朝、庭を見る。昼、帳面をつける。夕方、女中頭と話す。夜、自分の部屋にいる。

　変わったのは、私を見る時間だった。

　以前は、廊下に立って中を覗いていた。いまは、食卓で正面から見る。私が匙を持つ手を見る。私が何を先に食べるかを見る。私が父の話にどう応えるかを見る。

　六月のある日、母が言った。

「瑠璃。この字が読めますか」

　母は新聞を広げて、大きな見出しを指した。

　私は、しばらくそれを見た。

　読めた。二十七年ぶんの私には読めた。三歳の子には読めない。

「まる」

　私は言った。

「まる？」

「まるが、ある」

　私は見出しの中の「。」を指した。

　母は、新聞をたたんだ。

「そうね」

　その日の午後、私は縁側で自分の指を見ていた。

　私はいま、自分を隠すために、自分の一番使える道具を捨てている。読めることを隠し、覚えていることを隠し、分かっていることを隠している。

　隠しているあいだに、四年目の夏が近づいている。

　＊

　その夏、蘆田先生がまた来た。

　先生は、髪が白くなっていた。二年前、本家の玄関で膝をついて私と目の高さを合わせた人と、同じ人だとは思えないくらいだった。診察の手つきは同じだった。穏やかで、丁寧で、少しだけ遅かった。

　慎は八歳になっていた。前より背が高くなって、前掛けの丈が合っていなかった。眼鏡の縁が、前より太いものに替わっていた。

　診察のあいだ、慎は先生の後ろに座って、紙に何か書いていた。

　私は、先生の鞄の横に置かれた紙を見た。去年の検査の綴りらしかった。上のほうに、母の名前と、私の名前があった。型の欄はAとABだった。去年は母の指に隠れて見えなかった字が、今は見えた。

　母が袂にしまった検査の紙を、父の目に届けてくれる人がほしかった。慎が気にして先生に話してくれれば、先生から父へ伝わるかもしれない。

　私は、慎のそばへ這っていった。

「しん」

「はい」

「えーびー」

　慎が顔を上げた。

「るりか、えーびー。かあ、えー」

　彼は私を見た。

「……お嬢様。それは、どこで」

「えーびー」

　私は同じことをもう一度言った。母がA、父がO、自分がAB。そこから父が除かれる意味まで口にすれば、誰に教わったのかを訊かれる。私は目に入った字を繰り返す子の顔をしていた。

　慎は、しばらく私を見ていた。

　彼は紙を伏せた。伏せて、こう言った。

「はい。わかりました」

　彼はそれ以上、何も訊かなかった。先生にも言わなかった。

　帰り際に、彼は私の頭を撫でた。撫で方が下手で、髪が乱れた。

　私はそのとき、彼の困った顔を見て、懐かしいと思った。

　前の人生で、十五の私に詩集を貸してくれた二十歳の人。十七の秋、処方簿を差し出した二十二歳の人。蘆田先生が、百合子さまの倒れた年に帝都にいなかったことをずっと悔やんでいる、と話してくれた人。あのとき彼が見せた顔と、いま八歳の彼が見せている顔が、似ていた。

　似ている、というだけだ。

　この子は、あの人ではない。この子が今日黙ると決めたのは、この子が自分で決めたことだ。私はそこを混ぜないようにした。

　ただ、蘆田先生がこれから何年も悔やむことだけは、前の人生と同じだった。今度は、私もそれを悔やむ側にいた。

　それから数日して、私は失敗した。

　私は恭介に「みずうみ、しぬ」と言った。

　言い方をもっと考えるべきだった。彼は驚いて、母に相談した。母はその晩、私の部屋に来た。

「瑠璃。誰がそんなことを言ったの」

「……」

「誰から聞いたの」

「しらない」

　母はしばらく座っていた。

　座って、私の顔を見ていた。三歳の子の口から「しぬ」が出たことを、母は、自分の怖がっているものとは別の棚に置こうとしているように見えた。本家とも、宗一郎とも、関係のない言葉として。

　翌日、母が恭介に言っているのが聞こえた。

「ほらね。また、あの子が。夢の話です。本気になさらないで」

　恭介は「はあ」と言った。私の部屋の前で、たみが座り直す音がした。

　言葉で言えば、こうなる。分かっていたのに、言ってしまった。私は、湖という言葉を、自分でもう一段軽くした。

　＊

　九月に、本家から来た佐伯が母に言った。

「本家に、久我様からお話が来ているそうでございます」

　私は茶の間で、お絹に髪を結ってもらっていた。襖が開いていた。

　母は帳面をつけていた。筆が止まった。

「そう」

「親族会の方々も、年内には、と」

「そう」

　母は、筆を置いた。置いて、硯のほうへ向き直って、墨を磨りはじめた。墨はもう十分に磨れていた。

　お絹の指が、私の髪の中で一瞬止まって、また動いた。

　久我静子さん。前の人生の十八の夜までに、私はその名前を、何度か聞いていた。宗一郎と婚約していた人。婚礼は、宗一郎が死んだ年の十月の予定だった。

　十二月だ、と私は思った。

　この縁談は、十二月に決まる。決まった月に、母は宗一郎に手紙を書く。せめて亡くなったときに効く紙を、と。私はもう待ちません、と。宗一郎はその紙を書いて、三村弁護士に預ける。

　あと三か月。

　母は墨を磨り続けていた。

　＊

　秋になっても、私は毎日、何かを恭介のところへ運んでいた。

　春から、半年を過ぎていた。縁側の棚は三段目まで埋まって、恭介は二つ目の棚を自分で作った。お絹は「お嬢様の博物館」と呼んだ。母は、その棚の前を通るとき、一度も足を止めなかった。拾った物を父に見せる子。この家では、それがもう当たり前になっていた。

　恭介は、玄関で靴を脱ぎながら「今日は何だ」と言うようになっていた。

　私はそのために、半年やった。

　婚約が決まり、母が認知の紙を求める前に、父には私の生まれのことを知っておいてほしかった。親族会で突きつけられるより先に、自分であの手紙を読んで、考える時間を持ってほしかった。

　十二月が来る前に、この手で運ばなければならない紙が、一枚あった。

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# 第十一章　期限

　その日は、十一月の半ばに来た。

　昼過ぎに、母は湯屋へ出かけた。門の閉まる音を、私は自分の部屋で聞いた。

　廊下には、たみがいた。

　私が部屋を出ると、たみは立ち上がらなかった。膝の上の洗濯物を畳みながら、庭のほうを向いていた。遠くのものが、よく見えない人の向き方だった。私はその背中の横を通った。たみの手は、一度も止まらなかった。

　二月に、たみは「遠くのものが、よく見えません」と言った。見ないことにする、という申し出だった。私はそれを九か月しまっておいて、この日に使った。

　母の居間に、文箱がある。黒漆の、蓋に蒔絵のある箱だ。母はそこに大事なものを入れている。

　私は廊下を這っていった。三歳の私は歩けるが、廊下を歩くと足音が響く。這うほうが静かだ。

　母の居間に入った。文箱は違い棚の下の、引出しの中にある。

　引出しは重かった。

　三歳の腕では、開かなかった。

　私は両手で取っ手を掴んで、身体ごと後ろへ引いた。二センチ動いた。もう一度引いた。また二センチ。四回目で、手が滑って、私は尻もちをついた。

　息が上がっていた。汗が出ていた。

　五回目で、手が入るくらい開いた。

　文箱を引き出した。重い。畳に置いた。

　蓋を開けた。

　中に、紙が何通か入っていた。私は一番上を取った。

　この世界の崩し字は、前の人生の八年で少しずつ読めるようになった。読み方は覚えている。けれど、薄暗い棚の下で小さな紙を繰る指がもどかしく、廊下の音がするたびに字の続きを見失った。

　二通目に、それがあった。

　――藤乃へ。

　――私たちの子に、名を考えた。

　――男の子なら勝手にせよ、女の子なら瑠璃としたい。瑠璃丸の瑠璃だ。

　私は、その紙を掴んだ。

　十八歳の誕生日の朝に読んだのは、写しだった。いま、私は原本を持っている。

　続きには、銀の星を注文したことも書いてあった。瑠璃、とこの名が選ばれたときの紙だ。

　私はその一通を胸に抱えて、文箱を戻し、引出しを閉めようとした。

　閉まらなかった。

　開けるより、閉めるほうが重かった。私は畳に足を突っ張って、両手で押した。半分閉まったところで、腕が震えて力が抜けた。

　時間がなかった。

　私はそのまま部屋を出た。引出しは、五センチほど開いたままになった。

　自分の部屋に戻って、私は紙を布団の下に隠した。

　手が震えていた。

　＊

　夕方、恭介が帰ってきた。

「今日は何だ」

　彼は玄関で靴を脱ぎながら言った。

　縁側の二つの棚には、半年ぶんの石と花とボタンが並んでいた。父は今日も、そのどれかだと思っていた。

　私は両手で紙を持っていた。

「あげる」

「お、なんだ、紙か。……絵か？」

「ちがう」

　彼は受け取った。

　受け取って、玄関の上がり口に立ったまま、それを広げた。

　彼の顔から、表情が消えた。

　私は、その顔を見ていた。

　彼は手紙を最後まで読んだ。それから、最初へ戻って、二度読み返した。「私たちの子」の一行で、紙を持つ指が止まった。

　そのあいだ、私はずっとそこに立っていた。

　彼は紙を下ろした。

「瑠璃花」

「うん」

「これは、どこから持ってきた」

「……はこ」

「箱」

「かあさまの、へや」

　彼はしゃがんだ。しゃがんで、私と目の高さを合わせた。

　叱られると思った。

　彼は、叱らなかった。

　彼は、私の脇の下に手を入れて、抱き上げた。抱き上げて、上がり口に座って、自分の膝の上に私を置いた。

　それから、紙をもう一度、膝の横で開いた。

「……瑠璃、か」

　彼は言った。

「女の子なら瑠璃、と書いてある」

　私は彼の膝の上で、じっとしていた。

「わしは、あの晩」

　彼の声が、掠れた。

「あの晩、この手紙のとおりに名前がついた。わしはそれに、花を足したいと言うた」

「うん」

「わしは、この子はわしの子だと思うとった」

　彼の腕が、私の腹のあたりで少し締まった。

「思うとった、というのは、嘘だな」

　彼は言い直した。

「分からんかった。分からんかったが、わしの子だと思うことにしとった。それで、名前をつけたいと言うた」

　私は何も言えなかった。

　三歳の口では言えない、ということではない。三十年を超える口があっても、この人に言うことは何もなかった。

　彼はしばらく黙っていた。

　それから、立ち上がった。

「これは、返しに行く」

「え」

「元の場所へ返す。奥様の物だ。お前が取ってきた物は、返さんといかん」

　彼は私を下ろした。

「一緒に来い」

　彼は母の居間へ行って、引出しを開けて、文箱を出して、手紙を戻した。戻して、引出しをきちんと閉めた。閉めると、隙間がなくなった。

　これで、母が湯屋から戻っても、引出しには何の跡も残らない。父がそこまで考えて閉めたのかどうかは、分からなかった。

　それから、彼は私の手を引いて、自分の部屋へ戻った。

　座って、私を膝に乗せた。

　彼は、泣いていた。

　声を出さずに、目のところだけが濡れていた。彼は袖でそれを拭いた。拭いても、また濡れた。

　私は、何もできなかった。

　この人の役に立つことを、私は何ひとつ言えなかった。ちがう、あなたの子だよ、とは言えない。この人はもう読んでしまった。あなたは悪くない、とも言えない。それは慰めにもならない。

　私は、彼の膝の上にいた。それだけだった。

　しばらくして、彼が言った。

「瑠璃花」

「うん」

「お前は、お前だ」

　私は顔を上げた。

「誰の子だとか、そういうのは、わしにはよう分からん。分からんが、お前は、わしがとうと呼ばれとる相手だ」

　彼は鼻をすすった。

「それだけは、間違いない」

　私は、彼の胸に額を押しつけた。

　この人は、いま、母と宗一郎のあいだに子があるかもしれないという手紙を読んだ。見ないようにしていた疑いを、もう避けられなくなった。知って、そのうえで、さっきと同じ名前で私を呼んだ。

　七夜に「瑠璃花」と呼んだときと、今夜「瑠璃花」と呼ぶときで、この人の声は変わっていなかった。

　私はそれを、強く受け取った。

　たぶん、必要以上に強く受け取った。この人が呼んでいるのはこの身体の子で、私はその声を横から聞いているだけだ。それは分かっている。

　分かっていて、私はその夜、彼の膝の上で眠るまで、一言も喋らなかった。

　＊

　十一月の終わりに、本家へ連れて行かれた。

　母と、女中が一人ついた。馬車で四十分ほどの距離だった。門をくぐって、玄関で草履を脱いで、廊下を歩いた。

　途中の仏間の前で、母が少し足を緩めた。襖の奥に、新しい位牌と、女の人の写真があった。色の白い、痩せた人が、少し笑って写っていた。笑うと目尻が下がる人だった。

　百合子さんだ。

　去年の冬に亡くなった。一歳の私が蘆田先生の袖をつかんで離さなかったのは、この人のためだった。先生は発って、戻ったときには手遅れだった。

　母は写真に向かって、ほんの少し頭を下げた。それから、また歩き出した。

　廊下の突き当たりに、あの部屋があった。

　襖が開いていた。この人生で、あの襖が開いているのを見るのは初めてだった。

　壁いっぱいに星図が貼ってある。北の空と、南の空と、海図。赤い糸で航路が引いてあって、折れ目に印がある。

　その下に、真鍮の時計が並んでいる。

　私は、母の手を離した。

　離して、部屋の中へ歩いていった。

「瑠璃」

　母が呼んだ。私は止まらなかった。

　壁の前に立って、上を見上げた。

　三歳の身長からだと、時計の列は頭のずっと上にある。十八歳の目で見たときとは、まったく違う光景だった。

　音は、同じだった。

　いくつもの秒針がわずかにずれて刻む音。屋根を叩く雨のような音。

「おや」

　声がした。

「気に入ったか」

　宗一郎が入ってきた。三十一歳。痩せて背が高く、こめかみの髪に、もう白いものが混じっていた。

　私はこの人を、生まれてから数えるほどしか見ていない。生きて動いているところを見るのは、いつも少し慣れない。前の人生の私にとって、この人は仏間の写真だった。

　彼は私の横に来て、しゃがんだ。

「これはな、船に載せる時計だ。海の上では、時計が狂うと場所が分からなくなる。だから、船屋は時計を集める」

「いくつ」

「四十三」

　私は思わず彼を見た。

「数えたことがある」と彼は言った。「若いころ、暇な冬に数えた」

　彼は立って、壁のいちばん端の時計を指した。

「動いているのは、そのうち十九だけだ」

　私は口を開けた。

　同じだ。十五年後も、動いているのは十九だ。

「なぜ、ぜんぶ動かさないの」

「直せる者がいない。ぜんまいを巻ける者はいるが、狂ったのを直せる者はもういない。祖父の代に一人いたそうだ」

「なおさないの」

「直したいと思っている。思っているうちに、十年経った」

　彼はそう言って、笑った。

　この人は、決めない人だ。

　私はそれを、母から聞いた。前の人生の十二歳の夏に、珈琲を飲みながら。百合子さまが亡くなっても、あの人は私を選ばなかった、と母は言った。

　実物のこの人は、確かに決めない。時計を直すのを十年先延ばしにしている。病身の奥様を、子ができなくても離縁しなかった。奥様が亡くなってからは、静子さんとの話を、親族会に急かされながら先延ばしにしている。

　来月、それが決まる。この人が自分で決めるのではない。家が決めて、この人が頷く。そして、母に求められて、決めなくても効く紙を書く。

　彼は私を抱き上げて、いちばん高い時計を見せてくれた。

「これは、瑠璃丸に載っていたやつだ」

「るりまる」

「そうだ。お前の名前の船だ」

　そのとき、玄関のほうで声がした。

「旦那様、静子様がお見えです」

　宗一郎の腕が、少し固くなった。

　彼は私を下ろした。

「藤乃」

　母が廊下から入ってきた。

「静子さんが来た。この子を、頼む」

　母は私の手を取った。

　その手つきに、何も乱暴なところはなかった。母はいつも通りだった。ただ、母の指が、私の手首を掴む位置が、いつもより上だった。

　久我静子という人が玄関から入ってきた。二十歳だった。若い。背が高くて、髪をきっちり結っていて、風呂敷包みを自分で持っていた。

「宗一郎さん。お約束のもの、お持ちしました」

「ああ、すまん」

「ずいぶんお待たせしてしまって」

「いや、待たせているのはこちらだ」

　二人はそう言い合って、笑った。

　その笑い方に、含みはなかった。この人は、この人でこの縁談を待っている。待っているが、待っているだけの人ではない。彼女は自分で包みを持って、自分で来た。

　私は、この人の顔を見ていた。

　この人が、あと十一か月で、この家に入る。入れば、来月書かれる紙は、母の望む意味を失う。宗一郎が死んでも、嫡出の子が先に立つ家になる。

　十一か月。

　湖は、その前にある。

　私は、母に手を取られたまま、廊下の奥へ身を乗り出した。

「しずこさん」

　静子が私を見下ろした。

「あら。こんにちは」

「およめさん？」

　廊下が、静かになった。

　宗一郎が、咳をした。静子は少し目を大きくして、それから、口元を押さえて笑った。

「まあ。どなたに聞いたのかしら」

「はやく、きて」

　私は言った。

「はやく、およめさんに、きて」

「気の早いお嬢さんだこと」

　静子は屈んで、私の頭に手を置いた。手が大きかった。

「まだ何も決まっておりませんのよ。それに、決まっても、すぐにというわけにはまいりません。百合子さまのこともございますし」

　静子は宗一郎を見た。宗一郎は、困った顔で笑っていた。

　大人の婚礼の日取りは、三歳の子の「はやく」では動かない。

　分かっていた。分かっていて、言った。婚礼が夏より前に来れば、あの紙は何の役にも立たなくなる。母には、宗一郎を死なせる理由がなくなる。私の手の届くところで、湖をなくせる道は、それしか見えなかった。

　そして、それを言った私の手首を、母が掴んでいた。

　私は振り返った。

　母は、笑っていなかった。怒ってもいなかった。何も言わずに、静子の手が私の頭から離れるのを見ていた。

　母は、揺りかごの横で、この人がいつか自分を選んでくれる日の話をしていた人だ。百合子さんが亡くなって、やっと、と思った人だ。その人の前で、私はいま、別の女の人に「はやく、およめさんに、きて」と言った。

　言ってから、それが母の耳にどう入ったかを考えた。遅かった。

　私は、もう一つだけ言った。静子さんと、その後ろの宗一郎に向かって。

「みずうみ、こないで」

　静子が「まあ」と言った。

「みんな、みずうみ、こないで」

「湖が怖いのね」

「かわいそうに、水を怖がるんです」と母が言った。

　母は私の手を引いた。強く引いた。

　馬車の中で、母は何も言わなかった。

　私は、窓の外を流れる塀を見ていた。

　母は、まだ何も決めていない。

　前の人生の十八の夜に知ったとおりなら、母が蘆田医院で薬を受け取り始めるのは、四歳の四月だ。いまの母には、まだ計画がない。この人は、宗一郎が自分を選ばなかったことを、これから一か月かけて、はっきり知らされる人だ。

　その人の耳に、私はいま、湖と言った。およめさん、と言った。

　どちらも、母にとっては、三歳の子の気味の悪い言葉のひとつだったかもしれない。そうではなかったかもしれない。母は、何も言わなかった。

　私に分かるのは、母が一度も私の手首を離さなかったということだけだった。

　＊

　十二月に、宗一郎と静子の婚約が決まった。

　式は翌年の十月と決まった。

　その話を、私は食卓で聞いた。本家から来た佐伯が母に日取りを伝えているのを、横で粥を食べながら聞いた。

　十月。

　私は匙を止めた。

　知っていた。

　知っていたことが、そのとおりに来た。婚約は、三村の封書の中で見た紙の日付と同じ十二月。式は、十二の夏に母から聞いたとおりの十月だった。答え合わせは、合っていた。

　合っていて、少しも嬉しくなかった。

　宗一郎が結婚すれば、正妻が来る。正妻に子ができれば、この子の順位は下がる。死んだときに効く紙は、宗一郎に妻も嫡出の子もいないうちに宗一郎が死んだときだけ、この子を本家のただ一人の子にする。静子さんが来たあとでは、そうはいかない。

　式は十月。その前の夏に、湖がある。

　前の人生で、私はこの計算を、十八の誕生日の朝に、三村の封書を読みながらした。今度は、三歳の暮れに、粥を食べながらしている。

　同じ答えが出た。

　＊

　翌朝、母が玄関で、佐伯に封書を渡していた。佐伯は昨夜、日取りを伝えたあと、そのまま泊まっていた。

　父はもう造船所へ出たあとだった。私はお絹に手を引かれて、父を見送りに出たまま、上がり口に立っていた。

「本家へ。宗一郎さまに、直接お渡しして」

「かしこまりました」

　佐伯は封書を両手で受け取った。

　表書きが見えた。

　宗一郎様。

　その字を、私は知っていた。少し右へ流れる払いまで、知っていた。十八の誕生日に、三村の封書の中で、同じ字を見た。

　中身も知っている。

　――せめて、亡くなったときに効く紙を、この子にください。

　――私はもう待ちません。

　私は、上がり口から飛び降りた。

「お嬢様！」

　お絹の手が離れた。私は佐伯の袖を掴んだ。

「だめ」

「お嬢様？」

「それ、だめ」

　私は封書に手を伸ばした。三歳の手は、佐伯の胸の高さまで届かなかった。袖を引いて、引いて、佐伯の腕が下がったところで、指の先が封書の角に触れた。

　封書の角が、少し折れた。

「瑠璃」

　母の手が、私の手の上に重なった。

　冷たい手だった。力は入っていなかった。それでも、三歳の指は、その手の下で動かなくなった。

「放しなさい」

「だめ」

「放しなさい」

　母は、私の指を一本ずつ、封書から外した。

　佐伯は困った顔をしていた。彼は封書の折れた角を膝の上で伸ばして、懐に入れた。

「行ってまいります」

「お願いね」

　佐伯は出て行った。

　門の閉まる音がした。

　私は、上がり口の下の土間に立っていた。足袋のまま土間に降りていた。足の裏が冷たかった。

　母は、私を見下ろしていた。

　長く見ていた。

　それから、お絹に「足を拭いてやって」と言って、奥へ入った。

　＊

　あの手紙を止めても、何も変わらなかったのだと思う。

　その日の午後、私は縁側で、そのことを考えた。

　封書を破っても、母はもう一通書く。同じ字で、同じ文で。あの手紙は、紙ではなかった。母がもう決めたことだった。私が止めようとしたのは、紙のほうだけだった。

　では、母が決めるのを止められたか。

　止めたければ、宗一郎に母を選ばせるか、母に選ばれないことを受け入れさせるしかない。どちらも、三歳の子が決めていいことではなかった。三十年分の私が決めていいことでもない。

　婚約を止めることもできない。止めるべきでもない。静子さんは、自分で包みを持って、自分で来る人だ。宗一郎は、家のために、やっと一つ決めた。

　だから、私にできたのは、婚約が決まる前に、父にあの手紙を読ませることだけだった。

　一歳のときと、同じだった。袖をつかんでも、人は発つ。手紙は届く。

　――やっぱ無理じゃん、三歳で。

　口に出さずに、そう思った。思ってから、自分の声の軽さに少し救われて、それから、救われたことが嫌になった。

　＊

　十二月の終わりに、佐伯が三村の事務所の封筒を届けに来た。

　母は茶の間の戸口で受け取り、封を切った。私はお絹に抱かれて、隣の部屋から出てきたところだった。

「花の字まで、そのまま」

　母は紙を見たまま、小さく言った。

　私は息を止めた。母が顔を上げた。すぐに紙を折り、封筒に戻した。

　母は何も言わず、自分の居間へ行った。

　昼寝の布団に入っても、私は目を閉じられなかった。

　十八歳の誕生日に、三村の封書の中で読んだ紙には、こう書いてあった。

　――余、天導宗一郎、天導瑠璃を余の実子として認知す。

　瑠璃、だった。

　届いたのがあの紙の写しなら、いまは、瑠璃花になっている。

　止められなかった紙の中で、その一字が変わったらしい。父が七夜に足した一字だ。

　私は、それを、しばらく考えていた。

　この世界は、私のために作り直されてはいない。婚約は同じ月に来た。あの紙も、また十二月に書かれたのだろう。母の手紙は、たぶん同じ文だった。目につく違いは、父が一字足したことと、その日から後に人が書く紙に、その字が入ることだけだ。

　その地味さが、今日は、ありがたくなかった。

　その夜、母が私の部屋の戸口に来た。

　襖を開けて、そこに立っていた。

　私は布団に座っていた。目が合った。

　母は、何も言わなかった。

　一分か、二分か、母はそこに立っていた。

　それから、襖を閉めて、行った。

　私は布団に潜って、目を閉じた。

　あの戸口の母は、何を確かめに来たのだろう。私がまだ起きているかどうかか。封書の角を折った子の顔に、何かが残っていないかどうかか。

　私は、自分の顔が何も残していないことを祈った。祈って、それから、祈る相手がいないことを思い出した。三行は、呼んでも出ない。帰り道も、相談相手もない。

　三歳の身体で、見張りのついた部屋で、あと八か月。私はそれを、ここで過ごすしかなかった。

　＊

　年の暮れに、恭介が木の船を持ってきた。

　二年ほど前に盥で沈んだ舟とは、まるで違うものだった。

　長さは腕の半分くらい。船体が滑らかに削ってあって、船首が少し反っている。帆柱は三本。帆は薄い布で、糸で縫ってある。船体の横に、細い刀で字が彫ってあった。

「るりまる」

　私は読んだ。人前でも、平仮名なら少しずつ読んでみせるようにしていた。

「読めるのか」

「よめる」

「そうか」

　彼は嬉しそうだった。

「本物の瑠璃丸を、わしは見たことがある。若いころ、残してあった船体の修理に入った。船底の板を三枚替えた」

「うかぶ？」

「浮かぶ。底に鉛を入れた。今度は計算した」

　私たちは台所から盥を借りて、水を張って、浮かべた。

　浮かんだ。

　傾かなかった。

「おお」

「うかんだ」

「浮かんだな」

　彼は腕を組んで、しばらく見ていた。

　私は水に指を入れて、船を押した。船は盥の縁まで行って、跳ね返って戻ってきた。

「とう」

「ん」

「これ、もらっていい」

「お前のだ。名前が彫ってあるだろう」

「るりまる」

「そうだ」

　私は船を持ち上げて、水を切って、抱えた。冷たかった。

　その夜、私は布団の中で、木の船を横に置いて考えていた。

　この人は、手紙を読んだ。この子が自分の血の子ではないかもしれないと知った。知って、それでも、船に「るりまる」と彫った。宗一郎の船の名前を、自分の手で彫った。

　私は、決めた。

　血がどうであれ、この人は父だ。

　これを、私は事件の前に決めておきたかった。

　もし、来年の夏に何かが起きて、そのあとでこの人が何かをしてくれたとしても、私はきっとそれを恩として受け取ってしまう。恩の交換で家族になるのは、私の悪い癖だ。前の人生の十歳のとき、フミの湯呑の破片を拾って、あと何回か手伝えば父の居場所を教えてもらえるだろうかと考えた、あの癖だ。

　だから、何も起きていない年末の夜に、決める。

　布団の中で、私の左手が動いた。

　彼が部屋を出て、廊下を歩いていく音がした。その音のほうへ、左手が伸びた。

　私は、押さえなかった。

　伸ばしたままにした。手は、しばらく空中にあって、それから、力が抜けて落ちた。

　枕元の棚には、銀の星がある。裏に「瑠璃へ」と彫ってある。

　船の名前は瑠璃丸。刻印は瑠璃。呼ばれる名は瑠璃花。

　三つとも、いま、この部屋にある。

　＊

　冬のあいだ、私は父と数を数える遊びをした。

　彼が仕事場から持ち帰った木の端切れを、床に並べる。十個ずつ束にして、十の束を十作る。百になる。

「百だ」

「ひゃく」

「船の板は、これの何倍要ると思う」

「しらない」

「わしも数えたことがない」

　彼は本当に数えたことがないらしかった。二人で数え始めて、三十で飽きた。

　そういう夜が、その冬に何回かあった。

　母は、その部屋に入ってこなかった。廊下を通ることはあった。通るとき、足音が少し遅くなるのが分かった。

　＊

　正月に、本家で人が集まった。

　静子が来ていた。彼女は台所を手伝って、母と並んで働いていた。母は静子に丁寧だった。とても丁寧だった。

　昼過ぎに、座敷で誰かが言った。

「夏は、湖へ行かれるので」

「ええ」と静子が答えた。「今年は私も伺うつもりです」

　私は、母の顔を見た。

　母は、湯呑を持っていた。

　母の指が、湯呑の縁で止まった。ほんの一瞬だった。それから、母は湯呑を口へ運んだ。

　私はそれを見た。

　ただの嫉妬だったのかもしれない。十一月に、三歳の娘が言った「みずうみ」を思い出したのかもしれない。

　私に見えたのは、母の指が一瞬止まったということだけだった。

　その晩、家に帰ってから、私は恭介に言った。

「とう」

「ん」

「なつ、みずうみ、いや」

　彼は、私を見た。

　前とは、少し違う目だった。十一月に手紙を読んだ人の目だった。

「まだ言うか」

「いや」

「怖いか」

「こわい」

　彼は座って、私を膝に乗せた。

「何が怖い」

「みずうみで、だれか、しぬ」

　彼は黙った。

　長く黙った。

「誰か、というのは」

「わかんない」

「誰かが、そう言うたのか」

「ちがう」

　彼は、私の頭に手を置いた。

「分かった」

　彼はそう言った。

「分かった。覚えとく」

　覚えとく、と彼は言った。

　それだけだ。彼は次の日に何かを調べたりしなかった。母に問い質したりもしなかった。三歳の子が湖を怖がっている、という話を、彼は自分の中に置いただけだった。

　それでも、前とは違った。去年の春、彼は「大丈夫だ」と言った。今度は「覚えとく」と言った。

　私は、その違いを大事だと思った。大事だと言えるほどの違いではないのかもしれない。それでも、何も変わらなかったわけではなかった。

　＊

　三月の終わり、母が来た。

　夜だった。見張りのたみは廊下にいた。母は入ってきて、襖を閉めた。

　母は、私の布団の横に座った。

　灯りは小さかった。

「瑠璃」

「かあさま」

「起きていたのね」

「うん」

　母は、しばらく黙っていた。

　それから、こう言った。

「あなたは、誰」

　私は、母の顔を見た。

　母の顔には、怒りはなかった。責めてもいなかった。母は、本当に訊いていた。

「あなたは、私が抱いた子です」

　母は言った。

「三分、息をしなかった。産婆が諦めかけた。私は、この子は死ぬのだと思いました。そのとき、あなたが泣いた」

　母の手が、布団の上に置かれた。

「戻ってきた、と私は言いました」

　私は動かなかった。

「私は、あなたに乳をやりました。夜中に何度も起きました。歩いたのも見ました。かあ、と呼ばれました」

「うん」

「あなたは、私が眠っていると思って話したことを、覚えていました」

　母の声は、震えていなかった。

「二つのとき、あなたは、るり、ほんけ、と言いました。私は、あの言葉を、あなたの前で何十回も言いました。眠っている子の前で。あなたは、それを覚えていた」

「……」

「三つの子が、湖で人が死ぬと言いました。静子さんに、早くお嫁に来てと言いました」

　母は私を見ていた。

「私が宗一郎さまに手紙を書いた朝、あなたは佐伯の袖を掴んで、だめ、と言いました。あの手紙に何が書いてあるか、私は誰にも話していません」

　母の手が、布団の上で、少しだけ握られた。

「あなたは、誰」

　私は、答えなかった。

　答えられなかった、のではない。答えなかった。

　母がいま怖がっているのは、幽霊ではない。前の子と比べているのでもない。母は、自分が四年近く抱いて育てた子が、自分の言葉を全部覚えていて、まだ起きていないことを口にし、誰にも見せていない手紙の中身を知っているかのように振る舞う、という事実だけを見ている。

　母は、その子に、直接訊いている。

　この問いに答えれば、私はこの家で何かを失う。何を失うかも分からない。

　私は、母の手を見ていた。布団の上に置かれた手。三年と十一か月、私を抱いた手。前の人生で、薬を六回買った手。

　来月、この手は、蘆田医院で最初の薬を受け取る。

「かあさま」

「はい」

「ねむい」

　母は、私を見ていた。

　それから、立ち上がった。

「そう」

　母は襖を開けて、出て行った。

　問いは、そのまま部屋に残った。

　＊

　その夜、私は眠らなかった。

　布団の中で、三つのことを並べた。

　一つ。この身体の左手。私の意思と関係なく、星へ伸びる。父の足音へ伸びる。

　二つ。前の人生の石盤。「パパは　かえってくる」。板の左側が擦れて曇っていた。あの子は左利きだった。私は右利きだ。

　三つ。私がこの身体に入った日。三分の無呼吸。

　この三つを、私はずっと別々に置いていた。

　並べると、一つの形になった。

　前の人生の十歳の朝、この身体の子は「……なければ、よかった」と言った。生まれてこなければよかった、と言ったのだと思う。母の話を聞いたあとで。

　その子の願いは、たぶん、どこかへ届いた。

　もし、あの子の拒んだ気持ちが、巻き戻すことでは消えなかったのなら。私が「はじめから」を選んで身体が生まれ直しても、生きる本人は来なかったのかもしれない。

　あの三分は、その空白だったのかもしれない。

　空いていた。

　空いていたところへ、私が入った。

　――違うかもしれない。

　私はすぐにそう思った。

　これは私の推理だ。誰かが教えてくれたのではない。星の間で見たあの三行は、そんなことを一言も表示していなかった。

　あの画面は、あの子のことを何も教えなかった。私の帰り道のことさえ、教えなかった。

　私は目を閉じて、あの三行を思い浮かべようとした。

　出なかった。前の人生の十歳の最初の夜と同じだった。あれは、私が呼んで出るものではない。

　――あの子は、どこ。

　誰にも訊けなかった。答える画面も、ここにはなかった。

　私は目を開けた。

　枕元の棚に、銀の星がある。

　私は左手を伸ばした。今度は、私が伸ばした。指先が棚に触れて、星の角に当たった。

　「いるなら」と、私は声に出さずに言った。

　「いるなら、この四年、ごめん」

　返事はなかった。

　この身体で言葉を選んで喋るのは、私だけだ。それでも、星へ伸びる左手や、父の足音に先に動く身体は残っている。本人が席を外していても、好きだったものの跡まで消えたわけではないのかもしれない。

　布団の中で、私は自分の左手を見ていた。

　この身体の子が生きていたら、この子は、たぶん、この四年を私と同じようには過ごさなかった。もっと素直に泣いて、もっと素直に笑って、母の言葉を覚えなかったかもしれない。静子さんに「およめさん」とは言わなかったし、佐伯の袖も掴まなかった。

　でも、この四年に起きたことのいくつかは、この子のものだ。

　七夜に「花」を足してもらったのは、この子だ。赤い靴を買ってもらったのは、この子だ。木の船に「るりまる」と彫ってもらったのも、この子だ。

　私は、それを横で聞いて、救われた。

　名前を呼ばれるたびに、私は嬉しかった。三歳の誕生日に「もういっかい」と言った。あれは、この子の名前だ。

　それでも、私は、あの嬉しさを嘘だったことにするつもりはない。

　私は本当に嬉しかった。それは起きたことだ。

　問題は、その先だ。

　私はいま、四歳になろうとしている。夏に事件がある。事件を止めたら、そのあと、私はどうするのか。

　私は、まだ答えを持っていなかった。

　持たないまま、朝が来た。

　四月二十日に、私は四歳になった。

　＊

　四歳になって最初に考えたのは、母に伯父のことを言うかどうかだった。

　母は、兄に裏切られる。

　前の人生の十七の秋に、一臣さんが自分の父の机から持ってきた下書きがあった。天導貞光の字で、親族会の三人に宛てた文面。「万一の事あらば後見の儀、当方にて」。日付は、事件の年の七月だった。

　宗一郎が死ねば、この子の後見人になるのは母ではない。伯父だ。伯父は、妹の計画を実行する手を貸しながら、そのあとの座を、妹の知らないところで自分のものにしていた。母が計画の見返りとして思い描いたものは、たぶん手に入らない。

　それを、いま、母に言えば。

　私は、四月から五月にかけて、そのことを何度も考えた。

　言えば、母は計画をやめるかもしれない。兄と組む理由がなくなる。この子を本家に据えたところで、後見《うしろみ》が兄なら、母の手には何も残らない。

　私は、この筋道を何度も頭の中でなぞった。

　なぞって、三つのことに気づいた。

　一つ目。母は、たぶん、それでもやめない。

　母が求めたのは、後見の座ではなかった。十二月の手紙に、母は「私はもう待ちません」と書いた。宗一郎が決めなかったことを、自分の手で決める。それが母の欲しいものなら、兄に裏切られると知っても、母は組む相手を替えるか、兄を出し抜く手を足すだけだ。計画そのものは、なくならない。

　二つ目。もし母が計画を変えたら、私は何も知らなくなる。

　私が持っている知識は、八月十五日の湖という一点だけだ。偽電報、投薬、舟屋、桟橋。母が別の方法に変えたら、その全部が使えなくなる。次に何が起きるか、私には分からなくなる。

　そして、四歳の子が「おじさまは、かあさまを、うしろみにしない」と言えば、母は三月の夜の問いを、もう一度、もっと強く持ってくる。あなたは誰。今度は、「ねむい」では逃げられない。

　私は、その怖さのほうが大きかった。

　三つ目は、自分に隠しておけないことだった。

　私は、母の孤独を使いたかった。

　母に「伯父様は、かあさまを裏切る」と教える。母は動揺する。母は誰かに縋りたくなる。そこで私が何かを言えば、母は聞くかもしれない。

　――そういう筋道を、私は考えていた。

　考えて、そこで自分が気持ち悪くなった。

　前の人生の十歳から、私は良い子の勘定をして暮らした。誰かの困りごとや寂しさを、自分の居場所を作るための手がかりに置き換える手つきだった。四歳になって、私はまた同じことをしようとしていた。

　私は言わなかった。

　これが正しい判断なのかは、分からなかった。言えば違うかもしれない。言わないから起きることがあるかもしれない。私は、この選択が正解だと自分に言い聞かせるつもりはなかった。

　私は、ただ、言わなかった。

　＊

　薬の配達は、四月に始まった。

　玄関の呼び鈴が鳴って、蘆田医院の小僧が包みを置いていく。母が受け取る。母は包みを袂に入れて、自分の居間へ持っていく。一度も、包みを解くところを誰にも見せなかった。

　私は、包みが届く回数を数えようとした。

　数えられなかった。

　四歳の子は、一日じゅう玄関の見える廊下の角に立っていられない。昼には寝かされる。寝かされまいとして起きていると、夕方に眠り込んで、お絹に抱いて運ばれる。夜は七時に布団に入れられる。湯に入れられているあいだに、呼び鈴が鳴ったこともあったと思う。廊下の角に長く立っていれば、たみが「お嬢様、そこは冷えます」と言って、部屋へ戻す。たみは目が悪いことになっているが、四歳の子が同じ角に毎日立っていれば、目の悪い人でも気がつく。

　私が自分の目で見た配達は、四月に一度、五月に一度、六月に一度だった。

　それが全部なのかどうか、私には分からなかった。

　前の人生の十七の秋に、慎さんが父親の医院の処方簿を見せてくれた。天導藤乃様のお名前で、薬が六回出ています、と。四月と五月に二度ずつ、六月、七月。

　六回のうち、私が見たのは三回だった。見なかった三回は、来なかったのか、私が眠っていたあいだに来たのか。

　包み紙を探したこともある。医院の名前の刷られた包み紙が一枚あれば、それは大人が見れば分かる物になる。母の居間の屑籠を、たみが縁側にいるあいだに覗いた。空だった。母は包み紙を、居間の火鉢で燃やしていた。灰の中に、紙の端の焦げたのが残っていた。指でつまみ上げようとして、灰が崩れて、私の指の先が黒くなっただけだった。

　その日の夕方、お絹が私の指を見て「まあ、火鉢をおいたなさいましたね」と笑った。私は笑い返した。灰の中の紙は、翌朝にはもう掃き出されていた。

　私は縁側で、黒さの落ちきらない指を見ていた。

　大人が自分の目で確かめられる物だけを渡す。三つになる前の春に、そう決めた。言葉を信じてもらえない子が渡せるのは、それだけだ。

　決めたのは、簡単だった。やるのは、難しかった。

　帳面は町の蘆田医院にある。四歳の足では、門の外へ一人で出ることもできない。出られたとしても、四歳の子が医院の帳面を見せてくださいと言えば、先生は笑って飴をくれるだけだ。字は読めても、この手では書けない。書けたとしても、四歳の子が書いた手紙は、それこそ気味の悪い子の証拠になる。言葉で言えば「また、あの子が」になる。言葉で言えば、母にも届く。

　十五の私は、自分の足で医院まで薬を取りに通えた。十七の私は、慎さんに帳面を持ってきてもらえた。四歳の私には、何もない手と、父がいるだけだった。

　物は、自分で取りに行けない。だから、父が自分で取りに行くように、道を一本だけ作ることにした。

　七月の初め、「今日は何だ」と言う父に、私は紙袋を一つ渡した。去年の夏に蘆田先生が来たとき、私の汗疹の薬が入っていた空き袋だった。表に「蘆田医院」と刷ってある。春から、博物館の棚のいちばん下の段の、石と石のあいだに挟んでおいたものだ。

「みずうみの、おくすり」

「湖へ持っていく薬か。そうだな、要るな」

　父は袋を裏返して、そう言った。

　診療所へ行けば、父は帳面のある部屋に立つ。前の人生の星の間で、処方簿が出されたとき、蘆田先生はその場で「私の落ち度です」と言った。そういう人の前に夫が来れば、先生は何か言うかもしれない。言わなければ、それまでだ。父が町の薬屋で済ませてしまえば、それも、それまでだ。

　私にできるのは、そこまでだった。

　その夜、私は布団の中で、紙袋を渡したときの父の顔を何度も思い出した。父は、袋の表の字を読んだだろうか。蘆田、と読んだだろうか。

　分からなかった。分からないまま、四日が過ぎた。

　＊

　五日目の夕方、恭介が帰ってきた。

　いつもより早かった。彼は着替えもせずに、私の部屋へ来た。

「瑠璃花」

「とう」

　彼はしゃがんだ。

「今日な、診療所へ行ってきた。蘆田先生のところだ」

　私は顔を上げた。

「お前が夏に湖へ行くだろう。子どもの旅行に持っていく薬をもらいたいと言うた。腹の薬とか、虫刺されのとか」

「うん」

「先生のほうから、奥様の眠り薬の量が多いのが気になると言われた。ご主人から言ってやってくれと。それで、帳面を見せてもろうた」

　彼は自分の膝を見ていた。

「奥様の名前で、薬が出とる。四月と、五月と、六月と、七月。四回だ」

　私は息を止めた。

「先生は、眠れんと言うので出したと言うとった」

　彼は顔を上げた。

「わしは、お前が湖で人が死ぬと言うたのを、覚えとる」

「とう」

「それと、これが、繋がるかどうかは分からん」

　彼は正直にそう言った。

「分からんが、わしは今夜、手紙を書く」

「だれに」

「小野さんだ。星見荘の。あの人は仕事が丁寧だ」

　彼は立って、私の手を引いた。

「見とれ。父さんは字が下手だ」

　彼は座敷の卓に紙を広げて、筆ではなく鉛筆で書いた。字は本当に下手だった。

　私は横に立って、それを見ていた。彼は読み上げながら書いた。

「小野弥吉様。……ええと、いつもお世話になっております。八月に伺います。……つきましては、二つ、お願いがございます」

　彼は舌を出して、鉛筆を舐めた。舐めたまま、しばらく書かなかった。

「湖で人が死ぬ、言うんなら、水のそばだ。水のそばで人が落ちるのは、足場からだ。わしに分かるのは、そこだけだ」

　彼は自分に言うように言って、また書いた。

「一つ。桟橋と、舟屋と、岸の石垣を、わたしが着く前に一度見ておいてください。子どもの乗りそうなところは、柱も板も手すりも、みな。腐りや、傷や、新しい痕がないか。着いてからも、日を置いて、もう一度」

「うん」

「二つ。夜に、水際のあたりを見ておいてください。人が出入りしていたら、覚えておいてください」

　彼は一度、鉛筆を止めた。

「……理由は、着いてから申し上げます。子どもの言うことで、わたしにも確かなことは分かりません。ただ、わたしは自分で確かめたいと思っております」

　彼は最後にそう書いた。

　私は、その紙を見ていた。

　彼は「誰が」を書かなかった。

　書けなかったのだと思う。彼が持っているのは、幼児の言葉と、診療所の帳面の四行と、十一月に読んだ手紙だけだ。その三つから、妻の名前を紙に書くことは、この人にはできない。

　でも、彼は自分の足で診療所へ行って、自分の目で帳面を見た。

　四回と言ったのは、私ではない。父が数えた。母が「また、あの子が」と言っても、父が自分で見た四行は、夢の話にはならない。

　去年の春に「大丈夫だ」と言った人が、正月に「覚えとく」と言い、七月に診療所へ行った。

　私はそれを見ていた。

　彼は封をして、宛名を書いて、私に渡した。

「明日、出す。お前が持ってろ」

　私は封筒を両手で持った。

　その夜、私は封筒を枕の下に入れて寝た。翌朝、彼が郵便局へ持って行った。

　＊

　四回、という数を、私は父が寝たあとも考えていた。

　私が見た三回は、四月と五月と六月の分だった。七月の一回は、私が見ていないうちに来ていた。帳面の四回は、私の見落としを埋めた。そして、前の人生の六回には、二回足りない。

　四月と五月の、二度目の分がない。

　医者の帳面に残る薬が、前の人生より少ない。母が今度は眠れているのなら、いい。でも、そういうことではないと思った。

　母は、二歳の私が「るり、ほんけ」と言った日から、先に手を打つ人になった。三歳の私が「みずうみ」と言い続け、静子さんに「およめさん」と言い、佐伯の袖を掴んだのを見た。三月の夜に「あなたは誰」と訊いた。自分の言葉を全部覚えている子がいる家で、医者の帳面に自分の名前を六回並べるだろうか。

　並べない。

　足りない分は、医者の帳面に残らない手から来ているのかもしれない、と思った。薬を手に入れられて、母の計画を知っていて、母と同じくらい帳面を嫌う人。

　伯父かもしれない、と私は思った。前の人生で母と組んでいたのも、伯父だった。

　確かめる方法はなかった。四歳の子が伯父の荷物を調べることはできない。

　分かったのは、処方の記録が前と違う、ということだけだった。手に入れ方が変わったのかもしれない。計画まで変わったのかもしれない。足りない分を伯父から受け取っているのなら、薬の量も使い方も、前と同じなのかもしれない。帳面の四行からは、どちらとも言えなかった。

　変わったのだとしたら、変えさせたのは、たぶん、私だ。

　私は、八月十五日という日付を知っている。偽電報を知っている。舟屋を知っている。

　知っているものが、そのまま来るとは限らない。

　今回、何が同じで何が違うかは、私が自分で確かめなければならない。

　＊

　七月の終わり、私はお絹を捕まえた。

　台所の裏で、彼女が豆を選っていた。私はその横に座った。

　前の人生で、お絹は八月十五日の晩に「台所へ行け」と言われて行き、戻ったら、この身体の子がいなかった。だから、この人に頼むことは一つでいい。その一言が来ても、離れないこと。

「おきぬ」

「はい、お嬢様」

「おねがい」

「なんでございましょう」

「みずうみで、ずっと、いっしょにいて」

　お絹は手を止めた。

「ずっと、と申しますと」

「ずっと。よるも」

「夜も、お嬢様のお側におりますよ」

「かあさまが、だいどころ、いって、って、いっても」

　お絹の手が、豆の上で止まった。

　彼女は、私を見た。

　彼女はしばらく黙って、それから、豆の笊を横へ置いた。

「お嬢様」

「うん」

「わたくしは、奥様に雇われております」

「うん」

「奥様が台所へ行けとおっしゃったら、行くのが仕事でございます」

「うん」

　お絹は、自分の手を見ていた。

「……お嬢様は、四つでいらっしゃいますね」

「よっつ」

「お嬢様が、糖蜜をお吐きになったのを、わたくしは覚えております」

　私は顔を上げた。

「四つの月のころでしたか。奥様が匙をお持ちになって、お嬢様が顔をお背けになった。あんなに甘いものを、赤ん坊が吐くというのは、めったにございません」

　彼女は、笊の縁を指で撫でた。

「あれから、わたくしは、ときどき考えるのです。あれは何だったのかと。考えて、考えるのをやめます。考えると、この家におれなくなりますので」

「おきぬ」

「はい」

「こわい？」

　お絹は、少し笑った。

「怖うございます」

　彼女は言った。

「怖いですけれど」

　彼女は笊を持ち上げて、豆を選り始めた。

「離れません」

「ほんと」

「わたくしは、お嬢様の側におります。台所へ行けと言われても、行きません。叱られたら、叱られます」

「ありがとう」

「四つのお子様に礼を言われるのは、初めてでございます」

　彼女は笑った。丸い顔の、目がなくなる笑い方だった。

　私はその顔を見ながら、自分がいま頼んだことの大きさを考えた。

　この人は二十二歳で、女中で、奥様に逆らえば暇を出される。私はそれを知っていて、四歳の口で「いっしょにいて」と頼んだ。四歳の子の頼みだから、この人は断れなかった。私はそれも、たぶん知っていた。

　大人が自分で確かめられる物を渡す、と私は決めた。お絹に渡したのは、物ではなかった。この人が四年前に自分の目で見た匙を、この人に思い出させただけだ。

　それが物より軽いのか重いのか、私には分からなかった。

　＊

　八月の初めに、分家の家から人が来た。

　十歳の一臣が、母親と一緒に来ていた。背の高い子で、眉がまっすぐだった。彼は座敷で退屈そうにしていて、庭に出て、私が木の船を持っているのを見つけた。

「それ、船？」

「うん」

「見せて」

　彼は座り込んで、船を手に取った。ひっくり返して、底を見た。

「鉛が入ってる」

「とうが、いれた」

「へえ」

　彼は帆柱を指で弾いた。

「これ、ぐらぐらするよ」

　本当だった。真ん中の帆柱の根元が、少し緩んでいた。

「直せる？」

「直せるよ」

　彼は自信満々に言って、庭の隅から小枝を拾ってきた。小枝を帆柱の穴に押し込もうとした。

　穴が広がった。

　帆柱が抜けた。

「あ」

「あ」

　私たちは二人で、抜けた帆柱を見た。

「ごめん」

「いい」

「僕、直せると思ったんだ」

「うん」

　彼は帆柱を持ったまま、しばらく困っていた。

　私は彼を見ていた。

　前の人生で、この人は十九歳の春に、十三歳の私から「一臣さん、私と駆け落ちしてください。私もちゃんと働くので。お菓子作りとか」と言われて、「……は？」と言った。十六の私と婚約して、十七の秋には自分の父の机から下書きを持ってきた。

　この十歳の子は、木の船の帆柱を抜いた。

　同じ手だ。指の形が同じだ。でも、この子は、あの人がしない間違いをする。

「ねえ」と彼は言った。

「うん」

「僕、君と結婚するんだって。父さんが言ってた」

　私は答えなかった。

「知ってる？」

「しってる」

「どう思う？」

　私は、庭の砂利を見ていた。

　この問いに、四歳らしい可愛い返事をすることはできる。「いや」でも「いいよ」でも、大人は笑う。

　でも、私はこの子に何かを約束させたくなかった。約束させて、それを十年かけて育てるようなことは、絶対にしたくなかった。

「おおきくなったら」

「え？」

「おおきくなったら、じぶんで、きめる」

　彼は目を丸くした。

「そうだね」

　彼はあっさりそう言った。

「そのほうがいいや」

　彼は帆柱を私に返して、庭を走っていった。

　私は帆柱を持って、縁側に座っていた。

　あの「……は？」は、もう起きない。

　駆け落ちを申し込んで断られた春も、婚約の日も、下書きを差し出す手も、あの人と私が前の人生の八年を重ねて、やっと起きたことだ。この世界では、私は四歳で、あの人は十歳で、あの八年は起きていない。

　断られたことまで惜しむのはおかしい、と自分でも思った。

　それでも、惜しんだ。

　誰にも言えないので、縁側で、一人で惜しんだ。

　＊

　八月の初旬に、何も起きない日が一日あった。

　朝から暑くて、庭の蝉がうるさくて、私は縁側で氷を舐めていた。氷は女中頭が町から持ち帰ったもので、鉋で削って、砂糖水をかけたものだった。

　お絹が洗濯物を干していた。夕立が来て、彼女は慌てて取り込んで、それから、恭介の靴下を干し直していた。

「旦那様の靴下は、いつも右だけ穴があきます」

「なんで」

「歩き方でしょうねえ。右足を引きずっておいでですから」

　夕方、恭介が帰ってきた。

　疲れていた。肩が落ちていて、玄関で座り込んだ。

「今日は何だ」

　彼は、いつもの台詞を言った。

「なんもない」

「なんもないか」

「うん」

「そうか。父さんも今日は何もできんかった」

　彼は靴を脱いで、上がってきた。

「船台の材が、寸法が違うて届いた。一日、突っ返す相談だけで終わった」

「たいへん」

「大変だ」

　夕食は、三人だった。母と、恭介と、私。

　母は静かだった。恭介は材の話を三回した。三回目のとき、母が「その話は聞きました」と言った。恭介は「そうでしたか」と言って、笑った。

　夕食のあと、彼は棚から靴の箱を下ろした。

「そういえば、あれだ」

　赤い靴だった。

「履いてみろ」

　私は履いた。

　まだ大きかったが、去年ほどではなかった。踵が浮かない。爪先に指一本ぶんの余りがある。

「お」

「はいる」

「入るな」

　彼は靴の中を指で押した。

「ちょっと待っとれ」

　彼は道具箱を持ってきて、靴の内側に薄い革を貼った。

「これで、踵が滑らん」

　私は立って、廊下を歩いた。

　脱げなかった。

　廊下の端まで歩いて、戻ってきた。

「あるける」

「歩けるな」

「とう」

「ん」

「みずうみからかえったら、ふねのところ、いきたい」

「船？」

「とうの、しごとのとこ」

　彼は驚いた顔をした。

「造船所か」

「うん」

「あんなもん、うるさいし、危ないぞ」

「いきたい」

　彼は少し考えて、それから、笑った。

「よし。帰ったら連れて行く。船台は上から見せる。下は危ないから、上からだ」

「うん」

「靴を履いて来い。あれなら足を守る」

「うん」

　私は嬉しくて、その夜は赤い靴を枕元に置いて寝た。

　湖から帰ったら、造船所に行く。

　私は、八月十五日の向こう側に、予定を一つ作った。

　＊

　八月十一日の夜、私は「行かない」と言ってみた。

　夕食のあとだった。母が席を立ったあとで、恭介に言った。

「みずうみ、いかない」

「行かんか」

「いかない。おうちにいる」

　彼は箸を置いた。

「お前一人で家におるか」

「おきぬと」

「奥様は行かれる」

「うん」

「父さんも行く」

「……」

　私は黙った。

　そこが行き止まりだった。

　私が家に残っても、湖では人が集まる。宗一郎が行く。母が行く。伯父も先に行く。父も行く。私が残れば、私は何も見られない。何も聞けない。伝えることもできない。

　それに、母が私を置いていくとは思えなかった。

「怖いか」

　彼が訊いた。

「こわい」

「うん」

　彼は、しばらく黙っていた。

「瑠璃花。父さんはな、湖では、お前から離れん」

「ほんと」

「本当だ。船台の仕事より、そっちが大事だ」

　彼は自分の膝を叩いた。

「もし父さんが離れんといかんことになったら、お絹さんにつける。お絹さんは、あれは頑固だ」

「うん」

　その夜、布団の中で、私は天井を見ていた。

　前の人生の私なら、ここであの三行を思い浮かべようとしたかもしれない。いまは、しなかった。出ないことは知っている。帰り道があるのかどうかも、知らない。

　それで、よかったと思った。帰り道が見えていたら、私はきっと、また選ばずに済むほうへ帰りたくなっていた。

　私は、この人たちがどうなるかを見たかった。それから、造船所へ行きたかった。

　その二つだった。

　＊

　八月十二日に、荷造りをした。

　行李が三つ。私のものは、着替えと、木の船と、赤い靴だった。

「船は置いていきなさい」と母が言った。

「もっていく」

「壊れます」

「もっていく」

　母は、それ以上言わなかった。

　出発の朝、母が私の髪を梳いた。

　久しぶりだった。母が私の髪に触れるのは、たぶん半年ぶりだった。

　櫛が、丁寧に動いた。母は髪を分けて、耳の後ろで留めた。

　それから、銀の星を出した。

「これをつけていきなさい」

「ほし」

「そう」

　母は、星を私の髪に留めた。

「本家の子ですから」

　母はそう言った。

　鏡の中の私は、四歳だった。髪に銀の星があった。前の人生の十八歳の夜、私は同じ星を挿して星の間へ降りた。あのときも、母がこれを留めた。

　母の手が、私の頭から離れた。

　玄関で、恭介が行李を縛っていた。彼は最後に、赤い靴を布に包んで、上に載せた。

「これは、着いたら出す」

「うん」

　母が留めた星と、父が荷に入れた赤い靴。

　私は、その二つに挟まれていた。

　馬車が来た。

　私は、この家の玄関を振り返った。

　この家に、私は帰ってきたい。

　事件を止めて、それから、ここへ帰ってきて、造船所へ行って、赤い靴を履いて、来年の春も、その次も、ここで暮らしたい。

　そう思っている自分を、私は否定しなかった。

　八月十三日の朝、私たちは帝都を出た。

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# 第十二章　灯籠

　帝都から汽車で一日かかった。

　朝に出て、途中で二度乗り換えて、夕方に町へ着いた。町は湖の手前の谷にあって、駅前に郵便局と、宿が二軒と、雑貨屋があった。

　馬車に乗り換えるあいだ、恭介が郵便局の前で立ち止まった。

「電話があるな」

　彼は看板を見上げていた。

「星見荘にも電話はあったな。本社への照会は、ここからでも繋がるか」

「繋がりますよ」と馬車の御者が言った。「繋がるまでに時間はかかりますがね。三十分か、一時間か」

「ほう」

　彼は郵便局の場所を、しばらく見ていた。

「ここから湖まで、どのくらいだ」

「山道を一時間ですな。車ならもう少し早い」

「車があるのか」

「宿に一台あります。使う人はめったにおりません」

　恭介は頷いた。

　私はその横で、彼の袖を持っていた。彼が何を覚えようとしているのか、私には分かった。私は何も足さずに、その袖を握っていた。

　父は、湖で自分が呼び出されたときに、その呼び出しが本物かどうかを確かめる道を覚えているのだと思った。十一日の夜に「湖では、お前から離れん」と言った人が、離れなければならなくなったときのことを、先に考えている。前の人生で父を湖から引き離したのは、八月十五日の電報だった。私はそれを言わなかった。言えば、また夢の話になる。父が自分で考えて覚えた道なら、その日、父は自分でそれを歩く。

　馬車は山道を登った。曲がるたびに車体が傾いて、母が私の肩を押さえた。木が途切れて、湖が見えた。

　夕方の湖は、鉛の色をしていた。向こう岸の山が黒く、その上の空だけが明るかった。

　星見荘は、湖の東の斜面に建っていた。木造の二階建ての洋館で、屋根が深い。前庭から、湖へ向かって桟橋が伸びている。桟橋は思ったより長かった。杭の上に板を渡して、湖の中へ二十メートルほど出ている。付け根から少し離れたところに、小さな舟屋があった。

　玄関に、男の人が立っていた。

「お着きでございます」

　小野弥吉だった。三十六歳。日に焼けて、痩せていて、背筋がまっすぐだった。

「小野さん。手紙は」

「頂戴しました」と小野は言った。「昨日、桟橋を見ました」

「どうでした」

「何もございませんでした。明日の朝、もう一度見ます」

　彼はそれだけ言って、行李を運び始めた。

　玄関脇には電話があった。受話器を上げた女中の声が、階段まで聞こえた。恭介はそちらを一度見て、荷物を下ろした。

　玄関の奥から、天導貞光が出てきた。

「遅かったな」

「兄様。もういらしていたの」

「十二日に着いた。一臣も連れてきた」

　貞光は私を見た。

「大きくなった」

「はい」

　母がそう答えた。私は答えなかった。

　その夜、私は小野の娘に会った。

　台所の裏で、五歳の女の子が椅子に座って、豆をつまんでいた。日に焼けて、髪を短く切っていて、膝に擦り傷があった。

「澪、ご挨拶を」と小野が言った。

　彼女は椅子から降りて、両手を前で組んだ。

「小野澪です。五つです」

　私は、彼女を見ていた。

　前の人生の澪。私が十六だった春に学院へ転入してきて、良い子でいようとしていた私に「いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ」と言った人。ぶとうとして止まった私の手を見て、「なんでぶたないんですか？」と訊いた人。張り合いの果てに、同じ菓子を半分に割って、桟橋の番人だった父親の話をした人。十八の夜、「あのとき言ってくれていたら、私はあなたを守れた」と言った人。

　その人が、いま五歳で、豆をつまんでいる。

　目だけは同じだった。人をまっすぐ見る目だ。

「るりか」

　私は言った。

　名字を言うべきだったかもしれない。四歳だから、それでよかった。

「るりかちゃん」

　彼女はそう言った。

　私は、少しだけ息が詰まった。

　るりかちゃん。

　この世界で私をそう呼んだ人は、いない。父は「瑠璃花」と呼ぶ。母は、七夜の晩に一度口にしたきり、花をつけずに「瑠璃」と呼ぶ。お絹は「お嬢様」だ。

「ちゃん」がついた瞬間に、それは、元の世界の呼ばれ方に近づいた。

　私はそれを、ただ嬉しいと思った。

　嬉しいと思って、それから、自分に言った。

　――この子は、私を知らない。

　この子が呼んでいるのは、四歳の天導瑠璃花だ。名前が同じだから私が呼ばれているのではない。同じ名前を持った子が、いま、ここにいるだけだ。

「豆、たべる？」と澪が言った。

「たべる」

　私たちは生の豆を三つずつ食べて、小野に叱られた。

　＊

　八月十四日の昼に、宗一郎が着いた。

　彼は一人だった。

「静子さんは」と母が訊いた。

「この暑さだ。今年はやめておくと言うので、そうさせた」

「まあ」

「無理をさせても仕方がない」

　私は、母の顔を見た。

　母の顔は、動かなかった。

　それより前、午前中に私は桟橋へ行こうとした。

　行こうとした、というのは、確かめたかったからだ。柱を、自分の目で見たかった。四歳の目で見て何が分かるわけでもないが、見たかった。

　前庭を横切って、桟橋の付け根に足をかけたところで、身体が持ち上がった。

「お嬢様！」

　お絹だった。

「桟橋はいけません」

「みる、だけ」

「いけません。落ちたら、わたくしがどうなるかご存じですか」

　彼女は私を抱いたまま、前庭へ戻った。

　私は彼女の肩越しに、桟橋を見た。

　板がずっと先まで並んでいて、付け根から少し離れたところに舟屋がある。杭は水面から上に一メートルほど出ていて、下は見えない。

　見えないものは、見えない。

　午後、澪と貝殻を集めた。お絹は岸のすぐ上に座り、ときどき私たちの籠を覗き込んだ。

　湖に貝がいるとは思っていなかったが、岸には小さな二枚貝の殻がたくさん落ちていた。白いのと、薄紫のと、内側が虹色になっているのがあった。

　澪は虹色のを探すのがうまかった。

「これ、いちばんいい」

「うん」

「はんぶんこ」

　彼女は虹色の殻を二つ、私にくれた。私は白いのを三つあげた。

　その途中で、澪が私の髪を見た。

「それ、なに」

「ほし」

「きれい」

　彼女は手を伸ばして、触った。

「ぎんいろ」

「うん」

「いいなあ」

　澪は、その次に、こう言った。

「ちょうだい」

　私は、口を開けた。

　あげる、と言いかけた。

　言いかけて、止めた。

　喉のところで、言葉が止まった。

　――だめだ。

　これは、私のものではない。

　母がこれを私の髪に留めた。母は「本家の子ですから」と言った。この身体が生まれる前に宗一郎が注文して、裏に「瑠璃へ」と彫らせた。この星は、この身体の子のものだ。

　私が友達を作りたいからといって、あげていいものではない。

「ごめん」

　私は言った。

「あげられない」

「なんで」

「おじさまが、くれたから」

　生まれる前からこの子へ贈られていたことまで、説明する言葉は見つからなかった。

　澪は、少し口をとがらせた。

　それから、貝殻を見た。

「じゃあ、これでいい」

　彼女は虹色の殻を、自分の掌の上で並べ直した。

「これ、ぎんいろよりきれい」

「うん」

「ほんとに、きれいだもん」

　彼女は本気でそう言っているようだった。

　私たちは日が傾くまで、貝を並べていた。

　＊

　夕方の前に、澪が私を裏山の入口まで連れて行った。

「あっちに、いちごがある」

「いちご」

「ちいさいの。すっぱい」

　私たちは、小野に「山へ入るな」と言われていたので、お絹に見てもらいながら、入口の草のところだけを探した。赤い実が三つあった。澪が二つ取って、一つを私にくれた。

　すっぱかった。

「すっぱい」

「でしょ」

　澪は笑った。彼女は、笑うとき、口を大きく開ける。前の人生の彼女は、私の前で、こんなふうに口を開けて笑ったことはなかった。口の端だけで笑う人だった。

　五歳の彼女は、こうやって笑うのか、と私は思った。

「るりかちゃんは、いつまでいるの」

「わかんない」

「あしたも、いる？」

「いる」

「あさっても？」

「いる」

「じゃあ、あしたも、いちご」

「うん」

　＊

　十四日の夕方、大人たちが岸へ出た。

　桟橋ではなかった。桟橋から少し北へ寄った、砂利の岸だった。水が浅くて、子どもが入っても膝までしかない。

　小野が先に来て、石を並べて、足元を整えていた。

「こちらのほうが安全でございます」

「そうだな」と宗一郎が言った。

　子どもは三人いた。私と、澪と、一臣。一臣は靴を脱いで水に入って、すぐ小野に叱られた。

　宗一郎が、紙の灯籠を一つ持ってきた。

「一つだけだ」

　彼は言った。

「明日、たくさん流す。今日は、これだけ」

「なんで、きょう？」

　私が訊いた。

「今日は、私が流したいからだ」

　彼は、水際に膝をついて、灯籠に火を入れた。

「誰の？」

「妻の」

　彼は言った。

「百合子という。お前を一度、抱いたことがある。お前は、覚えておらんだろう」

　私は、宗一郎の手元の火を見ていた。

　覚えている、と言いたかった。細い腕で、抱き方が下手だった。赤ん坊を抱いたことがないから重いのか軽いのか分からない、と笑った人だ。言えなかった。

　一歳の年に、私はこの人の奥様の部屋のほうを指差して、蘆田先生の袖を離さなかった。先生は発った。百合子さんは、二歳の冬に亡くなった。百合子さんが亡くなって、二度目の夏だった。

「明日は、みんなで流す。今日は、私が一人で流す。それだけだ」

　彼は灯籠を水に置いた。

　その灯籠の火が、紙を通して、青みがかった白に見えた。

　私は、それを見た。

　息が、止まった。

　――青みがかった白。

　フミが言った。

　前の人生の十歳の八月、私の髪を梳きながら。お嬢様は帰ってからひと月ばかり、灯籠のお話ばかりなさいました。青いのが一つあった、あれは誰のだった、あれはどこまで行くの、と。

　こんな光だったのかもしれない。

　前の人生の灯籠は、十五日の夜だった。今は十四日の夕方だ。あの子の見た一つと同じ物ではない。それでも、話さずにはいられなかった気持ちが、少し分かった。

　灯籠は、風のない水面をゆっくり離れていった。

　澪が「あっ」と言った。

「まわった」

　灯籠は、少し回りながら進んだ。

「あれ、どこまでいくの」

　澪が訊いた。

　宗一郎は、少し考えて、言った。

「向こう岸までは行かん。途中で沈む」

「かわいそう」

「そういうものだ」

　私は、水の上の光を見ていた。

　この子が話し続けた光は、こんなふうに揺れただろうか。私はいま、自分の目で水の上の火を見ている。

　＊

　夕食は、広間で皆そろってとった。宗一郎、貞光、母、父、分家の夫人と一臣。小野は給仕に立っていた。

　汁物が出たところで、分家の夫人が私に笑いかけた。

「瑠璃花ちゃんは、湖は楽しい？」

　私が答える前に、母が言った。

「この子は、桟橋へ行きたがって困るの」

　母は笑っていた。

「今朝も一人で行こうとして、お絹に抱いて戻されたんですよ。春から、夢に見るらしくて。湖がどうとか、桟橋がどうとか。怖いくせに、行きたがるの」

「まあ、子どもはそういうものですわ」

「目を離すと、すぐいなくなるから」

　母はそう言って、私の髪の星を指で直した。

　宗一郎が「気をつけねばな」と言った。貞光が「小野、明日は桟橋の付け根に縄を張っておけ」と言った。小野が「はい」と答えた。

　食事のあいだに、母は同じことを、言い方を変えてもう二度言った。一度は宗一郎に、一度は給仕の小野に向かって。

　私は、匙を持ったまま動けなかった。

　春から、私は何度も「みずうみ、いや」と言った。「みずうみで、だれか、しぬ」と言った。本家の廊下で「みんな、みずうみ、こないで」と言った。

　それを母は、この家じゅうに、「桟橋を怖がって、桟橋へ行きたがる変な子」として配っていた。今朝、柱を見ようとして桟橋へ行きかけたことまで、母は話の種にした。

　明日の晩、私がいなくなれば、ここにいる全員が、同じことを思う。やっぱり、あの子は桟橋へ行った。

　私の警告は、母の迷子の口実になっていた。

　私はその夜から、人前で桟橋という言葉を口にするのをやめた。湖の話も、しなかった。そして、お絹の袖を、寝るときも離さなかった。

　私が桟橋の話をするたびに、母の話が本当らしくなる。だから、口に出さない。それから、迷子は一人でいる子にしか起きない。お絹がそばにいて、父がそばにいれば、私は迷子になれない。七月にお絹と約束したのは、この一つのためだった。

　＊

　その夜、私は聞いてしまった。

　母が私を寝かせたのは、二階の奥の部屋だった。母が廊下を去ったあと、私はお絹の袖を引いて、彼女にあてがわれた部屋までついていった。壁を隔てた隣が、貞光の部屋だった。

　私はお絹の隣の布団にいた。お絹は眠っていた。

　隣の部屋から、母と貞光の声がした。

「明日の晩だ」

「はい」

「灯籠のあとに人が散る。あのときが一番いい」

「はい」

「子は」

「眠らせます」

「眠らんかったら」

「舟屋へ置きます。あの子は桟橋のことばかり言っていますから。いなくなれば、皆、桟橋だと思います」

　私は、布団の中で目を開けていた。

「舟屋へ置けば、迷子だ」

「はい」

「探す。皆で探す。宗一郎は先に走る。あれは走る男だ」

「はい」

「桟橋は暗い」

　それだけだった。

　声が止んで、襖の音がして、足音が離れた。

　私は、天井を見ていた。

　薬と舟屋は、前の人生で知ったものと同じだった。でも、聞こえた相談は、眠らなくても娘を置き、探しに走らせるというものだった。前の人生で小野が書いた、灯籠の見回りに誘う手口だけではない。

　夕食の席で母が三度同じことを言ったのは、このためだった。眠らせられなくても、皆が「あの子は桟橋へ行った」と先に思っていれば、舟屋に置いただけで迷子になる。

　私は隣のお絹を揺すった。彼女が目を開けるまで、袖を離さなかった。

「ふねごや。かあさま、おくすり」

　お絹は壁のほうを見た。もう声はしなかった。それでも、私を抱いて座り直してくれた。

　すぐにお絹を起こしたのは、朝になってから私が父に言うだけでは足りないからだった。朝に言えば、夢を見たのだと言われる。夜中に私が揺り起こして同じことを言ったと、大人のお絹が父に言えば、それは朝に作った話ではなくなる。

　翌朝、お絹についてきてもらい、父の部屋へ行った。

「かあさまと、さだみつさま。ふねごやに、おくって」

「お前をか」

「おくすりで、ねかせるって」

　父はお絹を見た。お絹は、言葉は聞けなかったが私が夜中に起こし、同じことを言った、と答えた。

「分かった。お前を舟屋へは行かせん」

　父は私を膝に乗せたまま、お絹へ顔を向けた。

「奥様が何とおっしゃっても、この子から離れんでください。薬はわたしか医師が確かめるまで飲ませないでください。責められたら、わたしの指図だと言ってください」

　お絹は、背筋を伸ばして「はい」と言った。

　＊

　十五日の午後、小野が来た。

　彼は玄関ではなく、裏の勝手口から入ってきて、恭介を呼んだ。

　私は廊下の角にいた。

「旦那様。桟橋の先の柱ですが」

「はい」

「新しい痕があります」

　恭介の声が変わった。

「痕」

「鋸の痕です。水面のすぐ下、二本目と三本目の杭の内側に、切り込みが入っております。深さは半分ほど。上から板を踏んでも、すぐには落ちません。人が集まれば、折れるおそれがあります」

「いつのものです」

「昨日はございませんでした」

　小野は、はっきりそう言った。

「わたしは十二日に一度、十四日の朝に一度、見ております。十二日は何もございませんでした。十四日の朝も、あの位置は見ました。ございませんでした」

「では」

「二日のうちのものです。それより古い痕ではございません。木の色が違います。それから、杭の根元に泥が塗ってございます。上から見ると、痕が見えません」

　私は廊下の角で、七月の封筒を思い出していた。私が枕の下に入れて一晩寝た、あの封筒だ。父が「着く前に一度見ておいてください」と書いたから、小野は十二日にも十四日の朝にも柱を見ていた。前と後を見た人がいるから、この痕がいつ付いたかを言い切れる。

　沈黙があった。

「小野さん」

「はい」

「わたしは、これを、本家の旦那様に申し上げたい」

「わたしが申し上げます」

「……なぜ見たのかと訊かれたら、わたしが答えんといかん」

　恭介はそこで黙った。小野は父の顔を見たまま、返事を待っていた。

　点検を頼んだ理由を話せば、妻とその兄を疑っていることまで伝わる。父はそれを恐れたのだと思う。けれど、柱はもう切られている。二人が黙っているあいだに、私が持っていけばいい。見た人の名前を。

　私は、廊下の角から出た。

「とう」

　二人が振り返った。

「瑠璃花。ここにおったのか」

「おのさんが、みた」

　私は言った。

「おのさんが、はしらを、みた。それ、おじさまに、いう」

　恭介が私を見た。

　私は返事を待たずに座敷へ行った。宗一郎は縁側にいた。

「おじさま」

「おう」

「おのさんが、はしらを、みたって」

「柱？」

「さんばしの、はしら。あたらしい、きずが、あるって」

　宗一郎の顔が、変わった。

　彼は立ち上がった。

「小野！」

　小野が来た。恭介が来た。

　宗一郎は自分で二人に確かめた。小野が同じことをもう一度言った。恭介が診療所の話はせずに、手紙で点検を頼んだこと、その理由は子どもの言葉だったことだけを言った。

　私が宗一郎に渡したのは、「おのさんが、みた」という一言だけだった。見た人がそこにいれば、宗一郎は子どもの話ではなく、小野の目を確かめられる。

　宗一郎は、湖のほうを見た。

　三十二歳の彼は、決めない人だと言われている。時計を十年直せていない。静子さんとの縁談も、親族会に急かされるまで決めなかった。

　その人が、この日は、五分で決めた。

「今夜の灯籠は、中止だ」

　彼は言った。

「桟橋の先は封鎖する。小野、綱を張ってくれ。誰も入れるな」

「はい」

「柱は、そのままにしておけ」

「そのまま、でございますか」

「直すな。切ったところを削ったり、板を替えたりするな。誰かが見たときに、そのままの形で残っていなければならん」

「承知しました」

「それから」

　彼は少し考えた。

「舟を一艘、岸寄りに出しておけ。人が乗れるやつだ。櫂も入れておけ」

「はい」

　小野は行った。

　三十分後、桟橋の中ほどに、綱が二本張られた。杭に結んで、腰の高さと、膝の高さ。板の上に「あぶない」と書いた板が置かれた。

　私はそれを前庭から見ていた。

　私が四年前から知っていた桟橋が、いま、封鎖された。

　＊

　午後三時に、電報が来た。

　配達の男が自転車で山道を登ってきて、玄関で紙を渡した。

　恭介が受け取って、広げた。紙を裏返したところで、一度、手が止まった。

「本社からです」

　彼は言った。

「至急、戻れと」

　母が廊下に出てきた。

「何ですって」

「本社からの呼び出しです。船台の件でしょう。材の寸法で揉めておりましたから」

「今日？」

「今日と書いてあります」

　私は、彼の袖を掴んだ。

「とう」

「うん」

「いかないで」

　彼はしゃがんだ。

「行かんといかん」

「いかないで」

「瑠璃花」

　彼は私の手を、自分の手で包んだ。

　その手に、力が入っていた。

「父さんは、行く」

　彼は言った。

「行って、確かめてくる」

　私は彼の目を見た。

　彼の目は、私を見ていた。私だけを見ていた。

　――確かめてくる。

　彼は、そう言った。ただ行かねばならない、というだけではなかった。確かめてくる、と言った。

　父はお絹にも、朝の頼みをもう一度確かめた。それから立ち上がって、母のほうを向いた。

「奥様。用を確かめてまいります」

「無理をなさらないで」

「はい」

　三時半に、彼は出た。

　馬車で山を降りていくのを、私は前庭から見ていた。母も見ていた。貞光も、二階の窓から見ていた。

　母は、玄関に戻るとき、少し肩の力を抜いた。

　私は、それを見た。

　＊

　午後六時に、恭介が戻った。

　馬車の音はしなかった。裏口から入ってきたので、家の中の誰も、彼が戻ったことにしばらく気づかなかった。

　最初に気づいたのは、お絹だった。

「旦那様！」

　彼は靴が泥だらけで、汗だくだった。

「奥様には、まだ言うな」

　彼は言った。

「小野さんと、旦那様を呼んでくれ」

　父が表の道を来なかったわけは、私にも分かる気がした。電報で父を遠ざけた人は、父が今夜は戻らないと思っている。そう思わせたまま、先に宗一郎と小野に話すつもりなのだ。

　三人は、玄関脇の小部屋に入った。

　私は、その隣の部屋にいた。お絹に抱かれていた。

　声は、よく聞こえた。

「電話を借りました」

　恭介が言った。

「郵便局の電話です。ここの玄関で話せば、家中に聞こえます。先に疑いだけを知らせたくなかった。三十分待って、本社に繋がりました」

「それで」

「誰も、電報を出しておりません」

　沈黙があった。

「本社の当番に、電報を扱う係へ確かめてもらいました。今日、湖へ電報を出した者はいないと。船台の件は先週片づいた、と言われました」

「では、この電報は」

「紙にある局の名が町の局でしたので、窓口で記録を見せてもらいました。この電報は、帝都から来たものではありません。今日の昼過ぎに、あの町の窓口で打たれております。打ちに来たのは若い男だったと、窓口の者が申しました。名前までは分かりません」

　紙を置く音がした。

「原本は、わたしが持っております」

「恭介君」

　宗一郎の声だった。

「はい」

「これは、君を遠ざけるためのものだ」

「……はい」

「柱が切られ、君が呼び出された」

「はい」

「二つとも、今日だ」

　誰も、何も言わなかった。

　しばらくして、宗一郎が言った。

「警察を呼ぶ」

「旦那様」

「町の駐在では足りん。郡の警察を呼ぶ。私が電話をかける」

　今度は隠す必要がない、と宗一郎は言った。玄関へ出て、この家の電話で警察へ話した。電報の原本も、切られた柱も、そのままにしておくと伝えた。

　照会が済むまでは、父が町の電話で黙って確かめた。電報が偽物だと分かったから、今度は家じゅうに聞こえる電話で呼ぶ。警察が来ると皆が知れば、今夜、誰も桟橋にも舟屋にも手を出せない。宗一郎はわざと玄関の電話を使ったのだと、私は思った。

　掛け時計は六時五分だった。受話器を置いた宗一郎は、こちらへ向き直った。

「車で一時間ほどだそうだ。それまで、小野は舟と桟橋を頼む」

「承知しました」

「それから、今夜の宴は中止だ」

　宗一郎が言った。

「灯籠も中止、宴も中止。家の者は、全員、大広間に集めろ。集まって、待つ」

「集めるので？」

「散らさないためだ。人が散るのが、一番まずい」

　彼は立ち上がったらしかった。

「子どもは」

「別室に」と恭介が言った。「お絹が見ております」

「それでいい。目を離すな」

　＊

　私は、二階の小さな部屋にいた。

　お絹と、田中という若い使用人が一緒だった。田中は連絡役で、廊下と部屋を往復していた。

　夕食は、握り飯だった。酒は出なかった。宴が中止になったので、酒は蔵から出されていない。

　私は握り飯を半分食べて、残した。

　母が来たのは、六時二十分ごろだった。

　襖を開けて、母は部屋の入り口に立った。

「お絹」

「はい」

「台所へ行きなさい」

　お絹は、私の横に座ったままだった。

「お絹」

「奥様」

　お絹の声は、震えていた。

「わたくしは、ここにおります」

　母は、動かなかった。

「なんですって」

「お嬢様の側におります。旦那様からも、そう申しつかっております」

「私が行けと言っています」

「行きません」

　沈黙があった。

　母は、田中を見た。田中は下を向いた。

　母は、部屋を出て行った。

　私は、お絹の袖を握っていた。彼女の手も震えていた。

　「おきぬ」

「はい」

「ありがとう」

「まだ何もしておりません」

　彼女はそう言った。

　私は、天井を見ていた。

　古い手口は、崩れた。

　電報は照会された。柱は封鎖された。灯籠は中止された。宴は中止された。酒は出ていない。子どもは別室にいて、大人が二人ついている。警察が呼ばれた。

　前の人生で私が知っていた道筋の、ほとんど全部が塞がった。

　どれも、私が一人で塞いだのではない。父は七月に自分の目で帳面を見て、小野に手紙を書いた。だから小野は柱を前と後で見ていて、新しい痕に気づけた。父は着いた日に町の電話を覚えていたから、電報を本社に照会できた。お絹は七月に「離れません」と言い、今朝、父から「わたしの指図だと言ってください」と言われていた。だから、母に「行きません」と言えた。

　私は、少しだけ、息をついた。

　その二十分後に、母が戻ってきた。

　母は、茶色い小瓶と、匙を持っていた。

　＊

「瑠璃」

　母は言った。

「眠りなさい」

　母は畳に膝をついた。瓶の栓を抜いた。匙を出した。

「大人の話が長くなります。あなたは眠っていなさい」

　母は瓶を傾けた。

　匙の上に、透明な液が落ちた。

　母は匙を持って、私のほうへ来た。

　四か月の夜、糖蜜の上に傾いた瓶も、あの色だった。甘い匂い。舌の奥の苦さ。顔を背けて吐いたこと。

　私は、襟のことを考えていた。もし飲まされたら、飲んだふりをして襟に吐こう。襟に薬が残れば、それが証拠になる。四年、私はそれを考えていた。

　匙が、近づいた。

　その手首を、お絹が掴んだ。

　速かった。

　お絹は膝立ちになって、両手で母の手首を掴んでいた。匙が傾いて、液が畳に落ちた。

「奥様」

　お絹の声は、震えていた。震えたまま、はっきりしていた。

「なりません」

　母が、お絹を見た。

　母の顔から、表情が抜けた。

　私は、その顔を見た。

　この人は、いま、初めて止められた。

　この人は、娘へ飲ませる匙を、こんなふうに止められたことがなかった。乳をやり、おむつを替え、糖蜜を飲ませ、髪を梳き、星を留めた。毎日、母がすることだった。名前には父が一字を足したし、本家への引越しにも反対した。でも、この小さな匙を持つ手には、誰も触れなかった。この家では、母親のすることに、女中は口を出さない。

　いま、女中が手首を掴んでいる。

　七月の台所の裏で、「叱られたら、叱られます」と言った手だった。今朝、父から「薬はわたしか医師が確かめるまで飲ませないでください」と言われた手でもあった。

「離しなさい」

「離しません」

「お絹」

「奥様。これは、なりません」

　母は、匙を持ったまま動かなかった。

　匙の中身は、もう畳に落ちていた。

　田中が立ち上がって、廊下へ走り出した。

---

# 第十三章　桟橋

　お絹は、母の手首を離さないまま、身体をずらした。

　自分の背中で、私を母から隠す位置に動いた。それから、片手で私の襟の後ろを掴んで、後ろへ押した。

「お嬢様、下がって」

　私は畳の上を後ろへ滑った。

　お絹は母の手首を離した。離すと同時に、母の手から匙を取った。取った匙を、そのまま畳の上に置いた。

「奥様。これは、このままにしておきます」

　彼女は、匙に触った手を、着物の脇でこすった。

「田中さん」

　廊下へ出かけていた田中が、戻ってきた。

「お嬢様を抱いてください。そのまま、廊下の柱のところに立っていてください」

「は、はい」

　田中は私を抱き上げた。若い男で、抱き方が下手だった。私の脇が痛かった。

　お絹は、卓の上の茶碗と、湯冷ましの入った器を、隅へ寄せた。

「これも、洗いません」

　彼女は誰にともなく言った。

　母が、畳の上の小瓶へ手を伸ばした。

　お絹が、その前に立った。

　押さえはしなかった。ただ、母と私のあいだに立った。

　母は小瓶を取って、袂に入れた。

「お絹」

「はい」

「あなたは、明日から」

「はい」

　母は、それ以上言わなかった。

　母は立ち上がって、部屋を出た。

「田中さん、旦那様方に」

「もう、呼びました。廊下の者に言ってあります」

　階下で、人が動く音がした。

　それから、母の声が聞こえた。

　庭からだった。

「瑠璃！」

　私は、田中の腕の中で、身体を固くした。

「瑠璃がいません！」

　母の声は、大きかった。よく通った。

「誰か！ この子がいません！」

　私には、その声の意味が分かった。

　子どもがいない、と母が叫べば、大人は探しに走る。湖の夜に子どもを探す人は、まず水際を見る。母は湖に着いてから、この子は桟橋へ行きたがって困る、と客の前で何度も言っていた。いま庭にいる誰もが、桟橋を思い浮かべる。宗一郎も。

　匙を止められても、母は、迷子の話だけはまだ使おうとしていた。

　お絹が、窓を開けた。

　彼女は身を乗り出して、庭に向かって叫んだ。

「ここにおります！」

　声が裏返っていた。

「お嬢様は、ここにおります！ 二階の、この部屋におります！ わたくしと、田中さんがついております！」

　庭が、静かになった。

　私は、田中に抱かれたまま、窓のほうを見た。

　窓の下の芝に、母が立っていた。母は、こちらを見上げていた。

　その少し離れたところに、一臣がいた。

　十歳の彼は、母のほうを向いて立っていた。彼は、たぶん、母に何か訊かれたのだ。

「僕――」

　彼の声がした。

「僕、桟橋かもって言ったけど」

　彼は、大人たちのほうを向いた。

「見てない」

　彼ははっきりそう言った。

「見てないです。おばさんが、桟橋のほうへ行かなかったかって訊いたから、行ったかもって言っただけです。僕、見てないです」

　誰かが「よし」と言った。

　母は、動かなかった。

　＊

　お絹が開けた窓から、下の声はよく聞こえた。

　宗一郎と恭介は、前庭の、陸寄りの場所にいた。

　桟橋の付け根から十メートルほど手前。そこは芝で、平らで、湖から離れている。

　二人は、田中が降りていくのを待たずに、お絹の声を聞いていた。

「二階だそうだ」と宗一郎が言った。

「はい」

「では、探す必要はない」

　彼は、そこから動かなかった。

　宗一郎は、走らなかった。桟橋へ行かなかった。子どもがどこにいるかを聞いて、聞いた場所にいるなら、それでいいと判断した。

　小野は、岸寄りに出してあった舟の横にいた。彼はそこを離れなかった。灯りを一つ持って、桟橋のほうを照らしていた。

　その灯りの先で、人が動いた。

「旦那様！」

　小野が叫んだ。

「桟橋に人が入っております！」

　綱が、外されていた。

　桟橋の付け根に、小野が置いていった見回りのカンテラがあって、その灯りが手前の板を照らしていた。腰の高さの綱が板の上に落ちていて、その先に、人影が一つ。屈んで、板を持ち上げようとしている。

「貞光さん！」

　宗一郎が叫んだ。

　貞光だった。

　彼は板の一枚を外して、それを桟橋の上に置いていた。手には、鉄の棒のようなものがあった。板の下へ棒を差し込み、切られた杭に残る木片を剥がそうとしていた。

　鋸の痕が残る木片さえ剥がしてしまえば、柱は古くなって傷んでいた、と言い張れる。

「貞光さん！ 何をしている！」

　貞光は顔を上げた。

　灯りの中で、彼の顔がこちらを向いた。

「危ないから、片づけている」

　彼は言った。

「危ないだと」

「柱が切れているのだろう。子どもが入ったら落ちる。片づけておいたほうがいい」

「触るな！」

　宗一郎は、桟橋の付け根に立っていた。付け根から先へは、行かなかった。

「そのまま置け」

「置いてどうする」

「警察が来る」

　貞光の手が、止まった。

「警察」

「この家から電話した。もうすぐ着く」

「……宗一郎」

「貞光さん、こちらへ来い」

　宗一郎は、手を出した。

「切られた柱を、警察に見せる。電報もだ。本社は出していない。町の窓口で打った男も、警察に探してもらう」

　貞光は、鉄の棒を持ったまま立っていた。

「電報まで、残してあるのか」

「原本がある」と恭介が答えた。宗一郎のすぐ後ろ、傷のない陸寄りの板まで来ていた。

　貞光は、しばらく切られた杭のほうを向いていた。どちらか一つを隠せば済む話ではなくなった。その顔は、窓からは見えなかった。

「触らずに、置いて、こちらへ来い」

　しばらく、誰も動かなかった。

　湖の水が、杭に当たる音がしていた。

　貞光が、鉄の棒を板の上に置いた。

　置いて、両手を上げた。

「分かった」

　彼は言った。

「分かった。片づけん」

　彼は歩いてきた。

　板を踏んで、綱の落ちたところを跨いで、こちらへ歩いてきた。

「宗一郎。私は、この家のためを思って――」

「いいから来い」

「何も決めずに、私に任せてきたくせに」

　貞光の声が、急に大きくなった。

　貞光は、桟橋の付け根まで来た。

　宗一郎の正面に立った。

　二人の距離は、一メートルもなかった。付け根の右手は芝で、左手は水だった。水面までは一メートル半ほど。下は杭と、石だ。

　貞光は、両手を下ろした。

　二つの影が、重なった。

　＊

　何が起きたのかは、見えなかった。

　二階の窓から、庭側は見えた。灯りは前庭に二つ、小野の手に一つ、付け根に置かれたカンテラが一つ。カンテラは足もとの板を照らしていて、人の胸の高さまでは届かなかった。桟橋の付け根は、家から見ると横向きになる。人が二人立っているのは見えた。何をしているかまでは、四歳の目には分からなかった。

　見えたのは、片方の影が、急に消えたことだった。

　水の音がした。

　大きな音だった。石を投げ込んだのとは違う、重い音。

　それから、叫び声がいくつも重なった。

「旦那様！」

「宗一郎！」

　人が走る音がした。

　陸寄りにいた影が、数歩走った。走りながら、上着を脱いで捨てた。

　恭介だった。

　彼は付け根まで走って、そこから飛び込んだ。

　もう一度、水の音がした。

「とう！」

　私は叫んだ。

　窓枠に手をかけて、身を乗り出した。

「お嬢様！」

　お絹が、私の胴を掴んだ。

「出てはいけません！」

「とう！」

「見えます、ここから見えます。見ていてください。出てはいけません」

　彼女は私を抱いたまま、窓の内側に膝をついた。

　私は、彼女の腕の中から、湖を見ていた。

　小野の灯りが、桟橋のほうへ動いた。

「旦那様！ 息はございますか！」

「ある！ 顔は出とる！」

　恭介の声だった。

　水の中から聞こえてくる声は、変な響き方をした。

「小野さん、舟！」

「今、行きます！」

　灯りが岸寄りへ戻って、それから、水の上へ出た。舟が出た。櫂の音がした。

　私は、それを見ていた。

　息をするのを忘れていた。

　――生きている。

　顔が出ている、と父は言った。父の声が聞こえた。それは、父が水の上にいるということだ。

　二人とも、生きている。

　私は、それを確かめたくて、また身を乗り出した。お絹の腕が、私の腹に食い込んだ。

「お嬢様」

「はなして」

「離しません」

「みたい」

「見えます。ここから見えます」

　彼女は、私を離さなかった。

　＊

　小野が舟を寄せた。

　恭介が、下から宗一郎の身体を持ち上げた。小野が舟の上から引き上げた。二人がかりで、時間がかかった。

　宗一郎は、舟の底で咳をした。

　咳の音が、水の上を渡って、二階まで届いた。

　人々が岸へ走った。使用人が、女中が、書生が。舟が岸に着いて、宗一郎が担ぎ上げられた。誰かが「布を！」と叫んだ。

　貞光は、桟橋の付け根に立っていた。

　立ったまま、動かなかった。

　男が四人、家のほうから走ってきて、彼を囲んだ。囲んで、家のほうへ連れて行った。彼は抵抗しなかった。

　誰かが「医者を！」と叫んだ。書生が村のほうへ走った。

　母は、前庭の芝に立っていた。

　母は動かなかった。誰も母に触らなかった。誰も母に何も言わなかった。

　その中を、恭介が歩いてきた。

　全身から水を垂らして、髪が額に貼りついていた。彼は家の下まで来て、上を見た。

「お絹さん！」

「はい！」

「瑠璃花を、こっちへ連れてきてくれ」

　お絹は私を抱いて、階段を降りた。

　玄関を出て、芝の上に降りた。夜の空気が冷たかった。

　恭介が、私のところへ来た。

　濡れた手で、私の顔を挟んだ。

「怪我はないか」

「ない」

「そうか」

　彼はしゃがんだ。しゃがんだら、膝が震えていた。

「そうか」

　彼はもう一度言った。

　＊

　母が、そこへ来た。

　誰も止めなかった。恭介が立ち上がって、私の前に半分出た。

「藤乃さん」

「近くには行きません」

　母は言った。

「話をさせて」

　母は、二歩手前で膝をついた。

　私と母の顔の高さが、同じになった。

「瑠璃」

「かあさま」

「あなたは、誰」

　三月の夜と、同じ問いだった。

　私は、母の顔を見た。

　母の顔は、汚れていなかった。着物も乱れていなかった。ただ、目のまわりが赤かった。

　私は父の脇から出て、母の膝のそばまで行き、耳もとへ顔を寄せた。

「ゆりかごから、きいてた」

　小さな声だった。母にだけ届く声だった。父もお絹も、私の後ろにいた。二人には聞こえなかったと思う。

「きいてた」

「揺りかご」

「うん。かあさま、ほんけになるひの、はなし、してた。おじさまが、いつか、かあさまと、るりを、えらんでくれるって」

　母は、動かなかった。

「ゆりこさまの、ぐあいが、わるいって、はなしも、してた」

　母の目が、大きくなった。

「かあさまは、まってた」

　母は、しばらく黙っていた。

　それから、言った。

「待ちました」

　母の声は、低かった。

「あなたが生まれる前から、待ちました。百合子さまがお悪いのを知っていて、待ちました。そういう自分を恥ずかしいと思いながら、待ちました」

　母は自分の膝を見た。

「百合子さまが亡くなって、やっと、と思いました。思ったことを、あなたの前で口にしたかもしれません。眠っている子の前なら、何を言ってもいいと思っていました」

「かあさま」

「はい」

「なんで」

　母は、顔を上げた。

「宗一郎さまは、私を選びませんでした」

　母は言った。

「静子さんを選んで、私には紙を一枚くれました。私が、せめて、と頼んだ紙です。死ななければ効かない紙です」

　母は、そこで一度、息をした。

「決めない人でした。だから、私が決めました。あなたを、この家の子にすると」

「きめた」

「決めました。春から、私が作りました」

　母は、その言葉を使った。

　私は、その言葉を聞いた。

　この人は、いま、自分で言った。誰かに強いられたとも、兄に引きずられたとも言わなかった。作った、と言った。

　私は、それを聞いて、何かが自分の中で片づくのを感じた。

　同時に、私は自分に言った。

　――これは、この人が自分について言ったことだ。

　私が母を四年間見ていて、私が母の言葉を四年間集めていて、私がそこから何を考えるかは、私の側のことでしかない。この人が本当のところ何を思って四年を過ごしたのか、私には分からない。

　母が、私の顔を見た。

「瑠璃」

「うん」

「あなたに、名前をつけたのは」

　母は、そう言いかけて、止めた。

　私は待った。

「あの人です」

　母は、恭介のほうを見なかった。見ないまま言った。

「私は、瑠璃という名前がほしかった。船の名前です。この家で一番古い名前です。それを、あなたにつけたかった」

「うん」

「あの人が、花を足しました」

　母は、少し笑った。笑ったように見えた。

「私は、あの晩、腹が立ちました」

「うん」

「いまも、少し立っています」

　母は、まだ私を見ていた。最初の問いの答えを、待っているのだと思った。あなたは、誰。

　四歳の口では、言えない。言えたとしても、ここでは言えない。芝の上には人が多すぎた。

「かあさま」

「はい」

「わたしが、だれか。あとで、ちゃんと、いう」

　母は、瞬きをした。

「……あとで」

「うん。ちゃんと」

　母は、それ以上訊かなかった。

　母は立ち上がった。

「それだけです」

　母は、そう言って、家のほうへ歩いていった。

　女が二人、母について行った。

　＊

　村の医師が来た。宗一郎は座敷に寝かされて、毛布をかけられていた。肋を打っていたが、骨は折れていなかった。水はあまり飲んでいなかった。

　彼は、半身を起こして、貞光に会うと言った。

　貞光は、別の部屋で、男四人に囲まれて座っていた。

「貞光さん」

　宗一郎は、そこまで運ばれた椅子に座って言った。

「あんたは、私を押した」

「足が滑った」

「滑ったのは私だ。あんたの手は、私の胸にあった」

「証拠がない」

「小野が見ていた。恭介君も見ていた。あの二人は、あんたが手を出したところを見ている」

　貞光は黙った。

「それから、一臣のことだ」

　宗一郎はそう言った。

「あの子は、桟橋かもしれないと言った。あれは、大人が訊いたからだ」

　彼は、部屋の隅を見た。母は、そこにはいなかった。

「十歳の子に、自分が見ていないことを言わせた。それをやったのは大人だ。あの子は、すぐに自分で訂正した。あの子は何もしていない」

　彼は座り直した。

「今夜、灯籠をやめた。宴もやめた。無駄だったとは思わん」

　彼は、恭介と小野のほうを見た。

「舟が出ていた。人が水際にいた。私は引き上げられた。あれがなければ、私はいま喋っていない」

　警察が着いたのは、七時半を過ぎたころだった。郡の警察から二人と、駐在が一人。

　彼らはまず、桟橋を見た。切られた杭、外された綱、板の上に置かれた鉄の棒、貞光が外して脇へ置いた板。何も動かされていなかった。

　次に、二階の部屋を見た。畳の上の匙。隅に寄せられた茶碗と器。どちらも洗われていなかった。

　小瓶は、母の袂にあった。

　警察の一人が、母に「持っておられるものを出してください」と言った。母は袂から小瓶を出して、卓の上に置いた。警察はそれを、母の袂から出たものとして書き留めた。

　恭介は、そのあいだ、何もしなかった。彼は母に近づかなかったし、袂に手を入れなかった。彼は、電報の原本を出しただけだった。

　＊

　その夜、警察が持って行ったものは、こうだった。

　未洗浄の匙と、茶碗と、湯冷ましの器。母の袂から出た小瓶。受け取った電報の原本と、恭介が町の郵便局で写してもらった窓口の記録。切られた杭の位置を示した小野の書付。外された綱。板の上の鉄の棒。

　現場の経緯を証言したのは、主に三人だった。小野弥吉、天導恭介、お絹。

　小野は、十二日と十四日朝に柱を見たこと、十五日午後に痕を見つけたこと、夜に貞光が桟橋へ入ったこと、宗一郎の胸に貞光の手があったことを話した。

　恭介は、電報のこと、町での照会のこと、桟橋で見たことを話した。

　お絹は、匙のことを話した。話しながら、途中で泣いた。泣いてから、「わたくしは、四年前も、同じ薬らしいものを見ております。あのときも茶色い小瓶から、糖蜜に落としておいででした」と言った。

　私は、何も訊かれなかった。

　警察は、四歳の子どもには話を聞かなかった。座敷の隅にいる私を一度見て、それだけだった。

　それで、よかった。

　私の言葉が要らなかったということが、私には嬉しかった。この四年、私が誰かに何かを伝えようとして、伝わらなかったことがたくさんあった。それでも、届いた言葉があった。父はそれを覚えて、自分で確かめに行った。

　大人たちは、自分で見て、自分で調べて、自分で証言した。

　私の出番は、なかった。

　＊

　廊下の隅に、一臣が座っていた。

　膝を抱えて、壁に背をつけていた。誰も彼のところへ行かなかった。大人は皆、警察と、宗一郎と、母のところにいた。

　私は、お絹の手を引いて、そこまで行った。

　彼は顔を上げなかった。

「僕、なんにもしてないよ」

　彼は言った。

「うん」

「桟橋かもって言っただけだよ。おばさんが訊いたから」

「うん」

「見てないって、ちゃんと言ったよ」

「いった」

　彼は、膝に顔を埋めた。

「父さん、どうなるの」

　私は、答えられなかった。

　この子の父は、たったいま、人を水に落とした。それを小野と恭介が見ていて、これから警察に渡される。この子は十歳で、明日から、その息子として生きる。

　前の人生の、十三年先の彼は、自分の父の机から紙を取って、それを自分の手で人に渡す。彼は、父を疑いたくないと言いながら、それでも紙を確かめようとした。

　この子が、そういう人になるかどうかは、私には分からない。

「わかんない」

　私は言った。

「わかんないけど」

　私は、彼の靴の先を見ていた。彼は靴のまま廊下に座っていた。誰も叱らなかった。

「かずおみは、みてないっていった」

「うん」

「それは、じぶんでいった」

　彼は顔を上げた。

　目が赤かった。

「そうだよ」

「うん」

　彼は、袖で顔を拭いた。

　お絹が、握り飯を一つ持ってきて、彼に渡した。彼は両手で受け取って、廊下でそれを食べた。

　＊

　夜が更けて、座敷に人が減った。

　宗一郎は毛布にくるまって、まだ座敷にいた。医師が、動かさないほうがいいと言った。

　恭介は、着替えて、宗一郎の横に座っていた。二人とも、何も喋らなかった。

　私は、その部屋の隅で、お絹の膝にいた。

　小野が入ってきた。彼は澪を抱いていた。澪は眠っていた。五歳の子は、騒ぎの途中で寝てしまったらしかった。

「起きませんでした」と小野が言った。

「そりゃいい」と宗一郎が言った。

　小野は座って、澪を膝の上で抱え直した。

　私は、その二人を見ていた。

　部屋には、二人の父がいた。

　湖に落ちて生きている人と、飛び込んで引き上げた人。片方は私の血の父で、片方は私を「瑠璃花」と呼ぶ父だ。

　二人とも、この部屋にいる。

　どちらも、死んでいない。

　私は、昨日の夕方の灯籠を思い出した。

　青みがかった白い光。水の上をゆっくり回りながら離れていった。あれはどこまでいくの、と澪が訊いた。向こう岸までは行かん、途中で沈む、と宗一郎が答えた。

　あの光を、この子は、ひと月のあいだ話し続ける。

　――話し続ける？

　私は、そこで少し混乱した。

　前の人生でフミが言った「お嬢様は帰ってからひと月、灯籠のお話ばかりなさいました」というのは、あの世界での話だ。この世界の八月十五日は、もう別のものになった。

　同じ夕方の、同じ灯籠ではなかった。それでも、私も光の行き先を目で追った。あの子が何度も話したくなった夜を、死のことだけで埋めずに思い浮かべられた。

　私は、それでいいと思った。

「瑠璃花」

　恭介が言った。

　私の身体が、跳ねた。

「眠いか」

「うん」

「寝ろ」

「ここで」

「ここでいい」

　彼は自分の膝を叩いた。

　私は、お絹の膝から降りて、彼のところへ這っていった。四歳にもなって這うのはおかしいが、その夜は足に力が入らなかった。

　彼は私を膝に乗せて、片手で背中を支えた。

　私は、その手の重さを感じながら、目を閉じた。

　この人の声で名前を呼ばれると、私は毎回跳ねる。四年経っても跳ねる。

　私は、ここで眠りたいと思った。

---

# 第十四章　生まれてこなければ

　九月の初めに、親族会が開かれた。

　本家の座敷に、親族会の三人と、宗一郎と、三村弁護士と、恭介が座った。私は隣の部屋にいた。襖は閉まっていたが、隙間があった。

　最初に読み上げられたのは、警察から回ってきた供述の写しだった。

　辰巳という男の供述だった。湖の町の局から電報を打った男で、貞光の家に住み込んでいる二十二歳の書生だった。八月十五日の朝、貞光から金を受け取り、文面を渡され、指定の時刻に打つよう言われたと、彼は話していた。

　三村がそれを読み終えると、しばらく誰も喋らなかった。

　それから、宗一郎が言った。

「三村さん。あれを」

　三村は、封筒を出した。

「天導宗一郎名義の遺言。認知の条項を含みます。日付は昨年の十二月。原本は当職が保管しております」

「開けてくれ」

「よろしいので」

「私が生きているうちに開ける」

　紙を開く音がした。

　宗一郎は、読み上げさせなかった。自分で言った。

「瑠璃花は、私の子だ」

　座敷が、静かになった。

「藤乃との間の子だ。去年の暮れ、静子さんとの話が決まったとき、藤乃に頼まれて、私はそれを紙にした。三村さんに預けた。私が死んだら効くようにした」

　彼は続けた。

「私は、死ぬまで言わないつもりだった。生きているうちに言えば、面倒が起こると思った。だから紙にした。決めなくても効く紙を作った」

　彼は、そこで一度、息を吸ったようだった。

「その紙が、私を殺す理由になった」

　誰も何も言わなかった。

「だから、いま言う。私は生きている。生きているあいだに、自分の口で言う」

　三村が言った。

「では、遺言による認知は」

「実行しない。あれは死んだときに効くものだ。私は死んでいない」

「死んだあとにも効かせない。認知の条項を撤回する書面を、いま作ってくれ」

「承知しました」

　三村が紙を広げ、しばらく筆を動かした。書き上げた文を読み、宗一郎に署名を求めた。隙間から、紙の上を動く宗一郎の手が見えた。

「ご署名、確かに。こちらも保管いたします」

「登録上の父は、いかがなさいますか」

　三村は、恭介のほうを見た。

　恭介は、座り直した。

「わたしは、否認しません」

　彼は言った。

「嫡出の否認は、しません。あの子は、わたしの子として届けてあります。そのままにします」

「よろしいので」

「はい」

「血のことは、いま旦那様がおっしゃったとおりです。それを承知のうえで、ということになりますが」

「承知しております」

　恭介は、はっきり言った。

「わたしは、名前をつけました」

　彼は、それだけ言った。

　三村が「承りました」と言った。

　父の声は、揺れていなかった。

　十一月の夕方、玄関の上がり口で手紙を読んだ人だ。あの日から、この座敷まで、十か月あった。父はそのあいだ、誰にも急かされずに、自分がこの子の何なのかを考えていたのだと思う。考えて、いま、それを一行で言った。

　私は、襖の隙間の前で、いま決まったことを順に並べた。

　死んだときにだけ効く紙は、なくなった。宗一郎を殺しても、あの紙で得をする者は、もういない。母が求めて書かせた紙は、この日、宗一郎自身の手で、効かない紙になった。

　宗一郎は、生きたまま、私が自分の子だと言った。恭介は、それを聞いたうえで、私の父のままでいると言った。私は、血の父を知ったまま、名前をつけた人の娘でいられる。

　その日の親族会で、決まったことは、いくつかあった。

　天導貞光は、本家の一切の役職を解かれた。後見人の指名も、まだ効いていないので取り消された。彼の刑事のことは警察と裁判所の仕事になる。

　蘆田医師との侍医の契約は、終えることになった。処方を続けた判断に、家としてもう信頼を置けない、という宗一郎の意向だった。母と示し合わせていたと決まったわけではない。処方の記録は、捜査のために残された。

　天導藤乃は、司法の手に渡った。親族会は、この件について何も決めなかった。決められないから決めない、と三村が言った。

　最後に、三村が言った。

「本件の資料は、すべて写しを当職が保管いたします。捜査に要る原本は提出し、残る保管物も所在を届け出ます。写しは、当家が仲直りをなさっても、破棄いたしません」

「なぜ」

　親族会の一人が訊いた。

「二十年後に、また同じことを考える者が出たときのためです」

　三村はそう答えた。

　＊

　その週に、いくつかのことが決まった。

　小野弥吉は、星見荘の管理人を続けることになった。宗一郎が自分でそう言った。「あの人がいなければ舟は出ていなかった」というのが理由だった。

　澪の学費についても、宗一郎が申し出た。小野は最初、断った。

「うちの娘に、そこまでしていただく義理はございません」

「義理ではない」

「では、何でございますか」

「私が、そうしたい」

　小野は、しばらく考えて、それから、「娘が大きくなったときに、娘に決めさせてやってください」と言った。宗一郎は「そうしよう」と言った。

　九月の半ばに、慎が挨拶に来た。

　九歳になっていた。父に連れられて、玄関で頭を下げた。

「父の診療所は、これからも町にございます。ただ、こちらのお屋敷には、伺わなくなります」

　彼は、そう言った。子どもが大人の言葉を暗記して言っているのが分かった。

　私は玄関に出て行った。

「しん」

「はい」

「またね」

　彼は、少し困った顔をした。

「……はい」

　彼は、それから、自分で考えて、こう言った。

「僕は、大きくなったら、お医者になるかもしれません」

「うん」

「なるかもしれないし、ならないかもしれません」

「うん」

「まだ、わかりません」

「うん」

　私は、それでいいと思った。

　この子が十一年先に詩集を貸してくれる人になるかどうかは、この子が決めることだ。私が決めることではない。

　同じ月に、宗一郎と静子の婚礼について、話があった。

　一年、延ばすことになった。

　静子が自分でそう言ったのだという。

「あの家が落ち着くまで、私は入りません。入っても、私は片づけをしに来た人になってしまいます」

　彼女はそう言ったと、本家から来た佐伯が話しているのを、私は聞いた。

「それで、宗一郎様は何と」

「分かった、と。それから、待つ、と」

「まあ」

「あの旦那様が、待つとおっしゃったのは、初めてでございましょう」

　＊

　九月十四日に、母に面会した。

　場所は、警察の建物の一室だった。恭介が連れて行った。お絹もついてきた。二人は部屋の外の廊下にいた。中には、私と、母と、立ち会いの人が一人いた。

　机があって、椅子が二つあった。私は椅子に座ると足が床に届かなかった。

　母が入ってきた。

　着物は自分のものだった。髪は結っていなかった。後ろで束ねているだけだった。

　母は座った。

　机の上に、茶が二つ出された。母のほうは湯呑で、私のほうは湯冷ましだった。

「熱いよ」

　私は言った。

　母の茶から湯気が立っていた。母は、湯呑に手を伸ばしかけていた。

「……そう」

　母は手を引いた。

「ありがとう」

　母は、そう言った。

　それから、しばらく黙っていた。

「瑠璃」

「うん」

「娘だと思って抱いていたのは」

　母は、そこで一度、言葉を切った。

「誰ですか」

　私は、母を見た。

　三月の夜も、湖の夜も、母が私に訊いたのは「あなたは誰」だった。今日は、違う訊き方だった。

「わたし」

　私は言った。

「わたしだよ」

「あなた」

「うん」

　私は、自分の言葉を選んだ。四歳の口で言える言葉を、湖から帰ってからずっと考えていた。

「わたしは、べつのところに、いた」

「別のところ」

「べつの、せかい。おおきいひとだった。おとなだった」

　母の目が、動いた。

「はじめは、じゅっさいだった」

「十歳」

「ここのおうちで、じゅっさいから、じゅうはちまで、いた」

　母は、まばたきをした。

「じゅうはちで、いろいろあって、それで、じぶんで、もどってきた」

「戻って」

「あかちゃんのところに」

　母は、机の上で手を組んだ。

「あなたは、四年前に生まれた子ではないのですか」

「からだは、そう」

「中身が」

「うん」

　母は、長く黙っていた。

「では、私の娘は」

　私は、答えを、湖から帰ってからずっと考えていた。四歳の口で言える形に、何度も並べ直していた。

「じゅっさいの、あさ」

　私は言った。

「はちがつ、じゅうごにち。わたしが、はじめて、きたひ。このこ、ないてた。まくらが、ぬれてた」

　母は動かなかった。

「のどに、ことばが、のこってた。このこの、ことば。『……なければ、よかった』って。おしまいの、ところだけ。うまれてこなければ、よかった、って、いったんだと、おもう」

「……」

「わたしは、そのあとに、きた。かあさまと、はなしたあとだった。なにを、はなしたかは、しらない」

　母は、長いあいだ、机の木目を見ていた。

　それから、顔を上げた。

「分かります」

　母は言った。

「十の子が、あの日の朝に私のところへ来て、湖のことを訊いて、パパはいつ帰ってくるのかと訊いたら」

　母の声は、淡々としていた。淡々としているぶん、自分の中の何かを正確に読み上げているように聞こえた。

「私は、こう言うでしょうね。あなたは宗一郎さまの子として、本家に入るために生まれたの。それ以外のあなたは、要らない。パパの娘でいたいなら、生まれてこなくてよかった」

　パパ、と母は言った。石盤の字と同じ呼び方を、この人生で初めて聞いた。

　私は、椅子の上で、自分の手を握っていた。

「言うでしょうね。私なら」

　母は、それを否定しなかった。言い訳もしなかった。前の人生で、宗一郎の六度目の命日の、酒の残る朝に、この人が十歳の娘に言ったであろう言葉を、この人は、いま、四歳の私の前で、自分の口で組み立ててみせた。

「このこは、それで、うまれるのを、やめたんだと、おもう」

　私は言った。

「わたしは、あいてた、からだに、はいった。……わたしは、そう、おもってる」

　母は、目を閉じた。

「その子は」

　母は、目を閉じたまま言った。

「戻ってくるの」

　私は、すぐには答えなかった。

　この問いが来ることは、湖から帰ってからずっと分かっていた。答えを並べ直すたびに、「もどす」と言いたくなった。そう言えば、この人は目を開けるだろう。でもそれは、私の持っていない約束だった。

「……もどしたい」

　私は言った。

「もどしたい。でも、もどしかたを、しらない」

　母は、目を閉じたままだった。

「とびらが、あるの。わたしにしか、みえない、とびら」

　あの三行のことを四歳の口で言える形にすると、とびら、になった。

「でも、わたし、じぶんでは、あけられない。じゅっさいの、さいしょのよる、あけようとした。でなかった。じゅうななの、ふゆにも、やった。ここへ、きてからも。いっかいも、でなかった」

「……自分では、開けられない」

「うん。あくときは、かってに、あく。じゅうはちの、よるは、かってに、あいた」

「開かなかったら」

「わからない」

　私は、そこで自分の限界をはっきり言った。

「あかなかったら、わたしが、このからだで、おおきくなる。それしか、できない」

　私は証明していない。誰も保証していない。扉がもう一度開くのか、開いたときにあの子が戻るのか、どちらも私には分からない。分からないことを、分かっている顔で言ってはいけなかった。この人の前では、とくに。

「開いたら、あなたは、どこへ行くの」

「しらない。とびらの、さきは、かいてない」

　母は、黙った。

「でも、もし、あいたら」

　私は続けた。

「こんどは、あとまわしに、しない」

　それだけは、私が自分で決められることだった。扉を開けることはできない。でも、開いた扉の前で「次はぜひ」と言わないことなら、私が決められる。

「もし、そのこが、もどったら」

　これも、湖から帰ってから、ずっと考えていた言葉だった。言い方を、何度も直した。

「かあさまを、かあさまって、よぶかどうかは、そのこが、きめる」

　母は、目を開けた。

「これは、やくそく、じゃない」

　私は言った。

「わたしが、きめちゃ、いけないこと。わたしも、とうも、きめちゃ、だめ。そのこが、きめる」

　約束なら、守れるかどうかを私が請け負うことになる。これは違った。この子の口を借りて、この人を母と呼んでみせることも、呼ばせないと決めることも、私はしてはいけない。それを、この人の前で、自分に言い聞かせておきたかった。

　母は、私の顔を見ていた。

「……そう」

　母はそう言って、それ以上、何も言わなかった。

「かあさま」

「はい」

「わたしは、ここに、いたかった」

　母が、顔を上げた。

「じけんを、とめたかった。それは、ほんと。でも、それだけじゃない」

　私は、言葉を探した。

「ごはん、たべたかった。とうと、ふねを、うかべたかった。かあさまに、かみを、といてもらいたかった」

　母は、動かなかった。

「ぬのを、えらんだこと、おぼえてる」

「布」

「みどりの、あおいの。にあうって、いってくれた」

　母の顔が、少し崩れた。

　それは、何年も先の記憶だ。母にとっては、まだ起きていないことだ。母には、何のことだか分からない。

　分からないまま、母は、それを聞いた。

「わたし、うれしかった」

　私は言った。

「あれ、うそじゃない」

　母は、湯呑を持った。

　もう、湯気は立っていなかった。母は一口飲んで、置いた。

「私は」

　母は言った。

「あなたが誰でも、乳をやって、着替えさせて、四年間、あなたを抱いていました」

「うん」

「それだけは、あなたが誰でも、変わりません」

「うん」

　母は、それ以上何も言わなかった。

　立ち会いの人が「時間です」と言った。

　私は椅子から降りた。降りるのに苦労した。母は手を出さなかった。出せなかったのかもしれない。

「かあさま」

「はい」

「いく」

　母は、何か言いかけた。

「瑠璃――」

　そこで、母は止まった。

　続きを、母は言わなかった。「花」を足さなかった。足さないまま、「瑠璃」で止まった名前を、母は飲み込んだ。

　七夜の晩に一度口にしたきり、四年のあいだ、母は私を「瑠璃花」と呼ばなかった。命名紙に書かれた花の一字を、母の口は、今日も足さなかった。

「……はい」

　私は、扉のところで振り返った。

　母は座ったままだった。私を見ていた。

　私は、この人に、許してくださいとも、許さないとも言わなかった。扉が開いたら行きなさい、とも、行かないで、とも、この人の口から聞きたくなかった。扉の前で何を選ぶかを、この人の許しや命令で決めたくなかった。それに、私はまだ、この家の朝がほしかった。

　だから、それ以上は言わなかった。

　＊

　面会から、二週間、私は家で暮らした。

　帝都の家だ。母のいない家だった。母の居間の襖は閉まっていた。母の揺り椅子は、もう庭の物置にあった。

　お絹がいた。女中頭がいた。恭介が毎日帰ってきた。

　九月の終わりの日々は、驚くほど普通だった。

　朝、起きる。顔を洗う。飯を食う。庭で遊ぶ。昼寝をする。おやつを食べる。夕方、玄関で音がする。「今日は何だ」と言われる。「なんもない」と答える。

　私は、その二週間で、何も役に立たなかった。

　役に立たなくても、食卓に私の席があった。私の茶碗が出た。私の靴が玄関に並んでいた。

　その二週間のあいだに、宗一郎が一度、家へ来た。

　肋がまだ痛むらしく、歩き方がゆっくりだった。彼は座敷に座って、恭介と何か話した。話は短かった。

　それから、彼は私を呼んだ。

「瑠璃花」

「はい」

「私が、お前の血の父だという話は、聞いたか」

　私は頷いた。

「そうか」

　彼は、それだけ言って、しばらく庭を見ていた。

「私は、お前をこの家から連れて行かん」

「うん」

「私が引き取れ、と親族会で言う者もいる。だが、恭介君が届けを出した父だ。名前もあの人がつけた」

「跡取りのことも、いまは決めん。お前が大きくなったら、お前と、そのとき生きている当主とで決めればいい。死んでから効く紙は、もう作らん」

　彼は、湯呑を持った。

「私は、決めるのが下手だ。今度だけは、早く決めた」

　決めない人が、決めたのだと思った。私を手元に引き取らないこと。死んでから効く紙に、あとのことを決めさせないこと。決めるのを、生きている者に残すこと。

「おじさま」

「なんだ」

「とけい、なおした？」

　彼は、私を見た。

　それから、笑った。笑って、肋が痛んだらしく、顔をしかめた。

「まだだ」

「なおして」

「……そうだな」

　彼は、帰るときに、玄関で恭介にこう言った。

「時計を直せる者を探す。見つかったら、この子を呼ぶ」

「はあ」

「あの部屋の音は、全部鳴っていたほうがいい」

　彼は帰った。

　その二週間、私は何度か学院の話を聞いた。いずれ通うことになる。女中頭が先々のためにと制服の見本を持ってきて、お絹が「まだ大きゅうございます」と言った。

　夕方には、庭で遊んだ。木の船を盥に浮かべた。帆柱は、恭介が一臣の抜いたところへ楔を打って、直してあった。

　私は、盥の縁に顎を乗せて、船が回るのを見ていた。

　この生活が続くところを、私は想像できた。

　想像できてしまうことが、少し困った。

　だから、私は毎晩、あの三行を待った。

　面会の日から、夜ごとに、布団の中で思い浮かべた。前の人生の十歳の最初の夜にやったのと同じように。つづきから。はじめから。やめる。文字の形まで細かく思い描いた。

　出なかった。

　出ないことは知っていた。前の人生の十歳の夜も、十七の冬の夜も、この人生の三月の夜も出なかった。自分では開けられないと母に言ったのは、私だ。それでも、思い浮かべるのをやめられなかった。

　この子の四つの秋を、私は一日ずつ使っていた。朝の飯も、盥の舟も、夕方の「今日は何だ」も、本当はあの子が受け取るはずのものだった。扉が開かなければ、私はそれを使い続ける。使い続けるうちに、きっと惜しくなる。惜しくなれば、開いた扉の前で、私はまた「次はぜひ」と言う。

　私は自分のことを、それくらいには知っていた。

　だから、早く来てほしかった。この家の朝を惜しむ気持ちが、まだ扉を選ぶ気持ちより小さいうちに。

　十八の夜まで、扉は八年開かなかった。今度も八年かもしれない。十年かもしれない。一生、開かないのかもしれない。

　そう思いながら、毎晩、目を閉じた。毎晩、瞼の裏は暗いままだった。昼の私は盥の舟を見て笑い、夜の私は来ないものを待った。どちらも、本当だった。

　＊

　九月二十七日の夕方、恭介が帰ってきて、こう言った。

「明日は休みだ」

「うん」

「明後日、造船所へ行くか」

　私は、立ち上がった。

「いく」

「よし。朝が早いぞ」

「いく」

「靴を出しとけ」

　私は棚から箱を下ろした。赤い靴だった。

　湖へ持って行って、湖では一度も履かなかった。荷ほどきのときに布に包んだまま、棚に戻してあった。

　私は靴を出して、玄関に並べた。彼が貼った革が、内側についていた。踵は滑らない。

「はいる」

「入るか」

「はいる」

　翌二十八日の夜、彼は私が寝るまで部屋にいた。

　いてくれと、私が言った。

「とう」

「ん」

「ここに、いて」

「おるよ」

「ずっと」

「ずっとは無理だ。父さんも寝る」

「ねるまで」

「寝るまでな」

　彼は、私の布団の横に座った。胡座をかいて、壁に寄りかかった。

　私は、天井を見ていた。

「とう」

「ん」

「もういっかい、よんで」

　彼は、笑った。

「また、それか」

「うん」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花。瑠璃花」

　私は目を閉じた。

　彼の声は、四年前と同じだった。七夜の晩、私の顔を覗き込んで、慌てて「泣くな、泣くな、瑠璃花」と三回呼んだときと、同じ声だった。

「そんなに、呼ばれたいか」

「うん」

「変な子だ」

「うん」

　彼は、私が眠るまでそこにいた。

　＊

　九月二十八日の夜。

　彼は、私が寝入ったと思って、隣の部屋へ戻った。襖の向こうで布団を敷く音がして、それから、静かになった。

　私は目を開けた。

　天井が見えた。障子越しに、廊下の灯りが弱く入っていた。枕元の棚に、銀の星と、木の船があった。

　そのとき、目の前に文字が浮かんだ。

　私は何もしていなかった。今夜だけは、思い浮かべてもいなかった。父に名前を呼ばれているあいだ、私は三行のことを忘れていた。面会の日から毎晩呼んで、一度も出てこなかったものが、呼ぶのを忘れた夜に、そこにあった。十八の夜の星の間と同じだった。

　面会から、十四日。八年かかった前の扉より、ずっと早かった。

　早すぎる、と思った自分に、私は少し驚いた。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「はじめから」は、灰色だった。

　ゲームなら、と私は思った。エンディングのあとに出る画面だ。物語が終わったあとに。

　今度は、終わりまで来たのだ。湖の夜は、誰も死なずに終わった。

　私は、「つづきから」を見た。

　長く見た。

　これを選べば、明日の朝が来る。造船所へ行く。船台を上から見る。赤い靴を履いて、うるさい場所を歩く。帰ってきて、飯を食う。

　いずれ、学院に上がる。宗一郎が父だと公表された家の子として。母のいない家で、父と、お絹と、女中頭と暮らす。

　十歳になる。十六歳になる。十八歳になる。

　その十六歳の春に、天導一臣は二十二歳だ。彼の父は服役しているか、その後どうなっているか分からない。彼は商会にいるかもしれないし、いないかもしれない。彼と私は、たぶん婚約しない。

　十三の春に駆け落ちを申し込んで、「……は？」と言われる日は、来ない。

　十六の春に澪が転入してきて、「もう遅いですよ」と言う日も、来ない。この世界では、まだ何も遅くない。

　あの人たちは、もう、いない。

　私は、そのことを、はっきり惜しんだ。

　あの人たちは、私が元の世界へ帰るための教材ではなかった。現実で人と関われるようになるための練習台でもなかった。ハーレムエンドの攻略対象でもなかった。そういう冗談を心の中で言いながら、私はあの人たちと八年暮らした。

　天導一臣は、駆け落ちを申し込んだ私に「……は？」と言った人だ。それから三年して私の婚約者になって、十七の秋には、自分の父の机から下書きを持ってきた。父を疑いたくないと言いながら。

　蘆田慎は、「急ぐと、詩がかわいそうですから」と言った人だ。百合子さんのことで自分の父がずっと悔やんでいると、十五の私に話してくれた人だ。

　早瀬遼は、市場で私の手首をつかんで「はぐれるなよ」と言った人だ。あの子だって誰かの娘だろ、と、私のことを言ってくれた人だ。

　小野澪は、同じ菓子を半分に割った人だ。十八の夜に、あのとき言ってくれていたら守れた、と言った人だ。

　あの人たちに、私はもう会えない。

　この世界には、十歳の一臣と、九歳の慎と、十二歳の遼と、五歳の澪がいる。会える。会えるけれど、それはあの人たちではない。

　私は、布団の中で、しばらく泣いた。

　声は出さなかった。

　＊

　泣きやんでから、私は考えた。

　七夜にもらった名前は、この子に残る。

　瑠璃花。父がつけた名前。命名紙に書かれて、十二月の遺言認知の文書に書かれて、これから学院の名簿に書かれる名前。

　私が持って帰るのではない。私はこの名前を、四年間、横で聞いていただけだ。

　それでも、私が救われたことは、消えない。

　三分息をしなかった子のために父が足した一字が、たまたま私の名前と同じだった。それは偶然で、天命でも所有権でもなくて、この世界が私のために誂えられた証拠でもない。

　偶然だったのに、私は救われた。

　あの晩、生まれて七日の身体で、私は返事をしようとして泣いた。あの涙を、私は取り消さない。三歳の誕生日に「もういっかい」と言った。あれも取り消さない。

　私は、この家で、たくさん笑った。

　盥で沈んだ舟を笑った。大きすぎる靴を笑った。指で足を測った人を笑った。

　あれは、全部、私が笑ったのだ。

　私は左手を、枕元へ伸ばした。

　指が銀の星に触れた。星は冷たかった。

　左手が、星を握った。

　私は、その手を見ていた。

　これが返事なのかどうかは、分からない。この手は、四年間、私の意思と関係なく星へ伸びた。父の足音へ伸びた。それを、私は「あの子だ」と思ってきた。

　思ってきただけだ。

　証明は、していない。

　私は、右手で、左手をそっと外した。星を棚に戻した。

　＊

　元の部屋のことを、私は思い出した。

　六畳と台所。折りたたみの机。充電したままのゲーム機。

　仕事がある。月末だけ忙しい。北原さんがいる。麻辣の店の誘いを、私は断った。次はぜひ、と打った。

　あの「次」は、まだ来ていない。

　あちらの時間がどうなっているか、知らない。あちらへ戻れるのかどうかも、知らない。

　――一回だけ、自分から出せた。

　私は、そのことを思い出した。

　十七の冬に、澪に「知りません」と言った。母の帳面を、春まで鏡台の底にしまっておいた。それでも十八の夜、星の間で、私は自分の手でそれを出した。遅かった。遅かったけれど、出したのは私だ。

　それから、十三の春に、一臣さんに駆け落ちを申し込んだ。「……は？」と言われた。

　断られても、私は死ななかった。次の朝には、ちゃんと朝ご飯を食べた。

　どちらも、私がやったことだ。

　私は、まだできるかもしれない。

　私は、三行を見た。まだ、そこにあった。

　「つづきから」を選べば、明日は造船所へ行ける。それから、また夜ごとに待てばいい。そう思いかけた。

　思いかけて、その形に覚えがあった。

　次はぜひ、と打った夜と同じ形だった。行きたいのに、次があると思って、今を断る。

　この扉が次にいつ開くのか、画面は何も言っていない。十歳から十八まで、一度も開かなかった。次は、もう開かないのかもしれない。開いたとしても、そのときの私は、この家の朝を今夜よりもっと惜しんでいる。

　面会の日、私は母に言った。もし開いたら、今度は後回しにしない、と。扉を開けることは、私にはできなかった。開いた扉の前で待たないことだけが、私に決められることだった。

　扉は、開いた。思っていたより、ずっと早く。

　今度は、後回しにしない。

　「やめる」に意識を向けた。

　　このゲームを終了します。
　　二度と再開できません。
　　よろしいですか？

　十八の夜と、同じ文だった。

　帰れる、とは書いていない。元の部屋へ、とも。この身体がどうなるのかも、あの子が戻るのかも、どこにも書いていない。終了する、とだけある。

　私は、四つのことを並べた。

　左手は、まだ星へ伸びる。

　あの子が生まれるのをやめた理由。十歳の朝に、母から言われるはずだった言葉。その朝は、もう来ない。母は逮捕された。宗一郎は生きている。父は追い出されない。この子は、パパの娘でいていい。

　父は、恐ろしい三分のあとで、この子に花を足した。庭で笑うところを見たい、と。父が名前をつけたのは、これから生きる子だった。

　そして、私は、この身体をもう返す。

　それで、あの子が戻ってくると、私は信じたい。

　信じたい、というのは、証明ではない。母が保証したのでもない。画面が約束したのでもない。私も、母に約束はしなかった。私は見届けない。

　私自身がどうなるのかも、分からない。元の部屋で目が覚めるのかもしれない。目が覚めないのかもしれない。

　もし、帰れたら。

　北原さんに、自分から送ろう。麻辣の店、まだ行けますか、と。服のことも、二時間何を話すかも、三回目のことも考えずに。断られたら、また誘う。次がなくても、もう一回は言う。駆け落ちを断られた次の朝にも、私は朝ご飯を食べられたのだから。

　もし、帰れなかったら。

　それでも、この子の朝が来るなら、それでいい。

　隣の部屋で、父が寝返りを打った。

　私は、目を閉じたまま、その音を聞いた。

　――ありがとう。

　言わなかった。言えば、この人は起きてしまう。

　天導瑠璃花。てんどう、るりか。

　私が七夜に、返事をしようとして泣いた名前。

　天導ルリカは、ここで、生まれるのをやめる。

　　このゲームを終了します。
　　二度と再開できません。
　　よろしいですか？

　はい。

　最後に感じたのは、手だった。

　私の右手を、誰かの左手が、そっと離した。握っていたのは私のほうだったのか、向こうだったのか、分からなかった。

　私は、選んだ。

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# 第十五章　二度目の十八歳

## 九月二十九日の朝――恭介

　九月二十九日の朝、恭介は娘の泣き声で目を覚ました。

　まだ暗いうちだった。障子が青い。彼は布団から出て、隣の部屋の襖を開けた。

　娘は布団の上に座って、泣いていた。

「どうした」

　声をかけると、娘は彼のほうを見た。見て、両手を出した。

　左手のほうが先に出た。

　彼は座って、抱き上げた。娘は彼の首に腕を回して、耳のあたりに顔を押しつけた。

「パパ」

　娘はそう言った。

　恭介は、動きを止めた。

　しばらくそのままでいて、それから、背中を叩いた。

「うん」

「パパ」

「おるよ」

　彼は、そのまま部屋を三周ほど歩いた。歩いているうちに、娘は泣きやんだ。

　――そんな呼び方もするのか、と彼は思った。

　娘が初めて自分を呼んだときから、ずっと「とう」だった。「パパ」は初めてだった。誰かの真似をしたのだろうか。

　娘は彼の首へ腕を回し直した。恭介は問いかけるのをやめて、その背中を支えた。

　台所へ行くと、お絹が竈の前にいた。

「おはようございます。お早いこと」

　娘は彼の腕の中から、お絹を見た。

「おきぬ」

「はい、おきぬでございますよ」

　お絹は笑った。

　娘は下ろされると、お絹の足元へ寄っていって、袂を掴んだ。お絹が「重うございますよ」と言いながら、片手で竈の火を見た。

　朝飯のとき、娘はよく食べた。

　飯を茶碗に半分と、卵と、味噌汁。汁の椀を両手で持って、傾けすぎて、膝にこぼした。お絹が拭いた。娘は「あー」と言って、笑った。

　庭に出ると、まだ空に星が一つ残っていた。

　娘はそれを指した。

　左手だった。

「ほし」

「ああ、残っとるな」

「ほし」

　娘は左手を伸ばした。届くはずのない高さへ、手を伸ばして、指を開いた。

　恭介は、その手をしばらく見ていた。

　この子は、赤ん坊のころから星に手を伸ばす。夜中に見に行くと、枕元の銀の星のほうへ手が出ていることがあった。誰に似たのか分からない。自分でも、藤乃でもない。

　彼は、それを不思議だと思ったことはあるが、意味があると思ったことはなかった。

「そら、朝飯も済んだ。顔を洗え」

　彼は言った。

「うん」

　湖のことを、娘は何も言わなかった。

　湖から帰ってきてからの、ひと月半ほど、この子は湖の話をしなかった。恭介はそのほうがいいと思っていた。四つの子が見た夜のことなど、忘れたほうがいい。

　昨日の晩、この子は「もういっかい呼んで」と言った。何度も言うので、彼は四回だか五回だか名前を呼んだ。あれも、覚えていないだろう。

　彼は縁側に座って、煙草に火をつけて、それから、消した。

　娘が横に来た。

　彼は、一昨日約束したことを言おうとして、口を開けて、閉じた。

　――言い方を、変えよう。

　なぜそう思ったのか、彼にも分からなかった。一昨日の夕方、造船所と聞いて立ち上がった子と、いま隣で足をぶらぶらさせている子とが、どこか違って見えた。どこが違うのかは、言えなかった。約束を覚えているものとして話すのは、やめておこうと思った。

「瑠璃花」

　娘が彼を見た。

「今日な、父さんの仕事場へ行こうと思うとる」

「しごとば」

「船を作るところだ。うるさいぞ。鉄を叩く音がする。埃も立つ」

「ふね」

「そうだ」

　彼は、娘の顔を見た。

「行きたいか」

　娘は、しばらく考えた。四つの子が考える顔をしていた。

　それから、頷いた。

「いく」

「よし」

　彼は立ち上がった。

　玄関に、赤い靴が並べてあった。一昨日の夕方、この子が自分で出して並べたものだ。

　彼は靴を持ってきて、縁側に置いた。

　娘の足を、片方ずつ持った。踵を合わせて、指の先を押した。指一本ぶんの余りがある。中に貼った革は、はがれていない。

「入るか」

「はいる」

「歩いてみろ」

　娘は立って、縁側から庭へ降りた。三歩歩いて、振り返った。

　脱げなかった。

「あるける」

「歩けるな」

　彼は、しゃがんだまま、その足元を見ていた。

　この靴を買ったときは、大きすぎて、三歩で脱げた。砂利の上に裸足で立った子を、慌てて抱き上げた。あれから一年五か月だ。

「よし、行くか」

「うん」

　彼は娘の手を取った。

　左手のほうが、先に出た。

　門を出るとき、恭介は一度だけ家を振り返った。

　昨夜、この子が眠るまで隣に座っていた。何度も名前を呼んだ。呼ぶたびに、この子は「もういっかい」と言った。あの声と、いま自分の手を握っている左手とが、同じ子のものなのかどうか、彼には分からなかった。分からないことを考えるのは、彼は得意ではなかった。

　ただ、もし昨夜まで誰か別の者がこの家にいて、今朝どこかへ行ったのなら、その誰かも、どこかで靴を履いて歩いていればいいと思った。

　理屈は知らない。そう思っただけだ。

　彼は娘の手を握り直して、坂を下りた。

## 十四年後の四月二十日――瑠璃花

　私のいちばん古い記憶は、造船所だ。

　赤い靴を履いて、父の手を握って、鉄を叩く音の下を歩いた。靴の中で爪先が少し余っていた。見上げると、組みかけの船の腹が、空の半分を塞いでいた。それより前のことは、ほとんど覚えていない。

　私は天導瑠璃花という。天導恭介の娘で、今日、十八になった。

　十八の誕生日の夜、星の間の時計は、四十三がすべて動いていた。

　おじさまが、私の六つの年から一つずつ直させてきたものだ。直せる職人は帝都に一人しかいなくて、一年に二つか三つずつしか進まなかった。最後の一つは、私が十六の冬に、その職人の手元を見ながら自分で直した。瑠璃丸に載っていたという、いちばん高いところの時計だった。

　四十三の秒針は、少しずつずれて刻む。ずれた音が重なって、部屋の中では、雨が屋根を叩いているような音がずっと続く。この音を、私は物心ついたころから知っている。どこで最初に聞いたのかは、覚えていない。

　今夜は、その音の中で私の成年が披露される。その前に、私は本家の二階に用意してもらった支度の部屋で、鏡の前に立っていた。

　衣装は、黒地ではなかった。

　この家では十八の成年披露に、当主の血筋の子は黒地を着ることになっている。私はおじさまの血を引いていると、この家の誰もが知っている。黒を着ていい、と親族会の人にも言われた。

　それでも、黒は選ばなかった。黒は、この家を継ぐ血の色だ。跡取りのことは、私が大きくなってからおじさまと決める約束になっている。その話を、今夜の衣装の色で先に済ませてしまいたくなかった。

　私は、少し緑がかった青を選んだ。瑠璃という色に近い、染屋が一番手を抜けないという色だ。裾に、小さな白い花を刺繍してもらった。花の名前は決めていない。仕立屋に、名前のない花にしてください、と頼んだ。

「動くな」

　父が後ろに立っていた。手に、銀の星を持っていた。

　六つの角を持つ、掌に隠れるほどの小さな星だ。裏には「瑠璃へ」と彫ってある。私が生まれる前に、おじさまが注文したものだという。

　父は、それを私の髪に留めようとして、一度落とした。拾って、もう一度やって、斜めに留まった。三度目で、お絹が横から手を出した。

「旦那様、そこでは星が逆さでございます」

「逆さか」

「逆さでございます」

「船なら沈むな」

　父はそう言って、お絹に任せた。お絹は笑いながら星を留め直した。目がなくなる笑い方だった。

　父は、自分の背広を着ていた。去年、造船所の技師長になったときに仕立てたもので、肩の縫い目がちゃんと合っている。

「その色でよかった」

　父は、鏡の中の私を見て言った。

　私はうなずいた。自分で選んだ色だった。

　＊

　星の間に降りると、人が大勢いた。

　正面の壇の近くに、おじさまがいた。四十六になって、髪はもうほとんど白い。隣に静子さんと、十二になる息子の航がいた。航は私を見つけると、手を振りかけて、母親に袖を引かれて、やめた。

　澪が、人の輪を抜けてこちらへ来た。

　澪は、星見荘の番人の娘で、私の四つの夏からの友達だ。いまは帝都の女学校の師範科にいる。弥吉さんは、今夜も湖で桟橋を見ているはずだった。今年の春、澪の父は、桟橋の杭を全部新しいものに替えた。

「瑠璃花さん」

「澪」

　澪は、私の隣に座った。今夜、私の隣に座る人は、ずっと前から決まっていた。

　澪は私の顔を見て、それから、わざとらしく言った。

「言わないでくださいね。今は」

「え」

「待ってしまうから」

　それから、澪は自分で吹き出した。

「何それ」

「なんとなく。瑠璃花さんって、ときどき、何か言いかけてやめるでしょう。先に言っておこうと思って」

「言いかけてやめないよ」

「やめます。四つのときからそう」

　私たちは二人で笑った。どうしてその言い方がおかしいのか、二人ともよく分からないまま。

　一臣さんは、商会の若い主人として来ていた。二十四歳。私と彼のあいだに、約束は何もない。子どものころ、私の木の船の帆柱を抜いて謝った人で、それ以来、会うと必ず船の話をする。今夜も、会釈のあとに「進水式の写真を見た」と言った。私が図面を引いた小さな曳船の写真だ。

「来月、また見せてくれ」

「来月の茶会に持っていきます」

「片づけておく」

　彼はそう言って、人のあいだへ戻っていった。何を片づけるのかは言わなかった。

　蘆田慎さんが、父の蘆田先生の少し後ろにいた。眼鏡は子どものころと同じ丸い形で、医師になったばかりだという。目が合うと、一拍おいてから、頭を下げた。

　壇の上で、おじさまが挨拶を始めた。

　天導の船が拓いてきた航路のこと。この十四年、誰も湖で死ななかったこと。それから、私の名前。

「天導瑠璃花。瑠璃丸の瑠璃に、恭介君が花を足した名だ」

　広間に拍手が起きた。父が、後ろのほうで、頭を三回下げていた。

　悪人のいない集まりではないのかもしれない。大人の集まりには、いつも何かがある。それでも、この広間には、私が十八年かけて顔を覚えた人たちがいる。

　＊

　挨拶のあとで、三村先生が私のところへ来た。

　三村先生は六十に近くなって、髪がすっかり白くなっていた。先生は私を人のいない壁際まで連れて行って、懐から封筒を一通出した。

「お渡しするように、頼まれておりました」

「どなたから」

　三村先生は、少しだけ間をおいた。

「藤乃様から」

　私は、封筒を見た。

　母は、私が四つの秋から、帝都にいなかった。長く塀の中にいて、去年の春に出てきた。いまは湖に近い町で、一人で暮らしていると聞いている。

　四つの夏のことを、私はほとんど覚えていない。湖で何かがあったことは知っている。大人たちが話すのを聞いて、あとから本で読んで、知った。母がそこで何をしようとしたのかも、知っている。

　知っていて、私は去年の冬、母に手紙を一通だけ書いた。成年披露の日取りと、それだけを書いた。来てください、とも、来ないでください、とも書かなかった。どちらを書けばいいのか、分からなかったからだ。

　封を切った。

　便箋が一枚入っていた。

　字は、一行だけだった。

　――おめでとう、瑠璃花。

　私は、その一行を、しばらく見ていた。

　父から、何度か聞いたことがある。母は、私のことを「瑠璃」と呼んでいた、と。花の字を足したのは父で、母はそれが気に入らなかった、と。

　瑠璃は、おじさまがつけた本家の船の名前だ。花は、七夜の晩に、庭で笑うところを見たいと言って父が足した字だ。母は七夜の晩に一度そう呼んだきり、四年のあいだ、その一字を口にしなかった。

　便箋の上で、母は、花まで書いていた。

　本家の子としてではなく、父が名前を足した子として、母は私を祝ったのかもしれない。そうではないのかもしれない。一行では、分からない。

　私は封筒を懐に入れた。

　返事を書くかどうかは、今夜のあとで決める。母に会いに行くかどうかも。それは、私が決めることだ。誰かに決めてもらうことではない。どうしてだか、私はずっと前から、そう思っている。

　＊

　宴が終わりに近づいて、父が私のところへ来た。

　父は少し酒が入っていて、顔が赤かった。

「瑠璃花」

　父が呼んだ。

「もういっかい」

　私は言った。

　父は笑った。

「また、それか」

「うん」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花」

　澪が横で「またやってる」と言った。お絹が「このお家の、昔からのお決まりでございます」と言った。

　これは、家の中だけの冗談だ。父が名前を呼ぶと、私が「もういっかい」と言う。いつから始まったのかは、誰も覚えていない。父に訊いても、「お前が小さいころからだ」としか言わない。

　どうしてそんなことを言うようになったのか、私にも分からない。

　ただ、名前を呼ばれると、私は返事をしたくなる。何度でも。

　四十三の時計が鳴っていた。

　呼ばれたら、返事をすればいい。私は、そうやって大きくなった。

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# 第四編　恭介編

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# 第一章　舟屋の朝

八月十六日、朝。

最初に分かったのは、板の匂いだった。水を吸って乾き、また吸った木の匂い。それから、頬の下の毛布がちくちくすること。

目を開けると、屋根の隙間から白い光が何本も落ちていた。光の中で埃が回っていた。朝だった。

頭が重い。起き上がろうとして、腕がうまく届かなかった。肘をついたつもりの場所に肘がなくて、私は毛布の上へ顔から落ちた。

もう一度やった。今度は手のひらを先に置いた。

手のひらが小さかった。指が短くて、付け根にえくぼのようなくぼみが並んでいる。爪は桜の花びらくらいしかない。

私は立花灯、二十九歳で、市立図書館の司書をしている。最後に覚えているのは閉館後の返却ポストだった。雨の吹きこんだ絵本を一冊ずつ拭いて、乾かす棚に立てていた。その先がない。

そして、この手は、どう見ても四つか五つの子どもの手だった。

外で男の人の声がした。

「杭のあいだに――」

「旦那様だ。おい、戸板を持ってこい」

足音が板の上を走っていく。誰かが泣くような声を出しかけて、途中でのみこんだ。

私は四つ這いで戸口まで進んだ。膝が床に当たるたびに、頭の奥が遅れて揺れる。熱のときとも寝不足のときとも違う揺れ方だった。まぶたが下りてきて、そのたびに持ち上げなければならなかった。

戸は細く開いていた。

湖があった。朝の湖は白っぽい緑色をしていた。桟橋が右手から水の上へ延びていて、先のほうで折れている。折れたところから、柱が一本、斜めに水面へ突き出ていた。

岸に男の人たちが集まっていた。四人がかりで、戸板を一枚、水際から運び上げているところだった。戸板の上には筵がかけてある。筵の端から、濡れた袖が少しだけ出ていた。

私は、その袖の色を知っていた。

知っているのは、私ではなかった。この身体のほうだった。

夏の夜の縁台。細くて長い指が懐中時計の蓋を開けて、中を見せてくれる。かち、かち、と小さなものが動いている。「瑠璃。これが一秒だよ」。痩せて背の高い人で、髪にもう白いものが混じっていて、笑うと目尻がやさしく下がる。

おじさま、とこの口は呼んでいた。

その人の袖だった。

私は戸の隙間に額をつけて、戸板が岸を遠ざかっていくのを見ていた。膝の下の板が冷たかった。

　＊

瑠璃、という名前には覚えがあった。

私は、この名前を画面の中で何百回も見ている。

『帝都恋綺譚』。湖の事件の夜、舟屋で眠っているところを見つかった分家の娘が、天導瑠璃だ。物語の悪役で、十八歳の成年披露の夜に澪に断罪され、海の向こうの修道院へ送られる。

最後の場面は、屋敷の門の外だった。

「送っていこうか」

「……あなた、誰」

「昔、あなたを抱いていた者だ」

そこで一枚絵が出る。門柱の影に半分隠れた男の、日に焼けた横顔と、瑠璃の小さな荷物。

私はあの一枚のために、全ルートを回った。一臣ルートも慎ルートも遼ルートも、全部の選択肢を試して、TRUEルートを開けて、最後の門まで行った。行くたびに泣いた。設定資料集は三冊買った。一冊目は読みすぎて背が割れ、二冊目は司書仲間に貸したまま戻ってこない。

だから、おかしいと思った。

ゲームでは、湖の事件は瑠璃が十歳の夏だった。設定資料集の年表にもそう書いてあった。年表の頁は開きぐせがつくほど見たから、間違いない。

この手は十歳の手ではない。

私は自分の手を見て、それからもう一度、戸の外の湖を見た。桟橋の折れ方も、舟屋の場所も、画面の回想の一枚絵と同じだった。違うのは、この身体の大きさだけだった。

六年早い。

どうしてなのかを考えようとして、まぶたがまた下りてきた。口の中が甘かった。舌の奥に、どろりとした甘さと、少しの苦みが残っている。

糖蜜だ、と思った。ゲームでは、母が娘に匙で飲ませた眠り薬は、糖蜜に溶かしてあった。

私は板の上に座りこんだ。

この身体に私が入ったのは、ついさっきだ。目を開けたときには、筵はもうかけられていた。昨夜の宴も、灯籠も、匙も、私は見ていない。桟橋の柱が切られたのも、あの人が落ちたのも、私が来る前に済んでいた。

止められたはずのことは、一つもなかった。

そう分かっても、胸の奥は軽くならなかった。この身体が覚えている縁台の夜と、時計の音と、目尻の皺が、戸板の筵の下へ一緒に運ばれていったような気がした。

私は泣かなかった。泣いたのは、この身体のほうだった。四つの子どもの涙は、止めようと思っても止まらない。私は膝を抱えて、しゃくりあげる自分の肩を、自分で持て余していた。

　＊

「瑠璃！」

女の人の声だった。戸が大きく開いて、朝の光がまともに目に入った。

母だった。

天導藤乃、二十八歳。細身で背が高い。切れ長の目が、少し赤かった。藤色の地に大きな白い花を散らした着物を着て、帯の上から薄物を羽織っている。こういう朝にこの色を着る人なのだ、と思った。

母は膝をついて、私を抱きしめた。

強い腕だった。香の匂いがした。白檀に、花の蜜のような甘さが混じった匂い。私の頬の下の毛布と、同じ匂いだった。

「よかった。よかった、瑠璃」

外まで聞こえる声だった。岸の男の人たちが、何人かこちらを振り返った。

母の腕が少しゆるんだ。唇が、私の耳に寄った。

「何も覚えていないわね」

小さな声だった。問いの形をしていなかった。

私は答えを考えた。

ゲームのとおりなら、この人は昨夜、私に匙で糖蜜を飲ませ、ここへ運んで寝かせた。いまそれを言ったら、四つの子どもの話を誰が聞くだろう。聞いたとしても、その子をどこへ置くだろう。私の手の届く範囲には、この人の腕しかない。

それに、私は本当に何も覚えていない。私が来たのは、全部が終わったあとだった。

「……うん」

四つの声は、思ったよりずっと高かった。

母はもう一度私を抱いて、それから声を上げて泣いた。外に聞こえる声で。

　＊

それから何日か、私は熱を出して寝ていた。

星見荘の二階の小さな部屋だった。天井の木目が、目を閉じても瞼の裏に浮かぶくらい、長く見ていた。女中のフミが粥を運んできて、額の手拭いを替えた。フミは五十を少し過ぎた、背中の丸い人で、手拭いを絞るときに必ず「はい、冷たいですよ」と言った。

熱の中で、この身体の記憶が少しずつ浮いてきた。四つの子の記憶は、絵本の頁を一枚ずつ抜いたみたいに飛び飛びだった。

大きな手。太い指が、私の脇の下に入って、高く持ち上げる。天井が近くなる。木屑の匂い。「ほれ、高いぞ」という低い声。

パパ、とこの口は呼んでいた。

十五日の夕方、パパは汽車で帝都へ行った。本社から至急の電報が来たからだ。行きたくないなあ、と言って、私の頭に手を置いた。その手の重さまで、この身体は覚えていた。

ゲームの筋では、あの電報は偽物だ。伯父の手の者が打った。パパを湖から遠ざけるために。

三日目の夜、廊下で話し声がした。

「瑠璃は」

低い声だった。記憶の中の「ほれ、高いぞ」と同じ声だった。

「お休みでございます。奥様が、どなたもお入れしないようにと」

フミの声だった。

障子に、大きな影が映っていた。廊下の行灯の光で、肩のところが障子の桟からはみ出している。影は少し屈んでいた。

「起きとるか」

影が、障子越しに言った。

私は返事をしようとした。パパ、と言おうとした。喉が熱で腫れていて、出たのは息だけだった。布団から腕を出そうとして、腕が重くて、途中で落ちた。

影はしばらく、そこにいた。

それから、「そうか」と言った。「ようけ寝え」

影が障子から離れて、足音が廊下を遠ざかった。右足を少し引きずるような足音だった。

　＊

九月の半ば、帝都の屋敷で親族会が開かれた。

私は二階の子ども部屋にいた。フミが一緒にいて、絵本を読んでくれていた。階下の広間から、ときどき男の人の声が上がって、すぐに低くなった。何を言っているのかは聞き取れなかった。

聞き取れなくても、私は知っていた。

ゲームの回想では、この親族会で、瑠璃の父親は血の検査の紙を見せられる。娘の血の型は、この夫婦のあいだには生まれないものだった。お前の子ではない、認めろ、と言われて、父親は嫡出否認の書類に名前を書く。そして家を出ていく。瑠璃は、宗一郎の遺志として、本家の養女になる。後見人は伯父の貞光。

書類に名前を書いたら、この身体とあの人は、法律の上では親子ではなくなる。

いまごろ、あの人は紙に名前を書いている。フミの読む「ももたろう」を聞きながら、私はそのことばかり考えていた。桃が川を流れていった。

昼を過ぎて、玄関のほうで戸の音がした。

私は窓へ走った。窓は私の背よりずっと高いところにあった。椅子を引きずってきて、よじのぼった。フミが「お嬢様、危のうございます」と言った。私は窓枠にしがみついた。

門へ続く砂利道を、男の人が一人、歩いていた。

大柄な人だった。肩に行李を一つ担いでいる。借り物のような黒い羽織の下から、日に焼けた太い首が出ていた。歩くたびに、右の肩が少しだけ下がる。

あの人だ、と思った。

ゲームでは八年後、この世界ではたぶん十四年後の、門の外に立っている人。一枚絵の、日に焼けた横顔の人。私が何十回も、最後の三行のために会いに行った人。

画面の中より、ずっと若かった。背中が大きかった。

私は窓を開けようとした。掛け金は、私の手がやっと届くところのさらに上にあった。指先がかすって、動かなかった。

男の人は門の前で立ち止まった。

行李を担ぎ直して、振り返った。屋敷の玄関を見て、それから、ゆっくり上へ、二階の窓のほうへ顔を上げた。

私は手を振った。

両手で振った。窓硝子に手のひらが当たって、ぺたぺたと音がした。四つの身体でできることは、それしかなかった。声を出しても硝子の向こうへは届かない。走っていっても階段の下で誰かに抱き上げられる。私は手を振った。硝子の向こうで、あの人の顔は小さくて、どこを見ているのか分からなかった。

あの人は、帽子のつばに手をやった。

屋敷に向けた挨拶だったのかもしれない。私に向けたものだったのかもしれない。

それから門を出て、塀の向こうへ見えなくなった。

私は窓硝子に手のひらをつけたまま、しばらく動かなかった。硝子に、小さな手の跡が二つ、白く曇って残った。

「お嬢様」

フミが、後ろから私の腰を支えていた。

「お父様は、お仕事で遠くへいらっしゃるんですよ」

フミの声は、少し震えていた。

私は頷いた。四つの子どもは、頷くしかない。

ゲームのあの人は、八年、どこかで待っていた。瑠璃が全部を失って門を出てくる夜まで。この世界では、それが十四年になる。門の外で、あの人は二言しか話さない。それで終わる。

窓硝子の手の跡が、少しずつ消えていった。

私は椅子の上で考えた。四つの頭で考えるのは骨が折れた。考えがすぐに眠気にすり替わる。それでも一つだけ、はっきり決めた。

今度は、あの人を門の外で待たせない。

私のほうから、門を出ていく。

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# 第二章　渡しても燃やしても

五つの春から、私は本家の屋敷で暮らすようになった。

帝都の本家の屋敷は、廊下が長かった。子どもの足で端から端まで歩くと、途中で一度休みたくなる長さだった。養女指名の書面というものがあって、私はそれによって天導宗一郎の跡を継ぐ子になったのだと、前年九月の親族会が終わってから、伯父の貞光が私に言い聞かせた。

伯父は大きな声の人だった。低く、よく通る。私の頭を撫でるとき、指輪が髪に引っかかった。

「瑠璃は賢い子だ。私が後見をする。何も心配はいらない」

私は「はい、おじさま」と言った。

ゲームでは、この人が桟橋の柱に鋸を入れた。私は頭を撫でられながら、指輪の石の色を覚えた。五つの子どもにできる抵抗は、それくらいだった。

母も本家の屋敷に移った。母の部屋は東の端で、いつも香の匂いがした。母は私の着物を選び、髪を梳き、箸の持ち方を直した。左手で箸を持つと、母は黙って私の手首を取り、右へ持ち替えさせた。この身体はもともと左利きで、私はもともと右利きだった。どちらの手を使えばいいのか、しばらく分からなくなった。人前では右、一人のときは左、と決めた。

母は私を叱らなかった。叱る代わりに、よく言った。

「あなたは本家の子ですよ」

そう言うときの母は、嬉しそうだった。私はそれが、いちばん怖かった。

　＊

私が知っていることを、私は一度だけ紙に書いた。六つの冬、手習いの紙の裏に、平仮名で。

　じゅうはちのよる　だんざい
　うみのむこう　しゅうどういん
　じゅうななのふゆ　ちょうめんをやかない
　みおさんを　いじめない

書いてから、火鉢で燃やした。燃やしながら、この身体がいつか同じことを帳面でやるのだと思って、少し笑ってしまった。笑ったところをフミに見られた。フミは何も言わずに火箸で灰をならした。

最後の行は、案外むずかしかった。

七つで入った学院の初等科で、私の周りには、頼みもしないのに女の子たちが集まった。本家の跡取りのそばにいれば得をすると、その家の親たちが教えたのだと思う。女の子たちは、私が嫌な顔をした相手を、私の代わりに虐めようとした。

だから私は、嫌な顔をしないことにした。誰に対しても同じ顔で「ごきげんよう」と言った。そうすると、取り巻きの子たちは何を目印に動けばいいのか分からなくなって、三年もするといなくなった。代わりに、図書室の隅の席が私の場所になった。

小暮さんという下級生に階段で会ったとき、私は手すりのほうへ寄って道を空けた。ゲームの瑠璃は、この階段でこの子を突き飛ばした。小暮さんは眼鏡を押し上げて、ぺこりと頭を下げて、急いで上がっていった。それで終わりだった。何も起きなかったことは、どこにも記録されない。それでよかった。

　＊

九つの夏、私は佐伯の仕事を手伝うようになった。

家令の佐伯は、背の高い、白髪まじりの人だった。屋敷の奥に書庫があって、代々の帳簿と、宗一郎が集めた本が、ほとんど順番なしに押しこまれていた。私はそれを見た日の夜、眠れなかった。

「佐伯さん。あの書庫、並べ直してもいいですか」

「お嬢様がですか」

「本の背に、紙の札を貼ります。帳簿は年ごとに、本は中身ごとに分けます。どこに何があるか、札を見れば分かるようにします」

佐伯は私の顔をしばらく見て、それから「では、夏休みのあいだだけ」と言った。

夏休みは三回続いた。

佐伯は、私が帳簿の頁をめくる速さに、何度か目を丸くした。私は読むのが速い。前の人生で、それだけは誰にも負けなかった。

四つの年の帳簿は、九月の頁が分厚かった。葬儀の払い、親族会の仕出し、星見荘の桟橋の修繕。その中に、一行だけ、別の手で書き足した行があった。

　九月十八日　恭介殿御荷物　南浦　蓬田造船気付　運賃

南浦。

ゲームでは、遼ルートで一度だけ出てくる港町の名前だった。遼と澪が、家を追われた瑠璃の父親を訪ねていく町。一度しか出てこないから、覚えている人は少ない。私は覚えていた。遼ルートのその場面は、あの人が一枚絵の外で喋る数少ない場面だったからだ。

私はその行を三回読んで、帳簿を閉じた。紙に写すことはしなかった。写した紙は、誰かに見つかる。頭の中の棚に、背表紙を一本立てておけばよかった。

　＊

十の春から、小遣いを缶に入れるようになった。

本家の子の小遣いは、思っていたより多かった。私はそれを使わなかった。学院の帰りに友だちが甘味屋へ寄るとき、私は「今日は家の用がありますので」と言って帰った。缶は勉強机の抽斗の奥にあった。

十二の冬、缶を布の袋に移して、学院の鞄の底に縫いつけた。袋の中には、小遣いのほかに、写真が一枚入っていた。

写真帖から一枚だけ剥がしたものだった。作業着の襟のよれた男の人が、赤ん坊を抱いている。写真のために作った笑い顔が、ぎこちない。赤ん坊の左手が、その人の太い指を握っている。

私はこの写真を、毎晩見たわけではない。見ると、九月の窓を思い出した。思い出すと、あの窓の掛け金にまだ手が届かないような気がした。だから、袋の底に入れておいた。いつでも出られるように。

手紙は書かなかった。

本家の子が出す手紙は、佐伯が宛名を確かめて、ときどき伯父がそれを見る。家を追われた男に宛てた手紙など、届く前に伯父の机の上で開かれる。それに、会うなら、自分の足で行きたかった。手紙で「元気ですか」と書いて、あの人が「元気だ」と返す。それでは、四つの窓から何も進まない。

十三で、一臣さまとの婚約の話が出た。

分家の跡取りの一臣さまは十九で、背が高く、無口な人だった。眉がまっすぐで、いつも本を一冊持っていた。伯父が「ゆくゆくは」と言い、一臣さまは「父の決めたことだ」と言って、手の中の本の頁をめくった。私は「はい」と言った。

一臣さまの本は、宗一郎の書庫から借りていったものだった。私が背に貼った札が、まだついていた。

　＊

十四の秋、学院の高等科に、奨学生が一人転入してきた。

小野澪。十五歳。湖の番人の娘。

ゲームより早い。けれどこの世界は、湖の事件からして六年早かったのだから、何が早くても驚かないことにしていた。

澪さんは、日に焼けた健康そうな人だった。肩までの髪を、学院の規則どおり後ろで一つに結んでいる。奨学生の制服は、襟の布が私たちのものより薄い。そして、人をまっすぐに見る。話すとき、相手の目から自分の目を外さない。画面の中では同じくらいに見えた人を、十四の私は見上げなければならなかった。

私は、澪さんを虐めなかった。廊下で会えば「ごきげんよう」と言った。澪さんは少し驚いた顔をして、「ごきげんよう」と返した。それだけだった。

冬になって、図書室で声をかけられた。

放課後で、窓の外はもう暗くなりかけていた。私はいつもの隅の席で、書架の札の貼り替えを勝手にやっていた。澪さんは私の机の前に立って、鞄を胸の前に抱えていた。

「天導さん。少し、よろしいですか」

「どうぞ」

澪さんは座らなかった。

「私の父は、星見荘の番人をしていた小野弥吉です。お屋敷を辞めて、何年かして、病気で亡くなりました」

「……存じています」

「父は亡くなる前に、手紙を残しました。あの夏、奥様が星見荘へ蘆田医院の薬の袋をお持ちになったそうです。春からよく通っておられると、お付きの女中から聞いた、と書いてありました。眠れないとおっしゃって、薬を」

澪さんの声は、震えていなかった。震えないように、息の量を決めて話している声だった。

「天導さん。お母様の、その頃の家計簿を、ご覧になったことはありませんか」

私は札の束を机に置いた。

「どうして、私に訊くんですか」

「天導さんは、私に意地悪をなさらなかったので」

澪さんは、そこで初めて目を伏せた。

「本家の方で、私に意地悪をなさらなかったのは、天導さんだけでした」

　＊

その夜、母は茶会で遅くなった。

私は母の部屋に入った。東の端の、香の匂いの部屋。鏡台の横に、黒塗りの小さな箪笥がある。三段目の抽斗の奥に、藍色の布表紙の帳面が一冊、寝かせてあった。

ゲームでは、瑠璃が十七の冬に暖炉にくべる帳面だ。画面には、炎の中で頁がめくれる一枚絵しか出なかった。何が書いてあったのか、ゲームは最後まで見せなかった。

私は、ずっと探さなかった。

場所の見当はついていた。母は、あの箪笥の三段目だけは女中に触らせなかった。探そうと思えば、いつでも探せた。探さなかったのは、見つけたら、それをどうするか決めなければならないからだった。決めるのは、十七の冬でいいと思っていた。

帳面を開いた。

母の字は細くて、右へ少し傾いていた。米、炭、呉服屋、茶の師匠への謝礼。一月から順に、きちんと並んでいる。四月の欄に、蘆田医院の名前があった。薬代。その行の横の余白に、同じ字で、もっと小さく書き足してあった。

　八月　湖　灯籠　舟屋

四つの言葉だけだった。

四月だった。湖の夜の、四か月前。

私は帳面を膝の上に置いたまま、しばらく座っていた。畳が冷たかった。

五月にも、六月にも、七月にも、蘆田医院の行があった。数えるのはやめた。四月の余白の四つの言葉で、足りていた。

それから、図書館で督促状の文面を考えるときの頭で、順番に並べた。

この帳面を、澪さんに渡したらどうなるか。

母が捕まる。伯父も捕まる。ゲームのTRUEルートでは、伯父の下書きと、医院の処方簿と、何人かの証言が揃って、宗一郎を死なせたのが伯父と母だと明らかになる。宗一郎の遺志で跡取りになった子でも、残るのは、人殺しの手伝いをした女の娘で、しかも、あの夜にいちばん得をした子だ。この家は、そういう子を屋敷に置いておかない。家の恥は遠くへやる。ゲームの瑠璃が送られた海の向こうの修道院には、たぶん、罪状が一つ少なくても同じ船で着く。

この帳面を、燃やしたらどうなるか。

それはゲームの瑠璃がやったことだ。証拠を焼いた罪で、十八の夜に断罪される。同じ船に乗る。

私は帳面を閉じた。

「あ、これ、渡しても燃やしても破滅するやつだ」

声に出していた。母の部屋に、自分の声が思ったより大きく響いた。

司書をしていると、ときどき、どこへ並べても落ち着かない本に出会う。分類の番号をどう振っても、隣の本と話が合わない。そういう本は、棚の問題ではなかった。本のほうの問題だった。

渡すのも、燃やすのも、この家にいる子の選び方だった。この家にいる限り、どちらを選んでも、最後は同じ船に乗る。

私は帳面を抽斗に戻さなかった。学院の鞄に入れた。

　＊

翌日の昼休み、学院の門のところに、フミが来ていた。

風呂敷を抱えていた。守衛に「お嬢様のお弁当を」と言っていた。私は弁当を忘れていなかった。

フミは六十を過ぎて、背中がもっと丸くなっていた。私の顔を見ると、風呂敷を差し出して、そのまま私の手を握った。手が冷たかった。

「お嬢様」

小さな声だった。

「奥様は毎朝、あの抽斗をお開けになります。今朝は、中の物を全部出してお探しでした。お昼前に分家の旦那様がお見えになって、奥様とお話しになりました。お嬢様を今夜から、しばらく離れにお移しすると。学院で騒ぎにはしたくないから、いつも図書室をお出になる時刻に、佐伯さんがお車でお迎えに」

フミの指に力が入った。

「それから、海の向こうへ船を出している会社の方をお呼びするようにと、佐伯さんに」

私はフミの手を見ていた。十年前、熱の額に手拭いを載せてくれた手だった。はい、冷たいですよ、と言いながら。

「フミさん。どうして教えてくれるんですか」

フミは首を振った。

「お嬢様は、お屋敷の階段で、お客様のお子さまにも道をお譲りになる。わたくしは、それを見ておりました」

それだけ言って、フミは手を離した。

「お弁当は、召し上がってくださいまし」

フミは門を出ていった。背中の丸い後ろ姿が、角を曲がって見えなくなった。

風呂敷の中には、弁当箱と、握り飯が三つと、厚い毛糸の襟巻きが入っていた。

私は校舎の窓から、屋敷のある方角の空を見た。冬の空は低かった。

家に戻れば、今夜から離れに入れられる。離れの戸には外から錠がかかる。そのあとは、船会社の人が来る。十八の夜を待たずに、四年早く、同じ船に乗る。

鞄の底には、五年分の小遣いと、写真が一枚、縫いつけてある。

私は弁当の蓋を開けて、ご飯を食べた。食べ終えて、蓋を閉めた。

家には帰らない。

---

# 第三章　夜行列車

放課後の図書室は、火の気がなくて寒かった。

澪さんは、窓際の机にいた。私が来るのを待っていたのか、ただ本を読んでいたのかは、顔を見ても分からなかった。澪さんは本を閉じて立ち上がった。

私は鞄から藍色の帳面を出して、机に置いた。

澪さんは帳面を見て、私を見た。

「四月のところです」と私は言った。「薬代の行の、横の余白」

澪さんは、すぐには手を伸ばさなかった。

「天導さん。これを私に渡したら」

「はい」

「天導さんは、どうなるんですか」

私は少し考えた。本当のことを全部言う時間はなかった。

「私は今日、いなくなります」

「いなくなる」

「家には帰りません。どこへ行くかは、言いません。探さないでください」

澪さんは、まっすぐに私を見た。人の目から目を外さない人の目だった。しばらくそうしていて、それから、小さく頷いた。

「……分かりました。天導さんが、そうしてほしいなら」

澪さんは帳面を両手で取って、胸に抱いた。私は母の細い字を、もう一度だけ見たいような気がした。見なかった。

図書館の本は、読みたい人のところへ行くためにある。私は司書になってから、ずっとそう思って働いてきた。あの帳面を必要としている人は、この部屋に一人しかいなかった。

それから、私は鞄からもう一冊出した。学院の図書室の蔵書印が押してある、布表紙の地図帳だった。

「これも、お願いします」

「これも、証拠ですか」

「返却です。期限が来週の火曜なので」

澪さんは地図帳を受け取って、少し黙った。それから、初めて笑った。口の端だけが、困ったように上がった。

「天導さんって、そういう方だったんですね」

「そういう方でした」

地図帳の南の頁は、もう全部覚えていた。

図書室を出ると、私は裏門へ回った。いつもなら、まだ本を読んでいる時刻だった。

　＊

夜行が出るまで、まだ何時間もあった。停車場で待つには、学院の制服は目立ちすぎた。

私は屋敷と反対の方角にある市立図書館へ入った。入口の札には、閉館は八時とあった。閲覧室の奥で分厚い本を開き、鞄を膝に置いた。扉が開くたびに、同じ行から読み直した。

閉館の声を聞いて外へ出ると、フミの襟巻きを顎まで引き上げた。着替えを買うのは、南浦に着いてからでいい。

帝都の中央停車場は、夜になっても人が多かった。私は大きな鞄を提げた人たちの後ろについて、切符売り場へ急いだ。

切符の窓口で、「南浦まで、三等を一枚」と言った。

窓口の人は私の制服を見て、少し眉を上げた。

「お一人で」

「祖母のところへ参ります。急な病で」

口から出たのは、図書館の窓口で延滞の言い訳を何百回と聞いてきた人間の、いちばんありふれた作り話だった。窓口の人は頷いて、切符に鋏を入れた。

夜行は九時に出た。

三等車の座席は板張りで、背もたれがまっすぐだった。向かいに行商のおばあさんが座っていて、膝の上の籠から蜜柑を出して、一つ私にくれた。

「寒いねえ、お嬢ちゃん」

「はい」

私はフミの握り飯を一つ食べて、蜜柑を食べた。おばあさんは次の次の駅で降りた。降りるとき、「気ぃつけてな」と言って、もう一つ蜜柑を私の膝に置いていった。

車両には、ほかに人がほとんどいなかった。奥のほうで男の人が一人、帽子を顔に載せて眠っていた。

私は窓の外を見た。暗くて、何も見えなかった。硝子には車内の電灯と、私の顔が映っていた。十四の、頬にまだ丸みの残った顔。フミの襟巻きに顎まで埋まっている。

鞄を膝に抱えた。底に縫いつけた袋の、写真の角が、布越しに指に当たった。

九月の窓のことを考えた。掛け金に手が届かなくて、両手で硝子を叩いた日のこと。あの日から、ずいぶん遠くまで来た気がした。まだ半分も来ていなかった。

　＊

夜中を過ぎて、汽車は山にかかった。

線路の音が変わった。車輪が鉄を噛む音が低くなって、車体がゆっくり傾いた。窓の外の暗さの質が変わった。夜の暗さから、もっと近くて硬い暗さになった。

トンネルだった。

長いトンネルだった。耳の奥が詰まって、唾をのみこむと、ぷつんと音がした。天井の電灯が一度またたいて、消えて、またついた。煤の匂いが、窓の隙間から入ってきた。

私は目を閉じた。

線路の音だけが続いた。どれくらい続いたのかは、分からなかった。眠っていたのかもしれない。

音が、ふっと軽くなった。

目を開けると、窓の外が明るかった。月が出ていた。山の斜面の向こうに、海が見えた。月の光が、細い帯になって水の上に延びていた。

窓硝子に、顔が映っていた。

十四の顔ではなかった。

頬の丸みが消えていた。顎の線が細くなって、目の形がはっきりしていた。切れ長で、少しきつい。母に似た目だった。黒い髪が、肩のあたりで襟巻きに押されて広がっている。

私はその顔を知っていた。

ゲームの立ち絵だった。十八歳の、成年披露の夜の天導瑠璃。私が何十回も、断罪の場面で見た顔。

私は硝子に手を当てた。硝子の中の人も、手を当てた。指が長かった。

不思議な力で時空が歪み、瑠璃は現代の基準で成人とされる十八歳になった。未成年者ではなくなった。

　＊

服がきつかった。

制服の袖が、手首の骨の上で止まっていた。肩の縫い目が突っ張って、腕を前に出すと背中がきしんだ。靴の中で、爪先が曲がっていた。

私は靴を脱いだ。

足袋の足を座席に上げて、膝を抱えた。フミの襟巻きだけは、首にちょうどよかった。毛糸は伸びる。

窓の外で、海が少しずつ近くなった。

私は硝子の顔をもう一度見て、それから、鞄の底の写真のことを考えた。写真の中の赤ん坊は、この顔を知らない。写真の中の男の人も知らない。

それでいい、と思った。会いに行くのは、写真の中の赤ん坊ではない。

私は、眠った。

　＊

南浦には、朝の七時に着いた。

改札を出たとたん、潮の匂いがした。駅前の坂の下に港があって、その向こうに、背の高い鉄の骨組みが何本も立っていた。起重機だ。槌の音が、坂の上まで届いていた。かん、かん、と、間を置かずに。

駅前の古着屋が、ちょうど戸を開けたところだった。

私は制服の上から羽織れる紺の綿入れを一枚と、草履を一足買った。店のおばさんは私の足を見て、「お姉さん、足大きいねえ」と言って、奥から大きいほうの草履を出してきた。

学院の靴は、風呂敷に包んだ。フミの弁当箱と一緒に。

坂を下りた。

港の手前に、黒い板塀が長く続いていた。塀の上から、組みかけの船の肋骨のような木組みが見えた。門柱に、墨の太い字の看板がかかっていた。

蓬田造船所。

門は開いていた。朝の作業の人たちが、材木を担いで出入りしていた。

私は門の前で、一度だけ立ち止まった。

帳簿にあったのは、荷物の送り先だった。もう勤め先が変わっていても、ここなら行き先を聞けるかもしれない。

ゲームでは、門の外に立っているのは、あの人のほうだった。荷物を一つだけ持った瑠璃が、屋敷の門を出てくるのを待っていた。

今度は、私が荷物を一つだけ持って、門の外に立っている。

私は、門をくぐった。

---

# 第四章　昔、私を抱いていた人

門の中は、木屑の匂いがした。

地面に鉋くずが積もっていて、草履の裏がふかふかと沈んだ。右手に長い屋根の作業場があって、左手の水際に、組みかけの船が一隻、木の台の上に載っていた。船の横腹はまだ半分しか板が張られていなくて、張られていないところから、肋骨のような骨組みが朝の空を透かしていた。

材木を担いだ若い人が、私の前で止まった。

「姉ちゃん、どこの人や。事務所なら、あっちやで」

「天導恭介さんを、探しています」

「恭さん？」

若い人は材木を担ぎ直して、顎で水際を指した。

「恭さんなら船台や。あのでかいの」

船の横に足場が組んであった。いちばん上の段に、男の人が一人しゃがんで、板の継ぎ目に何かを当てていた。

大きな人だった。

作業着の背中が、足場の手すりより幅があった。首に手拭いを巻いて、袖をまくった腕が日に焼けて黒い。下から「恭さん、お客や」と若い人が怒鳴ると、その人は顔を上げて、こちらを見下ろした。

「わしにか」

声が低かった。槌の音の中でも、はっきり聞こえた。

その人は道具を腰に差して、足場を下りてきた。一段ずつ、右足を少し庇うようにして下りた。最後の段から地面へ下りると、私の前に立った。

見上げなければならなかった。

顎に無精ひげが伸びていた。目尻に深い皺があって、日焼けした額の生え際に、白いものが少し混じっていた。手拭いで手を拭いている。その指が、太かった。私の指を二本合わせても、あの一本に足りないと思った。

「わしに何の用かな」

その人は、私の顔を見ていた。どこかで会ったかどうか思い出そうとして、思い出せない人の顔だった。

私は、この場面を何度も考えていた。汽車の中でも、古着屋でも、坂を下りながらでも。何を最初に言うか。

ゲームでは、門の外で、この人が言う。昔、あなたを抱いていた者だ、と。

私は、それを返すことにしていた。

「昔、私を抱いていた人ですよね」

その人は、手拭いを持ったまま止まった。

意味の分からない言葉を聞いた顔だった。それから、少し困った顔になった。人違いをされたと思ったのかもしれない。

私は綿入れの懐から、写真を出した。

鞄の底の袋で、角が丸くなった写真だった。作業着の襟のよれた男の人が、赤ん坊を抱いている。赤ん坊の左手が、男の人の太い指を握っている。

その人は写真を見た。

長いあいだ見ていた。手拭いが、指のあいだから落ちた。拾わなかった。

それから、写真を持っている私の手を見た。

「……左で持つのは、変わらんな」

小さな声だった。

その人は顔を上げて、私を見た。さっきとは違う見方だった。

「瑠璃か」

「はい」

その人は、何か言おうとして口を開けて、閉じた。もう一度開けて、また閉じた。手をどこに置けばいいのか分からないみたいに、作業着の腿のところで何度も拭いた。拭くものは、もう何もついていなかった。

「……大きゅうなったな」

やっと出てきたのが、それだった。

私は頷いた。

その人はまた黙った。周りで槌の音が続いていた。若い人たちが、材木を担いだまま、遠巻きにこちらを見ていた。

「腹は、減っとらんか」

　＊

造船所の門を出たところに、一膳飯屋があった。

恭介さんは、戸を開けて「ばあさん、定食を大盛りで一つ」と言った。一つだった。

私の前に、麦飯と、鰯の煮たのと、味噌汁と、卵焼きが並んだ。麦飯は丼に山盛りだった。恭介さんは向かいに座って、湯呑みを両手で包んで、私が箸を取るのを見ていた。

私は食べた。

昨夜の握り飯のあと、蜜柑を二つ食べただけだった。麦飯が甘かった。鰯の骨まで柔らかかった。

恭介さんは自分の前に何も置いていなかった。

「恭介さんは、食べないんですか」

「わしは、さっき食うた」

その人のお腹が鳴った。

ぐう、と、低い声と同じくらい低い音で鳴った。飯屋のおばあさんが、台所の奥で吹き出した。

恭介さんは湯呑みを置いて、耳の後ろを掻いた。

「……朝のは、朝のだ」

何の言い訳にもなっていなかった。それから、私の卵焼きの皿を、私のほうへ押した。もう私の前にあるのに、もっと押した。皿が丼に当たって、かちんと鳴った。

私は笑ってしまった。

笑いながら、麦飯を口に入れて、むせた。恭介さんが慌てて湯呑みを差し出して、それが自分の飲みかけだと気づいて、引っこめて、おばあさんに「水をくれ」と言った。

ゲームのこの人を思い出すとき、いつも浮かぶのは、門の外の三行だった。

送っていこうか。昔、あなたを抱いていた者だ。門柱の影の、日に焼けた横顔。その一枚のために全ルートを回った。あの横顔は、何も言わなくても全部分かっている人の顔だった。

目の前の人は、何も分かっていなかった。

嘘が下手で、お腹が鳴って、皿を押しすぎる。湯呑みを出したり引っこめたりする。水の入った茶碗を受け取った私が、ちゃんと飲むまで、自分は息を止めて見ている。

あ、好きだ、と思った。

思ってから、困った。

一枚絵の人ではなく、この人が好きだった。麦飯の湯気の向こうで、耳の後ろを掻いている、この人が。

私はもう一口、麦飯を食べた。困ったままでも、お腹は空いていた。

　＊

食べ終えてから、恭介さんは、なぜ一人で来たのかを訊いた。

私は、短く話した。母の帳面のこと。家に戻ったら離れに入れられて、海の向こうへやられるところだったこと。帳面は、湖の番人の娘に渡してきたこと。

恭介さんは、途中で一度も口を挟まなかった。聞き終えると、湯呑みの底を見て、長く息を吐いた。

「よう来た」

それだけだった。

「あの家のことは、わしはもう、何も言える立場にない。紙に名前を書いたからな。あの親族会で、藤乃とも離縁した」

「法律の上では、もう親子じゃないんですよね」

「紙のことは、よう分からん」

恭介さんは、湯呑みを置いた。

「お前は、わしが抱いとった子だ。それで足りる」

私は、その言葉を大事に聞いた。大事に聞いて、少しだけ、胸の端のほうが痛んだ。

この人は、私を娘として迎えている。

当たり前だった。この人にとって私は、あの写真の赤ん坊で、四つで別れたきりの子どもだった。いま目の前で麦飯を食べていた人が、門の外の一枚絵を見たくて全ルートを回った女だとは、思うはずもない。

「九月の窓のこと、覚えてますか」と、私は訊いた。

恭介さんは顔を上げた。

「二階の窓か」

「はい」

「手を振っとったな。両手で」

私は息を止めた。

「見えてたんですか」

「見えとった」

恭介さんは、飯屋の窓の外の港を見た。

「振り返そうと思うた。振り返したら、あの家の誰かに見られて、お前が叱られる。それで、帽子しか触れんかった」

恭介さんは、湯呑みをまた両手で包んだ。

「わしが最後に見たお前は、あれだ。窓硝子に、ちっこい手を二つ、ぺたっとつけとった」

私は、卓の下で、自分の手を握った。いまの私の手は、指が長かった。

　＊

恭介さんの家は、造船所の裏の長屋の端だった。

土間と、板の間と、奥の六畳。板の間には図面が何枚も広げてあって、その上に定規と墨壺と、飲みかけの湯呑みが三つ載っていた。部屋じゅうに木屑の匂いがした。

恭介さんは、奥の六畳に積んであった図面の束を、両腕で抱えて板の間へ運んだ。三往復した。

「ここを使え」

「恭介さんは」

「わしはこっちで寝る。慣れとる」

恭介さんは、造船所の親方の家へ布団を借りに行った。

昼過ぎに、恭介さんが、親方のおかみさんと一緒に戻ってきた。

おかみさんは、ふっくらした、声の大きな人だった。布団を一組と、風呂敷包みを一つ抱えていた。

「恭さんが、娘さんの着るもんを買うてやりたい言うてな。うちが一緒に行ってきたんよ。朝、門のとこで若い衆と話しとるのを見たからな。寸法は大丈夫やで」

風呂敷の中は、木綿の着物が一枚と帯と、下駄だった。着物の地は赤くて、白い手毬の柄が散っていた。

私は手毬を見た。それから恭介さんを見た。

「柄は恭さんが選んだんよ」とおかみさんが言った。「うちは、もうちょっと落ち着いたのにしい言うたんやけどな」

恭介さんは、土間で下駄の鼻緒を、太い指で揉んでやわらかくしていた。こちらを見なかった。

「……似合うと思うたんだ」

七つの子の晴れ着みたいだった。

私はそれを着た。寸法は、おかみさんの言うとおり、ぴったりだった。手毬が袖で転がっていた。

恭介さんは、着替えて出てきた私を見て、うん、と一度頷いた。それから、少し笑った。写真のために作った笑い顔より、ずっと下手な笑い方だった。

「よう似合う」

おかみさんが、後ろで何とも言えない顔をしていた。

　＊

夕方、私は港の通りの文房具屋で、帳面を一冊買った。

藍色ではない、茶色の表紙の、いちばん安いものにした。

夜、奥の六畳で、借りた布団の上に腹這いになって、最初の頁を開いた。板の間のほうから、恭介さんが図面を片づける音がしていた。定規が板に当たる音。ときどき、ひとりごとのように数を読む低い声。

私は、左手で鉛筆を持った。この家では、どちらの手で書いてもいい。

　恭介さんに会ってから、一日目。
　お腹が鳴った。さっき食うた、と言った。
　卵焼きの皿を、もう私の前にあるのに、もっと押した。
　手を振ったのを、見ていてくれた。
　手毬の着物。似合うと思うたんだ、と言った。

書いてから、読み返した。

日記だった。誰がどう読んでも、恋の日記だった。

私は帳面を閉じて、枕の下に入れた。

---

# 第五章　わしの中では四つだ

造船所の事務所の奥に、図面庫があった。

六畳ほどの板の間に、丸めた図面と帳簿と、船主との手紙が、床から天井まで押しこまれていた。九つの夏に見た本家の書庫と、同じ顔をしていた。

三日目の朝、私は親方に頼んだ。

「ここ、並べ直してもいいですか」

親方の蓬田さんは、胡麻塩頭を短く刈った小柄な人で、いつも耳に鉛筆を挟んでいた。私の顔と図面庫を見比べて、「恭さんの娘さんか」と言った。

「はい」

「好きにしてええ。どうせ誰も、どこに何があるか分からん」

十日かかった。

図面は船ごとに、船は竣工の順に並べた。一本ずつ紐を掛けて、紙の札を下げた。札には船の名と、船主と、竣工の月を書いた。帳簿は年ごとに、手紙は船主ごとに分けた。棚の端に、どの船の図面がどの段にあるかの一覧を貼った。

その次の日に、親方が七年前の汽船の図面を探しに来た。私は札を見ずに、上から三段目の右から四本目を抜いて渡した。

親方は図面を広げて、しばらく何も言わなかった。それから、耳の鉛筆を取って、また挟んだ。

「恭さん。あんたの娘は、えらい仕事をする」

その日から、私は図面庫の番になった。給金も出ることになった。

　恭介さんに会ってから、十三日目。
　親方に褒められた。
　恭介さんは、そうか、と言った。夕飯のとき、もう一回、そうか、と言った。
　三回目は、布団に入ってから、板の間のほうで言った。

　＊

おかみさんは、昼になると事務所に茶を持ってきた。

「灯ちゃん」とは、おかみさんは呼ばない。「瑠璃ちゃん」と呼ぶ。この町では、私は恭さんの娘の瑠璃ちゃんだった。

「瑠璃ちゃんは働き者やねえ。ええお嫁さんになるわ」

「なります」と私は言った。「恭介さんの」

おかみさんは、お盆を抱えて笑った。大きな声で笑って、目尻の涙を指で拭いた。

「ほんまに、あんたは恭さんが好きやねえ。あんな無口なお父ちゃん、よう懐いたもんや」

冗談だと思われていた。

冗談だと思われたまま、私は茶を飲んだ。熱かった。

　恭介さんに会ってから、十五日目。
　朝、恭介さんが卵を焼いた。黒かった。
　わしは焼くのは得意だ、と言った。船の板を火で曲げる話だった。

　＊

作戦を立てた。

図書館で企画展の計画を立てるときと、同じやり方にした。目的を一行で書く。手段を並べる。一つずつ試す。

目的：恭介さんに、娘ではなく一人の大人として見てもらう。

一つ目は、弁当だった。

朝、恭介さんより早く起きて、麦飯を詰めて、卵焼きを焼いた。卵焼きは、少し焦げた。昼に船台へ持っていった。

恭介さんは足場の上から下りてきて、弁当の包みを受け取った。蓋を開けて、焦げた卵焼きを見た。

「お前が作ったんか」

「はい」

「えらいな」

恭介さんは、私の頭を撫でた。二回撫でた。周りの若い人たちが「恭さん、ええなあ」と言った。恭介さんは「ええだろう」と言った。

撫でられた頭が、温かかった。温かくて、作戦としては失敗だった。

二つ目は、髪だった。

おかみさんに教わって、髪を上げた。首の後ろがすうすうした。借りた鏡の中の顔は、汽車の窓で見た顔と同じで、それよりは少し、目の形がやわらかかった。

夕方、恭介さんが帰ってきた。土間で私を見て、止まった。

しばらく見ていた。

「……大人みたいだな」

「大人です」

「そうか」

恭介さんは草履を脱いで、板の間に上がった。上がってから、振り返った。

「首、寒うないか」

私は首の後ろに手を当てた。寒かった。

　恭介さんに会ってから、十九日目。
　大人みたいだな、と言われた。みたい、がついていた。
　首が寒いか、と訊かれた。寒かった。

　＊

図面庫の仕事に慣れたころ、夕飯のときに恭介さんが訊いた。

「お前、あの札の付け方は、どこで覚えた。学院か」

私は箸を置いた。

どう答えるか、少し迷った。それから、半分だけ本当のことを言うことにした。

「夢で、です」

「夢」

「小さいころから、ときどき同じ夢を見るんです。夢の中の私は、大きな町の図書館で、本を貸す仕事をしています。本に札を貼って、棚に並べて、借りに来た人に渡すんです。名前も違って」

「何という名だ」

「灯、です。灯りの灯で、ともし」

恭介さんは、湯呑みを持ったまま、口の中で「ともし」と一度言った。

笑われるかと思った。笑わなかった。夢の話を、夢の話のまま聞いている顔だった。

「ええ名だ」

恭介さんは、湯呑みを置いた。

「夜の船は、港の灯が見えんと入ってこられん。灯のない港には、誰も寄らん」

それだけ言って、恭介さんは味噌汁を飲んだ。

私はしばらく、自分の名前を人に褒められたことがあったかどうか考えた。一度もなかった。図書館の窓口では、名札の「立花」しか読まれなかった。

　＊

作戦の三つ目は、作戦ではなかった。

夜、板の間で、恭介さんが図面を引いていた。洋燈の下で、定規を当てて、墨の線を一本ずつ延ばしていた。背中が丸かった。

私は奥の六畳の敷居のところに座って、その背中を見ていた。

見ていたら、言ってしまった。

「恭介さん。私、恭介さんが好きです」

墨の線が止まった。

恭介さんは筆を置いて、振り返った。私の顔を見て、それから、困った顔をした。船台の下で、写真を見る前にした顔と同じだった。意味の分からない言葉を聞いた人の顔。

それから、その顔が、少しだけ和らいだ。

「子どもはそういうことを言わんでいい」

「もう十八です」

恭介さんは、首の手拭いを取って、畳んで、膝の上に置いた。

「わしの中では四つだ」

低い声だった。叱る声ではなかった。

「窓に手をつけとった、あの子のまんまだ。わしは、あそこから先を見とらん。見とらんものは、よう数えられん」

恭介さんは、手拭いの上に手を置いた。

「お前が大きゅうなったのは、分かっとる。分かっとるが、わしの中の瑠璃は、まだ四つで、窓のとこにおる。……それで、ええんだ」

私は何か言おうとした。

言えなかった。この人の中の四つの子は、この人が窓の日からずっと、ひとりで持ち歩いてきたものだった。それを取り上げて、代わりに私を置けと言うのは、今夜はできなかった。

「寝え。明日も早い」

恭介さんは洋燈のほうへ向き直って、また筆を取った。墨の線が、さっきの続きから延びていった。

　恭介さんに会ってから、二十四日目。
　好きです、と言った。
　子どもはそういうことを言わんでいい、と言われた。
　もう十八です、と言った。
　わしの中では四つだ、と言われた。
　四つの私は、あの人の中の窓のところにいるらしい。
　少し、うらやましい。

　＊

帝都の新聞は、南浦には一日遅れで届く。

三十日目の夕方、恭介さんが、新聞を一部持って長屋へ帰ってきた。事務所の机に置いてあったものだった。

恭介さんは、板の間に座って、新聞を広げた。

私は土間で、鍋の火を見ていた。見ているふりをして、恭介さんを見ていた。

社会面の、下のほうの記事だった。帝都の名家、天導家の先の当主が湖で亡くなった件で、警察が分家の当主と、その妹を捕らえた。記事は、そういうことを、硬い字で短く書いていた。

恭介さんは、その記事を長いあいだ読んでいた。

短い記事だった。何度も読み返しているのだと思った。

それから、新聞を畳んだ。角を合わせて、きちんと四つに畳んだ。

「ちょっと、出てくる」

恭介さんは草履をつっかけて、出ていった。

私は鍋の火を落として、少し待ってから、後を追った。

恭介さんは、造船所の船台の下にいた。組みかけの船の、まだ板の張られていない腹の下に座って、骨組みの隙間から夜の空を見ていた。

私は、隣に座った。恭介さんは何も言わなかった。追い返しもしなかった。

しばらくして、恭介さんが言った。

「わしは、あの人の亭主だった」

「はい」

「何も見えとらんかった。あの人が何を考えとるのかも、お前が誰の子かも、あの晩、お前が舟屋で眠らされとったのも」

恭介さんの声が、少し掠れた。

「わしが湖におったら、と、ずっと思うとった」

私は膝を抱えた。

ゲームの筋を、全部話すことはできなかった。それでも、一つだけは言えた。

「恭介さんは、あの日、湖にいなかったんじゃないです。いられないようにされたんです。電報で」

恭介さんは、私のほうを見た。

「……電報のことを、誰に聞いた」

「帳面を読んだ人には、分かることです」

嘘だった。帳面に、電報のことは書いていなかった。私が知っているのは、画面の中で読んだからだ。その話はできないから、帳面のせいにした。

恭介さんは、また空を見た。

「そうか」

それから、長く息を吐いた。

「そうか」

私たちは、船の腹の下で、しばらく座っていた。夜の港で、どこかの船の灯が、ゆっくり動いていた。

　＊

翌朝、私は手紙を書いた。

便箋は、港の文房具屋でいちばん上等なものを買った。

　天導藤乃様

　恭介さんと暮らしています。
　恭介さんは元気です。朝、卵を焦がします。
　法律上は他人です。あなたが名前を書かせた紙のおかげです。
　結婚するつもりです。

　お返事は要りません。

　瑠璃

封筒の表に、帝都の監獄の名と、母の名を書いた。裏には何も書かなかった。差出人の住所を書けば、あの人はこの長屋に手紙を寄越すかもしれない。恭介さんに宛てて、何かを。

郵便局の窓口で切手を貼って、差し出した。

母は、この手紙を読むだろう。読んでも、ここへ来ることはできない。私を叱ることも、髪を梳くことも、左の箸を右に持ち替えさせることもできない。

郵便局を出たら、潮の匂いがした。

私は気分がよかった。

それから、ときどき書いた。

書くのは、決まって、子ども扱いされた日の夜だった。恭介さんに頭を撫でられた日、飴をもらった日、夜道で「ほれ、手」と言われて、迷子の子どもみたいに手を引かれた日。胸の中に置き場所のないものがたまると、私は上等な便箋を出して、母に書いた。

　天導藤乃様

　今日は恭介さんに飴をもらいました。
　まだ結婚していません。するつもりです。

　瑠璃

返事は待たなかった。返事の宛先を渡さなかったのは、私のほうだった。

　＊

四月二十日の朝、恭介さんは、いつもより早く家を出た。

夕方、帰ってきて、土間で何かを後ろに隠していた。回した手が片側へ寄っていて、隠しているものの端が、脇腹の横から見えていた。

「今日は、誕生日だろう」

「覚えてたんですか」

「四月二十日だ。忘れん」

恭介さんは、後ろに回していた手を、前に出した。

木の舟だった。

掌に載るくらいの小さな舟だった。船体が滑らかに削ってあって、船首が少し反っている。帆柱が一本。帆は薄い布で、糸で縫いつけてある。底を返すと、鉛が埋めてあった。

「……舟」

「五つの誕生日にやるつもりで、作りかけとった」

恭介さんは、耳の後ろを掻いた。

「行李に入れて持ってきて、それきりになっとった。帆をつけて、底に鉛を入れた。ちゃんと浮く。盥で試した」

私は、舟を両手で持った。

五つの子のための舟だった。十九になった日に、手の中にあった。

子ども扱いだった。どこからどう見ても、子ども扱いだった。

私は舟を持ったまま、背伸びをした。背伸びをしても届かなかったので、恭介さんの作業着の袖を引いた。恭介さんが「ん」と言って屈んだ。

私は、恭介さんのほっぺに口づけをした。

無精ひげが、唇にちくちくした。木屑の匂いがした。

恭介さんは、屈んだまま止まった。

長いあいだ止まっていた。土間の外を、自転車が一台、鈴を鳴らして通り過ぎた。

それから、恭介さんはゆっくり身体を起こして、口づけされた頬を、太い指で一度こすった。

「……家族だからな」

そう言って、草履を脱いで、板の間に上がった。上がってから、図面の前に座って、定規を持った。定規の向きが逆だった。

　恭介さんに会ってから、五十九日目。
　五つの誕生日の舟をもらった。ちゃんと浮くらしい。盥で試したらしい。
　ほっぺに口づけをした。
　家族だからな、と言われた。
　家族なら、していいことらしい。
　定規が逆だった。

その夜、私は上等な便箋を出した。

　天導藤乃様

　恭介さんのほっぺに口づけをしました。
　家族だからな、と言われました。
　まだ結婚していません。するつもりです。

　瑠璃

---

# 第六章　進水式

図面庫の棚の、いちばん新しい段に、札が一枚下がっていた。

私が来た朝、船台の上で板を半分張りかけていた船の札だった。造船所が自分のところで使う曳船で、恭介さんが図面を引いた。船主がいないから、名前も決まっていない。札には、船の大きさと、起工の月だけを書いて、名前の欄には「未定」とだけ書いておいた。

夏のあいだに、船の腹には全部の板が張られた。

　＊

八月十五日の夜、南浦の港でも灯籠を流した。

湖の灯籠とは違って、港の灯籠は、引き潮に乗って沖のほうへ出ていく。岸壁に町の人たちが並んで、紙の灯籠に火を入れて、一つずつ水に置いていた。

恭介さんは、灯籠を一つ買って、岸壁にしゃがんだ。蝋燭に火を移すのに、三回、燐寸を折った。

「宗一郎さんに」

恭介さんは、そう言って、灯籠を水に置いた。

私は恭介さんの横顔を見た。宗一郎は、あの家で母が愛した人だった。この身体の、血の上の父親だった。恭介さんは、その人の名を、何でもないことのように呼んだ。

「宗一郎さんには、よう世話になった。船の話を、いちばん面白がって聞いてくれたのは、あの人だった」

灯籠は、岸壁を離れて、ゆっくり沖へ流れていった。

私は灯籠を二つ買った。

一つに火を入れて、水に置いた。懐中時計の蓋を開けてくれた、細い指の人に。

もう一つにも火を入れた。

「二つか」と恭介さんが言った。

「一つは、おじさまに」

「もう一つは」

「内緒です」

恭介さんは、それ以上は訊かなかった。「そうか」とだけ言って、私が二つ目の灯籠を水に置くのを見ていた。

四つの夏の朝より前に、この身体で縁台に座っていた子がいた。パパの指に持ち上げられて、天井の近さに笑っていた子。私はその子の記憶を、絵本の抜けた頁みたいに少しだけ持っている。二つ目の灯籠は、その子に流した。

二つの灯籠は、少し離れて、同じ潮に乗っていった。

　＊

秋の初めに、機関が載った。塗料の匂いが、長屋まで届くようになった。

「恭介さん。あの船の名前、決まりましたか」

夕飯のとき、私は訊いた。

「まだだ」

十日たって、また訊いた。

「まだだ」

進水式の日取りが決まっても、恭介さんは「まだだ」と言った。親方が「恭さん、名前がなかったら、船名板が彫れんがな」と言うと、恭介さんは「わしが彫る」と言った。

それから何日か、恭介さんは夜遅くまで板の間で何かを削っていた。私が覗こうとすると、背中で隠した。大きな背中だったので、よく隠れた。

　恭介さんに会ってから、二百一日目。
　船の名前は、まだらしい。
　夜、何かを削っている。見せてくれない。
　背中が大きいので、何も見えない。

　＊

進水式の前の晩、私は船台へ行った。

船はもう、台の上で、海のほうへ船尾を向けていた。塗りたての黒い腹が、港の灯を映して濡れたように光っていた。船首の、名前を入れるところには、白い布がかけてあった。

恭介さんは、船台の下で、滑り台の板に獣脂を塗る若い人たちに、何か言っていた。言い終えて、振り返って、私に気づいた。

「どうした。冷えるぞ」

「恭介さん」

私は、恭介さんの前に立った。

「私、やっぱり、恭介さんが好きです」

恭介さんは、黙った。

「娘として、ではないです。四つの子として、でもないです。十九の私が、いまの恭介さんを好きです。卵を焦がすところも、お腹が鳴るところも、定規を逆に持つところも」

言いながら、少し恥ずかしくなった。定規のことは、言わなくてもよかった。

恭介さんは、私の顔を見ていた。

長いあいだ見ていた。船台の下で写真を見たときのように。困った顔でも、和らいだ顔でもなかった。何かを量るような顔だった。

それから、目を船のほうへやった。

「明日は朝が早い」

恭介さんは言った。

「お前も来い。いちばん前だ」

それだけだった。答えではなかった。けれど、「子どもはそういうことを言わんでいい」とも、言わなかった。

　＊

進水式の朝は、よく晴れた。

船台の周りに、紅白の幕が張られていた。造船所の人たちが、みんな法被を着ていた。港の人たちも、町の子どもたちも、見物に集まっていた。船首から、太い綱が一本、式台のほうへ延びていた。支綱だった。この綱を切ると、船を留めていたものが外れて、船は滑り台を下りて海へ出る。

私は、給金で買った紺の着物を着ていった。手毬の柄のは、畳んで行李にしまってある。

恭介さんは、私を見て、少し眉を上げた。

「手毬のは、どうした」

「今日は、こっちです」

「手毬のも、よう似合うとったのに」

おかみさんが、横で天を仰いでいた。

式台の上で、親方が短い挨拶をした。それから、式台の上の小さな銀色の斧を、手で示した。

「支綱は、女の人が切るもんや。恭さん、誰にする」

恭介さんは、私の背中を軽く押した。

「瑠璃に」

造船所の人たちが、わっと声を上げた。若い人が「恭さん、ええなあ」と言った。恭介さんは、今日は何も言い返さなかった。

私は式台に上がった。

斧は、思っていたより軽かった。綱は、思っていたより太かった。親方が「思い切りな。一回で」と小声で言った。

私は斧を振り下ろした。

綱が切れた。

船首の上で薬玉が割れて、紙吹雪と、鳩が二羽、飛び出した。船が、ゆっくりと動き出した。最初は止まっているのと見分けがつかないくらいゆっくりで、それから、滑り台の獣脂の上を、どんどん速くなった。船尾が海に入って、大きな白い波が立った。見物の人たちが歓声を上げた。

船首の白い布が、風にめくれて、落ちた。

船名板があった。木の板に、太い字が彫ってあった。墨を入れた彫り跡が、朝の光で黒々としていた。

　灯丸

私は、斧を持ったまま、その字を見ていた。

「ともしび丸や」と、若い人が読み上げた。「ええ名前やな」

「港の灯か」と、別の人が言った。

「恭さん、なんの名や」

恭介さんは、答えなかった。

船が海の上で、ゆっくり揺れて、止まった。水の上に、自分の影を落として浮かんでいた。傾かなかった。恭介さんは腕を組んで、それを見ていた。

私は、式台を下りて、恭介さんの隣に立った。

「恭介さん」

「ん」

「あれは、何の名前ですか」

恭介さんは、船を見たままだった。

「船の名前だ」

それだけ言った。

私は、船名板の字を、もう一度見た。

港の人たちは、ともしび丸と読んでいた。夜の船が入ってくるための、港の灯。恭介さんが夕飯のときに言っていたことだった。そういう名前なのかもしれなかった。

私は、別の読み方を一つ知っていた。夢の話として、夕飯のときに一度だけ話した名前。

どちらなのかは、恭介さんが言わない限り、分からない。恭介さんは、たぶん、言わない。

私も、盆の灯籠の二つ目を、誰のためのものか言わなかった。おあいこだった。

それで、よかった。今日のところは。

　＊

式のあとで、餅まきがあった。

船台の上から、造船所の人たちが紅白の餅を撒いた。町の子どもたちが、歓声を上げて走り回った。私は拾わなかった。拾う年ではない、と思った。

恭介さんが、人の頭の上に手を伸ばして、飛んできた餅を一つ、片手で取った。紅いほうだった。

それを、私の手に載せた。

「ほれ」

「……私、もう十九です」

「知っとる」

恭介さんは、そう言った。

私は顔を上げた。

恭介さんは、私の頭に手を置いた。二回撫でた。

「子どもは、餅を拾え」

大きな手が、頭の上から離れていった。恭介さんは、祝い酒の樽のほうへ、親方に呼ばれて歩いていった。右足を少し庇う歩き方で。

私は、紅い餅を両手で持って、その背中を見ていた。

知っとる、と言った。

それから、子どもは餅を拾え、と言った。

どちらも、あの人は本気で言っていた。

　＊

その夜、私は便箋を出した。

　天導藤乃様

　恭介さんの造った船に、名前がつきました。
　何の名前かは、教えてもらえませんでした。
　まだ結婚していません。するつもりです。

　瑠璃

それから、茶色の表紙の帳面を開いた。二冊目の、半分を過ぎたところだった。

　恭介さんに会ってから、二百十四日目。
　船の名前は、灯丸。
　何の名前かは、言ってくれなかった。船の名前だ、と言った。
　もう十九です、と言った。知っとる、と言った。
　それから、頭を撫でられた。二回。
　子ども扱いは、まだ止まない。

板の間のほうから、恭介さんのいびきが聞こえていた。祝い酒のせいで、いつもより大きかった。

枕元の棚には、五つの誕生日の木の舟が載っている。その横に、紅い餅が一つ。

私は鉛筆を持ち直して、最後の行の下に、もう一行書き足した。

　止めさせるのは、明日からにする。

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# 第五編　澪編

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# 第一章　毎晩の夢

学院に来た年の四月。

　＊

帝都に来た最初の晩、湖の夢を見ました。

夕方で、板の隙間から、細い光が落ちていました。私は自分の小さな舟で、桟橋の下へ入っていきます。頭の上の梁を両手でつかんで、手で引っぱって進むのです。

舟には、女の子がもう一人乗っていました。

十歳くらいの子でした。黒い髪を肩で切りそろえていて、目の形が少しきついのに、声はやわらかい。知っている顔でした。

「るりちゃん。ここから深いの。大人でも足つかない」

夢の中の私は、その子をそう呼んでいました。私も同じくらいの年で、膝に擦り傷が二つありました。

付け根から十三本目の杭のところで、私は舟を止めました。梁の下側に、白い切り口がありました。

「るりちゃん。これ」

手を伸ばしかけると、るりちゃんが言いました。

「触らないで」

私は、手を止めました。

「澪ちゃん。お父さん、呼んできて。一人で。誰にも言わないで」

私は舟を付け根まで引き戻して、岸へ上がって走りました。走りながら、おとうちゃんがまだ番人小屋にいることが、嬉しくてたまりませんでした。

　＊

目が覚めると、寄宿舎の天井でした。

二階の奥の、二人部屋です。窓の外はまだ暗くて、同室の多恵さんの寝息が聞こえました。

私は小野澪といいます。十七歳です。湖の別荘、星見荘の番人をしていた小野弥吉の娘です。

六年前の八月、お盆の灯籠流しの晩に、天導本家の旦那様が桟橋から湖へ落ちて亡くなりました。桟橋の先が折れたのです。番人の見回りが足りなかった、ということになりました。父はその年の秋に暇を出され、村で日雇いの仕事をしていましたが、胸を悪くして、私が十四の冬に亡くなりました。

亡くなる前の十日ほどのあいだに、父は手紙を一通書いていました。封筒の表に、澪へ、とだけありました。中はほとんど、私への言いつけです。ご飯をちゃんと食べること、伯母さんの言うことを聞くこと。その終わりのほうに、三行だけ、ほかと違う字の大きさで書いてありました。

　八月十二日の朝、桟橋の柱に傷はなかった。
　わしは毎朝見ていた。
　見ていなかったのではない。

父の字は大きくて、便箋の罫からはみ出していました。

母は私が小さいころに亡くなっているので、父のあとは、村の伯母の家に置いてもらいました。村の小学校で、先生のお手伝いをしていました。その先生が、帝都の学院の奨学生に推薦を書いてくださったのです。

受かったと知らせが来た日、伯母は喜んでくれて、それから、少し困った顔で言いました。

「天導のお嬢さんも、あの学院に通っておいでだよ」

「知っています」

「あのお嬢さんは、あんたを恨んでなさるそうだよ。旦那様が亡くなったのは番人のせいだって、奥様がそう教えなすったって」

伯母は私の髪を撫でました。

「近寄るんじゃないよ」

私は、はい、と言いました。

言いながら、父のたばこの缶のことを考えていました。缶の中に、貝殻が一つ入っています。内側が虹色の、小さな二枚貝の片方です。

事件の前の年の夏、星見荘に、分家のお嬢様が来ていました。九つの、黒い髪の女の子でした。私はその子と一日だけ、岸で貝殻を拾いました。虹色のが一つだけ見つかって、二人で片方ずつ分けました。その子は木に登れなくて、私が下から、足をかける枝を教えました。

その子が、天導瑠璃さんです。

私はあの缶を、帝都まで持ってきていました。恨まれているかもしれない人との思い出なのに、村に置いてくることができませんでした。

　＊

「澪さん、早いのね」

多恵さんが布団から顔を出しました。私と同じ学年の、よくしゃべる人です。帝都の呉服屋の娘さんで、昨日、荷物を解くのを手伝ってくれました。

「湖の近くで育ったので、朝は早いんです」

「日に焼けてるものね。夏の子みたい」

多恵さんは褒めるつもりで言ったようでした。洗面所の鏡には、たしかに、ほかの子より色の黒い顔が映っていました。短い髪を、学院の決まりのとおり後ろで一つに結びます。結ぶと、耳の下の毛が少し余ります。奨学生の制服は、ほかの子たちのものと形は同じで、布が少し薄いのです。

食堂へ降りる階段で、多恵さんが声を落としました。

「ねえ。澪さんって、星見荘の番人さんの」

「はい」

「天導さまに、気をつけてね」

多恵さんは、本当に心配してくれている顔でした。

「一つ下の学年の、天導瑠璃さま。本家の跡取りのお嬢様よ。婚約者もいらっしゃるの。私たちとは、もう身分が違うの」

「その方が、どうして」

「番人さんの娘が来るって、先週から噂になってたの。天導さまがどんなお顔をなさるかって」

どんなお顔、と私は思いました。私は、九つの子の顔しか覚えていません。

　＊

その日の昼休みに、私は瑠璃さんに会いました。

中庭の、楠の下でした。奨学生の三人でお弁当を食べていたところへ、下級生の女の子が一人、小走りに来ました。

「あの、小野澪さんは」

「私です」

「天導さまが、お話ししたいそうです」

女の子の後ろに、瑠璃さんが立っていました。

背が高くなっていました。黒い髪は長く伸びて、耳の上の髪だけを後ろでまとめ、紺のリボンで留めていました。目の形が、少しきつい。頬は、九つのころより細くなっていました。

周りのベンチが、しんとしました。

瑠璃さんは私の前まで来て、何か言おうとして、一度口を閉じました。それから、両手を胸の前でぎゅっと握りました。

「……ほんとに澪だ」

小さな声でした。私にしか聞こえなかったと思います。

「え」

瑠璃さんははっとした顔をして、背筋を伸ばしました。

「失礼いたしました。天導瑠璃です。小野澪さん、ようこそ学院へ。困ったことがあったら、何でも言ってね。……言ってくださいね」

語尾を、二回言いました。

私は立ち上がって、お辞儀をしました。

「小野澪です。よろしくお願いいたします」

「うん。……はい」

瑠璃さんは私の顔を見て、少し笑いました。

夢の中の、るりちゃんと同じ笑い方でした。

瑠璃さんが下級生の子を連れて戻っていくと、ベンチのあちこちで声がしました。

「天導さまが、番人の娘に」

「ようこそ、ですって」

「何かお考えがおありなのよ」

奨学生の一人が、私の袖を引きました。

「小野さん。いまの、何」

「……ようこそ、だそうです」

私には、それしか言えませんでした。

　＊

次の日も、その次の日も、瑠璃さんは優しくしてくれました。

朝、寄宿舎から校舎へ向かう並木道で会うと、「おはよう、澪さん」と言います。周りに人がいると、「おはようございます」に言い直します。

三日目には、昼休みにキャラメルを一箱持ってきました。

「これ、よかったら。奨学生の皆さんで」

瑠璃さんは箱を左手で差し出しました。受け取るとき、指先が少し触れました。

「どうして、私たちに」

「え。甘いもの、嫌い？」

「嫌いではありません」

「よかった」

聞きたかったことは、それではありませんでした。

一緒に来ていた下級生の子は、小暮さんといいます。瑠璃さんの一つ下で、いつも瑠璃さんのあとをついて歩いています。

小暮さんはキャラメルの箱を開けながら、私にこっそり言いました。

「天導さまは、お優しい方です。私が初等科のころから、ずっと」

多恵さんの話と小暮さんの話は、ちょうど反対でした。

五日目の夕方、学院の門の外に、背の高い男の人が立っていました。背広を着て、脇に本を一冊はさんでいます。眉がまっすぐで、口を結んでいました。

「一臣さまよ」と多恵さんが言いました。「天導さまの婚約者。分家の跡取りの」

瑠璃さんは門を出て、その人に頭を下げました。一臣さまは頷いて、それから、私のほうを一度だけ見ました。会釈をされたので、私も返しました。

瑠璃さんは振り返って、私に小さく手を振りました。一臣さまの隣で、私に。

　＊

夢は、毎晩見ました。

いつも瑠璃さんの夢です。年も場所も、少しずつ違います。それでも、どの夢の瑠璃さんも、私に優しくしてくれました。

四月の終わりの晩には、うんと小さな瑠璃さんの夢を見ました。

星見荘の台所の裏で、私は五つくらいで、椅子に座って豆をつまんでいました。父に「澪、ご挨拶を」と言われて、椅子から降りました。

「小野澪です。五つです」

目の前に、もっと小さな女の子がいました。四つくらいで、黒い髪に銀色の星の飾りを留めていました。

「るりか」

その子はそう名乗りました。

「るりかちゃん。豆、たべる？」

「たべる」

二人で生の豆を三つずつ食べて、父に叱られました。叱る父の声が、笑っていました。

目が覚めてから、しばらく布団の中で考えました。

るりか、という名前の人を、私は知りません。天導のお嬢様の名前は、瑠璃です。夢がどこかで間違えたのだと思いました。

間違えているのに、あの子が瑠璃さんだということだけは、夢の中の私にも、起きた私にも、はっきりしていました。

多恵さんは、まだ寝ていました。私は起きて、たばこの缶を開けて、虹色の殻を一度だけ見ました。

それから、学院へ行きました。今日も並木道で、瑠璃さんは「おはよう」と言って、「おはようございます」と言い直しました。

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# 第二章　虹色の貝殻

七月。

　＊

五月と六月のあいだ、私は瑠璃さんを見ていました。

何かお考えがおありなのよ、と、最初の日に誰かが言っていました。私も、少しはそう思っていました。本家のお嬢様が番人の娘に優しくするのには、何か理由があるはずです。理由が分からないものは、自分の目で確かめたくなります。小さいころから、そういう子だと言われてきました。

それで、見ていました。

瑠璃さんは、小暮さんに優しくしていました。用務員のおじさんにも、食堂のおばさんにも、奨学生のほかの二人にも、優しくしていました。上級生に廊下の真ん中を譲られると、困った顔で端へ寄っていました。

一臣さまが門で待っている日は、門のところで一度、髪のリボンを直していました。

私にだけ優しいのでは、ありませんでした。

ただ、私の前でだけ、少し変でした。

私と目が合うと、瑠璃さんは一度、口をぎゅっと結びます。それから、笑います。講読会の席で私の隣になると、本を逆さに開きます。並木道で私に「おはよう」と言ったあと、何もないところでつまずいたことが、二回ありました。

六月の終わりに、私は多恵さんに訊いてみました。

「天導さまは、よくつまずかれるんですか」

「え？　天導さまが？　見たことないわ」

多恵さんは、首をかしげていました。

　＊

七月の初めの晩、夢に出てきた瑠璃さんは、いまの瑠璃さんと同じくらいの年でした。

学院の銀杏の下で、瑠璃さんは私に風呂敷包みを差し出しました。怒っているような顔をしていました。

「これを、さしあげます」

包みは重くて、角が硬く、帳面が入っているようでした。

「何ですか」

「母の家計簿です。六年前の」

私は包みと瑠璃さんの顔を、代わるがわる見ました。夢の中の私も、天導のお嬢様は番人の娘を憎んでいる、と聞かされていたようでした。

「これはさしあげますから、一臣さまに色目を使ったり、一臣さまのことを悪く言ったりしないって約束してください」

それから瑠璃さんは、つんと顎を上げました。

「私のことは、どう言っていただいても結構です。断罪される覚悟はできていますので」

耳が赤くなっていました。

だんざい、という言葉を、私は目が覚めてからも覚えていました。

　＊

次の日の昼休み、中庭の楠に、小暮さんの帽子が引っかかりました。

風の強い日でした。麦わらの帽子が、二階の窓の高さの枝で、裏返しになって揺れていました。小暮さんは泣きそうな顔で見上げていて、瑠璃さんは用務員さんを呼びに行こうとしていました。

「取ってきます」

私は靴を脱いで、幹に手をかけました。

「え、澪さん、待って」

木登りは、湖の村でいちばん得意なことでした。下の枝に足をかけて、次の枝に手を伸ばします。楠の皮はざらざらしていて、足の裏がよく掛かりました。

下から、瑠璃さんの声がしました。

「落ちないでね！　落ちるなら、落ちるって言ってから落ちて！　受けるから！」

受けられるわけがありません。瑠璃さんの腕は、私よりずっと細いのです。

帽子を取って、枝に腰かけて、下を見ました。瑠璃さんが両腕を広げて立っていました。本当に受けるつもりの格好でした。周りに人が集まってきて、何人かが「天導さまが」と言っていました。

降りると、小暮さんが帽子を受け取って、何度もお辞儀をしました。瑠璃さんは、広げていた腕をどうしていいか分からない様子で、ゆっくり下ろしました。

「……すごいね。昔と同じだ」

「昔？」

瑠璃さんは返事をしないで、私の足を見ました。

「血、出てる」

ベンチに座らされて、瑠璃さんのハンカチで足の裏を拭かれました。白いハンカチに、楠の皮の粉と、少しの血がつきました。

「汚れます」

「洗えばいいの」

瑠璃さんは左手で、ハンカチを器用にたたみ直しました。

「さっきの、落ちるなら言ってから、っていうの」

「うん」

「変わった言い方ですね」

「父がね、昔、そう言ってたの。木登りのときに」

瑠璃さんのお父様は、事件のあと家を出ていかれたと聞いていました。私は、それ以上は訊きませんでした。

小暮さんが帽子をかぶって教室へ戻っていくと、楠の下には私たち二人だけが残りました。蝉が鳴き始めていました。

私は、三か月聞けなかったことを、聞きました。

「瑠璃さん。どうして急に優しくしてくれるんですか？」

瑠璃さんは、ハンカチをたたむ手を止めました。

「急に？」

「……急に、ではないですね。最初の日から、ずっとです」

私は膝の上で手を組みました。

「私、帝都に来る前に、天導のお嬢様は私を恨んでいると聞きました。旦那様が亡くなったのは、番人の見回りが足りなかったからで、だから番人の娘を恨んでいる、と」

瑠璃さんの顔から、笑いが消えました。

「それは違う」

「え」

「小野さんは、ちゃんと見てた。毎朝、柱を見てた。見回りが足りなかったなんて、違うよ」

あの夏から、誰もそう言ってくれませんでした。父の手紙のほかには。

私はしばらく、何も言えませんでした。瑠璃さんがどうしてそれを知っているのか、訊くことも忘れていました。

「……ごめん。急に大きい声出して」

「いいえ」

「澪さんが謝ることじゃないからね。それは、ほんとに」

瑠璃さんはハンカチをかくしにしまいました。

私は、言うつもりのなかったことを言いました。

「私、毎晩、瑠璃さんの夢を見るんです」

「え」

「帝都に来た晩から、毎晩です。夢の瑠璃さんは、いつも優しいんです。桟橋の下に一緒に潜ったり、豆を食べたり。昨日の晩は、怒った顔で帳面をくれました。だから、起きているときにも瑠璃さんが優しいと、どっちが夢なのか、分からなくなってしまって」

言ってから、恥ずかしくなりました。会って三か月の人に、夢の話をしています。

瑠璃さんは笑いませんでした。

「……そっか」

長いあいだ、楠の葉を見上げていました。

「私も、夢を見るの」

「瑠璃さんも」

「うん。長い夢。すごく長くて、話すと、たぶん夏休みが終わっちゃう」

瑠璃さんは、そこでやっと少し笑いました。

「だから、それは、また今度ね」

それから、瑠璃さんは私のほうへ身体を向けました。

「ねえ。小さい頃に、貝殻で遊んだっけ？」

心臓が、一つ強く打ちました。

「……覚えてるんですか」

「覚えてるよ。星見荘の岸で。虹色のが一個だけあって、はんぶんこした。澪さんは木に登るのがうまくて、私は登れなくて、下から、ここに足かけて、って教えてくれた」

瑠璃さんは、制服の胸のかくしから、小さな紙の包みを出しました。半紙を何度もたたんだものでした。開くと、虹色の殻が一つ入っていました。

私の缶の中のと、同じ色でした。

「持ってたんですか」

「ずっと持ってたよ」

「ずっと」

「うん。いつか、また会えると思ってたから」

瑠璃さんは、殻を掌にのせて、光に透かしました。内側の虹が、少し動きました。

私は、寄宿舎まで走りました。

「え、澪さん？」

部屋の行李の底から、父のたばこの缶を出しました。中の殻を握って、また楠まで走りました。靴を片方、履き忘れていました。

楠の下で、瑠璃さんはまだ座っていました。私は息を切らしたまま、掌を開きました。

「……私も、持ってました」

瑠璃さんは私の掌を見て、それから自分の掌を見て、二つの殻をベンチの上で合わせてみました。

ぴったりとは、合いませんでした。片方のほうが、ひとまわり大きいのです。九つと十の子が、同じ貝の両側だと思いこんだだけの、別々の殻でした。

「あはは。ぜんぜん別の貝だ」

瑠璃さんは笑いました。笑いながら、目の端を指で押さえていました。

「でも、いいよね。どっちも虹色だし」

「はい」

「ねえ。澪、って呼んでもいい？」

「……はい」

「私のことは」

「瑠璃さん、で」

「えー」

「瑠璃さん、です」

瑠璃さんは、わかった、と言って、殻を半紙に包み直しました。私は殻を握ったまま、靴を履いていないほうの足を、ベンチの下に隠しました。

予鈴が鳴りました。

　＊

次の日には、天導さまが番人の娘の足を拭いていた、という話が、学年じゅうに広まっていました。

多恵さんが、寄宿舎の廊下で私をつかまえました。

「澪さん。いったい何をしたの」

「木に登りました」

多恵さんは、しばらく口を開けていました。

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# 第三章　夢の話ね

九月。

　＊

夏休みは、湖の村の伯母の家で過ごしました。

八月の初めに、瑠璃さんから手紙が来ました。朝顔の柄の便箋でした。

　澪へ

　暑中お見舞い申し上げます。
　帝都は暑いです。湖は涼しいですか。
　虹色の貝殻は、机の上に置いています。見るたびに、ぜんぜん別の貝だったのを思い出して、笑います。
　九月になったら、長い夢の話をします。変な話だけど、笑わないで聞いてね。

　伯母さまにも、よろしくお伝えください。

　瑠璃

伯母は、手紙の差出人を見て、長いこと黙っていました。それから、「近寄るんじゃないよ、って言ったのにねえ」と言って、笑いました。

私は返事を書きました。湖は涼しいです。桟橋は新しくなっています。貝殻は、たばこの缶に入れています。笑わないで聞きます。

書き終えてから、同じ朝顔の便箋が欲しくなりました。村の雑貨屋には、そういうものは売っていませんでした。

　＊

夏休みのあいだに、帳面をくれた瑠璃さんの夢を、何度か見ました。

九月の初めの晩に見たのは、その続きでした。

夢の中の私は、今より少し大人でした。本家の応接の扉の向こうで、天導家の親族の方たちが、声を荒らげていました。警察に届けろ、探偵を雇え、連れ戻せ、と。

いなくなったのは、瑠璃さんと一臣さまでした。

私は、二人がどこにいるかを知っていました。北の港町です。二人はそこで、お菓子を焼くのだそうです。瑠璃さんが、いなくなる前に、下町のお店の奥で教えてくれたのです。探しに来ないで、探そうとする人がいても放っておいて、と言っていました。

夢の中の私は、親族の方たちの長い卓の前に立って言いました。

「親が犯罪者であると知った二人はいなくなりました」

部屋が静かになりました。私はそれ以上、何も言いませんでした。行き先を訊かれても、答えませんでした。言わないことが、瑠璃さんへの返事でした。

目が覚めると、胸のところが苦しくなっていました。夢の私は、ちゃんと約束を守っていました。守っているのに、あの瑠璃さんには、もう会えないようでした。

　＊

九月の二週目の土曜の午後、楠の下で、瑠璃さんは長い夢の話をしてくれました。

「あのね。先に言っておくけど、変な話だよ」

「はい」

「夢の話だからね」

瑠璃さんは念を押すように、もう一度言いました。

「私の夢の中ではね、ここは、お話の中なの。本みたいな……ううん、もっと、読む人が自分で道を選べるお話。その中で、澪が主人公なの」

「私が」

「そう。番人の娘の澪が、学院に来て、男の人たちと出会って、恋をして、お父さんが本当は何を見ていたのかを見つけるお話。最後に、私の十八の誕生日の夜に、澪がみんなの前で本当のことを言うの」

瑠璃さんは膝の上で指を組みました。

「そのとき、澪は私を断罪するの」

だんざい。

「……罪を、みんなの前で言うことですか」

「そうそう。よく知ってるね」

「夢で聞きました。怒った瑠璃さんが、断罪される覚悟はできています、って」

瑠璃さんは目を丸くして、それから、少し困った顔で笑いました。

「その私、かっこいいね」

夢の中の瑠璃さんは、学院で澪を虐めるのだそうです。澪の靴を池に投げて、下級生の小暮さんを階段で押す。十七の冬には、お母様の帳面を暖炉で燃やす。十八の夜、澪にその罪を一つずつ言われて、婚約を解かれて、海の向こうの修道院へ送られることになる。

「小暮さんを押すんですか。あの小暮さんを」

「うん。ひどいでしょ」

「ひどいです」

「だから押さないの。靴も投げないよ」

「知っています」

瑠璃さんは、ふふ、と笑って、楠の枝のほうを見ました。

「最後にね、家の門の外で、作業着の男の人が待ってるの。荷物一つの私に、送っていこうか、って言うの。私が、あなた誰、って言うと、昔あなたを抱いていた者だ、って」

「……お父様ですか」

「うん。お話の中では、名前は言わないけど」

瑠璃さんの声が、少し小さくなりました。

「そこで、いつも泣いたの。何回見ても泣いた」

「夢を、何回も見たんですか」

「うん。何回も」

瑠璃さんは、しばらく黙っていました。

「それでね。夢の中で、ずっと思ってたの。澪と瑠璃が仲良くなればよかったのにって」

私は、瑠璃さんの横顔を見ました。

「二人とも、湖の子なのに。あの夜のせいで、二人とも、お父さんがいなくなったのに。ほんとは、貝殻を分けた子どうしなのに」

瑠璃さんは、私の顔を見ないで言いました。

「だから、私、澪が来るの、待ってた。ずっと。六年」

六年、と私は口の中で言いました。

帝都に来る前に、私は伯母に、近寄るんじゃないよ、と言われていました。私が恨まれていると思っていたあいだ、この人は、私が来るのを待っていたのでした。

何か言わなければ、と思いました。言葉が出ないので、ベンチの上の、瑠璃さんの手の横に、自分の手を置きました。触ってはいません。指一本ぶん、離れていました。

瑠璃さんはその指一本ぶんを見て、少し笑いました。

「はい、暗い話おしまい！」

瑠璃さんは手を叩きました。

「ここからは楽しい話。お話の中の恋の相手はね、三人いるの。一臣さま、慎さん、遼さん。一人だけ選べるの」

「一臣さまは、瑠璃さんの婚約者の」

「そう。無口で、本を貸してくれる人。慎さんはお医者さんの息子で、詩を読むの。遼さんは新聞記者で、声が大きいの。みんないい人だよ。……それで、澪は誰が好き？」

瑠璃さんは身を乗り出しました。夢の話をしていたときより、目がきらきらしていました。

三人のうち二人に、私はまだ会ったこともありません。

「私は、一人選ぶなら、瑠璃さんがいいです」

瑠璃さんは、ぱちぱちと二回まばたきしました。

「そっかー、じゃあ、二人で駆け落ちしよっか！」

あんまり早く返ってきたので、今度は私がまばたきをしました。

駆け落ち、と聞いて、九月の初めの夢を思い出しました。北の港町のお菓子屋と、本家の応接です。

「……そうですね。駆け落ちした瑠璃さんと一臣さまを探さないように説得する役になるくらいなら、一緒に駆け落ちしたほうがいいです」

「待って。なにそれ」

「夢です。瑠璃さんと一臣さまが駆け落ちして、北の港町でお菓子屋さんを開いて、私は、探さないように親族の方たちを止める役でした」

「えー、その私、一臣さまとお菓子屋さんやってるの？　すごい。それ、お話にない」

瑠璃さんは本気で感心しているようでした。

「夢の中の、さらに夢だね、それ」

それから、ぽんと手を打ちました。

「じゃあ、二人でお菓子屋さんだねー」

「お菓子作れるんですか？」

「ぜんぜん作れない。前世でも好きな子にチョコを渡そうとしたんだけど、グチャグチャになっちゃって」

瑠璃さんは笑って、それから、ぴたりと止まりました。

「あ、夢の話ね」

「……はい」

私は、はい、と言いました。

　＊

前世、と瑠璃さんは言いました。言ってから、夢の話ね、と足しました。

その晩、寄宿舎の布団の中で、私はそのことを考えました。

瑠璃さんの長い夢の中では、私はお話の主人公です。誰かが道を選んで、私に恋をさせて、私に瑠璃さんを断罪させる。もしそれを、本当のことだと言われていたら、私はどうしていいか分からなくなったと思います。自分の気持ちまで、誰かに選ばれたもののような気がして。

だから瑠璃さんは、自分の話のほうを夢にしてくれたのだと思いました。私が、お話の中の人にならないように。

私の夢の話を、瑠璃さんは一度も笑いませんでした。それなら私も、瑠璃さんの夢の話を、夢の話として聞こうと決めました。前世、のところは、聞かなかったことにします。チョコがグチャグチャになったところだけは、覚えておきます。

好きな子、というのが誰だったのかは、訊けませんでした。

訊けなかったことが、なぜか一晩じゅう気になりました。

---

# 第四章　お菓子屋さんの一品目

十月から、二月まで。

　＊

十月の夢は、海の匂いがしました。

南の港町の造船所でした。船台の上に、板を半分しか張っていない大きな船が乗っていて、槌の音が一日じゅう鳴っていました。夢の中の私は、造船所の門のそばに立って見ているだけで、誰にも気づかれませんでした。

お昼に、瑠璃さんが門をくぐってきました。赤い地に白い手毬の柄の、子どものような着物を着ていました。いまの瑠璃さんより、少し大人に見えました。お弁当の包みを一つ、両手で持っていました。

船の横の足場から、大柄な男の人が下りてきました。日に焼けて、作業着を着て、無精ひげがありました。右の足を、少し庇うようにして下りました。

男の人は包みを受け取って、蓋を開けて、中を見ました。卵焼きが、少し焦げていました。

「お前が作ったんか」

「はい」

「えらいな」

男の人は、太い指で、瑠璃さんの頭を二回撫でました。周りの若い人たちが「恭さん、ええなあ」と言って、男の人は「ええだろう」と言いました。

夢の中の瑠璃さんは、撫でられた頭に手をやって、とても嬉しそうでした。嬉しそうなのに、少しだけ、悔しそうな顔もしていました。

目が覚めてから、あの男の人は、瑠璃さんの長い夢に出てくる門の外の人だと思いました。あの夢の瑠璃さんは、門の外まで、自分から会いに行ったのです。

　＊

十月に、私たちは、これからどうするかを考え始めました。

言い出したのは瑠璃さんです。放課後の図書室の、いちばん奥の机でした。

「澪のお父さんの名前は、返してもらわないと」

瑠璃さんは手帳を一冊広げて、左手で書きました。

　一　お母さまの帳面（私が探す）
　二　蘆田医院の処方簿（慎さん）
　三　伯父さまの手紙の下書き（一臣さま）
　四　お絹と、父の話（遼さん）

「お話の中では、澪が二行目から下を一つずつ集めるの。三人と仲良くなって、三人が一つずつ見つけてくれる。一行目は、お話の私が燃やしちゃうから、ない」

「瑠璃さん」

「うん」

「これを全部集めたら、瑠璃さんのお母様は」

瑠璃さんは、ペンを止めませんでした。

「うん。つかまる。伯父さまも」

「それでいいんですか」

「よくはないよ」

瑠璃さんは、四行の下に線を一本引きました。

「でも、決めたの。十歳のとき。……長い夢から覚めたとき、もう全部終わったあとだったの。おじさまはいなくて、父は出ていくところで、小野さんは、もうすぐ暇を出されるところだった。私、何もできなかった。だから、せめて、これだけはちゃんとするって」

私は、手帳の四行を見ていました。

「一つ、条件があります」

「なに」

「私は、瑠璃さんを断罪しません」

瑠璃さんは笑いました。

「それは、お話の決まりだから」

「決まりでも、しません」

「澪って、頑固だよね」

「はい」

瑠璃さんはそれ以上言いませんでした。四行の横に、小さく、澪は頑固、と書き足しました。

　＊

慎さんには、十一月に会いました。瑠璃さんが、詩の会に連れていってくれたのです。

蘆田慎さんは、医学校の学生でした。眼鏡をかけていて、声がやわらかく、白衣のかくしに詩集をさしていました。詩を読むときは、行の終わりで必ず一拍おきます。私が思わず「続きは」と言うと、

「急ぐと、詩がかわいそうですから」

と言いました。

帰り道、瑠璃さんは私の袖を引っぱりました。

「ね、ね。慎さん、いい人でしょ」

「はい。いい方です」

「それだけ？」

「それだけです」

瑠璃さんは、なぜかがっかりしていました。

早瀬遼さんには、十二月に会いました。帝都日報の記者で、癖のある髪に帽子をのせて、いつも手帳を持っています。日に焼けていて、声が大きく、珈琲店の二階で話しているあいだに、店の人に二回、お静かに、と言われました。

「澪ちゃんの親父さんの件なら、おれも前から気になってたんだ。あの桟橋、事故にしちゃ話がきれいすぎる」

遼さんは、お絹さんという昔の女中さんを探してみると言いました。それから、南浦の造船所にいるという、瑠璃さんのお父様のことも。

帰り道、瑠璃さんはまた私の袖を引っぱりました。

「遼さんは？　ああいう人、どう？」

「声が大きいと思います」

瑠璃さんは、またがっかりしていました。

　＊

一臣さまと二人で話したのは、一月の終わりの一度だけです。

その日、瑠璃さんは講読会の片づけで遅くなっていました。門の外で、一臣さまが本を片手に待っていました。私は寄宿舎へ戻る途中で、門の前を通りかかりました。

「小野」

呼び止められたのは、初めてでした。

「はい」

「瑠璃は、君の話ばかりする」

「……すみません」

「謝ることではない」

一臣さまは、本の背を指で一度なぞりました。

「あれは十の年から、誰にも本当のことを言わない子だった。笑っているが、言わない。……君には、言っているようだ」

「一臣さまには」

「私には、本の感想だけだ」

一臣さまは、それを悪いことのようには言いませんでした。本当のことを言うように、ただ言いました。

そこへ、瑠璃さんが校舎から走ってきました。門の前に私と一臣さまが並んでいるのを見て、ぱっと顔を明るくしました。

「え、え、二人で何話してたの」

「本の話です」

と私は言いました。

「そうだ」

と一臣さまが言いました。

瑠璃さんは、私と一臣さまの顔を代わるがわる見て、それから、なぜか嬉しそうに頷いていました。

　＊

お菓子を作ったのは、二月の日曜日でした。

寄宿舎の台所は、日曜の午後なら、寮監の先生に言えば使わせてもらえます。瑠璃さんは、本家の料理番に聞いたという作り方を書いた紙と、卵と、砂糖と、バターを、風呂敷に包んで持ってきました。

「今日はね、ビスケット。お菓子屋さんの一品目」

「作ったことはあるんですか」

「ない」

瑠璃さんは、きっぱり言いました。

卵を割るところから、もう大変でした。瑠璃さんは卵を鉢の縁にぶつけて、ぶつけすぎて、殻ごと鉢に落としました。次のは、力が足りなくて割れませんでした。その次のは、割れたと思ったら、手の中でつぶれました。

「……卵って、こんなに難しかったっけ」

「貸してください」

私は片手で卵を割りました。湖の村では、朝ご飯の支度は私の仕事でした。

「すごい。職人だ」

「卵です」

バターは固くて、瑠璃さんがへらで練っているうちに、へらのほうが曲がりました。砂糖を量らずに入れようとしたので、止めました。天板に並べた生地は、大きいのと小さいのがあって、焼き上がると、大きいのは真ん中が生で、小さいのは焦げていました。

一つずつ食べて、二人で黙りました。

「……グチャグチャではない」

瑠璃さんが言いました。

「はい。グチャグチャではないです」

「前世よりは、進歩してる」

「夢の話ですね」

「そう、夢の話」

瑠璃さんは焦げたビスケットをかじって、苦い、と言って笑いました。

それから、私の作れるものを作りました。父が冬によく作ってくれた、芋ようかんです。さつま芋を蒸して、裏ごしして、砂糖と塩をひとつまみ入れて、型に詰めて冷やすだけです。裏ごしは、瑠璃さんが上手でした。ゆっくりですが、丁寧でした。

型から出した芋ようかんを、瑠璃さんは長いこと眺めていました。

「澪のお父さんの味だ」

「父のは、もっと甘かったです」

「じゃあ、お店のは、もっと甘くしよう」

瑠璃さんは手帳を出して、四行の頁のうしろに、一枚あけて書きました。

　お菓子屋さん
　　一品目　芋ようかん（澪のお父さんの。もっと甘く）
　　二品目　ビスケット（練習中）

「一品目、取られちゃった」

瑠璃さんは、嬉しそうに言いました。

　＊

図書室で同じ本を読んだのは、その次の週です。

一臣さまが瑠璃さんに貸したという、翻訳の少女小説でした。寄宿学校のお金持ちの女の子が、父親を亡くして、屋根裏の女中にされて、それでも心の中では王女さまのようにふるまう、というお話です。

「一臣さま、なんでこれを私に貸したんだろう」

「さあ」

一冊しかないので、並んで座って、真ん中に本を置きました。瑠璃さんが頁をめくります。左手で端をつまんで、そっとめくります。

しばらく進んだところで、瑠璃さんがめくる手を止めました。

「……ねえ。今の頁、何が書いてあった？」

私は頁を見ました。字は並んでいました。何が書いてあったのかは、一行も覚えていませんでした。瑠璃さんの指ばかり見ていたのです。

「……分かりません」

「私も」

瑠璃さんは本に額をつけて、笑いをこらえていました。図書室の係の先生が、こちらを見ました。

帰り支度をしながら、瑠璃さんが言いました。

「澪。一臣さまのこと、どう思う？」

「……無口な方だと思います」

「かっこいいでしょ」

「瑠璃さんの婚約者です」

「婚約は、伯父さまが決めたの。お話の中でもそう」

瑠璃さんは本を風呂敷に包みながら、私を見ないで言いました。

「お話の、一臣さまのところの最後はね、すごくいいの。澪の卒業式の朝に、学院の並木道で、一臣さまが手袋を片っぽ外して、手を出すの。澪、って、初めて名前で呼んで。澪がその手を取ると、手袋越しでは、嫌だった、って言うの」

「……」

「だからね、澪がいいなら、私、ぜんぜん」

「瑠璃さんは、どう思ってるんですか」

私の声は、自分で思ったより固く出ました。

瑠璃さんは、風呂敷の結び目を二回結び直しました。

「いい人だよ。ほんとに。でも、あの人には、あの人のお話があると思う。……澪の夢の中の私は、一臣さまとお菓子屋さんやってるんでしょ。そういうのも、あると思う」

「私、その並木道の絵、見なくていいです」

瑠璃さんが顔を上げました。

「え」

「見なくていいです」

私は先に図書室を出ました。廊下の窓に、自分の顔が映っていました。日に焼けた、怒っているような顔でした。

何に怒っているのか、自分でもうまく言えませんでした。瑠璃さんが、私のことを、誰かと結ぶ相手としてばかり話すからかもしれません。瑠璃さんの話の中に、瑠璃さん自身の居場所が、いつもないからかもしれません。

　＊

次の朝、並木道で、瑠璃さんは「おはよう」と言いませんでした。

代わりに、私の前まで来て、頭を下げました。

「昨日、ごめん」

「……私も、すみませんでした。先に出てしまって」

「ううん。私が悪かった」

瑠璃さんは顔を上げて、自分の靴の先を見ました。

「澪を、誰かとくっつけようとするの、やめる。……たぶん」

「たぶん、ですか」

「お話の癖が、なかなか抜けないの。何回も見たから」

私は、少し笑ってしまいました。

「では、癖が出たら、言います」

「うん。言って」

瑠璃さんは、それから、やっと「おはよう」と言いました。今度は、言い直しませんでした。周りに人がいたのに。

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# 第五章　本家でよくないですか

二年目の春から、卒業の朝まで。

　＊

四月に、瑠璃さんは十七になりました。私は、学院の最後の学年になりました。

その春に見た夢の瑠璃さんは、初めて、私と仲の悪い瑠璃さんでした。

夢の中の私は、瑠璃さんに意地の悪いことを言っていました。学院の廊下で、瑠璃さんが、分からないことがあったら何でも訊いてください、と言って、握手の手を出したときです。

「いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ」

瑠璃さんの顔が、みるみる赤くなりました。手が上がりました。ぶたれる、と思いました。夢の私は、目をつぶりませんでした。

手は、私の頬の前で止まりました。止まったまま、ぷるぷる震えていました。

「……なんでぶたないんですか？」

「いや、暴力はさすがにダメだ」

瑠璃さんは真顔でそう言って、手を下ろしました。

夢の中の私たちは、それからずっと張り合っていました。試験の順位で、講読会の窓際の席で、購買の栗饅頭の取り合いで。仲が悪いのに、その瑠璃さんも、どこか優しい人でした。張り合いの果てに、最後の一つの栗饅頭を真ん中から割って、はんぶんこしました。そのとき夢の私は、父の話をしました。

夢は、そこで終わりませんでした。ずっと先の、どこかの夜に、夢の私は瑠璃さんに言っていました。

「あのとき言ってくれていたら、私はあなたを守れた」

瑠璃さんは、何も答えませんでした。

目が覚めたとき、私は泣いていました。

守れた、という言葉が、胸に残っていました。夢の私は、守りたかったのに、守れなかったのです。

今度は、言われる前に守ろう。そう思いながら、顔を洗いました。

　＊

その一年で、瑠璃さんの手帳の四行は、少しずつ埋まっていきました。

六月に、慎さんが、蘆田医院の古い処方簿を持ってきてくれました。七年前の四月から、天導藤乃様の名前が並んでいる頁です。慎さんは頁を開いたまま、しばらく黙っていて、それから「父には、僕から話します」と言いました。

七月に、遼さんが、湖の近くの村でお絹さんを見つけました。夏休みに伯母の家へ帰っていたあいだに、私は三度、お絹さんに会いに行きました。三度目に、お絹さんは話してくれました。八月十五日の晩、奥様がお嬢様に匙で何かを飲ませていたこと。そのあと台所へ行けと言われて、行ったこと。

九月に、一臣さまが、お父上の書斎から手紙の下書きを見つけました。湖の年の七月に、親族会の長老の方たちへ配った、後見の根回しの下書きです。一臣さまは、それを自分で私のところへ持ってきて、

「これは、私が決めた」

とだけ言いました。

南浦の造船所の、瑠璃さんのお父様には、遼さんが手紙を書きました。返事は短くて、行く、とだけありました。

瑠璃さんは、四行の横に一つずつ印をつけていきました。印をつけるたびに、少しずつ静かになりました。

最後まで残ったのは、一行目でした。

　＊

十二月の、雪の降った日でした。

放課後、瑠璃さんに空き教室へ呼ばれました。用務員さんが暖炉に火を入れてくれていました。瑠璃さんは暖炉の前に椅子を二つ並べて、膝の上に、藍色の表紙の帳面を一冊と、紐でくくった封書の束を置いていました。

「お話の中の私はね」

瑠璃さんは、火を見ながら言いました。

「今ごろ、これを、ここに入れるの」

瑠璃さんは帳面を持ち上げて、暖炉のほうへ少し差し出しました。火の明かりで、藍色の表紙が赤っぽく見えました。

私は、瑠璃さんの手首をつかみました。

夢の中の桟橋の下で、触らないで、と私の手を止めたのは、るりちゃんのほうでした。今度は、私が止める番でした。

「……入れないよ」

瑠璃さんは笑いました。

「入れない。渡すの。はい」

瑠璃さんは、帳面と封書の束を、私の膝にのせました。

「母の家計簿。七年前の。四月から、薬のことが書いてある。先月、母の文机の奥で見つけたの。封書は、三村さんっていう弁護士さんから届いたもの。お話の中では、中身、最後まで分からないの。燃えちゃうから」

「読んだんですか」

「昨日、読んだ」

瑠璃さんは、封書の束のいちばん上の一通を、指でさしました。宛名の字が、細くて、きちんとしていました。

「おじさまの字。私が生まれる前に書いたんだって。女の子なら、瑠璃、って。銀細工屋さんに星を頼んだ、って」

瑠璃さんは、何も留めていない左の鬢に、指で触りました。

「……おじさま、私の本当のお父さんだったみたい」

私は、何も言えませんでした。

「お話の中の私は、これを読まないで燃やしちゃうの。だから、知らなかったんだ。夢で何回見ても」

瑠璃さんは笑っていました。笑っているのに、声の最後が少しだけ揺れました。

「ずるいよね。知ってたら、十歳の夏までに、もっとちゃんと、おじさまの時計を見ておいたのに」

私は、瑠璃さんの手を取りました。

冷たい手でした。暖炉の前にいたのに、指の先まで冷えていました。私は両手で包んで、握りました。瑠璃さんは少しびっくりしたようでしたが、手を引っこめませんでした。

火が、ぱちんと鳴りました。

そのとき、私は、この人が好きなのだと思いました。

夢の中の、どの瑠璃さんでもなく、この、冷たい手の瑠璃さんが。

言いませんでした。言ったら瑠璃さんは、きっとまた、それはお話の決まりだから、と笑う気がしました。お話の決まりで好きになったのだと、この人に思われるのは、嫌でした。

手を握ったまま、私は別のことを言いました。

「瑠璃さん、本家でよくないですか？」

「え」

「旦那様の、本当の娘さんなんですよね。だったら、瑠璃さんが本家で、いいじゃないですか」

瑠璃さんは、笑って首を振りました。

「だめだよ」

「どうしてですか」

「お母さまは、私を本家にしたくて、あの夜のことをしたの。私が本家になったら、お母さまの計画がうまくいったことになっちゃう」

「瑠璃さんは、何も計画していません」

「うん。してない。でも、私が本家をもらったら、計画した人が欲しかったものが、ちゃんと届いちゃう。それは、だめ」

瑠璃さんは、私の手の中で、指を少し動かしました。

「だから、もらわないの」

　＊

私は、その日は引き下がりました。

次の日、また言いました。

「瑠璃さん。お母様が欲しかったのと違うやり方で本家になれば、いいんじゃないですか」

「どんなやり方？」

「……考えます」

その次の週にも言いました。

「半分だけ本家、というのは」

「半分だけ本家ってなに」

瑠璃さんは、お腹を抱えて笑いました。

年が明けてからも、私は言いました。寄宿舎の台所で、瑠璃さんが芋ようかんを切っているとき。図書室で、また一臣さまの本を二人で読んで、また一頁も覚えていなかったとき。

「瑠璃さん、本家で」

「だめ」

瑠璃さんは、そのたびに笑って首を振りました。首の振り方が、だんだん上手になっていきました。

一度だけ、笑わなかった日があります。

二月の終わりの、図書室の帰りでした。窓の外で、雪が雨に変わりかけていました。

「ほんとはね、ちょっと怖いの」

瑠璃さんは、本の包みを胸に抱えて言いました。

「修道院。海の向こうの。お話の最後の絵でね、私、船の甲板に一人で立ってるの。背中しか描いてないの。どんな顔してるのか、何回見ても分からなかった」

私は、瑠璃さんの横を歩いていました。

「その絵、私も見なくていいです」

瑠璃さんは立ち止まって、私を見ました。それから、ふっと笑いました。

「澪、見なくていい絵、多いね」

「はい。多いです」

瑠璃さんは、また歩き出しました。その日は、本家で、とは言いませんでした。言わなくても、私が何を思っているかは、瑠璃さんにも分かっていたと思います。

　＊

三月に、私は学院を卒業しました。女子師範の推薦の話もありましたが、お断りしました。四月の二十日までは、同じ部屋だった多恵さんのお家の呉服屋に置いてもらい、そのあとは、どこへでも瑠璃さんの行くところへ行く、と決めていました。瑠璃さんには、まだ言っていませんでした。

卒業式の朝、寄宿舎を出て並木道を歩いていくと、並木の途中に瑠璃さんが立っていました。在校生が来るには、まだ早い時間でした。

瑠璃さんは、紺の外套を着て、白い手袋をしていました。

私が近づくと、瑠璃さんは右手の手袋を、指先から一本ずつ引っぱって外しました。外した手を、私のほうへ出しました。

「澪」

私は立ち止まりました。

「……それ、一臣さまの」

「取っちゃった」

瑠璃さんは、耳まで赤くなっていました。

「絵、見なくていいって言ったでしょ。だから、見なくていいやつにした」

私は、手袋をしていない瑠璃さんの手を取りました。三月の朝で、瑠璃さんの手は、やっぱり冷たかったのです。

瑠璃さんは、少しだけ力を入れて握り返しました。

「手袋越しでは、嫌だった」

「……台詞まで」

「台詞まで」

並木道の向こうで、下級生の誰かが「天導さまが」と言うのが聞こえました。瑠璃さんは手を離しませんでした。私も離しませんでした。

瑠璃さんの十八の誕生日まで、あと一か月と少しでした。

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# 第六章　断罪ヒロインを止めた

四月二十日。瑠璃さんの、十八の誕生日。

　＊

成年披露は、本家の星の間で、夜の七時に始まりました。

壁の一面に星の図が、向かいの一面に海の図が貼ってありました。残りの壁は、船の時計で埋まっていました。動いているのは一台だけで、ほかの時計は、みんな違う時刻で止まっていました。旦那様が亡くなってから、家令の佐伯さんが毎朝一台だけを巻いているのだと、瑠璃さんが前に話してくれました。

上座に、親族会の長老の方が三人並んでいました。その脇で、分家の旦那様の貞光様が、八年にわたって瑠璃さんの後見を務めてきたという挨拶をしました。恰幅のよい、赤みのある顔の方で、黒い羽織を着ていました。低い、よく通る声でした。

瑠璃さんのお母様の藤乃様は、前の列にいました。細くて背の高い方で、切れ長の目が瑠璃さんとよく似ていました。牡丹の柄の、華やかなお着物でした。近くを通ると、香の匂いがしました。

瑠璃さんは、黒地に深紅の縁取りのお着物を着ていました。髪を結い上げて、左の鬢に銀の星を留めていました。

私は、慎さんと遼さんと一臣さまと一緒に、後ろの客の席にいました。膝の上に、風呂敷包みを一つ抱えていました。足もとには、多恵さんの家から提げてきた鞄を一つ置いていました。

貞光様が座ると、私は立ちました。

瑠璃さんの長い夢の中では、ここで澪が立つのだそうです。立って、本当のことを言って、最後に瑠璃さんを断罪する。

私は長老の方たちの前まで歩いて、頭を下げました。

「小野弥吉の娘、澪です。父の名誉のことで、皆さまにお見せしたいものがあります」

　＊

父の手紙を読みました。八月十二日の朝、桟橋の柱に傷はなかった。わしは毎朝見ていた。見ていなかったのではない。

慎さんが立って、蘆田医院の処方簿を開きました。一臣さまが立って、お父上の書斎で見つけた下書きを、長老の方たちに一枚ずつ渡しました。

「私が、見つけました」

一臣さまは、それだけ言いました。貞光様は、一臣さまを見ませんでした。

遼さんが、廊下からお絹さんを連れてきました。小柄で、丸い顔の人でした。お絹さんは震えながら、八月十五日の晩のことを話しました。

それから、大柄な男の人が、右の足を少し引きずりながら入ってきました。日に焼けて、指が太く、背広の肩が合っていませんでした。瑠璃さんのお父様です。夢の中で、造船所の足場から下りてきた人でした。あの年の電報のこと、娘を湖に置いて汽車に乗ったことを、低い声で話しました。

「乗るんじゃなかった。わしは、あの日、乗るんじゃなかった」

瑠璃さんは、お父様のほうを見ませんでした。膝の上で、両手を握っていました。

最後に、私は藍色の帳面と封書の束を、長老の方たちの前に置きました。

「奥様の家計簿と、三村様から瑠璃さんに届いた封書です。去年の冬に、瑠璃さんが、ご自分で私に渡してくださいました」

座敷がざわめきました。

藤乃様は、瑠璃さんを見ていました。瑠璃さんはお母様のほうへ向き直って、深く頭を下げました。

藤乃様は、何も言いませんでした。

九時少し前に、警察の方が来ました。貞光様と藤乃様が席を立ちました。藤乃様は、瑠璃さんの前で一度だけ足を止めて、鬢の星を見ました。何か言いかけて、言わずに出ていきました。

瑠璃さんの肩が、少し下がりました。私の立っているところからは、瑠璃さんの背中しか見えませんでした。

　＊

長老の方たちは隣の間で長く話して、戻ってきました。真ん中の、いちばん年上の長老が、紙を読み上げました。

天導貞光と天導藤乃のことは、警察に任せる。星見荘の番人、小野弥吉の名誉は、天導家として、これを回復する。

私は頭を下げました。父の手紙を、胸に抱えたままでした。

長老は、紙をめくりました。

「天導瑠璃」

瑠璃さんが、一歩前に出ました。

「あなたに罪はない。帳面を自ら出したことも聞いた。しかし、あなたがこの家の跡取りでいるかぎり、あの夜の企みは実を結んだことになる。よって、本家跡取りの儀はこれを解き、天導一臣との婚約も解く。瑠璃は星見荘に移り、追って、外国の修道院へ遣る」

瑠璃さんは、黙って頭を下げようとしました。

長い夢の中で、瑠璃さんが何度も見た場面でした。

「待ってください」

私は言いました。

座敷じゅうが、私を見ました。瑠璃さんも、頭を下げかけたまま、私を見ました。

私は、瑠璃さんの隣まで歩いて、並んで立ちました。

長い夢の中の私は、瑠璃さんの罪を読み上げたのだそうです。学院での虐めと、帳面を燃やしたこと。けれど、私には、読み上げるものがありませんでした。瑠璃さんは、どちらもしていないからです。

だから代わりに、言いたいことを言いました。

「瑠璃さんは、十歳でした」

声が震えました。震えたまま、続けました。

「あの晩、お母様に薬を飲まされて、暗い舟屋に置かれました。いちばん好きだったおじさまが、本当のお父様が、湖に落ちて、朝まで見つかりませんでした。ひと月で、育ててくれたお父様が、門を出ていきました。それから八年、この家で、あの子に何があったのか、誰か訊いてあげたでしょうか」

長老の方たちは、黙っていました。

「瑠璃さんは、それでも誰も虐めませんでした。番人の娘の私に、最初の日に、ようこそ、と言いました。お母様の帳面を燃やさないで、私に渡しました。渡したら自分がどうなるか、全部分かっていて。今夜ここで、自分が何を言われるかも、全部分かっていて」

目の奥が熱くなりました。

「父は、見ていなかった番人と呼ばれて死にました。今夜、父が毎朝見回っていたことを、認めていただきました。ありがとうございます。……だから、今度は、瑠璃さんの番です」

涙が、ぼろぼろ落ちてきました。止めようとしましたが、止まりませんでした。

「何度も見たんです。瑠璃さんが、荷物一つで、門の外へ出ていくところ。何度も、何度も。そのたびに、どうして誰もこの子のために何も言ってあげないんだろうって、泣いたんです」

本当に何度も見たのは、私ではありません。長い夢の中の瑠璃さんです。けれど、そこで瑠璃さんが泣いたぶんまで、私は泣きたかったのです。

「瑠璃さんを、本家にしてあげてください」

私は、畳に手をつきました。

「お願いします。瑠璃さんを、本家にしてあげて」

座敷が、しんとしました。

隣で、瑠璃さんが、すっと手を挙げました。

「あの」

長老が、瑠璃さんを見ました。

「本家はダメでも、海外に幽閉とかはやめてください。私、澪さんとお菓子屋さんを開くって約束したので」

座敷が、もっとしんとしました。

「……菓子屋」

と、真ん中の長老が言いました。

「はい。一品目は、芋ようかんです」

後ろの客の席で、遼さんが、ぶはっと吹き出しました。慎さんが、遼さんの袖を引っぱりました。一臣さまは、口を結んだまま、少しだけ下を向きました。肩が揺れていました。

それから、一臣さまが立ちました。

「婚約を解くことには、私も異存ありません。……菓子屋の件は、私には何も言えません」

「言わなくてよい」

と、長老が言いました。

　＊

長老の方たちは、もう一度、隣の間へ行きました。今度は、すぐに戻ってきました。

真ん中の長老は、紙を読みませんでした。手に持ったまま、私と瑠璃さんを見ました。

「本家の件は、ならん。先ほど言ったとおりだ。あなたの母の企みを、この家が実らせるわけにはいかん」

瑠璃さんは、はい、と言いました。畳の上で、私の手を、そっと握りました。

「外国の件は、取り下げる」

私は顔を上げました。

「星見荘へ移りなさい。そこで、しばらく頭を冷やすように。……二人ともだ」

「二人とも」

「小野の娘。あなたも、頭を冷やしなさい」

長老は、紙をたたみました。

「菓子屋の件は、二十歳になってから、自分で決めればよい。この家は、もう口を出さん」

　＊

星見荘へは、その晩の夜行で行くことになりました。

荷物を一つずつ持って、瑠璃さんと本家の門を出ると、門の外に、大柄な男の人が立っていました。背広の上着を脱いで、腕にかけていました。

男の人は瑠璃さんを見て、少し迷ってから言いました。

「送っていこうか」

瑠璃さんが、息を止めたのが分かりました。長い夢の、いちばん最後の場面でした。

瑠璃さんは、あなた、誰、とは言いませんでした。

「……はい。駅まで。二人ぶん、お願いします」

男の人は私を見て、頷きました。それから、私たちの荷物を二つとも片手で持ちました。

駅までの道で、瑠璃さんはずっと下を向いていました。下を向いて、声を出さずに泣いていました。私は瑠璃さんの手を握って歩きました。男の人は、少し前を、ゆっくり歩いていました。

改札の前で、男の人は荷物を私たちに返しました。

「湖は、まだ寒い。風邪ひかんようにな」

瑠璃さんは、はい、と言いました。それから、もう一度、はい、と言いました。

　＊

夜行の三等車は、寒くて、座席が固くて、ほとんど眠れませんでした。

夜が明けるころ、窓の外が白くなってきました。田んぼに、薄く水が張ってありました。

瑠璃さんが、窓に額をつけたまま言いました。

「説得、結局ダメだったねー」

「本家は、です」

「うん、本家は」

「外国は、なくなりました」

「あれはね、澪の説得じゃなくて、お菓子屋さんの説得だと思う」

「芋ようかんと言ったのが、よかったんだと思います」

「長老さま、最後、ちょっと笑ってたよね」

「笑ってました」

瑠璃さんは額を窓から離して、私を見ました。

「澪。断罪、しなかったね」

「しませんでした。言ったとおりです」

「お話、壊れちゃった」

「壊してしまいました」

「壊れてよかったんだよ」

瑠璃さんは、少し笑いました。

「あのね。夢の中のお話には、一回最後まで見た人しか行けない、裏の道があったりするの。……たぶん、これ、それ」

「裏の道」

「うん。裏の道」

瑠璃さんはしばらく窓の外を見ていました。それから、小さな声で言いました。

「泣いてくれて、ありがとう。夢の中で泣いてた私の分まで」

私は何も言わないで、瑠璃さんの手を握りました。瑠璃さんの手は、今朝は、あまり冷たくありませんでした。

　＊

星見荘に着いたのは、午後でした。

星見荘の門をくぐるのは、父が暇を出されてから初めてでした。桟橋は、事件の次の年に架け替えられていて、板も杭も新しくなっていました。番人小屋には、知らない白髪のおじいさんが住んでいて、私の名前を聞くと、帽子を取って頭を下げました。

夕方、瑠璃さんが言いました。

「灯籠、流したい」

「今、四月ですよ」

「うん。でも、流したい」

番人のおじいさんに訊くと、舟屋に、去年のお盆の残りがあると言いました。

舟屋の戸の前で、瑠璃さんは足を止めました。

八年前の晩、十歳の瑠璃さんが置かれていた場所でした。瑠璃さんの中には、そのときのことを覚えている十歳の瑠璃さんがいるのだと思います。

私は、瑠璃さんの手を取りました。

「一緒に入りましょう」

「……うん」

舟屋の中は、板の匂いがしました。棚の上に、紙の灯籠が重ねてありました。私たちはそれを、両腕に抱えられるだけ抱えて、外へ出ました。

　＊

日が沈んで、湖が暗くなってから、桟橋の先へ行きました。新しい板は、歩いても鳴りませんでした。

灯籠の中の蝋燭に、一つずつ火を入れました。

「これは、おじさまの分」

瑠璃さんが、最初の一つを水に置きました。

「これは、父の分」

私が、次の一つを置きました。

二つの灯籠は、並んで、ゆっくり離れていきました。

「あとはね、澪の夢の中の、私たちの分」

瑠璃さんは、灯籠を一つずつ私に渡しました。私は一つずつ名前を呼んで、水に置きました。

「桟橋の下に、一緒に潜ったるりちゃん」

「帳面をくれて、北の町でお菓子屋さんをしている瑠璃さん」

「豆を食べた、るりかちゃん」

「南浦の造船所の、瑠璃さん」

「はんぶんこした、天導さん」

どの人にも、私は会ったことがありません。夢の中でしか。それでも、みんな瑠璃さんでした。

灯籠は、少しずつ間をあけて、暗い水の上に並んでいきました。

手元には、灯籠が二つ残っていました。瑠璃さんは、その一つを自分で水に置きました。

「これは、夢の中で泣いてた私の分」

それから、最後の一つを、私と二人で持ちました。

「これは」

瑠璃さんは少し考えてから、言いました。

「みんなの分」

誰の分なのか、私は訊きませんでした。二人で、そっと水に置きました。

灯籠は、ほかの灯籠を追いかけるように、ゆっくり沖へ出ていきました。湖の上に、小さな火がいくつも揺れていました。向こう岸までは届かないかもね、と瑠璃さんが言いました。途中で沈んでも、それでいいの、とも。

瑠璃さんは、両手を口の横に当てました。

「みんなハッピーエンドになーれ！」
