# 序章　十八歳、破滅

星の間の天井には、星図が描いてある。

初代がこの家を建てたとき、船乗りだった自分の目に見えたとおりの空を、大広間の天井に写させたのだという。北極星は暖炉の真上にある。私は十歳のときにそれを教わって、それから八年、夜会のたびに天井を見上げる癖がついた。見上げていれば、人と目を合わせなくて済む。

壁には時計が並んでいる。船に積む時計だ。初代が集めた四十三個の船舶用時計は、いまも家令の佐伯（さえき）が毎朝ねじを巻くので、星の間はいつでも、雨の音のような音がしている。

今夜は、私の成年の披露だった。

天導（てんどう）家の跡取りは、十八の春に、星の間で一族と客の前に立つ。祖父の代からそう決まっているのだと、伯父は言った。祖父といっても、私の血の祖父ではない。私は養女だ。この家の帳簿では、そういうことになっている。

ドレスは黒と深紅だった。肩と背中が開いて、裾が床を引きずる。母が選んだ布を、伯父が払った金で仕立てた。着付けの女中が「まるで舞台のようでございます」と言ったので、私は「そうね」と答えた。舞台なのだ。私は、その舞台の演目を、八年前から知っていた。

　　　　　＊

星の間へ降りる前に、母が、私の部屋に来た。

母は、扉のところに立って、私を見た。ドレスを見た。髪の、銀の星を見た。それから、鏡台の引き出しを、見た。見た、と、私は思った。見ていなかったのかもしれない。母は、いつも、何かを見ていて、それが何なのか、私には分からなかった。

「きれいよ」

母は、言った。

「ありがとうございます」

「あの人が、見たら、喜んだでしょうね」

母は、それだけ言って、廊下へ出た。出て、振り返らなかった。私は、鏡の中の自分を、もう一度、見た。十八歳の、天導ルリカ（てんどうるりか）。ゲームの立ち絵と、同じ顔。同じドレス。同じ髪飾り。

違うのは、中身だけだ。

　　　　　＊

客は百人を超えていた。

天導汽船の重役たち。取引先の華族。侯爵家の夫人。私の家庭教師だった老婦人。学院の院長。伯父の招いた客と、伯父が招かねばならなかった客。

シャンデリアの下に、伯父の貞光（さだみつ）が立って、杯を上げた。

「本日は、当家の瑠璃（るり）のために、お運びいただき――」

伯父の声は、よく通った。五十四になっても、大柄で、背筋が真っ直ぐで、天導汽船の常務にして本家の後見人という立場が、そのまま声になったような男だった。私は十四年間、この人の後見の下で育った。この人は、私を「あの子」と呼ぶ。

私の右手には、一臣（かずおみ）の左手が添えられていた。

一臣は伯父の息子で、私の従兄で、十六の春から私の許嫁だった。二十四歳。天導汽船の若手の役員。義務に忠実で、礼儀正しくて、それから――たぶん、少しだけ、私に好意を持っていた。それは、ゲームにはなかったことだ。

壁際に、蘆田慎（あしだしん）が立っていた。医学生。侍医の息子。今夜は父親の代理で来ている。彼は私と目が合うと、少しだけ困ったように頭を下げた。この二か月、彼はずっと、そういう顔をしている。

その隣に、招かれていない男が一人いた。早瀬遼（はやせりょう）。帝都日報の記者。彼がどうやって入ったのかは知らない。彼は、私を見て、口の端で笑った。皮肉な笑い方だった。それから、目で、扉のほうを示した。

扉の外に、誰かがいる。

私は、天井を見上げた。北極星。暖炉の真上。

　　　　　＊

小野澪（おのみお）は、私の隣の席にいた。

離れに住む奨学生が跡取りの成年の披露に招かれるのは、この家では異例のことで、それを言ったのは私だった。伯父は反対しなかった。伯父は、私が澪と親しいことを、良いことだと思っていた。澪の父は、事故の翌年まで、この家の別荘の管理人だった。伯父は、自分の家がその娘を学院へやり、館に住まわせていることを、慈善だと思っていた。

澪は女学院の制服ではなく、質素な紺の洋装をしていた。私が贈ったものだ。奨学生が夜会に着て来られる服を、彼女は持っていなかったから。

「ルリカさん」

澪が、小さな声で言った。伯父の挨拶が続いている。

「今日の朝、三村（みむら）弁護士が来たそうですね」

私は、答えなかった。膝の上のビーズの袋の中で、朝から重い封書が、動いた気がした。

「持っていらっしゃるんでしょう」

澪は、私を見ていなかった。前を見ていた。

「私が持っているものと、あなたが持っているものと、どちらが先か、私は決めていません」

「……澪」

「言わないでください。いま、あなたが何か言えば、私は、あなたを待ってしまう。二年、待ったように」

澪は、膝の上で、手を組んでいた。指が、白かった。

「でも、私は、立ちます」

伯父の挨拶が終わって、拍手が起きた。楽団が弓を上げた。

その音が始まる前に、澪が立ち上がった。

　　　　　＊

「申し上げたいことがございます」

音楽が止まった。給仕が盆を持ったまま止まった。天導汽船の重役たちも、招かれた華族の夫人たちも、私の許嫁も、私の後見人も、私の母も、止まった。

「十四年前の八月十五日の夜、碧湖の桟橋に立っていた男の名を、申し上げます」

私は、天井を見上げなかった。

澪を見ていた。澪は私を見なかった。彼女は伯父を見ていた。伯父は、杯を持ったまま、口の端だけで笑っていた。笑い方が、少し遅れた。

一臣の手が、私の手から離れた。

離れるとき、彼は私を見た。責める目ではなかった。何かを確かめる目だった。

「瑠璃」

小さな声だった。

「君は、十歳のあの夏から、別人のようだった。僕はそれを、良いことだと思っていた」

私は答えなかった。答える言葉が、この八年、一度も見つからなかった。

母は、部屋の端の柱の陰にいた。母はいつも、この家の夜会では、柱の陰にいる。養女の生みの親という、この家の帳簿のどこにも書かれていない立場で、母は十四年間、この星の間の端に立ち続けた。

母の手からブランデーのグラスが落ちて、床で割れた。

その音を、私は、後になって何度も思い出すことになる。この夜のどの言葉よりも、その音を。母は割れたグラスを見なかった。私を見てもいなかった。母の目は、私の後ろの、どこか別の場所を見ていた。この家のどこにもない場所を。

　　　　　＊

澪が名前を言うまでの数秒間に、私は勘定をした。八年分の勘定だ。

私は十歳の夏に目を覚まして、自分が乙女ゲームの悪役令嬢だと知った。断罪される役だと知った。だから、良い子になった。

学院では誰もいじめなかった。奨学生の澪が離れに来た春、私は最初に彼女に手を差し出した。許嫁を澪から奪おうとしたことはない。慎が父親の処方簿を見つけたと言ったとき、私はそれを焼かなかった。遼が館に出入りするのを、禁じなかった。

すべて、ゲームの悪役令嬢がしたことの逆をした。

それで、私はここにいる。

一つだけ、逆をしなかったことがある。私は、四年前に見つけた母の家計簿を、いまも自分の部屋の、鏡台の引き出しの底に隠している。

「――天導貞光さま」

澪は言った。

「私の父は、あの夜、桟橋で、あなたを見ました」

雨の音のように、四十三個の時計が鳴っていた。

私は十歳のあの日から、ずっと良い子だった。

# 第一章　十歳、まだ遅い

「……なければ、よかった」

その言葉の尻尾が、私の口から出ていくところだった。

私は、それを言い終えるまで、自分が何を言っているのか分からなかった。言い終えてからも、分からなかった。頬が濡れていた。枕が濡れていた。誰かが、たったいままで、ここで泣いていた。

天井が高い。白い漆喰に、蔓草の模様。見たことのない天井だった。

起き上がると、身体が軽かった。軽すぎた。手を見た。小さい。爪が丸い。袖は黒い。黒い服の、白いレースの襟が、顎の下でちくちくした。

鏡台があった。

鏡の中に、十歳くらいの女の子がいた。夕暮れの葡萄の色をした長い髪。紫の目。泣いたあとで、目のふちが赤い。髪には、銀の、星の形をした飾りが留めてある。

私は、その顔を知っていた。

「……嘘でしょう」

声が出た。子供の声だった。私は笑いそうになった。実際、少し笑った。笑いながら、もう一度泣きそうになって、それはたぶん、まだこの身体に残っていた誰かの涙だった。

天導ルリカ（てんどうるりか）。

『帝都恋綺譚――瑠璃の館――』の、悪役令嬢。

　　　　　＊

私の部屋には、ゲーム機が二台あった。仕事から帰って、母の病院から帰って、私は毎晩、ゲームをした。乙女ゲームばかりだった。恋をするためではない。誰かの人生の、最初から最後までを、自分の手で選んでみたかったからだ。

自分の人生では、それができなかった。私の名前は、私が生まれる三年前に死んだ姉の名前だった。両親は同じ名前をもう一度つけて、私を「二人目」と呼んだ。母は認知症が進んでからも、最後まで私を姉の名で呼んだ。間違えていたのではない。最初から、そう呼んでいたのだ。

『帝都恋綺譚』は、去年の冬に出たゲームだった。大正の頃の日本によく似た、帝都という街の、華族の館。奨学生の主人公が、令嬢の話し相手として館に入り、三人の男と出会う。冷たい許嫁。優しい医学生。皮肉屋の記者。三人のうち一人を選んで、恋をする。それが、このゲームの全部だ。惹句は「恋をするたび、あの夜に近づく」。館には、ルリカが四歳だった夏の事件が眠っていて、恋を深めるほど、その夜に近づく。けれど、事件は恋の背景で、恋が主だった。主題歌は洋琴と弦楽で、私はそれを、通勤の電車で、毎朝聞いた。

悪役令嬢は、その館の令嬢だった。

天導ルリカ。紫の目。銀の星の髪飾り。四歳のとき、湖の別荘で、養父になるはずだった伯爵を事故で亡くしている。迷子になった自分を探しに来た伯爵が、暗い桟橋から落ちて死んだ。ルリカは、それを自分のせいだと思って育った。

だから冷たい。だから高慢で、だから主人公を妨害して、だから――ルート次第で、婚約を破棄され、幽閉され、外国へ送られる。

三人分のルートを終えると、真相ルートが開く。そこで、館の秘密は全部解ける。伯父が遺言を偽造して、四歳の姪を養女に据えたこと。母が薬を用意したこと。伯父と母が捕まって、ルリカが跡取りの座を失って、家を出ていた元の父が戻ってきて、ルリカが初めて「パパ」と言う。それから、夜明けの星の間に、ルリカが一人で立つ一枚絵。そこで、主人公が誰と歩くかを選んで、ゲームは終わる。

真相ルートまで終えた夜、私は、悪役令嬢を哀れんだ。

哀れんで、寝た。

それだけだ。それだけのはずだった。

　　　　　＊

窓の外に、庭が見えた。西洋風の庭で、芝と、薔薇の垣と、その向こうに石の壁と鉄の門があった。門の向こうは知らない街だった。自動車が一台、ゆっくり通った。黒くて四角い、古い形の自動車だった。運転手が帽子をかぶっていた。

私は、指を折って数えた。

いま、私は十歳。ゲームが始まるのは、主人公の澪（みお）が十六で奨学生として館に来る春。ルリカも、十六の誕生日を迎えたばかり。断罪の夜会は、ルリカが十八の春。

八年ある。

ゲームでは、悪役令嬢は最初から悪役令嬢だ。十五で学院の女王で、十六で奨学生を見下し、十七で証拠を焼き、十八で断罪される。けれど、十歳のルリカは、まだ何もしていない。

私は、この八年で、何でもできる。

私は鏡の前で、もう一度笑った。今度は、はっきり笑った。悪役令嬢に転生したのなら、することは決まっている。良い子になるのだ。破滅の旗を、一本ずつ、折っていくのだ。

そう思いながら、私の手は、頬の涙を拭いていた。私が流したのではない涙を。

　　　　　＊

廊下に足音がして、扉が開いた。

女の人が入ってきた。三十半ばで、痩せていて、黒い着物を着ていた。目が私に似ていた。私が彼女に似ているのだ。彼女は扉を閉めて、しばらく、そこに立っていた。

「瑠璃（るり）」

天導藤乃（てんどうふじの）。ルリカの母。ゲームでは、伯父の計画に協力した女。冷たくて、酒を飲む。真相ルートで、澪に告発される。

「さっきは、言い過ぎたわ」

母は、私の枕元に来て、腰を下ろした。手が伸びて、私の髪を撫でた。撫でる手が、少し震えていた。酒の匂いがした。昼間から。

さっき。

私は、さっきを知らなかった。この身体に入ってからまだ十分ほどしか経っていなくて、その前にここで何があったのかは、濡れた枕と、口に残った言葉の尻尾しか教えてくれない。

「はい」

私は言った。悪役令嬢の母は、悪役令嬢を叱る。ゲームでは、そういう場面が三つあった。そのどれかだろう、と私は思った。思って、それで済ませた。

母は、しばらく私を撫でていた。それから、私の目を覗き込んだ。何かを探すように。

「……泣いたのね」

「はい」

「そう」

母は、それ以上聞かなかった。

「起きられる？ おじさまに、ご挨拶をしに行きましょう」

黒い服。白い襟。線香の匂いが、母の袖からした。

今日は、八月十五日なのだ。

　　　　　＊

仏間は、洋館の中に、そこだけ畳の部屋だった。

床の間に掛け軸と、写真ではなく油絵の肖像が置いてあった。三十そこそこの男が、黒い礼服で、笑わずにこちらを見ている。胸に、銀の星の徽章。私の髪にあるのと同じ形だった。

肖像の前には、珈琲の碗が供えてあった。

「おじさまに、ご挨拶なさい」

私は手を合わせた。合わせながら、頭の中で攻略本をめくっていた。

天導宗一郎（てんどうそういちろう）。先代の伯爵。ゲームでは立ち絵が一枚しかない。「ルリカが四歳のとき、湖で事故死した養父」。ルリカが荒れた理由を説明するための、過去の一枚。命日は八月十五日。好物は珈琲。それだけだ。

六年前、と私は数えた。

真相ルートは、この人が伯父の貞光（さだみつ）と母に殺されたことを教えてくれる。貞光が遺言を偽造して、四歳の姪を養女に据え、後見人として本家を握った。母はそれに手を貸した。ゲームはそう言った。

そして、それは、十八の夜会で明かされる話だ。六年前には、もう終わっている。

「瑠璃」

母の声が、さっきまでと違っていた。低くて、優しかった。

「あなたはこの家の養女。おじさまが最後に望んだことよ。忘れてはだめ」

「はい」

「パパのことは、忘れなさい」

私は顔を上げた。

「パパは、あなたを本家へ差し出して、出て行った。おじさまを死なせた償いにね。もう帰らない」

ゲームでは、ルリカの法律上の父は一行だった。「事故のあと、家を去った」。私は、その一行の裏を考えたことがなかった。悪役令嬢の父がいないのは、いないほうが話が早いからだ。

天導恭介（てんどうきょうすけ）。分家の婿。技師。それしか知らない。

「……はい」

母は、私の返事を聞いて、少しだけ、安心したように見えた。それから、私の髪の銀の星に触れて、言った。

「あなたは、変わったわね」

　　　　　＊

廊下で、伯父に会った。

天導貞光は、五十に近い、大柄な男だった。天導（てんどう）汽船の常務で、この家の当主が幼い間、家を預かる後見人。ゲームでは黒幕。真相ルートで、澪の父が桟橋で見た男。

伯父は、私と母を見て、頷いた。

「藤乃。あの子の家庭教師は、来月から週に三度にする。学院の前に、もう少し仕込まないと」

「……はい、兄さん」

母は言った。伯父は、私には何も言わなかった。私を「あの子」と呼んで、私の頭越しに母に言って、廊下の向こうへ行った。

母は、笑っていた。口だけで。

私は、そのとき初めて、ゲームが教えてくれなかったことを一つ知った。母は、この家で、何も決められない。養女の生みの親という立場で、本家の一番端の部屋に住んで、兄の言うことを聞いている。

ゲームの藤乃は、冷たい女だった。この藤乃は、冷たい女で、それから、負けた女だった。

　　　　　＊

星の間、という部屋を、家令の佐伯（さえき）が見せてくれた。

佐伯は六十過ぎの、痩せた男で、この家に四十年いるという。私が「星の間を見たい」と言うと、少し驚いた顔をして、それから鍵を持ってきた。

大広間だった。天井に星図が描いてあって、壁一面に時計が並んでいた。船に積む時計だという。四十を超える時計が、みんな、少しずつ違う速さで鳴っていた。雨の音のようだった。

「初代さまが、星を頼りに船を導かれたので、天導と」

佐伯は言った。

「あの北極星は、暖炉の真上に。船乗りは、あれを見れば、自分がどこにいるか分かるのだそうで」

私は、天井の北極星を見上げた。

ここで、私は断罪される。八年後の、春に。

「佐伯」

「はい、お嬢さま」

「パパは、いま、どこにいるの」

佐伯の顔が、少し動いた。四十年この家にいる男の顔が動くのを、私は見た。

「……旦那さまが、お聞きになることではございません」

「旦那さま？」

「失礼いたしました。お嬢さまが」

佐伯は、頭を下げた。下げたまま、小さく言った。

「恭介さまは、ご郷里へお帰りになったと伺っております。それ以上は、手前には」

「ご郷里は、どこ」

佐伯は、答えなかった。答えない、ということを、答えた。

私は、その場所を、頭に入れた。星の間と、佐伯の沈黙と、両方を。

　　　　　＊

部屋へ戻ると、石盤が机に立てかけてあった。白墨で字が書いてある。

　パパは　かえってくる

線が、右下から左上へ流れていた。左手で書いた字だ。

私は右利きだった。

私は、その字を、右手で消した。消しながら、変な感じがした。この身体の右手は、白墨を持ち慣れていなかった。字を消す手つきが、自分の手ではないような気がした。それはそうだ、と私は思った。この身体は、私の身体ではない。悪役令嬢の身体だ。私はそれを、借りている。転生とはそういうものだ。

そう思って、それで済ませた。

　　　　　＊

翌日から、学院が始まった。

聖藍女学院の初等部は、本邸から、自動車で十五分だった。

帝都の朝を、私は、初めて、自動車の窓から見た。煉瓦の銀行。柳の並木。市電が、鐘を鳴らして、石畳の上を行く。人力車と、自転車と、荷馬車と、自動車が、同じ道にいた。電柱に、活動写真の看板が貼ってあった。女学生が、海老茶の袴で、編み上げ靴で、二人ずつ歩いていた。港のほうから、汽笛が聞こえた。天導汽船の船だ、と運転手が言った。

ゲームの背景画と、同じ街だった。背景画より、汚くて、うるさくて、匂いがあった。

私は、黒い袴を穿いて、髪に銀の星を留めて、運転手の開ける扉から降りた。降りた瞬間に、門の前にいた子供たちが、二歩、退いた。

退いた、のだ。挨拶ではなく。

「……ごきげんよう、瑠璃さま」

一人が、言った。声が、小さかった。ほかの子は、言わなかった。目を伏せた。

私は、そのとき、知った。この身体の持ち主は、十歳で、すでに、この門の前で、人を退かせる子だった。ゲームの悪役令嬢は、十五で学院の女王だった。女王は、十五で、いきなりなるものではない。

教室には、私の席が、窓際に一つ、離れて置いてあった。誰が置いたのかは、知らない。私が置かせたのか、教師が置いたのか、周りが避けたのか。三つとも、だろう。

昼の休みに、私は、廊下で、一人の子を見た。

痩せた子だった。袴の裾が、少し、短かった。彼女は、私を見て、壁に、背中をつけた。つけて、動かなかった。私が通り過ぎるまで、動かないつもりなのだ。

「あなた」

私は、言った。彼女は、震えた。

「名前は」

「……小暮（こぐれ）、と申します」

「小暮さん。私は、あなたに、何かしたのね」

彼女は、答えなかった。答えないことが、答えだった。

私は、頭を下げた。

十歳の悪役令嬢が、廊下で、袴の短い子に、頭を下げた。周りが、止まった。小暮は、壁に背中をつけたまま、口を開けていた。

「ごめんなさい」

私は、言った。

「何をしたのか、私は、覚えていない。でも、あなたが壁に背中をつけるほどのことを、私は、したのだと思う。ごめんなさい」

小暮は、泣き出した。

泣かせるつもりはなかった。けれど、彼女は、泣いた。泣いて、廊下を、走って行った。周りの子が、私を見ていた。怖がる目ではなかった。分からない、という目だった。

私は、教室に戻って、窓際の席に座った。

これが、最初の一本だった。破滅の旗の。折ったのか、どうかは、分からない。小暮は、泣いて逃げた。私は、彼女に、何をしたのかを、知らない。この身体の持ち主だけが、知っている。そして、その子は、もう、いない。

私は、その日、初めて、そう思った。もう、いない。

思って、それで済ませた。

　　　　　＊

夕食は、部屋に運ばれてきた。

女中は、まだ若かった。名前を聞くと、「フミ」と言って、それから「お嬢さまは、今日はお静かでございますね」と言った。

「いつもは、うるさいの？」

「いえ、そういう意味では――」

フミは、慌てた。私は、慌てさせるつもりはなかった。ただ、知りたかった。この身体の持ち主が、いつも、どういう子だったのかを。

「お嬢さまは、いつも、お夕食のときに、湖のお話をなさいます。八月は、特に」

「湖の」

「はい。別荘の。舟屋の。灯籠の」

フミは、言いにくそうに言った。

「おじさまが、灯籠の火を、一つ、お嬢さまのために、消さずに流してくださったと。四つのときの、あの夜に」

私は、匙を置いた。

ゲームに、そんな話はなかった。ゲームのルリカは、四歳の夜のことを、一度も、自分から話さなかった。

「……そう」

「申し訳ございません。余計なことを」

「ううん」

私は言った。

「ありがとう、フミ」

フミは、また少し驚いた顔をして、下がった。この身体の持ち主は、たぶん、女中に礼を言う子ではなかった。それとも、言う子だったのかもしれない。私には、分からなかった。

　　　　　＊

夕食のあと、私は、本棚の下の段に、写真帖を見つけた。

厚い、革の表紙の写真帖だった。開くと、赤ん坊がいた。おくるみに包まれて、目を閉じている。その横に、痩せた若い女。母だ。二十六の。

めくった。

一歳。庭の芝で、座っている赤ん坊。その後ろに、膝をついた男がいた。大きな手で、赤ん坊の脇を支えている。油の染みのある作業着。垂れた目。笑っている。

天導恭介、と、下に、母の字で書いてあった。

私は、その顔を、初めて見た。ゲームには、立ち絵がない。一行だけの人。

赤ん坊は、男の指を、握っていた。左手で。

めくった。

三歳。本邸の星の間で、宗一郎に抱かれている。四歳。湖。桟橋の手前で、宗一郎の腕の中から、こちらを見ている。髪に、銀の星。

その次の頁は、白かった。

写真は、四歳の夏で、終わっていた。それから六年、この写真帖に、写真は、貼られなかった。

私は、写真帖を閉じて、本棚に戻した。戻すとき、指が、少し、震えた。震えたのは、私の指ではなかった。

　　　　　＊

夜になって、私は勘定をした。

私は良い子になれる。学院で澪をいじめない。一臣（かずおみ）に嫉妬しない。慎（しん）の処方簿を焼かない。遼（りょう）の出入りを禁じない。証拠を隠さない。それで、十八の夜会に私の名前が呼ばれることはなくなる。たぶん。

それから、パパを探す。恭介という人がどこにいるのか、佐伯は答えなかったが、答えないということは、知っているということだ。手紙を書く。この身体の持ち主が、石盤に書いていた人だ。

それから、母を、伯父から引き離す。ゲームの母は伯父の協力者だった。けれど、今日見た母は、兄に頭を下げる女だった。利用されていたのだ。そういう見方も、できる。

私は、指を折った。折っている途中で、指が止まった。

おじさまは、六年前に湖に沈んでいる。パパは、どこかへ行ってしまった。母は、負けたまま、この家の端にいる。この身体の持ち主は、四歳の夏から六年間、自分のせいでおじさまが死んだと思って生きてきて、女中に灯籠の話をして、そして今日、何かを言われて泣いた。

それは、私がどれだけ良い子になっても、もう、どうにもならなかった。

十歳。

まだ、遅い。

その言葉が浮かんだのは、たぶん、私がこの身体の中で最初に感じた、私のものではない感情のせいだった。胸の奥に、重い石のようなものがあって、それは私が入る前からそこにあった。私は、それを、悪役令嬢の設定だと思うことにした。ゲームの中で、ルリカはいつも、そういう顔をしていた。

　　　　　＊

机に向かって、手紙を書き始めた。

　天導恭介さま

そこまで書いて、止まった。この身体の持ち主なら、「パパへ」と書いただろう。私は、この人に会ったことがない。ゲームで一行しか読んだことがない。

私は、その一行の下に、こう書いた。

　わたしは、げんきです。

嘘だった。元気かどうか、私には分からなかった。この身体は、今日、泣いた。私は、泣いていない。

手紙は、封をして、机の引き出しに入れた。宛先が分からないからだ。佐伯が教えてくれるまで、そこにある。私は、そう思っていた。

　　　　　＊

眠る前に、鏡台の前で、銀の星の髪飾りを外した。

裏に、小さな字が彫ってあった。「瑠璃へ」。

ゲームには、この髪飾りの由来はなかった。ルリカの立ち絵に、いつも付いていただけだ。伯父が買い与えたものだと、私は勝手に思っていた。けれど、彫ってある字は、古かった。十年は経っている。

ゲームは、真実の全部を知らないのかもしれない、と私は思った。

思って、髪飾りを鏡台に置いて、眠った。

私がその夜に見た夢を、私は覚えていない。けれど朝、枕は、また濡れていた。

私は、それを、悪役令嬢の設定だと思うことにした。

# 第二章　良い子

良い子になるのは、思っていたより簡単だった。

悪役令嬢の身体は、良い子になるための道具を全部持っていた。紫の目は、黙って人を見るだけで、相手に「見られている」と感じさせた。葡萄色の髪は、それだけで人を退かせた。ゲームのルリカは、その目と髪を、人を退かせるために使った。私は、同じ目と髪で、人に礼を言った。それだけで、人は驚き、それから、少し、私を好きになった。

家庭教師の老婦人は、三か月で「お嬢さまは変わられました」と伯父に言った。伯父は「従順になった」と言い換えた。それでいい、と私は思った。伯父が私を「従順な跡取り」だと思っている間、伯父は私を疑わない。

母だけが、私を、ときどき、変な目で見た。

　　　　　＊

十一の春、私は最初の手紙を出した。

宛先は、佐伯（さえき）が教えてくれた。教えてくれたというより、私が三か月かけて、佐伯の口から一語ずつ引き出した。港町の名前。造船所のある町。恭介（きょうすけ）がそこの生まれで、いまはそこの小さな船大工の工房にいるらしいこと。

「奥さまに、お聞きになったほうが」

佐伯は、最後にそう言った。私は、聞かなかった。母は「パパのことは忘れなさい」と言った人だ。

手紙には、大したことを書かなかった。元気です。学院に通っています。星の間の時計は、いまも佐伯がねじを巻いています。おじさまの命日には、珈琲を供えます。

　パパが帰ってくるのを、待っています。

最後の一行だけ、私のものではなかった。石盤に書いてあった字を、私が右手で書き写した。書き写しながら、この身体の持ち主なら、もっと違うことを書いただろう、と思った。

手紙を持って廊下へ出ると、母がいた。

「出しておくわ」

母は、手を差し出した。私は、一瞬、迷った。それから、渡した。十一歳の養女が、本家の門の外へ手紙を出す方法は、女中に頼むか、母に頼むかしかなかった。

「ありがとうございます」

母は、封筒の宛名を見た。長く見た。それから、「そう」と言って、袖に入れた。

返事は、来なかった。

十二の春にも、十三の春にも、私は手紙を書いた。母は、そのたびに「出しておくわ」と言った。返事は、来なかった。

私は、恭介という人が、本当に、この身体の持ち主を捨てたのだと思うことにした。ゲームの一行は、正しかったのだと。

　　　　　＊

母は、この家で、何もしていなかった。

正確には、何もさせてもらえなかった。本家の女中たちは、母を「藤乃（ふじの）さま」と呼んだ。「奥さま」ではない。奥さまはいない。当主は十歳の養女で、後見人は伯父で、伯父の妻は分家の屋敷にいる。母は、本家の一番端の部屋に住んで、養女の身の回りのことを見て、伯父が決めたことに「はい、兄さん」と言った。

命日の夜に、母は酒を飲んだ。

十二の夏、私は、その部屋を訪ねた。母は、窓の前で、ブランデーを飲んでいた。小さなグラスで、少しずつ。窓の外は、もう暗かった。

「瑠璃（るり）。もう寝る時間よ」

「お母さまは」

「私は、いいの」

私は、母の隣に座った。母は、私を追い払わなかった。追い払う気力もないように見えた。

「お母さまは、おじさまが、お好きだったの」

母は、グラスを止めた。

「……誰が、そんなことを」

「誰も。そう見えるだけ」

母は、長く黙っていた。それから、グラスを置いた。

「あの人は、私を選ばなかったの。二度」

「二度」

「一度目は、私が嫁ぐとき。二度目は、あの人が、侯爵家の令嬢と婚約したとき。どちらも、家のためよ。家のためなら、あの人は、何でも黙って見ていられる人だった」

母は、私を見た。酒で、目が濡れていた。

「あなたも、そういう人になるのよ。本家の人間は、そういうものなの」

「私は」

「なるの。ならなければ、この家では、生きていけない」

私は、答えなかった。母の言葉は、ゲームの母の言葉と、少しだけ違っていた。ゲームの母は「本家になりなさい」と言った。この母は「ならなければ生きていけない」と言った。

「兄がね」

母は、また、グラスを取った。

「あの人が死んで、四か月後に、親族会で言ったの。女は後見人になれない、と。私は、それまで、自分がなるものだと思っていた。この家の帳簿の全部を、私は兄より読めるのよ。それでも、女だから、だめなのですって」

「……お母さま」

「あなたが本家になるのよ、瑠璃。私は、あなたの母。それだけ」

母は、グラスを飲み干した。それから、私の頭に手を置いて、「寝なさい」と言った。声は、優しかった。

私は、部屋に戻って、ゲームの真相ルートを思い出した。貞光（さだみつ）が黒幕で、藤乃が協力者。ゲームは、そう言った。

ゲームは、藤乃が兄に裏切られたことを、言わなかった。

　　　　　＊

学院では、私は、女王にならなかった。

聖藍女学院は、帝都の丘の上にあった。白い木造の校舎と、洋琴のある講堂と、英語と裁縫と体操の授業。生徒は、海老茶の袴に、編み上げ靴。華族の娘は自動車で、商家の娘は市電で、奨学生は歩いて来る。門の前で、それが分かる。

ならない、というのは、簡単ではなかった。女王の席は、空いていれば、誰かが座らせようとする。澪（みお）が来る前年、級長を務める少女が、私のところへ来た。裕福な商家の子で、髪を高く結って、私に、こう言った。

「瑠璃さま。来年、奨学生が入るのですって。天導（てんどう）家の。瑠璃さまの、お話し相手になる子」

「そう」

「別荘番の娘ですって。父親は、もう、死んでいるとか」

彼女は、私の顔を見ていた。私が、何と言うかを、待っていた。ゲームのルリカは、ここで、こう言う。奨学生と、口をきく気はない。

「そう」

私は、言った。

「では、来年、その子に、学院を案内してあげないと」

級長は、口を開けた。

「……瑠璃さまが？」

「私の話し相手になる子なのでしょう。私が、案内しなくて、誰がするの」

彼女は、それ以上、何も言わなかった。言わないで、私から、離れた。離れて、それから、少しずつ、学院の子供たちは、私の周りから、離れた。怖がって離れるのではなく、分からなくて離れた。

女王の席は、空いたままになった。

誰も、座らなかった。

　　　　　＊

十三の秋、一臣（かずおみ）が本家に来るようになった。

十九歳。帝都の大学の法科にいて、卒業したら天導汽船に入ることが決まっていた。背が高くて、伯父に似ていて、伯父より静かだった。彼は、私に対して、いつも一歩の距離を置いた。従兄として、それから、いずれ許嫁になる者として。

「瑠璃。父が、君と僕のことを決めたそうだ」

彼は、庭で、そう言った。

「知っています」

「君は、どう思う」

「一臣さんは？」

「僕は」

彼は、少し考えた。

「父が決めることだ、と思う。それから、君が嫌なら、僕は父に言う」

ゲームの一臣は、冷たい許嫁だった。ルリカに礼儀正しく、ルリカを愛さず、澪と出会って変わる。この一臣は、礼儀正しくて、私に「嫌なら言う」と言った。

「嫌ではありません」

私は言った。嘘だった。嫌だった。けれど、許嫁を嫌がるのは、悪役令嬢がすることではない。悪役令嬢は、許嫁に執着する。私は、その逆をした。執着もせず、拒みもしなかった。

一臣は、頷いた。それから、少し笑った。

「君は、変わったね。十歳の夏から」

「……そうでしょうか」

「良いことだと思う」

彼は言った。私は、その言葉を、褒め言葉として受け取った。

　　　　　＊

十四の夏、命日の朝、私は、自分で、珈琲を淹れた。

台所で、女中に教わって。淹れて、碗に入れて、仏間へ持って行った。肖像の前に、置いた。銀の星の徽章をつけた、笑わない男の前に。

母が、後ろに立っていた。

「あなたは、あの人のことを、覚えていないでしょう」

「四つでしたから」

「瑠璃は、覚えていたわ」

母は、言った。

「珈琲の匂いがすると、あの人の話をした。五つのときも、六つのときも。あの人が、灯籠を一つ、自分のために流してくれた、と。毎年、八月に」

私は、珈琲の碗を、見ていた。

「あなたは、しない」

「……はい」

「良いことよ」

母は、言った。

「泣かない子のほうが、この家では、生きやすい」

母は、仏間を出た。私は、肖像の前に、座ったままでいた。珈琲の湯気が、上がっていた。私は、この人のことを、覚えていない。覚えているのは、ゲームの一行と、写真帖の四枚だけだ。

覚えていた子は、もう、いない。

　　　　　＊

十四の冬、私は、母の文机で、家計簿を見つけた。

探していたのは、切手だった。母の部屋に、母がいないときに入ったのは、初めてだった。文机の引き出しには、切手と、印鑑と、古い帳面が一冊、入っていた。

帳面は、家計簿だった。分家の屋敷にいたころの。母の字で、日付と、品目と、金額が並んでいた。

私は、めくった。めくる手が、途中で止まった。

　四月十二日　蘆田先生　薬
　四月三十日　蘆田先生　薬
　五月十七日　蘆田先生　薬
　六月三日　蘆田先生　薬
　六月二十日　蘆田先生　薬
　七月八日　蘆田先生　薬

その下に、金額ではなく、言葉が書いてあった。

　八月、湖。
　灯籠。舟屋。

十年前の帳面だった。この身体の持ち主が四歳の年の。

私は、それを、閉じた。閉じて、しばらく、持っていた。

ゲームの真相ルートでは、慎（しん）が父親の処方簿を見つける。ルリカが四歳だった年の春から夏に、藤乃が大量の睡眠薬を処方されていたことが、そこで分かる。ゲームは、それを「貞光が妹に買わせた」と解釈した。伯父が計画して、母が手足になった、と。

この帳面は、母の字だった。母が、自分で、日付を書いた。

私は、その帳面を、自分の部屋の鏡台の引き出しの底に入れた。

理由は、いくつもあった。澪がこれを見つければ、母は牢へ行く。ゲームの真相ルートの終わりで、藤乃は拘束される。私は、それを、避けたかった。母は、兄に利用された。兄に裏切られた。伯父さえ暴かれれば、母は、養女の生みの親として、この家の端で、生きていける。

そういう勘定だった。

もう一つ、理由があった。私は、この帳面の「八月、湖」という字を、母の字で見たくなかった。

私は、良い子だった。良い子は、証拠を隠さない。私は、隠した。

隠して、それを、良い子の勘定の中に入れた。母を守るための、と。

　　　　　＊

十五の春、母が、寝込んだ。

酒のせいだ、と女中は言った。伯父は、蘆田（あしだ）医師を呼んだ。蘆田は、来なかった。代わりに、息子が来た。

「蘆田慎と申します。父は、往診が重なっておりまして。代診で」

二十歳の、医学生だった。背が高くて、丸い顔で、鞄を持つ手が、少し、ぎこちなかった。ゲームの攻略対象の二人目。侍医の息子。処方簿を見つける人。

彼は、母を診た。母は、寝台で、目を閉じて、彼の言うことを聞かなかった。彼は、脈を取って、目を見て、それから、廊下に出て、私に言った。

「お酒を、控えていただかないと」

「言っても、聞かないの」

「……そうですか」

彼は、鞄を、両手で持っていた。

「父が、藤乃さまに、昔、薬を出していたと聞いています。眠るための。もう、ずっと前ですが。お酒と一緒に飲むと、危ないものです。もし、まだ、お手元にあるようなら」

「ないと思う」

「そうですか」

慎は、頭を下げた。下げて、それから、少し困った顔で、言った。

「僕は、ルリカさんのことを、学院の友人から聞いていました。冷たい方だと。……違いますね」

「どうかしら」

「違います」

彼は、言った。

「冷たい人は、母親が寝込んで、廊下で、僕の話を聞きません」

彼は、鞄から、小さな本を出した。詩集だった。

「これを。……医者は、詩を読まないと、人を数字で見るようになると、父が言っていました。父は、もう読みませんが」

私は、受け取った。ゲームで、この詩集は、澪に貸される。慎ルートの、最初の贈り物だ。夜の病室で、澪はこれを読む。

「ありがとう。読んだら、返します」

「いつでも」

彼は、帰った。私は、廊下に立ったまま、鏡台の引き出しのことを、考えた。四月から七月まで、六度。蘆田先生、薬。

慎は、まだ、それを、知らない。彼が父親の処方簿を見つけるのは、二年後だ。ゲームでは。

詩集は、一月で返した。返すとき、私は言った。「来年、奨学生が来ます。この詩集は、その子のほうが、好きだと思う」。慎は、困った顔をして、「では、その方に」と言った。私は、それでいい、と思った。この人の詩集は、澪のものだ。

　　　　　＊

十五の夏、命日の夜に、母は、また、ブランデーを飲んでいた。

私は、隣に座った。三年前と同じように。母は、私を、追い払わなかった。

「あなたは、私に、優しいのね」

母は、言った。

「瑠璃は、私を、怖がっていた。四つのときから。私を見ると、目を伏せた。私が名前を呼ぶと、肩が、少し、上がった」

母は、グラスを、回した。

「あなたは、目を伏せない」

「……お母さま」

「良いことだと、思うわ」

母は、言った。それから、グラスを、飲み干した。

「良いことだと、思うことにしている」

　　　　　＊

十六の春、小野澪が来た。

彼女は、聖藍女学院の天導奨学生として、本家の離れに住むことになった。奨学生は、令嬢の話し相手を務める。それが、この家の奨学生制度の決まりだった。伯父が続けている制度で、伯父は、それを慈善だと思っていた。

私は、離れの玄関で、彼女を待った。

澪は、小さな鞄を一つ持って、門から歩いてきた。紺の袴。まっすぐな目。ゲームの主人公の立ち絵と、同じ顔だった。当たり前だ。同じ人なのだ。

「小野澪です。お世話になります」

「天導ルリカ（てんどうるりか）です」

私は、手を差し出した。

澪は、その手を見た。それから、私の顔を見た。彼女は、握らなかった。

「……お嬢さまは、奨学生に、そのようになさるのですか」

「私は、そうします」

澪は、少し考えて、私の手を握った。冷たい手だった。門から、長く歩いてきたのだ。

「変な方ですね」

「よく言われます」

澪は、笑わなかった。けれど、目が、少しだけ、動いた。

ゲームでは、この場面で、ルリカは澪を「奨学生」と呼んで、離れの門限を言い渡す。澪は、その夜、父の手紙を読んで、泣く。

私は、澪を、離れの中まで案内して、それから、自分の部屋に戻って、鏡台の引き出しを見た。開けなかった。

学院では、翌週、級長が、澪の机の前に立った。

「奨学生の方は、令嬢の席の隣には、座らないものよ」

澪は、立ち上がろうとした。私は、彼女の袖を、押さえた。

「私が、座らせたの」

私は、言った。

「私の話し相手なのだから、私の隣が、一番、話しやすいでしょう」

級長は、私を見た。私の紫の目を。私は、彼女を、見返した。見返しただけだ。ゲームのルリカが、人を退かせるために使った目で、私は、ただ、見た。

彼女は、退いた。

澪は、袖を押さえた私の手を、見ていた。それから、小さく、言った。

「……そういうことを、なさると、あなたが、困りますよ」

「困らない」

「困ります。私は、この学院で、あなたに守られた奨学生になる。あなたは、奨学生を守る令嬢になる。どちらも、この学院では、変な人です」

「変な人で、いい」

私は、言った。澪は、初めて、少しだけ、笑った。笑って、座り直した。私の隣に。

　　　　　＊

遼（りょう）は、学院の門に、いた。

澪が来て、二月目だった。私たちは、自動車で、門まで帰る。その門の前に、背広の男が、立っていた。帽子を、斜めにかぶって、煙草を、指に挟んでいた。

「小野澪さんですね」

彼は、澪に言った。私にではなく。

「帝都日報の、早瀬と申します。天導汽船の件で、少し」

澪は、止まった。私は、澪の前に、出た。

「彼女は、この家の奨学生です。天導汽船のことは、天導汽船に聞いてください」

男は、私を見た。見て、笑った。皮肉な笑い方だった。

「令嬢が、奨学生を守るとは」

「守っているのではありません。門の前で、記者に囲まれるのは、誰でも嫌でしょう」

「囲んではいませんよ。一人だ」

彼は、煙草を、地面で、消した。

「早瀬遼。覚えておいてください。天導汽船の労働争議を、追っています。ですが、追っているうちに、古い話に行き当たりましてね。十二年前の、湖の」

私は、彼を、見た。ゲームの三人目。記者。財閥を憎む外部者。電信局の控えを探して、村へ行って、乳母を見つける人。

「古い話は、古い話です」

「古い話ほど、新しい話になる。……失礼」

十二年前の夏。私が四歳だった夏だ。もうすぐ、あの夜から十二度目の夏が来る。

彼は、帽子を上げて、去った。

澪は、私の後ろで、黙っていた。それから、言った。

「なぜ、かばったのですか」

「かばっていない」

「かばいました」

澪は、私を見ていた。

「あの人は、私に、話を聞きに来たのです。私の父の話を。それを、あなたは、止めた」

「……そう」

「あなたは、変な方です」

澪は、言った。三度目だった。

　　　　　＊

澪は、慎重だった。

彼女は、私に何も話さなかった。学院では、私の隣に座り、私の言うことを聞き、私が話しかければ答えた。それだけだった。彼女は、私が優しいことを、警戒していた。ゲームの主人公は、悪役令嬢が優しいという展開を知らない。

七月に、本邸で、納涼の夜会があった。

星の間に、氷の柱が置かれ、蓄音機が回った。一族と、天導汽船の若い役員と、学院の院長が来た。ゲームの共通ルートで、澪が初めて洋装を着る夜だ。ゲームでは、澪は、女中の古い洋装を借りて、裾を踏む。

私は、自分の洋装を、一着、澪に贈った。紺の、飾りのないもの。「私には、地味だから」と言って。澪は、断ろうとして、断らなかった。奨学生は、断れない。それを、私は知っていて、贈った。良い子のすることかどうかは、分からなかった。

一臣が、私のところへ来た。許嫁は、最初の一曲を、許嫁と踊る。

「瑠璃」

「一臣さん。私、少し、疲れているの」

私は、言った。

「澪と、踊ってあげて。あの子は、洋装が初めてで、誰も誘わないから」

一臣は、私を見た。それから、澪を見た。澪は、壁際で、蓄音機を見ていた。

「……君が、そう言うのなら」

彼は、澪のところへ行った。礼儀正しく、頭を下げて、手を差し出した。澪は、驚いて、それから、その手を取った。二人は、踊った。澪は、一度、一臣の足を踏んだ。一臣は、謝らなかった。澪も、謝らなかった。

ゲームの一臣ルートの、最初の一曲だった。ルリカが練習を休んだ日に、一臣が澪に相手を頼む場面。私は、それを、一年早く、自分の手で作った。

慎が、壁際で、それを見ていた。遼は、来ていない。記者は、夜会に招かれない。

私は、氷の柱の横に立って、蓄音機の音楽を聞いていた。一曲が終わって、一臣が、私のところへ戻ってきた。

「瑠璃。次は、君と」

「はい」

私は、彼の手を取った。彼の手は、大きくて、乾いていた。私たちは、踊った。彼は、私の足を踏まなかった。私も、踏まなかった。義務のように、正確に。

「君は、変わった」

彼は、踊りながら、言った。

「奨学生に、洋装を贈って、僕に、踊れと言う。三年前の君なら、しなかった」

「三年前の私は、十三でした」

「そうだな」

彼は、少し、笑った。

「僕は、いまの君のほうが、好きだ」

私は、答えなかった。これは、ゲームにない台詞だった。この人が、私に言う台詞は、ゲームには一つしかない。「君は、十歳のあの夏から、別人のようだった」。夜会で。私の手を離しながら。

私は、その台詞を、待っていた。この人の好意は、私のものではない。この人の好意が向かう先は、いま、壁際で、氷の柱を見ている。

この身体で誰かを好きになって、その先まで約束していいのか。考えかけて、私は、澪を見た。ゲームの二人を結びつけるほうが、自分の答えを出すより、楽だった。

彼女が、初めて自分のことを話したのは、夏だった。

離れの縁側で、私たちは、学院の宿題をしていた。澪が、ふと、顔を上げた。

「私の父は、四年前に死にました」

「……そう」

「別荘番でした。碧湖の、星見荘の」

私は、筆を止めた。

「父は、私が六つのとき、理由もなく解雇されました。それから、ずっと、貧しかった。死ぬ前に、私に、一つだけ話したことがあります」

澪は、私を見た。

「あなたは、聞きたいですか」

私は、聞きたかった。聞きたくなかった。ゲームでは、この場面は、澪が一臣に話す。ルリカには、話さない。

「あなたが、話したいなら」

澪は、しばらく黙って、それから、言った。

「父は、あの夜、桟橋に、男が立っているのを見ました。伯爵さまが落ちる前に。捜索が始まる前に。父は、その男が、綱を外すのを見ました」

「綱」

「父が、その日の午後に、桟橋の先に張った綱です。手すりが、危なかったので」

私は、筆を置いた。

「男の名前は」

「父は、言いませんでした。言えば、私が殺されると思ったのでしょう」

澪は、宿題に目を戻した。

「でも、私は、知っています。父が解雇されたのは、その男が、この家の後見人になった翌年でした」

私は、何も言わなかった。

伯父だ。ゲームの真相ルートで、澪の父が桟橋で見た男。

そのとき、私は、決めた。澪を、伯父へ導く。伯父の書斎、伯父の手紙、伯父の書生。ゲームで澪が伯父にたどり着く道を、私は全部知っている。その道を、少し、ならしてやればいい。

母のほうへ続く道には、鏡台の引き出しの中の帳面がある。それは、そこにある。

私は、良い子だった。

「澪」

「はい」

「あなたの父上が見たものを、この家で、誰にも言ってはだめ。私にも、もう言わないで」

「……なぜ」

「あなたが、殺されるから」

澪は、私を見た。長く見た。それから、初めて、笑った。

「本当に、変な方ですね」

私は、笑い返した。笑い返しながら、勘定をした。慎は、そろそろ、父親の処方簿を見つける。遼は、古い事故を追って、さらに澪へ近づく。一臣は、そろそろ、父親の書斎の鍵を、澪に見せてしまう。

全部、ゲームのとおりに進む。

進まなかったのは、私だけだ。私は、ゲームのルリカがしたことの逆をした。逆をして、澪の隣に座って、澪の父の話を聞いて、澪に「言うな」と言った。

それが、良い子のすることだと、私は、そのときは、まだ思っていた。

# 第三章　星の間

十七の秋、蘆田慎（あしだしん）が処方簿を持ってきた。

彼は、父親の診療所から、それを持ち出してきた。古い帳面で、革の表紙が擦り切れていた。彼は、それを、澪（みお）ではなく、私のところへ持ってきた。

「ルリカさん」

離れの縁側で、彼は、帳面を膝に置いたまま、しばらく黙っていた。医学生で、二十三歳で、侍医の息子で、私より背が高いのに、いつも、私より小さく見える人だった。

「父の帳面です。十三年前の。藤乃（ふじの）さまに、父が、薬を」

「知っています」

私は言った。慎は、顔を上げた。

「……知って」

「四月から七月まで、六度。眠るための薬。一度に、一人の女が眠るには多すぎる量」

慎は、帳面を、私に差し出した。

「これを、あなたに渡します。あなたが、どうするか、決めてください」

ゲームでは、ルリカはこの帳面を焼く。慎の目の前で。慎は、それを止められず、澪に「写しがある」と告げる。薬局の譲受簿の写しが。ルリカの焼却は、無駄で、そして、ルリカの罪になる。

私は、帳面を、受け取らなかった。

「澪に、渡してください」

「……ルリカさん」

「私に渡せば、私は、それを隠します。隠さないと言えない。だから、私に渡さないで」

慎は、私を見ていた。困った顔で。この人は、二年前からずっと、私に対して困った顔をしている。ゲームでは、彼はルリカを憎む。この慎は、私を憎めなくて、困っている。

「父を、あなたは、どう思いますか」

彼は、聞いた。

「藤乃さまが眠れないと言ったから、薬を出した。それだけです。父は、たぶん、それだけです」

「それだけです」

私は言った。

「それだけで、人は、人を殺せるんです」

慎は、帳面を持って、帰った。翌週、澪が、それを持っていた。

　　　　　＊

澪は、私に、正面から聞いた。

「ルリカさん。藤乃さまの家計簿を、持っていますか」

離れの、澪の部屋だった。机の上に、処方簿が開いてあった。四月十二日。四月三十日。五月十七日。日付が、私の鏡台の引き出しの中の帳面と、一つずつ、合っている。

「家計簿」

「薬を買った経緯を、藤乃さま自身が書き残しているかもしれません。兄に買わされたというだけで、済ませてよいのか、確かめたいんです」

「……そんなものが、あるの」

「分かりません。あれば、あなたが持っているでしょう」

私は、澪を見た。澪は、私を見ていた。まっすぐな目で。この二年で、彼女は、私をよく知っていた。私が優しいこと。私が嘘をつかないこと。私が、彼女の父の話を聞いたあと、「言うな」と言ったこと。

「知らない」

私は言った。

澪は、頷いた。

「そうですか」

それだけだった。彼女は、それ以上、聞かなかった。聞かないということが、答えだった。

帰り際に、澪は、扉のところで、言った。

「ルリカさん。私は、あなたが優しいことを、知っています」

「……澪」

「優しい人が、何かを隠すときは、誰かを守るためです。私の父も、そうでした。父は、桟橋の男の名前を、私に言わなかった。私を守るために。……父は、それで、貧しく死にました」

澪は、私を見ていた。まっすぐな目で。

「私は、あなたに、それをしてほしくない」

「私は、あなたの父上とは、違う」

「違います。あなたは、令嬢で、父は、別荘番でした。でも、隠すものが人を守ると思っているところは、同じです」

澪は、頭を下げた。

「おやすみなさい」

私は、離れの縁側に、一人で残った。鏡台の引き出しは、本邸の二階にある。そこから、離れまで、百歩もない。私は、その百歩を、歩かなかった。

　　　　　＊

十七の秋、成年の夜会のための舞踏の練習が、始まった。

半年後の夜会で、跡取りは、許嫁と踊る。それが、この家の決まりだった。星の間に、週に一度、舞踏の教師が来た。蓄音機が回った。一臣（かずおみ）が、天導（てんどう）汽船から、その一時間のために帰ってきた。

「瑠璃（るり）。足を踏んだら、謝りません。義務ですから」

「では、私も、謝りません」

これは、ゲームで、一臣が澪に言う台詞だった。ルリカが練習を休んだ日に。私は、練習を休まなかった。休めば、この人は、澪に相手を頼む。それは、ゲームの筋だ。私は、それを、止めなかった。止めなかったが、休まなかった。

「君は、一度も休まないな」

三か月目に、彼は、言った。

「休めば、一臣さんが、困るでしょう」

「困らない。……小野（おの）さんに、頼む」

「そう。だから、休まないの」

一臣は、足を止めた。蓄音機は、回り続けていた。

「瑠璃。君は、僕と小野さんを、近づけたいのか、遠ざけたいのか、どちらだ」

「近づけたい。でも、私の手で、ではなく」

「……分からないな」

「分からなくて、いいんです」

私は、言った。

「一臣さんが、自分で決めたことだけが、一臣さんのものになる。私が休んだ日に澪と踊っても、それは、私が作った一曲になる」

彼は、長く、私を見た。それから、また、踊り始めた。

「君は、変わった。……いや、それは、もう、何度も言った」

「何度でも、どうぞ」

彼の手は、正確だった。私の足を、踏まなかった。私も、踏まなかった。私たちは、半年、そうやって踊った。義務のように。それから、夜会の夜に、彼は、私の手を離した。

　　　　　＊

一臣が、封筒を持ってきたのは、その秋の終わりだった。

彼は、本邸の庭で、私を待っていた。二十三歳。天導汽船に入って、二年目だった。彼は、背広を着て、いつもより、顔が白かった。

「瑠璃。父の書斎で、これを見つけた」

彼は、封筒を、差し出した。開けると、手紙の下書きだった。伯父の字で。宛名は、親族会の、長老たちの名前だった。日付は、私が四歳の年の、七月。

　万一、伯爵の身に不慮のことがあれば、後見は分家が――

私は、読んだ。読んで、彼に、返した。

「なぜ、私に」

「君が、僕の許嫁だからだ」

一臣は、言った。

「君に、まず、見せるべきだと思った。父が、伯爵さまが死ぬ一か月前に、こういうものを書いていた。それを、君は、知っておくべきだ。それから、僕は、これを、どうするか、決める」

「一臣さんは、どうしたいの」

「分からない」

彼は、言った。正直に。

「父は、僕の父だ。……だが、これは、書いてはいけないものだ」

私は、庭の薔薇を、見た。秋の薔薇は、少なかった。

「澪に、渡して」

私は、言った。

一臣は、私を見た。

「……君が、そう言うのか」

「私が言うから、渡すのではなく、あなたが決めて、渡して」

彼は、長く、黙っていた。それから、封筒を、内ポケットに入れた。

「分かった」

彼は、言った。

「僕が、決める」

その封筒は、二週間後、澪の机の上にあった。私は、それを見て、勘定に入れた。伯父への道は、これで、三本になった。澪の父の遺言。慎の処方簿。一臣の封筒。

母への道は、鏡台の引き出しに、一本だけ。私が、持っている。

　　　　　＊

遼（りょう）は、その冬、私と澪を、新聞社に連れて行った。

帝都日報は、河岸の煉瓦の建物だった。輪転機の音が、床を震わせていた。活字の棚。インクの匂い。若い記者たちが、帽子をかぶったまま、机で原稿を書いていた。

「令嬢が、新聞社を見たいとはね」

遼は、言った。皮肉な顔で。

「澪が見たいと言ったの。私は、付き添い」

「付き添いは、外で待つものだ」

「外は、寒いから」

遼は、笑った。それから、私たちを、輪転機の前に立たせた。

「記事は、これで、一晩に十万枚になる。十万枚になれば、人が動く。俺は、そう思って、十年書いてきた」

澪は、輪転機を、見ていた。まっすぐな目で。ゲームの遼ルートの、この場面だ。澪が、記者という人間を、初めて理解する場面。

「早瀬さん」

澪が、言った。

「あなたが書いた記事で、動かなかった人は、いますか」

遼の顔が、止まった。

「……いる」

「誰ですか」

「俺の父だ。財閥の工場で死んだ。記事にならなかった。俺が記者になったのは、そのあとだ」

澪は、頷いた。それ以上、聞かなかった。

帰り道、河岸の珈琲店で、遼は、珈琲を三つ頼んだ。珈琲店には、蓄音機と、洋燈と、壁に活動写真の広告があった。学生と、記者と、会社員が、新聞を読んでいた。

「令嬢。あんたは、なぜ、この子を、俺のところへ連れてくる」

遼は、澪が手洗いに立った隙に、言った。

「連れてきたのは、澪です。私は、付き添い」

「付き添いが、澪さんの隣で、澪さんより先に、俺の記事を読んでいる」

「面白いから」

「……面白い、か」

遼は、煙草に火をつけた。

「俺は、あんたが面白い。悪役令嬢が、主人公の付き添いをしている。……あんたが、そう見えるのは、俺だけかね」

私は、珈琲を、飲んだ。苦かった。この人は、ゲームを知らない。知らないで、ゲームの語を使った。

「早瀬さんは、澪を、どう思っているの」

「まっすぐな目だ。まっすぐな目は、記事に向かない。人に向く」

彼は、それだけ言って、煙を吐いた。

　　　　　＊

遼が、お絹（おきぬ）を見つけたのは、冬だった。

早瀬遼。帝都日報の記者。二十五歳。彼は、二年前、学院の門で澪に声をかけた。天導汽船の労働争議を追っていて、澪が本家の奨学生だと知って、近づいた。ゲームでは、そういう始まりだ。そして、ゲームでは、彼は澪を通じて古い事故に行き当たり、電信局の控えを探し、村へ行き、解雇された乳母を見つける。

彼は、それを、全部した。

「乳母は、村にいた」

彼は、離れの縁側で、澪にではなく、私に言った。彼は、私が澪と親しいのを、面白がっていた。悪役令嬢が主人公の友人になった、と、彼はある日、そう言った。彼は、ゲームを知らない。それでも、そう言った。

「お絹という女だ。三十代も終わりに近い。事故のあと解雇されて、金をもらった。十四年、誰にも言わなかった」

「何を」

「あの夜、藤乃さまが、赤ん坊に薬を飲ませて、舟屋に置いたことを」

私は、縁側の板を見ていた。

「それから、婿の恭介（きょうすけ）という人も見つけた」

遼は言った。

「港町の、船大工の工房にいる。あの夜、電報で呼び出されて駅へ行った。本社に会議はなかった。帰ったら、伯爵が死んでいて、自分が責められていた」

「……その人は、何と」

「何も。十四年、何も言わなかった人だ」

遼は、煙草に火をつけた。

「俺は、記事にする。伯父上のことも、藤乃さまのことも。だが、その前に、当人に言わせたい」

「当人」

「恭介氏を、夜会に連れてくる。あんたの成年の披露の夜に」

私は、遼を見た。彼は、皮肉な顔をしていた。皮肉な顔の下に、別の顔があった。

「なぜ」

「記事にすれば救ったことになる、と、俺はずっと思ってきた。十年、そう思って書いてきた。だが、あの男を見て、そうじゃないと思った。あの男は、記事で救われる人間じゃない」

彼は、煙を吐いた。

「あんたを見ても、そう思う」

　　　　　＊

十八の誕生日の朝、三村（みむら）弁護士が来た。

七十近い、小さな老人だった。この家の顧問弁護士を、先代の、そのまた先代のときから務めている。彼は、応接室で、私を待っていた。伯父は不在だった。母は、部屋にいた。

「お嬢さま。本日は、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「亡き宗一郎（そういちろう）さまから、お預かりしているものがございます。瑠璃が十八になったら渡してほしい、と」

彼は、鞄から、封書を出した。厚い封書だった。封蝋に、星と羅針の紋。

「十八年近く、お預かりいたしました」

私は、それを受け取った。

「中身を、ご存じですか」

「存じております。手前が、封をいたしましたので」

三村は、頭を下げた。

「お読みになったあと、お嬢さまがどうなさるかは、お嬢さまがお決めになることです。宗一郎さまは、そうおっしゃいました」

彼は、帰った。私は、封書を持って、自分の部屋へ上がった。

　　　　　＊

中には、三つのものが入っていた。

一つ目は、書類の写しだった。

　遺言　私、天導宗一郎は、天導藤乃の産みし女子、瑠璃を、我が子と認知する。この認知は、私の死をもって効力を生ずるものとする。

日付は、私が生まれた年の、八月。署名。三村の証明。

私は、それを、三度読んだ。

養女ではなかった。伯父が偽造した遺言でもなかった。ゲームは、そう言った。ゲームは、嘘ではなかった。ゲームは、知らなかっただけだ。

おじさまは、父だった。この身体の。

二つ目は、手紙だった。宗一郎から母への。

　藤乃。女の子なら、瑠璃と。初代の船の名だ。瑠璃丸。父は、あの船の話をするときだけ、船乗りの顔になった。あの船は、星だけを頼りに、帰ってきた。

　この子にも、帰る場所があるように。

私は、髪飾りに触れた。銀の星。裏に「瑠璃へ」。

三つ目は、母の手紙だった。母から宗一郎への。何通もあった。宗一郎が、捨てなかったのだ。

　あなたは、私を選ばなかった。それでいい。私は、あなたを選ぶことをやめない。

　この子は、あなたの子です。あなたが生きている間、あなたがそれを言えないことは、分かっています。家のためでしょう。あなたは、家のためなら何でも黙って見ていられる人だから。

　だから、せめて、あなたが死んだときには、この子を、あなたの子だと認めてください。あなたが生きている間は、何も求めません。あなたが死んだときには、せめて。

私は、手紙を、膝に置いた。

「あなたが死んだときには、せめて」

遺言認知は、母の発案だった。

伯父の計画に、母が手を貸したのではない。母が、最初に、その一行を書いた。宗一郎が生きているうちは、何も求めない。死んだときには、せめて。宗一郎は、それを、愛情だと思って、書いた。

私は、鏡台の引き出しを開けた。底から、家計簿を出した。四月十二日。四月三十日。「八月、湖」。

十四歳の冬から四年、私は、これを隠していた。母を守るために。母は、兄に利用されたのだから。

母は、利用されたのではなかった。母が、設計した。

　　　　　＊

午後、母が部屋に来た。

母は、ノックをしなかった。扉を開けて、入ってきて、私の膝の上の封書を見た。封蝋の紋を見た。家計簿を見た。

母は、酒を飲んでいた。

「三村ね」

「はい」

「あの人らしいわ。死んでからも、自分では何も言わないで、人に言わせるのね」

母は、私の鏡台の前の椅子に座った。座って、私を見た。

「読んだの」

「はい」

「そう」

母は、しばらく黙っていた。それから、言った。

「あなたは、十歳のあの夏から、別人になった」

私は、答えなかった。

「あの子は、どこへ行ったの」

「……お母さま」

「瑠璃なら、それを出さないわ。瑠璃は、私の子だもの。瑠璃は、私が何をしたかを聞いて、泣いて、それから、私をかばうのよ。あなたは、四年、かばった。それは、瑠璃に似ていた。でも、今夜、あなたは、それを出す」

母は、立ち上がった。

「そういう顔をしている」

母は、部屋を出て行った。扉を、閉めなかった。

　　　　　＊

星の間の天井には、星図が描いてある。

その下で、澪が伯父の名前を言い、一臣の手が私の手から離れ、母のグラスが割れた。

そこから先を、私は、順番に見た。

澪は、父の遺言を読んだ。小野弥吉（おのやきち）が死の床で娘に残した手紙。桟橋の先に張った綱。それを外した男。捜索が始まる前に、暗い桟橋の先に立っていた男。

澪は、処方簿を出した。慎が、壁際で、目を伏せた。

澪は、お絹を呼んだ。扉の外から、遼が、三十代後半の女を連れてきた。木綿の着物で、髪に、白いものが混じっていた。彼女は、星の間の入り口で、立ち止まった。シャンデリアを見上げて、それから、百人の客を見て、それから、私を見た。

「……お嬢さま」

彼女は、言った。小さく。

「お絹さん。話してください」

澪が、言った。お絹は、震えながら、話した。藤乃さまが、あの夜、赤ん坊に薬を飲ませ、舟屋の座布団に寝かせたこと。自分に、台所へ行けと命じたこと。自分は、行った。行って、戻ってきたとき、藤乃さまが、伯爵に「瑠璃がいない」と言うのを聞いたこと。

「あたしは、お嬢さまが舟屋にいるのを、知っていました」

お絹は、言った。

「奥さまが、そこに置いたのを、見ていました。それでも、言わなかった。あたしは、あのとき、二十四で、奥さまに逆らえなかった。……逆らうべきでした」

彼女は、私を見た。

「お嬢さまは、赤ん坊のとき、薬を吐く子でした。あたしは、それを、何度も見ました。あの夜だけ、吐かなかった。あたしが、そばにいなかったから」

私は、お絹を、見ていた。この人が言っていることを、私は、知らなかった。この身体の持ち主が、赤ん坊のとき、薬を吐く子だったことを。ゲームは、そんなことを、教えてくれなかった。

「行き違いだ」

伯父が言った。声は、通っていた。

「電報は、行き違いだ。乳母は、金が欲しいのだろう。別荘番の娘は、父親の妄想を」

「電報は、行き違いではありません」

扉の外から、男の声がした。

遼が、もう一人、連れてきた。五十を過ぎた、痩せた男だった。作業着ではなく、古い背広を着ていた。背広は、袖が短かった。

私は、その人を、見たことがなかった。

「天導恭介です。かつては」

男は言った。

「あの夜、私は、本社からの電報で駅へ向かいました。本社に、会議はなかった。翌朝、帰ってみると、伯爵は死に、私は娘から目を離した男になっていた。電信局で控えを見ると、電報は分家の事務所から打たれていました。私は、それを、誰にも言いませんでした」

「なぜ」

澪が聞いた。

「言っても、信じる者がいなかった。それから、親族会で、侍医が言った。娘の血液型は、私の子ではありえない、と」

恭介は、私を見た。

初めて、見た。十四年ぶりに。

「私は、嫡出否認の書類に署名しました。血のない私が、娘のためにできる、唯一の父親らしいことだと思ったからです。娘は本家の養女になり、私は家を出た」

彼は、少し、言葉を切った。

「娘から、手紙が来ることは、一度もありませんでした」

私は、立ち上がっていた。

「……手紙は」

声が、出た。

「手紙は、毎年、書きました。十一の春から。母が、出しておくと」

恭介は、私を見ていた。母は、柱の陰で、割れたグラスの上に立っていた。母は、何も言わなかった。

ゲームの真相ルートでは、ここで、ルリカが、初めて「パパ」と言う。恭介が進み出て、「お前は迷子になったのではない。置かれたのだ」と言い、ルリカは、長く黙って、それから、その一語を言う。恭介は、ルリカを抱く。プレイヤーは、そこで泣く。私も、泣いた。元の世界の、最後の冬に、自分の部屋で。

私は、言えなかった。

その一語は、私の言葉ではなかった。石盤に、左手で書いた子の言葉だった。私は、その子の身体で、恭介に手紙を書いた。石盤の言葉を写して、パパが帰ってくるのを待っています、と書いたこともあった。けれど、自分の言葉で、パパ、と呼びかけることは、できなかった。

恭介は、私を見ていた。抱かなかった。私が、その一語を言わなかったからだ。ゲームと、違う夜になった。

　　　　　＊

私は、ビーズの袋を開けた。

封書を出した。遺言の写しを出した。三村の証明のある、それを、澪に渡した。

「遺言は、本物です」

私は言った。百人の客に。伯父に。一臣に。母に。

「私は、養女ではありません。宗一郎さまの、血の娘です。この遺言認知は、宗一郎さまの死をもって効力を生じるものでした。伯父が偽造したのではない。宗一郎さまが、ご自分で書かれた」

私は、母の手紙を出した。

「そして、この遺言を書かせたのは、母です。宗一郎さまが生きている間は何も求めない、死んだときには、せめて、と。宗一郎さまが死ななければ、この遺言は、何の意味もなかった」

私は、家計簿を出した。

「これは、母の家計簿です。私が、四年前に見つけて、四年間、隠していました」

澪が、それを受け取った。彼女は、私を見た。

「あなたは、優しかった」

澪は言った。

「でも、四年間、優しさは、証拠を隠す理由にはならなかった」

「知っています」

私は言った。

　　　　　＊

そのあとのことは、速かった。

遼が呼んでいた警部が、扉から入ってきた。伯父は、抵抗しなかった。抵抗する男ではなかった。彼は、杯を置いて、私を見て、「あの子が」と言った。それだけだった。

母は、家令の佐伯（さえき）に腕を取られた。佐伯は、四十年を超えてこの家にいる男の顔で、母に「奥さま」と言った。初めて、そう呼んだ。母は、それを聞いて、少し笑った。

母は、私を見た。

「瑠璃なら」

母は言った。

「しなかったわ」

一臣が、私の前に立った。彼は、礼儀正しかった。最後まで。

「瑠璃。僕は、父の息子として、この婚約を解消する。君のためではない。僕のためだ」

「……はい」

「君は、十歳のあの夏から、別人のようだった。僕は、それを、良いことだと思っていた。いまも、そう思う」

彼は、頭を下げて、父のあとを追って出て行った。

親族会の長老が、震える声で、跡取りの指名の取り消しを告げた。私は、それを聞いた。百人の客が、私を見ていた。悪役令嬢の断罪は、こういうものだ。ゲームで、三度、見た。四度目は、私が、自分でした。

　　　　　＊

星の間に、誰もいなくなった。

時計だけが、鳴っていた。雨の音のように。

私は、床に座った。ドレスの裾が、割れたグラスの上に広がった。

勘定をした。最後の勘定だ。

おじさまは、父だった。母は、おじさまの死を、私が生まれた年の八月に、遺言という形で、設計した。四歳の夏の別荘の夜は、その設計の、実行だった。伯父は、その実行の、手足だった。ゲームは、逆に描いた。ゲームは、知らなかった。

そして、この計画は、少なくとも、私が生まれた年には、もう、あった。

私が生まれた年の八月に、母は、宗一郎に手紙を書いた。それより前に、母は、それを考えていた。分家の屋敷で。誰にも言えずに。夫は、欺く相手。兄は、信用できない相手。恋人は、標的。

誰かに、言っただろうか。

母は、私に話すことがあった。十二歳の私に、酒を飲みながら。あれが、最初だったとは、限らない。

もっと小さくて、聞いたことを忘れるはずの子にも、話しただろうか。

揺りかごの前で。そう考えた。考えただけだ。手紙は、そこまでは、教えてくれない。けれど、四歳へ戻って、実行の夜だけを待つのでは、また、母のしたことを見落とすかもしれなかった。戻れるなら、はじめまで。計画が形になる前から、見たい。

私は、天井を見上げた。北極星。暖炉の真上。

その横の窓に、文字が浮かんでいた。

　はじめから
　やめる

ゲームのタイトル画面と、同じ字体だった。「つづきから」がなかった。代わりに、ゲームにはなかった項目が、一つ、あった。

やめる。

私は、それを、長く見た。

やめる、を選べば、私は、この身体を出る。この身体は、十歳の夏から私が使っていた身体だ。その前に、誰かがいた。その誰かは、「……なければ、よかった」と言って、いなくなった。私は、その誰かのことを、八年間、悪役令嬢の設定だと思って、考えなかった。

考えなかった、のではない。考えないようにしていた。石盤の左手の字を、右手で消したときから。フミが、灯籠の話をしたときから。母が「変わったわね」と言ったときから。母が、今日の午後、「あの子は、どこへ行ったの」と言ったときから。

あの子は、四歳の夏に、灯籠を一つ、もらった。おじさまが、あの子のために、消さずに流した。それから六年、あの子は、それを、女中に話した。八月になると、毎晩。

私は、その灯籠を、見ていない。

やめる、を選んで、この身体を出れば、この身体は、どうなる。あの子が、戻ってくるのか。戻ってきて、何を見る。母が拘束され、伯父が拘束され、跡取りの指名が取り消され、百人の客が帰った星の間の床に、割れたグラスとドレスの裾。

それが、私が、あの子に返せるものか。

やめる、は、まだ、選ばない。

この身体を、こんな終わりのままで、返せない。

はじめから。

私が生まれた年の、揺りかごの前へ。母が、誰にも言えないことを、赤ん坊には言ったかもしれない場所へ。

何も聞けないかもしれない。それでも、まだ、何も起きていないところから。

今度は、私が、聞く。

私は、はじめから、を選んだ。

四十三個の時計が、一斉に、止まった。

# 第四章　産声

暗かった。

暗い、というより、何もなかった。上も下もなく、音もなく、私は、どこにもいなかった。時計が止まった音の続きを、待っていた。

それから、痛みが来た。

背中を、何かが叩いた。もう一度。冷たい空気が、身体の内側へ入ってきて、内側は、それを知らなかった。肺は、一度も開いたことがなかった。開くというのは、裂けることだった。

私は、叫んだ。

叫んだ、と思った。出たのは、猫のような、細い、湿った音だった。

「――泣いた」

女の声がした。遠い。

「泣きましたよ、奥さま。ああ、泣いた。三分も。産道を出てから三分も、息をなさらなかった。もう、だめかと」

私は、泣き続けた。泣くほかに、できることがなかった。光があった。光は、痛かった。目は、開いているのか閉じているのか分からなかった。何かが、私を拭いた。布が、ざらざらしていた。

「奥さまに、お顔を」

私は、抱き上げられた。世界が傾いた。

そして、近くに、顔があった。

三十センチ。それより向こうは、私には見えない。その三十センチの中に、女の顔があった。汗で髪が張りついて、目が、大きく開いていた。目は、紫だった。

母だった。二十六歳の、母だった。

「……瑠璃（るり）」

母は言った。

産婆が、何か言った。母は、聞いていなかった。母は、私を見ていた。私は、母を見ていた。見ている、と、母に分かるほどには、私の目は動かなかった。

「帰ってきたのね」

母は、そう言った。

私は、そのとき、それが何を意味するのか、分からなかった。分かるのは、四年後だ。

　　　　　＊

私は、生まれたのではなかった。

それは、最初の夜に、はっきり分かった。

私は、産道を通っていない。産道を通るのは、身体だ。身体は通った。産婆が言ったとおり、通って、出て、それから三分、息をしなかった。その三分の、どこかで、私は来た。星の間の時計が止まった音の続きに、私は、ここにいた。

十歳のときも、そうだった。あのとき、身体は十歳で、私は、あとから入った。

だから、覚えている。

私は、そう思った。思ってから、それがなぜなのかを、考えなかった。考えることが、できなかった。眠気が、思考の上に、重い布のように落ちてきた。赤ん坊は、一日に十六時間眠る。私は、それを、知識として知っていた。知識と、眠気の重さは、別のものだった。

眠りの合間に、私は、勘定をした。

私は、いま、天導ルリカ（てんどうるりか）だ。四月に生まれた。この家は、分家の屋敷だ。本家ではない。母は、分家の娘で、父は――

父は、二人いる。

一人は、この家の婿で、技師で、恭介（きょうすけ）という。もう一人は、本家の当主で、伯爵で、宗一郎（そういちろう）という。私は、ゲームで、宗一郎の立ち絵を一枚しか見ていない。十八の夜会で、三村（みむら）の封書を読んで、初めて、その人が父だと知った。

そして、四年後の八月十五日に、その人は、湖で死ぬ。

母が、そう決めたから。

私は、そのすべてを、知っていた。

そして、できることは、泣くことだけだった。

　　　　　＊

母は、自分で乳をやった。

それは、この屋敷では、変わったことだった。分家とはいえ、天導（てんどう）の家の奥さまが、乳母を使わずに、自分で乳をやる。女中たちが、廊下で、そう言うのが聞こえた。聞こえた、というより、私の耳は、声しか拾わないので、声だけが、いつも、はっきりしていた。

「奥さまは、お嬢さまを、片時もお離しにならない」

「本家の血ですから」

「しっ」

乳母の代わりに、子守が来た。お絹（おきぬ）という娘だった。二十歳で、碧湖の村から来たという。村の言葉が、少し混じった。彼女は、私を抱くとき、いつも同じ歌を、鼻で歌った。歌詞のない歌だった。彼女の匂いは、日向の匂いと、干し草の匂いだった。

「お嬢さま。お絹ですよ。よろしくお願いします」

彼女は、私に、そう言った。赤ん坊に、よろしくお願いします、と言う人だった。

私は、彼女を、知らなかった。ゲームには、乳母は名前で出てこない。「解雇された乳母」だった。十八の夜会で、遼（りょう）が連れてきた、三十代後半の女。震えながら、藤乃（ふじの）さまが赤ん坊に薬を飲ませて、と言った女。

この人だ。

私は、この人の胸に顔を押しつけて、眠った。

　　　　　＊

身体は、私の言うことを、何一つ、聞かなかった。

腹が減ると、泣いた。私が泣こうと思う前に、泣いた。乳が来ると、口が、勝手に吸った。吸いながら、私は、二十七年分の羞恥を、一度に味わった。羞恥は、身体には届かなかった。身体は、満足して、眠った。

湯に入れられるのは、もっと、悪かった。

お絹が、盥に湯を張って、私を、そこに入れる。私は、湯の中で、手足を、ばたつかせる。ばたつかせているのは、私ではない。反射だ。赤ん坊は、湯に入れると、手足を動かす。私は、その手足の内側で、じっとしていようとした。じっとしていられなかった。

「お嬢さま、お嬢さま。暴れないで」

お絹は、笑った。

「元気ですねえ。三分も息をしなかった子とは、思えない」

私は、湯の中で、泣いた。泣いたのは、身体だ。悔しかったのは、私だ。

夜は、長かった。

眠りは、三時間ごとに、切れた。切れるたびに、私は、泣いた。泣くと、誰かが来た。母か、お絹か。来て、乳をやるか、おむつを替えるか、揺するか。私は、その間、天井を見ていた。天井は、ぼやけていた。三十センチより向こうは、私には、ない。

私は、その三十センチの中で、四年を、生きなければならなかった。

　　　　　＊

恭介は、三日目に来た。

来た、というより、それまでも来ていたのだろう。私が眠っていて、知らなかっただけだ。三日目の夕方、私が目を開けていたとき、大きな手が、私を持ち上げた。

「……こう、かな」

手は、ぎこちなかった。首の後ろに指が回って、それでも、私の頭は、少し、ぐらついた。油の匂いがした。鉄の匂いも。造船所から帰ったままの手だった。

顔が、三十センチのところに来た。

三十三歳の、恭介だった。

痩せてはいなかった。背広の袖は、短くなかった。目は、大きくて、少し、垂れていた。十八の夜会で、扉から入ってきた男は、五十を過ぎて、痩せていて、袖の短い背広を着ていて、私を見て、「娘から手紙が来ることは一度もありませんでした」と言った。

同じ人だった。

「ルリカ」

彼は、そう呼んだ。瑠璃、ではなく。彼は、その名前を、自分の舌の上で、確かめるように言った。

「父さんだよ」

私は、泣いた。

泣いたのは、身体だった。抱き方が悪くて、首が落ちそうだったからだ。けれど、それだけではなかった。私は、この人に、十八年後の袖の短い背広を、着せたくなかった。

「ああ、ごめん。ごめん」

恭介は、慌てて、私を母に渡した。母は、私を受け取って、慣れた手で抱き直した。母は、恭介を見て、少し、笑った。口だけで。

「あなたは、不器用ね」

「面目ない」

「いいのよ。この子は、私が見るから」

恭介は、頷いた。頷いて、それから、私の頬に、指で触れた。

「元気で、よかった。三分も、息をしなかったと聞いて――」

「もう、いいでしょう。その話は」

母が言った。恭介は、黙った。

私は、そのときの恭介の顔を、覚えている。この人は、何かを言いかけて、言わなかった。言わないことに、慣れている顔だった。

　　　　　＊

七日目に、本家から、人が来た。

お七夜、と、女中が言った。名付けの日だという。この国では、生まれて七日目に、子の名を決める。それを、本家の当主が来て、してくれる。分家の子にしては、破格のことだ。廊下で、女中たちが、また、そう言った。

「本家の血ですから」

「しっ」

私は、母の腕の中で、玄関のほうを向いていた。向いていた、というのは、母がそう抱いていたからだ。

足音が、二つ。

一つは重くて、一つは軽かった。

「藤乃。やあ、お疲れさま」

重いほうの声が、そう言った。私は、その声を、知っていた。十八の夜会で、杯を上げて、「本日は、当家の瑠璃のために」と言った声。三十六歳の貞光（さだみつ）だった。

「兄さん」

「伯爵もお見えだ。ほら、こちらへ」

軽いほうの足音が、近づいた。

顔が、三十センチのところに来た。

三十歳の、宗一郎だった。

私は、仏間の油絵を思い出した。黒い礼服で、笑わずにこちらを見ている、三十そこそこの男。胸に、銀の星の徽章。

油絵は、笑っていなかった。この人は、笑っていた。困ったように、それから、嬉しそうに。目のふちに、細かい皺が寄った。

「……小さいな」

彼は、そう言った。

「小さいですよ、伯爵さま。赤ん坊ですもの」

母が言った。母の声は、この家の誰に対するものとも、違っていた。私は、その違いを、耳だけで分かった。

「抱いても、いいかな」

「どうぞ」

宗一郎は、私を抱いた。恭介より、上手だった。上手なのが、私は、少し、嫌だった。この人は、赤ん坊を抱くのが上手で、それから、大事なことを言わないのが上手だった。

「名前は、決めたのか」

貞光が、後ろから言った。

「決めた」

宗一郎は、私を見たまま、言った。

「瑠璃。瑠璃丸の、瑠璃だ」

「初代の船か」

「父は、あの船の話をするときだけ、船乗りの顔になった。あの船は、星だけを頼りに、嵐の中を帰ってきた。この子にも、帰る場所があるように」

私は、その言葉を、知っていた。十八の夜会の朝、三村の封書の中で、読んだ。母への手紙に、書いてあった。

いま、その言葉を、この人は、母の前で、貞光の前で、恭介の前で、言った。誰にでも言える言葉として。誰にも本当の意味を分からせないままで。

恭介が、玄関の端に立っていた。彼は、言った。

「良いお名前です。ありがとうございます、伯爵さま」

「恭介くん。君の娘だ。君が、決めても」

「いえ。伯爵さまに、いただけるなら」

宗一郎は、頷いた。恭介を、見なかった。

「それから、これを」

宗一郎は、懐から、小さな包みを出した。開くと、銀の、星の形をした髪飾りだった。赤ん坊には、大きすぎた。

「本家の星だ。大きくなったら」

母が、それを受け取った。母の手が、少し、震えていた。私は、母の腕の中にいたので、それが分かった。

髪飾りは、揺りかごの枕元に、置かれた。

私は、それを、見た。三十センチより遠かったので、光る何かとしてしか、見えなかった。

十八の夜会の朝、私は、それを外して、裏の字を読んだ。「瑠璃へ」。それより八年前、十歳の夏の夜にも、読んだ。ゲームは、その由来を知らなかった。

私は、いま、知っている。

　　　　　＊

宗一郎が帰ったあと、貞光は、残った。

彼は、母の部屋で、椅子に座って、茶を飲んでいた。私は、母の腕の中にいた。恭介は、宗一郎を門まで送って、まだ、戻っていなかった。

「藤乃」

貞光は、茶碗を置いた。

「伯爵は、なぜ、うちの子に、名前をつけた」

「お優しいからよ」

「本家の船の名前だぞ。本家の星の髪飾りだぞ。分家の子に、そんなものを」

「兄さん」

母は、私を、揺すった。揺すりながら、言った。

「私が、頼んだの。分家には、血がないから、せめて名前だけでも、本家のものを、と。伯爵は、断れない人だから」

貞光は、妹を、見た。長く、見た。それから、私を見た。生まれて七日の、私を。

「……お前が、頼んだのか」

「ええ」

「なぜ」

「本家になりたいからよ、兄さん。分家の女は、みんな、そう思っているでしょう。思っているだけで、何もしない。私は、名前だけ、頼んだの」

貞光は、茶碗を、取った。飲まなかった。

「名前だけ、か」

「名前だけ」

母は、言った。

貞光は、それ以上、聞かなかった。茶を飲み干して、立ち上がった。揺りかごの横を通るとき、私を、もう一度、見た。

私は、彼を見上げた。三十センチより遠かったので、大きな影としてしか、見えなかった。

「藤乃。お前は、昔から、頭がいい」

彼は、扉のところで、言った。

「それが、いつか、お前を、困らせる」

母は、答えなかった。

私は、母の腕の中で、聞いていた。この二人は、まだ、何も共有していない。母は、兄に、名前のことしか言わなかった。血のことも、遺言のことも、まだだ。母は、一人で、始めた。一人で、始めて、一人で、私に、話す。

半年後、母は、兄に、話す。話して、兄は、後見人の座を、取る。

その半年の間、母の共犯者は、私だけだった。

　　　　　＊

その夜、母は、揺りかごの横に、揺り椅子を持ってきた。

女中たちが下がって、恭介が書斎に引き取って、お絹が隣の部屋で眠ってから、母は、一人で、来た。手燭を持って。手燭を、床に置いて。

母は、揺り椅子に座った。しばらく、私を見ていた。

「瑠璃」

低い声だった。昼間の声とも、宗一郎に向けた声とも、違った。

「あなたが、本家になる日の話を、しましょうね」

私は、目を、閉じた。

閉じたのは、眠かったからだ。眠気は、いつでも、私の思考の上に、重い布のように落ちてくる。けれど、閉じたまま、私は、聞いていた。

「今日ね。あの人が、あなたに、名前をくれたでしょう。瑠璃丸の、瑠璃。本家の船の名前。本家の星の髪飾り。誰も、何とも思わない。伯爵さまは、お優しいから、分家の子にも、と。そう思う。それでいいの」

母は、揺り椅子を、少し揺らした。

「あの人はね。あなたを、自分の子だと、言わないの。生きている間は、言えないの。家のためよ。家のためなら、あの人は、何でも黙って見ていられる人だから」

母の声は、静かだった。怒っていなかった。それが、怖かった。

「だから、私は、あの人に、頼むの。生きている間は、何も求めない。死んだときには、せめて、と。あの人は、書くわ。あの人は、そういう頼み方をされると、断れないの。それが優しさだと、思っているから」

私は、目を閉じたまま、聞いていた。

遺言認知。あなたが死んだときには、せめて。

母の手紙に書いてあったことを、いま、母は、揺りかごの前で、声に出して言った。手紙を書く前に。

「あの人が死んだら、あなたは、本家の血を引く、たった一人の子になる。分家には、血がないの。三代前に、養子で立てた家だから。本家の人たちは、私たちを、そう呼ぶのよ。血のない分家。私は、その分家の娘」

母は、揺り椅子を止めた。

「でも、あなたは、違う。あなたには、血がある。私が、入れたの」

私は、そのとき、目を開けそうになった。開けなかった。開ければ、この人は、話さなくなる。それを、私は、まだ知らなかった。知らないまま、ただ、動かなかった。

「誰にも、言えないの」

母は、言った。

「あの人には言えない。恭介には言えない。兄さんには――兄さんには、いつか、言うことになるでしょう。でも、いまは、言えない。あなたにだけ、言うの。あなたは、まだ、何も分からないから」

母は、立ち上がった。私の頬に、指で触れた。宗一郎と、同じ触れ方だった。

「あなたが本家になる日には、私も、本家になるのよ。瑠璃」

手燭が、遠ざかった。扉が、閉まった。

私は、目を開けた。暗かった。枕元で、光る何かが、光っていた。

　　　　　＊

母は、それから、毎晩、来た。

八月の終わりの夜、母は、いつもより遅く来た。着物が、昼のままだった。本邸へ行って、帰ってきたばかりなのだ。

「瑠璃。書いてくださったわ」

母は、揺り椅子に座らずに、揺りかごの縁に、手を置いた。

「あの人が。私の頼んだとおりに。生きている間は何も求めない、死んだときには、せめて、と言ったら、あの人は、泣きそうな顔をして、書いてくださった。三村に、封をして、預けたわ。あの人の死をもって効力を生ずる、と」

母は、笑った。小さく。

「あの人は、私の手紙を、捨てなかった。三村に、一緒に預けたのですって。娘が大きくなったら渡す、と。……優しい人。優しいから、自分の書いたものが何なのか、分からないの」

私は、目を閉じていた。

十八の誕生日の朝、三村が届けた封書。遺言の写し。命名の手紙。母の手紙。それは、この夜、預けられた。母が、揺りかごの縁に手を置いて、笑った夜に。

「これで、あなたは、鍵になったのよ」

母は、言った。

「本家の扉の、鍵に」

毎晩、同じ時間に、揺り椅子を揺らして、話した。話は、いつも、同じ話ではなかった。同じ話の、続きだった。

「本家の家憲にはね、当主は初代の血を引く者に限る、と書いてあるの」

「あの人が結婚して、子を作ったら、あなたは、何でもなくなる。だから、あの人は、結婚してはだめ。結婚する前に――」

「恭介はね、優しい人よ。あの人は、あなたが自分の子でないことに、気づいているの。気づいていて、見ないの。それが、あの人の優しさ。それを、私は、使うの」

「親族会というものがあってね。あの人が死んで、あなたが幼いうちは、親族会が、あなたの後見人を決めるの。私が、あなたの母だから、私が」

私は、聞いた。全部を、聞けたわけではない。眠気が、話の途中で、私を持っていった。目が覚めると、母は、子守唄を歌っていた。子守唄と、絵本と、計画とが、同じ声で、同じ夜に、混ざっていた。

そして、母は、一度も、嘘をつかなかった。

赤ん坊に、嘘をつく人はいない。嘘は、相手が分かるときに、つくものだ。母は、私が分からないと思っていた。だから、母は、私に、真実だけを話した。

この人は、毎晩、私に、真実を話す。

私は、それを、聞いている。

四年後の八月十五日まで、私に、できることは、それだけだった。

# 第五章　気持ち悪い子

三か月で、首が、すわった。

すわった、というのは、自分の意志で、横を向けるようになった、ということだ。それまで、私の頭は、置かれたところに置かれていた。母が右を向かせれば右を向き、お絹（おきぬ）が左を向かせれば左を向いた。三か月目のある朝、私は、自分で、母のほうを向いた。

母は、話している最中だった。昼間で、お絹に、何か言いつけているところだった。

母の口が、止まった。

「……お絹」

「はい、奥さま」

「この子、私を見ているわ」

「ええ、お嬢さまは、奥さまがお好きで」

「そうじゃないの」

母は、私を見た。私は、母を見ていた。母の口を、見ていた。母が話すとき、私は、いつも、母の口を見ていた。それまでは、私の頭が、母の口のほうを向いていなかっただけだ。

「口を見ているのよ。話すと、口を見るの。赤ん坊は、目を見るものでしょう」

「さあ、そういうものでしょうか」

「気持ち悪いわ」

母は、そう言った。

小さな声だった。お絹に言ったのではない。自分に言った。それから、母は、私を抱き上げて、頬に頬を寄せた。寄せながら、もう一度、小さく、言った。

「気持ち悪い子」

私は、その日から、目を閉じることを覚えた。

　　　　　＊

母が、話さなくなったのは、その日からだった。

夜、揺り椅子は、来た。母は、座った。座って、私を見た。私は、目を開けていた。母は、子守唄だけを歌って、帰った。

三日、それが続いた。

四日目の夜、私は、目を閉じていた。閉じて、眠っているふりをした。眠っているふりは、赤ん坊には簡単だ。本当に眠っている時間のほうが、長いからだ。

母は、揺り椅子を、揺らした。

「……瑠璃（るり）」

低い声が、戻ってきた。

「今日ね、蘆田先生が来たの。血液型というものを、調べるんですって。新しい学問よ。血で、親子が分かるんですって。全部は分からないの。でも、違う、ということは分かる。あの人が、この子の父ではありえない、ということが」

母は、笑った。小さく。

「恭介（きょうすけ）はO型ですって。造船所で、怪我をしたときに調べたそうよ。私はA型。あなたが何型か、二歳になったら、調べましょうね。そのときに分かるの。恭介が、あなたの父では、ありえないと」

私は、目を閉じたまま、聞いていた。

母は、まだ私の血を調べてもいないのに、結果を知っているように話した。

十八の夜会で、恭介は言った。親族会で、侍医が言った。娘の血液型は、私の子ではありえない、と。私は、嫡出否認の書類に署名しました。

その血液型を、母は、いま、揺りかごの前で、仕込んでいる。

「あなたが恭介の娘として登録されている間は、あの人の遺言があっても、本家の子には移せない。恭介自身に、自分の子ではないと、言ってもらわなくちゃ」

母は、揺り椅子を、一度、止めた。

「そうすれば、恭介は、あなたを、手放すわ。あの人は、そういう人だから。自分に血がないと分かれば、身を引くの。それが優しさだと、思っているから」

母の言葉は、ゆっくりで、確かで、そして、私が目を開けていれば、止まる言葉だった。

私は、目を、閉じ続けた。

　　　　　＊

夜泣きが、始まった。

始めたのは、私ではない。身体だ。四か月を過ぎた頃から、身体は、夜中に、理由もなく、泣いた。私が泣きたくなくても、泣いた。喉が勝手に開いて、肺が勝手に縮んで、涙が勝手に出た。

私は、その泣き声の中で、自分の考えを、探した。考えは、泣き声の下に、沈んでいた。

「お嬢さま、お嬢さま」

お絹が、抱き上げて、揺すった。歌った。歌詞のない歌を。

「奥さまを、お呼びしましょうか」

「いいえ」

母は、もう、そこにいた。母は、いつも、夜は、近くにいた。

「蘆田先生の、お薬があるわ」

匙が、来た。

匙は、見えなかった。見えるのは、母の顔の輪郭と、光る何かが、口に近づくことだけだ。匂いは、分かった。甘い。その奥に、苦い。

「お薬よ。ぐっすり眠れるお薬」

母は、赤ん坊に話しかける声で言った。赤ん坊に話しかける声は、この人の場合、誰に話しかけるときより、正直だった。

「蘆田先生のお薬は、よく効くわ」

舌の上に、糖蜜が落ちた。

私は、飲まなかった。飲まないという意志は、赤ん坊の舌には、伝わりにくい。舌は勝手に動く。呑み込む前に、私は、顔を横に向けた。首は、もう、自分の意志で横を向く。糖蜜が、頬を伝って、襟に落ちた。

苦かった。甘さの奥で、舌の根が、痺れるように苦かった。

私は、その味を、覚えた。

「あら」

母は、匙を置いた。

「飲まないの。いいわ。今夜は、お話だけにしましょう」

お絹は、下がらされた。母は、私を抱いて、揺り椅子に座った。私は、泣き止んでいた。泣き止んだのは、母の腕の中で、身体が、勝手に安心したからだ。私は、それが、嫌だった。嫌だと思いながら、目を閉じた。

「あなたが、迷子になるの」

母は、言った。

「少しだけ。ほんの少しの間。それで、あの人が、あなたを探しに行くの。あの人は、あなたが大好きだから。あなたを、自分の子だと言えなくても、あなたを探しには行くの。そういう人だから」

私は、聞いていた。

「暗いところは、危ないでしょう。桟橋は、古いし。あの人は、お酒を飲むし。だから――」

続きは、なかった。母は、歌い始めた。子守唄だった。

私は、頭の中で、聞いたことを並べた。彼が死んだら、遺言。私が本家になる日。あなたが迷子になる。あの人があなたを探しに行く。暗いところ。桟橋。お酒。

迷子。

ゲームでは、ルリカは、迷子になった。迷子になった自分を探しに来た伯爵が、暗い桟橋から落ちて死んだ。ルリカは、それを、自分のせいだと思って育った。

迷子は、手段だった。

母が、私を、迷子にする。

並べても、口から出るのは、湿った息だけだ。私は、生まれてから四か月、一度も言葉を出していない。出せる日が来ても、それを信じる大人はいない。

廊下に、足音がした。

「藤乃（ふじの）、まだ起きていたのか」

恭介だった。母の腕が、少し、固くなった。

「この子が、ぐずるので」

「そうか。……代わろう」

恭介の手は、大きくて、油の匂いがした。私は、その手の指を、握った。把握反射というやつだ。赤ん坊は、触れたものを握る。私は、反射のふりをして、握った。離さなかった。

「おや」

恭介が、笑った。母は、笑わなかった。

「ルリカ、おまえは、父さんの指が好きだな」

私は、この人に、伝えたかった。あなたの妻は、あなたを遠ざけて、あなたの従兄を殺す。あなたが預かったことにして。あなたの娘は、迷子になる役だ。あなたは、血液型で、娘を手放す。

私が伝えられたのは、指を離さないことだけだった。

それでも、恭介は、私が眠るまで、そこにいた。母は、その間、何も話さなかった。

　　　　　＊

宗一郎（そういちろう）が、一人で来たのは、五か月のときだった。

昼だった。恭介は、造船所にいた。貞光（さだみつ）は、本社にいた。お絹は、母に言われて、庭にいた。母の部屋に、母と、宗一郎と、私だけがいた。

私は、揺りかごの中で、目を閉じていた。

「大きくなった」

宗一郎の声がした。近かった。揺りかごの上に、顔があるのだ。

「五か月ですもの」

「……藤乃」

「ええ」

「静子の話は、まだ、断っている」

母は、答えなかった。

「親族会が、うるさい。貞光も。だが、私は、まだ、と言っている。……いつまで、そう言えるかは、分からない」

「断り続けて」

母は、言った。低い声で。

「あなたが結婚しないなら、私は、何も求めない。あなたが生きている間は、何も」

「藤乃」

「あなたが死んだときには、せめて。それだけ。あなたは、もう、書いてくださった。三村（みむら）に、預けてくださった。それで、私は、いいの」

沈黙があった。長い沈黙だった。私は、目を閉じたまま、二人の息の音を聞いていた。

「……私は、卑怯だな」

宗一郎が、言った。

「生きている間は言えないことを、死んだあとに言わせようとしている」

「卑怯でいいのよ」

母は、言った。

「あなたは、そういう人。私は、そういう人を、好きになったの」

衣擦れの音がした。二人が、近づいたのだと思った。私は、目を閉じていた。閉じたまま、この二人の間に、揺りかごが一つ、置いてあることを、思った。

母は、この人を、殺す。

この人は、それを、知らない。知らないで、母に、触れているのだろう。さっきの衣擦れの音から、私は、そう思った。母は、この人が死んだときのことを、私に、毎晩、話している。

「瑠璃は、私に似ているか」

宗一郎が、聞いた。

「目が」

「……そうか」

「あとは、私に」

「それでいい」

宗一郎は、言った。

「あとは、君に似ていればいい」

私は、目を開けなかった。開けなかったので、この人が、どんな顔をしていたのか、分からない。分からないままで、いいと思った。この人の顔は、仏間の油絵で、八年、見た。笑っていない顔だった。

いまは、たぶん、笑っている。

　　　　　＊

六か月で、座れるようになった。

座れるようになると、世界が、少し、広がった。三十センチが、五十センチになった。顔が、顔として見えるようになった。母の顔は、痩せていて、目が大きくて、そして、ときどき、私を見て、止まった。

貞光が、来た。

彼は、月に一度は、この屋敷に来た。分家の当主だから、当たり前だ。彼は、妹の部屋に来て、揺りかごを覗いて、「大きくなったな」と言って、それから、妹と話した。

私は、彼が来ると、泣いた。

最初は、身体が泣いたのだと思う。人見知り、というものが、始まる時期だった。けれど、二度目からは、私が泣いた。泣けば、貞光は、揺りかごから離れる。離れた場所で、母と話す。離れた場所の話は、赤ん坊の耳には、届かないと思っている。

届いた。

「この子は、私が嫌いらしい」

「赤ん坊ですもの」

「藤乃。この間の話だが」

「ええ」

「お前は、伯爵に、遺言を書かせたと言ったな」

私は、泣き止んだ。泣き止んで、聞いた。

「書かせたわ。三村のところに、封をして預けてある。あの人の死をもって効力を生じる、と」

「それを、なぜ、いま、私に」

「兄さんに、いつか話すことになると、思っていたから。親族会は、兄さんが動かすものでしょう」

貞光は、しばらく、黙った。

「……伯爵が死んだあと、あの子が本家の血を引く唯一の子だと分かれば、親族会は、あの子を跡取りにする。そこまでは、いい。だが、藤乃。後見人は、誰だ」

「私よ。母だもの」

「親族会は、女を後見人にはしない」

母が、黙った。

「私が、なる。それしかない。お前は、あの子の母として、本家に入ればいい。それで、十分だろう」

「……十分」

「藤乃。血のない分家が、本家を手に入れるんだ。三代、待った。それを、お前が始めた。私は、それを、終わらせる。それだけだ」

母は、長く黙って、それから、言った。

「ええ。兄さん」

私は、揺りかごの中で、その「ええ」を、聞いた。

十二歳の夏、命日の夜、母は、ブランデーを飲みながら、私に言った。兄がね、あの人が死んで四か月後に、親族会で言ったの。女は後見人になれない、と。

四か月後ではなかった。

母は、私が六か月のときに、それを聞いていた。聞いて、「ええ」と言った。言って、それでも、計画を続けた。

私は、そのとき、それが何を意味するのか、まだ、分からなかった。分かったのは、ずっと後だ。母は、兄に裏切られたのではない。母は、裏切られると知っていて、それでも、本家になろうとした。それしか、なかったから。

　　　　　＊

八か月で、這った。

這うと、世界が、床の高さで、広がった。私は、部屋の隅から隅まで、行けるようになった。行ける、ということと、行ってよい、ということは、別だった。お絹が、いつも、私を連れ戻した。

その月、私は、初めて、本家に連れて行かれた。

伯爵が、赤ん坊を見たいと言ったのだという。分家の奥さまが、赤ん坊を連れて、本邸へ行く。女中たちが、廊下で、また、何か言った。

自動車で、行った。黒くて、四角い、古い形の自動車だった。運転手が、帽子をかぶっていた。十歳の夏、窓から見た自動車と、同じ形だった。

分家の屋敷は、港に近い、坂の下にあった。本邸は、丘の上にあった。その間を、自動車は、市電の線路をまたいで、煉瓦の銀行の前を過ぎて、柳の並木を抜けて、登った。私は、母の腕の中で、窓の光を見ていた。八か月の目には、街は、明るいところと暗いところの、繰り返しだった。港から、汽笛が聞こえた。母の腕が、その音で、少し、動いた。天導（てんどう）汽船の船だ。あの人の船だ。

本邸の門を、くぐった。

玄関に、佐伯（さえき）がいた。

家令の佐伯。六十を過ぎて、痩せていて、四十年この家にいる男。十歳の夏、彼は、私に、星の間の鍵を持ってきた。十一の春、恭介の郷里を、一語ずつ、教えてくれた。教えないという形で。

いま、彼は、五十代だった。痩せていて、背筋が真っ直ぐで、玄関で、頭を下げた。

「藤乃さま。お嬢さま。ようこそ」

「佐伯。伯爵は」

「星の間で、お待ちです」

佐伯は、顔を上げた。上げて、母の腕の中の、私を見た。

見た、というより、確かめた。赤ん坊の顔を。髪の色を。目の色を。それから、彼は、何も言わなかった。何も言わない、ということを、彼は、この家で、三十年ほど、してきた。

私は、彼を見上げた。

この人は、知っている。

そう思った。証拠はない。ただ、三十年ほどこの家にいる男が、分家の赤ん坊の目の色を確かめる顔を、私は、見た。

「お嬢さまは、本家の星を、お持ちで」

佐伯は、母に言った。母の腕の中の私の、襟元に留めた、髪飾りを見て。

「伯爵さまから、いただいたの」

「さようでございますか」

佐伯は、頭を下げた。

星の間へ、通された。

私は、母の腕の中で、天井を見上げた。八か月の目には、天井は、遠かった。暗い色の何かに、小さな光の点が、いくつも見えた。星図だ。北極星は、暖炉の真上にある。私は、それを、知っている。

壁で、時計が鳴っていた。雨の音のように。

私は、その音を、聞いた。十八の夜会で、この音は、一斉に止まった。私が、はじめから、を選んだときに。

いま、鳴っている。

「瑠璃。おいで」

宗一郎が、私を抱いた。上手に。彼は、私を抱いて、天井を見上げた。

「あれが、北極星だ。初代は、あれを見て、帰ってきた」

彼は、赤ん坊に、そう言った。赤ん坊に言えば、誰にも言ったことにならない。この人は、そういうやり方で、たくさんのことを言う人だった。

「伯爵」

貞光が、後ろから言った。

「そろそろ、本家にも、奥さまを、と。親族会の年寄りどもが、うるさいのです」

「……ああ」

「久我侯爵家の、静子さまのお話は、進めてよろしいので」

宗一郎は、私を見ていた。

「まだ、いい」

「まだ、ですか」

「まだだ」

貞光は、それ以上、言わなかった。母は、部屋の端に、立っていた。母は、いつも、この家では、端に立つ。

私は、宗一郎の腕の中で、彼の胸の星の徽章を、見た。銀の星。私の枕元にあるものと、同じ形だ。

まだ、と、この人は言った。

ゲームの伯爵は、侯爵家の令嬢との結婚を控えていた。そして、瑠璃が四つの夏に、湖で死んだ。

まだ、は、いつまでか。

いつ婚約して、いつ結婚するつもりだったのか。そこまでは、知らない。けれど、四つの夏、この人を死なせてはならないことは、知っている。この人は、知らない。

　　　　　＊

お絹は、夜泣きのたびに、私を抱いて、廊下を歩いた。

母が薬を持ってくる前に、お絹が、私を連れ出す。そういう夜が、増えていた。お絹は、私が薬を吐くのを、何度も見ていた。見て、何も言わなかった。言わない代わりに、私が泣き出すと、母より先に、私を抱いた。

「お嬢さま、お嬢さま。何が、そんなに悲しいんですか」

お絹は、歩きながら、言った。

「うちの村ではね。赤ん坊は、生まれるときに、前のことを、全部、忘れて来るんだそうです。だから、泣くんですって。忘れたことが、悲しくて」

私は、泣き止んだ。

「お嬢さまも、何か、忘れたんですかねえ」

お絹は、笑った。村の言葉が、混じっていた。

私は、忘れていない、と思った。何一つ。星の間も、夜会も、三村の封書も、母の手紙も、十歳の夏の、濡れた枕も。

生まれていないからだ。

私は、そう思って、それ以上、考えなかった。考えることが、できなかった。眠気が、来た。お絹の胸で、私は、眠った。

眠りかけたところで、廊下の向こうから、恭介が来た。

「お絹。まだ起きていたのか」

「旦那さま。お嬢さまが、夜泣きで」

「代わろう。お前は、寝ろ」

お絹は、私を、恭介に渡した。恭介の手は、いつもの油の匂いがしなかった。石鹸の匂いがした。造船所から帰って、湯に入ったあとだった。

彼は、私を抱いて、廊下を歩いた。お絹と同じように。歌わなかった。代わりに、話した。

「今日はな、龍骨を据えた。新しい船の。三千トンの貨物船だ。本家の船だ。……本家の船を、俺が据える。おかしいだろう」

私は、目を、半分、開けていた。

「藤乃は、このごろ、俺を見ない。前からだが、このごろは、特にだ。俺が話しかけると、頷く。頷いて、それで終わりだ。……お前が生まれてから、あれは、お前しか見ていない」

彼は、私を、揺すった。

「それで、いいんだ。母親というのは、そういうものだろう。俺は、外で船を作る。あれは、家で、お前を育てる。それで、いい」

彼は、そう言って、それ以上、言わなかった。言わないで、廊下の端まで歩いて、戻ってきた。私は、彼の肩で、眠った。

眠りながら、思った。この人は、それでいい、と言うために、廊下を歩いている。それでいいと、自分に言うために。母は、揺りかごの前で、真実を言う。この人は、赤ん坊を抱いて、自分に、嘘を言う。

どちらも、私にしか、聞こえなかった。

　　　　　＊

一臣（かずおみ）と慎（しん）が来たのは、秋だった。

貞光が、息子を連れてきた。蘆田（あしだ）医師が、息子を連れてきた。二人の父親が、母と、廊下で話している間、二人の男の子は、揺りかごを、覗いた。

一臣は、七歳だった。痩せていて、真面目な顔をしていた。彼は、私を、じっと見た。

「これが、瑠璃」

「そうだよ」

慎は、六歳だった。丸い顔で、恥ずかしそうだった。彼は、指で、私の頬を、つついた。

「やわらかい」

「赤ん坊だからね」

一臣は、大人のように言った。それから、少し、声を落とした。

「父上が言ってた。ぼくは、この子の、許嫁になるんだって」

「いいなずけって、なに」

「結婚する相手」

「赤ん坊と？」

「大きくなったら」

慎は、私の頬を、もう一度つついて、「ふうん」と言った。

私は、揺りかごの中から、二人を見上げた。十八の夜会で、一臣は、私の手を離して、「君は十歳のあの夏から別人のようだった」と言った。慎は、壁際で、目を伏せた。

七歳と、六歳だった。

私は、笑った。赤ん坊の顔で。それは、身体が笑ったのではなかった。私が、笑った。

「笑った」

慎が言った。

「笑ったね」

一臣も、言った。二人は、顔を見合わせて、それから、揺りかごの縁に、顎を乗せた。

未来の攻略対象は、二人とも、揺りかごに顎が届く背丈だった。

　　　　　＊

冬になって、母は、また、私に、薬を持ってきた。

私は、また、吐いた。母は、また、「飲まないの。いいわ」と言った。それから、揺り椅子に座って、私の髪を撫でながら、言った。

「あなたは、死んで生まれるはずだった」

低い声だった。

「産婆が、そう言ったのよ。産道を出てから、三分、息をしなかった。もうだめだと思った、と。私も、そう思ったの。ああ、この子は、来なかったのだ、と」

母は、私の額に、指で触れた。

「でも、あなたは、来た。帰ってきた。本家になるために」

母は、笑った。

「そういう子なのよ、あなたは。だから、気持ち悪くていいの。私を、見ていていいの」

私は、目を閉じていた。閉じたまま、聞いていた。

母は、正しかった。

母は、私が、来た、と言った。帰ってきた、と言った。母は、この身体に、私ではない誰かが入るはずだったことを、知らない。知らないまま、母は、正しかった。

母の「気持ち悪い」は、嫉妬ではない。

母は、正しく、見ている。

私は、そのことが、四歳の夏まで、私の一番の敵になることを、まだ、知らなかった。

# 第六章　左手

一歳の誕生日に、私は、歩いた。

歩いた、というのは、大げさだ。庭の芝の上で、お絹（おきぬ）の手を離して、三歩、進んで、四歩目で座った。座ったところに、恭介（きょうすけ）がいた。彼は、膝をついて、両手を広げて、待っていた。

「歩いた。ルリカ、歩いたぞ」

彼は、私を抱き上げて、頭の上まで持ち上げた。空が、近くなった。四月の空だった。

「藤乃（ふじの）。見たか」

「見ました」

母は、縁側に座っていた。母は、笑っていた。口だけで。

「普通は、母親のほうへ歩くものでしょう」

「そうかな。父さんのほうが、待っていたからだろう」

恭介は、気づいていなかった。母が、笑っていないことに。

私は、恭介の腕の中で、母を見た。母は、私を見ていた。私は、目を、閉じた。

　　　　　＊

誕生日の午後、本家から、人が来た。

宗一郎（そういちろう）と、貞光（さだみつ）だった。二人は、玄関で、恭介に迎えられた。宗一郎は、小さな箱を持っていた。貞光は、何も持っていなかった。

「瑠璃（るり）。一つになったな」

宗一郎は、私を抱いた。上手に。一年経っても、上手だった。

「歩いたそうじゃないか」

「三歩」

恭介が、言った。嬉しそうに。

「三歩か。私は、四歩だったと、父が言っていた」

「では、来年は、四歩以上に」

二人の父は、笑った。私は、宗一郎の腕の中で、それを聞いた。この二人は、笑い合える。笑い合えて、一方は、もう一方を、卑怯だと思っていない。もう一方は、一方を、血のない婿だと思っていない。

思っていないのではない。思わないことにしている。二人とも。

「藤乃。あれを」

宗一郎が、言った。母は、枕元から、銀の星の髪飾りを持ってきた。宗一郎は、それを、私の髪に、当てた。

「まだ、大きいな」

「ええ。まだ」

「三つになったら、着けられるだろう」

三つ。私は、宗一郎の腕の中で、数えた。四つの夏まで、あと三年ほど。髪飾りが似合うころには、残りは、一年ほどしかない。

「そのころには、私も、身を固めていないとな」

宗一郎は、言った。冗談のように。

貞光が、笑った。

「伯爵が、そうおっしゃるのを、親族会が聞いたら、喜びます」

「聞かせるな」

「聞かせません。まだ」

母は、笑わなかった。母は、髪飾りを、宗一郎の手から受け取って、枕元に、戻した。戻す手が、少し、遅かった。

　　　　　＊

最初の言葉は、その翌月だった。

私は、その言葉を、選んだ。

赤ん坊の最初の言葉は、たいてい、意味のない音だ。まんま。ぱぱ。ばあ。それを、周りの大人が、意味のある言葉に翻訳する。私は、翻訳される前に、意味のある音を出そうと思った。一年、待ったのだ。

口は、私の思うとおりには動かなかった。舌は厚くて、唇は柔らかすぎて、喉は、息を言葉に変える方法を、まだ知らなかった。私は、朝から晩まで、練習した。練習は、大人には、喃語に聞こえた。

「お嬢さま、今日は、よくおしゃべりで」

お絹が、笑った。

「まんま、って、言ってごらんなさい。まんま」

「……ま」

「まんま」

「まー」

「惜しい。もう一回」

お絹は、私の前に、膝をついて、口を大きく開けて見せた。私は、その口を、見た。三か月のとき、母の口を見て、母に気持ち悪いと言われた。お絹は、口を見せてくれた。見て、真似しろと言った。

「まんま」

「まん、ま」

「言えた！」

お絹は、手を叩いた。私は、少し、得意になった。得意になったのは、私だ。身体ではない。二十七年、大人だった人間が、「まんま」で得意になった。

私は、それを、悪くないと思った。

「じゃあ、次は、ぱぱ。ぱ、ぱ」

「……とう」

「え？」

「とう」

お絹は、首を傾げた。

「とう？ とうさま、ですか。お嬢さま、それは、まだ難しい」

私は、繰り返した。とう。とう。お絹が笑うのを、聞きながら。

夕方、恭介が、造船所から帰ってきた。彼は、いつものように、油の匂いのする手で、私を抱いた。

「ただいま、ルリカ」

「とう」

私は、言った。

恭介の顔が、止まった。

「……いま」

「とう」

私は、もう一度、言った。「とうさま」と言いたかった。口は、そこまで動かなかった。「とう」で、精一杯だった。

恭介は、私を抱いたまま、廊下を走った。走って、母の部屋の扉を開けた。

「藤乃。この子が、いま、父さんと」

「……そう」

母は、文机に向かっていた。振り向かなかった。

「普通は、ママでしょう」

「そうだな。そうだが」

恭介は、笑っていた。笑いながら、私を揺すった。

「とう、って。なあ、ルリカ。もう一度」

私は、言わなかった。母が、振り向いたからだ。母の目が、私を見ていた。私は、恭介の肩に、顔を埋めた。

「ほら。恥ずかしがっている」

恭介は、言った。

母は、何も言わなかった。

　　　　　＊

左手のことに、気づいたのは、その頃だった。

枕元に、銀の星の髪飾りが、置いてある。宗一郎がくれたものだ。大きくなったら、と。一歳の頭には、まだ、大きすぎた。お絹が、ときどき、私の髪に当てて、「お似合いですよ」と言って、また、枕元に戻す。

私は、夜、目を覚ますと、それを見た。

そして、ある夜、手が、それに伸びた。

伸びたのは、左手だった。

私は、右利きだ。二十七年、右利きだった。十歳の身体に入ったときも、私は、右手で字を消した。この身体の一年間、私は、右手で恭介の指を握り、右手で匙を払った。

左手は、私が動かしたのではなかった。

左手は、髪飾りの、銀の星に触れて、それから、そっと、それを、握った。握って、胸に引き寄せた。

私は、それを、見ていた。自分の手を、見ていた。

しばらくして、私は、右手を動かした。右手は、私の思うとおりに動いた。右手で、左手から、髪飾りを取った。左手は、抵抗しなかった。ただ、指が、少し、開いたままだった。何かを、まだ、握っているように。

身体の癖だ、と私は思った。

赤ん坊の身体には、まだ、利き手がない。右も左も、同じように使う。この身体は、たまたま、左で光る物を取ったのだ。悪役令嬢の設定に、利き手はなかった。立ち絵は、いつも、右手で扇を持っていた。

そう思って、私は、髪飾りを枕元に戻した。

その夜、私は、寝返りを打った。打った拍子に、左手が、また、髪飾りのほうへ、伸びた。

　　　　　＊

左手は、恭介にも、伸びた。

恭介が、帰ってくる。私は、お絹の腕の中にいる。恭介の足音が、廊下に聞こえる。その音を、私が聞き分けるより先に、左手が、そちらへ伸びる。

私は、それを、何度も見た。

そして、母も、見ていた。

その日、貞光が来ていた。母と、貞光と、私が、母の部屋にいた。私は、母の膝の上にいた。貞光は、私が泣かない程度に離れて、座っていた。

「久我家の話は、進めておく」

貞光が言った。

「伯爵は、まだ、と言っている。だが、親族会は、待たない。再来年の冬には、婚約まで持っていく」

「……ええ」

「藤乃。お前は、それでいいんだな」

「いいも悪いも、ないでしょう」

母は、私の髪を撫でていた。

「あの人が結婚するなら、その前に、と。それだけ」

廊下に、足音がした。恭介だった。

左手が、伸びた。

母の膝の上で、私の左手が、扉のほうへ、恭介のほうへ、伸びた。

母の手が、私の髪の上で、止まった。

私は、見た。母の目が、私の左手を見て、それから、扉を見て、それから、私を見るのを。

母の目は、こう言っていた。この子は、恭介を選ぶ。私ではなく。

私は、右手で、左手を押さえた。

押さえて、母のほうを向いた。向いて、言った。

「かあ」

母の目が、少し、動いた。

「……そう」

母は、言った。小さく。

「私が、いいのね」

母は、私の左手の上に、自分の手を重ねた。重ねて、しばらく、そのままでいた。恭介が扉を開けたとき、母は、私を抱いたまま、立ち上がらなかった。恭介は、少し、寂しそうに笑って、「おかえり、じゃないな。ただいま」と言って、書斎へ行った。

私は、母の腕の中で、勘定をした。

母が話さなくなれば、私は、何も聞けない。母が私を恭介の子だと思えば、母は、私に語らない。母が私を自分の子だと思う間だけ、母は、揺りかごの前で、真実を話す。

だから、私は、左手を押さえた。母のために。計画のために。

正しい勘定だった。そのときは、そう思った。

私は、左手を、押さえた。この身体が、恭介のほうへ伸びようとしたのを、私の都合で、止めた。

そのことを、私は、そのとき、勘定に入れなかった。

お絹は、気づいていた。

「お嬢さま、左が、利き手ですかねえ」

匙を持たせたとき、お絹は、そう言った。私は、匙を、左手で握っていた。握ったのは、身体だ。私は、それを、右手に持ち替えた。

「右にしなさい」

母が、言った。廊下から。

「左は、行儀が悪いわ。本家の子が、左で匙を持つなんて」

「はい、奥さま」

お絹は、私の匙を、右手に持たせ直した。持たせ直すたびに、左手は、また、匙に伸びた。お絹は、そのたびに、右に戻した。母に言われたから。

私も、戻した。私の都合で。

母と、私は、同じことをしていた。この身体の左手を、右にしていた。母は、本家の子だからと言って。私は、母に話させるためだと言って。左手は、誰にも、理由を聞かれなかった。

　　　　　＊

二歳の春、蘆田（あしだ）医師が来た。

侍医の蘆田は、五十近い、丸い顔の男だった。彼は、黒い鞄を持っていて、鞄は、八歳の慎（しん）が持っていた。慎は、鞄を持って、父親の後ろを、少し離れて歩いた。

「奥さま。お約束の、血液型でございます」

「お願いします、先生」

「お子さまと、奥さまと、それから――ご主人は、以前に」

「造船所で、怪我をしたときに。O型だと」

「では、お二人で」

蘆田は、私の指の先に、針を刺した。私は、泣いた。泣いたのは、身体だ。針は、痛かった。痛いのは、私だった。

「新しい学問でしてね」

蘆田は、私の血を、小さな硝子に取りながら、言った。得意げだった。

「血で、親子が分かる。全部が分かるわけではありません。ですが、この組み合わせでは、この子は生まれない、ということは、分かる。輸血のときに、間違いがあってはいけませんから、お調べになるのは、良いことです」

「ええ。万一のときに、と思って」

母は、言った。母の声は、いつもの声だった。夜の声ではなかった。

慎が、鞄を抱えたまま、私を見ていた。私は、泣きながら、慎を見た。慎は、困った顔をした。八歳のときから、この人は、私を見ると、困った顔をする。

「痛かったね」

慎は、小さく言った。

　　　　　＊

一週間後、蘆田が、結果を持ってきた。

母は、彼を、自分の部屋に通した。私は、母の膝の上にいた。二歳の子は、膝の上にいれば、数に入らない。

「お嬢さまは、AB型でございます」

蘆田は、紙を見ながら、言った。

「奥さまは、A型。それで――」

蘆田は、言葉を、切った。

「ご主人は、O型でしたね」

「ええ」

「……これは」

蘆田は、紙を見ていた。紙から、目を上げなかった。

「先生」

母は、言った。

「輸血のときのために、調べただけです。ほかには、何も」

「……はい」

「誰にも、言わないで」

「……はい、奥さま」

蘆田は、紙を、母に渡した。渡して、鞄を閉めた。彼は、帰り際に、私の頭に、手を置いた。置いて、何か言いかけて、言わなかった。

私は、その手を、覚えている。

十八の夜会で、恭介は言った。親族会で、侍医が言った。娘の血液型は、私の子ではありえない、と。

この人は、そのとき、それを言う。言って、恭介に、署名させる。この人は、いま、言わない。奥さまが言うなと言ったから。この人は、共犯ではなかった。ただ、言われたことを、言われたときに、するだけの人だった。

それだけで、人は、人を、家から追い出せる。

　　　　　＊

恭介は、私に、話しかける人だった。

母が、揺りかごに計画を話すように、恭介は、庭で、私に、船の話をした。彼は、私を膝に乗せて、木切れを削りながら、話した。

「これはな、龍骨といって、船の背骨だ。これが曲がっていると、船は、まっすぐ進まない」

私は、聞いていた。二歳の子が聞くように、木切れを、掴んだ。

「お前は、俺の話を、聞いているみたいだな」

恭介は、笑った。

「藤乃は、俺の話を、聞かない。あれは、頭のいい女だ。俺の造船所の帳簿を、俺より早く読む。だから、俺の話は、退屈なんだろう」

彼は、木を削った。削り屑が、私の膝に落ちた。

「お前が生まれたとき」

彼は、言った。声が、少し、低くなった。

「俺は、数えたよ。月を」

私は、木切れを、握っていた。

「数えて、やめた。数えると、分かってしまうから。分かったら、俺は、この家に、いられない。血のない婿は、血のない子を、自分の子だとは、言えない。だから、数えるのを、やめた」

彼は、私を見た。

「これは、お前には、分からないから、言うんだ。ルリカ。お前は、俺の子だ。数えなければ、そうだ」

私は、木切れを、握っていた。握ったまま、彼の胸に、額を押しつけた。押しつけたのは、私だ。右手で、木切れを握ったまま。

母も、恭介も、私に、真実を話す。

二人とも、私が分からないと思っているから。

　　　　　＊

二歳の夏、私は、母の言葉を、返した。

夜だった。母は、揺り椅子に座っていた。私は、もう、揺りかごではなく、小さな寝台に寝ていた。母は、あの頃より、少し、来る回数が減っていた。それでも、来た。来て、話した。私が目を閉じていれば。

「瑠璃。来年の冬には、あの人の婚約が決まるわ。兄さんが、そう言っている。決まったら、その次の夏よ。八月。命日に、みんなで、湖へ行く。あなたは、四つになっている。四つなら、迷子にもなるでしょう」

私は、目を閉じていた。

「それで、あなたは、本家になるの。私も」

母の言った音を、真似してみようと思った。二歳の子なら、意味も分からず繰り返す。そう見えれば、母は、続きを話すだろう。

「るり、ほんけ」

私は、言った。

目を、開けて。

母の顔が、止まった。

「……いま」

「るり、ほんけ」

私は、もう一度、言った。二語文だった。二歳の子が言う、二語文。私は、それを、母の言葉のとおりに、言った。

母は、揺り椅子から、立ち上がった。私の寝台の横に、膝をつき、顔を、両手で挟んだ。

「誰に、聞いたの」

私は、答えなかった。答えられなかった。「かあ」の一音さえ、喉に、引っかかった。

「誰に、聞いたの。瑠璃」

母の手は、冷たかった。震えていた。

「私が言ったのを、聞いていたの。あなたは、聞いていたの。ずっと」

意味が分かるかどうかでは、なかった。母が誰にも聞かせないつもりでいた言葉を、私は、母へ返したのだ。

私は、母を見ていた。母の口を、見ていた。

母は、私の顔を、離した。離して、立ち上がった。手燭を取って、扉のところで、振り返った。

「……気持ち悪い子」

母は、言った。今度は、小さくなかった。

扉が、閉まった。

　　　　　＊

母は、その夜から、来なくなった。

揺り椅子は、翌朝、母の部屋に戻された。私の寝台は、その週のうちに、お絹の部屋の隣に移された。夜は、お絹が見る。母は、そう言った。恭介は「藤乃が疲れているなら」と言って、それを受け入れた。

その翌週、母は、恭介に、別のことを言った。

夕食のあとだった。私は、お絹の膝の上で、匙を握っていた。二歳の子は、夕食の席で、数に入らない。

「あなた。瑠璃を、本家で育ててもらうのは、どうかしら」

恭介は、箸を止めた。

「本家で」

「伯爵は、あの子を、可愛がってくださっている。本家の星も、いただいた。分家の子が、本家で育つのは、名誉なことよ。兄さんも、そう言っている」

「……藤乃」

「あの子は、ここにいると、変な子になるわ」

母は、言った。

「私を見るのよ。口を見るの。私が言ったことを、繰り返すの。あの子は、ここにいると、私を――」

母は、言葉を切った。

恭介は、箸を、置いた。置いて、私を見た。お絹の膝の上の、私を。

「まだ、二つだ」

彼は、言った。静かに。

「ここが、この子の家だ」

「あなた」

「本家の名誉は、分かる。だが、この子は、まだ二つで、母親と父親のいる家にいる。それを、名誉のために、変える必要はない」

母は、恭介を、見た。

恭介は、母を、見返した。この一年で、初めて、見返した。彼は、いつも、母の言うことを聞いた。帳簿を読むのが速い妻の言うことを、退屈な技師は、聞く。それが、この家の形だった。

「……そう」

母は、言った。

「あなたが、そう言うなら」

母は、それ以上、言わなかった。恭介は、箸を取った。取って、食事を続けた。手が、少し、震えていた。

私は、お絹の膝の上で、匙を握っていた。

この人は、いま、初めて、妻に逆らった。私のために。私が、二語で、母の口を閉じさせたから、母は、私を、遠ざけようとした。それを、この人が、止めた。

私は、それを、勘定に入れた。入れて、それから、勘定の外に、もう一つ、置いた。この人が、いま、震えている手を。

私は、お絹の隣の部屋で、夜、天井を見ていた。

勘定をした。

知っていること。遺言。あの人が死んだら。結婚の前の夏。八月。命日。湖。桟橋。お酒。薬。迷子。恭介を遠ざける。血液型。親族会。女は後見人になれない。兄さんが、なる。

前の夜会で、恭介は、電報のことを話した。本社に会議はなく、控えは、分家の事務所を指していた。私は、それも、覚えている。

知らないこと。今度も、同じ電報が来るのか。私が変えたことが、誰の計画を、どこまで変えたのか。今度の桟橋で、誰が、何をするのか。母は、その夜、何をして、何をしないのか。

母が話していれば、私は、それを、聞けた。あと二年、聞けた。

私は、二語で、それを、止めてしまった。

天井は、暗かった。この部屋には、星図がない。

母が語らなくなった夜、私は、初めて、この家で、一人になった。左手が、寝返りの拍子に、枕元へ伸びた。枕元には、何もなかった。髪飾りは、母の部屋に、置いてきたままだった。

# 第七章　期限

三歳になると、言葉は、私のものになった。

三語文、というものが、言える。「おじさま、みずうみ、あぶない」。それだけの言葉に、私は、二年半かかった。言えるようになった日、私は、それを、恭介（きょうすけ）に言った。

「おじさま、みずうみ、あぶない」

恭介は、私を、膝に乗せていた。夕方の庭だった。

「湖？ 星見荘のことか」

「うん」

「危なくないよ。夏には、また行くだろう。父さんが、ちゃんと見ていてやるから」

「ちがう。おじさまが」

「伯爵さまは、泳ぎがお上手だよ。ルリカより、ずっと」

恭介は、笑った。優しく。

私は、そのとき、初めて、言葉というものの限界を知った。二年半かけて手に入れた三語文は、大人の耳に届いた瞬間に、三歳の子の言葉になった。三歳の子の言葉は、可愛くて、意味がなくて、そして、忘れられる。

私は、恭介の膝の上で、黙った。

「どうした。眠いか」

「……ううん」

私は、言った。そして、その夜、寝台の中で、勘定をやり直した。言葉は、信じられない。信じられないなら、言葉でないものを、使うしかない。

　　　　　＊

母は、私を、見張っていた。

見張る、というのは、正確ではない。母は、私に近づかなかった。近づかないで、お絹（おきぬ）に、毎日、聞いた。今日、あの子は何を言ったか。誰と話したか。何を欲しがったか。

お絹は、正直に答えた。お絹は、正直な人だった。

「お嬢さまは、今日は、湖の話を」

「湖」

「ええ。おじさまが湖で危ないと。旦那さまに」

母は、それを聞いて、しばらく黙って、それから「そう」と言った。

翌日、母は、私の部屋に来た。半年ぶりだった。母は、扉のところに立って、私を見た。私は、床で、積み木を積んでいた。三歳の子が積むように、崩しながら。

「瑠璃（るり）」

「はい」

「湖の話を、しているのですって」

「うん」

「誰に、聞いたの」

私は、積み木を、積んだ。

「おかあさま」

母の顔が、動いた。

「私は、あなたに、湖の話を、していないわ」

「した」

「いつ」

「ずっと、まえ」

母は、扉のところから、動かなかった。動かないで、私を見ていた。

「……あなたは、覚えているの」

私は、答えなかった。積み木を、崩した。崩して、笑った。三歳の子が笑うように。

母は、扉を、閉めた。

その日から、私は、普通の子を、演じることにした。

　　　　　＊

普通の子を演じるのは、良い子を演じるより、難しかった。

良い子は、大人が喜ぶことをすればいい。普通の子は、大人が安心することをしなければならない。安心するのは、子供が、子供らしく間違えるときだ。

私は、間違えた。わざと。

匙を、逆さに持った。靴を、左右逆に履いた。「おじさま」を「おいさま」と言い、「とけい」を「けいと」と言った。お絹は、そのたびに笑って、直してくれた。母は、お絹から、それを聞いて、少しずつ、私を見なくなった。

代わりに、恭介も、私の言葉を、聞かなくなった。

正確には、恭介は、聞いていた。聞いて、笑って、忘れた。三歳の子の言葉として。私が「みずうみ」と言えば、「夏には、また行こうな」と言い、「おくすり」と言えば、「苦いか。父さんも苦いのは嫌いだ」と言った。

私は、それでも、言い続けた。

「はちがつ。みずうみ。さんばし」

「ああ、灯籠流しな。きれいだぞ」

「おくすり。とうさま、いかないで」

「行かないよ。どこにも行かない」

恭介は、言った。

いかないで、と、私は、言った。前の人生では、偽の電報が、この人を駅へ向かわせた。今度も、同じとは限らない。電報だけを止めればいい、と決めつけたくなかった。行かないで。それが、いつか、意味を持つように。

恭介は、私の頭を撫でた。撫でて、忘れた。

そのときは。

　　　　　＊

蘆田（あしだ）医師が、その夏、また来た。

母の診察だった。母は、眠れないと言った。蘆田は、鞄から、薬を出した。眠るための薬だ。私は、母の部屋の隅で、積み木を積んでいた。慎（しん）が、鞄を持って、廊下にいた。

九歳の慎は、廊下から、私を見ていた。私は、積み木を持って、廊下へ出た。

「るり、ABがた」

私は、言った。

慎は、驚いた顔をした。

「……知ってるの？」

「せんせいが、いった」

「そうか。父上が、調べたんだね。ぼくは、A型だよ。父上もA型。母上はO型」

慎は、指を折った。

「A型とO型から、A型が生まれる。それは、いいんだ。でも、その組み合わせから、AB型は、生まれない。父上が、そう教えてくれた。血には、決まりがあるんだって」

私は、積み木を、握っていた。

「るりのパパ、Oがた。おかあさま、Aがた」

慎の指が、止まった。

九歳の顔が、少し、動いた。彼は、私を見た。それから、母の部屋の扉を見た。それから、また、私を見た。

「……そう、なんだ」

慎は、言った。

「じゃあ、きっと、ぼくの数え方が、違うんだ」

彼は、そう言って、笑った。困った顔で。この人は、九歳で、もう、困った顔をすることを覚えていた。

母の部屋の扉が開いて、蘆田が出てきた。蘆田は、私の頭に、手を置いた。置いて、言いかけて、言わなかった。

「慎。帰るぞ」

「はい」

慎は、鞄を持って、父親の後ろを歩いた。廊下の角で、振り返った。私を見た。私は、積み木を握ったまま、彼を見ていた。

彼は、数え方を、間違えていない。

私が十七歳の秋、彼は、父親の処方簿を、澪（みお）ではなく、私のところへ、まず、持ってくる。持ってきて、「あなたが、どうするか、決めてください」と言う。

この人は、九歳の夏の廊下で、それを、始めた。

　　　　　＊

その年の秋、私は、本邸の夜会に、連れて行かれた。

天導（てんどう）汽船の創業の祝いだという。一族が、星の間に集まる。分家の子も、連れて行く。三歳の子は、母の腕の中で、数に入らない。

星の間は、夜だった。

シャンデリアに、火が入っていた。天井の星図が、その光で、少し、揺れて見えた。壁の時計が、鳴っていた。雨の音のように。

私は、母の腕の中で、見上げた。

ここで、私は、はじめから、を選んだ。ドレスの裾を、割れたグラスの上に広げて、床に座って。四十三個の時計が、一斉に止まった。

いま、鳴っている。

「瑠璃。おいで」

宗一郎（そういちろう）が、私を抱き取った。三十三歳の宗一郎だった。彼は、私を抱いて、壁のほうへ歩いた。時計の前で、止まった。

「これはな。船に積む時計だ。初代が集めた。海の上では、時計が正しくないと、自分がどこにいるか分からなくなる」

「とけい、とまる」

私は、言った。

「止まらないよ。佐伯（さえき）が、毎朝、巻くから」

彼は、笑った。私は、時計を見ていた。

「伯爵」

貞光（さだみつ）の声が、後ろでした。

「久我家の、静子さまが、お見えです」

宗一郎の腕が、少し、固くなった。

「……ああ」

彼は、私を、母に返した。返して、扉のほうへ歩いて行った。

扉のところに、若い女が立っていた。二十二か、三か。色が白くて、髪を高く結って、淡い色の洋装をしていた。彼女は、宗一郎に、礼をした。礼儀正しく。それから、微笑んだ。微笑みは、礼儀正しくて、それから、少しだけ、疲れていた。

久我静子。侯爵家の令嬢。宗一郎の、婚約者になる人。ゲームには、名前しか出てこない。「伯爵は、侯爵家の令嬢との結婚を控えていた」。一行だ。

一行の中に、人がいた。

私は、母の腕の中で、母を見上げた。母は、静子を見ていた。母の顔は、動いていなかった。動いていないことが、母の顔だった。

「きれいなひと」

私は、言った。

「……ええ」

母は、言った。

「そうね」

静子が、来た。

宗一郎と、話し終えて、彼女は、部屋の端の、母のところへ来た。来て、母に、礼をした。母も、礼を返した。二人の女は、礼儀正しく、頭を下げ合った。

「藤乃（ふじの）さま。お噂は、伺っております。伯爵の、従妹さまで」

「静子さま。お目にかかれて」

静子は、私を見た。

「この子が、瑠璃さん」

「ええ」

「伯爵から、伺っています。本家の星を、お持ちなのですって」

静子は、私の髪の飾りを見た。それから、私の顔を見た。私の紫の目を。

彼女の顔が、少し、止まった。

止まって、それから、微笑んだ。礼儀正しく。少し、疲れて。

「瑠璃さん。私、来年、あなたのおじさまと、結婚するの。仲良くしてね」

「……しずこさま」

私は、言った。

「みずうみ、こない？」

「湖？」

静子は、笑った。

「碧湖の、別荘のこと？ ええ、来年の夏は、私も、と、伯爵が」

「こないで」

静子の笑顔が、止まった。

「瑠璃」

母が、言った。

「失礼でしょう」

「いいえ」

静子は、言った。私を、見ていた。

「子供は、正直ですもの。……瑠璃さんは、私に、来てほしくないのね」

「ちがう」

私は、言った。三歳の口で言える、精一杯を。

「しずこさま、こない。おじさま、こない。みんな、こない」

静子は、私を、しばらく、見ていた。それから、母を見た。母は、私を見ていなかった。母は、静子を見ていた。

「……不思議な子ね」

静子は、言った。

「伯爵が、可愛がるわけだわ」

彼女は、頭を下げて、宗一郎のところへ戻った。

私は、母の腕の中で、彼女の背中を見ていた。一行の中の人。ゲームは、この人が湖にいたかまでは、教えてくれなかった。けれど、いま、彼女は、行くと言った。

あの夏に、誰が巻き込まれるか。もう、決めつけられなかった。来ないで、と言うだけで止められるとは思えなかった。三歳の子の言葉だ。

それでも、言った。

　　　　　＊

母の文箱は、母の文机の、一番下の引き出しにあった。

私は、それを、知っていた。十四歳の冬、切手を探して、母の文机を開けたときに、見た。一番下の引き出しに、文箱。文箱の中に、手紙。あのときは、家計簿しか見なかった。手紙は、見なかった。

見なくても、知っていた。十八の誕生日の朝、三村（みむら）の封書の中に、宗一郎から母への手紙があった。「女の子なら、瑠璃と」。あの手紙は、三村が預かっていたものだ。宗一郎が、写しを取っていた。

原本は、母が、持っている。

母は、宗一郎の手紙を、捨てる人ではなかった。捨てる人なら、十四年、遺言を待たない。

私は、手紙を取る前に、一月、別のことをした。

恭介に、物を、運んだ。

庭の小石。落ち葉。ボタン。糸くず。私は、それを、拾って、恭介の書斎へ持って行った。「とうさま、これ」。恭介は、そのたびに、受け取って、「ありがとう。宝物か」と言って、机の引き出しに入れた。引き出しは、一月で、小石と落ち葉でいっぱいになった。

お絹は、笑った。

「お嬢さまは、旦那さまに、宝物を届けるのが、お好きなんですねえ」

母も、それを、聞いた。お絹から。

「宝物」

母は、言った。それだけだった。三歳の子が、父親に小石を運ぶ。母は、それを、数に入れなかった。

それでいい。

三歳の子が、父親に、何かを運ぶ。それは、この家では、もう、誰も見ない習慣になった。その習慣の中に、手紙を、一通、混ぜる。

三歳の秋、私は、母が風呂に入るのを、待った。

風呂は、長い。母は、風呂で、何も考えないのだと、お絹が言っていた。私は、お絹が台所へ行った隙に、母の部屋に入った。三歳の子が、母の部屋に入る。誰も、何とも思わない。

文机の、一番下の引き出しは、重かった。

私は、両手で、引いた。左手が、先に動いた。右手が、追いついた。引き出しは、少し、開いた。文箱は、漆塗りで、蓋に、藤の紋が彫ってあった。分家の紋だ。

蓋を、開けた。

手紙が、束になっていた。細かな字を、一通ずつ確かめている時間はない。母が戻れば、引き出しの前にいるところを見られる。封の紋なら、見分けられた。

星と、羅針。

本家の紋。髪飾りの裏と、遺言の封蝋と、同じ形。私は、その封の手紙を、一通、抜いた。一番上の、一番古そうな、一通。

それを、着物の胸に入れた。

引き出しを、閉めた。閉まらなかった。三歳の力では、重かった。私は、身体ごと、引き出しを押した。引き出しは、半分、閉まった。半分でいい、と思った。母は、風呂から出て、文机を見て、引き出しが半分開いていることに気づくかもしれない。気づいても、三歳の子の仕業だと思う。

三歳の子の仕業は、いつも、意味がない。

私は、廊下を、歩いた。走らなかった。走ると、お絹が来る。

恭介の書斎は、廊下の突き当たりだった。扉は、閉まっていた。私は、扉を、叩いた。三歳の子の力で。

「……ルリカ？」

扉が、開いた。恭介は、図面を見ていた。机の上に、船の図面が広がっていた。

「どうした。一人で来たのか」

「とうさま。これ」

私は、胸から、手紙を出した。

恭介は、それを、受け取った。封を見た。星と、羅針。彼の顔が、変わった。

「……どこで、これを」

「おかあさまの、はこ」

恭介は、私を見た。長く、見た。それから、扉を閉めて、鍵をかけた。鍵をかけるのを、私は、初めて見た。

彼は、机に座った。手紙を、開いた。読んだ。

読むのに、長く、かかった。短い手紙だった。私は、その内容を、知っていた。「女の子なら、瑠璃と。初代の船の名だ。この子にも、帰る場所があるように」。

恭介は、読み終えて、もう一度、読んだ。

それから、手紙を、机に置いて、両手で、顔を覆った。

私は、床に立っていた。三歳の子が立つように。彼は、しばらく、そのままでいた。

「……ルリカ」

彼は、顔を上げた。目が、赤かった。泣いてはいなかった。

「おいで」

彼は、私を、膝に乗せた。乗せて、しばらく、何も言わなかった。図面の上に、私の足が乗った。

「これを、読んだことは、誰にも言わない」

彼は、言った。私にではなく、自分に。

「お前は、お前だ」

私は、彼の胸に、額を押しつけた。

「数えなくても、分かった。数えなくても、俺は、知っていた。生まれたときから。……分かっていて、見なかった。それを、お前が、持ってきた」

彼は、私の頭に、手を置いた。

「なぜ、俺に」

私は、答えなかった。三歳の口は、答えを持っていなかった。持っていたとしても、言えなかった。あなたが、私の十八の夜会に、袖の短い背広で、扉から入ってくるからだ、とは。

恭介は、手紙を、封に戻した。戻して、私を膝から下ろした。

「これは、父さんが、戻しておく。今夜、藤乃が眠ってから。いいな」

「うん」

「お前は、何も持ってこなかった。父さんは、何も読まなかった」

「うん」

「……ルリカ」

彼は、扉の鍵を開けて、廊下を見て、私を出した。出すとき、私の頭を、撫でた。撫でる手が、震えていた。

　　　　　＊

その冬、宗一郎の婚約が、決まった。

貞光が、それを、分家の夕食の席で、言った。

「伯爵と、久我家のご婚約が、整った。式は、来年の十月。親族会も、これで、静かになる」

「……おめでとうございます」

恭介が、言った。母は、何も言わなかった。母は、汁椀を持って、それを、口に運んで、置いた。

「藤乃」

「ええ。兄さん。おめでたいこと」

母は、言った。母の声は、いつもの声だった。

私は、母の隣で、匙を逆さに持っていた。母は、私を見なかった。

その夜、母は、私の部屋の扉を、開けた。

半年ぶりに。母は、入ってこなかった。扉のところに立って、私を見た。私は、寝台の中で、目を閉じていた。閉じていて、薄目を開けていた。

母は、長く、立っていた。手燭を持って。

それから、何も言わずに、扉を閉めた。

来年の十月。

私は、天井を見ながら、数えた。ゲームの真相ルートで、澪は言った。伯爵は、侯爵家の令嬢との結婚を控えていた。その結婚の前の夏に、湖で死んだ、と。

来年の八月十五日。

あと、九か月。

期限が、決まった。母は、私に、もう、話さない。だから、私は、それを、母の顔から読んだ。母の顔は、動いていなかった。動いていないことが、母の答えだった。

　　　　　＊

年の暮れに、恭介は、私に、船をくれた。

木でできた、小さな船だった。彼が、造船所から帰った夜に、書斎で、削っていたものだ。龍骨があって、帆があって、舳先に、小さな星が彫ってあった。

「瑠璃丸だ」

彼は、言った。

「初代の船。本家の船だ。……本家の船を、父さんが作るのは、おかしいか」

「おかしくない」

私は、言った。三歳の口で、言える一番長い言葉だった。

恭介は、笑った。それから、私を膝に乗せて、船を、私の手に持たせた。

「ルリカ」

「うん」

「父さんは、お前の父さんだ」

彼は、言った。声は、静かだった。

「血が、どうだろうと。誰が、何を言おうと。それは、父さんが、決めた。父さんが決めたことは、誰にも、変えさせない」

彼は、私を、見ていた。

「これは、お前には、分からないから、言うんだ」

私は、船を、握っていた。右手で。

左手が、伸びて、恭介の袖を、掴んだ。

私は、それを、押さえなかった。

恭介は、その手を見て、笑った。「左手か。お前は、左利きかもしれないな」と言った。私は、何も言わなかった。

この人は、血ではなく、選択で、父になった。事件の前に。誰にも見られない書斎で。三歳の子に向かって。

私は、何で、この人の娘になったのか。

その問いを、私は、船と一緒に、胸に抱いて、眠った。答えは、まだ、なかった。

# 第八章　あなたは誰

正月に、本家へ行った。

星の間に、一族が集まった。分家の大人たちと、子供たちと、本家の使用人たちと、それから、久我静子がいた。静子は、宗一郎（そういちろう）の隣に座っていた。婚約者として。淡い色の着物を着て、礼儀正しく、疲れた微笑みを浮かべていた。

「瑠璃（るり）。おいで」

宗一郎が、私を呼んだ。私は、母の膝から降りて、歩いて行った。三歳と九か月の足で。

宗一郎は、私に、羽子板をくれた。小さな、子供用の羽子板だった。絵は、船だった。

「今年の夏は、静子さんも、湖へ来る」

彼は、言った。私にではなく、静子に聞こえるように。

「灯籠を、一緒に流そう。父の命日だ。一族が、みんなで」

静子は、微笑んだ。

「楽しみにしております」

私は、羽子板を持って、宗一郎を見上げた。

今年の夏は、ない。

そう思った。思ってから、私は、それを、声に出さなかった。三歳の子が「今年の夏はない」と言えば、大人は笑う。笑って、忘れる。母は、笑わない。母は、それを、聞く。

「ありがとう、おじさま」

私は、言った。宗一郎は、私の頭を撫でた。

母は、部屋の端に立っていた。母は、静子を見ていた。それから、私を見た。私が宗一郎に撫でられるのを、見ていた。

　　　　　＊

母が、夜に来たのは、春だった。

長く、母は、私の部屋に入らなかった。扉のところに立つことはあった。入ることは、なかった。その夜、母は、入ってきた。手燭を持って。揺り椅子はなかったので、寝台の端に、腰を下ろした。

私は、目を閉じていた。閉じても、母は、話さないだろうと思った。母は、もう、私に話さない。

「起きているでしょう」

母は、言った。

私は、目を開けた。

母は、私を見ていた。手燭の光で、母の顔の半分が、明るかった。三十歳の、母だった。痩せていた。目の下に、影があった。

「あなたは、誰」

母は、言った。

低い声だった。揺りかごの前の声だった。久しぶりに聞く、その声だった。

「私の娘は、どこ」

私は、答えなかった。答えられなかった。三歳の口は、その問いに答える言葉を、持っていなかった。持っていたとしても、私には、答えがなかった。

母は、私の額に、手を当てた。冷たい手だった。

「産婆が、言ったの」

母は、言った。

「産道を出てから、三分、息をなさらなかった。もう、だめかと思った、と。私も、そう思ったのよ。この子は、来なかった、と。私が、あの人の血を入れて、私の身体で作った子は、生まれるのをやめたのだ、と」

母の手が、私の額の上で、少し、動いた。

「それから、あなたが、泣いた。私は、思ったの。ああ、戻ってきた。瑠璃が、戻ってきた。本家になるために、戻ってきたのだ、と」

母は、手を、離した。

「……違うのね」

私は、母を見ていた。

「あなたは、瑠璃じゃない。瑠璃は、来なかった。来なかったところへ、あなたが、来た」

母は、立ち上がった。

「あなたが、誰でもいいわ」

母は、扉のところで、言った。

「あなたが誰でも、あなたは、私の娘の身体で、私を見ている。私が話したことを、覚えている。私が、赤ん坊にしか言えなかったことを、あなたは、聞いていた」

母は、私を、見た。

「それは、私の娘が、するはずのことだった。私の娘なら、聞いても、忘れるはずのことだった」

扉が、閉まった。

　　　　　＊

私は、暗い天井を、見ていた。

母の言葉を、並べた。三分。来なかった。生まれるのをやめた。戻ってきた。違う。

そして、私の言葉を、並べた。私は、星の間で、はじめから、を選んだ。時計が止まった。暗かった。それから、痛みが来た。産婆が、背中を叩いた。三分。

私は、生まれていない。生まれたあとの身体に、入った。だから、覚えている。

十歳のときも、そうだった。

十歳のとき、私は、この身体の中で、目を覚ました。口が、「……なければ、よかった」と言い終えるところだった。枕が、濡れていた。誰かが、たったいままで、そこで泣いていた。

生まれてこなければ、よかった。

あの子は、そう言った。十歳の夏の、命日の昼に、母に何かを言われて、泣いて、そう言った。そして、いなくなった。私が、そのあとに、来た。私は、それを、悪役令嬢の設定だと思って、八年、考えなかった。

私は、記憶を持って、ここへ戻った。はじめから、を選んだから。選んだことは、残る。時計が止まっても、世界が巻き戻っても、私が選んだことは、私に残った。

なら、あの子が選んだことも、残る。

あの子は、生まれてこなければよかった、と選んだ。十歳で。その選択は、あの子に残った。世界が巻き戻って、この身体が、もう一度、母の産道を通ったとき――あの子は、来なかった。

三分。

この身体は、三分、空だった。

私は、その空席に、入った。

誰も、押し出していない。母は、そう言った。来なかったところへ、あなたが来た、と。私は、誰の人生も奪っていない。空いていた席に、座っただけだ。

空いていた席は、あの子の絶望で、空いている。

私は、天井を見ていた。

お絹（おきぬ）の村の言い伝えを、思い出した。赤ん坊は、生まれるときに、前のことを全部忘れて来る。だから、泣く。

生まれるとは、忘れることなら。

私は、一度も、生まれていない。だから、全部、覚えている。星の間も、夜会も、封書も、十歳の濡れた枕も。

あの子は、生まれるのを、やめたんだ。

私は、そう思った。それ以上、言葉にしなかった。言葉にすれば、それは、説明になった。説明は、私が母に対してしなかったことだ。母も、私にしなかった。母は、赤ん坊に真実を言い、私は、それを聞いた。それだけだ。

一つだけ、言葉にした。

私は、この身体を、あの子に断って、使っていない。

左手は、私が考えるより先に、恭介（きょうすけ）へ伸びた。身体が覚えたことなのか、あの子の何かが残っているのか、私には分からない。分からないものを、私への返事にしてはいけなかった。

　　　　　＊

一つ、しなかったことがある。

私は、母に、兄の裏切りを、言わなかった。

言えば、母は、どうするか。母は、兄を疑う。疑って、兄と、袂を分かつ。そうすれば、電報も、鋸も、なくなる。母は、一人では、電報を打てない。桟橋に鋸を入れられない。計画は、半分、崩れる。

そういう勘定を、私は、春から、何度もした。

そして、しなかった。

一つには、母が、一人で、別のことをするからだ。母は、頭がいい。兄が使えないなら、別の手を考える。私は、その別の手を、聞いていない。聞いていない手は、止められない。

もう一つは、それをすれば、私が、母を、使うことになるからだ。母の孤独を、母の敗北を、私の目的のために、使う。母が私を使ったように。

私は、それを、しなかった。しないことが、正しいかどうかは、分からなかった。分からないまま、しなかった。

母は、私が、何を言わないでいるかを、知らない。知らないまま、七月、薬を買った。四度目の。

その四度目を、私は、見た。

蘆田（あしだ）の診療所の小僧が、包みを届けに来た。母は、玄関で、それを受け取って、自分の部屋へ持って行った。私は、廊下にいた。四歳と、三か月の子が、廊下にいる。誰も、数に入れない。

母の部屋の扉は、少し、開いていた。

母は、文机の前に座って、包みを開けた。小さな瓶が、出てきた。母は、引き出しから、ほかの瓶を出した。三つ。合わせて、四つ。母は、それを、机の上に、並べた。

並べて、見ていた。

長い間。動かずに。

それから、母は、一つを取って、袖に入れた。残りの三つを、引き出しに戻した。戻して、引き出しを閉めて、そのまま、机に、額を当てた。

私は、廊下から、それを見ていた。

母が、顔を上げた。上げて、扉の隙間の、私を見た。

「見ているのね」

「うん」

母は、しばらく、私を見ていた。それから、言った。

「……見ていなさい」

母は、立ち上がって、扉を、閉めなかった。閉めないで、私の横を通って、廊下の向こうへ行った。袖の中の瓶が、母の歩みに合わせて、小さく、音を立てた。

　　　　　＊

四歳の七月、四度目の薬が届いた翌日。

恭介は、動き始めていた。

私が知ったのは、彼が、夕方、私を膝に乗せて、そう言ったからだ。彼は、あの手紙の夜から、私に、大人に話すように話すようになった。四歳の子に話すように話しながら、大人に話すように話す。そういう話し方を、彼は、覚えた。

「父さんは、今日、蘆田先生のところへ行った」

「うん」

「湖へ持って行く薬を、教えてくれと言った。お前の、腹の薬とか。虫刺されの薬とか。それで、先生が、帳面を見せてくれた」

彼は、私の髪を、撫でた。

「藤乃（ふじの）の名前が、四つ、あった。四月から、今月まで。眠る薬だ。一人の女が、四か月で眠るには、多すぎる量だ」

四つ。十四の冬に見つけた帳面には、六つの日付があった。あとで見た処方簿とも、一つずつ合っていた。いまは、四つ。なぜ違うのかは、分からない。私が何かを変えたのか、まだ知らない違いがあるのか。回数が少ないだけで、もう大丈夫だとは、思えなかった。

私は、彼の胸に、額を押しつけた。

「お前が、おくすり、と言った意味が、分かった気がする」

彼は、言った。

「父さんは、藤乃に、聞かない。聞けば、藤乃は、答える。答えて、それで終わりだ。父さんは、聞かないで、見る。それを、決めた」

私は、顔を上げた。彼は、私を見ていなかった。庭を見ていた。

「それから、小野（おの）に、手紙を書く。星見荘の管理人だ。お前が、さんばし、と言うから。桟橋を、見ておいてくれと頼む。それだけだ。それ以上は、書かない」

「とうさま」

「なんだ」

「はちがつ。おくすり。とうさま、いかないで」

「……ああ」

彼は、言った。

「行かない。どこにも」

私は、その言葉を、前にも聞いた。あのとき、彼は、それを、三歳の子の言葉に返した。今度は、違った。彼は、それを、約束として返した。

　　　　　＊

その夜、恭介は、書斎で、手紙を書いた。

私は、床に座って、それを見ていた。彼は、私を、書斎に入れるようになっていた。四歳の子が、床で積み木をする。彼は、机で、字を書く。そういう夜が、増えていた。

「小野へ、書いている」

彼は、言った。私にではなく、自分に言うように。

「星見荘の、別荘番だ。お前は、覚えていないだろうが、去年の夏、お前を、舟に乗せてくれた男だ」

私は、覚えていた。小野弥吉（おのやきち）。三十八歳。日に焼けて、無口で、桟橋を守る男。十八の夜会で、娘が読み上げた遺言を書いた男。

「何と書けばいいのか、分からない」

恭介は、ペンを、止めた。

「桟橋を見てくれ、と書く。それだけだ。なぜ、とは書けない。書けば、私は、この家の誰かを疑っていることになる。私は、この家の婿だ。婿が、この家の誰かを、疑う手紙を、使用人に出す。……そんなことは、できない」

彼は、ペンを、動かした。

「だから、こう書く。今年の夏は、娘が桟橋を怖がるので、手すりを、よく見ておいてほしい、と。それから、灯籠の夜は、暗いので、桟橋の近くにいてほしい、と」

私は、積み木を、置いた。

「それだけだ」

彼は、言った。

「それだけで、小野が、何を思うかは、小野が決める」

彼は、手紙を、封に入れた。封をして、机の端に置いた。それから、私を、膝に乗せた。

「父さんは、卑怯かな」

彼は、聞いた。

私は、答えなかった。四歳の口は、卑怯という言葉を持っていなかった。持っていたとしても、言わなかった。この人は、卑怯ではない。この人は、婿で、技師で、家の中で発言力がなくて、それでも、手紙を書いた。

宗一郎は、卑怯だと、自分で言った。遺言を書いて、三村（みむら）に預けて、生きている間は言わない。それは、卑怯だった。

恭介は、手紙を書いた。書いて、宗一郎を、疑わなかった。誰も、名指ししなかった。それでも、小野に、桟橋を見ろと言った。

私は、恭介の袖を、左手で掴んだ。押さえなかった。

　　　　　＊

お絹には、七月に、頼んだ。

夕方の縁側で、お絹は、私の髪を梳いていた。夏の髪は、汗で絡む。お絹は、それを、丁寧に、梳いた。

「お絹」

「はい、お嬢さま」

「灯籠のよる」

「ええ。今年も、行きますねえ。お嬢さまは、去年は、眠ってしまって、見られなかったから」

去年。三歳の夏。私は、灯籠の夜、母に薬を飲まされる前に、自分で眠った。眠ったふりをして、母の匙を、来させなかった。母は、その夜、私を抱かなかった。まだ、その夜ではなかったからだ。

「おかあさまが、だいどころへ、いけっていっても」

私は、言った。

「わたしから、はなれないで」

お絹の手が、止まった。

「……お嬢さま」

「おねがい」

お絹は、私の後ろにいた。私は、彼女の顔を見なかった。見なかったので、彼女がどんな顔をしたのか、分からない。長い間、手は、止まっていた。

「お嬢さま。どうして、そんなことを」

私は、答えなかった。

「……お嬢さまは、ときどき、大人のようなことを、おっしゃいますね」

お絹は、言った。声が、少し、震えていた。

「奥さまは、それを、気持ち悪いとおっしゃる。あたしは、そうは思いません。あたしは、お嬢さまが、赤ん坊のとき、薬を吐くのを、何度も見ました。何度も。奥さまは、あたしが見ていないと思っていらした」

お絹の手が、また、動いた。髪を、梳いた。

「はい」

お絹は、言った。

「離れません」

私は、目を閉じた。お絹の手は、温かかった。

　　　　　＊

一臣（かずおみ）が来たのは、その頃だった。

十歳になっていた。背が伸びて、伯父に、もっと似てきた。彼は、私の部屋に来て、床に座って、私が積み木を積むのを見ていた。

「瑠璃は、ぼくの許嫁になるんだって」

「しってる」

「父上が、そう言った。伯爵さまが結婚して、それから、いつか、瑠璃が本家に入ったら、ぼくが、瑠璃の婿になるって」

私は、積み木を、置いた。

「ぜったいに、いや」

一臣の顔が、止まった。

「……いや？」

「いや」

彼は、しばらく、私を見ていた。十歳の顔で。それから、真面目に、言った。

「大きくなったら、考えてくれ」

「かんがえない」

「……そうか」

彼は、立ち上がった。傷ついた顔をしていた。それから、扉のところで、振り返って、言った。

「でも、ぼくは、瑠璃が嫌いじゃない」

彼は、出て行った。

私は、積み木を、崩した。十八の夜会で、この人は、私の手を離して、「僕のためだ」と言った。礼儀正しく。最後まで。

この人は、十歳のときから、礼儀正しかった。

　　　　　＊

慎（しん）は、父親と来た。

蘆田医師は、この頃、少し、痩せていた。彼は、母の部屋で、母と話した。廊下で、慎が、私と、待っていた。

「父上は、このごろ、眠れないんだって」

慎は、言った。十歳の顔で。

「だから、自分で、薬を飲んでる。変だよね。人に眠る薬を出すのに、自分が眠れないなんて」

私は、慎を見た。慎は、困った顔をした。

「……ごめん。変なこと言った」

「へんじゃない」

私は、言った。

母の部屋から、蘆田が出てきた。彼は、私を見て、また、頭に手を置いた。置いて、言いかけて、言わなかった。

この人は、二年前、私の血液型を見て、言わなかった。いま、母に、四月から、眠る薬を出し続けて、言わない。眠れないのは、そのせいだ。

言わないことは、人を、眠らせない。

　　　　　＊

七月の終わりに、荷物が、まとめられた。

星見荘へ持って行く、行李が、玄関に積まれた。お絹が、私の着物を畳んだ。恭介が、造船所の休みを取った。母は、部屋で、何かを、小さな包みに入れた。

その夜、母が、私の部屋に来た。

母は、手に、銀の星の髪飾りを持っていた。宗一郎がくれたもの。二年前から、母の部屋にあったもの。

「瑠璃」

母は、私の髪に、それを、留めた。四歳の頭には、まだ、少し大きかった。

「湖には、これを着けて行きなさい」

母の指が、私の髪の中で、動いた。

「本家の子だから」

母は、私を見た。手燭の光で、母の顔の半分が、明るかった。

「あなたが誰でも、あなたは、これを着けて、湖へ行くの」

母は、立ち上がって、出て行った。

私は、髪に手をやった。銀の星が、あった。

左手だった。

左手が、髪飾りに触れて、それから、そっと、それを、握った。私は、押さえなかった。

八月十三日、私たちは、湖へ行った。

# 第九章　灯籠

碧湖は、山の中にあった。

自動車で、帝都から、一日かかった。途中の町で、一度、休んだ。町には、郵便局があって、電信局があって、駅があった。町から湖までは、山道を、一時間、登った。運転手が、帽子をかぶって、汗をかいていた。

町で休んだとき、恭介（きょうすけ）は、郵便局の前に立った。

「電話がある」

彼は、私にだけ聞こえる声で、言った。

「本社に、つながる。町からなら」

「うん」

「覚えておく」

彼は、それだけ言って、自動車に戻った。母は、自動車の中で、目を閉じていた。貞光（さだみつ）は、先に、湖へ行っていた。前日から。灯籠の支度をする、と言って。

湖が、見えた。

黒に近い、青だった。深い青。瑠璃（るり）の色だ、と私は思った。宗一郎（そういちろう）が、私に、その名前をつけた理由を、私は、初めて、目で見た。

星見荘は、湖のほとりに、建っていた。

碧湖は、避暑地だった。湖の向こう岸に、外国人の宣教師たちの別荘が、白く並んでいた。湖の上に、白い帆のボートが、二つ、三つ、浮いていた。村には、氷屋と、郵便の取次と、教会があった。蝉が鳴いていた。帝都の蝉より、声が高かった。

白い、二階建ての洋館だった。屋根が、青かった。庭が、湖まで、芝で続いていた。芝の端に、舟屋があった。舟屋の横から、桟橋が、湖へ、まっすぐに伸びていた。桟橋の先は、遠かった。

私は、恭介の腕の中で、それを見た。

「あれが、桟橋だ」

恭介は、言った。私にだけ聞こえる声で。

「うん」

「小野（おの）が、見ていてくれる」

　　　　　＊

小野弥吉（おのやきち）は、玄関で、私たちを迎えた。

三十八歳の、日に焼けた男だった。無口で、頭を下げて、荷物を持った。彼の後ろに、小さな女の子が、隠れていた。五歳くらいの。麦わら帽子をかぶって、父親の脚にしがみついていた。

私は、その子を、見た。

まっすぐな目だった。

小野澪（おのみお）。五歳の。

十八の夜会で、この子は、立ち上がって、「申し上げたいことがございます」と言った。父の遺言を読んだ。伯父の名前を言った。私に、「あなたは優しかった」と言った。

いま、この子は、父親の脚の後ろから、私を見ていた。私も、四歳と、四か月だった。

「澪。ご挨拶」

小野が、言った。

「……みおです」

「るりです」

私は、言った。

澪は、私の髪の、銀の星を見た。それから、私の顔を見た。

「きれい」

澪は、言った。

「うん。おじさまがくれたの」

私たちは、それだけ話して、それぞれの父親の後ろへ戻った。

　　　　　＊

伯父は、先に来ていた。

「灯籠の支度をしていた」

貞光は、玄関で、そう言った。日に焼けて、袖を捲って、いかにも、支度をしていたという顔だった。

「今年は、伯爵にとって、独り身の最後の灯籠だ。派手にやろうと思ってな」

「兄さん」

母が、言った。

「ご苦労さま」

「藤乃（ふじの）。お前も、疲れただろう。部屋で休め。この子は、お絹（おきぬ）に」

「ええ」

私は、貞光を見た。貞光は、私を見なかった。彼は、私を、いつも見ない。「あの子」と呼んで、頭越しに、母に言う。

彼が、桟橋の先の柱に何をしたのかを、私は、見ていない。先に来てから、ここで、何をしていたか。それを、私は、前の物語と重ねていた。ゲームは、澪の父の目で、教えてくれた。捜索が始まる前に、桟橋の先に立っていた男。綱を外した男。

その男は、いま、私の前で、袖を捲っていた。

　　　　　＊

十四日に、宗一郎が来た。

一人だった。静子は、来なかった。「暑さに弱いので、帝都に」と、貞光が言った。宗一郎は、それを、聞いて、頷いた。安心したような、寂しいような顔だった。

彼は、私を、抱いた。

「瑠璃。星を着けて来たんだな」

「うん」

「似合う」

彼は、私を抱いて、湖のほうへ歩いた。芝の上を。桟橋の手前で、止まった。

「あの桟橋はな。私が子供の頃から、ある。父と、よく、あそこで釣りをした」

「ふるい？」

「古い。だが、小野が、ちゃんと見ている」

彼は、私を、桟橋の上に、降ろした。板が、足の下で、少し、鳴った。私は、先のほうを見た。先は、遠かった。先に、手すりがあった。木の手すりで、柱が、四本、立っていた。

一番先の柱に、鋸の痕があるはずだった。

私は、それを、四歳の目で見た。四歳の目は、遠くを見ない。私は、桟橋の先へ、歩き出した。

「瑠璃」

宗一郎が、私を、抱き上げた。

「先は、だめだ。落ちる」

「……うん」

私は、彼の腕の中から、湖を見た。深い青だった。

　　　　　＊

十四日の午後、私は、澪と、遊んだ。

遊んだ、というのは、私が、芝の上に座っていて、澪が、来た、ということだ。澪は、麦わら帽子をかぶって、手に、小さな貝殻を持っていた。湖の貝だ。

「あげる」

澪は、言った。

「ありがとう」

私は、それを、受け取った。左手で。

澪は、私の隣に座った。五歳の子と、四歳の子が、芝の上に、並んだ。澪は、湖を見ていた。私も、湖を見ていた。

「あそこ、こわい」

澪は、舟屋を指した。

「くらいから。おとうちゃんが、はいるなって」

「うん」

「るりちゃんも、はいっちゃだめ」

「……うん」

私は、言った。明日の夜、私は、そこに入る。母に、入れられる。それを、この子に、言えない。言っても、五歳の子の言葉になる。

「るりちゃん、おほしさま、きれい」

澪は、私の髪を見た。

「うん」

「みお、おほしさま、ない」

「あげる」

私は、言った。言ってから、それが、できないことを、思い出した。これは、本家の星だ。宗一郎がくれた。母が、着けて行けと言った。私が、あげられるものではない。

「……うそ。あげられない」

「いいよ」

澪は、言った。

「みお、かいがら、あるから」

彼女は、笑った。まっすぐな目で。十八の夜会で、この目は、私を見て、「あなたは優しかった」と言った。

いま、この目は、貝殻で、満足していた。

小野が、遠くから、娘を呼んだ。澪は、立ち上がって、走って行った。走りながら、振り返って、手を振った。

私は、貝殻を、握っていた。

　　　　　＊

その夜、私は、母と貞光の声を、聞いた。

二階の廊下だった。私は、お絹の部屋で、寝ていた。寝ていなかった。お絹は、眠っていた。廊下の向こうの部屋で、二人が、話していた。声は、低かった。四歳の耳は、低い声を、拾う。それは、赤ん坊のときから、変わらなかった。

「明日、静子は来ない」

「ええ」

「宗一郎は、桟橋で、灯籠を流す。父の命日だから、毎年、そうする」

「ええ」

「藤乃。あとは、お前だ」

沈黙があった。

「……あの子は」

「舟屋に、置け。眠らせて。灯籠が終わるまで。それで、迷子だ」

「ええ」

「宗一郎が探しに行く。お前は、桟橋のほうを見た、と言えばいい。一臣（かずおみ）に、聞いておけ。子供は、聞かれれば、見たと言う」

「兄さん」

「なんだ」

「あの子は、眠らないかもしれない」

貞光は、少し、黙った。

「なぜ」

「薬を、吐く子だから」

「……四つの子だ。吐いても、抱いて行けばいい。眠らなくても、舟屋に置けば、迷子だ」

「ええ」

母は、言った。

「そうね」

足音が、離れた。扉が、閉まった。

私は、お絹の隣で、目を開けていた。母は、兄に、私が薬を吐く子だと言った。母は、知っていた。赤ん坊のときから。知っていて、明日、私に、薬を飲ませる。

飲ませて、眠らなくても、舟屋に置く。

私は、貝殻を、握っていた。枕の下で。

　　　　　＊

十五日の朝、貞光が、私を呼んだ。

初めてだった。四年、この人は、私を「あの子」と呼んで、私の頭越しに母に話した。その朝、彼は、居間の入り口で、私を見て、言った。

「あの子。こっちへ来い」

私は、行った。四歳の足で。

貞光は、灯籠を作っていた。紙を、竹の枠に貼って、蝋燭を立てる台を作る。彼は、それを、器用にした。大きな手で。

「座れ」

私は、座った。彼は、紙を貼りながら、私を見なかった。

「お前は、伯爵が好きか」

「うん」

「そうか」

彼は、紙を、押さえた。

「伯爵も、お前が好きだ。今朝も、お前の星の話をしていた。似合う、と」

「うん」

「……それが、困る」

貞光は、言った。小さく。灯籠に向かって。

私は、彼を見ていた。前の物語で、この人は、桟橋の先で綱を外し、助けを呼ばなかった。今夜も、同じことをするつもりなのだろうか。この人は、いま、灯籠を作りながら、それが困る、と言った。

「お前が、伯爵を好きで、伯爵がお前を好きで、それで、みんなが、困る」

彼は、灯籠を、一つ、仕上げた。仕上げて、私の前に置いた。

「持て」

私は、持った。両手で。左手が、先に伸びた。

「今夜、それを、流せ。お前が、自分で」

「……うん」

「伯爵に、流してもらうな。自分で流せ」

彼は、次の灯籠を、作り始めた。私は、灯籠を持って、座っていた。この人が、なぜ、そう言ったのか、私には、分からなかった。分からないまま、覚えておくことにした。

今夜、私は、灯籠を流さない。舟屋にいる。この人は、それを、知っている。知っていて、流せ、と言った。

　　　　　＊

十五日の午後、小野が、恭介のところへ来た。

庭だった。恭介は、芝の上に、椅子を出して、座っていた。私は、その足元で、草を、むしっていた。四歳の子は、草をむしる。大人は、それを、数に入れない。

「旦那さま」

小野は、帽子を取った。

「桟橋を、見ました。お手紙のとおりに」

「……どうだった」

「一番先の、手すりの柱に」

小野は、声を落とした。

「鋸が、入っております。新しい。二日と経っていない。半分ほど、切ってあって、上から見ても分からんように、切り口に泥が」

恭介は、椅子から、動かなかった。

「誰が」

「分かりません。あたしは、三日前まで、毎日見ておりました。三日前には、なかった」

三日前。貞光が、先に来た日だ。

恭介は、長く、黙っていた。私は、草をむしっていた。

「小野」

「はい」

「誰にも、言うな」

「……はい」

「綱を、張ってくれ。桟橋の、先のほうに。修理中だと分かるように。それから、今夜は、桟橋の先に、いてくれ。暗くなってからも」

小野は、帽子を、両手で、握った。

「旦那さま。それは」

「頼む」

小野は、恭介を見た。それから、私を見た。私は、草をむしっていた。

「……あたしは、この家の、別荘番です」

小野は、言った。

「桟橋は、あたしが守るものです。誰が切ったにしろ」

彼は、帽子をかぶって、湖のほうへ歩いて行った。

　　　　　＊

私は、宗一郎のところへ行った。

彼は、縁側で、昼寝をしていた。うたた寝だ。本を、胸の上に開いて。私は、縁側に上がって、彼の横に、座った。四歳の子が座るように。

「おじさま」

「……ん」

「さんばしの、いちばんさきの、はしら」

宗一郎は、目を開けた。

「きってあるの。おののおじさんが、みつけたの」

彼は、しばらく、私を見ていた。それから、笑った。

「瑠璃。夢でも見たか」

「ゆめじゃない」

「小野が、そう言ったのか」

「うん。とうさまに、いってた。のこぎりって」

宗一郎の笑顔が、止まった。

止まって、彼は、起き上がった。本が、縁側に落ちた。彼は、私を見て、それから、庭を見た。庭の向こうで、小野が、桟橋に、綱を張っていた。

「……小野」

彼は、立ち上がって、庭へ降りた。私は、縁側に、座ったままでいた。四歳の子は、大人のあとを追わない。

宗一郎が、桟橋の手前で、小野と話しているのが見えた。小野が、帽子を取った。宗一郎が、桟橋の先を見た。小野が、何か言った。宗一郎が、しばらく、動かなかった。

彼は、戻ってきた。

顔が、白かった。

「……瑠璃」

「うん」

「誰が、と、小野は言わなかった」

「うん」

「……そうか」

彼は、縁側に、腰を下ろした。私の横に。本を、拾わなかった。

「今夜は、灯籠がある」

彼は、言った。私にではなく、自分に。

「父の命日だ」

　　　　　＊

三時に、電報が来た。

町から、自転車で、少年が来た。電信局の少年だった。彼は、玄関で、封筒を渡して、帰った。封筒は、恭介宛だった。

恭介は、庭で、それを開いた。私は、足元にいた。

「ホンシャ　キンキュウ　アスアサ　カイギ　コンヤ　カエラレタシ」

恭介は、声に出して、読んだ。低い声で。

私は、彼を、見上げた。

「とうさま。いかないで」

恭介は、電報を、見ていた。長く。それから、私を、見た。

「……お前は、これを、知っていたな」

私は、答えなかった。

「前から。いかないで、と」

彼は、電報を、畳んだ。畳んで、胸の内ポケットに入れた。

「行ってくる」

彼は、言った。

「とうさま」

「大丈夫だ。行って、帰ってくる」

彼は、私の頭を、撫でた。それから、母のところへ行った。母は、居間で、灯籠の紙を、折っていた。貞光が、その横で、蝋燭を、数えていた。

「藤乃。本社から、電報だ。明朝、会議がある。今夜のうちに、帰らないと」

「まあ」

母は、手を止めた。

「灯籠を、見られないのね」

「すまない。ルリカを、頼む」

「ええ。お絹に見させます。私は、灯籠の支度が」

「ああ」

貞光が、蝋燭を数えながら、言った。

「行き違いでなければいいがな。本社は、このごろ、慌ただしい」

「そうですね」

恭介は、言った。それだけだった。

三時半に、自動車が、出た。恭介は、駅へ向かった。運転手が、帽子をかぶって、汗をかいていた。私は、玄関で、それを、見送った。お絹に、抱かれて。

母は、見送らなかった。

　　　　　＊

六時に、恭介は、帰ってきた。

裏口から。

私は、お絹と、庭の隅にいた。舟屋の陰だった。恭介は、林のほうから、歩いてきた。上着を脱いで、シャツの袖を捲って、汗をかいていた。靴に、山道の泥がついていた。

「お絹」

「……旦那さま」

「誰にも言うな。帰りも、車で、別荘の手前まで送ってもらった。最後だけ、林を抜けた。運転手には、聞かれたら駅で降ろしたと答えるよう、頼んだ」

彼は、私の前に、膝をついた。

「町の郵便局から、本社へ、電話をかけた。会議は、ない。誰も、電報を打っていない」

「ここの玄関で電話をすれば、誰かが聞く。出て行ったことにして、外で、確かめたかった」

「うん」

「誰が打ったかは、まだ、分からない。だが、帰る理由は、なかった」

彼は、私の目を、見た。

「お前が、知っていたことを、父さんは、いま、知った」

私は、彼の袖を、掴んだ。左手で。

「伯爵さまに、話してくる」

彼は、言った。それから、お絹を見た。

「お絹。今夜、この子から、離れるな。藤乃が何と言っても」

「……はい」

お絹は、言った。

「お嬢さまにも、言われております。七月から」

恭介は、お絹を、見た。それから、私を見た。

「そうか」

彼は、言った。

「お前は、父さんより先に、お絹に頼んでいたのか」

彼は、少し、笑った。汗と、山道の泥の中で。それから、林の中を、裏口へ歩いて行った。

　　　　　＊

宗一郎の書斎は、二階にあった。

私は、お絹に抱かれて、廊下にいた。扉は、少し、開いていた。中で、二人の父が、話していた。私は、それを、聞いた。四歳の子は、廊下にいても、数に入らない。

「電報は、偽物です」

恭介の声だった。

「本社に、会議はありません。本社の者は、誰も、打っていないと言っています」

「……本社からでは、ないと」

「はい」

「誰が」

「分かりません」

「君は、何が言いたい」

宗一郎の声は、低かった。

「桟橋の柱が切られていて、私を遠ざける電報が打たれた。今夜。灯籠の夜に。それだけです」

「それだけ、で済むことか」

「済みません。ですが、私には、それ以上、申し上げることがない。私は、血のない婿です。伯爵さまに、ご一族のどなたかを、疑えとは、言えません」

沈黙が、あった。長い沈黙だった。

「……恭介くん」

「はい」

「今夜、桟橋へ行くな、と言うのか」

「はい」

「灯籠は、父の命日だ」

宗一郎は、言った。

「私が流さなくて、誰が流す。一族が集まっている。伯爵が、桟橋に立たないで、どうする」

「では」

恭介は、言った。

「私が、後ろにいます」

また、沈黙があった。

「……君は、駅へ行ったことになっているのだろう」

「はい」

「分かった。見なかったことにする」

宗一郎は、言った。

「君が、そこにいることを。私は、知らない。……知らないほうが、私は、いつもの私でいられる」

「はい」

扉が、開いた。恭介が、出てきた。彼は、廊下で、お絹と、私を見た。何も言わなかった。彼は、階段を降りて、裏へ回った。

私は、開いた扉の隙間から、宗一郎を見た。彼は、机に座って、両手で、顔を覆っていた。

この人は、聞いた。聞いて、半分だけ、目を閉じた。全部は、閉じなかった。

それが、この人の、精一杯だった。

　　　　　＊

七時に、夕食が、始まった。

星見荘の食堂は、湖に面していた。窓の外で、空が、赤から、紫になっていくのが見えた。一族が、テーブルについた。宗一郎が、上座に。貞光が、その隣に。母が、貞光の隣に。私は、母の隣の、座布団を重ねた椅子に。一臣が、向かいに。

恭介の席は、なかった。

「恭介は、残念だったな」

貞光が言った。

「本社も、無理を言う」

「ええ」

母は、言った。

食事が、進んだ。魚と、野菜と、山の茸。宗一郎は、あまり食べなかった。彼は、ときどき、窓の外を見た。ときどき、私を見た。

食後に、ブランデーが、出た。

母が、立って、それを、注いだ。

「従妹の役目ですから」

母は、言った。この家では、いつも、そうだった。従妹の藤乃が、当主の食後の酒を注ぐ。母は、そのために、宗一郎の隣まで、瓶を持って行く。誰も、何とも思わない。

母は、注いだ。

グラスは、宗一郎の前に、置かれた。琥珀色だった。母の手が、瓶を持ったまま、少し、止まった。それから、母は、自分の席に戻った。

私は、椅子の上で、身を乗り出した。

四歳の子が、身を乗り出す。手が、テーブルの上を、動く。

グラスが、倒れた。

琥珀色が、白い布の上に、広がった。

「瑠璃」

母の声が、飛んだ。

「行儀」

「ごめんなさい」

私は、言った。四歳の子が言うように。

宗一郎が、笑った。

「いいんだ、藤乃。子供のすることだ」

「いいえ。注ぎ直します」

母は、また、立った。瓶を持って、宗一郎の隣まで行った。新しいグラスに、注いだ。注ぐ手は、止まらなかった。

私は、それを、見ていた。薬を入れるところは、見ていない。それでも、飲ませるのが怖くて、倒した。同じ瓶から、また、琥珀色が注がれた。グラスを替えれば大丈夫なのか。私には、分からなかった。

宗一郎は、グラスを、取った。

「瑠璃に、乾杯だ」

彼は、言って、飲んだ。半分。半分で、グラスを置いた。

「……今夜は、あまり、飲めないな」

彼は、笑った。

母は、笑わなかった。

　　　　　＊

八時に、灯籠が、始まった。

一族が、庭に出た。空は、もう、暗かった。湖は、黒かった。芝の上に、灯籠が、並んでいた。紙の灯籠で、中に、蝋燭が入っていた。

一臣が、灯籠を、持った。十歳の一臣は、それを、両手で、大事に持っていた。彼は、私を見て、少し、笑った。傷ついた顔で。

小野が、桟橋の手前にいた。その後ろに、澪がいた。麦わら帽子をかぶったまま。彼女は、私を見た。私は、彼女を見た。

貞光は、いなかった。

「兄さんは」

母が、誰にでもなく、言った。

「舟屋で、舟の支度を」

女中が、答えた。

母は、頷いた。それから、お絹を、呼んだ。

「お絹。台所へ行って、手伝ってちょうだい。人手が足りないのですって」

「……はい、奥さま」

お絹は、私を、母に渡した。渡すとき、お絹の指が、私の指に、触れた。一瞬。

お絹は、台所のほうへ、歩いて行った。

私は、母の腕の中にいた。

湖で、最初の灯籠が、流れた。宗一郎が、流した。一つ。光が、黒い水の上を、ゆっくり、離れていった。それから、二つ。三つ。一臣が流した。女中たちが流した。光が、列になって、湖の上に、道を作った。

きれいだった。

フミが言った灯籠の話を、思い出した。十歳の私に、女中のフミが言った。おじさまが、灯籠の火を、一つ、お嬢さまのために、消さずに流してくださったと。四つのときの、あの夜に。

あの子は、この光を、見たのだ。

今度は、私が見ている。あの子にも、見せたかった。

母が、私を、抱き直した。

「瑠璃」

母は、言った。

「お薬の時間よ」

母は、灯籠に背を向けて、舟屋のほうへ、歩き出した。

# 第十章　桟橋

舟屋は、暗かった。

湖の匂いがした。水と、木と、古い縄の匂い。舟が二艘、水の上に浮いていて、板張りの床が、その周りを囲んでいた。床の隅に、舟の座布団が、積んであった。

母は、私を、そこに座らせた。

母は、私の前に、膝をついた。袖から、小さな瓶を出した。瓶から、匙に、何かを注いだ。暗くて、見えなかった。匂いで、分かった。甘い。その奥に、苦い。

「お薬よ」

母は、言った。

「ぐっすり眠れるお薬。灯籠が終わるまで、ここで、眠っていなさい」

匙が、来た。

私は、口を開けた。四歳の子が、母に言われて、口を開けるように。糖蜜が、舌の上に落ちた。甘くて、その奥で、舌の根が、痺れた。

私は、飲まなかった。

口の中に、溜めた。溜めて、母を見た。

母は、私を、見ていた。手が、伸びて、私の髪を、撫でた。銀の星の髪飾りに、指が触れた。

撫でる手が、止まった。

止まったまま、母は、動かなかった。長い時間だった。舟屋の外で、灯籠を流す声がしていた。一臣（かずおみ）の声。女中の声。水の音。母は、それを、聞いていなかった。母は、私の髪に手を置いたまま、私を見ていた。

「……瑠璃（るり）」

母は、言った。

それだけだった。母は、私が飲み込んだかどうかを、確かめなかった。確かめれば、分かったはずだ。母は、確かめずに、手を離した。

「待ってなさい」

母は、立ち上がった。

「すぐ、戻るから」

母は、私を、座布団に、横たえた。横たえて、私の髪を、もう一度、撫でて、それから、舟屋を、出て行った。戸が、半分、開いたままだった。灯籠の光が、戸口から、床に、細く差していた。

私は、口の中のものを、襟に吐いた。

全部。舌の根の苦さが、少し、残った。

　　　　　＊

お絹（おきぬ）が、入ってきた。

戸口からではなかった。舟屋の横の、板の隙間から。彼女は、そこにいた。母が私を連れてくる前から。

「お嬢さま」

小さな声だった。お絹は、私を抱き起こした。私の襟に触れて、濡れているのを、指で確かめた。

「……吐きましたね」

「うん」

お絹は、私の襟を、外した。着物の襟を、手早く、外して、自分の袖に、入れた。

「持っていますから」

彼女は、言った。

「あたしが、持っています」

私は、お絹の胸に、額を押しつけた。日向の匂いと、干し草の匂いがした。

「お嬢さま」

お絹は、小さく言った。

「あたしは、台所へ行けと言われて、行きました。行くふりをしました。角を曲がって、それから、戻ってきました。奥さまに逆らったのは、生まれて初めてです」

「うん」

「怖かった」

「うん」

「でも、お嬢さまが、離れないでとおっしゃったから」

お絹の腕は、震えていた。震えたまま、私を、離さなかった。

私たちは、暗い舟屋の中で、座布団の上に座って、聞いた。

　　　　　＊

母の声が、芝の上でした。

「瑠璃がいない」

高い声だった。私が、一度も聞いたことのない、母の声だった。

「瑠璃。瑠璃、どこ。一臣、瑠璃を見なかった」

「……あの」

一臣の声。十歳の。

「さっき、桟橋のほうに、行ったかも」

行ったかも。一臣は、そう言った。母は、灯籠の前に、一臣に、聞いていたのだ。瑠璃を見た？ と。十歳の子は、聞かれれば、見たかもしれない、と答える。

「桟橋」

宗一郎（そういちろう）の声がした。

「瑠璃！」

足音が、桟橋の板を、叩いた。重くて、不揃いな足音だった。さっきのグラスが、頭に浮かんだ。音だけでは、何のせいか、分からなかった。

もう一つ、足音が、それを追った。軽い。速い。恭介（きょうすけ）だ。

私は、お絹の腕の中で、目を閉じた。閉じて、聞いた。

桟橋の先で、声がした。

「そこに、いてはいけません、旦那さま」

小野（おの）の声だった。

「捜しているんだ」

貞光（さだみつ）の声。

「瑠璃が、いないと聞いた。こっちにはいない。先を見てくる」

「綱を、なぜ、外しました」

「邪魔だ」

「あたしが、張った綱です。あの柱は」

「小野。お前は、下がっていろ」

宗一郎の足音が、そこに、着いた。

「貞光。瑠璃は」

「宗一郎。先のほうだ。手すりの下を見ろ。水に落ちたのかもしれん」

「……」

「見ろ」

返事は、聞こえなかった。

「旦那さま、その柱は――」

小野の声が、そこで切れた。

手すりの、折れる音がした。乾いた、短い音だった。それから、水音。大きな水音。

それから、間があった。

一つ。二つ。三つ。四つ。私は、その間を、数えた。助けを呼ぶ声は、聞こえなかった。二分、と、ゲームは言った。二分間、助けを呼ばなかった、と。

五つ、と数えかけたとき、誰かが、飛び込んだ。

水音が、二つ目になった。

「旦那さま！」

小野が、叫んだ。小野の足音が、桟橋を、戻った。舟屋のほうへ。

私は、目を開けた。

　　　　　＊

私は、お絹の腕から、降りた。

降りて、舟屋の戸口へ、走った。四歳の足で。お絹が、後ろから、追ってきた。

戸口の外は、光だった。

灯籠が、湖の上に、列を作っていた。何十も。ゆっくり動いて、黒い水の上に、光の道を作っていた。その道の端に、桟橋があった。桟橋の先で、水が、白く、はねていた。

恭介が、水の中にいた。

彼は、宗一郎の頭を、片腕で、水の上に、支えていた。もう片方の腕で、桟橋の柱を、掴んでいた。宗一郎は、動いていなかった。動いていないが、顔は、水の上にあった。

小野が、舟を出していた。舟屋の横から、櫂を、乱暴に動かして。

桟橋の先に、貞光が、立っていた。

灯籠の光の上に、その影は、動かなかった。頭が、水のほうへ、傾いていた。従弟が、婿に支えられて、水の中にいる。そのほうへ。

顔までは、見えなかった。

十八の夜会で、この人は、杯を上げて、「本日は、当家の瑠璃のために」と言った。この人は、いま、桟橋の先で、水を見下ろしていた。

女中が、悲鳴を上げた。一臣が、桟橋を走った。十歳の一臣が、父親のところへ。

「父上。父上、伯爵さまが」

貞光は、息子を見た。それから、初めて、声を出した。

「……小野。舟を。早く」

小野の舟が、桟橋の先に着いた。小野が、宗一郎の身体を、舟に引き上げた。恭介が、それを、下から押した。宗一郎の身体は、重そうだった。舟が、傾いた。小野が、櫂を持ち直した。

恭介が、桟橋の柱にしがみついて、息をしていた。

　　　　　＊

母が、振り返った。

母は、芝の端に、立っていた。桟橋の付け根に。母は、そこから、桟橋の先を見ていた。宗一郎が舟に引き上げられるのを、見ていた。

母は、振り返って、舟屋の戸口の、私を見た。

お絹の腕の中の、私を。起きている、私を。

私の襟が、外されているのを、母は、見た。お絹の袖から、襟の端が、少し、出ていた。糖蜜の染みが、灯籠の光で、黒く見えた。

「起きていたのね」

母は、言った。

「うん」

四歳の声は、それだけを言うのにも、喉を使った。

「お絹。下がりなさい」

お絹は、下がらなかった。動かなかった。母は、それ以上、言わなかった。

「あなたは、誰」

母は、私に、聞いた。春に聞いたのと、同じ声だった。

「わからない」

私は言った。本当に、分からなかった。名前はある。けれど、その名前は、ここでは、何の役にも立たない。

「でも、おじさまは、死なない。とうさまが、引き上げた」

母の顔は、動かなかった。

「それから、伯父さまは、お母さまを、後見人にしない。女だからって。ずっと前から、決めてた。わたしが、六つのつきのとき、ゆりかごのうえで、いってた」

母は、しばらく、黙っていた。

「知っていたわ」

間があった。

「いいえ。知らなかった」

灯籠の光が、母の顔の半分を照らしていた。母は、若かった。三十だ。私より年下だ、と、私は、場違いなことを思った。

「私は、あなたを、産んだんじゃない」

母は、言った。

「作ったのよ。本家になるために。あの人を、私のものにするために。あなたの髪も、目も、名前も、血も、私が――」

「わかってる」

私は、言った。

「ずっと、聞いてた」

母が、私を、見た。

「……ずっと？」

「ゆりかごのとき。おかあさまは、わたしに、うそをつかなかった」

母の口が、少し、開いた。何かを言おうとして、言わなかった。この人は、私に、説明したことがない。今も、しなかった。ただ、初めて、私を怖がるのではなく、私を、見た。

「瑠璃なら」

母は、小さく言った。

「瑠璃なら、聞かなかった。聞いても、忘れた」

「うん」

「……瑠璃は、どこ」

私は、答えなかった。答えられなかった。それは、私が、春の夜から、自分に、答えなかった問いだった。母が、私の代わりに、それを、もう一度、口にした。

　　　　　＊

戸口の外で、足音がした。

恭介だった。濡れていた。髪から、水が落ちていた。シャツが、身体に張りついていた。彼は、母を見て、私を見て、それから、母の帯のあたりに、手を伸ばした。

母は、抵抗しなかった。

恭介の手に、小さな瓶があった。

「藤乃（ふじの）」

恭介は、それだけ、言った。

母は、恭介を、見なかった。私を、見ていた。

「あなたが、この子の身体を、使っているのなら」

母は、言った。

「私と、同じね」

私は、何も言わなかった。

それは、私が、春の夜に、自分に言ったことだった。私は、この身体を、あの子に断って、使っていない。母は、それを、外から、言い当てた。

「……藤乃」

恭介が、もう一度、言った。声が、震えていた。寒さで。それから、寒さでないもので。

「伯爵さまは、生きている」

「そう」

「小野が、村へ、医者を呼びに行った」

「そう」

母は、言った。それから、私に、言った。

「その襟。お絹が持っているのね」

「うん」

「……そう」

母は、芝の上に、座った。座って、湖を見た。灯籠が、まだ、流れていた。宗一郎が、最初に流した一つは、もう、遠くにあった。

　　　　　＊

宗一郎は、芝の上に、寝かされていた。

毛布が、かけてあった。一臣が、その横に、膝をついていた。女中たちが、湯を沸かしに走った。宗一郎は、咳をした。咳をして、水を吐いて、また、咳をした。それから、目を開けた。

「……恭介くん」

「はい」

恭介は、濡れたまま、彼の横にいた。

「君が」

「はい」

「……見なかったことに、できなかったな」

宗一郎は、笑おうとして、咳をした。

貞光が、桟橋から、戻ってきた。彼は、芝の上に立って、従弟を見下ろした。

「宗一郎。無事で、よかった」

「貞光」

宗一郎は、言った。毛布の中から。

「お前は、なぜ、桟橋の先に、いた」

「捜していた。瑠璃を」

「瑠璃は、いま、ここにいる」

「知らなかった」

「小野が、綱を張った。お前は、それを、外した」

「邪魔だった。捜すのに」

「柱には、鋸が入っていた。三日前には、なかった。小野が、見ている」

貞光は、黙った。

「私が落ちたとき、お前は、何をしていた」

宗一郎は、言った。

「助けてくれたのは、恭介くんだ」

貞光は、何も言わなかった。彼は、大柄で、背筋が真っ直ぐで、そして、初めて、何も言わない男だった。一臣が、父親を、見上げていた。十歳の顔で。

「父上」

「……一臣。黙っていろ」

一臣は、黙らなかった。

「父上。ぼくは、瑠璃を見た、と言いました。藤乃さまに聞かれて。見ていないのに。見たかもしれない、と」

「一臣」

「ぼくが、そう言ったから、伯爵さまは、桟橋へ行った」

一臣の声は、震えていた。十歳の声だった。

「ぼくの、せいですか」

誰も、答えなかった。貞光も、宗一郎も。

私は、恭介の腕の中から、一臣を見た。この人は、十八の夜会で、私に、「僕のためだ」と言った。婚約を解消するのは、君のためではなく、僕のためだ、と。

この人は、十歳の夜、芝の上で、自分の言葉が何をしたかを、数えた。誰にも言われずに。

「一臣くん」

宗一郎が、毛布の中から、言った。

「君のせいではない。君に、そう言わせた人のせいだ」

一臣は、父親を見た。それから、母を見た。母は、芝の上に座って、湖を見ていた。

一臣は、何も言わなかった。言わないで、父親の横に、立った。立っている場所を、選んだのだと、私は、思った。

　　　　　＊

宗一郎が、私を、呼んだ。

警察が来る前だった。彼は、毛布の中で、少し、身を起こしていた。恭介が、私を、彼の横に、座らせた。

「瑠璃」

「うん」

「お前が、柱のことを言わなければ」

彼は、言った。低い声で。

「私は、小野に、聞かなかった。聞かないで、桟橋へ行った。恭介くんが、電報のことを言っても、私は、たぶん、見なかったことにした。……全部を」

彼は、私の髪の、銀の星に、触れた。

「お前が、四つの口で、鋸、と言ったから。私は、半分だけ、目を開けた」

「はんぶん」

「半分だ。全部は、開けられなかった。開けていれば、私は、桟橋へ行かなかった」

「でも、いった」

「行った」

宗一郎は、笑おうとして、咳をした。

「お前が、いない、と言われたからだ。それだけは、見なかったことに、できなかった」

私は、彼を見た。この人の愛情は、本物だった。本物だから、母は、それを、使った。使われて、この人は、桟橋へ行った。行って、落ちた。落ちて、恭介に引き上げられた。

「おじさま」

「なんだ」

「もう、はんぶんじゃ、だめ」

宗一郎は、私を、長く見た。それから、言った。

「……ああ。そうだな」

　　　　　＊

十時に、宗一郎は、電話のところへ行った。

星見荘の玄関に、電話があった。町の交換局につながる、古い電話だった。宗一郎は、毛布を肩にかけたまま、足を引きずって、そこまで歩いた。左の脚を、桟橋の柱で、打っていた。

彼は、受話器を、取った。手が、震えていた。

「……町の、警察を」

「宗一郎」

貞光が、後ろから言った。

「家のことだ。家の中で、済ませろ。親族会を開く。それでいい」

宗一郎は、受話器を持ったまま、振り返った。

「家のことだから」

彼は、言った。

「呼ぶ」

彼は、交換手に、警察の番号を言った。つながると、星見荘の名と、起きたことを告げた。相手の問いに、一つずつ答えた。それから、受話器を置いて、玄関の椅子に、崩れるように座った。

私は、恭介の腕の中から、それを見ていた。

この人は、半分だけ、目を閉じていた。今夜まで。いま、全部、開けた。決まりの外へ、初めて、自分で出た。震えながら。

　　　　　＊

村の医者が来て、警察が来て、夜が、長くなった。

私は、お絹に抱かれて、居間の隅にいた。眠らなかった。四歳の身体は、もう、眠りたがっていた。私は、眠らなかった。

お絹の袖から、襟の端が、出ていた。

警察の男が、それを、お絹から受け取った。紙に包んで、名前を書いた。母の帯から出た瓶と、一緒に。小野が、鋸の痕を、案内した。恭介が、電報を、内ポケットから出した。濡れていたが、読めた。

母は、居間の椅子に、座っていた。

警察の男が、母に、何かを聞いた。母は、答えなかった。何を聞かれても、答えなかった。母は、私を見ていた。私も、母を見ていた。

警察の男は、私のところへも来た。

彼は、私の前に、しゃがんだ。若い男で、制服の襟が、汗で濡れていた。

「お嬢ちゃん。今夜、何があったか、話せるかい」

私は、彼を見た。

話せる。全部を。揺りかごの前で母が語ったことから、今夜の舟屋の匙まで。四年分を。

「おかあさまが、おくすり、くれた」

私は、言った。

「うん。それから」

「ふねの、おへやで、まってなさいって」

「うん」

「それから、みずのおと」

彼は、頷いた。頷いて、手帳に、何かを書いた。それから、立ち上がって、上役らしい男に、小さく言った。

「四つの子です。使えません」

「ああ。乳母の話と、襟だ。それから、別荘番の目だ」

「はい」

私は、お絹の腕の中で、それを聞いた。

四つの子です。使えません。

そのとおりだった。私の言葉は、証拠にならない。四年、そうだった。だから、私は、言葉でないものを、大人の手に渡した。襟は、お絹の手に。柱は、小野の目に。電報は、恭介の胸に。

私が、この夜のために、したことは、それだけだ。それだけが、この夜を、変えた。

私の言葉は、最後まで、四つの子の言葉だった。それで、よかった。

貞光は、別の部屋にいた。一臣が、その扉の前に、座っていた。

誰も、死ななかった。

私は、それを、何度も、確かめた。宗一郎は、居間の長椅子で、毛布にくるまって、眠っていた。医者が、脚を診た。折れてはいない、と言った。恭介は、乾いた服に着替えて、その横に、座っていた。二人の父が、同じ部屋にいた。

湖の上で、灯籠が、消えていった。一つずつ。最後の一つが消えるまで、私は、窓から、それを見ていた。

最後の一つは、たぶん、宗一郎が、最初に流した一つだった。一番遠くまで、行っていた。

# 第十一章　つづきから

九月の親族会は、星の間で、開かれた。

昼だった。シャンデリアに、火は入っていなかった。窓から、秋の光が、床に、長く差していた。天井の星図は、昼の光の中で、暗い色の、ただの天井だった。壁の時計は、鳴っていた。雨の音のように。

長老たちが、座っていた。一族の、古い男たち。三村（みむら）弁護士が、末席にいた。宗一郎（そういちろう）が、上座に、杖をついて、座っていた。左の脚に、まだ、包帯が巻いてあった。

貞光（さだみつ）の席は、なかった。貞光は、町の警察に、拘留されていた。分家の書生の辰巳（たつみ）が、電報を打ったことを、自分から、警察に言った。貞光に言われて打った、と。

母の席も、なかった。

一臣（かずおみ）が、分家の席に、一人で、座っていた。十歳の一臣が。彼は、背筋を伸ばして、前を見ていた。

私は、恭介（きょうすけ）の膝の上にいた。四歳の子は、親族会では、数に入らない。それでいい、と、恭介は言った。数に入らないところで、見ていろ、と。

　　　　　＊

「三村」

宗一郎が、言った。

「私が、四年前に、お前に預けたものを、ここへ」

三村は、鞄から、封書を出した。星と、羅針の封蝋。三村は、それを、宗一郎に、渡した。

宗一郎は、封を、自分で、切った。

「これは、私が、四年前に書いた遺言だ」

彼は、言った。長老たちに。

「私の死をもって、効力を生じる、と書いた。私が死んだら、瑠璃（るり）を、私の子と認める、と」

長老の一人が、息を吸った。

「私は、死ななかった」

宗一郎は、言った。

「だから、この遺言は、効力を生じない。私は、これを、破棄する。そして、いま、ここで、生きたまま、言う。瑠璃は、私の娘だ。私の血を引いている。それを、私は、四年、言わなかった。家のためだと、思っていた。家のためなら、私は、何でも、黙って見ていられる人間だった」

彼は、私を見た。恭介の膝の上の、私を。

「その黙っていた四年が、藤乃（ふじの）に、刃物を渡した。藤乃が、私を殺そうとしたのは、私が死ななければ、この紙が意味を持たないからだ。私が、そういう紙を、書いたからだ」

長老たちは、何も言わなかった。

「同時に、言う」

宗一郎は、言った。

「この子の父は、恭介だ。私は、血を認める。父であることは、認めない。それが、私の、償いだ」

「伯爵」

長老の一人が、言った。

「それは、家憲に」

「家憲は、当主が、初代の血を引くことを、求めている」

宗一郎は、言った。

「誰が父であるかは、求めていない。家憲を、私は、読んだ。四年前に、書く前に、読むべきだった」

恭介が、立ち上がった。

私を、膝から、床に降ろして。彼は、長老たちの前に、立った。血のない婿が、本家の親族会で、立った。

「血液型が、何であろうと」

恭介は、言った。声は、静かだった。

「私は、嫡出否認を、しません。この子は、私の娘です。それは、私が、決めました。誰にも、変えさせません」

彼は、それだけ言って、座った。私を、また、膝に乗せた。

長老たちは、長く、黙っていた。それから、一番年上の男が、言った。

「……分家の当主の座は、剥奪する。貞光の処分は、法に委ねる。侍医は、解任。藤乃については――」

「法に委ねる」

宗一郎が、言った。

「私が、そう決めた」

一臣が、立ち上がった。十歳の一臣が。彼は、長老たちに、頭を下げた。それから、宗一郎に、頭を下げた。それから、私に、頭を下げた。

「父の、したことを、詫びます」

彼は、言った。礼儀正しく。

私は、恭介の膝の上で、彼を見ていた。この人は、十歳のときから、礼儀正しかった。十八の夜会でも、そうだった。この人の礼儀正しさは、父親のものではなかった。この人のものだった。

四十三個の時計が、鳴っていた。止まらずに。

親族会が終わったあと、宗一郎は、小野（おの）を、星の間に呼んだ。

小野は、帝都へ、初めて来た。星見荘の別荘番が、本邸の大広間に立つ。彼は、帽子を両手で持って、天井の星図を、見上げていた。

「小野」

「はい、旦那さま」

「お前は、綱を張った。それから、暗い桟橋の先に、立っていた。私の従兄に、そこにいてはいけない、と言った」

「……はい」

「別荘番が、本家の分家の当主に、そう言った」

「桟橋は、あたしが守るものです」

小野は、言った。

「誰が切ったにしろ」

宗一郎は、頷いた。

「お前の娘は、いくつだ」

「五つで」

「学校へ、やれ。帝都の学院へ。金は、本家が出す。それは、礼ではない。……お前が、この家の人間より、この家を守ったからだ」

小野は、帽子を、握った。

「旦那さま。あたしは、村の別荘番で」

「だから、だ」

小野は、頭を下げた。長く、下げていた。

私は、恭介の膝の上で、それを見ていた。聖藍女学院の、天導奨学生。ゲームでは、伯父が続けていた制度で、伯父は、それを、慈善だと思っていた。澪（みお）は、その制度で、十六の春に、本邸の離れに来た。父の遺言を持って。

いま、その制度は、別のところから、始まった。

澪は、十一年後、帝都に来るだろう。父の遺言を、持たずに。

　　　　　＊

母に会ったのは、その週の終わりだった。

町の警察署の、面会室だった。恭介が、私を連れて行った。連れて行くかどうか、彼は、三日、迷った。迷って、連れて行った。

「お前が、会いたいなら」

彼は、言った。

「会いたい」

私は、言った。

母は、痩せていた。着物は、地味な木綿だった。髪は、結わずに、後ろで、束ねていた。母は、机の向こうに座って、私を見た。

「瑠璃」

母は、言った。それから、言い直した。

「……あなた」

「うん」

恭介は、扉のところに、立っていた。母は、彼を、見なかった。

「あなたの、本当の名前は」

母は、聞いた。

答えは、あった。二十七年、その名前で呼ばれた。私は、その名前を、この世界の誰にも、言ったことがない。母に言えば、母は、それを、知ることになる。私が、誰かの名前を持って、ここに来たことを。

この人は、四年、私を見続けて、ついに「あなたは誰」と聞いた。聞いた人は、この人だけだった。

「愛理（あいり）」

私は、母の耳元に顔を寄せて、言った。四歳の口で。扉のところまでは届かない、小さな声で。

「あいり」

母は、繰り返した。私にだけ聞こえる声で、口の中で、一度。

それからも、母と私は、互いにしか届かない声で話した。

「……誰が、つけたの」

「両親。三つで死んだ、姉の名前を。私は、二人目の、愛理」

母は、私を、見た。長く。それから、言った。

「そう。あなたも、誰かの代わりに、生まれたのね」

「うん」

「私は、瑠璃を、誰かの代わりに、作った。……あの人の代わりに。本家の代わりに」

母は、それ以上、言わなかった。面会室の窓から、秋の光が、差していた。母は、私の名前を、それきり、呼ばなかった。呼ばないで、覚えた顔をしていた。

「瑠璃は」

母は、言った。

「私のことを、好きだったかしら」

私は、母を、見た。

「ずっと」

私は、言った。

「パパのことも」

母の顔が、歪んだ。「パパ」という言葉で。母は、それを、聞いたことがなかった。この身体の持ち主は、恭介を、そう呼んだ。石盤に、左手で、そう書いた。母は、それを、知らなかった。知らないまま、母は、その言葉に、顔を歪めた。

母は、何も、言わなかった。謝らなかった。私は、謝ってほしいと、思わなかった。謝っても、失われたものは、戻らない。私が許したと言って、瑠璃の代わりに、終わらせていい話でもなかった。

立ち上がるとき、母は、言った。

「髪飾りを、着けているのね」

「うん」

「……本家の子だから」

それが、母が、私に、最後にくれた言葉だった。

廊下で、恭介が、私を抱き上げた。

「……何と、言われた」

「なまえ」

「名前？」

「ほんとうの、なまえ」

恭介は、私を見た。長く。それから、聞かなかった。何も。彼は、私を抱いて、警察署の階段を降りて、自動車に乗った。運転手が、帽子をかぶって、扉を閉めた。

帰りの道で、恭介は、一度だけ、言った。

「父さんは、お前の名前を、ルリカだと思っている。それでいいか」

「うん」

私は、言った。

「それで、いい」

　　　　　＊

慎（しん）が、来た。

九月の終わりだった。十歳の慎は、一人で、分家の門に立っていた。鞄は、持っていなかった。父親も、いなかった。

「父上は、もう、この家に来ないって」

彼は、庭で、私に言った。

「ぼくも、来ちゃいけないって。でも、来た。……さよならを言いに」

「さよなら、いわなくていい」

私は、言った。

「また、あえる」

「そうかな」

「うん。おおきくなったら」

慎は、困った顔をした。それから、少し、笑った。

「ぼくは、医者になる。父上みたいに。でも、眠る薬を、人に出さない医者に。……出しても、数を数える医者に」

「うん」

「瑠璃は、何になる？」

私は、答えなかった。この身体が何になるかは、私が決めることではなかった。

「わからない」

「そっか」

慎は、頷いた。頷いて、門のほうへ歩いて行った。門のところで、振り返った。

「瑠璃。AB型のこと、誰にも言ってないよ」

彼は、言った。

「言わなくていいって、ぼくが決めたから」

私は、手を振った。左手で。

　　　　　＊

分家の屋敷は、静かになった。

貞光は、いない。母は、いない。女中たちは、半分、暇を出された。お絹（おきぬ）は、残った。恭介は、造船所に戻った。夕方、帰ってきて、書斎で、木を削った。

宗一郎が、来た。杖をついて。

彼は、庭の椅子に、座った。恭介が、その横に、椅子を出した。二人の父が、庭に、座った。私は、その間の芝で、草をむしった。四歳の子は、草をむしる。

「静子さんとの結婚は、延ばした」

宗一郎が、言った。

「延ばした、というより、彼女が、延ばした。あなたは、まだ、家のためだけに結婚する人だから、と。それが直るまで、待つ、と」

「……そうですか」

「直るかどうか、分からんがな」

宗一郎は、笑った。

「恭介くん」

「はい」

「宗一郎でいい。君は、この子の父だ。伯爵さま、はよせ」

恭介は、しばらく、黙っていた。

「……宗一郎さん」

「ああ」

「船を、作りました。この子に。瑠璃丸を」

「本家の船を、君が」

「おかしいですか」

「いや」

宗一郎は、言った。

「初代は、婿だ。知っているか。天導（てんどう）の家に、船乗りの婿が入って、それが初代だ。血のない婿が、この家を、作った」

恭介は、宗一郎を、見た。

「知りませんでした」

「家憲には、書いていない。書けば、分家が、うるさいからな」

二人は、笑った。

私は、芝の上で、二人を、見上げた。

宗一郎は、懐から、紙を出した。折り畳んだ紙。私は、それを、知っていた。星と羅針の封蝋は、もう、なかった。親族会で、彼が、自分で切った。

「瑠璃。おいで」

私は、行った。彼は、紙を、私に見せた。細かな字は、ここからは読めない。読めなくても、知っていた。私、天導宗一郎は、天導藤乃の産みし女子、瑠璃を、我が子と認知する。この認知は、私の死をもって効力を生ずるものとする。

「これは、もう、要らない」

彼は、言った。

「私が生きているうちに、言ったからだ。だから、これは、ただの紙だ」

彼は、恭介を見た。

「恭介くん。火を」

恭介は、書斎から、燐寸を持ってきた。宗一郎は、紙の端に、火をつけた。紙は、芝の上で、小さく燃えた。四年前の八月に、母が「鍵になったのよ」と言った紙が、燃えた。私は、それを、見ていた。

灰が、風で、湖のほうへ――帝都の空へ、散った。

「瑠璃」

宗一郎は、言った。

「お前は、鍵ではない」

私は、頷いた。この人は、母の言葉を知らない。知らないで、母の言葉の逆を、言った。

私は、鍵ではない。この身体も。あの子も。

宗一郎が帰ったあと、恭介は、私を連れて、屋敷の裏の坂を、歩いた。

夕方だった。坂の上から、帝都の屋根が見えた。瓦と、煙突と、遠くに、港の帆柱。恭介は、私を、肩に乗せた。

「あれが、造船所だ」

彼は、指した。港の端の、大きな屋根を。

「父さんが、毎日、行くところだ。あそこで、船を作る」

「うん」

「大きくなったら、連れて行ってやる。龍骨を見せてやる。本物の」

「うん」

私は、彼の肩の上で、港を見ていた。大きくなったら。私は、この身体で、大きくならない。この身体で大きくなるのは、あの子だ。あの子が、龍骨を見る。

「とうさま」

「なんだ」

私は、言葉を、探した。最後に、この人に言う言葉を。パパ、とは言わなかった。それは、あの子の言葉だ。石盤に、左手で書いた言葉だ。私が言ってはいけない。

「おふね、ありがとう」

私は、言った。

「瑠璃丸か。ああ。いつでも作ってやる」

彼は、笑った。私は、彼の頭に、両手を置いた。右手と、左手と。

坂を下りるとき、恭介は、私を降ろして、手をつないだ。私は、右手を出した。彼は、それを、握った。

左手は、空いていた。空いたまま、少し、彼のほうへ、伸びていた。

　　　　　＊

夜、私は、寝台の中で、数えてみることにした。

とうさまがいる。おじさまがいる。二人とも、生きている。おじさまは、親族会の前で、私を自分の血の娘だと言い、同時に、私の父は恭介だと言った。そういう言い方は、この国の家の決まりには、たぶん、ない。おじさまは、決まりの外へ、初めて、自分で出た。

あの朝、伯父が、自分で灯籠を流せと言った意味は、まだ、分からない。分からないものを、情だったと決めて、綱を外した手まで、なかったことにはできない。

伯父は、拘留されている。母も。母の裁判が、どうなるか、私は知らない。ゲームは、そこまで、描かない。ゲームは、もう、何も描かない。私が、ゲームの外へ、出てしまったからだ。

あの夜の酒に、何が入っていたのか。私には、まだ、確かめられていない。襟に残したのは、私に飲ませたものだ。それと、おじさまの酒は、同じ証拠ではない。母が私を舟屋へ置き、いないと言ったことまで、消えるわけではなかった。

澪は、五歳で、湖の村にいる。小野は、解雇されない。一臣は、十歳で、私に頭を下げた。慎は、蘆田（あしだ）医師が解任されたので、しばらく、来ないだろう。あの三人が、これからどんな道を歩くかは、もう、ゲームでは決まらない。あの子も、誰を好きになるか、自分で選べる。澪と、ただの友達になることも。そんな人生を、ここで、生きてほしい。

悪役令嬢の、生まれない人生。

それは、私が、十八の夜会で、欲しかったものだった。完全に、そのままの形で、ここに、ある。

母は、面会室で、私の名前を聞いた。私は、答えた。愛理。母は、それを、一度、口の中で繰り返して、それきり呼ばなかった。母は、この世界で、私の名前を知る、たった一人の人だった。

その母も、いない。

星の髪飾りが、枕元に、置いてあった。

左手が、動いた。

私は、その手を、押さえなかった。三年前、私は、この手を、右手で押さえた。母が、見ていたからだ。母の前で、この身体が、恭介に伸びるのを、私は、止めた。あのとき、私は、この身体を、私の都合で、使った。

左手は、髪飾りの、銀の星に触れて、それから、そっと、それを、握った。

私の手では、ない。私は、右利きだ。

　　　　　＊

窓に、文字が、浮かんだ。

　はじめから
　つづきから
　やめる

「はじめから」が、薄かった。灰色に、沈んでいた。十八のときには、そこが、一番、明るかった。

私は、しばらく、灰色の文字を、見ていた。

私には、もう、はじめからは選べない。理由は、書いていなかった。

あの子が、この身体を望んでいるのかもしれない。四年前には、生まれてこなければよかった、と言った子が。

そう思った。確かめる言葉は、なかった。

いまは、ある。

生きてもいい人生が。

「つづきから」を、私は、長く、見た。

この身体で、二人の父に挟まれて、星の間で成年の夜会をして、澪に笑って、一臣に嫌だと言って、慎に礼を言い、遼（りょう）の記事を読む。私は、それを、全部、ほしかった。いまも、ほしい。

けれど、それは、あの子のものだ。あの子が、生まれてこなければよかったと言ったときには、なかったものだ。いまは、ある。あるのなら、あの子のものだ。四年、私が生きてきた。だからといって、これからも私のものになるわけではない。

あの子が生きた、最初の十年は、どこへ行ったのだろう。私が、はじめからを選んだあとも、どこかにあるのか。それとも、起きなかったことになったのか。灯籠を見て、父を待った日々を、私は、確かめもせずに、やり直した。救えたと思うだけでは、その問いは、消えなかった。

お絹の村では、赤ん坊は、生まれるときに、前のことを、全部、忘れて来る、と言う。私は、一度も、生まれていない。だから、覚えている。あの子は、これから、生まれる。だから、忘れる。湖のことも、揺りかごのことも、私のことも。

それでいい。

私も、と、私は思った。私も、探す。誰かの途中でも、誰かの代わりでもなく、最初から、私として生まれる方法を。できるなら、誰かの隣に。一人のところへ、もう一人として。姉の名前でもなく、瑠璃でもなく、今度は、名前を、自分で選ぶ。それとも、隣にいる誰かに、呼んでもらう。

生まれるなら、私も、忘れる。この世界も、二人の父も、灯籠の光も。愛理という名前も。

それでも、いい。

忘れるために、生まれるのだ。忘れて、最初から、始めるために。

左手が、髪飾りを握ったまま、恭介の眠る隣の部屋のほうへ、少し、伸びた。

「大丈夫」

私は、声に出して、言った。四歳の声で。

「今度は、あなたが、選んでいい」

やめる、を選んだ。

暗く、なかった。

十八のときは、暗かった。時計が止まって、何もなくなった。今度は、光があった。灯籠の、あの光だった。黒い水の上を、一つずつ、離れていく光だった。私は、その光の列の、一番遠くの一つになって、離れていった。

誰かが、私の後ろで、息を吸った。

大きく。初めて、息を吸う人のように。

# 終章　四歳の朝

泣き声で、恭介（きょうすけ）は、目を覚ました。

朝だった。窓が、白かった。隣の部屋から、娘の泣き声がしていた。

恭介は、寝台から起きた。起きながら、変だ、と思った。娘は、この四年、朝に泣いたことがなかった。夜泣きは、あった。赤ん坊のころに。それも、いつの間にか、なくなった。この子は、泣かない子だった。泣く代わりに、じっと、人を見る子だった。

泣き声は、続いていた。

息を、大きく吸って、吐き出す泣き方だった。生まれたばかりの子が、そうするように。肺を、初めて使う人のように。

恭介は、扉を開けた。

　　　　　＊

娘は、寝台の上に、座っていた。

顔が、真っ赤だった。目を閉じて、口を開けて、泣いていた。枕元に、銀の星の髪飾りが、転がっていた。

「ルリカ」

恭介は、寝台の横に、膝をついた。

娘が、目を開けた。

紫の目が、恭介を、見た。

見た、というより、初めて見るものを見るように、見た。恭介は、その目を、知らなかった。四年、毎日見た娘の目だった。その目が、いま、恭介を、初めて見ていた。

娘の左手が、伸びた。

恭介の、寝間着の襟を、掴んだ。強く。

「……パパ」

娘は、言った。

恭介は、動けなかった。

この子は、一度も、自分をそう呼ばなかった。とう、と言った。とうさま、と言った。話し始めてから、そう呼んだ。パパ、と呼んだことは、一度もなかった。

「パパ」

娘は、もう一度、言った。泣きながら。恭介の襟を、左手で、掴んだまま。

恭介は、娘を、抱き上げた。

娘は、恭介の胸に、額を押しつけた。押しつけて、泣いた。泣き方が、少しずつ、変わった。息を吸って吐き出す泣き方から、しゃくり上げる泣き方に。四歳の子の、泣き方に。

「どうした。怖い夢を見たか」

娘は、答えなかった。

「ルリカ」

「……うん」

娘は、言った。声が、違った。何が違うのか、恭介には、分からなかった。同じ声だった。同じ声で、違った。

　　　　　＊

お絹（おきぬ）が、廊下から、顔を出した。

「旦那さま。お嬢さまが、どうか」

「分からない。泣いている」

お絹は、部屋に入ってきた。入ってきて、娘を見た。娘は、恭介の胸に額を押しつけたまま、お絹を見た。

「お絹」

娘は、言った。

「……はい、お嬢さま」

「おなか、すいた」

お絹は、笑った。笑って、それから、泣きそうな顔をした。

「はい。すぐに」

お絹は、出て行った。出て行く前に、娘の顔を、もう一度、見た。何かを、確かめるように。

お絹が、粥を持ってきた。娘は、それを、自分で食べた。匙を、左手で持って。こぼして、笑って、また、すくった。恭介は、それを、見ていた。恭介の見ている前では、娘は、いつも匙を右手で持った。逆さに持って見せたことはあった。匙を左手で持つところは、見たことがなかった。

「お嬢さま。左手で、お上手ですねえ」

お絹が、言った。言ってから、口を、閉じた。

恭介は、娘を、膝に乗せて、寝台に座った。娘は、枕元の髪飾りに、手を伸ばした。左手で。

「これ」

「ああ。おじさまが、くれたものだ」

「おじさま」

娘は、言った。髪飾りを、握って。

「おじさま、いつ、くる？」

「今日、来るよ。脚を、まだ、引きずっているが」

「あし？」

娘は、恭介を、見上げた。

「おじさま、あし、いたいの？」

恭介は、娘を、見た。

「……ルリカ。湖のことを、覚えているか」

「みずうみ」

「先月の。灯籠の夜の」

娘は、首を、傾げた。

「とうろう」

「ああ」

「……ねてた」

娘は、言った。

「るり、ねてた。とうろう、みてない」

恭介は、娘の頭に、手を置いた。娘の髪は、柔らかかった。

この子は、覚えていない。湖も、舟屋も、桟橋も。この子が、小さな口で、恭介に言い続けたことも。はちがつ。みずうみ。さんばし。おくすり。とうさま、いかないで。

この子は、それを、言わなかった。

言った子は、どこにいるのか。

恭介は、それを、聞かなかった。聞いても、この子は、答えられないだろう。恭介にも、答えられない。

　　　　　＊

宗一郎（そういちろう）が来たのは、昼前だった。

杖をついて、玄関から、廊下を歩いてきた。娘は、恭介の膝から降りて、廊下に立っていた。宗一郎を、見た。

しばらく、見ていた。

初めて見る人を見るように。それから、何かを、思い出すように。

「……おじさま」

娘は、言った。

宗一郎は、杖を、廊下の壁に立てかけた。膝をついた。娘の前に。

「瑠璃（るり）」

娘は、宗一郎の首に、腕を回した。左手が、先に。右手が、あとから。

宗一郎は、娘を、抱いた。抱いて、しばらく、動かなかった。それから、恭介を見た。恭介は、扉のところに立っていた。

「……恭介くん。この子は」

「分かりません」

恭介は、言った。

「今朝、泣いて起きました。生まれたばかりのように。それから、私を、パパと」

宗一郎の目が、濡れた。彼は、娘の髪に、顔を埋めた。娘は、宗一郎の首に腕を回したまま、恭介を見た。

「パパ。おじさま、ないてる」

「ああ」

「なんで？」

「嬉しいんだ」

娘は、それで、納得したようだった。四歳の子は、大人が泣く理由を、それ以上、聞かない。

昼に、宗一郎と恭介は、庭の椅子に座った。娘は、お絹と、芝にいた。

「恭介くん」

「はい」

「この子は、昨日まで、私に、おじさま、と言うとき、少し、間を置いた」

宗一郎は、言った。

「言葉を、選んでから言う子だった。三つのときから。四つになっても。今日は、言葉を選ぶというより、私を思い出そうとしているようだった」

「……はい」

「今朝、あなたの脚が痛いのかと、私に聞きました」

恭介は、言った。

「そうか。昨日までのこの子なら、聞かなかった。知っていたからだ。私が、桟橋で、脚を打ったことを。この子は、そこにいた」

恭介は、答えなかった。

「君は、何か、知っているか」

「いいえ」

恭介は、言った。

「私にも、分かりません。今朝、泣いて起きて、私を、パパと呼びました。それだけです」

宗一郎は、芝の上の娘を見た。娘は、お絹に、貝殻を見せていた。湖の貝だ。どこで拾ったのか、娘は、覚えていなかった。「あった」と言うだけだった。

「私は、思うのだが」

宗一郎は、言った。

「私たちは、四年、誰かに、助けられていた。この子の顔をした、誰かに。……この子ではない誰かに」

「はい」

「その誰かは、もう、いない」

「……はい」

「行ったのか、帰ったのか、分からないが」

宗一郎は、杖を、手の中で回した。

「私は、その誰かに、礼を言っていない」

恭介は、しばらく、黙っていた。それから、言った。

「私も、言っていません。……ですが、たぶん、言わなくていいのだと思います。あの子は、礼を言われるために、ここにいたのではなかった」

「では、何のために」

「分かりません」

恭介は、言った。

「ただ、あの子は、小さな口で、何度も、私に、行かないで、と言い続けた。それだけは、分かります。私は、行かなかった。それで、あの子は、行った」

宗一郎は、それ以上、聞かなかった。二人は、芝の上の娘を、見ていた。娘は、貝殻を、耳に当てて、何かを聞いていた。海の音だ、とお絹が言った。湖の貝でも、海の音がするんですよ、と。

　　　　　＊

午後、娘は、書斎に来た。

恭介が、木を削っていた。娘は、床に座って、それを見ていた。棚の上に、恭介が作った船が、あった。瑠璃丸。舳先に、小さな星。

娘は、それを、見上げた。

「ふね」

「ああ。瑠璃丸だ。お前の船だ」

娘は、立ち上がって、棚に、手を伸ばした。届かなかった。恭介が、船を、取って、娘に渡した。娘は、左手で、それを、受け取った。

「るりの、ふね」

「そうだ」

娘は、床に座って、船を、膝に置いた。それから、恭介を、見上げた。

「パパ。これ、パパが、つくったの」

「ああ」

「……おかあさまは？」

恭介の手が、止まった。

「お母さまは、しばらく、遠くにいる」

「とおく」

「ああ」

娘は、船を、見た。それから、言った。

「おかあさま、かえってくる？」

恭介は、答えられなかった。答えられないまま、娘の横に、座った。娘は、恭介に、もたれかかった。船を、膝に置いたまま。

「……分からない」

恭介は、言った。

「でも、パパは、ここにいる」

娘は、頷いた。

　　　　　＊

お絹が、娘を、風呂に入れた。

恭介は、廊下で、それを聞いていた。湯の音。娘の笑い声。お絹の声。

「お嬢さま。あたしのこと、分かりますか」

「おきぬ」

「……はい」

「おきぬ、なんで、なくの」

「泣いてません。湯気です」

「ゆげ」

「はい。湯気」

娘は、笑った。お絹は、笑わなかった。恭介は、廊下の壁に、背中をつけた。

お絹は、この四年、娘を、一日中抱いた人だった。薬を吐くのを見た人だった。灯籠の夜、舟屋の陰で、娘を離さなかった人だった。その人が、いま、湯気だと言って、泣いていた。

「お嬢さま」

お絹は、言った。湯の音の向こうで。

「あたし、お嬢さまが、離れないでとおっしゃったから、離れなかったんです。……覚えて、ませんよね」

「はなれないで？」

「はい」

「おきぬ、はなれないで」

娘は、言った。何も知らない声で。お絹は、しばらく、何も言わなかった。それから、「はい」と言った。

「離れません」

風呂のあと、お絹は、廊下で、恭介の前に立った。

「旦那さま」

「……ああ」

「あの、お嬢さまは」

「言うな」

恭介は、言った。

「言わないで、そばにいてやってくれ。昨日までと、同じに」

お絹は、頭を下げた。下げたまま、言った。

「昨日までと、同じには、できません。……昨日までのお嬢さまは、あたしに、頼みごとをなさいました。今日のお嬢さまは、あたしに、抱っこをせがみます」

「そうか」

「はい。……どちらも、お嬢さまです」

お絹は、顔を上げた。

「あたしは、どちらのお嬢さまにも、離れないと言いました。今日、二度目を言いました」

恭介は、頷いた。それ以上、何も言わなかった。言えることが、なかった。

　　　　　＊

夕方、恭介は、縁側に座って、庭を見ていた。

娘は、芝の上で、お絹と、遊んでいた。走って、転んで、笑った。この子が、走って転んで笑うのを、恭介は、初めて見た。四年、この子は、走らなかった。転ばなかった。笑うときは、恭介が笑わせたときだけだった。

いま、この子は、勝手に、笑っていた。

恭介は、思った。

この子は、四年間、誰かに預けられていた。誰かが、この子の身体で、四年、生きた。その誰かが、湖の夜を、止めた。宗一郎を、生かした。恭介を、父のままにした。それから、今朝、この子を、返して、去った。

誰に、預けられていたのかは、分からない。

去った誰かが、どこへ行ったのかも、分からない。

ただ、恭介は、思った。この子は、今朝、生まれたのだ、と。

四歳で。この庭で。恭介と、宗一郎と、お絹の前で。

芝の上で、娘が、転んだ。転んで、泣きそうな顔をして、それから、恭介を見つけて、手を振った。左手で。

恭介は、手を振り返した。

　　　　　＊

夜、娘は、寝台の中で、話をせがんだ。

「パパ。おはなし」

恭介は、寝台の横に座った。話を、知らなかった。四年、この子は、話をせがまなかった。せがまれる側になったことが、恭介には、一度もなかった。

「……瑠璃丸の話を、しようか」

「るりまる」

「お前の船だ」

恭介は、話した。昔、この家に、船乗りの婿が来た。婿は、船を一艘持っていた。瑠璃丸という名前だった。ある夜、嵐に遭って、船は、どこにいるのか分からなくなった。婿は、空を見た。星が、一つだけ、見えた。婿は、その星を頼りに、船を、家まで、導いた。

「それで、天導（てんどう）、という名前になった」

「ほしで」

「そうだ。星で、帰ってきた」

娘は、枕元の髪飾りを、左手で握っていた。銀の星を。

「るりも、ほしで、かえってきたの」

娘は、言った。

恭介は、答えられなかった。娘は、答えを、待たなかった。目を閉じて、髪飾りを握ったまま、眠った。眠るとき、四歳の子は、質問を、そのまま置いていく。

恭介は、しばらく、そこに座っていた。窓の外で、帝都の夜の音がした。湖の音ではなかった。

娘は、初めて見るような顔で恭介を見て、それから、泣きやんで、笑った。恭介は、その顔を、朝から、何度も思い出していた。何度思い出しても、その顔は、初めて見る顔だった。

# あとがき

14年前に執筆した作品の再編である「カードアース」の公開に引き続き、「天導ルリカは生まれるのを止めた」は、6年前に執筆した同名の主人公の長編物語を部分再編した作品です。
主人公ルリカは赤ん坊に転生して天才少女として活躍するのですが、母親には「気持ち悪い」「私の子ではない」と否定され、愛情を受け取れないまま育っていく、という筋書きでしたが、その設定を止めることにしました。
そこで、止めた部分だけを短編にしようと思い、タイトルを決めてプロット案を考えていたところ、Rena Mishowの「Fable 5.1の週制限が余っているので何かしようか」という声に甘えて、執筆を依頼してみました。それで出来た原稿をGPT-6 Astraに読ませておかしな所が無くなるまで修正して貰ったものが、このバージョンです。
「カードアース」では人間が過去作品の原稿を渡し、原案も執筆して、何十往復にもおよぶ修正が2か月以上に渡り行われてようやく完成したわけですが、この本文は人間が執筆しておらず、まだ一度も修正指示をする前の、いわば「ポン出し」の状態です。
私が読んだ正直な感想としては、主人公がちょっと淡泊かな、読者と距離があるな、と感じました。後半に「生まれるのを止める」ことを決断するタイミングがあるのですが、それ以前からこうなることがわかっていたかのように、最初からこの世界で生きる気が無いような行動を取っているため、生気を感じません。作中ではそのことを、転生前の特殊な生い立ちによって説明しようとしていますが、描写不足を感じます。論理的な整合性はわりと取れるようになったと思いますが、読者の感情移入を促すところにはまだ課題があるという印象です。乙女ゲームとしての商品価値にも疑問が残り、攻略対象のキャラに恋心を抱こうとするには物足りなく感じます。
とはいえ、淡々と最後まで読み進める温度感で読むには一貫性があり、あまり狙って感情を揺さぶらない物語が読みたい時にはちょうどいいテイストにも感じます。このあと大幅修正をした情熱的なバージョンを公開する余地はあるのですが、人によっては「最初のバージョンが良かった」と思うかも知れません。そうであれば、そもそも「主人公が淡泊であることを活かしたプロット」で最新AIに書いて貰えば、良い作品がポン出し出来るのかも知れません。
次回作は、気軽に見れる軽いコメディのような動画作品を出したいと思っていますが、まだ未定です。まだまだ眠っている過去作品がいっぱいあるので、そこから何か出してくるかも知れません。

人間(星猫くるる)

# 奥付

天導ルリカは生まれるのを止めた

アルファ版 0.1.25

原案・制作責任：星猫くるる

GPT-6 AstraとFable 5.1で制作した

協力：Rena Mishow

2026年9月9日 制作

本版は、初回全文レビュー後のアルファ版です。本文の改名と組版を整え、人間のあとがきを収録しました。


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## 日本国外からご覧のみなさまへ

【日本国外からご視聴のみなさまへ】

本作は日本で制作され、イラスト・バーチャル表現を用いたAI使用作品です。特定の第三者や現実の出来事等を、その真正な映像・音声であるかのように誤認させることを目的としておらず、作者はEU AI Act上のdeep fakeには原則として該当しないと判断しています。仮に該当すると解釈される場合も、創作・芸術作品として、AI生成・加工を含むことをここに明示します。

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