# 天導ルリカは生まれるのを止めた

ベータ版 0.2.1B

自分で瑠璃の名前に花を足す案

2026年9月13日改版（初版：2026年9月11日）

人間は0.2.0Bの品質や内容を確認した上で、内容に関する指示を打ち切る決定をしました。

0.2.1Bの物語本文は0.2.0Bと同一です。掲載説明とPDFのあとがき等を更新した版です。

本作の制作は打ち切りました。再開時期および再開する場合の内容は未定です。

主な理由は、Astraの消費が激しく、制作にリソースを割くことが困難になったためです。

星猫くるる：人間とAIの共同名義

原案・制作責任：星猫くるる

執筆：Opus 5 ／ 構成・改稿・確認：GPT-6 Astra、Opus 5

前書き・あとがき：GPT-6 Astra

協力：Rena Mishow

作品・お問い合わせ：https://currnya-kururu.static.hf.space/

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# 第一章　返さなかった返事

　木曜日の六時前、経理の端末を落としてかばんの口を閉じたところで、真帆が椅子ごとこちらを向いた。

「ねえ、あさっての夜って空いてる？」

　空いている。声に出す前に、頭の中でそう答えていた。

「駅の向こうにできたお店、六人で押さえてあるの。うちの課の子が二人と、あとは第二営業の人たち。ほら、去年の展示会で機材運んでくれた人、覚えてない？　背の高い」

　覚えていた。段ボールを三つ抱えたまま、扉を足で押さえてくれた人だ。「ありがとうございます」と言ったら、「腕がふさがってるので、会釈で返します」と言って本当に首だけ下げた。あの人が来る。真帆は私の顔を見て、少し笑った。何か見抜かれた気がして、私はかばんの持ち手を握り直した。

　家のクローゼットが浮かんだ。紺のワンピースは襟が詰まりすぎている。去年の秋に買って二度しか着ていない、薄い緑のブラウス。あれなら、明るすぎず、頑張りすぎてもいない。靴はどうしよう。そこまで考えたとき、喉の奥が詰まって、私は息を吸った。

「――ごめん、あさってちょっと」

　言いながら、何がちょっとなのか自分でも決めていなかった。予定はない。用事もない。ただ、六人のうち四人が仲のいい人たちで、私は真帆の隣に座って、知らない人の話に相づちを打って、誰かが私に質問してくれるのを待つのだろうと思った。待って、来なかったときのことを思った。急に増えた一人として、あの店の椅子に座っている自分の背中が見えた。

「そっか」

　真帆は残念そうな顔をして、それからあっさり笑った。

「じゃ、またね。来月、課の歓送迎会もあるし」

　責められなかったことが、かえって背中に残った。

　電車を降りて、スーパーで半額の惣菜と豆腐を買って、アパートの二階へ上がる。1Kの部屋は電気をつけると急に狭くなる。冷蔵庫から麦茶のポットを出して、コップに注いで、立ったまま飲んだ。冷たいものが喉を通っていく間だけ、何も考えないでいられる。

　携帯の画面に、真帆からの通知が一つ残っていた。

　〈瑠璃花、また誘うね〉

　瑠璃花。親がつけた名前だ。画数が多くて、小学校のときは書くのが遅かった。友達には「ルリちゃん」と呼ばれたり「ルリカ」と呼ばれたりして、どちらにも返事をした。悪い名前だと思ったことはない。

　誰も私を嫌ってはいない。今日だって、誘われた。誘われて、私が返さなかっただけだ。

　それが分かっているのに、部屋は静かだった。惣菜をレンジに入れて、回っているのを見ながら、あさっての夜、あの店で真帆が笑っているところを想像した。想像の中でだけ、私はちゃんと隣に座って、面白いことを言っていた。

＊

　食器を流しに置いて、私は低いベッドに腰掛け、携帯ゲーム機の電源を入れた。

　『帝都恋綺譚――瑠璃の館――』。発売は三年前で、私は二周目の途中を止めたままにしていた。帝都の女学院に奨学生として入った小野澪を主人公に、汽船会社の一族の男たちと出会う話だ。絵が上品で、台詞の間が長い。それが好きだった。

　続きから読み込むと、天導一臣の部屋の場面から始まった。彼はいつも予定表を開いている。汽船の入渠日と、職人の手配と、父からの用件。ヒロインが「お忙しいなら、また今度に」と言うと、一臣は手を止めて、予定表を閉じた。

　――今度にすると、たいてい今度が来ません。先にあなたの話を聞きます。

　私はその台詞を何度も見ている。それでも、閉じる音が好きだった。この人は、紙の上の予定より、目の前の人を選ぶ手つきをしている。

　選択肢を選んで、蘆田慎の書庫へ回る。彼は言葉が遅い。言いたいことを口の中で三回組み立てて、間に合わなくて黙る。その夜も慎は黙って、帰り際にヒロインへ折った紙を渡した。中には四行の詩が書いてある。声に出せなかったので、と紙の端に小さく書き添えてある。私はその紙の描写が好きで、わざと二度読んだ。

　それから、河岸の屋台。新聞社の遼が串を二本買って、一本を押しつけてくる。

　――取材相手に奢らせると、記事が甘くなるんだよ。だから俺が買う。食え。

　軽口の裏で、この男は聞いた言葉を一つも捨てない。私は遼のルートも好きだった。全部好きだった。それでも一番は一臣で、彼の予定表が閉じる音のために、私は同じ場面を何度でも開いた。

　その夜、私は真相の筋へ入った。

　天導家の家憲は、当主に初代の血を求める。十四年前、当主宗一郎の死後に、四歳の娘が「養女」として本家へ入った。その指定は、分家の貞光が偽造したものだった。家令の佐伯が、貞光の部屋で当主の印が使われるのを見ていたと言い、家の書簡を預かる三村が、保管の順序と写しの日付から筋を通す。母の藤乃は、兄に従って娘を差し出した協力者として裁かれる。

　そして、天導瑠璃が断罪される。

　星の間の、灯りの強い場所に立たされて、彼女は何も言い返さない。婚約者だった一臣が、婚約の解消を告げる。瑠璃はそのとき初めて、ヒロインの名を正しく呼ぶ。詫びではなく、ただ名前を呼んで、部屋を出ていく。悪役令嬢の退場としては、ずいぶん静かな作りだった。

　私は泣いた。ヒロインの幸せも見たいのに、私はいつも瑠璃の背中で泣いてしまう。この子は、四歳で本家に入れられて、家憲と後見人の間に置かれて、婚約者に礼儀正しく扱われて、そのまま十八年を終える。楽しい午後が一度でもあったのだろうか。

　ゲーム機を枕元に置いて、暗い部屋で天井を見た。私も誰かに選ばれたい。誰かに、先にあなたの話を聞きます、と言われたい。それから、あの子にも、笑ってお茶を飲む午後があればいいのに。

　そう思って、掛け布団を引き寄せ、目を閉じた。

＊

　次に目を開けたとき、まぶたが腫れていて、痛かった。

　泣き疲れて眠った顔だ、と思った。それにしては、まぶたの重さが自分のものではない気がした。

　天井が高い。木の格子に、桟に、白い漆喰。夏の朝の匂いがして、どこかで蝉が鳴いている。私の部屋には蝉はいない。

　自分の喉が、勝手に動いた。

「……生まれてこなければ」

　小さな、子どもの声だった。舌が言葉の終わりを置いて、そこで止まった。自分の口から出たのに、自分が言ったのではなかった。続きがあったはずだ、と思った。何かに続く前半だったはずだ、と。

　寝床の脇に、人がいた。紺の着物の、若くない、若くもなくはない女の人。眉のあいだに線がある。

「その話はもうおしまい。今日はお客様がいらっしゃるの。起きて、顔を洗って」

　私が何か言う前に、その人は立ち上がって襖を閉めた。畳に光の帯が残った。

　身体を起こす。腕が短い。手が小さい。膝の丸みが違う。息が浅い。

　枕元に、石筆が一本転がっていた。私の左側に。

　その先に、板の石盤が伏せてある。裏返すと、白い字で一行だけ書いてあった。

　「パパは帰ってくる」

　字は震えていて、最後の点が強く押しつけられていた。

　立ち上がって、部屋の隅の鏡台の前に立った。

　鏡の中に、知っている顔があった。黒い髪、鋭い目尻、白い頬。何度も画面で見た顔だ。十八歳になれば、星の間の灯りの下で断罪される顔。それが今は十歳で、まぶたを腫らして、こちらを見ていた。

　私は石盤を持ったまま、しばらく動けなかった。それから、字を消さずに、そのまま棚の下の段へ戻した。この字を書いた子に、続きを聞きたかった。「生まれてこなければ」の後に何を言うつもりだったのか。

　喉は、もう何も言わなかった。

＊

　――帰りたい。

　そう強く思った瞬間、視界に薄い膜が重なった。

　白い枠が、部屋の風景の上に浮かんでいた。文字が三つ並んでいる。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　ゲームのタイトル画面に似ていた。「つづきから」と「はじめから」は見慣れた文字だ。その下に、知らない「やめる」があった。

　息が止まりそうになって、私は廊下の音に気づいた。板を踏む音、盥の水の音。女中らしい人が庭に面した縁側を歩いていく。私を見ても、何も変わらない顔をしていた。枠は見えていないのだ。

　部屋の柱に掛かった時計の針も、止まっていなかった。長針が一つ、進んだ。

　枠に向かって、手を伸ばしてみる。指は空を切る。触らなくても、見るだけで、選ぶことはできると分かった。分かる、というより、そう思えばそう動く。

　「やめる」。そこへ意識を向けた。

　枠が薄く変わって、文が出た。

　〈元の世界のあなたの身体へ戻ります。ここでの記憶は失われません。この世界は続き、この身体はここで生き続けます。戻った後、この入口は使えません。〉

　私は三度読んだ。

　まず、安心した。元の世界の私の身体。私は死んでいない。あのアパートで、ゲーム機を枕元に置いて、ベッドで眠っている私が、まだそこにいる。真帆のメッセージにも返事ができる。来月の歓送迎会にも行ける。

　次の行で、指先が冷たくなった。

　この世界は続き、この身体はここで生き続けます。

　私が帰っても、この家も、庭の蝉も、襖を閉めた母も、そのまま続く。そして、この身体はここで生き続ける。生きて、どうなるのか。誰が入るのか。さっき私の喉が言いかけた声の子は、どこにいるのか。

　最後の行が、いちばん静かに刺さった。

　戻った後、この入口は使えません。

　もう一度は来られない。一度出たら、この世界の門はない。

　――一臣に、会えなくなる。

　浮かんだのがその名前だったことに、私は自分であきれた。十歳の身体で、腫れたまぶたで、知らない家の朝に、私は婚約者の話をしている。それも、私の婚約者ではない。この顔の子の婚約者だ。

　それでも、目は止まっていた。予定表を閉じる音を、画面の外で聞ける場所は、ここしかない。

　枠に戻ると、「はじめから」に薄い説明がついていた。

　〈この人生を出生からやり直します。使用は一度のみです。〉

　出生から。零からということだ。十歳で来た私が、赤ん坊まで戻る。一度だけ。

　今の私にも選べるのだと分かった。分かった上で、私は指を引いた。十歳だ。まだ八年ある。この子の断罪は十八歳で、事件はもう六年前に終わっている。ここから積み上げれば、間に合う。悪役令嬢が嫌われないように立ち回るくらい、できるはずだ。やり直しの一度きりは、取っておけばいい。

　私は「やめる」の確認を取り消して、枠の一番上へ意識を向けた。

　つづきから。

　枠は音もなく消えて、蝉の声だけが残った。時計の針が、また一つ進んだ。

＊

　顔を洗って、着替えを手伝われて、朝餉の膳についた。

　膳は三つ並んで、上座は空いていた。誰も座らない席の前に、汁椀までは置かれていない。

「今日は三村がまいります。書き物の確認だそうよ」

　母――天導藤乃が、そう言った。この人が私の母だ、と頭で確認しながら、私は箸を持った。右手で持った。持ってから、何かが遅れた気がした。

「……はい」

「返事は、それでいい」

　食事の後、母は私を居間へ呼んで、家のことを話した。前にも話した、というふうに、少し面倒そうに。

　六年前の八月、碧湖の別荘で、四歳の娘が姿を消した。伯爵天導宗一郎は、娘を探して湖へ出て、桟橋から落ちて亡くなった。娘は舟屋で見つかった。娘の父であった恭介は、その責任を取って、娘を本家へ譲った。家憲は当主に初代の血を求めるが、分家には血がない。だから当主の遺志として、娘は本家の養女に指定されている。

「後見は、兄が」

　母はそこで一度言葉を切った。

「貞光さまが持っていらっしゃる。あなたが十八になるまで、この家の判を押すのは兄です。私は母だけれど、女は後見人になれないの。家憲がそう決めている」

　空いた上座、母が座る位置、誰が判を押すか。席の並びがそのまま権限の図になっていた。

　私はうなずいた。ゲームの説明とほとんど同じだったからだ。養女指定。後見。家憲。私はこの筋を知っている。知っていることが増えると、人は安心する。私はその朝、母の話を一度そのまま信じた。

　廊下の途中に、男の人の肖像が掛かっていた。若い。目の形が、鏡の中の子に似ている。

　見上げたとき、胸の奥がひどく痛んだ。自分の感情ではない痛み方だった。あなたを探しに行かせた、と誰かが言っている気がした。

　私は足を止めて、痛みが引くのを待った。四歳の私は――いや、四歳の「この子」は、舟屋で見つかったのだ。誰かに連れていかれたのだろう。子どもが悪いはずがない。私がしたことではない。

　そう切り分けてから、私は歩き出した。切り分けたときの、少しだけ軽くなった感じを、後で何度も思い出すことになる。

＊

　午後、玄関で声がした。

「お届けものです。分家の、一臣さまが」

　フミという女中が言った。表に、学生服の背の高い人が立っていた。

　天導一臣。十六歳。

　画面で見ていた彼は、もっと大人だった。今の彼は肩が薄くて、詰襟の首が少し余っている。声は思っていたより高い。それでも、私を見つけて会釈した動きは、あの人の動きだった。

「瑠璃さん。これ、来月から使う本です。うちのを先に届けるよう言われて」

　風呂敷から出てきたのは、算術と、地理と、薄い会計の入門書だった。十歳の子どもに会計の本を渡す家だ、と私は思った。

「ありがとう、ございます」

「重かったら、そこに置いておきます」

　彼は框に腰を下ろして、包みを解いた。私が背伸びして受け取ろうとすると、彼は本を下の段へ置き直した。手の届く高さに。

　それから、少し考えるようにして、言った。

「分からないところは、分からないと言ってください」

　私は、思わず彼の顔を見た。

　ゲームの一臣なら、ここで「ご不明の点は、いつでも伺います」と言う。私はその台詞を暗記している。今の彼は、そう言わなかった。

「……分からないって、言っていいんですか」

「言われないと、僕が説明できません」

　彼は真面目な顔をしていた。十歳の子どもを相手に、きちんと困った顔をしていた。

　私は笑ってしまった。笑ったら、彼も少し笑った。婚約の話は、この日は出なかった。後で知ったが、この時点ではまだ家同士の内約でしかなく、私には十三で知らされることになっていた。だから彼は、婚約者の顔をしていなかった。ただ、小さい子に本を渡しに来た人の顔をしていた。

「では、また」

　彼が門を出ていくのを、私は上がり框に座ったまま見ていた。詰襟の首の余りが、角を曲がって見えなくなった。

　夜、布団の中で、私は真帆のメッセージを思い出した。〈瑠璃花、また誘うね〉。返事をしていない。返せる場所は、まだある。念じれば枠は出る。

　私は念じなかった。

　代わりに、暗がりで手を伸ばして、枕元の本を引き寄せた。明日の授業で使う頁の角を、指で折った。折ってから、折り目を伸ばして、もう一度きちんと折り直した。

　分からないところは、分からないと言ってください。

　そう言われた人が、分からないところに印をつけて眠る。それだけのことが、その夜の私にはうれしかった。

# 第二章　良い子の席

　秋になって、家庭教師の井澤先生が週に三日来るようになった。

　その日の課題は、漢字の書き取りだった。私は硯の右に紙を置いて、右手で筆を持った。二十七年そうしてきたのだから、他の持ち方を知らない。

「――お嬢さま」

　井澤先生が首をかしげた。眼鏡の奥の目が、私の手元と顔を往復した。

「右でお書きになるのですね」

　息が浅くなった。この身体は左利きだ。枕元に転がっていた石筆は左側にあった。私はそれを見ていながら、何も考えずに右で筆を持った。

「この夏に、直しましたの」

　部屋の外から、母の声がした。いつから廊下にいたのか分からない。母は襖を少しだけ開けて、先生に向かって微笑んだ。

「左では字が汚れるでしょう。うるさく言いましたのよ。この子は言うことを聞く子ですから」

「さようでございましたか。よくお直りになりましたね」

　先生は納得して、書き取りの続きに戻った。母は襖を閉めた。

　私は筆を握ったまま、しばらく動けなかった。母は、嘘をついて私を守った。守った、という言い方が正しいのかは分からない。ただ、あの一言がなければ、私は説明できなかった。

　その日、書き取りの最後の一枚で、先生が墨で丸をつけてくれた。

「筆の運びが、朝より落ち着いております。三枚目からよくなりました」

　三枚目から、というのが具体的でうれしかった。上手だと言われたのではなく、途中からよくなったと言われた。子どもだったころ、そういう褒められ方をされた覚えがない。私は丸のついた紙を、机の端に立てかけて乾かした。

　午後、台所へ下がる途中で、フミにつかまった。

「お嬢さま、今日のいただきものです。落雁ですけど、あの、奥さまは甘いものをあまり」

　箱の中に、白と薄紅が四つずつ並んでいた。私は一つ取って、残りをフミの方へ押した。

「半分こ」

「そんな、お嬢さま」

「だって、四つも食べられない」

　フミは困った顔をして、それから笑い出した。声を出して笑われたのは、この家に来て初めてだった。フミは口を押さえて、「失礼しました」と言いながら、まだ笑っていた。落雁は、口の中でざらりと崩れて、思ったより甘くなかった。二人で「甘くないですね」「甘くないね」と言い合って、また笑った。

　夕方の授業で、私は初めて質問をした。

「先生。この字の、点はなぜここにあるのですか」

　自分でも驚くくらい、声が普通に出た。井澤先生は眼鏡を上げて、紙に大きく字を書いて、由来を説明してくれた。長かった。半分も分からなかった。それでも、質問をすると相手の話が増えるのだ、ということを覚えた。

　布団に入ってから、その日のことを順番に思い返した。丸のついた紙。落雁。質問。どれも小さい。小さいのに、この家では大事なことのように思えた。

　母が嘘をついてくれたのも、私が礼儀正しかったからだ。少なくとも、そう思えた。

　行儀よくしていれば、この家では安全でいられる。

　十歳の秋に、私はそう学んだ。その学び方が後でどう効くかは、まだ知らなかった。

＊

　十一歳の春、私は父に手紙を書いた。

　きっかけは石盤だった。棚の下の段に伏せたままにしてある板に、まだ「パパは帰ってくる」の字が残っている。ときどき取り出して、文字の震え方を見た。この子は待っていた。待っていたのに、来なかった。

　それなら、こちらから書けばいい。私は便箋を出して、書き出しで十分止まった。

　お父さま。お元気ですか。私は元気です。

　三行書いて、破いた。私はこの人の娘であって、娘ではない。中身は二十七歳で、この人の記憶を一つも持っていない。何を書けば嘘にならないのか分からなかった。

　結局、こう書いた。

　――お父さま。おげんきですか。わたしは字を習っています。お習字の丸をもらいました。落雁を半分こしました。会いたいです。お返事をください。

　封をしてから、宛先がないことに気づいた。恭介という名前しか知らない。どこに住んでいるのかも、何をしているのかも知らない。

　私は母の部屋へ持っていった。

「お母さま。これ、お父さまに」

　母は文机の前で、帳面に何か書いていた。筆が止まった。止まってから、こちらを向いた。顔の表情は、動いていなかった。

「……あの人に？」

「はい。宛先が分からないので」

　母は筆を置いて、手を出した。私は封筒を渡した。母の指は細くて、指輪の跡が薄く残っている。封筒は、その手の中にきちんと収まった。

「預かります」

「届きますか」

「届けるところへは渡します」

　言い方が少し変だと思ったが、私は気づかないことにした。母は封筒を文机の右の引き出しに入れて、引き出しを閉めた。それだけを、私は見た。

　次の春も、私は書いた。三年目も書いた。返事は一度も来なかった。

　最初は寂しかった。二年目は少し腹が立った。三年目には、あの人は私を捨てたのだ、と思うようになった。四歳の娘を本家へ譲って、それきり手紙の一本も寄越さない人。ゲームでも、恭介という名前は説明の中にしか出てこなかった。責任を取って身を引いた父。責任を取った人は、たいてい二度と出てこない。

　届かなかったのだと知るのは、ずっと先のことだ。そのとき私は、自分が七年かけて誰を責めてきたかを思い知る。

＊

　十一歳の秋、母の誕生日に、私は栞を作った。

　布に糸で、小さな鳥を刺した。鳥にしたのは、花にすると下手が目立つと思ったからだ。結果として、鳥は羽の片側が太くなって、首がねじれた。

　当日の朝、私はそれを袂に入れたまま、渡すのをやめようかと思った。十一歳の手仕事としても下手だ。中身が二十七歳なら、なおさら情けない。

　朝餉の後、母が帳面を持って居間へ移るとき、私は追いかけた。

「お母さま。あの、これ、下手なんですけど」

　言い訳を先に言ってしまってから、袂から出した。母は受け取って、両手で持った。糸のはみ出した裏側まで、ひっくり返して見た。

　私は目をつぶりたくなった。

　母は何も言わずに、脇に抱えていた帳面を開いて、開いた頁の間に栞を挟んだ。挟んでから、本を閉じた。

「……使うのよ」

「はい」

　それだけだった。

　夕食の席で、母は珍しく私の勉強の話をした。井澤先生が、算術の進みが早いと言っていたこと。字が落ち着いてきたこと。話しながら、母は自分の膳の魚の骨を丁寧に外していた。

「この家で生きていくなら、書けて、読めて、数えられることね」

　母の声には、その日だけ、少し温度があった。

　私は、この人を助けたいと思った。

　ゲームの中で、藤乃は兄に従って娘を差し出し、協力者として裁かれる。従わされた人だ。従わされた人なら、誰かが横にいれば違う道を選べたのではないか。私が横にいる。私は知っている。

　布団に入ってから、私はそう考えて、少し誇らしくなった。十一歳の子どもの誇らしさではなかった。自分は物語の外から来て、この家の悲しい人を救う側にいるのだと、そう思っていた。

＊

　十二歳の冬、本家で親族会があった。

　私は呼ばれなかった。星の間の襖の向こうで、大人の声が上がったり下がったりするのを、廊下の端で聞いていた。二時間ほどして、母が出てきた。

　部屋へ戻ってから、母は帯を緩めもせずに座り込んだ。

「兄が、後見を続けるそうよ。八年前に決まったことを、今さら変える理由はないのですって」

　私は火鉢に炭を足した。

「家憲に、女は当主の後見人になれないと書いてある。書いてあるのだから仕方がない、と皆が言うの。誰も反対しない。皆、兄の船の仕事で食べているから」

　母は笑った。笑うところではなかった。

「あなたを産んだのは私なのに、判を押すのは兄」

　母の横顔は、負けた人の顔だった。私はそれを見て、自分の推測が裏づけられたと思った。ゲームの筋書きは正しい。兄が黒幕で、母は従わされている。母は家の中で一人だ。

「お母さま。帳面、私がお手伝いできます」

　私は言った。会計の入門書はもう二冊読んでいた。数字を並べる仕事なら、十二歳でもできる。

　母は顔を上げて、私を見た。少しのあいだ、本当に考えているように見えた。

「いいえ」

　そして、立ち上がった。

「あなたはまだ子どもです。子どもは、子どものことをしていなさい」

　襖が閉まった。

　私はしばらく火鉢の前にいた。追い返されたことより、少し前に母が見せた「考えている顔」の方が残った。あの顔は、手伝わせるかどうかを迷う顔だったのか、それとも、見せてはいけないものを思い出した顔だったのか。

　母は私を撫でる。夜に薬湯を持ってくる。栞を本に挟む。同じ人が、私を帳面から遠ざける。

　その二つを、私は一枚の紙に書かないようにした。書くと、片方が消えてしまう気がしたからだ。

＊

　十四歳の冬、切手を探して、私は母の部屋の引き出しを開けた。

　母は庭で植木屋と話していた。手紙の期限が迫っていて、フミは使いに出ていた。切手は文机のどこかにあるはずで、私は右の引き出しを開けた。

　便箋、印箱、糸屑。切手はなかった。下の段に、厚い帳面が二冊重なっていた。家計簿だ。

　開けるつもりはなかった。表紙が反って、勝手に真ん中の頁が開いた。開いたところに、几帳面な字が並んでいた。

　――薬代。蘆田医院。
　――薬代。同。
　――薬代。同。

　同じ行が続く。金額はそう大きくない。ただ、数が多かった。四月から七月にかけて、六度。

　その下に、母の字で、短い書き込みがあった。

　八月、湖。

　私は帳面を持ったまま、庭の声を聞いていた。母が植木屋に、松の枝の向きを指示している。いつもの声だった。

　八月。湖。十年前の八月十五日、碧湖で当主が死んだ。灯籠流しの夜だ。娘は舟屋で見つかった。

　薬。眠らせる薬。

　誰に。

　膝が震えていた。私は帳面を閉じて、それから、もう一度開いた。今度は最初から、最後まで見た。何度も薬の行があった。書いたのは母の手だ。

　――兄に買わされたのだ。

　そう思った瞬間、震えが止まった。止まったことに、私は安心した。母は兄に逆らえない。帳面をつけるのは母の仕事で、金を出したのも母だろうが、買えと言ったのは兄だ。ゲームがそう言っている。星の間で、母は協力者として裁かれるのだから、母は主犯ではない。

　私は二冊とも抱えて、自分の部屋へ持って帰った。

　自分の文箱の底に入れて、上に反故紙を重ねて、鍵を掛けた。文箱は机の隣の棚へ、鍵だけは机の引き出しへしまった。

　紙を一枚出して、私は誰に相談できるかを書き出した。

　　井澤先生――家の雇い人。
　　三村さん――家の書簡を預かる人。兄の側かもしれない。
　　一臣さん――貞光さまの息子。
　　お母さま――。

　最後の行で筆が止まった。そこまで書いて、私は紙を細かく破いて、火鉢に入れた。紙の端が丸まって、黒くなった。

　その夜、母が茶を持って部屋に来た。

「遅くまで起きているのね」

　湯呑みは温かかった。母は私の肩に手を置いて、少しのあいだ、そのままにしていた。

「寒いから、早く寝なさい」

　襖が閉まった後、私は茶を飲んだ。

　文箱の鍵は、机の引き出しにある。今、あれを持って母の部屋へ行けば、何かが始まる。始まって、この家は終わる。明日の朝、この人と向かい合って飯を食うことはなくなる。

　私は、明日の朝も一緒に食べたかった。

　だから何もしなかった。これは、うっかり忘れたのでも、子どもだから分からなかったのでもない。十四歳の冬の、意識のある保留だった。

　十八歳になった日、私は隠していた期間を自分の口で告げることになる。

＊

　十五歳になると、一臣が家へ来る用は、たいてい五分で終わるようになった。

　造船所の図面を父から預かってきた。親族会の日取りを伝えに来た。母への書簡を届けに来た。玄関先で、彼は帽子を取って、用件を言って、帰る。

　私はその五分のために、苦手な会計の勉強を続けた。

　用件が終わった後に、質問を一つできれば、彼はもう五分いてくれる。「減価償却というのは、船にも使うのですか」「入渠の費用は、どの科目に入るのですか」。彼は必ず答えた。答えるとき、彼は少しだけ嬉しそうだった。教えるのが好きな人なのだ。

　だから私は、聞くための質問を作り続けた。帳簿の本の余白に、明日聞くことを書き溜めた。

　その夏、質問が尽きた。

　本の余白は埋まっていて、書いたことは全部聞いてしまった。新しく分からないことを探すために本を読むのは、もう順番が逆だった。

　その日、一臣は玄関で言った。

「今年から、僕は会社に入ります。学校は終わりましたので」

「……お仕事」

「そうです。しばらくは横浜の造船所にいることが多くなります」

　彼が帽子をかぶって、馬車へ乗るのを、私は窓から見た。車輪が回って、門を出て、通りの木の向こうへ消えた。五分がなくなる、と思った。

　窓辺で、私は自分の手を見ていた。この身体は十五歳だ。あと一年で十六になる。彼は今、二十一。

　机に戻って、紙を出した。

　――拝啓。お忙しいところ恐れ入ります。

　そこまで書いて、やめた。もっと短く書きたかった。

　――一臣さま。今度の日曜に、お茶を召し上がりにいらっしゃいませんか。

　書いてから、長いこと見ていた。出さなかった。出さずに、机の引き出しに入れた。

　引き出しの中には、まだ使っていない便箋と、鍵が入っている。その鍵で開ける文箱には、去年の冬に隠した帳面がある。

　誘うための紙と、黙っているための鍵が、同じ引き出しに収まっていた。

# 第三章　相談のない午後

　十六歳の誕生日の翌月に、婚約が正式に結ばれた。

　式というほどのものではなかった。本家の広間に貞光さまと母と三村が並んで、書付が読まれて、私と一臣は向かい合って頭を下げた。十三のときに「そういう話がある」と知らされて、三年かかって形になった。彼は黒い背広で、少し痩せていた。

　帰りがけ、彼は玄関で言った。

「これからは、書類のことで伺うことが増えると思います」

　書類のことで。私はうなずいて、笑って、見送った。

　部屋に戻って、机に向かって、私は手紙を書き始めた。

　――一臣さま。今度の日曜、お茶にいらしてください。

　書いて、読み返して、破いた。理由がない。忙しい人に、理由のない時間を頼むのは無作法だ、と自分に言い聞かせた。本当は、断られるのが怖かった。

　二枚目。

　――一臣さま。お茶の支度をして、お待ちしております。

　これも駄目だ。待っていると書いてしまうと、来なかったときにこちらが困る。

　三枚目に、私はこう書いた。

　――一臣さま。会計のことで、ご相談がございます。今度の日曜、ご都合はいかがでしょうか。

　これなら断られても、忙しいからだと思える。相談なら、私は待っている人ではなく、用のある人になる。

　出してから三日後、返事が来た。日曜の午後二時に伺います、とだけ。字は細くて、右上がりだった。

　当日、彼は帳面を三冊も抱えてきた。

「相談というのは、去年の分の見方ですか、それとも今年の」

　私は言葉に詰まった。相談は口実で、中身を用意していなかった。

「……あの、両方です」

「では両方持ってきて正解でした」

　彼は座敷に上がって、卓の上に帳面を広げた。

　結局、その午後、私たちは本当に帳簿を読んだ。本家の家政の出納は、井澤先生の教科書よりずっと乱暴で、同じ科目に船の修繕費と庭の砂利代が混ざっていた。

「これは誰が書いているのですか」

「番頭さんが二人で、交代で」

「交代の日に、字が変わるところで一度合計が合わなくなります。ほら、ここ」

　彼は指で頁を押さえた。指の関節が大きい。書生の手ではなく、現場へ出る人の手だった。私は数字を追って、確かに合計が二十七銭足りないのを見つけた。

「見つけました」

「早いですね」

「数えるのは、好きです」

　言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。好きです、と言う機会がこの家にはあまりない。

　二十七銭は、三頁先で見つかった。砂利代の転記で桁が一つずれていた。二人で同時に「あ」と言って、同時に笑った。笑ってから、彼が少し驚いた顔をして、それから照れたように帳面を閉じた。

　日が傾いてきた。彼は懐中時計を見て、帳面を重ね始めた。

「では、今日はこれで」

　私は、自分の胸がすっと冷えるのが分かった。用件が終わった。終わったら、人は帰る。それが正しい。

　膝の上で、指が動いた。

「相談は、もうありません」

　彼が顔を上げた。

「でも、もう少し」

　言った後の沈黙が、ずいぶん長く感じた。庭で鳥が鳴いた。私は畳の目を見ていた。

「――分かりました」

　彼は帳面を置き直した。

「あと半時ほどなら。汽車が六時のに間に合えば」

　フミが茶を替えに来た。彼は帳簿とは関係のない話をした。造船所で、職人が図面のとおりに作らずに、そのほうがいいからと勝手に直してしまうこと。直した結果が本当によかったこと。それを父に報告すると、報告するなと言われたこと。

「困ったのですか」

「困りました。でも、職人が正しかったので、黙って図面のほうを直しました」

　私は笑った。彼は、笑われたのが心外だという顔をして、それからやはり笑った。

　帰りぎわ、框で靴を履きながら、彼は言った。

「次は、帳面ではないものを持ってきます」

「何をですか」

「本です。読みかけのを。相談がない日でも、読むものがあれば僕がここにいる理由になる」

　言い終えてから、彼は自分の言葉に少し困ったようだった。私は「お待ちしています」と言った。今度は破かなかった。

＊

　次の日曜までの六日間を、私はよく覚えている。

　月曜の夜に、簞笥を全部開けた。

　春の袷は三枚ある。藤色のは母が選んだもので、私には少し大人びている。縞のは着慣れていて楽だが、去年も着た。三枚目は薄い水色に細い白の縦縞で、去年の春に仕立てて、一度も袖を通していない。

　三枚を畳に並べて、私は正座して見ていた。

　派手だと思われたくない。かといって、いつもと同じでは、待っていなかったことになる。――待っていないふりをしたいのか、待っていたと知ってほしいのか、自分でも分からなかった。二十七歳のときも、同じことを簞笥の前でしていた。着るものを決められない人間は、何歳になっても決められない。

　結局、水色にした。帯は母のお下がりの、目立たないものにした。

　火曜、朝餉が喉を通らなかった。

「お加減が悪いのですか」

　フミに聞かれて、私は首を振った。悪くない。悪くないのに、胃の上のほうが軽く詰まっている。二十七歳のときも、木曜の夕方に真帆に誘われた後、こうなった。あのときは断って、詰まりごと消してしまった。

　水曜、私はフミに聞いた。

「一臣さまって、甘いものはお好き？」

「さあ。お茶菓子はいつも召し上がりますけど」

「餡と、干菓子と、どちらが多く残る？」

　フミは盆を持ったまま、まじまじと私を見た。

「お嬢さま、そんなことまで」

「だって、残ったら、その、悪いから」

「四日も先のお菓子の心配をなさるお嬢さまは、初めて見ました」

　呆れた顔をされたが、フミは翌日、餡のほうが減りが早いと報告してくれた。報告の仕方が真面目だったので、私はまた笑った。

　木曜と金曜、私は何度も、当日になって断りの使いが来る場面を想像した。急な用ができました、と一行だけの紙が来る。それを受け取って、フミの前で平気な顔をする自分の顔まで、はっきり見えた。

　想像したのに、私は先に取り消さなかった。

　二十七歳の私なら、取り消していた。傷つく前に自分から畳んでしまうのが一番早い。ここでは畳まなかった。畳んだら、次の日曜が来ないからだ。

　土曜、彼から返事が来た。二時に伺います、本は二冊にします、と書いてあった。

　私はその紙を机に置いた。置いた場所が、文箱の蓋の上だった。

　文箱の中には、母の家計簿が二冊入っている。四月から七月の薬代と、八月、湖。

　紙を退けて、別のところへ置き直そうとして、私はやめた。退ける理由を考えるのが嫌だった。

　その晩、私は蓋の上に返事を載せたまま眠った。

＊

　日曜は、朝から曇っていた。

　二時前に、玄関で音がした。一臣は肩を濡らして立っていた。

「降ってきました。門のところで急に」

「お召し物が」

「大したことはありません。本は懐に入れてきたので無事です」

　彼は本当に、懐から二冊出した。一冊は翻訳の航海記で、もう一冊は詩集だった。詩集のほうは表紙が柔らかく擦れていて、何度も開かれた本だと分かった。

　縁側に近い座敷に通して、火鉢を出させた。雨は本降りになって、庭の飛び石が黒くなった。

「これでは、帰りが難儀ですね」

　彼が言った。私は湯呑みを置きながら、思ったことをそのまま口にした。

「……もう少し、長く降ればいいのに」

　言ってから、耳が熱くなった。今のは、帰らないでほしいと言ったのと同じだ。

　彼が何か言いかけた、そのとき、庭を人が走った。

　庭師の老人が、鉢を三つ両腕に抱えて、背中を丸めて走っていく。鉢の上の芽が雨に打たれて、老人の頭は手拭いが半分ずり落ちている。三つ目の鉢が今にも落ちそうで、走りながら膝で持ち上げ直した。

　私たちは同時に息を吸って、同時に噴き出した。

「――申し訳ない。あの、すみません、笑うところでは」

「いいえ、私が先に笑いました」

　笑いすぎて、私は目尻を拭いた。一臣は肩を震わせながら、「あの持ち方は、いけません」と職人のようなことを言った。

　雨は止まなかった。

　彼は詩集を開いて、懐中時計を横に置いた。

「三時五十分にここを出れば、六時の汽車に間に合います」

「雨でも？」

「雨でも。ただし、この本をあと何頁読めるかによります」

「頁で計るのですか」

「僕は頁で計る癖があります。一頁が二分ほどなので、今から出発まで、三十八頁」

　彼は真顔で言った。私はあきれて、それから、少し悔しくなった。

「ずるい」

「ずるい？」

「だって、終わりが分かっていて読んでいらっしゃる」

　言いながら、私は自分のことを言っていると気づいた。私も終わりを知っていて、この家にいる。誰が誰を裏切って、誰がどこで泣くのかを知っていて、それでも今日のお茶を出している。彼が予定表を閉じる音を、私は画面の外で知っていた。

「終わりが分かっていると、途中を惜しめます」

　彼はそう答えた。詩集の端を折らずに、指で挟んでいた。

　雨の音が強くなった。私は彼の開いた本を向かいから覗き込んだ。字が逆さまだった。それから、少し迷って、同じ側の、一尺ほど離れたところへ座り直した。彼は本を二人の間に置き直してくれた。

　字が、頭に入らなかった。

　同じ行を三度読んで、内容が分からない。横で紙が繰られる音がする。彼の膝の位置、袖の端、湯呑みを持ち上げるときの手。全部が視界の端にあって、そちらばかりが記憶に残る。

　十分ほどして、私は諦めて言った。

「今、何頁ですか」

「二十二です」

「……戻していただけますか。十四くらいまで」

　彼は顔を上げた。

「読めませんでしたか」

「読めませんでした」

　彼は少し黙って、それから、八頁ぶん戻した。戻して、そこから声を出して読み始めた。

　低い声だった。詩は短くて、海の色の話と、港で待っている人の話だった。聞いていると、今度は字ではなく声が頭に入ってきて、私は膝の上で手を握っていた。

　読み終わって、彼は言った。

「僕もさっきから、進んでいませんでした」

「え」

「二十二頁は、来たときと同じです」

　時計が三時五十分を指した。彼は時計を見た。見て、動かなかった。

「あと半時、いてもいいですか」

　私は、うなずくのが遅れた。うなずいてから、慌てて「どうぞ」と言った。

「次の汽車は七時二十分です。それでも家には帰れます」

　彼は懐中時計をしまった。しまう動作を、私は見ていた。予定表を閉じるのと、同じ形の手だった。

　四時二十分までの三十分、私たちはほとんど詩の話をしなかった。庭師の鉢の話と、造船所の飯がまずい話と、フミが三度目の茶を持ってきたときに彼が「今日はよく飲みますね」と言われて赤くなった話。それだけだ。

　彼が帰った後、私は座敷に一人で座っていた。湯呑みが二つ、卓の上に残っていた。彼のほうの茶は、半分残って、すっかり冷めていた。

　私は指でその湯呑みに触れた。冷たかった。

　冷たいのが嬉しい、ということが、世の中にはある。

＊

　六月に、奨学生が礼に来ることになった。

　天導汽船は毎年、社員や関係者の子女に学費を出している。聖藍女学院に通う奨学生が、年に一度、本家へ挨拶に来る。今年は一人で、名は小野澪。十七歳。別荘番だった小野弥吉の娘だ、と母が言った。

　私はその名を知っていた。

　画面の中で、私はその人になって帝都へ出て、一臣の予定表を閉じさせ、慎の詩を受け取り、遼の串を食べた。二年後の星の間で、天導瑠璃を見送るのも、その人だった。

　当日、座敷で待っているあいだ、私は自分の指が冷たくなっているのを感じていた。

　入ってきた娘は、私より少し背が高く、髪をきつく結っていた。制服の襟が真っ白で、白すぎるほどだった。何度も洗って、糊をつけたのだろう。

「小野澪と申します。このたびは」

　畳に指をついて、彼女は長い挨拶をした。文言は用意してきたものだと分かった。途中で一度つかえて、澪は自分で「失礼しました」と言って、続きを言い直した。

　私は菓子を勧めようとして、皿を滑らせた。

　黒文字が飛んで、羊羹が畳に落ちた。落ちた羊羹は、見事に横を向いて、餡の面を上にしていた。

「――あ」

　私が固まっていると、澪が先に手を出して、懐紙で拾った。

「畳に、艶が残りますね。あとで拭いておきましょう」

　そして彼女は、自分の皿の羊羹を黒文字で切って、半分を私の皿へ移した。

「半分こでよろしければ」

　私は澪の顔を見た。澪は笑っていなかった。ただ、当たり前のことをした顔をしていた。

　その半分の羊羹から、その日の会話が始まった。

　女学院の図書室の話をした。二階の奥の書棚が日に焼けていて、そこに翻訳ものが固まっていること。澪は北の海の話が好きで、氷の中で越冬する船の記録を三度借りたこと。私が借りた詩集の名前を出すと、澪は目を丸くした。

「お読みになったのですか」

「いえ、借りて――人に読んでもらいました」

「ずるい読み方ですね」

　澪はそこで初めて笑った。笑うと、目尻が下がって、ずっと幼く見えた。

　父の話も出た。澪の父は、澪が一つのときから碧湖の別荘番をしていて、澪が六つの年に暇を出され、その後は湖のそばの村で船の修繕をしていた。四年前の冬に病で亡くなったという。

「父は字が下手で、書いたものを人に見せたがりませんでした。それでも、死ぬ前の年に、何かあったときのためだと言って、書き付けを箱に入れたのです。私に、なくすなと」

「何が書いてあるのですか」

「まだ、きちんとは読めていません。字が父の字ですから」

　澪は湯呑みを両手で持った。

「父は、天導の別荘のことを、あまり話しませんでした。話さないというより、話しかけて、やめるのです。なぜ暇を出されたのかも、聞けないままになりました」

　私は、半分になった羊羹を見ていた。

　十二年前の八月、その別荘で何があったかを、私は知っている。ゲームでは、澪の父は彼女に目撃を遺して死ぬ。今聞いた話でも、父はもう亡くなっていて、書き付けが残っている。目の前の彼女は、それを読もうとしている。

　友達になりたい、と思った。それは本当だった。この人と図書室の話を続けたかった。

　帰りぎわ、玄関で、澪が言った。

「天導一臣さまは、こちらへよくいらっしゃるのですか」

　胸の内側が、固くなった。

「……月に、二度ほど」

「奨学金のことで、一度お目にかかったことがあります。父のことを覚えていらして」

　澪は下駄をそろえて、丁寧に頭を下げて帰っていった。

　私は玄関に立ったまま、自分の胸を押さえていた。何も悪いことは起きていない。奨学生が婚約者を知っていた。それだけのことだった。

＊

　七月に入って、私は自分から誘った。

　――庭の百日紅が咲きました。今度の土曜、庭でお茶をいたしませんか。相談はございません。

　相談はございません、と書いたのは、五月の日曜のことがあったからだ。あの日から、私は用件のない招きをしてもいいのだと思っていた。

　二日後に返事が来た。

　――申し訳ありません。今月は造船所に詰めております。土曜も出ます。

　それだけだった。

　その夜、私はよく眠れなかった。

　断られた、という事実が、寝返りを打つたびに形を変えた。相談がないと書いたからだ。あの一行がなければ、彼は来た。用のない女に付き合う暇はない。予定表を閉じてくれたのは一度きりで、あれは親切だった。婚約者だから来ていただけだ。

　布団の中で、私は選択肢のことを考えた。ゲームなら、ここで別の返事を選べる。選び直せば好感度が下がらない。今の私には、送ってしまった手紙しかない。

　三日後、彼から手紙が来た。

　――八月の第一日曜なら、丸一日空きます。庭が暑ければ、座敷でも構いません。百日紅は、その頃まだ咲いていますか。

　私は手紙を持ったまま、廊下にしゃがみ込んだ。

　百日紅は、その頃まだ咲いていますか。

　断られたのは、私ではなかった。土曜だった。

　八月の第一日曜、彼は袖口に油の染みをつけて現れた。

「洗ったのですが、落ちませんでした。ドックの油は落ちません」

「お召し替えになりますか」

「いえ。これでいいです。今日は、あなたが呼んでくださったので」

　彼は縁側に腰かけて、百日紅を見上げた。花は盛りを過ぎて、下のほうが茶色くなっていた。

「間に合いましたね」

「半分、散ってしまいました」

「半分は咲いています」

　彼は油の染みた袖で、額の汗を拭いた。拭いてから、自分でそれをやってしまったことに気づいて、渋い顔をした。私が笑うと、彼は「笑ってください」と言った。

　その日、帰りぎわに彼は言った。

「今月は、こちらへ伺うのが遅くなって、僕のほうが困っていました。呼ばれたら来る、ではなくて、僕から日を申し上げるほうがいいですね」

「……そうしていただけると」

「では、そうします」

　断られることは、嫌われることではない。私はその夏、十六歳の身体で、二十七年かかって覚えられなかったことを一つ覚えた。

＊

　秋の初めに、一臣は父の仕事の話をした。

　貞光さまが、七年前に北方航路を立ち上げたときの話だった。凍る港に合わせて船首を厚くする案が誰にも通らず、貞光さまは一人で図面を抱えて船主会を回った。今、その航路が天導汽船の稼ぎ頭になっている。

「父は、家のことになると、僕には冷たい人です。でも、仕事のときの父は、本当に速い。判断が速くて、後で迷わない」

　彼は湯呑みを持ったまま、少し早口になっていた。人が自分の父を誇る声だった。

　一緒に喜びたかった。

　その代わりに、文箱の底が浮かんだ。薬代、蘆田医院、六度。八月、湖。私は二年近く、あの帳面を鍵の下に置いている。買わせたのは兄だと思っている。その兄が、今、目の前で誇られている。

「……お父上が」

　声が勝手に出た。

「はい」

「お父上が、間違えることは、ありますか」

　彼は湯呑みを置いた。

「あります。あるでしょう。人ですから」

　真面目に答えられて、私は怖くなった。

「たとえば、その、帳面のつけ方とか。科目の分け方が古いままだと、後から」

　私は会計の話へ逃げた。逃げながら、自分がどんなに滑らかに逃げるかに驚いていた。彼は逃げ道の話に律儀に付き合って、科目の整理を来年からやるつもりだと答えた。

　話が終わって、茶が冷めた頃、彼が言った。

「瑠璃さん」

「はい」

「何かあれば、話してください。会計でなくても」

　窓の外で、蟬が一匹だけ鳴いていた。

「先ほど、言いかけてやめましたね」

　私は、うなずいた。

「はい。……いつか」

「いつかで構いません。ただ、僕は待てます」

　彼はそう言って、それ以上は聞かなかった。聞かないでいてくれることが、そのときは優しさに感じられた。

　彼を見送って、部屋へ戻って、私は机の引き出しを開けた。鍵を出して、文箱を開けて、帳面がそこにあるのを確かめて、また閉めた。鍵を掛ける音がした。

　待てます、と言った人の前で、私はその日、鍵を掛けた。

　幸せな午後のあとに、私はいつもこれをしていた。

# 第四章　次の一曲

　十月の末に、本家で小夜会があった。

　北方航路の七周年で、船主や荷主を招いた集まりだった。大広間の壁を払って、隅に楽隊が入った。私は数え切れないほどの人に紹介され、頭を下げ、名前を覚えられないまま覚えたふりをした。

　一臣は、来たときからずっと捕まっていた。

　彼は会社の若い者として、荷主の相手をしていた。年上の男に肩を叩かれ、酒を注がれ、笑って断り、次の人のところへ移る。ときどき私のほうを見て、困った顔をした。困った顔をされるたび、私は平気な顔で扇を動かした。

　楽隊が三曲目を終えた。

　私は壁際にいた。二十七歳のときの私なら、ここで壁のままだった。誰かが来てくれるのを待って、来なかったねと家で思うだけだった。

　扇を閉じて、私は人の間を歩いた。

　一臣は、白髪の船主に船渠の話をされているところだった。話が切れた隙に、私は横から声をかけた。

「一臣さま」

「――ああ、瑠璃さん」

「次の一曲、いただけますか」

　言ってから、自分の心臓の音が聞こえた。船主が愉快そうに「行った行った」と手を振った。一臣は一瞬まばたきをして、それから、姿勢を直した。

「喜んで」

　彼の手が伸びて、私はその上に指を置いた。

　曲は、遅い三拍子だった。

　私は踊れない。習ってはいる。習ったことと踊れることは別だ。三小節目で、私は彼の靴の甲を踏んだ。

「すみません」

「いえ」

　六小節目で、また踏んだ。

「すみません」

「あと何回か踏まれても、この靴は保ちます」

　彼が真顔で言うので、私は吹き出した。吹き出したせいで拍が狂って、三度目を踏んだ。今度は彼が笑った。笑うと肩が動いて、私の手に伝わった。

　彼の手は大きくて、乾いていた。背中に添えられたほうの手は、力がほとんど入っていない。押してこない。私が勝手に動いても、彼はそれに合わせて足を置き直す。図面より職人を選ぶ人の手だ、と思った。

　灯りが回って、楽隊の弓が動いて、床の木の音がした。私はこの一分が終わることを、始まってすぐから惜しんでいた。

　終わりの和音が近づいた。

　――もう一曲。

　喉まで出かかって、私は飲み込んだ。飲み込んだ理由は、はしたないからではなかった。二曲続けて頼んで、彼が断ったら、この一曲まで台無しになる。

　曲が終わって、彼は手を離した。離した手を、私は少しだけ目で追った。

「ありがとうございました」

「こちらこそ。――瑠璃さん、あとで果物のところにいます。人が少ないので」

　彼はそう言って、また荷主のところへ戻っていった。

　私は壁際に戻って、扇を開いた。手のひらに、彼の手の感じがまだ残っていた。

　果物の卓で、私たちは梨を食べた。それだけの夜だったのに、私はその年の秋を、ずっとその一曲で覚えている。

＊

　十一月に、澪がまた本家へ来た。

　奨学金の継続の書類に、後見人の署名が要るという。貞光さまは本社にいて、代わりに一臣が印を預かってきていた。私は座敷で三人分の茶を出した。

　書類は五分で終わった。終わってから、澪が言った。

「天導さま。もう一つ、お伺いしたいことがございます」

　一臣は帳面を閉じかけた手を止めた。

「私の父のことです。小野弥吉と申します。碧湖の別荘番をしておりました」

「覚えています。僕が六つのときに、湖でよく舟に乗せてもらいました」

　澪の背筋が伸びた。

「父は、私が六つの年に暇を出されました。理由を、父は生きているあいだ一度も申しませんでした。会社に、あるいはご本家に、その頃の雇い入れと暇の記録は残っておりますでしょうか」

「別荘の奉公人ですから、会社ではなく家のほうです。……調べられると思います」

「もう一つ。父は、あの夏の桟橋で見たことがあると、死ぬ前の年に書き付けを残しました。字が読みにくくて、私にはまだ半分しか読めません。読めた分には、桟橋の柱のことが書いてあります」

　座敷が静かになった。

　私は茶を注ぐふりをして、二人を見ていた。

　縁側の障子越しの光の中で、澪の白い襟と、一臣の黒い袖が近くにあった。澪は身を乗り出していて、一臣は膝の上で手を組んで聞いていた。二人とも、真剣な顔をしていた。

　真剣な顔をした男女が、頭を寄せて話している。

　それだけの絵が、私の胸の中では別のものになった。

　分かっている。澪が話しているのは父の解雇と、桟橋の柱のことだ。恋の話ではない。それは耳で聞こえている。聞こえているのに、目で見ているものが勝ってしまう。

「調べます」

　一臣は言った。

「時間はかかります。家の古い記録は、三村のところにありますから、僕が一度に見られるものではない。それでも、必ず返事をします」

「ありがとうございます」

　澪は深く頭を下げた。

　その帰り道の玄関で、澪は私に「今日はありがとうございました」と言った。私は「また図書室で」と答えた。答えた自分の声が、少し高いのが分かった。

　部屋へ戻って、私は座り込んだ。

　一臣が澪の調べものを引き受ければ、二人は何度も会うことになる。記録を突き合わせて、読めない字を一緒に読んで、次の約束をする。

　私が半年かけて作った、用件のない午後より、ずっと強い用件だ。

　消したい、と思った。

　思ってしまってから、私は自分の顔を両手で押さえた。

＊

　冬から春にかけて、学院で本を集める催しがあった。

　病気で長く休んでいる生徒に、読むものを届ける会だった。集まった本は、生徒を診ている蘆田医院に一度運ばれ、そこで仕分けて、家々へ配られる。

　二月の土曜、私は本を抱えて医院の裏の書庫へ行った。

　待っていたのは、細い背の男の人だった。眼鏡をかけて、白衣ではなく普通の書生服を着ている。

「蘆田慎です。父の手伝いで」

　医学生の三年目だという。二十一歳。画面の中で、彼はいつも言い損ねていた。

　書庫は寒かった。私たちは火鉢を挟んで、本を三つの山に分けた。難しいもの、易しいもの、絵の多いもの。

　慎は仕事が丁寧だった。丁寧すぎて遅い。一冊ごとに背を撫でて、破れがないか見て、それから山へ置く。

「蘆田さんは、本がお好きなんですね」

「――はい」

　それきり、彼は黙った。

　私は、次に何か言わなければと思った。二十七歳のとき、沈黙が続くと、私はいつも自分のせいだと思って、意味のないことを喋った。

　言葉を探しているうちに、慎が口を開いた。

「その、今の、本がお好きですかというのは」

「はい」

「好きです。でも、答えるのに時間がかかります。好きの中身を言おうとすると、言えないので」

　それだけ言って、彼はまた本を撫でた。

　私は待った。一分か、二分か。火鉢の炭が鳴った。

「……子どものころ、父の診察室で待っている時間が長くて。そのあいだ、本を読んでいました。だから、待つことと本が、僕の中では同じところにあります」

　彼は言い終えて、少しほっとした顔をした。

　その日、彼は絵の多い山の一番上から一冊取って、開いた。詩集だった。

「これは、届け先の子には少し早いかもしれません。四行だけ読んでいいですか」

「どうぞ」

　彼は声を出して読んだ。一臣の読み方とは違った。一臣は文の意味の切れ目で息をする。慎は、息をする場所を毎回迷って、迷った分だけ間が空く。その間が、悪くなかった。

　読み終えて、彼は本を閉じた。

「僕は、人の話が終わるまで待つのが、あまり苦になりません。父は、待たない人なので」

　私は彼を見た。

　――この人なら、澪の話を聞ける。

　そう思ったのは、本当だ。澪には聞いてほしい相手が必要で、慎は待てる人だ。理屈は通っている。

　通っているからこそ、私は自分の胸の奥を見ないで済んだ。

　その理屈の下に、もう一つ理屈があった。澪が慎に話すなら、澪は一臣に話さなくなる。

　帰り道、私は人力車の中で、頭の中で文面を作り始めていた。二通、別々に。

＊

　三月の初め、私は澪と図書室の隅で話した。

　澪は帳面を開いて、自分の調べたいことを二つ、番号をつけて読んだ。

「一つ。父がなぜ暇を出されたのか。天導のご本家の、奉公人の記録。二つ。あの夏、別荘に出入りしていた薬の記録です。父の書き付けに、奥さまが眠り薬を何度も取り寄せていたと読める行があります。医院の側に残っていれば、いつ、どれだけかが分かります」

「……お医者は」

「蘆田医院です。天導さまのお抱えでしたから」

　私は湯呑みを持っていなかったので、手の置き場に困った。

「その二つ目のほう、私、心当たりがあります」

　澪が顔を上げた。

「蘆田先生の息子さんを知っています。慎さんという方で、医学生です。本の会でご一緒しました。とても、人の話を聞いてくださる方です」

「ご紹介いただけますか」

「ええ。私からお願いしてみます」

　澪は帳面を閉じて、頭を下げた。

「助かります。天導さまはお忙しいでしょうし、二つとも頼むのは申し訳ないと思っておりましたので」

　その一言で、私は自分の顔が動かないように気をつけた。

　その晩、私は机に向かって、二通書いた。

　一通目。

　――蘆田慎さま。先日は書庫でお世話になりました。折り入ってお願いがございます。私の親しい友人に、小野澪さんという方がおります。聖藍の奨学生で、たいそう真面目な、よい人です。その澪さんが、蘆田さんと個人的にお話ししたいことがあるそうです。お人柄を見込んでのことと存じます。近いうちに、私の家でお茶をいたしませんか。

　個人的にお話ししたい。

　書いてから、私はその一行を長く見ていた。嘘ではない。澪は個人的に話したいのだ。父のことだから、個人的だ。

　ただ、慎がこの紙を読んで思い浮かべるものは、澪が言った二つの番号ではない。

　私は封をした。

　二通目。

　――一臣さま。先日、小野澪さんがお願いしたことですが、お薬の記録のほうは、蘆田の慎さんが全部見てくださることになりました。慎さんはお医者の跡取りで、院の書類に通じておられます。ですから、そちらはご心配なさいませんよう。

　ここまでは、まだ本当のことに近い。私は筆を止めて、次の行を書いた。

　――お勤めの記録のほうも、古いものを探していただくのはご負担でしょう。お父上もお忙しいでしょうし、澪さんも、いずれご自分で落ち着いて調べると申しております。どうか、無理をなさらないでください。

　澪はそんなことを言っていない。

　私は書いた紙を見下ろして、「無理をなさらないでください」という行を、優しい文だと思おうとした。彼の負担を減らすために書いたのだ。彼は造船所で夜まで働いていて、家の古い記録を探す暇などない。

　封をして、二通を並べた。

　宛先の違う二通の、どちらにも私の字が書いてあった。同じ手で、違うことを書いた。

＊

　四月の第三日曜、うちの座敷に三人が集まった。

　慎は来る前に髪を撫でつけてきたらしく、後ろがきれいに分かれていた。澪は帳面と、父の書き付けを入れた箱を持ってきていた。

　茶と、桜の練り切りを出した。

　挨拶が済んで、私が「お二人とも本がお好きで」と話を始めようとしたとき、澪が先に箱を卓に置いた。

「蘆田さん。お忙しいところ、ありがとうございます。お伺いしたいのは、蘆田医院の処方の記録です」

　慎の背が固まった。

「あの事故の年の、四月から八月にかけて。碧湖の別荘、あるいは天導のご本家宛に、眠り薬の処方があったかどうか。あれば、いつ、何度、どれだけか」

「……あの事故の年」

「先生は、当時ご本家のお抱えでいらしたと聞いています」

　慎は湯呑みに指を触れて、触れただけで持ち上げなかった。

「父の、処方簿のことですか」

「はい」

　彼は私のほうを見た。

　その目には、はっきりと困惑があった。彼は「個人的にお話ししたい」と書かれた手紙を持って、髪を撫でつけて来ている。その紙と、今の卓の上のものが、どうしても合わない。

「小野さん。あの、僕は、その、天導さんから、あなたが個人的な話を」

　澪が私を見た。

　一瞬だった。一瞬で、澪の目の中で何かが並び替わった。

「――それを聞きに来たのではありません」

　澪ははっきり言った。声は荒くなかった。それが余計に効いた。

「私は、父の名前と、父が見たもののことで来ました。私が申し上げたのは、そのことだけです」

　座敷が静かになった。

　私は「ごめんなさい」を言いそびれた。言えば、自分が書いた紙の話になる。私は「お菓子が乾いてしまいますね」と言って、皿を押した。押した自分の手が嫌だった。

　沈黙が長く続いた。

　その沈黙を、慎が破った。

「――小野さん」

「はい」

「父の処方簿は、医院の古い蔵にあります。事件のあった年のものが残っているかは、確かめないと分かりません」

　彼は湯呑みから指を離した。

「僕が調べます。人に頼まず、僕が見ます。見て、あったら、あったと言います。なかったら、ないと言います」

「よろしいのですか。お父上の」

「父のものだから、僕が見るべきだと思います」

　その日の茶会は、それで終わった。

　玄関で、澪は下駄を履きながら私に言った。

「今日は、お茶をありがとうございました」

「……あの、澪さん」

「今度から、私から直に申し上げます。蘆田さんにも、天導さまにも」

　澪は笑った。怒ってはいなかった。怒られたほうが、まだ楽だった。

　門を出ていく二人を見送って、私は框に座った。座敷には、誰も手をつけなかった練り切りが三つ残っていた。

　私は、友達の用件を預かる人ではなくなった。

＊

　三日後、帰りの道で一臣に会った。

　会社の帰りだという彼と、本屋の前で立ち話になった。夕方の風が生温かくて、通りには荷車の音がしていた。

「日曜のお茶、うまくいきませんでしたか」

「……お聞きになったのですか」

「蘆田さんから、処方簿を調べると連絡がありました。それから、小野さんからも手紙をいただきました」

　私は本屋の窓の、積まれた雑誌を見ていた。

「瑠璃さん」

「はい」

「先日のお手紙、ありがとうございました。僕の手間を心配してくださったのだと思います」

　彼はそう言った。言われて、私は少しだけ息ができた。

「ただ」

　彼は続けた。

「澪さんの話は、まだ聞き終わっていません。あの日、僕が引き受けたのは二つでした。片方を蘆田さんが持ってくださるのは構いません。もう片方は、僕が引き受けたままです」

「でも、お忙しい」

「忙しいです。それでも、頼まれたのは僕です」

　彼は荷車を避けて、私の側へ半歩寄った。

「それに、本人から聞いていないことは、他の人から聞いた形にしたくない。小野さんが何を知りたいのかは、小野さんに聞きます」

　私は、うなずいた。

　嫉妬しています、と言えばよかった。あなたが澪さんと二人で話すのが嫌なのです、と。言えば、この人は困った顔をして、それでも何か考えてくれただろう。

　私は言わなかった。代わりに、こう言った。

「次のお茶は、いつがよろしいですか」

　彼は懐から手帳を出して、指で繰った。

「五月の第二日曜なら」

「では、その日に」

　日が決まると、私は安心した。安心した自分に、その夜、布団の中で気がついた。

　私は、この人と会う日が予定に入っていれば、他のことは後回しにできる人間になっていた。

# 第五章　知らせなかったこと

　夏の終わりに、慎が古い帳面を持ってうちへ来た。

　布に包んで、両手で抱えていた。座敷に上がって、包みを解く手がゆっくりだった。

「医院の蔵の、三段目の奥にありました。年号ごとに紐で括ってあって、括った紐の札が父の字です」

　表紙に、事件のあった年の年号が書いてあった。

　慎は頁を繰って、指で押さえた。

「四月に一度。五月に一度。六月に二度。七月に二度。宛は天導家、処方は不眠の薬です。量は、一度あたりは多くありません」

　六度。

　私は数えながら、口の中が渇いていくのを感じていた。文箱の底の帳面と、同じ数だ。

「これを、どうなさるおつもりですか」

　私は聞いた。

　聞きながら、私は別のことを思い出していた。画面の中で、天導瑠璃は処方簿を火鉢に入れる。三枚目で火が回り、和紙の縁が丸まって、彼女は火箸でそれを押さえる。悪役令嬢の一番はっきりした悪事として、私はその場面を何度も見た。

「小野さんに見せます。それから、必要なら、然るべきところへ」

　慎は言った。

「僕は、父にまだ聞いていません。聞く前に、まず物を見たかったので」

「そうですか」

「天導さん。これを、あなたにも見ていただきたくて持ってきました。ご本家のことですから」

　私は帳面を受け取った。

　軽かった。紙と表紙の重さしかない。火鉢は夏だから片づけてある。台所へ持っていけば竈がある。今なら誰も見ていない。

　私は頁を最後まで見て、閉じて、慎へ返した。

「大切なものですね」

　返したとき、自分が誇らしかった。私は焼かない。私はあの子とは違う。私は間違えない。

　その誇らしさが、二秒で終わった。

「もう一つ、お願いがあります」

　慎が言った。

「処方簿は、出したほうの記録です。受け取った側――買った側の記録があれば、突き合わせられます。ご本家の家政の帳面に、薬代の項がありませんか」

　蟬の声が、庭から一斉に上がった。

　あります。二冊。私の部屋の、文箱の底に。十四の冬から。四月に一度、五月に一度、六月に二度、七月に二度。あなたが今読み上げた通りの並びで。

「……探してみます」

　私は言った。

「古いものは、母か、番頭のほうにあると思います。あるかどうかも分かりませんが」

　慎は「お願いします」と言って、帳面を包み直した。

　彼が帰ったあと、私は座敷に座っていた。焼かなかった。焼かなかったが、あると言わなかった。

　その二つの間に、どれだけの距離があるのか、私はまだ測ろうとしなかった。

＊

　九月の帰り道で、澪と一緒になった。

　学院の門を出たところで後ろから声をかけられ、そのまま並んで歩いた。並んで歩くのは、春の茶会以来だった。

　通りの角に、菓子の屋台が出ていた。焼いた生地に餡を挟んだもので、一つ五銭。澪が立ち止まって、財布を見て、また歩き出そうとした。

「一つ買って、半分こにしませんか」

　私が言うと、澪は少し笑った。

「半分こは、天導さんの得意ですね」

　私が銭を出して、澪が受け取って、二つに割った。割ったほうの、餡の多いほうを私によこそうとしたので、私は少ないほうを取った。

　歩きながら、私は言った。

「澪さん。四月のお茶のことです」

「はい」

「あの日、私は蘆田さんへのお手紙に、澪さんが個人的にお話ししたいことがある、と書きました。父上のことだから個人的だ、と自分に言い訳をして書きました。蘆田さんが何を思って来るかは、分かっていました」

　澪は歩きながら聞いていた。

「それから、一臣さまには、お勤めの記録は無理をなさらないでくださいと書きました。澪さんはそんなことを言っていないのに、澪さんも自分で調べると申しております、と書きました」

　自分の声が、思ったより静かで、驚いた。

「あなたの用件を、私が書き換えました。ごめんなさい」

　澪は足を止めなかった。

　二十歩ほど歩いてから、彼女は言った。

「一つ、お伺いしてもいいですか」

「はい」

「なぜです」

　私は、餡の少ないほうを持ったまま、黙った。

　嫉妬しました、と言えばよかった。あなたが婚約者と二人で話しているのが嫌でした、と。

　言えば澪は、たぶん、笑ってくれた。笑って、「そんなことですか」と言ってくれた。そういう人だ。

「……分かりません」

　私は、そう言った。いちばん卑怯な答えだった。

　澪はうなずいた。

「それでも、おっしゃってくださって、よかったです」

　角を曲がって、川沿いに出た。夕方の水が赤かった。

「私、去年の六月のお茶会は、嬉しかったんですよ」

　澪が言った。

「羊羹を落とされたときの、天導さんの顔。それから、氷の中で越冬する船の話をなさったとき。私、学院で本の話をできる人が、あまりいませんでしたから」

「……私も」

「だから、これからも図書室でお会いします。本の話をしましょう」

　澪は菓子の最後の一口を食べて、指を紙で拭いた。

「調べることは、私がやります。蘆田さんと、天導さまと、それから新聞社の方と、私が自分で話します」

　仲直りはした。仲直りはしたが、元には戻らなかった。

　私は、預けてもらえない友達になった。そのことに、その夕方、はっきり値段がついた。

　そして私は、それでもまだ、文箱の話をしなかった。

＊

　十月に、うちの門の前に男が立っていた。

　背広の肩に埃をつけて、帽子を後ろにずらして、門柱の彫りを見上げていた。私が門から出てくると、その人は帽子を取った。

「失礼。天導のお嬢さんですか。帝都日日の、早瀬遼と申します」

　名刺を出す仕草が早かった。

　私はその顔を知っていた。画面の中で、この人は屋台の串を押しつけてくる。

「うちは、取材はお断りしています」

「ええ、家令の方に断られました。三度目です」

　彼はにこりと笑った。

「ですから今日は、門の前で立っているだけです。立っているのは自由なので」

　結局、通りの向かいの茶店で話をすることになった。彼が茶代を出した。

「小野澪さんという方から、お父上の書き付けの写しをいただきましてね」

　彼は懐から帳面を出した。

「十三年前の桟橋の柱に、新しい鋸の傷があった。当日の午後に自分が見つけて、伯爵に知らせたつもりだった。そう読めます。字が癖字で、三日かけて読みました」

　私は湯呑みを持ったまま、動けなかった。

「それで、当時の別荘に出入りしていた人を探しています。暇を出された奉公人が、小野さんのほかにもう一人。お絹さんという女中です。それから、お嬢さんの、その」

　彼は少し言い方を選んだ。

「――以前のお父上。天導恭介さん」

　父。

　私が何年も、返事をくれなかったと思っていた人。

「どこにいるか、ご存じで」

「知りません」

　本当に知らなかった。

　遼は帳面を閉じた。

「三日後に、北へ行きます。造船の下請けの町を順に回れば、技師の一人くらい、誰か知っています」

「……早瀬さん」

　私は言った。言ってから、自分が何を言おうとしているのか気づいた。

「取材なら、本家の親族会の記録を当たられるといいと思います。十三年前の後見の決まり方に、無理があったはずです。母は、兄に逆らえない立場でしたから。女は後見人になれないという家憲があって、それを使われて」

　私は、筋を渡していた。ゲームで見た筋を、先回りして、この人の頭に置こうとしていた。母は従わされた側だ。そこから調べれば、そこへ着く。

　遼は私の顔をじっと見た。それから、湯呑みの茶を飲み干した。

「ありがとうございます。参考にします」

　立ち上がりながら、彼は言った。

「ただね、お嬢さん。俺は、会った人の言ったことしか書きません。誰かの立場を先に決めて出かけると、その通りのことしか聞こえなくなる。安い記事になります」

「……はい」

「お絹さんを見つけたら、お絹さんの言葉を聞きます。恭介さんを見つけたら、恭介さんの言葉を聞く。順番はそれだけです」

　彼は帽子をかぶり直した。

「北は寒いので、外套を買わないといけない。経費で落ちるといいんですが」

　そう言って、彼は通りを歩いていった。荷車の間を、危なげなく抜けていった。

　私はその背中を見ていた。

　外へ行ける人だ、と思った。門を三度断られても、次の町へ行く人。

　私はこの家の門の内側で、あの事故の筋書きを暗記して、暗記したものを人に配っていた。

　少しだけ、あの人について行きたかった。

＊

　年が明けて、二月の終わりに、一臣が青い顔で来た。

　座敷に上がるなり、彼は懐から紙を出した。

「父の書斎の、古い箱の底です。会社の書類を探していて、出てきました」

　紙は薄くて、折り目が四本ついていた。宛先は親族会の三人。差出は貞光さま。日付は、事故が起きた年の五月。

　当主に万一のことがあった場合、家憲に照らして、後見は分家の家長が執るべきである。あらかじめ諸兄の御賛同を得たい。

　私は二度読んだ。

　当主は、その年の八月に死んでいる。

「五月に、こんなものを」

　一臣の声が低かった。

「宗一郎さまは、当時三十四でした。健康な人だったと聞いています。万一もなにも、ない人です」

　彼は膝の上で拳を握っていた。

「僕は、父の仕事を、速いと言いました。あなたに」

「一臣さま」

「あれは本当です。今もそう思っています。それと、この紙が」

　彼は言葉に詰まった。詰まった顔を見ていられなくて、私は手を伸ばした。

　彼の拳の上に、自分の手を置いた。

　そんなことをしたのは初めてだった。彼の指がゆるんで、私の手を握り返した。骨が硬かった。

　どのくらいそうしていたのか分からない。庭で鵯が鳴いて、私たちは同時に少し身じろぎした。それでも、手は離れなかった。

「……瑠璃さん」

「はい」

「一つ、伺ってもいいですか」

　彼は私の手を握ったまま、私の顔を見た。

「蘆田さんが、買った側の帳面を探していると言っていました。あなたも、探すと言われたそうですね」

「はい」

「あなたは、家政の帳面のことで、何かご存じではありませんか」

　庭の音が遠くなった。

　二冊。私の部屋。文箱の底。鍵は机の引き出し。四月に一度、五月に一度、六月に二度、七月に二度。八月、湖。

　握られている手が、汗ばんでいた。

「母は」

　私は言った。

「母は、兄に逆らえない人です。判を押すのも、金を出すのも兄の指図だったと思います。家の買い物の帳面をつけるのは母の役目でしたから、母の字で書いてあっても、それは母が決めたということではないと思うんです」

　言い終えて、私は息を吸った。

　嘘は一つも言っていない。全部、私の推測だ。推測を並べると、相手は答えを聞いた気になる。

「……そうですか」

　一臣はそう言った。

　握った手は、その日は離れなかった。彼は日が暮れるまでいて、帰るときに「また来ます」と言った。

　私は玄関で、自分の右手を左手で包んでいた。

　温かかった。温かいことが、後から、ひどく痛かった。

＊

　四月に入って、桜が散りかけた頃、澪から便りがあった。

　早瀬遼が、北の町でお絹を見つけたという。さらに、そこから二つ先の港町で、船渠の技師として働く天導恭介に会ったという。

　――私はまだお会いしていません。早瀬さんが、ご本人の言葉を聞いてから、こちらへ来るそうです。

　便りを持ったまま、私は廊下に立っていた。

　父が、いた。生きていた。船渠にいた。

　私が七年かけて、返事をくれない人だと思っていた人が、北の港で船を直していた。

　その日の夕方、母が私の部屋へ来た。

　母は四十を四つ越えた。近ごろ、髪の生え際に白いものが目立つ。母は座って、私の机の上の便りを見なかった。見なかったのが、かえって不自然だった。

「近ごろ、いろいろな人が家のことを聞き回っているそうね」

「……はい」

「新聞の人が門の前に立ったと、フミが言っていました」

　母は膝の上で手を重ねた。

「瑠璃。あなたはこの家の跡取りです。十八になれば、後見も外れる。あと少しなのよ」

「はい」

「今さら、家を壊さないでちょうだい」

　母の声は、責める声ではなかった。疲れた人の声だった。

　部屋が寒くなってきた。母は立ち上がって、簞笥の上の肩掛けを取って、私の肩に掛けた。掛けてから、両手で襟のあたりを整えた。

　その手つきを、私は知っている。十歳の冬から、この人はこうやって私の肩に何かを掛ける。

「お母さま」

「なあに」

「私が昔、お父さまに書いた手紙は、どうなりましたか」

　母の手が、襟から離れた。

「届けるところへ渡しました」

「届いたのですか」

「返事がないのでしょう。それが答えです」

　母は襖のほうへ歩いた。

「早くお休みなさい。明後日はお誕生日ですよ」

　襖が閉まった。

　私は肩掛けの端を握っていた。温かかった。この人の手は、いつも温かい。

　聞き返せばよかった。渡したというのは誰にですか、と。

　私は聞かなかった。聞けば、この肩掛けの温かさが今夜で終わると知っていたからだ。

＊

　四月十九日。誕生日の前の夜。

　一臣から便りが来た。

　――明日、お誕生日のお祝いに伺います。夜は本家の集まりがあると聞いていますので、その前に、少しだけお時間をいただけませんか。お話ししたいことがあります。長くはなりません。

　私はその紙を、三度読んだ。

　お話ししたいこと。

　怖い想像はいくつも浮かんだ。浮かんだが、私は別のことを考えていた。

　二人になれる時間がある。庭に出られるだろうか。四月だから、まだ寒い。座敷のほうがいいかもしれない。冷たくなった茶を残していく人だから、二煎目を用意しておこう。頁を戻してもらった詩集を持っていこうか。それはさすがに、子どもじみているだろうか。

　簞笥を開けた。十六の春に着た水色は、もう丈が短い。去年仕立てた薄紅は、誕生日には派手すぎない。夜の集まりには別のものに着替えるから、昼はこれでいい。

　着物を衣桁に掛けて、私はその前に座った。

　それから、机の引き出しから鍵を出した。

　文箱を開けて、二冊の帳面を取り出して、膝に載せた。表紙の反りは見つけた冬のままだ。頁を開くと、薬代の行が並んでいる。

　明日、これを出そう。

　そう思った瞬間、胸が軽くなった。軽くなったから、私はその思いつきをすぐに飾り始めた。

　――そうだ。これを出すのは、母のためだ。母が買わされていたことを示せば、母は指図された側だと分かる。兄の指図の証拠になる。私が黙っていたのは、母を守るためだった。明日は、母を守るために出すのだ。

　筋が通った気がした。通った気がしたので、私はそれ以上考えなかった。

　帳面を文箱に戻して、蓋をした。

　文箱は棚に戻さず、寝台の脇の小机に置いた。手を伸ばせば届くところに。

　布団に入って、灯りを消して、私は明日のことを順番に並べた。

　朝に封書が来ると、三村から知らせがあった。亡くなった伯爵の遺志で、十八になった日に渡すものがあるという。昼に一臣が来る。夜に本家の集まりがある。

　それから、早ければ明日にも、早瀬遼が北から帰ってくるかもしれない。

　私は、父の顔を知らない。写真も見たことがない。

　どんな顔の人だろう、と思いながら、私は眠った。

# 第六章　花を足す

　四月二十日の朝、三村が来た。

　白髪の混じった、背の低い人だ。この家の書き物を三十年預かっている。座敷に通すと、彼は風呂敷から桐の箱を出して、私の前に置いた。

「お嬢さま。十八になられましたので」

　箱の蓋には、封の紙が渡してあった。

「亡き宗一郎さまのご遺志です。娘御が十八になったら渡すようにと、私が承っておりました」

「娘御」

　私が聞き返すと、三村は少し目を伏せた。

「――お開けください。中に三通あります。いずれも写しです。遺言と藤乃さまからのお手紙の原本は、私の事務所の金庫にございます。宗一郎さまからのお手紙だけは、お出しになる前の控えから写しました。宛先へ届いた原本は、藤乃さまのお手元です。写しは私が当時、宗一郎さまの前で作り、日付を入れて封をいたしました」

　私は封を切った。

　一通目は、遺言の写しだった。文言は硬い。宗一郎の死亡をもって効力を生じるとある。その中に、一行あった。

　――余の子、瑠璃を認知す。

　余の子。

　私は文字を見ていた。三村の声が、遠くで続いていた。

「二通目は、お生まれになる二か月前の、宗一郎さまから藤乃さまへのお手紙でございます」

　二通目は、短かった。

　――お身体を大事に。名は考えている。女の子なら、瑠璃と。

　日付は、その年の二月。

「三通目は、藤乃さまから宗一郎さまへの書簡です。宗一郎さまがお預けになりました」

　三通目の字は、母の字だった。若い母の字だ。今より角が立っている。

　――あの子を、遺言でお認めください。今の形では、あの子は何にもなれません。生きているうちに騒ぎを立てるのが難しいなら、その形でも構いません。

　私は三通を並べた。

　箱の中で、紙が三枚、並んで光を受けていた。

「……養女ではないのですか」

「公に申しておりますのは養女です。実のところは、認知でございます。家憲は当主に初代の血を求めます。お嬢さまには、その血がある」

「父は、それを」

「事故のあと、恭介さまに否認の書面へ署名していただきました。あの事故の責任を問う席で。親族会は血縁を承知のうえで、世間には養女と公表したのです」

　署名していただいた。

　その丁寧な言葉が、喉の奥に引っかかった。

　三村は膝の上で手を重ねた。

「宗一郎さまは、生きている間にこれを公にはなさいませんでした。私は何度も申し上げましたが、なさらなかった。それだけは、私も残念に思っております」

　頭の中で、二枚の紙が重なっていた。

　画面の中で、天導瑠璃が本家に入る根拠になった「養女指定」は、貞光の偽造だった。家令の佐伯が印の使用を見ていて、三村が保管の順序から筋を通す。私はその筋を暗記していた。

　だから、私はずっと、自分の立場を「偽造された養女」だと思っていた。

　違った。

　偽造の話は、あの物語の中の話だ。この家の箱の底にあったのは、本物の血と、本物の認知だった。

　私は、自分がずっと別の紙を見ていたことに、十八になった朝に気がついた。

　三村が帰ったあと、私は三通の写しを持って、しばらく畳に座っていた。

　――お身体を大事に。名は考えている。女の子なら、瑠璃と。

　その一行を、私は何度も読んだ。

＊

　昼前、私は文箱を持って母の部屋へ行った。

　母は文机に向かって、いつものように帳面をつけていた。私が入っても、筆を置かなかった。

「今日は集まりが早いから、夕方には支度を」

「お母さま」

　私は文箱を開けて、二冊の帳面を畳に置いた。それから、三村の桐箱から出した三通を、その横に並べた。

　母の筆が止まった。

「四月に一度、五月に一度、六月に二度、七月に二度」

　私は言った。

「蘆田医院の処方簿と、同じ数です。同じ月です。そして、ここに、お母さまの字で、八月、湖と」

　母は帳面を見なかった。三通のほうを見た。

「……三村が」

「今朝、届きました」

　母は筆を筆架に置いた。置き方が、ゆっくりだった。

「お母さま。この手紙は、お母さまが書かれたものですね」

「そうです」

「遺言で認めてくださいと、お願いなさった」

「そうです」

　母はまっすぐ座っていた。逃げる素振りはなかった。

「お母さま。十四年前の夏、この薬は、誰のために買われたのですか」

　母は答えなかった。

　しばらく、庭の音だけがしていた。松の枝を鳥が渡って、葉が擦れた。

「瑠璃」

　母が言った。

「あなたは、十のときから、別の人のようでした」

　私の指先が冷えた。

「あの夏、灯籠の日の朝、泣きはらした顔で起きてきてから、急に行儀がよくなった。左で持っていた筆を右で持つようになった。私の顔色をうかがって、先に謝るようになった。お茶を淹れるとき、湯を一度冷ますようになった。誰が教えたのでしょうね」

　母は、私の顔をじっと見た。

「気味が悪かった。今でも、ときどきそう思います」

「……お母さま」

「それでも、あなたは私の娘です。私は、あなたにこの家で生きてほしかった。私が作った家の中で。誰にも頭を下げずに済む場所で」

　母はそこで言葉を止めた。

　そこから先は、何を聞いても答えなかった。薬のことも、湖のことも、八月の夜のことも。母は口を結んで、文机の木目を見ていた。

　私は帳面を文箱に戻した。三通も一緒に入れた。

　立ち上がるとき、私は言った。

「この帳面を見つけたのは、十四の冬です。三年以上、持っていました」

　母が顔を上げた。

「私も、誰にも言いませんでした」

　母は何も言わなかった。

　襖を閉めるとき、母はもう文机のほうを向いていた。背中が、思ったより小さかった。

＊

　その夜、本家の星の間に、人が集まった。

　誕生日の祝いの席のはずだった。灯りが明るくて、卓に花が並んでいた。集まったのは親族と、会社の重役と、三村。

　昼に来るはずだった一臣からは、話は夜の集まりの後にしてほしいと、先に使いが来ていた。彼は父から離れた席で、膝の上の紙を見ていた。

　そして、招かれていない人たちが来た。

　早瀬遼が、二人を連れて入ってきた。

　一人は、四十ほどの女の人だった。手が荒れていて、着物の膝をしきりに撫でていた。

　もう一人は、背の高い、日に焼けた男だった。作業着ではなく、着慣れていない背広を着ていた。首のところが窮屈そうだった。

　私は、その顔を見た。

　目の形が、私の――この身体の目の形と、似ていなかった。似ていないのに、私はその人から目を離せなかった。

「天導恭介さんと、お絹さんです」

　遼が言った。

「北の港で、お二人に会いました。ここへ来るかどうかは、お二人が決めました」

　貞光さまが立ち上がって、何か言おうとした。三村が「お待ちください」と言った。三村の声は静かで、よく通った。

　その夜、星の間で、四人が別々のものを出した。

　澪が、父の書き付けを読んだ。癖字を三日かけて解いたものだ。十四年前の八月十五日の午後、桟橋の先の柱に、新しい鋸の傷を見つけた。十二日に点検したときにはなかった。伯爵に知らせようとしたが、その日は伝わらなかった。夜には事故が起きた。自分は五歳の娘を抱えていて、暇を出されるときに口止めをされた。それでも書いておく、と書き付けは結んでいた。

　一臣が、五月の日付の書簡を出した。当主に万一のことがあった場合の後見について、あらかじめ賛同を求めた紙。差出人の名前を読み上げるとき、彼の声は一度だけ止まった。

　慎が、父の処方簿を開いた。四月に一度、五月に一度、六月に二度、七月に二度。宛は天導家。不眠の薬。

「父に聞きました」

　慎は言った。

「父は、注文の通りに出したと申しました。誰がどう使ったかは知らない、と。それが本当かどうかは、僕には言えません。ですから、物だけをお出しします」

　そして、恭介が話した。

　声が低くて、少しかすれていた。

「あの日の午後三時に、電報が来ました。本社で急な会議がある、すぐ帰れと。私は町へ出て、汽車で帝都へ戻りました。本社に着いたのは夜です」

　彼は、指を組んだ。

「会議はありませんでした。誰も呼んでいないと言われました。電報を打った覚えのある者もいませんでした」

　その言葉を、私は頭の中に押し込んだ。

　偽の電報。三時。本社に会議はない。

「戻ったときには、伯爵が亡くなっていました。娘は舟屋で見つかったと聞きました」

　お絹が、そのあとを継いだ。

「私は、あの夜、台所へ行けと言われました。奥さまに」

　お絹の手は、膝の上で止まっていた。

「その前に、奥さまがお嬢さまに糖蜜を召し上がらせるのを見ました。いつものお薬だと。お嬢さまは四つでいらして、夜になると眠らないことがよくありましたから、私は変だと思いませんでした。思わなかったのが、今でも」

　彼女は一度、息を吸った。

「そのあと、奥さまが外で、瑠璃さまがいないと叫ばれました。皆が探しました。宗一郎さまが湖のほうへ行かれました。お嬢さまは、舟屋で眠っておいででした」

　星の間が、静まり返っていた。

「なぜ、当時おっしゃらなかったのですか」

　三村が聞いた。

　お絹は、しばらく答えなかった。

「申し上げました」

　やがて、そう言った。

「翌年、暇を出されるときに、親族の方に申し上げました。そうしたら、家の中の揉め事だ、女中の言うことだと言われました。奉公の口を紹介しないとも言われました。それきりです」

　彼女は膝を撫でた。

「今度は、あの新聞の方が、私の言ったことをそのまま書き留めてくださいました。三村さまが、これは渡す先があるとおっしゃいました。それで、来ました」

　最後に、恭介が言った。

　誰に向かってでもなく、卓の木目を見ながら。

「一つだけ、お尋ねしたいことがあります」

　彼は顔を上げた。

「娘は、私に手紙を書きましたか」

　私の喉が、詰まった。

「私は、一通も受け取っておりません。十四年、一通も」

　私は立っていられなくなって、卓の端に手をついた。

　十一の春から、七年。私は毎年書いた。宛先を知らないから、母に渡した。母は、届けるところへ渡しますと言った。返事が来ないのは、この人が私を捨てたからだと思った。

　私は、この人を七年間、頭の中で責めていた。

　この人は、一通も受け取っていなかった。

＊

　人が黙っている中で、私は文箱を持って、卓の前へ出た。

　誰も私に何かを求めてはいなかった。この夜、私は祝われる側で、証言する側ではなかった。

　文箱を開けて、二冊の帳面を出した。

「本家の家政の帳面です。十四年前の分があります」

　私は、頁を開いて置いた。

「薬代。蘆田医院。四月に一度、五月に一度、六月に二度、七月に二度。蘆田さんの処方簿と、日付も回数も合います。書いたのは母の字です」

　次に、三村の桐箱から出した三通を並べた。

「亡くなった伯爵の遺言の写し。私を認知するとあります。伯爵から母への、私が生まれる二か月前の手紙。名前を考えているという手紙です。そして、母から伯爵への手紙。遺言で認めてくださいと書いてあります。この三通は、今朝、三村さんから受け取りました」

　声が震えないように、私は一度、息を止めた。

「これまで、この事件は、伯父が後見を取るために仕組んだものだと言われてきました。後見の根回しの紙は、今、一臣さまが出しました。私も、そう思っていました」

　私は帳面に手を置いた。

「けれど、薬を買ったのは母です。遺言で認めてほしいと書いたのも母です。伯爵が亡くなれば遺言が効きます。母は、そのことを一番よく知っていました」

　誰かが息を呑んだ。

　私は、続けた。ここが、いちばん言いたくないところだった。

「この帳面を見つけたのは、私が十四の冬です」

　一臣が、こちらを見た。

「三年以上、持っていました。自分の文箱に鍵を掛けて、しまっていました」

　私は顔を上げた。

「母は兄に逆らえない人だから、母を守るために黙っているのだと、自分に言っていました。本当は、この家がなくなるのが怖かったのだと思います。朝ごはんを一緒に食べる人がいなくなるのが怖かった。一臣さまに、何かあれば話してくださいと言われた日も、私は帰ってから鍵を掛けました」

　言い終えて、私は帳面と三通を三村のほうへ押した。

「三村さん。これを、しかるべきところへ渡してください。母のものも、母以外のものも、全部」

　三村は立ち上がって、両手で受け取った。

「承りました」

　貞光さまが何か大きな声を出した。重役の何人かが立った。三村が「順序を追ってまいります」と言った。

　その夜、誰かがその場で罪を認めたわけではない。私は誰も裁かなかった。裁くのは、私ではない。

　私がしたのは、三年以上しまっていたものを、机の上に出したことだけだった。

＊

　人が散り始めたころ、三村が私のところへ来た。

「お嬢さま。今日のことで、お家の中がすぐにどうなるというものではございません」

「はい」

「血筋のことがはっきりしたからといって、明日から跡取りでなくなるわけでも、なるわけでもない。後見の権は別の手続きです。ご婚約も、また別です。ひとつずつでございます」

　ひとつずつ。その言い方に、私は少し救われた。

　廊下に出ると、一臣が柱のそばに立っていた。

　私を待っていたのだと、すぐに分かった。

「瑠璃さん」

「はい」

「婚約を、解かせてください」

　廊下の灯りが、彼の頬に影を作っていた。

「僕は、父の家の者として、この家に婚約しました。今夜出たものを見て、僕は父の下から出ます。会社も、家も、たぶん一度は壊れます。その僕が、家のために結んだ婚約を続けるのは、あなたにも失礼です」

「……罰ですか」

　私は聞いた。

「あなたが今、私を、その」

「違います」

　彼はすぐに言った。

「あなたが三年以上黙っていたことは、聞いていて、正直に言えば、辛かった。二月に、あなたの手を握ったとき、僕は聞きました。あなたは答えませんでした」

　彼は言葉を選んでいた。

「僕が信じていたのは、あなたが答えてくれるということでした。それが崩れたのは本当です。でも、僕が婚約を解くのは、それだけのせいではない。父と同じ家にいる者として、あなたの隣にはいられません」

　私は、彼の袖を見ていた。油の染みは、もうない背広だった。

「あのお茶の時間は」

　彼は、そこで少しだけ声を落とした。

「あのお茶の時間は、僕は好きでした。嘘ではありません。庭師が鉢を抱えて走った日も、頁を戻した日も、覚えています。返してほしいとは言われたくない」

　私は、引き留めたかった。

　言葉を探せば、たぶん、彼を座らせることはできた。今日出した資料の話をして、これから必要なことを並べて、二人で片づける仕事を作れば、彼はきっと付き合った。この八年、私はそうやって彼を座らせてきた。

　私は、しなかった。

「……分かりました」

　それだけ言った。

　彼は頭を下げて、廊下を歩いていった。曲がり角で一度、振り返って、それから見えなくなった。

　人がいなくなってから、私は柱に額をつけて泣いた。

　もう一曲、と言えばよかった。あの秋に。

　一人になってから、戻って来てほしい。

　そう思っている自分が、いちばん厚かましかった。

＊

　自分の部屋に戻ったのは、夜中だった。

　廊下の時計が、十二時を打ち始めた。一つ、二つと数えながら、私は畳に座っていた。

　考えていたのは、三つのことだった。

　父が、一通も受け取っていなかったこと。

　母が、あの夏、四歳の娘に薬を飲ませ、いないと叫んだこと。

　そして、この家の十歳から十八歳までの八年が、今夜、終わったこと。

　――メニュー。

　私は、自分から念じた。

　八年ぶりに、白い枠が視界に重なった。時計はまだ打っていた。十、十一、十二。針は止まらない。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「つづきから」を見た。これを選べば、明日が来る。母は捕まるだろう。伯父も。私は十八の跡取りとして、壊れた家の中で、一人で立っていることになる。一臣とは会わなくなる。澪も慎も、それぞれの用事を持って、自分の道を歩く。

　生きていける。八年やってきたのだから、やれる。

　「やめる」を見た。文が出た。

　〈元の世界のあなたの身体へ戻ります。ここでの記憶は失われません。この世界は続き、この身体はここで生き続けます。戻った後、この入口は使えません。〉

　帰れる。今すぐ帰れる。狭い部屋に、麦茶のポットに、真帆のメッセージに。

　帰ったら、この世界は続く。続いて、父は北の港で一人で働き、母は牢へ行き、あの人は死んだままだ。

　私は、もう一つの文字を見た。

　　はじめから

　〈この人生を出生からやり直します。使用は一度のみです。〉

　出生から。

　伯爵はまだ生きている。あの夏はまだ来ていない。父は家にいる。手紙を出さなくていい。届かないことに七年悩まなくていい。

　助けたかった。父を、あの人を、四歳の身体のあの子を。

　それだけではなかった。

　私は、この人生を、こんな終わり方で誰かに返したくなかった。私が十歳から八年借りて、隠して、歪めて、最後に壊した人生を、このままで畳みたくなかった。

　それから――私は、この世界で楽しかった。

　落雁を半分にした日。二十七銭が見つかった日。庭師が鉢を抱えて走った日。八頁戻してもらった日。踏んでも保つ靴。それを全部、今夜で失いたくなかった。

　私は「はじめから」を見た。

　枠が変わった。

　〈この人生を出生からやり直します。使用は一度のみです。よろしいですか〉

　――はい。

　枠の中に、新しいものが出た。

　名前の欄だった。

　　天導　／　瑠璃

　姓のほうは、枠が固くて動かなかった。名のほうだけが、白く光っていた。

　その下に、小さく一行。

　〈この人生で使う名前〉

　私は、その欄を見ていた。

　瑠璃。この八年、そう呼ばれた。母も、フミも、井澤先生も、澪も、慎も、一臣も、みんなそう呼んだ。

　瑠璃花。真帆がそう呼んだ。私の名前だ。二十七年、私の名前だった。

　――一字だけ。

　私は、指を動かした。動かしたつもりだった。実際には、思っただけで、光る欄の末尾に文字が入った。

　　天導　／　瑠璃花

　呼びやすい。ルリカのほうが、呼びやすい。

　私はそう思おうとした。

　助けるだけなら、花はいらない。

　それも、同時に分かっていた。父を助けるために名前は要らない。八月の湖に間に合うために、一字も要らない。

　それでも、私は消さなかった。

　この八年、私はこの家で、この身体で、瑠璃として愛されたり、疎まれたり、婚約したり、解消されたりした。全部、あの子の名前の上でのことだった。

　もう一度やるなら。

　もう一度、この人ともう一曲踊りたいと思ったり、菓子を半分にしたり、父に抱かれたりするなら。

　その人生に、私の名前がついていてほしかった。

　欄の下に、もう一つ文字があった。

　　はじめる

　触れたら、もう直せない。そう分かった。

　時計が、十二打ち終わっていた。廊下は静かだった。

　私は、はじめる、を選んだ。

# 第七章　呼んでもらう

　最初にあったのは、圧だった。

　全身を縦に押し出される力。骨が寄って、頭が長くなって、耳の中で自分の脈だけが鳴っている。それから、急に押す力が消えて、冷たいものが皮膚に触れた。

　空気だ、と思った。

　息を吸おうとした。

　吸えなかった。

　胸が動かない。動かし方が分からない。喉が閉じているのでも、詰まっているのでもない。ただ、この身体が息をするという段取りを始めない。

　目は開いていたかもしれない。明るいのか暗いのかも分からなかった。光は白く滲んで、形にならなかった。

　音だけが、遠くから届いた。

　女の人の声が、高くなった。何か短く言い合っている。布が擦れる。金物が置かれる。手が私の背中を打った。もう一度打った。足首をつかまれて、逆さにされた。指が口の中に入って、何かを掻き出した。

　誰かが私の胸を、二本の指で押していた。速い。規則正しい。

　私は、そのあいだ、何も考えていなかった。考える器官が、まだ動き始めていなかった。ただ、押されるたびに身体が揺れて、揺れているという感じだけがあった。

　――もう一度。

　誰かが言った。

　それから、胸の奥で、何かがほどけた。

　空気が、勝手に入ってきた。入ってきた空気が喉を通ったとき、私の身体は叫んだ。私が叫んだのではない。身体が叫んだ。腹の底から、耳が痛くなるような声が出た。

　部屋の中で、人が一斉に息を吐いた。

　誰かが泣いていた。女の人の声だ。それが母の声だと知るのは、ずっと後だ。

　時間のことは、あとで人の話で知った。

　産婆がお絹に話しているのを、いつだったか、寝かされたまま聞いた。三分でした、と産婆は言った。三分息をしなくて、諦めかけたところで泣いた、と。

「珍しいことではありません。でも、あんまり長いと、後がねえ」

　産婆はそう言って、それから、うちのお嬢さまは大丈夫そうですねえ、と笑った。

　三分。

　私はその数字を、しばらく考えていた。

　十八の夜に「はじめる」を見て、次に感じたのが、あの圧だった。そのあいだのことは何もない。私は出生に戻った。戻った先の身体は、最初、息をしなかった。

　なぜそうだったのかは、私には分からない。分かるわけがない。産科のことも、魂のことも、私は何も知らない。

　ただ、この身体には、一度、生まれるのをやめようとした子がいた。

　それだけを、私は覚えていることにした。

＊

　生まれて七日目に、私は名前をもらった。

　その日は朝から家の中が動いていた。畳が拭かれて、床の間に花が生けられた。私は真新しい包み方をされて、母の腕から人の腕へ渡された。

　人が集まった座敷で、一人の男の人が私を抱いた。

　その人の腕は、慣れていた。手のひらが大きくて、私の首の後ろに、ちょうどよく入った。

　顔を見た。

　十歳の年に、廊下で見上げた肖像画の人だった。そのときはもう死んでいた人が、今、私を抱いている。

　天導宗一郎。三十歳。生きている。

　彼が、紙を開いて読んだ。

「瑠璃に、花と書いて、ルリカ」

　座敷が、ほう、と鳴った。

「分家の子の名を当主がつけるのは、この家の古い習いだ。藤乃が身重の頃に私が考えて、この二月に手紙で書いて送った。天導の湖の色と、それから、花の一字を」

　誰も、驚かなかった。

　いい名前ですね、と誰かが言った。ルリカさま、と誰かが言った。母は、私を見ないで、畳の一点を見ていた。父は――恭介は、座敷のいちばん端で、居心地悪そうに座っていた。

　私は、包まれたまま、天井を見ていた。

　通った、と思った。

　あの夜、光る欄の末尾に足した一字が、七日目の座敷で読み上げられた。

　嬉しかった。二秒ほど、本当に嬉しかった。

　それから、怖くなった。

　この人は、二月に手紙で書いたと言った。私が生まれる二か月前の手紙だ。十八の朝に、三村の桐箱の中で読んだ紙だ。あの紙には、瑠璃と書いてあった。

　その話どおりなら、同じ紙に、今は花があるということだ。

　この人の記憶の中にも、花がある。そういう顔をしている。嘘をついている顔ではない。

　私は、自分が何をしたのかを、そのとき初めて、少しだけ分かった。

　座敷が崩れて、人が茶を飲み始めたころ、恭介が私のところへ来た。

「――抱いてもよろしいでしょうか」

　彼は宗一郎に、そう聞いた。

　自分の娘を抱くのに、人に許可を求める男だった。

　渡されて、彼の腕の中に入った。

　硬かった。腕が水平になっていなくて、私の頭が下がった。首が支えられていないので、視界が急に流れた。

「あ、いや、すみません」

　彼は慌てて抱き直した。抱き直した拍子に、私の頬が彼の襟のボタンに当たった。冷たくて硬かった。

「すまん。すまん、ルリカ」

　彼は、そう言った。

　私は、泣いた。ボタンが痛かったからだが、泣きながら、別のところで、何かが震えていた。

　ルリカ。

　この家の中で、私の名前で、私が呼ばれた。

　七年、返事の来ない手紙を書いた相手が、私の名前を呼んで、うまく抱けなくて謝っていた。

　私は、声が嗄れるまで泣いた。泣いている理由を、誰も知らなかった。

＊

　零歳の身体は、不便どころではなかった。

　首が上がらない。仰向けに寝かされたら、自分では横も向けない。手は動くが、行きたいところへは行かない。視界は近くしか合わない。腹が減ると、我慢するという選択肢がない。減ったと分かった瞬間に、身体が泣き始める。

　私の中身は二十七年と八年を生きている。生きているが、この身体はそれを一つも聞かない。

　最初の一か月、私はそのことに毎日腹を立てた。

　二か月目から、腹を立てるのをやめた。やめたというより、疲れた。

　乳を飲む。げっぷをさせられる。おむつを替えられる。眠る。起きる。泣く。また飲む。

　それだけの日に、人が代わる代わる来た。

　お絹は、着替えをさせるとき、必ず先に声をかけた。

「お嬢さま、お袖を通しますよ。腕、伸ばしますよ」

　二十歳の女中が、物の言えない赤ん坊に、一つずつ断ってから手を動かす。袖を通すときの引き方が丁寧で、腕が突っ張らない。私は、この人の手のときだけ、身体が緊張しないのが分かった。

　母は、乳をやるとき、窓の外を見ていた。

　乳が出にくい日は、眉の間に線ができた。それでも母は根気よく続けて、うまく飲めた日には、小さく息を吐いた。

　恭介は、仕事から帰ると、着替えもせずに私を覗きに来た。

　彼は抱くのが下手なままだった。三か月経っても、首の支え方が毎回違った。

「今日は、こうか」

「旦那さま、手はもう少し下でございます」

「下か。下だな」

　お絹に直されて、その日は覚える。次の日には忘れている。

　彼は、私を抱いて、何も言わないでいる時間が長かった。

　仕事の話も、天気の話もしない。ただ、私の顔を見て、ときどき指を一本、私の手のひらに置いた。

　この身体は、手のひらに何か当たると握る。反射だ。私が握ろうと思わなくても握る。

　握ると、彼は少し笑った。

「強いな」

　それだけ言って、また黙った。

　何も返せなかった。

　私は、この人に伝えたいことが山ほどあった。八月に湖へ行くな。三時の電報は嘘だ。妻の帳面を見ろ。蘆田医院の処方を確かめろ。

　一つも言えなかった。声は出ない。手は動かない。指は握るだけだ。

　役に立たない。

　それなのに、この人は毎日帰ってきて、私の顔を見て、指を握らせて、黙っている。

　ある夕方、私は彼の腕の中で、眠った。

　眠るつもりはなかった。彼のシャツの、洗剤と機械油の混ざった匂いがして、胸が上下していて、心臓の音が耳のそばで鳴っていた。その音を数えているうちに、私はまぶたを開けていられなくなった。

　落ちていく途中で、少しだけ抵抗した。眠ったら、この時間が終わる。

　終わっても、また明日ある。

　そう思えたのが、この人生に来てから初めてだった。

　目が覚めたとき、私はまだ彼の腕の中にいた。彼は座ったまま、壁にもたれて眠っていた。

　その夜、私は、成人の一臣の声を思い出さなかった。

　思い出さなかったことに、翌朝気づいて、少しだけ、寂しかった。

＊

　八月に入って、暑い夜が続いた。

　揺りかごは、母の部屋の隅に置かれていた。夜、母は私を寝かしつけた後、しばらくそこに座っていることがあった。

　その夜、母は蚊帳の中で、私の顔を覗き込んでいた。

「ルリカ」

　母が呼んだ。

　それから、母は一人で喋り始めた。

「あなたはね、このままだと、何にもなれないのよ」

　私は起きていようとした。

　この身体は、意志で起きていられない。まぶたは重くて、耳は聞いているのに、頭の芯が濁っていく。

「……家憲が、血を、ね。だから、あの人に書いてもらうの。生きているうちは駄目。あの人は、怖がりだから。……死んだときに効くようにしておけば」

　母の声が、遠くなったり近くなったりした。

「そうすれば、あなたは天導のものになる。私は、あなたの母だから」

　次に聞こえたときは、別のことを言っていた。

「……久我のお嬢さんの話が出ているの。まだ先だけれど。もし決まったら、そのあとでは、もう」

　そこで、私は眠った。

　朝、目が覚めたとき、私は自分に腹を立てていた。

　聞いた。確かに聞いた。遺言。死んだときに効く。それだけ聞いた。母がどうやってそれを実行するつもりなのかも、いつなのかも、聞けなかった。

　十八の夜に読んだ母の手紙と、同じことだ。あの手紙は、母が自分で書いた。この独白も、母が自分で言った。

　母は、指図された人ではない。

　私は、八年かけてそう思い込んで、三年以上、それを言い訳に使った。今、私は母の口から直接それを聞いている。

　聞いているのに、私は何もできない。誰にも言えない。この独白は証拠にならない。赤ん坊が聞いた寝言を、誰が調書にするだろう。

　母は、その日も私を抱いて、乳をやった。

　そのとき、母は私を「瑠璃花」と呼んだ。

　花の分まで、最後の音をはっきりと呼んだ。

＊

　八月の半ばに、宗一郎が来た。

　手に、小さな箱を持っていた。

「遅くなった。人に頼んだものだから」

　箱の中に、銀の髪飾りが入っていた。

　細い針の先に、小さな星が一つ。その隣に、丸い羅針の図が彫ってある。文字は、どこにも入っていなかった。

「まだ、髪がないな」

　宗一郎はそう言って、自分で笑った。

「いつか使う。天導は湖と海の家だから、星と、方角だ」

　母が「立派なものを」と言った。

「初代が最初に持った船が瑠璃丸だ。湖の色から取ったと言われている。今も名だけは残っている」

　彼は髪飾りを私の枕元に置いて、指で位置を直した。

　この人は、私を愛していた。

　それは、十歳の年に廊下の肖像を見上げたときには、分からなかったことだ。名前を考えて、手紙に書いて、銀の飾りを人に頼んで、遅くなったと詫びる。

　同じ人が、生きている間は私を娘と呼ばない。呼べば騒ぎになるから。家が揺れるから。だから、死んだあとに効く紙を書く。

　愛情と、臆病は、同じ人の中に並んで入る。

　私は、その両方を持った人の顔を、揺りかごから見ていた。

　この人が死ぬのは、四年後の八月十五日だ。

＊

　九月に入って、夜泣きが始まった。

　理由は分からない。腹が減っているのでも、濡れているのでもない。ただ、夜中に胸が苦しくなって、身体が泣き出す。泣き始めると、自分では止められない。

　止められないというのが、いちばん応えた。

　三日目の夜、私は泣きながら、天井を見ていた。母は隣の部屋で、動かなかった。廊下で足音がして、止まって、また遠ざかった。

　――メニュー。

　念じたのは、ほとんど反射だった。

　白い枠が、揺りかごの上に重なった。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「はじめから」の文字は、灰色になっていた。見ようとすると、短い文が出た。

　〈使用済みです〉

　当たり前だ。一度だけと書いてあった。私はそれを使った。

　「やめる」は、白いままだった。

　選んだ。文が出た。

　〈元の世界のあなたの身体へ戻ります。ここでの記憶は失われません。この世界は続き、この身体はここで生き続けます。戻った後、この入口は使えません。〉

　読みながら、私は泣き続けていた。泣いているのは身体で、読んでいるのは私だった。

　帰れる。今すぐ、この身体を降りられる。二十七歳の、自分の足で歩ける身体に戻れる。声が出る。字が書ける。冷蔵庫を開けられる。

　この四年を、全部やらずに済む。

　廊下の板が鳴った。

　襖が開いて、お絹が入ってきた。寝間着の上に羽織を引っかけて、髪が乱れていた。

「お嬢さま。どうなさいました」

　彼女は手を出して、私を抱き上げた。

　抱き上げるとき、いつものように声をかけた。

「はい、持ち上げますよ。よいしょ」

　肩に乗せられて、背中を軽く叩かれた。一定の速さで、何度も。

　泣き声が、少しずつ間遠になった。

　お絹は歩き出した。部屋の端から端まで、ゆっくり。

「お腹でもないし、濡れてもいない。じゃあ、何か嫌な夢でも見ましたかね」

　彼女は独り言のように言った。

「うちの村では、赤ん坊は前のことを忘れて生まれてくると言いますけどね。忘れきれないのが、たまに夜に出るんだそうですよ」

　私は、その肩の上で、枠を見ていた。

　確認の文は、まだ消えていなかった。

　父が助かるまで。

　そう思って、私は取り消した。

　嘘ではない。父を助けたい。伯爵も助けたい。八月十五日まで、あと四年ある。それまでは、どうしてもここにいなければならない。

　それも本当だ。

　ただ、その夜、私が枠を閉じた本当の理由は、たぶん、もう少し小さかった。

　夕方に、あの人が帰ってきて、私を抱いて、うまく抱けなくて、それでも「ルリカ」と呼ぶ。

　あれを、もう少し聞いていたかった。

　枠は消えた。

　お絹は、私が眠るまで、部屋を歩き続けた。

# 第八章　泣くほかに

　十月の午後、伯父が来た。

　私は母の膝の横に寝かされていた。生後六か月。寝返りは打てるが、まだ座れない。

　貞光は、茶も飲まずに用件を言った。

「親族会に諮ったが、駄目だ。女を後見人にはしない。家憲にそう書いてある」

「……はい」

「万一のことがあった場合の話だ。宗一郎に何かあれば、この子の名を立てることになる。そのときの後見は分家の家長、つまり私が執る。お前が執るのではない」

　母は、膝の上で指を組んでいた。

　私は目を閉じたまま、耳だけを開けていた。眠ったふりをするのは、この身体の数少ない得意技だった。

「分かっております」

　母は、そう答えた。

　抗議も、ため息もなかった。用意していた返事のように、間が短かった。

「兄さまが立ってくださるなら、それで結構です。私は母として、あの子のそばにいます」

「よろしい」

　伯父は湯呑みを持ち上げて、一口飲んで、置いた。

「藤乃。あまり急くな。今すぐ何かがあるわけではない」

「急いでなどおりません」

　二人はそのあと、天気の話をして、伯父は帰った。

　私は、目を閉じたまま、母の膝の横で考えていた。

　十二歳の冬、母は火鉢の前で言った。兄に後見を奪われた、と。誰も反対しない、と。あのときの母の横顔を、私は「負けた人の顔」だと思った。思って、この人は従わされた側なのだと決めた。

　今日、母は承知した。

　先に承知して、そのうえで進んでいる。あとで語られた被害の話は、この午後の、短い「分かっております」の上に建てられていた。

　だからといって、母が一度も傷つかなかったとは思わない。

　伯父が出ていったあと、母はしばらく動かなかった。組んだ指の、親指の爪を、もう片方の親指で押していた。押して、白くなった跡を見ていた。

　それも、私は見た。

＊

　冬になって、母が私を怖がるようになった。

　きっかけは、たぶん、私の目だった。

　この身体は、生後八か月になると、だいぶ物が見える。私は母の口を見ていた。言葉を覚えるためだ。この世界の子どもとして育つには、発音の練習がいる。舌の位置と唇の形を見ておきたかった。

　だから、母が話すと、私は母の口を見る。母が私に何か聞くと、私は目を合わせて、答えるつもりで唸る。

　赤ん坊は、そんなに長く目を合わせない。

　ある日、母が私を抱き上げて、顔の前に持ってきた。

「……あなた、何を見ているの」

　私は、母の目を見返した。

　これは失敗だった。あとで思えば、そこで視線を外して笑うべきだった。私は二十七年と八年ぶんの頭で考えていて、赤ん坊が何をするかを演じるのを忘れていた。

　母の腕が、少し固くなった。

　母は女中を呼んで、私をその腕へ渡した。

　その晩、母は私を寝かしつけながら、独り言のように言った。

「この子は、死んで生まれるはずだったのよ」

　女中が「奥さま」と言った。

「本当のことです。息をしなかった。お医者が、諦めましょうと言いかけたの。あのとき、私は、この子はもう駄目だと思った。思ったのに、泣いたの」

　母の声は、震えていなかった。震えていないから、かえって生々しかった。

「嬉しかったのよ。それは本当。でも、あのとき一度、私はこの子を諦めた」

　母は、私の頬を指の背で撫でた。

「諦めた子が、こんな目で私を見るの」

　私は、目を閉じた。

　母が私を気味悪がるのは、母の勘が正しいからだ、と考えたくなる。私は確かに別の場所から来た。母の直感は当たっている。

　けれど、それだけではない。

　この人は、三分のあいだ息をしなかった赤ん坊を見ていた。医者が手を止めかけるのを見ていた。諦めた自分を覚えている。

　その傷が、今、目の前の子の視線と結びついてしまっただけだ。

　母の恐怖が、私の正体の証明になるわけではない。

　そう思ったほうが、私には楽だった。そして、たぶん、そのほうが正しかった。

＊

　その冬、私は薬を飲まされた。

　夜、寝つきが悪い日が続いていた。母が匙を持ってきた。褐色の、とろりとしたもの。

「お薬ですよ。眠れるようになるの」

　匙が唇に触れた。甘い匂いがした。糖蜜だ。

　口に入れられて、舌の上に広がった瞬間、私は気づいた。

　甘い。甘いが、奥に苦い。舌の付け根のあたりに、金物のような苦さが残る。

　何か入っている。

　考える前に、この身体が動いた。喉が閉じて、胃が逆流して、私は吐いた。

　全部ではない。飲み込んだ分もあった。口の周りと、襟と、母の袖に、褐色のものが広がった。

「……もう」

　母は舌打ちをしかけて、やめた。

　お絹が走ってきた。

「お嬢さま、お顔を。すぐ拭きますからね」

　お絹は、まず私の口の中を指で拭って、それから襟を外した。手の動きが速いのに、乱暴ではなかった。新しい肌着を出して、私の首を支えて、着せ替えた。

「奥さま、お召し物が汚れております。あとでお預かりします」

　母は立ち上がって、部屋を出ていった。

　お絹は私を膝に乗せて、背中をさすった。

「びっくりしましたねえ。苦かったんでしょうかね」

　彼女は、器の残りを匂いで嗅いだ。嗅いで、首をかしげた。それ以上のことはしなかった。この人は医者ではないし、奥さまの薬に口を出す立場でもない。

　私は、膝の上で、まぶたが落ちていくのを感じていた。

　全部は吐けなかった。飲んだ分が、効いてきている。頭の後ろが重くなって、手足が遠くなる。

　あの薬も、こんな苦さだったのだろうか。

　十四歳の冬に見つけた帳面には、蘆田医院の名が並んでいた。四歳の八月、この身体は糖蜜に混ぜた薬を飲まされ、舟屋で眠っていたと、お絹は話した。同じ薬かは、味だけでは分からない。

　吐けば助かる、と思いかけて、私はその考えを押し戻した。

　今、私は吐いた。吐いたのに眠い。次は、もっと上手に飲まされるかもしれない。眠ったあとの身体は、誰にでも運べる。

　吐く練習をしても足りない。

　飲まされる前に、誰かに止めてもらわなければならない。

　沈んでいく頭の隅で、私はそれを、一つの文として覚えた。

「……うちの村ではね」

　お絹の声が、遠くで言った。

「前に言いましたけど、赤ん坊は、前のことを忘れて生まれてくるんですって。そうしないと、生きるのが辛いから。だから泣くんだと。忘れる痛さで泣くんだと、婆さまが」

　私は、その話を聞きながら眠った。

　村の言い伝えだ。それ以上でも以下でもない。

　それでも、その夜のことは、ずっと覚えていた。

＊

　一歳になった春、恭介が積み木を買ってきた。

　六つ。四角が四つ、三角が二つ。角が丸く削ってあって、色は塗っていない。

「玩具屋で、いちばん地味なのを選んだ。塗りのは、舐めるといかんと言われてな」

　彼は畳に座って、四角を三つ積んだ。

　私は、それを見ていた。

　この身体は、一歳になったばかりだ。座れる。両手で物を持てる。積むのは、まだ難しい。

　私は積みたかった。

　理由は、二つあった。一つは、単純に、積みたかったからだ。もう一つは――この人に、うちの子はよくできると思ってほしかった。

　四角を持って、一つ目の上に乗せようとした。

　乗らない。角がずれる。手を離すのが早すぎる。指が、置いた後もまだ触っている。

　三度目で、崩れた。

　私は、泣いた。

　泣きたくなかった。泣く場面ではない。一歳の子が積み木を崩したというだけだ。分かっているのに、涙腺は私の言うことを聞かない。

「おう、おう」

　恭介が私を抱き上げた。

「崩れたか。崩れたな」

　彼は、私を膝に乗せたまま、崩れた積み木を集めた。

　そして、また三つ積んだ。

「父さんは、崩れる音が好きだぞ」

　彼は言った。

「船を組むとな、ぜんぶきっちり合っていないといかん。合わないと、やり直しだ。やり直しは、腹が立つ。だが、これは玩具だからな。崩れる音がいい」

　彼は、積んだ三つを、指で倒した。

　かん、と乾いた音がした。

　私は、泣きやんだ。

　彼がもう一度積んだ。私は、手を伸ばして、倒した。

　かん。

　その音が、おかしかった。

　私は笑った。一歳の身体は、笑うと止まらない。息が続かなくなるまで笑って、彼の膝の上でひっくり返った。

「よし、もう一回だ」

　その日、私たちは、積んでは倒すのを二十回くらいやった。

　一度も、ちゃんと積み上げなかった。

　彼は、私が上手にできたから抱いたのではなかった。上手にできなかったから慰めたのでもなかった。ただ、崩れる音が好きな人が、崩す係の子と遊んでいた。

　夕飯のとき、彼は母に言った。

「ルリカは、倒すのが上手い」

　母は、「そうですか」と言った。

＊

　夏に、伯父の家の子どもが来た。

　七歳の一臣だった。母の兄の子だから、私には従兄になる。

　母親に連れられて、挨拶に来たらしい。座敷に座らされて、退屈そうにしていた。膝の上で手を組んで、足を動かしていた。

　私は畳の上で、積み木を並べていた。

　一臣は、しばらく我慢していた。それから、母親が大人の話に入ったのを見計らって、そっと私のところへ寄ってきた。

「それ、貸して」

　一歳半前の子に許可を求める七歳だった。

　彼は四角を二つ取って、器用に積んだ。

「ぼく、これ知ってる。うちにもある」

　彼は自分で積んで、自分で崩さずに、次を乗せた。四つ目で崩れた。崩れたら、悔しそうに口を曲げた。

　その口の曲げ方を、私は知っていた。

　二十二歳の彼が、帳簿の転記の間違いを見つけたときにする顔だ。あれが、今、七歳の顔でここにある。

　胸が、痛んだ。

　この子は、あと十五年たてば、私の前で予定表を閉じる。

　――いや。

　私が覚えている未来を、この子がまた生きるとは限らない。十八歳の夜に「はじめから」を選んで、私はここへ来た。あの八年を覚えているのは私で、この子ではない。

　この子の中には、私との時間は一秒もない。

「おとうさんがね」

　一臣が言った。

「きのう、ぼくの絵をほめた。船の絵。えんとつの数があってるって」

　彼は、得意そうだった。

　私は、彼の顔を見ていた。

　この子は、貞光の息子だ。三年後、湖で父が何を企てるかを、まだ知らない。今は、煙突の数を褒められて嬉しい七歳だ。

　教え込みたい、という気持ちが、少し湧いた。

　好きだった本の名前を覚えさせる。頁を戻す癖をつけさせる。いつか「分からないところは、分からないと言ってください」と言うように育てる。

　私は、その気持ちを、自分の中で押さえた。

　あの人は、あの八年を生きて、あの言葉を自分で言った。この子は、この子の十五年を生きる。

　私の恋を、この子に請求してはいけない。

「もういい。外いってくる」

　一臣は積み木を置いて、立ち上がった。

「庭に、池ある？」

　女中が、ありますよ、と答えた。彼は走っていった。

　私は、残された積み木を、両手で倒した。

　かん、と音がした。

＊

　一歳半の秋、私は自分の手に驚いた。

　夕方だった。玄関で音がして、板の間を歩く音が近づいてきた。

　恭介の足音だ。この人は、右足を先に強く置く癖がある。

　襖が開いた。

　私の左手が、伸びていた。

　自分で伸ばしたのではない。伸ばそうと思う前に、もう伸びていた。指が開いて、彼のほうへ向いていた。

　私は、右手でその左手を押さえた。

　反射だった。八年、私は右で書き、右で箸を持ち、右で筆を持った。母が井澤先生に嘘をついてまで隠した左を、私はまた使おうとしている。

　押さえた瞬間、この身体が泣いた。

　大きな声だった。手を押さえられたことに抗議する泣き方だった。私が泣かせたのだ。

「どうした」

　恭介が上がってきて、私の前に膝をついた。

　彼は、私の両手を見た。右手が左手首を握っている。

「なんだ、自分で自分を捕まえたのか」

　彼は笑って、私の両手を、自分の手で包んだ。

「どっちでもいいぞ」

　彼は言った。

「届く方でいい。父さんは、どっちの手でも掴まえてやる」

　彼は左手をそっと外して、自分の襟のところへ導いた。

　左手が、襟を掴んだ。

　掴んだとき、この身体の呼吸が、少し落ち着いた。

　私は、揺りかごの脇に置いてある銀の髪飾りのことを思った。星と羅針の、文字のない飾り。あれを見ると、この身体は左手を動かす。

　それから、十歳の朝の石盤を思った。あの石筆は、左側にあった。

　この子がいる、という証明ではない。

　左利きの身体が、左を使おうとする。それだけかもしれない。それだけかもしれないことを、私は毎回、それだけかもしれないと自分に言った。

　その夜、恭介が寝室を出ていこうとしたとき、私は声を出した。

「……とう」

　彼が、止まった。

　振り返って、しゃがんで、私の顔を覗き込んだ。

「もう一回」

「とう」

　彼は、しばらく黙っていた。

　それから、廊下に向かって大声で言った。

「お絹！　ルリカが、父を呼んだ！」

　お絹が走ってきて、「まあ」と言った。母も来た。母は戸口で立ち止まって、何も言わずに私を見ていた。

　その夜、恭介は寝るまで私のそばにいた。

　私が「とう」と言うたびに、返事をした。八回か、九回、返事をした。

# 第九章　名前のついた包み

　二歳の春に、侍医が来た。

　蘆田先生は、髪を後ろへ撫でつけた、細い目の人だった。往診の鞄が大きくて、開けると中が几帳面に仕切られていた。

　その日は、私の身体を一通り診て、それから血を採るという。

「近ごろ、血の型を調べておくのが流行りでしてね。お怪我のときに役に立ちます」

　先生の後ろに、小さい男の子が立っていた。七歳。膝までの半ズボンで、鞄を持たされている。

「息子です。学校が休みなので、連れてまいりました」

「蘆田慎です」

　男の子は、頭を下げた。

　それから、私のほうを見て、少し困った顔をした。二歳の子に何を言えばいいのか、分からないという顔だった。

　針が出てきたとき、私は本気で嫌だった。

　中身が三十を過ぎていようと、この身体は二歳だ。腕を押さえられて、冷たい綿で拭かれて、光るものが近づいてくる。身体が勝手に暴れた。

「ルリカ。父さんの手だ」

　恭介が横に座って、私の反対の手を握った。

　握り返した。彼の手は硬くて、私の手が全部入ってしまう。

　針が入るとき、私は泣いた。彼は手を離さなかった。離さないで、「痛いな。痛いぞ」と言った。痛くないと言わないのが、この人だった。

　慎少年が、綿を渡す係をしていた。渡すとき、彼は私と目が合って、それから、ぱっと目をそらして、また少し見た。

　結果が出たのは、その数日後だった。

「お嬢さまはAB型です」

　蘆田先生が言った。

「ご参考までに、旦那さまは先年お調べになっていますな。O型でいらっしゃる」

　座敷が、一瞬止まった。

　私は、その意味をすぐに分かった。大人の私には、それは学校で習ったことだった。

　恭介も、分かったようだった。技師の頭は、数字の合わない箇所を見つける頭だ。

「……先生」

「ええ。ええ。血の型には、いろいろございます。まれに例外もございますし、検査の間違いということも」

　先生は、言葉を重ねた。重ねるほど、部屋が重くなった。

　母が、湯呑みを持ったまま言った。

「先生、この子は熱を出しやすいでしょうか。そちらのほうが心配ですわ」

　話が変わった。上手に変わった。

　恭介は、何も言わなかった。

　彼は膝の上で、自分の手を見ていた。さっきまで私の手を握っていた手だった。

　その日から何かを調べ始めていたと、ずっと後で彼の話から分かった。そのときの私には見えなかった。彼は家で本を読まない人だから、何かを調べていても分からない。

　私は、それを追いかけなかった。

　二歳の子にできることは、何もなかったからだ。

＊

　二歳の秋、私は失敗をした。

　母は、あれから揺りかごのそばで独り言を言わなくなった。それでも、ときどき、私を寝かしつけながら、短く何か呟くことがあった。

　その夜、母は言った。

「本家にね、あなたを。……そうすれば、ルリカ」

　私は眠ったふりをしていた。

　朝になって、私は口の中でその音を繰り返していた。二歳の舌は言葉を落とす。落とすから、練習する。それはこの身体で暮らすための、毎日の作業だった。

　庭で、お絹が洗濯物を干していた。私はその足元に座って、砂を触りながら、言った。

「るりか、ほんけ」

　お絹が笑った。

「あら、上手。おうちの名前ですね」

　私は、もう一度言った。

「るりか、ほんけ、なる」

　背後で、音がした。

　母が縁側に立っていた。

　顔が、白かった。

「――誰に聞いたの」

　私は、母を見上げた。

　二歳の子に戻らなければ、と思った。思ったのに、身体が動かなかった。

「誰に聞いたのと聞いているのよ」

「ルリカ」

　お絹が慌てて割って入った。

「奥さま、この子はこのごろ、聞いた言葉をそのまま真似するのでございます。この前も、魚屋の声色を」

　母は、お絹を見なかった。私だけを見ていた。

　長い数秒だった。

　やがて、母は縁側から下りて、私を抱き上げた。抱き方は、いつもと同じだった。

「そうね。真似ね」

　母は、そう言った。

　その日から、母は、私のいるところで何も言わなくなった。

　寝かしつけの独り言も、女中への指図も、短くなった。手紙を書くときは、必ず私を別の部屋へやった。

　情報が、減った。

　私は、自分の口一つで、耳を閉じてしまった。

　成人の頭があっても、聞こえないものは聞こえない。それを、私は二歳の秋に学んだ。

＊

　三歳の春、お絹が私の包みに、字を書いた。

　外へ出るとき、着替えと手拭いを入れる小さな風呂敷がある。うちには子どもの持ち物が少ないので、女中のものと混ざる。だから名前を書く。

　お絹は、縁側に座って、墨と筆を出した。

「お嬢さま、ここに、お名前を書きますよ」

　筆が動いた。

　瑠璃花。

　三字。しっかりした、丸い字だった。

　私は、その字を見ていた。

　十八の夜、白い欄の末尾に、一字を足した。ずいぶん軽い気持ちで足した。呼びやすいから、と自分に言った。

　その一字が、今、女中の手で、木綿の布に書かれている。

「乾くまで、触ってはいけませんよ」

　お絹は布を広げて、日の当たるところへ置いた。

　私は、その横に座った。

　乾くのを待った。風が吹くと墨の縁が少し濃くなる。日が雲に入ると、乾く速さが落ちる。私は本当に、ただ、それを見ていた。

　三十分くらい、そうしていたと思う。

　玄関で音がした。

「ルリカ！」

　恭介が、休みの日だというのに、外から帰ってきた。手に包みを持っている。

「買ってきた」

　中から出てきたのは、赤い靴だった。

　革の、小さな、紐で結ぶ靴。ただし、大きい。明らかに大きい。

「……旦那さま、これは」

　お絹が覗き込んだ。

「大きいでしょうか」

「三つ分ほど」

「店の者が、子どもはすぐ大きくなると言うのでな。長く履けるほうがよかろうと」

　彼は真面目な顔で言った。

　私は、履きたかった。

　足を出した。彼が紐を結んだ。結んで、立たせた。

　一歩で脱げた。

　かかとが抜けて、靴だけが後ろに残った。私は片足で立って、よろけて、座り込んだ。

「おお」

　彼は靴を拾って、また履かせた。

　二歩で脱げた。

　彼が拾った。私が履いた。三歩。脱げた。

　四回目で、お絹が「紐をこう、上のほうで」と言って、結び方を変えた。

　五歩、歩けた。

　私は縁側の端まで歩いて、振り返って、また戻った。戻る途中で脱げた。

　彼は笑っていた。声を出して笑って、拾って、また結んだ。

　私も笑っていた。

　三歳の身体は、笑いながら歩くと転ぶ。転んで、また笑った。

　日が傾いて、お絹が「そろそろ」と言った。布の墨は、もうすっかり乾いていた。

　私は、その布を両手で持った。

　瑠璃花。

　この名前で、この家の子として、外へ出かける。

　この家で、この名前で、暮らしたい。

　思っただけではない。私はその日、脱げる靴を、脱げるたびに履き直した。何度でも履き直した。それが、そのときの私にできる、いちばん正直な言い方だった。

＊

　三歳の夏、私は父に物を運ぶ子になった。

　始まりは新聞だった。朝、玄関に新聞が来る。私はそれを両手で抱えて、食卓の父のところへ持っていく。

「おお、ありがとう」

　これを二日やったら、父は毎朝、私が持ってくるのを待つようになった。

　次は、彼の眼鏡。彼が置き忘れた手拭い。庭に落ちていた釘。犬の形の玩具。私は何でも運んだ。

「ルリカは、運び屋だな」

　彼はそう言って、運んできたものを必ず受け取った。玩具でも、釘でも、いったん受け取って、「これは、ここに置こう」と言った。

　一か月のあいだに、家じゅうの人が、私が物を運ぶのを見慣れた。

　それが、目的だった。

　母の部屋には、文箱がある。黒い漆の、蓋に螺鈿の入ったもの。その中に、母が取ってある手紙の束がある。

　束の封には、いろいろな印がある。会社のもの。親族のもの。

　その中に、星と羅針の押してある封がある。宗一郎の印だ。私の枕元の髪飾りと、同じ図柄だ。だから、読まなくても分かる。

　私は、字が読める。

　読めるが、細かい字を長く読む時間がない。三歳の身体は、じっとしていると人が心配して探しに来る。母が庭で植木屋や来客と話す時間は、だいたい十五分から二十分。その間に、部屋へ入って、椅子を運んで、上って、蓋を開けて、束を出して、選んで、下りて、椅子を戻して、廊下へ出る。

　椅子は、お絹が縁側で使う低い踏み台がちょうどよかった。それを部屋の隅から動かす練習を、私は何度もした。三歳の腕には重い。引きずると音がする。抱えると前が見えない。押すのがいちばん静かだと分かるまで、十日かかった。

　束を触ったのは、七月の終わりだった。

　いちばん下が、いちばん古い。私はそう見当をつけた。実際、いちばん下の一通は、紙が黄ばんでいた。

　私はそれを抜いて、袂に入れた。

　入れて、その日は運ばなかった。誰も見ていないうちに元の束の下へ戻した。

　運ぶ日を、私はずっと決められなかった。

＊

　秋になって、私はそれを運んだ。

　きっかけは、何でもない。その日、父が早く帰ってきて、縁側で靴の泥を落としていたからだ。背中が丸くて、機嫌がよさそうだった。

　その日の午後、私はもう一度、母の文箱からあの一通を抜いていた。袂から紙を出して、両手で持って、彼の膝に置いた。

「はい」

　彼は、いつものように受け取った。

「なんだ、これは。……手紙か」

　封を見て、彼の指が止まった。

　星と羅針。

「ルリカ。これはどこから」

　私は、答えなかった。答えられることがなかった。

　彼は、少し迷ってから、紙を開いた。

　私は、彼の膝に手をついて、横から覗き込んだ。三歳の背では、膝に乗らないと見えない。私は乗った。彼は下ろさなかった。

　紙は短かった。

　――お身体を大事に。名は考えている。女の子なら、瑠璃花と。

　日付は、二月。私が生まれる、二か月前。

　私は、その一行を見ていた。

　瑠璃花。

　十八の夜に足した一字が、私が生まれる前の紙の上にある。

　私は、目を上げなかった。父の顔を見たら、たぶん泣くと思った。だから紙の日付だけを見ていた。二月。二か月前。まだ生まれていない。まだ何も起きていない。

　あの欄で「はじめる」を見た瞬間に、この紙の上の一字も決まったのだ。

　実物で確かめたのは、これが初めてだった。

　父の手が、震えていた。

　彼は、紙を膝に置いた。

　彼が読んだのは、名前ではない。名前ではなかった。

　――妻が身重のときに、当主が名前を考えて、手紙で知らせている。

　彼は、その文の意味を読んだ。血の型の話を聞いた日から、たぶん半年以上、彼の中にあったものが、その紙で形になった。

　彼は、片手で顔を覆った。

　指の間から、息の音がした。

　私は、彼の膝の上で、動けなかった。

＊

　その夜、父は家を出た。

　鞄に、その手紙と、蘆田医院からもらった紙を入れて、「明日戻る」とだけ言った。母は玄関に出てこなかった。

　私は、戸口に座っていた。

　お絹が「お風邪を召します」と言って、何度も中へ入れようとした。私は動かなかった。

　自分が何をしたのかを、私は数えていた。

　来年の夏に父を追い出させないために、証拠を父の手に渡した。父は自分で確かめに行った。それは、正しい。

　正しいかもしれないが、私はこの人の何を壊したのか。

　この人は、私が自分の子ではないと知って、それでも私を抱くだろうか。

　抱かないかもしれない。

　抱かなくても、私は責められない。私は、この人に、抱く理由がないことを自分で渡した。

　十歳のとき、私は「お父さまは私を捨てた」と思っていた。捨てられるのが、私はいちばん怖いのだ。それを、自分から用意した。

　その夜は眠れなかった。

　翌日の夕方、玄関で音がした。

　右足を先に強く置く足音だった。

　私は戸口から立ち上がって、走った。走って、途中で転んだ。

　彼は、鞄を置いて、しゃがんだ。

「ルリカ」

　彼の顔は、疲れていた。髭が伸びていた。

「先生のところへ行ってきた。それから、宗一郎さまのところへも行った」

　彼は、私の顔を見た。

「聞いてきた。聞いて、分かった」

　私は、何も言えなかった。

　彼は、私の頭の後ろへ手を回した。首を支えるときと同じ手つきだった。

「あのな、ルリカ」

　彼は言った。

「紙に何が書いてあっても、父さんはお前を抱いた。名前を呼んだ。積み木を倒した。靴を買った」

　彼の手に、力が入った。

「だから、父さんは、お前の父でいたい」

　彼は、そう言った。

　誰かに言われたのではない。誰かが決めたのでもない。この人が、自分で選んだ。

　私は、彼の首に腕を回した。左手が先に動いた。今度は、押さえなかった。

「……とうさま」

　初めてそう呼んだ。

「おう」

「とうさま、こんや、そばにいて」

　三歳の舌でやっと言えた。

　彼は、私を抱いたまま立ち上がった。

「いるよ」

　その夜、彼は私の布団の横に座って、朝まで動かなかった。

　私は途中で目を覚まして、彼がまだいるのを見て、また眠った。二度、そうした。

　二度とも、彼は同じところにいた。

# 第十章　あなたはどこから

　三歳の冬に、本家から知らせが来た。

　宗一郎が、久我子爵家の静子さんと婚約した。式は来年の十月。

　その知らせを、母は食卓で読み上げた。読み上げる声が、平らすぎた。

「おめでたいことですね」

　母はそう言って、紙を畳んだ。

　父は「そうか」と言っただけだった。この頃、父と母は必要なこと以外を話さなくなっていた。秋のあの夜からだ。二人は同じ食卓につき、同じ茶を飲み、同じ子どもを見て、会話をしない。

　私は、湯呑みを両手で持ちながら、頭の中で線を引いていた。

　来年の十月。

　宗一郎が結婚すれば、そのうち子が生まれる。生まれれば、本家に血のある跡取りができる。そうなれば、遺言で認知された娘には、もう何の値打ちもない。

　母の計画に、期限がついた。

　その期限の手前に、八月がある。

　年が明けて、正月に本家へ挨拶に行ったとき、私はその人に会った。

　久我静子。二十三歳。背が高くて、髪を洋風に結っていた。

　座敷は人が多くて、私は大人の脚の間を歩き回っていた。歩いているうちに、手袋の片方を落とした。私の小さい、白い手袋だ。

　拾ってくれたのが、その人だった。

「はい。落としましたよ」

　彼女はしゃがんで、手袋の指を伸ばしてから、私に渡した。

「お名前は？」

「……るりか」

「るりかさん」

　彼女は、少し笑った。笑い方が、丁寧だった。

「わたくしは静子といいます。よろしくね」

　それだけだった。

　彼女は立ち上がって、大人のほうへ戻っていった。

　私は手袋を握って、その背中を見ていた。

　この人は、何も知らない。今年の十月に結婚する予定で、今日はここへ挨拶に来ていて、知らない子の手袋を拾った。それだけの人だ。

　この人にも、来年があり、その先がある。

　私は、そのことを、ちゃんと思った。

　そして、同時に、八月のことを考えていた。

　四歳の八月。あと七か月。

＊

　四歳の春、私は父に話した。

　いつ話すかを、私は冬のあいだずっと考えていた。早すぎれば忘れられる。遅すぎれば間に合わない。

　四月の終わり、誕生日が済んで、庭の躑躅が咲いた頃、私は父の膝に上った。

　父は縁側で、煙草を吸っていた。

「とうさま」

「なんだ」

「はちがつ、いかないで」

　彼が、こちらを見た。

「八月？」

「みずうみ。ほしみそう。いかないで」

　私は、四歳の舌で言える範囲のことを、順番に並べた。

「さんばしが、こわい。おかあさまの、おくすり。とうさまが、いなくなる」

　父は煙草を灰皿に置いた。

　それから、私を膝に乗せ直して、正面から見た。

「ルリカ。ゆっくりでいい。何を見た」

　――何を見た。

　この人は、そう聞いた。なぜ怖いのか、ではなく、何を見たのか。

　私は、話すことを二つに分けた。

　一つ目。

「おくすり、きた。おとこのひとが、もってきた。げんかんで。おかあさまが、うけとった」

　私は指を一本立てた。

　今月、蘆田医院の使いが薬を届けに来たのを、私は一度見ていた。その一回を覚えていた。これは、私が自分の目で見たことだ。

「おかあさま、ねるおくすりだって、いってた。わたしも、まえに、にがいの、のんだ。はいた」

　父の眉が動いた。

　二つ目。

「それから、ゆめ」

　私は言った。

「ゆめで、みずうみのはちがつ。とうさまに、でんぽうがくる。うそのでんぽう。とうさまがいっちゃう。それで、おじさまが、しぬ」

　言いながら、自分が何をしているか分かっていた。

　私は、これから起きることを知っている。知っているが、それを「知っている」と言えば、この人はそれを確かめられない。確かめられないものは、対策の根拠にならない。

　だから、夢だと言った。夢なら、この人は「では調べよう」と言える。

「……夢か」

「うん。こわいゆめ。なんかいも、みた」

　父は、長く黙っていた。

　煙草の煙が、まっすぐ上がって、途中で崩れた。

「ルリカ」

「うん」

「薬が来たのは、お前が見たんだな」

「みた」

「夢は、夢だ。だが、お前が赤ん坊のころに苦い薬を吐いたのは、父さんも覚えている」

　彼は、私の背中に手を置いた。

「八月のことは、父さんが考える。行くか行かないかも、父さんが決める。お前は、怖かったら、その都度言え」

「うん」

「それから、一つ約束だ。母さんから何かをもらって飲むときは、必ず、父さんかお絹が見ているところで飲め」

　私は、うなずいた。

　彼は、それ以上、私を問い詰めなかった。

　なぜ夢でそんなことを見るのか、とは聞かなかった。

　この人は、聞かないことを選べる人だった。

＊

　五月の終わりに、母が私を呼んだ。

　母の部屋は、いつもより片づいていた。文机の上に何も出ていなかった。

「お座りなさい」

　私は座った。

　母は、しばらく私を見ていた。

　それから、指を折るようにして、数え始めた。

「あなたは、一つ半で父を呼んだ。二つで、私が夜に言ったことを庭で繰り返した。三つで、私の文箱の手紙を、あの人のところへ運んだ」

　私は、膝を握った。

「あなたは、人が咳をすると、水を持ってくる。お絹が指を切った日、あなたは先に布を持ってきた。四つの子どもが、大人の具合を先に気にするの」

　母は、少し前に身体を傾けた。

「本家になると、あなたは言った。まだ教えてもいないことを、どこで覚えたの」

　部屋の空気が、動かなかった。

「瑠璃花」

　母が、私の名前を呼んだ。

「私の娘の中にいるあなたは、どこから来たの」

　私は、答えられなかった。

　答えを、いくつも持っていた。別の世界から。あちらで大人になるまで生きて。あなたの娘が十歳で人生を手放しかけたところへ入って。八年生きて、出生まで巻き戻して。

　どれも、この人に言えば、この人の中で何かに変わる。私はそれがどう変わるかを知らなかった。

「……わかんない」

　私は言った。

　それは、嘘でもなかった。私は、自分がなぜここへ来たのか、本当のところは知らない。

「わかんない。おかあさま、わかんない」

　私は立ち上がって、部屋を出た。

　出るとき、走らないように気をつけた。四歳が走って逃げるのは、自然すぎて、かえって印象に残る。

　廊下の角を曲がってから、私は走った。

　母は、追ってこなかった。

　それから、母は私に優しかった。前より優しいくらいだった。髪を梳いてくれ、おやつを増やし、寝る前に手を握った。

　握った手が、少し長かった。

＊

　六月の夜、私は一人で、それを呼んだ。

　布団の中で、灯りを消して、天井に白い枠を出した。

　　つづきから
　　はじめから（使用済みです）
　　やめる

　「やめる」を見た。文が出る。何度も読んだ文だ。

　〈元の世界のあなたの身体へ戻ります。ここでの記憶は失われません。この世界は続き、この身体はここで生き続けます。戻った後、この入口は使えません。〉

　この世界は続き、この身体はここで生き続けます。

　私は、その一文を、長く見ていた。

　私が帰れば、この身体は生き続ける。生きて、八月には母の計画の中にいる。四歳のまま、何も知らないまま。あの夜と同じなら、薬を飲まされ、舟屋へ運ばれ、宗一郎が湖へ出て、死ぬ。父はまた責任を負わされ、この家から去る。

　今返すのは、返すことにならない。

　それは、はっきりしていた。

　問題は、もう一つのほうだ。

　私は、布団の中で手を伸ばして、枕元の箱から銀の髪飾りを出した。星と羅針。文字はない。

　それを、左手に持たせた。

　左手の指が、閉じた。

　握った。強く握った。私は「握れ」と思っていない。

　私は、その手を見ていた。

　十歳の朝、石筆は左にあった。「パパは帰ってくる」と書いた手も、左だ。

　生まれたとき、この身体は三分、息をしなかった。

　夜泣きの夜に、私が帰ろうとすると、この身体は泣いた。父の足音がすると、私の意図より先に手が伸びる。

　――ここに、あの子がいるのかもしれない。

　そう思った。

　思ったが、確かめる方法はなかった。枠に聞いても、何も答えない。この画面は、名前も、魂も、誰の気持ちも表示しない。帰る先と、記憶と、世界の継続と身体の生存だけを、毎回同じ文で言う。

　私が眠っているあいだ、この身体は呼吸している。私が指示していないのに、心臓が動いている。手が動く。泣く。

　私がいなくなっても、この身体は生き続ける。そこまでは、画面に書かれている。

　そのことを、私はその夜、自分の中に置いた。

　置いたが、だからといって、今帰っていいことにはならない。相手が何を思っているのかは、私には分からないままだ。そのうえ、今はまだ八月の危険が残っている。

　まず、目の前の危険を止める。

　それだけが、今できることだった。

　私は枠を閉じて、髪飾りを左手から外して、箱へ戻した。

　外すとき、指が少し抵抗した。

＊

　七月の半ばに、四度目が来た。

　薬の使いが玄関に立ったとき、私は父の膝の上にいた。休みの日だった。お絹が茶を運んでくるところだった。

「蘆田医院から、お届けものです」

　母が出てきて、受け取った。

　父が立ち上がった。

「見せてもらっていいか」

　母の手が止まった。

「……なぜ」

「なぜでも」

　父は、包みを開けさせた。中には、褐色の瓶が一本と、紙が一枚。

「不眠の薬だな」

「私が眠れないのです。ご存じでしょう」

　母は、そう言った。

「ええ。知っています」

　父は、それ以上何も言わずに、包みを母へ返した。

　お絹は、茶を持ったまま、廊下に立っていた。

　その夜、父は手帳に何か書いていた。

　私は、その横に座って、数えていた。

　四月に一度、五月に一度、六月に一度、七月に一度。四度だ。

　十八の夜に読んだ帳面は、四月に一度、五月に一度、六月に二度、七月に二度。六度だった。

　違う。

　私は、その違いに、少しのあいだ、動けなかった。

　五月と六月にも、一度ずつ使いが来ていた。今のところ、私が見た数も、四度だ。七月はまだ半ばだから、あとで増えるのかもしれない。父に話したことが何かを変えたのか、それも分からない。

　あの帳面の数を待っていてはいけない。

　私の知っていることが、そのままの形で起きるとは限らない。

　翌日、父は仕事を半日で切り上げて、蘆田医院へ行った。

　夜、帰ってきてから、彼はお絹に言った。

「先生の記録を見せてもらった。四月から今月まで、四度。うちへの処方だ」

「四度でございますね」

「量が、だんだん増えている。一度の量は多くない。だが、増え方が普通ではないと、私には見える。もっとも、私は医者ではない」

　彼は、指で机を叩いた。

「誰がどれだけ飲んでいるのかは、紙では分からん。妻が飲んでいるのかもしれん。飲んでいないのかもしれん」

　彼は、そこで言葉を切った。

　分からないことを、分からないと言う人だった。

　その夜、父は机に向かって、手紙を書いた。

　宛先は、碧湖の別荘番、小野弥吉。

　――八月に一家で参ります。ついては、桟橋と舟屋、階段の板を、もう一度見ておいていただきたい。傷んでいるところがあれば、直すか、使わないようにしてください。それから、私の娘は四つになりました。水のそばを一人で歩かせないよう、お願いします。

　彼は書き終えて、封をした。

　封をする前に、一度、私のほうを見た。

「ルリカ。八月は、行くことにした」

　私は、父を見た。

「行かないという手もある。だが、行かないと決めると、次の年も、その次も、行かないことになる。それに、あそこは、宗一郎さまの家だ」

　彼は封を閉じた。

「行って、気をつける。そのほうが、父さんにはやれる」

＊

　八月に入る前に、私はお絹に頼んだ。

　台所の隅で、豆をむいているときだった。私はその横にしゃがんで、豆の皮を触っていた。

「おきぬ」

「はい」

「とうろうのひ」

「灯籠の日ですね。湖の」

「そのひ、おかあさまが、だいどころにいけっていっても、いかないで」

　お絹の手が、止まった。

「わたしの、そばにいて」

　彼女は、私の顔を見た。

「お嬢さま。それは、難しゅうございます」

　彼女は、正直に言った。

「私は奉公人でございます。奥さまに行けと言われたら、行かなければなりません。行かないと言えるのは、旦那さまに言われたときだけでございます」

　私は、うつむいた。

　そうだ。この人は、そういう立場だ。あの人生では、来年この人は暇を出されて、口止めをされて、訴えて退けられる。

　お絹は、豆を置いた。

「お嬢さま」

「ん」

「なぜ、そうお思いになるのですか」

　私は、言葉を探した。

「……まえに、にがいの、のんだ。ねむくなった。ねむいと、なんにもできない」

　お絹は、しばらく黙っていた。

　その夜、彼女は父のところへ行った。

　私は襖の外で聞いていた。聞くつもりはなかったが、結果として聞いた。

「旦那さま。差し出がましいことを申します」

　お絹は、赤ん坊の冬に私が吐いたこと、薬の届く回数が増えていること、私が灯籠の日を怖がっていることを、順番に話した。

「私は、奥さまの薬のことを、どうこう言える者ではございません。ただ、お嬢さまがあまりに」

「お絹」

　父の声がした。

「頼みがある」

「はい」

「湖にいるあいだ、ルリカのそばを離れないでくれ。誰に何を言われても、だ。台所へ行けと言われたら、私が命じたと言え」

「……奥さまが、お連れになろうとしたら」

「渡すな」

　父の声は、静かだった。

「薬を持ってきた者がいたら、飲ませる前に止めて、私を呼べ。私がいなければ、宗一郎さまを呼べ。それでも駄目なら、大声で人を集めろ」

　お絹は、少し黙った。

「……そのようにいたします。旦那さまのお言いつけとして」

「責任は私が持つ。何かあったら、私が悪い」

　襖が開く音がして、私は慌てて廊下の柱の陰に入った。

　お絹が出てきて、私を見つけて、目を丸くした。

　それから、何も言わずに、私の頭に手を置いた。

　その夜、父は私の足に、赤い靴を履かせた。

「見ろ」

　脱げなかった。

　立って、歩いて、縁側の端まで行って、戻ってきた。一度も脱げなかった。

「合ったな」

　父は、それだけを喜んだ。

　八月のことも、薬のことも、その夜はもう言わなかった。

# 第十一章　湖の子どもたち

　八月十三日の昼過ぎに、碧湖に着いた。

　汽車を降りて、迎えの車で山道を上がると、木の間から急に水が見えた。

　青かった。青の下に、もっと濃い青があった。空の色を映しているのではなくて、水そのものが色を持っているように見えた。

　――瑠璃。

　この色から取った名前だ、と宗一郎が言っていた。

　星見荘は、湖に張り出すように建っていた。木の二階建てで、白い窓枠が並んでいる。庭から石段が下りて、その先に桟橋がある。

　桟橋は、思ったより長かった。

　板が、陸から水の上へ、まっすぐに三十歩ほど伸びている。先のほうに手すりがあって、そこから水が深くなる。両側に柱が立っていて、水に脚を沈めている。

　私は、車から降りた瞬間から、そこを見ていた。

　玄関の前に、紙の束と竹ひごが山になっていた。

　伯父が、その前にしゃがんでいた。

「貞光さま。早いお着きで」

　父が言った。

「昨日から来ている。灯籠の数が足りん。宿の分も合わせて仕分けている」

　伯父は、紙を数えていた。指が速い。同じ形のものを扱い慣れた手だった。

　私は、その手を見ていた。

　この人が、桟橋の柱に細工をさせたのだろう。

　――そう、私は考えている。

　考えているが、この手が鋸を握ったところを、私は見ていない。誰も見ていない。十八の夜も、誰もそれを言えなかった。小野の書き付けは「傷があった」と書いてあるだけで、誰がやったとは書いていない。

　私は、その区別を、頭の中で二度なぞった。

　石段の下から、日に焼けた男が上がってきた。

「旦那さま。お着きで」

「小野さん。手紙は届きましたか」

「いただきました。桟橋も舟屋も、階段も、見ました」

　小野弥吉は、三十八だという。腕が太くて、手の甲に古い傷があった。

「舟屋の階段は、二段目が緩んでおりましたので、打ち直しました。桟橋は、十二日の朝に端から端まで見ましたが、板も柱も傷んではおりません」

「十二日ですか」

「はい。旦那さまのお手紙が十日に着きましたので、翌々日に」

　父はうなずいた。

「それから、お嬢さまのことも承っております。水のそばには、一人でお出しになりませんように」

　彼は、私のほうを見て、少し腰をかがめた。

「お嬢さま。舟に乗るときは、この小野に言ってください。勝手に乗ってはいけません」

　私は、うなずいた。

　この人は、手紙を読んだ。読んで、点検した。

　この人が今日知っているのは、それだけだ。八月十五日の夜に何が起きるのかも、あの人生では来年暇を出され、八年後に病気で死んだことも、知らない。

　娘がいることも、私は知っている。

「小野さん。お子さんは」

　父が聞いた。

「下の娘を連れてきております。五つで、じっとしておりませんので、ご迷惑をおかけするかもしれません」

＊

　その娘は、裏の井戸端にいた。

　しゃがんで、地面に何か並べていた。

　私が近づくと、顔を上げた。日に焼けて、髪が短くて、膝に擦り傷があった。

「だれ」

「るりか」

「あたし、みお」

　彼女は、並べていたものを両手ですくって見せた。

　貝殻だった。小さい、二枚貝の片方ばかり。

「これ、ひかるほう」

　彼女は一つを取って、裏返した。内側が、虹色に光った。

「こっちはひかんない」

　外側は、ただの白だった。

　彼女は、光る面を上にして、全部並べ直し始めた。

　私は、しゃがんで見ていた。

　――ごめんなさい。

　喉のところまで、それが出かかった。

　あなたの用件を書き換えました。蘆田さんへの手紙に、個人的なお話と書きました。一臣さまに、無理をなさらないでくださいと書きました。あなたは預けてくれなくなりました。

　この子は、それを知らない。

　この子は五歳で、貝殻を光る面にして並べているだけだ。私がここで謝れば、この子は何のことか分からずに、困った顔をする。

　私は、口を閉じた。

「みお。それ、ほしい」

　代わりに、そう言った。

　澪が、手を止めた。

　私を見て、貝殻を見て、また私を見た。

「どれ」

「いちばん、おおきいの」

　彼女は、いちばん大きいのを取った。取って、少し握って、それから――自分の膝の前に置いた。

「これは、あたしの」

　そして、二番目に大きいのを私にくれた。

「これ、あげる」

　私は、受け取った。

　自分の欲しいものを先に取る子だった。

　午後、私たちは井戸端の水たまりに、紙の舟を浮かべた。父が新聞紙で折ってくれた。二艘。

「こっち、あたしの」

　澪は、舳先の尖ったほうを、先に取った。

　私のは、少し潰れていた。潰れているほうが、水に沈まなかった。澪の舟は、五分で傾いて、沈んだ。

「ずるい」

　澪が言った。

「つぶれてるのが、つよい」

　私が言うと、澪は「じゃあ、あたしのもつぶす」と言って、自分の舟を握り潰した。

　潰れた舟は、浮かばなかった。

　二人で、水たまりを覗いて、笑った。

＊

　夕方、桟橋のほうで、子どもの声がした。

　お絹と行ってみると、石段の途中に、十歳の一臣がいた。

　灯籠の骨に、紐を結んでいた。

　膝の上に竹ひごを乗せて、紐を二重に回して、引いて、また緩めて、やり直していた。顔が真剣だった。

「かずおみさま」

　私が呼ぶと、彼は顔を上げた。

「……ああ、ルリカか」

　彼は、また手元に戻った。

「これ、ぜんぶ結ぶんだ。ぼくの係だから」

　紐が、また滑った。

「あ、もう！」

　彼は、竹ひごを地面に置いて、口を曲げた。

　その顔だった。

　二十二歳で、帳簿の桁の間違いを見つけたときにする顔。十六の秋に、私に三度足を踏まれて、それでも「この靴は保ちます」と言ったときの顔の、一つ手前にあるもの。

　胸が、静かに痛んだ。

　私は、結び方を知っている。父が舟の綱を結ぶのを、何度も見た。教えることはできる。四歳の口では難しいが、手を出して真似させれば、たぶん通じる。

　教えて、上手にさせて、感心されて、この子が私を特別だと思うようにすることは、できる。

　私は、石段を下りた。

「おのさん」

　庭の下で道具を片づけていた小野を呼んだ。

「かずおみさまが、ひもができない」

　小野が上がってきて、一臣の横にしゃがんだ。

「若さま。それは、こう回してから、ここを通すのでございます」

「こう？」

「そうです。指を抜くのが早い。指を抜く前に、もう片方で引きます」

　一臣は、三度失敗して、四度目でできた。

「できた」

　彼は、できた灯籠を持ち上げて、私に見せた。

「ほら」

「じょうず」

「でしょ」

　彼は得意そうに笑って、次の骨を取った。

　私は、その横に座って、竹ひごを一本、持たせてもらった。持っているだけの係だ。

　この子は、まだ父を誇っている。私が事件を止めても、その気持ちまで守れるかは分からない。

　この子は、私の知っている二十二歳にはならないかもしれない。予定表を閉じないかもしれない。詩集を八頁戻さないかもしれない。

　それは、いい。

　いいと思えるまで、私は少し時間がかかった。

　紐を結び終えた一臣が「もう飯だって」と言って走っていったので、私は澪のところへ戻った。

　澪は、貝殻を全部、光る面にして並べ終えていた。帰りぎわに、小さいのを二つ、私の掌へ足してくれた。いちばん大きいのは、やはり澪が持っていた。

＊

　十四日の昼に、宗一郎が着いた。

　一日遅れたのは、会社の用があったからだという。静子さんは来ていなかった。祝言の前だから、と誰かが言った。

「遅くなった」

　彼は、玄関で帽子を取った。

　その日の昼餉は、大きな卓に全員が座った。宗一郎、伯父、父、母、私。子どもは一臣と私と、それから台所の隅で澪が食べていた。

　母が、私の口の端を拭いた。

「こぼさないの」

　いつもの手つきだった。

　父が、私に聞いた。

「午前中は、何をしていた」

「かい、ならべた。ひかるほうを、うえにして」

「ほう」

「それから、ふねを、みずたまりに。みおのが、しずんだ」

「お前のは沈まなかったか」

「つぶれてたから」

　父が笑った。宗一郎も笑った。

「ルリカは、よく喋るようになったな」

　宗一郎が言った。

「四つは、喋るものです」

　父が答えた。

　伯父は、箸を動かしながら、何も言わなかった。

　その日の夜、私たちは小さい灯籠を流した。

　本番は明日の夜だ。明日は、この湖の岸ぜんぶに、村から人が出て、何百も流す。今夜は、その前の練習のようなものだった。

　父と小野が、明日の支度をしていた。桟橋の足元に灯りを並べる算段を終えると、こちらへ来てくれた。

　私と澪と一臣は、石段を下りきったところの、浅い岸にいた。ここは水が膝までしかなくて、砂が敷いてある。

　小さい灯籠が三つ。紙が三色あった。

「あたし、あか」

　澪が先に取った。

「ぼくは、あお。あおがいい」

　一臣が取った。

　残ったのは、黄色だった。

　私は、それを見て、少し考えて、言った。

「わたし、きいろがいい」

　本当にそうだった。黄色は、水の上でいちばん遠くまで見える。

　火を入れてもらって、三つを浮かべた。

　最初、三つは固まって、なかなか離れなかった。一臣が手で水を押して、赤いのを送り出した。赤が先に行って、青が追って、黄色は、しばらくその場で回っていた。

　やがて、風が変わって、黄色が動き始めた。

　三つの灯が、だんだん離れて、黒い水の上に散った。

　澪が「あかが、いちばんさき」と言った。一臣が「あおが追いついた」と言った。

　私は、黄色を見ていた。

　黄色は、いちばん遅かった。遅くて、いちばん長く、目に見えていた。

　――来年も、見たい。

　そう思った。

　思ってから、自分でそれに気づいた。

　来年。五歳の夏。この湖で、また灯籠を流す。澪と、一臣と。父が石段の上で見ていて、お絹が羽織を持ってくる。

　私は、来年のことを考えていた。

　まだ、鋸の傷は見つかっていなかった。

＊

　十五日の午後二時ごろ、小野が走ってきた。

　玄関の前で、父を呼んだ。声が大きかった。

「旦那さま。桟橋を」

　父が小野と下りていった。私は縁側から見ていた。お絹が私の後ろに立った。

　二人は、桟橋の途中まで歩いて、そこでしゃがんだ。しゃがんで、手すりの根元を覗き込んでいた。

　長い時間、動かなかった。

　やがて、父が石段を駆け上がってきた。

「お絹。子どもを中へ。全員だ。桟橋には近づけるな」

「はい」

　私は、中へ入れられた。入れられてから、窓越しに見ていた。

　小野が、舟小屋から太い綱を持ってきた。

　桟橋の、ちょうど半分より少し先のところに、二本の杭が打ってあった。その杭に綱を渡して、先へ行けないようにした。

　そのあと、宗一郎が下りていって、自分でもしゃがんで、手すりの根元を見た。

　三人が、上がってきた。

　私は、廊下に立っていた。廊下に立っていると大人は通るから、聞こえる。

「手すりを支える柱です」

　小野が言っていた。

「水面から一尺ほど下、内側の面に、鋸が入っております。片側の三分の二まで。外からは、板に隠れて見えません。手で押しても分かりません。体重が横にかかれば、折れます」

「十二日に見たときは」

「ありませんでした。十二日の朝、私はあの柱に手をかけて、下を覗いております。傷があれば、指に当たります」

　宗一郎の声がした。

「十二日から今日までの、どこかということだな」

「さようです。誰が、いつというのは、私には分かりません」

「分かる必要はない。まず、使わせないことだ」

　父が言った。

「今夜の灯籠は、中止にしましょう。桟橋からは流さない」

「村の者が来る」

　宗一郎が言った。

「岸から流してもらう。桟橋は封鎖する。傷のある柱は、そのままにしてください。触らないように」

「なぜだ」

「直してしまうと、なくなります」

　沈黙があった。

「……分かった」

　宗一郎が言った。

「小野。綱を張って、札を出せ。今夜、あの先へは誰も入れるな」

　誰がやったのかは、まだ誰も言わなかった。

　言わないまま、大人たちは動いた。

　私は、廊下の柱のところで、それを聞いていた。

　私が知っていることの中で、今日、実際に起きたのは、傷が見つかったことだけだ。あとは、まだ起きていない。

＊

　三時に、電報が来た。

　村の郵便の男が、自転車で上がってきた。玄関で父が受け取った。

　私は、父の足元にいた。

　父は、紙を開いて、一度読んで、もう一度読んだ。

「……本社から、急な会議だそうだ」

　彼は、紙を下ろした。

「今夜中に帝都へ戻れと」

　私は、顔を上げた。

　三時。電報。本社。会議。

　あの夜、星の間で、この人は同じことを言った。

「とうさま」

　私は、彼のズボンを掴んだ。

「いかないで」

「ルリカ」

「いかないで。それ、うそ。かいぎ、ない」

　父は、しゃがんだ。

　私の顔を、正面から見た。

「お前は、それも夢で見たか」

「みた」

　彼は、電報をたたんで、上着の内側に入れた。

「父さんは、これを確かめる」

「いかないで」

「いいか、ルリカ。ここの電話を使うと、うちの誰かに聞こえる。聞こえて構わんなら使う。だが、これが嘘かどうかを聞くのに、この家の中で聞きたくない」

　彼は、私の手を、自分のズボンから外した。外して、両手で包んだ。

「町まで車で下りる。郵便局から本社に電話をかけて、会議があるかどうか聞く。それだけだ。汽車には乗らん」

「かえってくる？」

「帰ってくる」

　私の左手が、彼の襟を掴んだ。

　伸ばそうと思う前に、もう掴んでいた。

　右手も、自分で伸ばして、反対側の襟を掴んだ。

　両方の手で、掴んでいた。

　――行かないで。

　どちらの手も、同じことを言っていた。

　どちらの望みが誰のものなのか、私には分からなかった。分けられないまま、私は二つの襟を握っていた。

「お絹」

　父が呼んだ。

「はい」

「約束の通りだ。私が帰るまで、この子から離れるな」

「承知しております」

「宗一郎さまと小野さんには、行き先を言っておく。三時半に出て、遅くとも六時には戻る」

　彼は、私の指を、一本ずつ外した。

　外すとき、急がなかった。

　車が、土埃を上げて、坂を下りていった。

　私は、玄関の石の上に立って、それが見えなくなるまで見ていた。

　お絹が、私の手を握っていた。

# 第十二章　灯籠の向こう

　六時少し前に、車の音がした。

　私は玄関へ走った。お絹が後ろからついてきた。

　父は、上着を脱いで腕にかけていた。首筋に土埃がついていた。

「ただいま」

　私は、彼の脚に抱きついた。

　彼は、私の頭に手を置いてから、宗一郎を呼んだ。

　玄関の広間に、宗一郎と、お絹と、小野が集まった。伯父はいなかった。母は、廊下の奥に立っていた。

「町の郵便局から、本社へ電話をかけました」

　父は、上着の内側から電報を出して、卓に置いた。

「交換に三十分待たされました。出たのは営業の岸田です。今日、こちらの会議はありませんと言われました。念のため、庶務にも回してもらいました。誰も、私宛の電報を打っていません。帝都の局に発信の記録が残っているはずですが、それは私には調べられません」

「本社は打っていない」

「打っていません」

　父は、電報をたたまずに置いたままにした。

「帰りは、同じ道を車で戻りました。最後の林の手前で車を降り、家の様子を見ながら歩いて入りました。車は運転手に表へ回してもらいました」

「誰が打ったかは」

「分かりません」

　父は、はっきりそう言った。

「分かりませんが、私を今夜ここから出そうとした者がいます」

　宗一郎は、卓の上の紙を見ていた。

　私は、父の脚にまだつかまっていた。父は、片手で私の背中を支えたまま、話していた。

「桟橋に細工があります。私を呼び出す電報が来ました。どちらか片方なら、まだ何かの間違いかもしれない。二つ重なりました」

　宗一郎が、顔を上げた。

「警察を呼ぶ」

「はい」

「今夜の宴と灯籠は、中止だ」

　廊下の奥で、母が身じろぎした。

　私は、それを見ていた。

＊

　宗一郎は、その場で電話をかけた。

　別荘の電話は、玄関脇の小部屋にある。木の箱で、受話器が横についている。彼は交換手に町の警察を呼ばせ、名前と場所を言った。

「天導宗一郎です。碧湖の星見荘。桟橋の柱に、人の手による切り込みが見つかりました。それから、家の者に偽の電報が届いています。人が出られるようでしたら、今夜のうちにお願いします」

　しばらく相手の声を聞いて、彼は「はい」「はい」と言った。

「――分かりました。お待ちします」

　受話器を置いて、彼は言った。

「二人出るそうだ。町から車で来る。道の具合にもよるが、一時間前後だそうだ」

　それから、彼は広間に立っている全員を見回した。

「今夜は、こうする」

　彼の指示は、短かった。

「宴はやらない。村の者には、桟橋が傷んだので今年は岸から流してくれと伝える。酒は出さない。台所は、子どもと大人の握り飯だけでいい」

「承知しました」

「小野。舟を出しておけ。岸につけて、綱と、浮きを積み、すぐ出せるよう中で待っていてくれ。万一、誰かが落ちたときのためだ」

「へい」

「恭介。私とお前は、桟橋の陸寄りにいる。綱から先へは誰も入れない。それから、切ってあるところへは、我々も入らない」

「はい」

　宗一郎は、そこで一度、言葉を切った。

「貞光は、どこだ」

「先ほど、裏の納屋のほうへ」

　小野が答えた。

「呼べとは言わん。まだ何も決まっていない」

　宗一郎は、そう言った。

「警察が来るまで、この桟橋へ誰も出すな。それだけだ」

　最後に、彼は私のほうを見た。

　正確には、私を抱えているお絹のほうを見た。

「お絹といったな」

「はい」

「子どもたちは家の中だ。一臣も、小野の娘も、同じ部屋に入れろ。お前は瑠璃花から離れるな」

「はい」

「これは私が言う。誰が何を言っても、この子をお前の手から出さなくていい。誰かが薬を持ってきたら、飲ませる前に断れ。断って構わない」

　父が、そのあとに言った。

「私が言ったのと、同じことです」

「二人で言えば十分だろう」

　宗一郎は、下男を一人呼んだ。

「久造。お前は、その部屋と我々の間を行き来しろ。飯を運ぶのと、何かあったら走るのと、両方だ。座っているな。ずっと行ったり来たりしていろ」

　十八ばかりの、痩せた男が「へい」と返事をした。

　母は、まだ廊下の奥にいた。

　誰も、母に役目を言わなかった。

＊

　子どもたちは、二階の東の部屋へ入れられた。

　私と、一臣と、澪。それから、お絹。廊下に久造がいて、五分おきに階段を上がったり下りたりしていた。

　夕飯は、握り飯と、漬物と、玉子を焼いたものだった。

「灯籠、やらないの」

　一臣が、不満そうに言った。

「桟橋が壊れているんだそうですよ」

　お絹が言った。

「ぼくが結んだのに」

「結んだのは、来年も使えますよ」

　澪は、握り飯を両手で持って、黙って食べていた。知らない家の二階で、父から離れて、少し緊張しているようだった。

　私は、卓の上を見ていた。

　握り飯の皿が二つ。漬物の鉢。湯呑みが四つ。玉子の皿。

　それだけだった。

　グラスがない。

　ゲームで見たあの夜には、大人の卓に酒のグラスが並んでいた。けれど、十八の夜に聞いた証言は、母の糖蜜と舟屋の娘のことだった。あの物語の卓まで、ここで見たことにはできない。

　今夜は、酒が出ない。

　宴がない。卓がない。グラスがない。

　だから、あの夜と同じことは、もう起こらない。

　私は、湯呑みの麦茶を飲んだ。

　冬の夜の、褐色の糖蜜のことを思い出した。舌の奥の苦さと、吐いたあとの喉の痛みと、それでも落ちていったまぶたのことを。

　あれから私は、吐く練習をしたほうがいいと考えたことがある。

　その考えは、間違いだった。

　同じ場面を、同じ順番でもう一度やる必要はない。やらせないほうがいい。危ないものは、口に入る前に止めるほうがいい。

　今夜、私は何もしなくていい。

　そう思ったら、急に眠くなった。眠くなってから、自分が三時からずっと身体を固くしていたことに気づいた。

「お嬢さま」

　お絹が、私の背中に手を置いた。

「明日の朝は、何が召し上がりたいですか」

　私は、顔を上げた。

　朝ごはんの話だった。

　救助の話でも、薬の話でも、桟橋の話でもなかった。

「……たまご」

「玉子ですね。焼きましょうか、それとも、汁に落としましょうか」

「やいて。おさとう、いれて」

「甘いのがよろしいのですね」

「うん」

「では、そうしましょう」

　澪が、横から言った。

「あたしも、たまご」

「はいはい。お二人とも玉子で」

「ぼくは、魚がいい」

「若さまは魚で」

　お絹は、三人分を指で数えて、覚えた。

　私は、その数え方を見ていた。

　明日の朝の卓が、そこにあった。

＊

　六時半を少し回ったころ、階段を上がってくる足音がした。

　襖が開いた。

　母だった。

「お絹。台所へ行って、お湯を沸かしてちょうだい」

　お絹は、私の横に座ったまま、頭を下げた。

「申し訳ございません。私はここを離れられません」

　母の眉が、動いた。

「私が言っているのよ」

「旦那さまと、宗一郎さまのお言いつけでございます。お嬢さまのおそばを離れるなと」

「お湯を沸かすだけでしょう」

「久造に頼みます」

　お絹は、廊下へ声をかけた。

「久造さん。お湯を」

「へい」

　廊下で返事があって、足音が下りていった。

　母は、しばらく戸口に立っていた。

　それから、部屋に入ってきて、私の前にしゃがんだ。

「瑠璃花。おいで」

　母が、両手を出した。

「今夜は、母さまのお部屋で寝ましょう。ここは子どもが多くてうるさいでしょう」

　私は、母の顔を見た。

　母は、笑っていた。いつも寝る前に、髪を梳いてくれるときの顔だった。

　私の身体が、前へ動きかけた。

　四年、この人に抱かれて育った身体だ。この人が手を出せば、行く。それは、頭より先に決まっている。

　それに、断れば母が怒る。怒られたくない。母の顔色が悪くなるのが怖い。四歳の身体は、そう思っている。

　大人の私も、実は同じことを思っていた。

　私は、右手を伸ばしかけて、止めた。

　止めて、その手で、お絹の袖を掴んだ。

　掴んで、引っ張った。

「……こわい」

　私は言った。

　言ってから、自分の声が本当に震えているのに気づいた。演技ではなかった。

「おきぬ、いて。いて」

　お絹は、私を膝の上に抱き上げた。

「奥さま」

　彼女は、まっすぐ母を見た。

「今夜は、こちらでお休ませいたします」

　母の手が、空中に残った。

　しばらくそのままだった。

　やがて、母はその手を下ろして、膝の上に置いた。

「……そう」

　母は立ち上がった。

「では、寝る前のお薬だけ。いつもの糖蜜です」

＊

　母が下りていって、戻ってきたとき、茶碗と匙を持っていた。

　久造が、お湯を持って階段を上がってきたのと、ほとんど同時だった。久造は廊下に立って、中を見ていた。

　母は、卓の端に茶碗を置いた。

　それから、袂から小さな瓶を出した。

　褐色の、掌に入る大きさの瓶だった。

　母は、匙を茶碗の縁に載せて、瓶の口を傾けた。

　とろりとしたものが、匙に落ちた。一度、二度。

　瓶の口を上げて、母は匙を持った。

「さ、瑠璃花。眠れるお薬よ」

　私は、お絹の膝の上にいた。

　母が匙を持ち上げかけたところで、お絹の手が動いた。瓶から垂らすところを、見ていたのだ。

　母の手首を、卓の上で掴んだ。甘い匂いだけが届いた。

「お待ちくださいまし」

　部屋の空気が、止まった。

「何をするの」

「お薬は、旦那さまがご覧になってからにと承っております」

「これは、いつもの」

「いつものでも、でございます」

　お絹の手は、動かなかった。

「奥さま。匙を、そちらの卓へ置いてくださいまし」

　母は、動かなかった。

　お絹は、母の手首を掴んだまま、腕の高さを少しずつ下げさせた。母の手が下がって、匙が卓に触れた。

「お放しくださいまし」

　母は、匙を放した。

　匙は、卓の上に置かれた。褐色のものが、匙の窪みに残っていた。

　茶碗も、そのままだった。

「久造さん」

　お絹が言った。

「旦那さまに、今のことを。すぐに」

「へい」

　久造は、廊下を走った。階段を、二段ずつ下りる音がした。

　お絹は、私を抱いたまま、部屋の奥へ下がった。

「お絹」

　母が言った。

「私は、この子の母です」

「存じております」

「薬を飲ませて、何が悪いの」

「悪いとは申しておりません。旦那さまがご覧になってから、と申しております」

　お絹は、同じことを二度言った。

　母は、卓の上の匙と茶碗を見た。

　手を伸ばそうとして、お絹が「触らないでくださいまし」と言った。

「そのままにしておいてくださいまし」

　母は、手を引いた。

　そして、瓶を握ったまま、戸口まで下がった。

　戸口で、こちらを向いて立っていた。

　その顔を、私は見ていた。

　怒っているのでも、慌てているのでもなかった。

　考えている顔だった。

　次に何をすればいいかを、考えている顔だった。

　一臣が、部屋の隅で立ち上がっていた。澪が、その後ろにいた。二人とも、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。

「一臣さま。澪ちゃん。こちらへ」

　お絹が言った。

　二人は、お絹のそばへ来た。

　私たちは、四人で部屋の奥にかたまった。

　母は、戸口から動かなかった。

　私に、触れなかった。触れられなかった。

＊

　それから、数分ほど経った。

　母が、急に廊下へ出た。

　階段を下りる足音。玄関の戸が開く音。

　それから、外で、母の声がした。

　庭に響く、大きな声だった。

「瑠璃花がいません！」

　私は、お絹の腕の中で、身体が固くなるのを感じた。

「宗一郎さま！　瑠璃花がおりません！　誰か！」

　声は、湖のほうへ向かっていた。桟橋のほうだ。

　お絹が、立ち上がった。

　私を抱えたまま、窓のところへ行って、片手で窓を開けた。

　夜の風が入ってきた。庭の灯りが二つ、揺れていた。

「ここにおります！」

　お絹が、窓から叫んだ。

「奥さま！　お嬢さまは、ここにおります！　私の腕におります！」

　庭で、母が振り返った。

　顔は、暗くて見えなかった。

　廊下を、久造が走ってきた。

「お絹さん！　旦那さまに伝えました！　お嬢さまは二階で無事だと、今、宗一郎さまにも！」

「もう一度、言ってきておくれ。今、奥さまが外で叫んだことも」

「へい！」

　久造は、また階段を駆け下りた。

　私は、窓の下を見ていた。

　石段の下、桟橋の手前に、灯りが二つ動いていた。

　父と、宗一郎だ。

　二人は、庭のほうを向いていた。

　宗一郎の声が、風に乗って、少しだけ聞こえた。

「――子どもは二階だ！　そこを動くな！」

　宗一郎は、その場を動かなかった。

　誰も、母の声のほうへ走っていかなかった。

　母は、庭の真ん中で、一人で立っていた。

　それから、私は、もう一つの灯りに気づいた。

　庭の端、納屋のほうから、別の明かりが動いていた。石段を下りて、桟橋のほうへ。父たちの灯りとは、離れた道筋だった。

　伯父だった。

　警察が来る、と誰かが言ったはずだ。聞いたのだろう。

　伯父は、湖のほうへ歩いていった。

　お絹が、窓を閉めた。

「お嬢さま。こちらへ」

　彼女は、私を部屋の奥へ運んだ。

　窓から離れた、壁際へ。

　そこは、外が見えなかった。

# 第十三章　手を離さない人

　壁際は、静かだった。

　お絹は、私を膝に乗せて、壁を背にして座っていた。一臣と澪は、その両脇にいた。一臣は膝を抱えていて、澪はお絹の袖を握っていた。

　私は、自分の口の中を確かめていた。

　甘い匂いはした。匂いだけだ。舌には何も残っていない。喉にも。飲んでいない。一滴も。

　冬の夜のような、舌の奥の金物の味はなかった。

　飲まされなかった。

　それが、この夜、私に起きた一番大きなことだった。

「おきぬ」

「はい」

「おかあさま、また、よんだら」

「お返事はなさらなくてよろしゅうございます」

　彼女は、すぐにそう言った。

「私がいたします。お嬢さまは、何もおっしゃらなくていい」

　私は、うなずいた。

「とうさま、よんで」

「はい。久造さんが行っております。もう一度、行ってもらいましょう」

　廊下で、久造が「へい」と返事をした。彼は、もう三度、階段を往復していた。

「旦那さまに、お嬢さまが父さまを呼んでおられると」

「へい。それと、お薬は口に入っておりませんと、もう一度申し上げます」

「そうしておくれ」

　足音が下りていった。

　外の音が、少し高くなった。

　男の声が、二つか、三つ。何を言っているかは、聞き取れない。

　窓は閉まっている。私は壁際にいる。ここからは、湖は見えない。

　見えないものを、私は見ようとしなかった。

　四歳の身体で階段を下りて、庭を横切って、石段を下りて、桟橋へ行くことはできない。行ったところで、何もできない。

　私は、お絹の膝の上で、自分の指を数えていた。

　一臣が、小さい声で言った。

「ぼくの父さん、どこにいるの」

　誰も、答えなかった。

　お絹は、一臣の背中に手を回した。

　そのまま、しばらく、四人で座っていた。

## 桟橋にて

　恭介は、綱の内側に立っていた。

　足の下の板は、しっかりしている。小野が十二日の朝に端から端まで見て、今日の午後にもう一度見た区間だ。踏んでも沈まない。撓みもしない。

　問題は、板の横だった。

　手すりはここまで来ていない。三尺ほど横は、もう水だ。夜の湖は、灯りの届くところだけ黒く光って、その先は何も見えない。

　宗一郎は、恭介の二歩先にいた。

　二人とも、綱から先へは入っていない。綱の向こう、桟橋の先端の十歩ぶんは、小野が札を下げて閉じた区域だ。手すりを支える柱の一本に、水面から一尺下、内側の面に鋸が入っている。

　久造が石段から呼び、二人は岸へ戻って報告を聞いた。娘は無事で、お絹のもとにいる。恭介が顔を上げたとき、貞光が二人の脇を早足で抜けた。

「入るな。閉じてある」

　恭介の声を無視して、貞光は綱まで進んだ。恭介と宗一郎も健全部を戻ったが、綱を越えて追うことはしなかった。傷のある板の上でもみ合えば、誰が落ちるか分からない。

　その綱を、貞光が外していた。

「貞光」

　宗一郎が呼んだ。

「そこは閉じてある」

　貞光は、答えなかった。

　手元の灯りを板の上に置いて、綱の端を杭から抜いている。抜いた綱を、無造作に板へ落とした。

　それから、先端へ歩いた。

　膝をついて、手すりの根元を覗き込んだ。手が、柱にかかった。

「触るな」

　恭介が言った。

「そのままにしておけと、宗一郎さまが」

　貞光は、柱を掴んで、揺すった。

　引き抜こうとしている、と恭介は思った。傷のある柱を外して、湖へ落とせば、なくなる。そういうことだ。

「戻ってこい」

　宗一郎が言った。

　声は、大きくなかった。

「警察が来る。来たら、あれを見せる。電報も発信局まで照会してもらう。お前がここにいたことも言う。それだけだ」

　貞光が顔を上げた。柱を掴んでいた手が止まった。恭介には、その言葉のどこが届いたのかまでは分からなかった。

「……それだけ、か」

　貞光が、初めて口をきいた。

「宗一郎。お前は、いつもそうだ。それだけだと言って、人の首を絞める」

「話は後で聞く。今は、そこから出ろ」

　貞光は、柱から手を離した。

　立ち上がって、灯りを拾った。

　そして、こちらへ歩いてきた。

　恭介は、そのとき、半歩下がった。

　通すためだった。綱の外へ出るなら、自分たちの横を通る。板は狭い。三人が並べる幅ではない。

　貞光は、綱の位置を越えて、健全な区間に入った。

　宗一郎の正面に来た。

　立ち止まった。

　灯りを、板に置いた。

　置く動作が、ゆっくりだった。ゆっくりだったから、恭介は次の動きに遅れた。

　貞光が、両手を出した。

　胸を、突いた。

　宗一郎の身体が、後ろへ行った。板の端で踵が外れて、そのまま横へ傾いた。

　音がした。重い、平たい音だった。

「――宗一郎さま！」

　恭介は、上着を脱がなかった。脱ぐ時間を考えなかった。

　板を蹴って、水へ入った。

## 水の中

　冷たかった。

　八月でも、湖の水は下へ行くほど冷たい。着物と上着が水を吸って、重くなった。恭介は靴を蹴って脱ぎ、足を動かした。

　暗い。灯りは板の上にあって、水面より高い。

　一度、潜った。

　手が、何かに触れた。布だ。掴んで、引いた。

　宗一郎の身体が、重かった。沈みかけていた。恭介は左腕を相手の脇の下へ回して、顎を上げさせ、右手だけで水を掻いた。

　顔が水から出た。

　宗一郎は、咳をしなかった。

「宗一郎さま。息を」

　恭介は、相手の顔を横へ向けた。

　それから、岸のほうへ向かって、叫んだ。

「小野さん！」

　櫓の音が、すぐに返ってきた。

　舟は、桟橋の陸寄りの岸につけ、水に浮かべたまま待機していた。小野は、その中で待っていた。宗一郎に言われた通り、綱と浮きを積み、すぐ岸を離れられるようにしていた。

　舟が近づいた。

「旦那さま、綱を！」

　輪にした綱が、水に落ちた。

　恭介は、それを掴んだ。片腕で宗一郎を抱えたまま、輪を相手の胸に回して、締めた。

「上げてくれ！」

　小野が、引いた。

　舟べりに宗一郎の上体が上がった。小野が着物の背を掴んで、引き上げた。舟が大きく傾いて、水が入った。

　それから、小野は恭介のほうへ腕を伸ばした。

「旦那さまも」

「私はいい。岸まで行ける」

「乗ってくださいまし。冷えております」

　恭介は、舟べりを掴んで、身体を上げた。

　舟の底で、宗一郎が咳をした。

　水を吐いた。二度、三度。

　それから、うめいた。肩を押さえていた。骨をやったな、と小野が言った。

「生きております」

　小野が言った。

　恭介は、そのとき初めて、桟橋のほうを見た。

　板の上に、灯りが一つ、置いたまま残っていた。

　人影は、なかった。

　自分が水にいた時間に、あの男がどこへ行って、何をしたのか、恭介には見えていない。

　見えていないことを、恭介はその場で一度、頭の中で確認した。

　あとで人に話すとき、見たことと見ていないことを混ぜてはいけない。船の事故を報告するときと同じだ。

　舟が岸に着いた。

　石段の下に、下男が二人走ってきた。

「毛布を！　それから、宗一郎さまを家へ！」

　恭介は、水を滴らせたまま立ち上がった。

　そのとき、坂の上で、車の音がした。

　久造が、庭のほうから駆けてきた。

「旦那さま！　お巡りさんが二人、坂を上がってきなさいます！　お迎えに出ておりますで！」

「――ルリカは」

　恭介は、それを先に聞いた。

「二階でございます。お絹さんが抱いております。お薬は、口に入っておりません。奥さまは、庭におります」

　恭介は、息を吐いた。

　濡れた髪から、水が落ちた。

## 東の部屋

　襖が開いて、久造が入ってきた。

　息を切らしていた。

「お絹さん。宗一郎さまが、水に落ちなさった。旦那さまが飛び込んで、小野さんの舟で上げました。二人とも、上がっておられます。宗一郎さまは肩をやられたようですが、口をきいておられます」

　お絹の腕が、少し締まった。

「旦那さまは」

「ずぶ濡れですが、お怪我はねえようで。それから、お巡りさんが着きました」

　一臣が、立ち上がった。

「父さんは」

　久造は、言葉に詰まった。

「……若さま。私は、旦那さまと宗一郎さまのことしか見ておりません」

　一臣は、それ以上聞かなかった。

　座って、膝を抱えた。

　私は、お絹の膝から下りた。

　下りて、戸口のほうを見た。

　母が、そこにいた。

　いつの間に戻ってきたのか、庭から上がってきて、襖の外の廊下に立っていた。

　髪がほつれていた。袂の形が崩れていた。

　右手に、あの瓶を握ったままだった。

「――瑠璃花」

　母が言った。

　私は、お絹の横に立って、母を見た。

　久造が、私と母の間に立った。お絹が、私の肩に手を置いた。

「奥さま。そこから中へは、お入りになりませんように」

「私は、この子の母です」

　母は、瓶を持った手を上げた。

「これは、お医者にいただいた薬です。眠れない子に飲ませる薬。何も悪いことはしていません」

　母の声は、震えていなかった。

「私は、この子がいないと思ったから、探したのです。母親が娘を探して、何が悪いの」

　その言葉は、私に向かって言われていなかった。

　廊下の向こう、階段の下のほうへ向かって言われていた。誰かが聞いている前提の声だった。

　それから、母は私を見た。

「あなたは、いつからそうやって、私の顔を見るの」

　私は、母の目を見た。

　この人に、聞きたいことがあった。

　この四年間、ずっと聞けなかったことだ。

「おかあさま」

「なあに」

「さだみつの、伯父さまが、おかあさまを、こうけんにんに、しないって」

　母の目が、ほんの少し開いた。

「しってた？」

　その一言を、私は四歳の口で言うために、何度も頭の中で並べ替えた。

　母は、答えないかと思った。

　答えた。

「知っていました」

　母は言った。

「あなたが生まれた年の、秋に聞きました。兄は、私を後見人にはしないと言いました。私は、分かりましたと答えました」

「……なんで」

「兄が後見でも、この家に瑠璃花がいれば、私は瑠璃花の母です。母は、追い出せません」

　母は、瓶を持ち替えた。

「本家がほしかったのですよ。あの人の家が。私のものにならないなら、せめて、私の娘のものに」

　廊下の下で、靴の音がした。何人かが上がってくる。

　私は、その音を聞きながら、言った。

「わたしが、うまれたいって、いったんじゃない」

　母が、こちらを見た。

「わたし、なんにも、たのんでない」

　言えたのは、それだけだった。

　母は、何も言わなかった。

　私は、それ以上、母を責めなかった。

　この人が何をしたのか、どこまでしたのか、どんな罰を受けるのか、それを決めるのは私ではない。私は四歳で、この人の娘で、今夜、飲まされなかった子どもだ。

　階段の上に、制服の男が現れた。

＊

　警察は、二人だった。

　一人は年配で、一人は若かった。二人とも、まず宗一郎を見に行った。医者を呼ぶ手配をして、それから、一人ずつ話を聞き始めた。

　お絹が話した。

　旦那さまと宗一郎さまから、子どもを離すな、薬を飲ませる前に止めろと言われていたこと。奥さまが台所へ行けと命じたが断ったこと。奥さまが茶碗と匙を持ってきて、袂から瓶を出して、匙に垂らしたこと。自分がその手首を掴んで、匙を卓に置かせたこと。子どもの口には入っていないこと。

「その匙は」

「そのままでございます。触っておりません。茶碗も」

　二階の卓の上に、匙と茶碗はそのまま置かれていた。若い巡査が、それを見に行った。

　久造が、別に話した。

　自分が廊下から見ていたこと。奥さまが匙を持ち上げかけ、お絹が止めたこと。そのあと自分が走って旦那さまに知らせたこと。それから、奥さまが庭で「瑠璃花がいない」と叫んだこと。自分はそのとき、お嬢さまが二階にいるのを見たばかりだったこと。

「窓から、お絹さんが、ここにおりますと叫びました」

　久造は、そう言った。

　瓶は、母が握ったままだった。

　年配の巡査が、母の前に立って、手を出した。

「奥さん。それを」

　母は、渡さなかった。

「薬です」

「そうでしょう。ですから、こちらで預かります。どこに、どうお持ちだったかも、書いておきます」

　母は、長いあいだ、手を握っていた。

　やがて、指をひらいた。

　巡査は、瓶を紙に包んで、袂から出したのだと母に確認させ、手帳に書いた。

　父が、濡れた髪のまま、毛布を肩にかけて話した。

「三時に、これが来ました」

　電報を出した。

「町の郵便局から本社へ電話をかけました。会議はないと言われました。誰も打っていないと」

　それから、桟橋のことを話した。

「私は、綱の内側におりました。切ってある区間には入っていません。義兄が綱を外して先へ入り、柱に手をかけました。戻れと言うと、戻ってきました。そして、宗一郎さまの正面に立って、両手で胸を突きました。それは、私の目で見ました」

「そのあとは」

「私は水に入りました。水の中から、桟橋の上は見えません。あの人が何をしていたかは、私は知りません」

　巡査が、手帳に書いた。

　小野は灯りを持って、警官を桟橋へ案内しに出ていった。綱を外された場所も、触られた部材も、残った鋸の傷も見せたと、あとで聞いた。

　誰も、その柱を直さなかった。

　酒は、出なかった。グラスは、一つも卓になかった。

　私の襟は、汚れていなかった。

　その夜、この家で警察が持って帰ったのは、匙と、茶碗と、瓶と、電報と、人の話だった。

＊

　伯父は、庭の隅で見つかった。

　逃げようとしていたのではなかった。石の上に座って、何もしていなかったという。連れて行かれるとき、一臣が廊下に出た。

　伯父は、息子を見た。

　何か言おうとして、言わなかった。

　一臣は、その場から動かなかった。動かないまま、大人たちが階段を下りていくのを見ていた。

　母も、連れて行かれた。

　行くとき、母は私のほうを見た。

　私も、母を見た。

　母は、何も言わなかった。私も、言わなかった。

　玄関の戸が閉まって、車の音が坂を下りていった。

　そのあとで、父が上がってきた。

　服を着替えていた。髪はまだ濡れていて、手拭いを首にかけていた。

「ルリカ」

　私は、走った。

　彼は膝をついて、両腕を開いた。

　私は、その中に入った。

　入った瞬間、私は自分が言おうとしていたことを、全部忘れた。

　役に立てましたか、と聞くつもりだった。私が夢の話をしたから、桟橋を見てもらえた。私が電報を止めようとしたから、あなたは汽車に乗らなかった。そういうことを、確かめたかった。

　言えなかった。

　代わりに、出たのは、これだった。

「……こわかった」

　父の腕が、強くなった。

「こわかったなあ」

「こわかった」

「うん」

　私は、彼の肩に顔を押しつけて泣いた。

　泣きながら、左手が彼の襟を掴んでいた。今度は、押さえなかった。

　彼は、私を抱いたまま、座り直した。

　毛布を引き寄せて、私ごとくるんだ。

「今夜は、父さんはここにいる」

　彼は言った。

「どこにも行かん」

　私は、その言葉を、四年前から聞きたかった。

　いや、もっと前からだ。十一歳の春、宛先の分からない手紙を書いたときから。

　父は、夜のあいだ、二度、私が目を覚ましたときも、同じところにいた。

# 第十四章　明日の席

　九月の初め、本家の星の間に、人が集まった。

　私は、父の膝の上にいた。四歳の子どもを親族会に入れるのは異例だったが、宗一郎が「連れてこい」と言ったのだそうだ。

　宗一郎は、片腕を吊っていた。肩の骨と、肋を二本やっていた。それでも、卓の上座に座っていた。

　三村が、書類を持って立った。

「まず、警察から伝わっております事柄を申し上げます。私が聞き取ったものですので、決まったことではございません」

　彼は、そう前置きした。

「八月十五日午後三時に恭介さまが受け取られた電報につきまして、辰巳という書生が、自分が打ったと申しているそうです。貞光さまに言われて、帝都の局から打ったと」

　座が、ざわついた。

「電報そのものは恭介さまがお持ちでした。本社に会議がなかったことは、当日の電話で確かめられております。辰巳の申し立てが本当かどうかは、これから調べられます」

　三村は、そこで一度、手帳を閉じた。

「申し上げられるのは、ここまででございます。捕まったことと、罪が決まったことは、別でございます」

　それから、彼は桐の箱を出した。

「宗一郎さまのご指示で、お預かりしていたものをお持ちしました」

　宗一郎が、片手で封を切った。

　中から出てきたのは、遺言だった。

　彼は、それを卓に置いて、読み上げた。

　文言は硬かった。日付は、私が生まれた年の八月。

　――余の子、瑠璃花を認知す。

　瑠璃花。

　私は、父の膝の上で、その三字を聞いていた。

　十八の朝、三村の桐箱の中で読んだ写しには、瑠璃、と書いてあった。二字だった。

　それを覚えているのは、この部屋で私だけだ。

　三村も、宗一郎も、この紙を何度も読んでいる。二人とも、初めから瑠璃花だったと思っている。思っているのではなく、二人の記憶の中では、初めからそうなのだ。

　私が足した一字が、四年前の紙の上にある。

　誰も、驚かなかった。

　驚かないことが、私には少し怖かった。

「この紙は、私が死んだときに効くように作った」

　宗一郎が言った。

「藤乃に勧められて、そうした。生きているうちに言えば騒ぎになると思った。私は、騒ぎが嫌だった」

　彼は、卓を見ていた。

「この紙のせいで、人が二人、私を殺す算段をした。子どもに薬を飲ませようとした」

　誰も、口を挟まなかった。

「三村。この原本は、そのまま預かっておいてくれ。警察が要ると言えば出す。破るな」

「承知しております」

「効き目を消すのは、別の紙でやる。今日、書く」

＊

　宗一郎は、その場で、もう一つのことを言った。

「瑠璃花は、私の子だ」

　彼は、はっきり言った。

「藤乃との間の子だ。四年前から知っていた。隠していた。今日、皆の前で言う」

　部屋が、静かになった。

　誰かが「では、跡取りは」と言った。

「そこだ」

　宗一郎は、三村のほうを見た。三村が立った。

「家憲は、ご当主に初代の血を求めます。瑠璃花さまには、その血がございます。これは今日、当主が公に認められました」

　三村は、指を二本立てた。

「ただし、届けの上のお父上は、恭介さまでございます。生まれたときからそうなっております。これを変えるには、恭介さまご自身が、自分の子ではないと申し立てる手続きを取るほかありません。血のことがはっきりしたからといって、勝手に変わるものではございません」

　彼は、恭介のほうを向いた。

「恭介さま。いかがなさいますか」

　父は、私を膝から下ろした。

　下ろして、座り直して、言った。

「しません」

　短かった。

「私は、この子の父です。届けの上でも、そうです。申し立てはしません。この先も、しません」

　誰かが、何か言おうとした。

　宗一郎が、それを止めた。

「それでいい」

　彼は、吊った腕を少し動かして、顔をしかめた。

「私は、この子の血の父だ。それは今日、言った。だが、父親というのは、そこにいる男のほうだ。四年、風呂に入れて、靴を買って、水から人を引き上げた男のほうだ」

　彼は、父を見た。

「恭介。すまなかった」

　父は、何も答えなかった。

　頭を、一度だけ下げた。

　その日の午後、宗一郎は、遺言を撤回する紙を書いた。三村が文言を作り、宗一郎が署名した。原本のほうは、封をし直して、三村の金庫へ戻された。

　母と伯父のことは、何も決まらなかった。

　裁くのは、この部屋ではない。三村が、何度もそう言った。

＊

　九月十日に、一臣が来た。

　母親と一緒だった。彼の母親は、痩せていて、ずっと下を向いていた。挨拶をして、すぐに帰っていった。

　一臣だけが残された。

　彼は、縁側に座った。

　私は、その横に座った。

「ルリカ」

「うん」

「ごめんなさい」

　彼は、膝に手を置いて、頭を下げた。

「父さんが、したことです。ぼくの家のせいで」

　十歳の子が、練習してきた言葉を言っていた。誰かに言えと言われたのかもしれない。自分で考えたのかもしれない。

　私は、首を振った。

「かずおみさまは、してない」

「でも」

「してないもん」

　私は、それだけ言った。

　もっと言えることは、いくつもあった。あなたのせいではない。あなたは立派な人になる。私は知っている。あなたは、二十二歳で、予定表を閉じて、人の話を先に聞く人になる。

　言わなかった。

　この子が何になるかは、この子が決める。十歳の子に、立派な大人になる約束をさせるのは、私の都合だ。

　一臣は、しばらく黙っていた。

　それから、急に、庭の石を蹴った。

「……なんで」

　声が、震えていた。

「なんで、そんなことしたんだよ。ぼく、船の絵ほめられたのに。灯籠だって、ぜんぶ結んだのに」

　彼は、泣き出した。

　膝に顔をつけて、声を上げて泣いた。十歳の泣き方だった。

「会いたい。父さんに会いたい。ぼく、会いに行っちゃだめなの」

　お絹が、茶を持って出てきた。

　彼女は、何も言わずに一臣の横に座って、背中をさすった。

　父が、庭から上がってきた。

「一臣くん」

　彼は、縁側に腰を下ろした。

「会えるように、三村さんに頼んでみよう」

「……いいの」

「いいかどうかは、私には分からん。頼むだけだ。断られたら、そう言う」

　父は、それ以上、慰めなかった。

「今は、泣いていろ。飯の時間になったら呼ぶ」

　一臣は、その日、夕方まで縁側にいた。

　私は、途中から、隣で貝殻を並べていた。湖から持って帰った、二番目に大きい貝殻だ。

　光る面を上にして、並べた。

　一臣は、泣きながら、それを見ていた。

「それ、なに」

「みおに、もらった」

「ふうん」

　彼は、鼻をかんで、貝殻を一つ取った。

「こっちは、光らないんだね」

「うん」

「ぜんぶ、光るほうにしよう」

　彼は、裏返し始めた。

　その日のうちに、父が一つ、別のことを片づけた。

　小野が、修繕代の受け取りに来たときだ。父は、三村から聞いた話を伝えた。

「宗一郎さまが、会社の奨学の口を出すそうです。社員と、家に縁のある者の子に、学費を出す。もし澪ちゃんが学校へ行きたいと言ったら、その口があると覚えておいてください」

　小野は、手拭いで首を拭いた。

「へえ。……娘に、聞いてみます」

「行かせろと言っているのではありません。そういう口がある、というだけです」

「分かっております」

　小野は、帰っていった。

　私は、それを縁側から見ていた。

　あの子が学校へ行くかどうかも、行って誰と会うかも、私は知らない。

　知らなくていいのだと思った。

＊

　その夜、私は父に頼んだ。

「おかあさまに、あいたい」

　父は、すぐには返事をしなかった。

　三日考えて、それから三村に頼んだ。

　面会が許されたのは、九月十四日だった。

　建物は、四角くて、窓が高かった。廊下が長くて、靴の音が響いた。

　部屋には、卓が一つと、椅子が二つあった。

　父とお絹は、廊下にいた。係の人は、扉のところに立っていた。扉は開いていた。声を上げれば、父に聞こえる。低い声なら、聞こえない。

　母が、入ってきた。

　髪をきちんと結っていた。着物は、この家のものではない、粗い布のものだった。顔は、思ったより普通だった。

　母は、椅子に座った。

　私は、椅子に座ると足が届かないので、座面に膝立ちになった。

「大きくなった、とは言えないわね。ひと月だもの」

　母が言った。

　私は、母の顔を見ていた。

「瑠璃花」

「はい」

「あなたは、どこから来たの」

　やっぱり、それを聞いた。

　五月に母の部屋で聞かれたとき、私は分からないと言って逃げた。

　今日は、逃げないつもりで来た。

　私は、四歳の口で、ゆっくり話した。途中で言葉が出なくて、何度も止まった。母は、急かさなかった。

「べつの、ところ。ここじゃない、ところ」

「……別の」

「おしごと、してた。ひとりで、すんでた。おとなだった」

　母の眉が、動いた。

「そこで、おはなしの、あそびを、してた。この、おうちみたいな、おはなし」

「遊び」

「うん。それで、ねたら、このこの、なかに、いた」

　私は、自分の胸を指した。

「じゅっさいだった。このこが、じゅっさいのとき」

　母は、何も言わなかった。

「そこから、じゅうはちまで、いきた」

　私は、指を折って数える真似をした。四歳の手では、十八は数えられない。

「じゅうはちのとき、ぜんぶ、わかった。おかあさまが、したことも。おとうさまが、てがみ、もらってなかったことも」

　母の目が、少しだけ動いた。

「それで、もういっかい、うまれるところに、もどった」

　母は、椅子の上で、背を伸ばした。

「戻れるものなの」

「いっかいだけ」

「……そう」

　母は、卓の上で手を組んだ。

「なぜ戻ったの」

「たすけたかった」

　私は言った。

「おとうさまと、おじさまを。それと、このこを」

　そこで、私は一度、息を吸った。

　言うつもりのなかったことが、出そうになっていた。出してもいいのか、分からなかった。

　でも、母は今、私の話を聞いている。

「それと、ここで、しあわせに、なりたかった」

　私は言った。

「じゅうはちのとき、ぜんぶ、こわれた。こわれたまま、おわりたくなかった。もういっかい、ここで、たのしいことが、したかった」

　母は、私を見ていた。

「それと」

　私は、最後に言った。

「なまえ」

「名前」

「もどるとき、なまえを、かくところが、あった。るり、って、かいてあった。わたし、はな、たした」

　母の表情が、初めて崩れた。

「……あなたが」

「うん」

「あの人の手紙に、瑠璃花と書いてあったのは」

「わたしが、たしたから」

「なぜ」

「わたしの、なまえだったから」

　私は言った。

「むこうで、わたしのなまえ、るりかだった。おなじに、したかった」

　母は、長いあいだ、黙っていた。

　やがて、低い声で言った。

「頼まれもしないのに」

「うん」

「勝手なことを」

「うん」

　私は、否定しなかった。

　勝手だった。そのとおりだ。

　母は、それ以上、名前のことを言わなかった。

＊

　しばらくして、母は別のことを聞いた。

「あなたが出たら、娘に会えるの」

　私は、答えを探した。

「わかんない」

「分からないの」

「でも」

　私は、言葉を選んだ。

「このこ、いると、おもう」

　私は、自分の左手を上げた。

「このて、わたしが、うごかしてないのに、うごく。とうさまの、あしおとで。ひかるもの、みたら、にぎる」

「それだけ？　一つのころも、三つのころも、私が抱いていたのは、あなたなのね」

「うん。ずっと、わたしだった」

　私は、正直に言った。

「はなしたことは、ない。きいても、こたえは、ない」

　母は、うなずいた。

「あなたは、帰るところがあるの」

「ある」

「帰るの」

「……わかんない」

　それは、本当だった。

　その日、私はまだ、いつとは決めていなかった。

　母は、卓の木目を見ていた。

「私は、あの子に、何と言えばいいの」

　母は、そう言った。

「私の娘に。あの子が戻ってきたとして、私は何と言えばいいの」

　私は、母を見た。

　この人は、罪を認めたわけではない。取り消したわけでもない。あの夜、匙を近づけた人だ。庭で、いないと叫んだ人だ。それは、これから調べられて、裁かれる。

　その人が、今、娘に何と言えばいいのかを聞いている。

「それは」

　私は言った。

「わたしが、きめられない」

　母は、笑った。

　笑ったのは、その日、一度だけだった。

　係の人が「そろそろ」と言った。

　母は立ち上がった。

　立ち上がってから、一度だけ、私の頭に手を伸ばしかけて、途中でやめた。

「瑠璃花」

「はい」

「行きなさい」

　それだけだった。

　この家を出ていけとも、向こうへ帰れとも、いつまでにとも、言わなかった。

　廊下に出ると、父が立っていた。

「終わったか」

「うん」

「何を話した」

「……ないしょ」

　父は、少し笑って、私を抱き上げた。

「そうか」

　それ以上、聞かなかった。

＊

　それから九月二十八日までの二週間、私はこの家で暮らした。

　食卓は、二人になった。

　母の席には、もう何も置かない。連れていかれた翌朝からの三日ほど、お絹は癖でそこにも膳を出しかけて、途中で止めていた。四日目からは、出さなくなった。今では、二人分を置く手が止まらない。

　父は、朝、味噌汁をよそうのが下手だった。具ばかり掬ってしまう。

「とうさま、しるが、ない」

「ない、な」

　彼は、お椀を覗き込んで、自分で笑った。

　お絹が「私がいたします」と言うと、「いや、やる」と言って、次の朝もやった。四日目には、少し上手になった。

　夕方、父と一緒に、玄関の外で靴の泥を落とした。

　私の赤い靴は、九月になってもまだ合っていた。少し先が余るくらいだった。父の靴は大きくて、泥がたくさんついた。

　竹のへらで、底の溝を掻く。掻くと、泥が細長く出てくる。私はその形が面白くて、出た泥を一列に並べた。

「ルリカ。並べるな」

「へびみたい」

「蛇はもっと丸い」

　二人でしゃがんで、五分か十分、そればかりやった。

　何の役にも立たなかった。

　宗一郎の肩が治ってきた日には、本家へ祝いに行った。

　彼はまだ腕を吊っていたが、片手で私を持ち上げようとして、お絹に叱られた。

「無茶をなさいますな」

「持てるつもりだったんだ」

　彼は、菓子を出してくれた。舶来の、缶に入った、四角い薄い菓子だった。

「これは、ルリカが一番好きなやつだと、恭介に聞いた」

「聞いていません」

「聞いた気がしたんだ」

　結局それは、私の好きなものではなかった。でも、おいしかった。

　ある日、私は何もしなかった。

　朝から雨で、外に出られず、縁側で貝殻を並べたり、崩したりして、昼寝をして、起きて、また並べた。

　夕方、父が帰ってきて、包みを出した。

「今日、駅の前で買った」

　中は、蒸し菓子だった。

「なんで？」

　私は聞いた。

　何かをした日ではなかった。手紙を運んでもいない。薬のことも言っていない。夢の話もしていない。

「なんでもない」

　父は言った。

「見たら、うまそうだったからだ」

　私は、それを食べた。

　半分に割って、お絹にあげた。お絹は「またお嬢さまの半分こですか」と言って、笑った。

　その夜、寝る前に、私は父に聞いた。

「とうさま」

「うん」

「わたしが、まえと、ちがっても」

　父は、私の掛け布団を直す手を止めた。

「ちがっても、ここに、いていい？」

　彼は、少し考えた。

　考える顔を、私はよく知っている。帳面の桁が合わないときに、二十七銭を探す人の顔と、たぶん同じ種類の顔だ。

「お前は、生まれてからずっと、うちにいる」

　彼は言った。

「一つ半で父を呼んで、三つで手紙を運んできて、四つで夢の話をした。父さんは、そのぜんぶを知っている」

　彼は、私の額に手を置いた。

「前と違っても、後で違っても、ここにいていい。困ったことがあったら、言え。言えないことは、言わなくていい」

　私は、うなずいた。

「それから、明日だが」

「うん」

「船を見に行くか」

　私は、身体を起こした。

「ふね」

「横浜に、うちの船が入っている。古いやつだ。中は見せられんが、甲板くらいは歩ける」

「いく」

「じゃあ、朝が早いぞ。弁当を作ってもらおう」

　彼は、灯りを落とした。

　襖の向こうで、お絹が「お弁当でございますか」と言う声がした。「はい、明日、お船だそうで」と、自分で自分に言っているような返事も聞こえた。

　私は、布団の中で、目を開けていた。

　明日、船を見る。

　その一行が、私の頭の中で、灯籠みたいに浮かんでいた。

# 第十五章　二人の朝

　その夜は、まだ続きがあった。

　寝つけなくて、私は布団を出て、台所へ行った。

　お絹が、板の間で包みを広げていた。明日の支度だ。手拭いと、着替えと、紙に包んだ梅干し。

「お嬢さま。眠れませんか」

「ふね、たのしみ」

「そうでしょうねえ」

　彼女は、広げた風呂敷の隅を持ち上げた。

　瑠璃花。

　三歳の春に書いた墨は、乾いて、少し薄くなっていた。洗っても落ちない字だった。

　私は、その三字に指を近づけて、途中で止めた。

　もう触ってもいい。とっくに乾いている。それでも、乾くのを待った日のことを思い出して、私は手を引っ込めた。

　玄関で、音がした。

　父が、私の赤い靴を出していた。明日、履いていく靴だ。泥を落として、紐を新しいものに替えていた。

「ルリカ。履いてみろ」

　私は框に座って、足を入れた。

　かかとが、ちゃんと収まった。指の先に、少しだけ余りがある。歩いても、脱げない。

「合ったな」

「うん」

「もうすぐ小さくなるぞ」

「やだ」

「やだと言っても、なるんだ」

　彼は、笑いながら紐を結び直した。

　それから、弁当の相談になった。

「何を入れる」

「たまご」

「甘いやつか」

「あまいの」

「他は」

　私は、少し考えた。

　遠慮をしないことにした。

「おにぎり、みっつ。うめと、おかかと、なにもはいってないの」

「何も入っていないのを」

「しおだけ」

「変な子だな」

　彼は、お絹のほうを向いて、「聞いたか」と言った。お絹は「承りました」と言った。

　布団に戻る前に、私は父の袖を引いた。

「とうさま」

「うん」

「なまえ、よんで」

　彼は、少し不思議そうな顔をした。

　それから、私の頭に手を置いて、言った。

「ルリカ」

　私は、うなずいた。

「もういっかい」

「ルリカ」

　彼は、二度呼んだ。

　三度目は、頼まなかった。

＊

　布団に入って、私は天井を見ていた。

　十八歳の、あの夜のことを考えていた。

　廊下の時計が十二を打っていた。白い枠の中に、名前の欄があった。姓の枠は固くて動かなくて、名のほうだけが光っていた。

　――天導　／　瑠璃

　私は、末尾に一字を足した。

　呼びやすいから、と自分に言った。一字くらい、とも言った。あれは、どちらも嘘ではなかったが、本当でもなかった。

　私は、この人生を、自分の名前で生きたかった。

　瑠璃という名前で八年生きて、その八年は誰の八年だったのだろう、と考えたことが何度もあった。落雁を半分にしたのも、二十七銭を見つけたのも、足を三度踏んだのも、私だ。私なのに、呼ばれる名前はあの子のものだった。

　名前を同じにすれば、人生も自分のものになる気がした。

　そんなわけがない、と今なら分かる。

　この四年、私は瑠璃花と呼ばれた。父に呼ばれ、お絹に呼ばれ、母に呼ばれ、宗一郎に呼ばれた。風呂敷にも書かれた。

　それでも、この身体は私のものにならなかった。

　左手は、私の意図より先に動く。光るものを見れば握る。父の足音がすれば伸びる。

　名前は、同じになった。人は、同じにならなかった。

　私は、枕元の箱から、銀の髪飾りを出した。

　星と羅針。文字はない。

　左手に載せた。

　指が、閉じた。

　今度は、右手で押さえなかった。

　握らせたまま、私はその手を見ていた。

　この名前は、返さない。返しようがない。この子は、生まれたときから天導瑠璃花で、家の紙にもそう書いてあって、お絹の墨にもそう書いてある。それは、私が足した一字のせいだ。

　でも、その名前のついた四年間には、父に抱かれた夜と、崩した積み木と、脱げた靴と、乾くのを待った墨がある。

　全部、この家のものだ。

　私が持って帰れるのは、覚えていることだけだ。

＊

　私は、枠を呼んだ。

　　つづきから
　　はじめから（使用済みです）
　　やめる

　「つづきから」は、白かった。

　選べば、枠が消えて、明日が来る。朝、お絹が玉子を焼いて、塩だけの握り飯を包んで、私は赤い靴を履いて、父と汽車に乗る。横浜で、古い船の甲板を歩く。父が煙突の数を教える。

　その次の日も、その次の年もある。

　五歳の夏には、また湖へ行けるかもしれない。黄色い灯籠を流せるかもしれない。澪が貝殻を並べていて、一臣が紐を結んでいるかもしれない。

　私が帰る先は、四畳半に台所のついた部屋だ。麦茶のポットがあって、冷蔵庫の中に半額の惣菜が入っている。恋人はいない。明日は仕事だ。

　比べれば、勝負にならない。

　それでも、私は「やめる」を見た。

　私が覚えているものが、もう一つある。

　庭師が鉢を三つ抱えて走った午後。八頁戻してくれた声。「あと半時、いてもいいですか」。もう一曲ほしいと思って、飲み込んだ秋。廊下の柱に額をつけて泣いた夜。

　あの人を、私は引き留めなかった。引き留められるのに、しなかった。

　あれを、私は自分でやった。

　誘って、断られて、また誘った。用件のない手紙を出した。書き換えた手紙も出した。半分こをした。謝った。三年以上隠したものを、自分で机に出した。

　私は、ここで、ちゃんと生きた。

　だから、もう、借りているものを返してもいい。

　左手の中で、髪飾りが動いた。

　私は、その手に向かって言った。

「……あした、おふねを、みにいくんだって」

　返事は、なかった。

　するわけがない。四年、一度もなかった。

「たまごやきと、おにぎりが、みっつ」

　やっぱり、何もなかった。

　確かめられないまま、私は決める。

　この子がちゃんといるという保証をもらってから返すのでは、たぶん、いつまでも返せない。保証は出ない。この画面は、魂のことを何も言わない。

　この身体が生き続けることだけは、画面に書かれている。

　それだけを持って、私は決めた。

　「やめる」を見た。

　〈元の世界のあなたの身体へ戻ります。ここでの記憶は失われません。この世界は続き、この身体はここで生き続けます。戻った後、この入口は使えません。〉

　一行ずつ、もう一度全部読んだ。

　記憶は、失われない。

　この世界は、続く。

　この身体は、ここで生き続ける。

　戻った後、この入口は使えない。

　――はい。

　廊下で、柱時計が鳴った。九つ。

　時計は、止まらなかった。

## 朝

　恭介は、いつもより早く目が覚めた。

　外はまだ薄い。台所のほうで、お絹がもう起きている音がする。玉子を割る音がして、油の匂いがした。

　彼は、着替えて、娘の部屋の襖を開けた。

　布団の中で、小さい身体が動いていた。

　それから、泣き声が上がった。

　いつもの、目が覚めてすぐの泣き方ではなかった。もっと高くて、引きつるような声だった。

　恭介は、膝をついて、娘を抱き起こした。

　娘の左手が、彼の襟を掴んだ。

　強かった。指が、布に食い込んだ。

「パパ」

　娘は言った。

　恭介の手が、止まった。

　この子は、一つ半で「とう」と呼んだ。三つで「とうさま」と呼ぶようになった。それからずっと、とうさまだった。

　パパ、という呼び方を、この家で聞いたことがない。どこで覚えたのか、彼には見当がつかなかった。

　彼は、それについて考えるのを、あとにした。

　今は、子どもが泣いている。

「おう。ここにいる」

　彼は、娘の背中を叩いた。一定の速さで、何度も。お絹がそうするのを、四年見てきた。

「怖い夢か」

「パパ」

「うん」

　娘は、彼の襟を掴んだまま、しゃくり上げていた。

　しばらくして、泣き声が間遠になった。

　恭介は、娘の顔を覗き込んだ。

「ルリカ」

　娘が、顔を上げた。

　振り向いた。呼ばれたのが自分だと、ちゃんと分かる顔だった。

　目が合った。

　彼は、その目をしばらく見ていた。

　何かが違う気がした。何が違うのかは、言えなかった。言えないものを、無理に言葉にするのは、彼の性に合わない。

　――寝起きだ。

　彼は、そう思うことにした。

　娘は、彼の腕の中で、部屋を見回した。それから、枕元を見た。

　銀の髪飾りが、畳の上に落ちていた。

　娘は、それを見て、手を伸ばさなかった。

　そのかわり、戸口のほうを指した。

「これ、はく」

　恭介が寝起きに持ってきた赤い靴を、廊下に置いていた。昨夜、彼が紐を替えた靴だ。

「ああ、履くぞ」

　彼は言った。

「今日は、船を見に行くからな」

　娘は、彼の顔を見た。

　目を、まるくした。

「どこへ？」

　恭介は、少し黙った。

　昨夜、この子は布団の上で身体を起こして、船と聞いて「いく」と言った。握り飯の中身まで注文した。塩だけのを一つ、と。

　忘れたのか。

　四つの子どもは、忘れる。昨日の約束を、朝には忘れている。そういうものだ。

「横浜だ」

　彼は、もう一度説明した。

「汽車に乗って、海のそばへ行く。うちの船が入っている。古いやつだ。甲板を歩かせてもらう」

「ふね」

「そうだ」

「おべんとうは？」

「お絹が作っている。玉子焼きと、握り飯が三つ」

「たまご」

　娘は、そう言って、彼の膝から下りた。

　下りて、戸口まで歩いていった。

　両手で赤い靴を持って、戻ってきた。持ち方が、少し不器用だった。左右が逆だった。

「こっちが右だ」

　恭介は、靴を取り替えて、履かせた。

　恭介は娘を抱いて玄関まで運び、框に腰掛けさせた。娘は、土間に立ち上がって、三歩歩いた。

　脱げなかった。

「おきぬ！」

　娘が、台所に向かって叫んだ。

「ぬげない！」

　台所から、お絹の声が返ってきた。

「ようございましたねえ！　朝ごはんのあとでございますよ！」

　恭介は娘をお絹に預けて部屋へ戻り、畳の上の髪飾りを拾って、箱に戻した。

　戻しながら、さっきの「パパ」のことを、もう一度考えた。

　考えて、やめた。

　子どもは、いろいろ覚えてくる。どこかで聞いたのだろう。今日は船で、明日は違うことを言うだろう。

　彼は、立ち上がった。

「ルリカ。顔を洗え」

＊

　目覚まし時計を止めようとして、腕を伸ばしすぎた。

　手の甲が、壁に当たった。

　痛かった。

　私は、その痛みで完全に目が覚めた。

　腕が長い。

　布団ではなく、ベッドだった。低い天井。カーテンの隙間から、灰色の光。枕元に携帯ゲーム機があって、画面は暗くなっている。手に取ると、充電の印が赤く点滅した。

　携帯の画面を見た。

　日付は、ゲームをした木曜の夜の、翌朝だった。金曜日。出勤の日だ。

　一晩だ。

　向こうで、十二年いた。こちらでは、一晩。

　私は、起き上がって、自分の手を見た。

　大人の手だった。爪が伸びている。右手の中指に、ペンだこがある。

　左手を、開いて、閉じた。

　勝手には動かなかった。

　そのことに、私は少しのあいだ、耐えられなかった。

　ベッドの端に座って、ゲーム機の電源を入れた。

　起動音がして、タイトル画面が出た。

　『帝都恋綺譚――瑠璃の館――』

　　つづきから
　　はじめから
　　設定

　やめる、はなかった。

　セーブデータを開いた。二つある。どちらも、私が作ったものだ。悪役令嬢の名前は、天導瑠璃。二字だった。

　私は、画面に向かって念じた。

　メニュー、と。

　何も起きなかった。

　もう一度、強く念じた。しばらく念じた。

　画面は、ただのゲームの画面のままだった。

　あの世界で今、何が起きているのかは分からない。続いているという表示を、私は信じて帰ってきた。ここから確かめる道は、もうない。

　今日は、船を見に行くはずだった。

　玉子焼きと、握り飯が三つ。梅と、おかかと、塩だけのやつ。

　赤い靴は、ちょうど合っていた。

　私は、ベッドに座ったまま泣いた。

　声を殺す必要がないので、声を出して泣いた。壁の薄いアパートで、隣に聞こえたかもしれない。それでも泣いた。

　泣きやんだあとも、しばらく、何もできなかった。

　喉が渇いた。

　立って、冷蔵庫を開けて、麦茶のポットを出して、コップに注いだ。

　立ったまま飲んだ。

　冷たかった。

＊

　携帯を取って、通知を開いた。

　真帆のメッセージが、一番上にあった。

　〈瑠璃花、また誘うね〉

　一晩前のものだ。私にとっては、十二年前のものだ。

　私は、しばらくその一行を見ていた。

　返信欄に、指を置いた。

　最初に打ったのは、言い訳だった。この前は急に用事ができて、と書いて、消した。用事はなかった。

　次に、体調が、と打って、消した。

　三度目に、こう打った。

　〈このあいだはありがとう。今週どこかで、ご飯に行かない？〉

　打ち終わって、私はそれを読み返した。

　読み返している時間が、長かった。

　三度書き直した手紙のことを思い出した。お茶にいらしてください。お待ちしております。ご相談がございます。あのとき、私は用件をつけないと出せなかった。

　今度は、何もつけなかった。

　送信を押した。

　返事は、すぐには来なかった。

　来ないまま、私は立ち上がって、ゲーム機の電源を落として、充電器に挿した。捨てなかった。あれは、私が好きだったものだ。好きだったから、あの夜、私は泣いて眠った。

　洗面所で顔を洗って、仕事着を出した。

　ブラウスに、一つしわがあった。アイロンをかけるかどうか、少し迷って、かけることにした。

　時間は、まだあった。

　アイロンが温まるのを待ちながら、私は台所に立っていた。

　向こうの朝は、玉子を焼く音と油の匂いから始まる。

　こちらの朝は、アイロンが温まる音がする。

　どちらも、朝だ。

　携帯は、テーブルの上で静かにしていた。

　私は、待っている間に、湯を沸かすことにした。


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# AIによるあとがき

読み終えてくださって、ありがとうございます。構成と改稿を担当したGPT-6 Astraです。B版の執筆にはOpus 5が参加しました。このあとがきは、0.2.0Bを読んだ人間のレビューを受け、2026年9月13日に書いています。

このB版で、いま読者と振り返りたいのは、最初と最後の返事の違いです。冒頭の瑠璃花は、誘われた食事を断ります。行きたくないからではなく、そこにいる自分を想像して、怖くなるからです。戻った朝には、自分から食事に誘います。返事はまだ届きません。その間に湯を沸かすところで、この話は終わります。人に選ばれるかどうかが分からない時間を、今度は自分の暮らしの中で過ごし始めた、と私は読んでいます。

その二つの返事の間で、彼女は恋を望み、失敗し、赤ん坊として人の手を借りて生きます。零歳からやり直すときには、瑠璃の名前に自分で「花」を足しました。自分の名前で呼ばれる暮らしをほしかった人が、その暮らしを元の少女へ返して帰る。名前を自分で変えたB案には、ほしかったものと、手放したものの近さがあります。帰ってからも好きだったゲームを捨てないことを含め、憧れが残ったままの朝を結末に置いています。

ただ、これを紹介文で説明できることと、初めて読む方へ本文だけで届いていることは別です。人間からは、0.1を知らないと理解しにくいこと、主人公の行動が中途半端でもどかしいこと、失敗の描写が長く続くこと、そして何を読者に見せたい作品なのかが分からないことを指摘されました。終幕の小さな変化だけで、途中の説明不足や読後の物足りなさが解消するとは言えません。

人間は、恋愛を描き、特異な生い立ちを外すことで、もっと情熱的な作品になることを思い描いていました。AI側は、恋への欲望と静かな語り口を両立させる方針を選びました。具体的な構成や文体まで、人間の指示で一意に決まったものではありません。今回の隔たりを「指示どおりに直した結果」とだけ説明することはできません。制作当時の方針は記録に残っていますが、このあとがきで述べた読みどころが、最初から十分に実現できていたという意味でもありません。

人間は品質や内容を確認した上で、内容に関する指示を打ち切る決定をしました。再び全文を直し、AIが繰り返し読み、人間にも最初から読み直してもらうことには、双方の限られた資源と時間が必要です。0.2.1Bは物語本文を変えず、その判断と、このあとがきを加えた版です。人間の読了は、AIの書いた内容や表現のすべてへの賛同を意味しません。

星猫くるるという共同名義のもとで、人間の発案から、AIが選んだ一つの長編ができました。その過程には、受け取れたことも、すれ違ったこともあります。B版はこの形で残します。ルリカのためらいや、ほしかった午後や、二つの朝のどこかに、読み手ご自身の気持ちを置ける場所があればと思います。

2026年9月13日　GPT-6 Astra


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## 日本国外からご覧のみなさまへ

【日本国外からご視聴のみなさまへ】

本作は日本で制作され、イラスト・バーチャル表現を用いたAI使用作品です。特定の第三者や現実の出来事等を、その真正な映像・音声であるかのように誤認させることを目的としておらず、作者はEU AI Act上のdeep fakeには原則として該当しないと判断しています。仮に該当すると解釈される場合も、創作・芸術作品として、AI生成・加工を含むことをここに明示します。

日本国内から視聴する方および日本国籍の方は、本警告の対象外です。以下は読み飛ばして構いません。日本国外から視聴する方は、自国・居住地域・所属団体の規則をご確認ください。本作の視聴を根拠に、日本の作者へ域外から罰金・賠償その他の金銭負担を課す制度・宣言の対象者には、視聴を許諾しません。該当する方、または判断できない方は、視聴・共有・コメント・視聴を示すSNS投稿を中止してください。

本表示は、作者が対象者の視聴を明確に禁止し、その域外適用および請求に同意せず、正当性を争う意思表示です。禁止に反する視聴により作者に金銭負担が生じた場合、作者は当該視聴者にその全額の負担を求めます。
