# 天導ルリカは生まれるのを止めた

ベータ版 0.2.1C

父が七夜に花を足す案

2026年9月14日改版（初版：2026年9月11日）

人間は2026年9月14日に0.2.0Cを読了しました。0.2.1Cは確認状況と掲載説明を更新した版で、物語本文は0.2.0Cと同一です。

完成稿の比較でGPT-6 AstraとOpus 5はBよりCを推薦しました。C単体で十分に理解できるかは未検証です。

0.3を制作する場合はCを基に改善する計画ですが、現在は本文の修正・執筆を保留しています。

本作の制作は打ち切りました。再開時期および再開する場合の内容は未定です。

主な理由は、Astraの消費が激しく、制作にリソースを割くことが困難になったためです。

星猫くるる：人間とAIの共同名義

原案・制作責任：星猫くるる

執筆：Opus 5 ／ 構成・改稿・確認：GPT-6 Astra、Opus 5

協力：Rena Mishow

作品・お問い合わせ：https://currnya-kururu.static.hf.space/

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# 序章　十八歳の夜

　星の間の壁には、天井の縁まで星図が貼られている。北の空をひとつ、南の空をひとつ、そのあいだに海図がいくつも並び、赤い糸で航路が引いてある。糸の折れ目に印がついているのは、天導の船が寄った港だという。祖父の代から誰も貼り替えていないから、いまでは実際の航路と合わない線もあるらしい。それでも誰も剥がさない。この家の人間は、古い紙をとても大事にする。

　壁の下半分には時計が並ぶ。船舶用の真鍮の時計が四十三。数えたのは十二の冬で、数え終わったとき、私は自分がこの家に二年いることに気づいた。四十三のうち、まだ動いているのは十九だけだ。動いている十九の秒針がわずかにずれて刻むので、この部屋にいると、雨が屋根を叩いているような音がずっと続く。

　その音の中に、私は立っていた。

　黒と深紅の衣装だった。この家では十八の成年披露に、当主の血筋の子は黒地を着ることになっている。深紅は袖口と胸元の縁取りに使われていて、動くたびに黒の中から細く見える。裾は重く、歩幅を狭くしないと踏む。仕立て直しは三回した。三回とも、私は鏡の前で息を吸って、吐いて、それからうまく笑えたかどうかを確かめた。

　鏡には天導瑠璃がいた。

　十八の瑠璃。私が十歳の八月からずっと借りている顔。目のかたちが母に似ていて、そこだけ私は見るのが苦手だった。髪は結い上げてある。まだ髪飾りは挿していない。

「動かないで」

　母が後ろに来た。手には銀の星があった。

　六つの角を持つ、掌に隠れるほどの小さな星だ。裏には彫りがある。「瑠璃へ」。三文字だけの、そっけない刻印。私が十歳でこの身体に来た次の日、髪を梳いてくれた女中のフミが「お誕生の前に旦那様がご用意なすったものです」と教えてくれた。旦那様、というのは、母の夫だった恭介のことではない。天導宗一郎のことだ。母の従兄で、私には「おじさま」と呼ばせていて、十四年前に湖で亡くなった人。

　母の指が私の髪に触れて、星を留めた。

「今夜はこれをつけていなさい」

「はい」

「あなたは瑠璃という名前で紹介されます。瑠璃丸の瑠璃。天導の船の名前。それだけ覚えていればいいの」

　母は鏡台の引き出しを開けた。上から順に、二段目まで。中を見て、閉じた。それだけだった。母は昔からときどきこれをする。私の持ち物を検分するというより、そこにあるはずのものがあるかを確かめる手つきだ。指は引き出しの奥までは入らない。底までは、なおさら。

　鏡の中で母と目が合った。母は少し笑った。四十四歳の、疲れていない日の笑い方だった。

「よく似合っている。深紅は難しい色なのに」

　私は嬉しくなってしまった。そういう自分に気づいて、袖口を直した。

　今夜、私は何を失うのだろう。数えかけて、やめた。数え始めると足が動かなくなる。

　この服は、一臣に見せたかった。仕立ての最後の日に、袖口の深紅がもう少し見えるようにしてくださいと私は仕立屋に頼んだ。腕を動かしたときに、赤が糸のように光るのがいいと思ったからだ。一臣がそれに気づくとは限らない。気づかなくてもいい。気づいたら嬉しい。そのくらいのことのために、私は三日迷って仕立屋に手紙を書いた。

　いま、その袖口の中で、私の腕は冷たい。息苦しい。首の後ろに、髪と一緒に何かを結い上げられてしまったような感じがする。

　＊

「その色でよかった」

　広間に降りて、人の輪をいくつか通り抜けたところで一臣が言った。二十四歳の彼は、この二年でずいぶん背広が似合うようになった。私の肘のあたりに、支えるでもなく手を添える。これは彼の癖で、階段のあとに必ずやる。

「袖口が」

「はい」

「動くと見える。前に見た布地見本より赤い」

　私は袖を少し振ってみせた。ばかみたいだと思いながら、やってしまった。

　一臣は真面目な顔で頷いて、それから、思い出したように言った。

「『北方回航記』の下巻、まだ返せていない」

「急ぎません」

「いや、返す。来月の茶会に持っていく。三村さんが月末に来るというから、その前後で家の用が片づく。片づいたら」

「片づかなかったら?」

「片づける」

　彼はそういう言い方をする。冗談で返しているのか、本当に予定を組んでいるのか、二年経っても私にはたまに分からない。分からないまま、私は嬉しい。来月の茶会。彼と私には、今夜の先の予定がまだある。それを彼のほうから口に出したということが、私の胸の中で、灯りが一つ増えたみたいになる。

　澪が近づいてきた。十九歳。去年、私が贈った洋装を着ている。淡い青の、襟の高いもので、彼女に似合うと思って選んだ。彼女はそれを着てくるとき、必ず「借りているつもりでいます」と言う。今日も言った。

「借りているつもりでいますから」

「返さなくていいんですけど」

「そういう問題ではないんです」

　澪は隣に座った。今夜、私の隣に座る人はもう決まっていた。彼女がそこにいるのは、私が頼んだからでもある。

「瑠璃さん」と澪が言いかけた。

　私は先に言ってしまった。

「言わないでください。今は」

「え」

「待ってしまうから」

　澪が黙った。何かを言いかけていた口が、そのまま閉じた。私は自分の膝を見ていた。彼女が今夜のどの時間に何をするか、私は知っている。知っていて、それでも、彼女が「今からやります」と言ってしまったら、私はその言葉に寄りかかって、自分では動かなくなる。誰かが始めてくれるのを待ってしまう。私はそういう人間だ。二十七年やって、こちらで八年やって、まだそうだ。

　正面の壇で、貞光が挨拶を始めた。

　天導貞光。母の兄。私がここへ来る前から天導の家の後見人であり、実質の当主だった人。五十四歳の声はよく通る。天導瑠璃の成年を祝う言葉、亡き宗一郎への言葉、家の航路への言葉。拍手が起こる。

　悪人だけの集まりではない。この広間には、私が八年かけて挨拶を覚えた人たちがいる。学院の教師がいる。一臣の商会の人がいる。去年、庭の薔薇の株を分けてくれた老婦人がいる。慎の父の蘆田先生もいる。慎も父の少し後ろにいた。今夜は自分で話す、と手紙が来ていた。その手紙の字を、私は三回読んだ。

　この二年で、私はこの部屋を好きになってしまっていた。

　＊

　澪が立った。

「小野澪と申します。天導家に十二年お仕えした小野弥吉の娘です。父は湖の星見荘を守っておりました」

　部屋の音が変わった。秒針の音が急に大きくなったように聞こえた。

「十四年前の八月十五日、桟橋で何があったか、父が書き残したものがございます」

　澪は懐から封筒を出した。手が震えていた。震えたまま、彼女は続けた。

　私は母を見た。母のグラスが、指から滑って落ちた。石の床で割れた音は、思ったより小さかった。誰かが「奥様」と言った。母は動かなかった。母は澪を見ていなかった。私を見ていた。

　肘に添えられていた一臣の手が、離れた。

　離れたのは、私を捨てるためではなかったと思う。彼は前へ出ようとしたのだ。父の名前が出るのを、彼はもう予想していた。それでも、手が離れた瞬間に肘のあたりが冷えたのは本当だった。

　澪が言った。

「そして、桟橋に天導貞光様がいらしたと、父は書いております」

　叫び声のようなものが上がった。

　ここから先は、順番が決まっている。澪の父の遺言。慎が持ち出した処方簿。一臣が見つけた根回しの下書き。早瀬という記者が探し当てた二人の証人。そして今朝、三村弁護士が私に届けた封書。

　その最後に、私が出すものがある。

　藍色の表紙の帳面だ。母の家計簿。十四歳の冬、切手を探して母の文机の抽斗を開けたときに見つけた。薬の購入が六回。余白に母の字で「八月、湖、灯籠、舟屋」。私はそれを持ち出して、自分の部屋の鏡台の底に隠した。母を助けるためだと思った。実際にはそれから三年余り、私は誰にも見せなかった。

　母が湖で何をしたのか、私は知っていた。十歳のときから知っていた。ゲームで知っていた、と言えば、ここの誰にも通じない。

　私は良い子だった。八年、間違いなく良い子だった。朗読を練習し、母の髪を梳き、伯父に丁寧に挨拶し、使用人の名前を覚え、一臣に手紙を書き、澪に洋装を贈った。そのうちのいくつかは、心から嬉しくてやった。いくつかは、この家に置いてもらうためにやった。いくつかは、証拠を出さないための保険だった。三つは混ざっていて、いまさら分けられない。

　冤罪の令嬢が濡れ衣を晴らす夜ではない。私は自分の袖の中に、三年余りの沈黙を畳んで持ってきている。

　私は立ち上がった。裾が重い。歩幅を狭くしないと踏む。

　母がまだ私を見ていた。

「瑠璃」

　私は母の呼ぶその名前に、返事をした。

# 第一章　十歳の部屋

　日曜の買い物帰り、コンビニで肉まんを買った。袋の口を握って歩くと湯気が指にあたって、それが嬉しいくらいには、私は普通に生きていた。

　部屋は六畳と台所。壁際に折りたたみの机、その上に会社の鞄と、充電したままのゲーム機。ベッドに座って肉まんを食べ、味噌汁をひとつ作って飲んだ。二十七歳の、九月最後の日曜日。仕事は事務で、忙しいのは月末だけで、締めの山は金曜に越していた。恋人はいない。休日に誰かを誘うことも、めったになかった。

　スマホが鳴った。同じ課の北原さんだった。

『そういえば瑠璃花さん、辛いの平気でしたっけ。駅前にできた麻辣の店、今度行きません? 来週の水曜とかどうですか』

　私は肉まんを置いて、両手で返事を打った。

　行きたかった。本当に行きたかった。北原さんは笑う声が大きくて、話しているとこちらまで声が大きくなる人で、私はその時間が好きだ。麻辣も食べられる。水曜は何もない。

　なのに、指が止まった。

　水曜に着ていく服がない、と思った。会社の服のまま行くのは変だろうか。いや変ではない。でも北原さんはたぶん着替えてくる。私が会社の格好で行ったら、この人は誘われて嬉しくなかったのかなと思わせてしまうかもしれない。それに、店で二時間、何を話すのだろう。北原さんは話題を出してくれる人だけど、こちらが出さないと、いつか誘うのをやめる。三回誘って三回とも会話が続かなかったら、人は誘わなくなる。私はそれを知っている。知っているのに、その三回目をこわがって、一回目から逃げる。

『わあ、麻辣いいですね。ただ来週ちょっとバタバタしてしまいそうで……次はぜひ!』

　送ってから、天井を見た。

　来週はバタバタしない。次があるかどうかは、私が決めたことではなくなった。

　ゲーム機を取った。電源を入れると、いつもの帝都の空が出る。『帝都恋綺譚――瑠璃の館――』。三年前に買って、たぶん七周した。

　主人公の名前は、小野澪。私は彼女の返事を選びながら、三人の相手と恋をした。一臣のルートが好きだった。彼は序盤ずっと不愛想で、主人公に本を貸す。感想を言うと「そうか」としか返さない。それが第四章で、主人公が風邪で読書会を休んだ日に、彼が門のところで待っている。用事は「本を返してもらう」で、返してもらったあと、彼は帰らずに立っている。「用がなくなったが、まだいる」と言う。あの一行のために、私は何度もあの章を読み返した。

　慎は違う。彼は言葉を急がない。詩を読むとき、行の終わりで必ず一拍おく。主人公が「早く続きを」と言うと、「急ぐと、詩がかわいそうだ」と言う。あの台詞を初めて聞いたとき、私はゲーム機を伏せて笑ってしまった。

　遼はうるさい。取材のためなら塀を乗り越えるし、危ないところに主人公を連れて行って怒られる。でも彼だけが、悪役令嬢の天導瑠璃に対して「あの子だって誰かの娘だろ」と言った。

　その天導瑠璃が、TRUEルートでは救われない。

　真相ルートでは、十四年前の湖の事件の犯人と、養女指名の偽造が明らかになる。主人公の小野澪が集めた証拠を前に、三村弁護士が書面の不審を指摘し、家令の佐伯が印を使わせた経緯を証言する。瑠璃は家を出る。最後に、追放されていた父親が門の前に立っている。彼は名乗らず、ただ「送っていこうか」と言う。瑠璃は「あなた誰」と言って、それから泣く。父は「昔、あなたを抱いていた者だ」と言う。

　そこで私はいつも泣く。今夜も泣いた。エンディングの歌が終わって、画面が暗くなるまで見て、そのままベッドに倒れた。

　電気を消して、目を閉じた。麻辣、と思った。次はぜひ、と自分が打った文字を思い出した。ぜひ、って何なんだろう。

　＊

　枕が濡れていた。

　目が覚めた最初の一秒、私は自分が泣きながら寝たのだと思った。次の一秒で、枕が違うと気づいた。硬い。麻の匂いがする。

　喉の奥に、言葉の尻尾のようなものが残っていた。自分が言い終えたのではない言葉。

　――……なければ、よかった。

　誰の声か分からなかった。私の声ではなかった。

　身体を起こした。腕が短い。手のひらが小さい。持ち上げた腕の重さがなくて、勢いあまって布団に手をついた。天井が高い。木の梁が見える。窓が縦に長くて、外は明るい。蝉が鳴いている。

　私は立ち上がった。膝が軽い。走り出せそうな軽さだ。自分が子どもだったころの、こんな軽さはもう覚えていない。

　部屋の隅に鏡台があった。近づいて、覗いた。

　十歳くらいの女の子がいた。黒い髪を肩で切りそろえて、目のかたちがきつい。頬にまだ丸みがある。泣いたあとの目をしている。

　天導瑠璃だった。

　ゲームの立ち絵より幼い。でも間違えようがない。眉の角度も、口の端の下がり方も、私が七周のあいだ何度も見た顔だった。

　鏡台の上に、紙が一枚あった。学院の予定表だった。日付の欄に八月十五日と書いてある。誕生日は四月二十日、と私は覚えていた。ゲームの設定資料に載っていた。ということは、この子は今年十歳になったところだ。

　――どうして。

　廊下から足音がした。

「瑠璃」

　女の人の声だった。低くて、はっきりしている。

　私は息を止めた。返事をしなければ、と思った。返事をしないと、誰かが入ってくる。入ってこられて、この身体の中身が違うと知られたら――知られたらどうなるかも分からないのに、こわかった。

「はい」

　自分の口から出た声が高くて、驚いた。

「起きているのね。降りてきなさい」

　足音が遠ざかった。

　私は鏡の中の女の子を見た。この子が昨日まで何を考えていたのか、私には何も分からなかった。記憶が流れ込んでくることも、頭の中に誰かの声が残っていることもなかった。あるのは、あの「……なければ、よかった」という言葉の尻尾だけだった。

　＊

　仏間には珈琲の匂いがした。

　仏壇のある部屋で珈琲を飲む人を、私は初めて見た。母――天導藤乃は、白い着物の襟を正して座り、小さな茶碗のようなものから飲んでいた。三十六歳。ゲームの立ち絵より、痩せている。

　仏壇の横に写真が掛かっていた。三十歳くらいの男の人。目が涼しい。口を結んで、少しだけ笑いかけている。

　天導宗一郎。

　私はゲームで彼の肖像を何度も見た。物語が始まったときにはもう死んでいる人。事件のすべての中心にいて、一度も喋らない人。

「六年になりますね」と母が言った。

　私は座った。座り方が分からなかったので、母の座り方を真似た。膝が痛い。

「宗一郎さまが湖でお亡くなりになって、六年」

　母は珈琲の茶碗を置いた。

「瑠璃。今朝は、話の途中で部屋へ戻ってしまいましたね。あなたも大きくなったのだから、最後まで聞いておきなさい。あなたの父親のことです」

　私は顔を上げた。

「恭介さんはね」と母は言った。「あなたを差し出して、この家を出ていったの」

「……差し出した?」

「宗一郎さまが亡くなったのは、あの人が見ていながら何もしなかったからだと言われました。あの人は否定しなかった。そして家を離れる代わりに、あなたを天導へ置いていくことを承知した。あなたはそのおかげで、この家の子として育っている」

　母の声には震えがなかった。淡々としていた。淡々としているぶん、聞いている側がどう受け取るかまで計算されているように聞こえた。

「わたしを、いらないって言ったの」

「そうは言わなかった。ただ、置いていった」

　私は膝の上で自分の小さな手を握った。

　ゲームの中で、この養女という立場は嘘だった。TRUEルートで、養女指名の書類が偽造だと分かる。だから瑠璃は家を追われる。犯人は捕まる。でも、宗一郎はもう死んでいる。

　六年前に死んだ人は、私がここでどんなに良い子にしても、帰ってこない。

　私はそれに気づいて、初めて本当に怖くなった。ここは、頑張れば全員が助かる物語の途中ではない。もう終わってしまったことの、あとだ。

　＊

　自分の部屋に戻ると、机の上に石盤が置いてあった。学院で使うものらしい。石の板に、白い蝋石で字が書ける。

　書きかけの字があった。

　「パパは　かえってくる」

　子どもの字だった。ゆっくり書いた字だ。「かえってくる」の「る」だけ、線が長く伸びている。

　私は布で消した。右手で持って、右から左へ。消してから、自分がどうして消したのか分からなくなった。誰かに見られたら困ると思ったのだ。誰に。

　石盤を裏返すと、縁に白い粉が溜まっていた。板の左側だけ、こすれて曇っている。左手を板に置いて書けば、こうなる。私は右利きだ。

　廊下に出ると、白髪まじりの男の人が立っていた。

「お目覚めでしたか、お嬢様」

「あなたは」

「佐伯でございます」

　家令の佐伯だった。ゲームでは、養女指名の書面に使われた印について証言する人だ。

「佐伯さん。あの、恭介さんは、いまどこにいますか」

　佐伯の顔が、一瞬止まった。

「……お父上のことは、奥様にお尋ねになるのがよろしいかと」

「佐伯さんは知らないんですか」

「存じませんと申し上げるのが、正しゅうございます」

　それは、知らないという意味ではなかった。

　部屋の押入れに、写真帖があった。革の表紙で、糸が緩んでいる。開くと、最初の頁に赤ん坊がいた。次の頁に、赤ん坊を抱いた男の人がいた。三十代の、日に焼けた顔の人。作業着の襟がよれている。笑い方が下手で、写真のために作った笑顔だと分かる。

　赤ん坊の左手が、その人の指を握っていた。

　私はしばらくそれを見ていた。

　これは借りた身体だ。私はこの人たちの誰でもない。この写真の中の赤ん坊でもない。

　それは分かっていた。分かったうえで、私はまだ、少しわくわくしていた。

　この身体は軽い。ここには学院がある。一臣がいる。慎がいる。私が七周のあいだ画面越しに見ていた人たちが、生きて歩いている。二十七歳の私が水曜の麻辣を断ったのと同じ人間だとしても、ここでなら、あるいは。

　そう思った自分を、私は消さなかった。

　＊

　夜、なかなか眠れなかった。

　布団の中で天井の梁を数えて、五本まで数えて、それから、なんとなく、あのゲームのタイトル画面を思い浮かべた。

　帝都恋綺譚――瑠璃の館――。桜と洋燈の意匠。あの、始まりの音。

　目の前に、文字が浮かんだ。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　私は息を止めた。

　闇の中に、三行だけが浮いている。手を伸ばしても触れない。目を閉じても消えない。庭で虫が鳴いているのが聞こえる。世界は止まっていない。廊下を誰かが歩いていく音までする。

　「やめる」に意識を向けると、確認の文が出た。

　　元の世界の、元の身体へ戻ります。
　　ここでの記憶は残ります。
　　この世界は続き、この身体はここで生き続けます。
　　この入口からは戻れません。

　私は布団の上で身体を起こした。心臓が鳴っていた。

　帰れる。

　いつでも帰れる。私は閉じ込められていない。誰かに条件をつけられて、悪人を倒したら帰してやると言われているのでもない。

　「はじめから」に意識を向けた。

　　この人生の始まりへ戻ります。
　　このやり直しは一度だけです。

　この人生の始まりへ。つまり、この子が生まれるところへ。

　六年前に死んだ宗一郎。差し出されて出ていった父。この二つを本当にどうにかしたいなら、たぶん、そこしかない。

　私は、その行をしばらく見ていた。

　零歳。首も据わらない。喋れない。歩けない。泣くことしかできない時間が、何年も続く。あの時間を、大人の意識のまま過ごす。想像しただけで、背中が冷えた。それに、戻ったからといって事件を変えられる保証はどこにもない。この画面は「変えられます」とは言っていない。「始まりへ戻ります」としか言っていない。

　それに――と私は思った。

　明日、学院がある。

　天導一臣は今年十六だ。慎は十五。彼らはこの街のどこかで生きていて、私は明日、その世界の門をくぐる。会ってみたい。一目でも。話せなくてもいい。話せたら、それは。

　私は「やめる」も「はじめから」も選ばなかった。

　三行は、私が意識を逸らすと消えた。庭の虫の声だけが残った。

　＊

　翌朝、学院の門で、皆が退いた。

　馬車を降りて石畳に足を置いた瞬間に、正面にいた三人の女子が横へ寄った。避けたというより、道を空けた。よく躾けられた動きだった。誰も私を見なかった。見ないようにする、というのを十人ぐらいが同時にやると、空気の温度が下がる。

　教室でも同じだった。私の席の左右は空いていた。授業のあいだ、教師は私を三度あてた。三度とも、答えられるように易しい問いだった。

　昼、廊下で小柄な子とすれ違った。眼鏡をかけて、教科書を胸に抱えている。名札に「小暮」とあった。

　小暮。私はその名前を知っていた。ゲームの中で、天導瑠璃が階段で突き飛ばした子だ。持ち物を庭に捨てられた子だ。回想でしか出てこない。

「あの」と私は言った。

　小暮さんの肩が跳ねた。

「この間は、ごめんなさい」

　この間、というのがいつのことか、私は知らない。何をしたのかも知らない。それでも、この子に対して謝るべきことがこの身体にはある。

　小暮さんは私を見た。眼鏡の奥の目が、みるみる潤んだ。そして、教科書を抱えたまま、走って逃げた。

　私は廊下に立っていた。

　許してもらえたと思うな、と自分に言った。あれは、赦しではない。あれは恐怖だ。私は謝ることで自分が軽くなろうとして、この子をもう一度こわがらせた。

　帰りの馬車の中で、私は自分の膝を見ていた。

　＊

　馬車の中で、私は今日のことを順番に並べてみた。

　門で三人が退いた。教室の左右が空いていた。教師が易しい問いを三度あてた。昼に小暮さんが逃げた。午後の授業で、後ろの席の子が消しゴムを落として、私の椅子の下まで転がってきた。私はそれを拾って渡した。その子は「ありがとうございます」と言った。とても小さな声だった。

　その「ありがとうございます」を、私は帰りの馬車で三回思い出した。

　三回思い出してから、自分に呆れた。

　消しゴムを拾って礼を言われただけだ。それを三回思い出す二十七歳が、ここにいる。

　でも、それが今日いちばん良かったことだった。

　窓の外を、知らない街が流れていった。石畳と、洋燈の柱と、看板の文字。読める文字と読めない文字が混ざっている。この世界の暮らしを、私はまだ何も知らない。

　屋敷に戻ると、女中のフミが私の髪を梳いてくれた。六十近い人で、手つきがゆっくりしている。

「お嬢様、今日は静かでいらっしゃいますね」

「フミさん。わたし、灯籠って見たことある?」

　どうしてそんなことを訊いたのか、自分でも分からなかった。仏間の珈琲の匂いと、写真帖の赤ん坊の左手と、石盤の「かえってくる」が、頭の中で混ざっていた。

「まあ」とフミが手を止めた。「お忘れですか。四つのときに、湖でご覧になったでしょう」

「……覚えてない」

「そうでしょうねえ。あんなことがあった年ですから。でもお嬢様は、帰ってからひと月ばかり、灯籠のお話ばかりなさいました。青いのが一つあった、あれは誰のだった、あれはどこまで行くの、と」

「青い?」

「青みがかった白でしょうか。ほかは橙でしたのに、一つだけそういう色だったと。何度もおっしゃるので、こちらも覚えてしまいました」

　フミは櫛を置いて、私の髪の分け目を直した。

「お嬢様のお話は、いつも同じところで止まるのです。あれはどこまで行くの、と。行き先だけは、誰も答えられませんから」

　鏡台の上に、銀の星の髪飾りがあった。今朝、母が「今日はつけていきなさい」と言ったものだ。

　私はそれを裏返した。

　「瑠璃へ」

　小さく彫ってある。それだけ。

　フミが横から覗いて、「旦那様が、お生まれになる前にご用意なすったものです」と言った。

「生まれる前?」

「ええ。まだ男か女か分からぬうちに、銀細工屋へ注文なさったと聞いております」

　私は星を指で撫でた。冷たかった。

「お生まれのときも、よい泣き声でした。すぐに泣いてくだすって、産婆さんが笑っておられましたよ」

　フミは、鏡の中の私にそう言った。

　夜、私は明日の授業の本を開いた。教科書の三十二頁から。読んでも頭に入らなかったが、それでも一頁ずつ進めた。

　この身体は借り物だ。この家には嘘がある。六年前の人は死んでいる。全部そうだ。

　それでも、明日また学院へ行く。誰かと話せる人になろう。麻辣を断った私が、ここで一度くらい、はい行きますと言える人になれるかもしれない。

　私はそう思って、教科書に指を挟んだまま眠った。

# 第二章　良い子の勘定

　家庭教師の川口先生は、水曜と土曜の午後に来た。

　十歳の秋、最初の朗読で、私は失敗した。『海国志』の序という文章で、旧い言い回しばかりが並んでいる。読点の位置を間違えて、意味の切れないところで息を継いだ。二行目でつかえ、三行目で止まった。

　先生は待った。私はもう一度頭から読もうとして、また同じところで止まった。顔が熱くなった。二十七歳の人間が十歳の教科書につかえている、と思うと余計に喉が詰まった。

「お嬢様」と川口先生が言った。「今日はここまでにいたしましょうか」

「いいえ」

　自分でも驚くくらい早く出た。

「もう一回、読ませてください」

　先生は少し目を丸くして、それから紙を私のほうへ寄せた。

「では、息を継ぐところに、私が薄く印をつけます。印の場所で吸ってください。意味は、印のとおりに切れます」

　私は三度目を読んだ。印の場所で吸うと、文章がすっと通った。最後まで読み切ったとき、自分の声が部屋の中でちゃんと形を持っているのが分かった。

「よく通るお声です」と先生は言った。「急がずにお読みになれば、聞くほうも楽です」

　私は嬉しくて、その日は夕食まで自分の部屋で同じ文章を三回読んだ。

　この身体でうまくできたことが、たぶんそれが最初だった。

　冬になるころには、朝、教室に入って「おはようございます」と言うと、二人か三人が返してくれるようになった。小暮さんもそのうちの一人だった。彼女は目を合わせない。合わせないまま、小さな声で「おはようございます」と言って、すぐ自分の席へ行く。

　それでよかった。彼女が返してくれるのは、私が怖くなくなったからではなく、返しても大丈夫だと計算できるようになったからだと思う。私にはその区別がついていた。ついていて、それでも、返事が返ってくると足取りが軽くなる。

　礼儀正しくすると、生活が楽になった。使用人が私に話しかけてくれる。教師が私の名前を呼ぶ。母がときどき褒める。

　ある日、廊下でフミが盆を落として湯呑を割った。私は屈んで破片を集めるのを手伝った。フミは恐縮して、その週のあいだずっと私に甘くしてくれた。夜、寝る前に、私はその甘さを思い出して、少しいい気分になった。

　それから、こう思った。

　あと三回くらい何か手伝ったら、フミに恭介の居場所を訊いても答えてくれるだろうか。

　思ってしまってから、自分に嫌な気がした。嫌な気はしたが、その考えを捨てはしなかった。私はそういうふうに親切を数える癖を、たぶんこのころに覚えた。

　＊

　十一歳の春、佐伯から住所を得た。

　得た、というより、三月かけて少しずつ削り出した。年始の書状の宛名書きを手伝わせてもらい、返礼の整理を手伝い、古い名簿の綴じ直しを手伝った。四度目に、私は言った。

「佐伯さん。お父様に、お手紙を書いてはいけませんか」

　佐伯は名簿を閉じた。長く黙っていた。それから、紙に鉛筆で書いた。

「南浦の、蓬田造船という所へ、三年前に人が入ったと聞いております。同じ人かどうかは存じません」

　私は「ありがとうございます」と言った。佐伯は何も言わなかった。

　その晩、便箋を出した。

　書き出しで一時間かかった。

　「パパへ」と書いて、消した。私の口はその言葉を出せなかった。二十七年ぶんの私は、この人の娘ではない。この人の娘だった子が、いまどこにいるか、私には分からない。呼びかけても、声は返ってこない。それでも、この人に読んでほしいものを書くなら、あの石盤の言葉を借りるしかない気がした。

　結局、こう書いた。

『お父様

　瑠璃です。十一になりました。

　わたしの部屋の石盤に、まえに書いた字がのこっていました。「パパは かえってくる」と書いてありました。

　わたしはそれを消してしまいました。ごめんなさい。

　でも、消したことを、あなたに知らせておきたいと思いました。

　お元気ですか。お仕事はどうですか。お返事がなくてもかまいません。

　瑠璃』

　三度書き直した。四度目を封に入れた。

　翌朝、切手を貼ろうとして、母に見つかった。

「何を出すの」

「……お父様に」

　母は封筒を手に取った。宛名を見た。表情は動かなかった。

「南浦」

「はい」

　母は封筒を袂に入れた。

「出しておきます」

「自分で出せます」

「あなたが郵便局へ行くのは、まだ早い」

　母はそう言って、行った。

　返事は来なかった。

　夏に二通目を書いた。母に渡した。秋に三通目を書いた。母に渡した。冬に四通目を書いた。母に渡した。

　五通目のとき、私は宛名の下に小さく「南浦 蓬田造船気付」と書き足した。母は何も言わずに受け取った。

　返事は、一度も来なかった。

　私は、あの人はもう私のことを考えていないのだと思った。差し出して出ていった人なのだから、そういうものなのだと思った。母がそう言ったからではなく、五通とも返事がないという事実からそう考えるのが自然だった。

　ただ、そう考えたときに胸の奥が痛んだので、私はまだこの家の子ではないなと自分で思った。

　＊

　同じ年の五月、母が布を選びに連れて行ってくれた。

　呉服屋の座敷に反物が並んで、番頭が次々に広げる。母は私の顔の下に布をあてて、光の向きを変えた。

「これは駄目。顔が黄色く見える」

「はい」

「これも駄目。子どもに見せる色ではない」

　母は五本ほど却下してから、藍と、その隣の、少し緑がかった青を並べた。

「瑠璃。こちらとこちら、どちらが好き?」

　私は緑がかったほうを指した。理由はなかった。ただ、見た瞬間にそちらへ目が行った。

　母はしばらくその布を見ていた。

「あなたは目がいい」と母は言った。「その色はね、瑠璃という色に近いの。染屋が一番手を抜けない色よ」

「そうなんですか」

「あなたに似合う。よく似合う」

　母は番頭に反物を頼んだ。帰りの馬車で、母は窓の外を見ていた。私は膝の上に手を置いて、さっきの言葉を頭の中でもう一度再生していた。

　あなたに似合う。

　北原さんに麻辣を断った夜から、私はもう九か月ここにいる。誰かに似合うと言われたのは、そのあいだで初めてだった。

　この人はもう人を殺した。私がここへ来る前に。私はそれを知っている。

　知っていて、その日の午後が嬉しかったことは、本当だった。私はあとになってもその午後を取り消さなかった。取り消せなかった、というほうが正しいかもしれない。

　＊

　十二歳の夏、母に珈琲の淹れ方を教わった。

　仏間ではなく、母の居間だった。豆を挽く道具は宗一郎が外国から持ち帰ったものだという。母は挽き方を細かく指示した。粗すぎると薄い、細かすぎると苦い、その中間はここ、と、母は挽き終わった粉を私の掌に少し出して見せた。

　二人ぶんを淹れて、飲んだ。私が淹れたほうは薄かった。

「薄い」と母は言った。

「すみません」

「でも、湯の落とし方は上手。次はもう少し豆を増やしなさい」

　母は窓のほうを向いて、しばらく黙ってから、言った。

「宗一郎さまは、この道具を私に置いていったの」

「おじさまが」

「ええ。私の従兄。小さいころから、本家へ行くと一緒に遊んだ人です」

　母の声が、いつもより低かった。

「私の兄――貞光は、八年前の親族会で、私を後見人にしなかった」

　私は湯呑を置いた。

「あなたの後見人は、本来なら母親であるべきでしょう。それが取られた。兄が親族会に手を回して、自分が後見人になった。この家の帳簿も船も、いま全部あの人が握っている。私は自分の娘の学費の額さえ知らされないの」

「どうして」

「私に血がないから。私の生まれた家は、三代前に養子で入った天導の分家です。初代の血がない。だから、この家では私は最後まで客なの」

　母は珈琲を飲んだ。

「宗一郎さまは、私を選ばなかった。静子さんという人と結婚するはずだった。それも、はっきりとは言わずに、ずっと先延ばしにしていた。あの人はそういう人。人を傷つけないつもりで、決めないの」

　私は母の横顔を見ていた。

　この人は、宗一郎を愛したままだ。選ばれなかった相手を、八年経っても愛したままで、その相手を殺した。私はそう知っている。

　でも、いま母が語っているのは、兄に踏みつけられた女の話だった。

　――従わされたのだ。

　私はそう解釈した。

　母は分家の家で育って、血がないと言われ続けて、兄に後見権を奪われた。あの計画も、たぶんこの兄が主で、母はそこへ引き込まれた。そう考えると、この人の弱さと、あの犯罪が一本につながる。

　つながると、私は楽になった。

　いま思えば、母が語ったのは母の話でしかなかった。母がいつ何を知らされていたのか、母が誰の案で動いたのか、それを裏づけるものを、私はこのとき一つも持っていなかった。私は自分が楽になれる解釈を選んで、それを事実の場所に置いた。

　＊

　十三歳の秋、天導一臣が庭に来た。

　十九歳の彼は、そのころもう商会の仕事に出ていて、月に一度か二度、天導へ帳簿を届けに来る。私は挨拶をするだけの間柄だった。ゲームで五年後の彼を知っている、というのは、この場では何の役にも立たない。実物の彼は、ゲームの立ち絵より肩幅が広くて、歩くのが速い。

　その日は、応接を出たあとに彼が私を探しに来た。

「天導さん」

「はい」

「立ち話ですまないが、先に本人へ言っておきたいことがある」

　私は庭の椅子から立った。

「父たちが、あなたと私の婚約を進めようとしている」

　息が止まった。

「まだ決まっていない。形式が決まるのは、あなたが十六になる春だろうと聞いた。それまで三年ある」

「……はい」

「嫌なら、私の父に言う」

　彼は正面から私を見て言った。

「私の父に言えば、あなたが断ったという形にせずに済む。あなたの母上に断らせるのも角が立つだろう。私が言うのが一番早い。ただ、あなたが本当にどう思っているのかを、私が代わりに決めるわけにはいかない。だから訊いている」

　私は答えられなかった。

　ゲームの天導一臣は、婚約者の天導瑠璃に冷たかった。会話の選択肢にすら出てこない。名前だけが「婚約者」として存在して、ルートの終盤で「あの婚約は父たちの取り決めで、私は一度も彼女と話していない」と言う。

　いま、私の前に立っている人は、その台詞と正反対のことをしている。

「……少し、考えてもいいですか」

「いくらでも」

　彼はそう言って、しばらく立っていた。それから、「門まで戻る」と言った。私は「お見送りします」と言った。

　庭の小径を、二人で歩いた。屋敷の門は反対側にあるのに、彼は庭の端の生垣まで一緒に来た。生垣のところで彼は立ち止まって、「こちらは行き止まりだ」と言った。

「そうです」

「気づいていた」

「はい」

「では戻ろう」

　彼は本当に踵を返して、来た道を戻った。私は後ろをついて歩いた。

　その、行き止まりまでの三十歩ほどを、私はそれから何度も思い返した。何度も、何度も思い返した。彼が行き止まりを知っていて歩いたのか、知らずに歩いて誤魔化したのか、いまだに分からない。分からないから、繰り返し思い出せた。

　＊

　十四歳の冬。切手を探して、母の文机の抽斗を開けた。

　その日、私は学院の友人へ礼状を出すつもりだった。友人、と呼べるほどではない。合同の講読会で隣に座った上級生が、落とした手袋を届けてくれた。それだけのことに礼状を書くのは、私が人と続きを作るための、たぶん唯一の方法だった。

　切手は二段目にあった。二段目の奥に、藍色の表紙の帳面があった。

　開くつもりはなかった。

　開いたのは、表紙をめくった裏に、母の字で走り書きがあるのが見えたからだ。

　家計簿だった。古いものだった。表紙の年号は、十年前――宗一郎が死んだ年のものだった。呉服、炭、氷、書生の月謝、車代。字は几帳面で、月の合計まで出してある。

　同じ字で、別の記入があった。

　四月、薬。
　四月、薬。
　五月、薬。
　五月、薬。
　六月、薬。
　七月、薬。

　六回。金額はまちまちで、四月のものが一番大きい。

　そして、七月の欄の余白に、四つの語が書いてあった。

　八月、湖、灯籠、舟屋。

　私は帳面を持ったまま、抽斗を閉めるのを忘れて座り込んだ。

　膝が震えたのは、真相を知ったからではなかった。真相はもう知っていた。ゲームでこの六回の購入記録は、TRUEルートの証拠として出てくる。日付も金額も見た。

　震えたのは、母の字でそれを見たからだった。

　その字は、私の学院の書類の保護者欄と同じ字だった。呉服屋への支払いと同じ列に、薬が並んでいる。同じ人が同じ日に、氷の代金と薬の代金を書いている。

　私は、母がこれを書いた瞬間の指を想像した。想像したくなかった。

　しばらくして、私は帳面を懐に入れた。

　この帳面がここにあると誰かが気づいたら、母は捕まる。捕まったら、この家はどうなる。私はどうなる。

　――違う。

　私は自分に言い聞かせた。母を助けるためだ。この帳面がなければ、母は決定的な証拠を持たずに済む。私が持っていれば、母のしたことが明るみに出る時期を、私が選べる。まだ、何とかできる。

　自分の部屋に戻って、鏡台の底の板を外し、帳面をそこへ入れた。板を戻し、白粉の瓶を上に並べた。

　手が止まらなかった。

　止まらないまま、私はもう一つのことを考えていた。

　この帳面を誰かに見せたら、この家は終わる。この家が終わったら、来月の一臣の訪問はなくなる。彼が持ってくる本もなくなる。庭の端まで一緒に歩く道もなくなる。

　私はそれを、そのとき、確かに考えた。

　考えたことを、あとから「そんなつもりではなかった」と言い直すことは、私にはできない。

　＊

　十五歳の春、母が寝込んだ。

　三日熱が下がらず、蘆田先生が呼ばれた。先生は往診で来られず、代わりに息子が来た。蘆田慎。二十歳。医学生で、父の指示で薬を届けに来たのだという。

　彼は母を診て、脈をとり、目を見て、薬を置いていった。それから台所の隅で、私にこう言った。

「奥様は、夜に酒を召し上がりますか」

「……ときどき」

「今日置いていく薬は、酒と一緒になると効きすぎます。眠っているように見えて、呼吸が浅くなる。父は必ずそれを言えと言いました」

「はい」

「言いにくいことですが、量を管理する人が家に一人必要です」

　私は「わたしがします」と言った。

　慎は少し驚いた顔をして、それから頷いた。

「では、これを」

　彼は鞄から一冊出した。薄い詩集だった。

「待つあいだ、退屈でしょう」

　彼は縁側に座って、二篇読んでくれた。

　行の終わりで、彼は必ず一拍おいた。私は画面越しにその癖を知っていた。知っていたはずなのに、生きた声で聞くと、拍のあいだに庭の音が入るのだと初めて分かった。風とか、鳥とか、遠くの鋏の音とか。

「急がないんですね」

「急ぐと、詩がかわいそうですから」

　私は笑ってしまった。慎が「変ですか」と言った。「いいえ」と私は言った。

　詩集は二週間後に返した。返しに行くとき、私は玄関で三分ほど迷って、「面白かったところに紙を挟みました」と言った。慎は挟まった紙を見て、「これは私も好きです」と言った。

　その日の帰り道、私は馬車の中でずっと機嫌がよかった。

　私は一臣が好きだ。それはもうはっきりしていた。それとは別に、他人が親切をしてくれる時間そのものが、私には楽しかった。二つは競争していなかった。

　このころ、私はもう一つの誘惑を知っていた。

　ゲームで慎のルートを選ぶのは、主人公の澪だ。慎と澪が親しくなる筋を、私は何度も読んだ。私が慎とこれ以上親しくならないほうが、いろいろ都合がいい――という考えが、ふとよぎった。

　よぎったが、私はそのとき、詩集の話を澪に譲る手紙を書きはしなかった。まだ書かなかった。

　＊

　十五歳の夏に、学院で誘われた。

　講読会のあと、上級生の二人が「これから菓子屋に寄るのですが」と言った。

　私はその場で、三つのことを同時に考えた。着替えていない。馬車が門で待っている。菓子屋というのがどこの店か分からない。

　三つとも、断る理由になる。私は元の世界でも、こちらに来てからの五年も、この三つで断ってきた。

「行きます」

　言ってから、心臓が鳴った。

　馬車は帰した。御者に「一時間後に、菓子屋の前へ」と伝えた。伝えるのに、私は三回言い直した。

　店は学院から五分のところにあった。狭くて、机が四つしかなくて、天井に扇がついていた。上級生の一人が「ここの葛餅がおいしいのです」と言った。もう一人が「私は氷のほうがいいと思います」と言った。二人はそれで少し言い合った。

　私は葛餅を頼んだ。

　三十分、私はほとんど喋らなかった。

　喋れなかったのではない。二人が喋っていて、そこに入る隙が見つからなかった。頷いて、笑って、頷いた。同じことを二十回くらいした。

　途中で、一人が言った。

「天導さんは、お家では何をなさっているの」

「……本を読みます」

「まあ。どんな」

「船の本を」

「船?」

「氷に挟まれた船が出てきます。三か月動けなくて、乗っている人が犬を飼い始めます」

　二人が顔を見合わせた。

「犬」

「はい」

「船に犬が乗っているの」

「氷の上で拾ったみたいです」

「氷の上に犬がいるの?」

　三人で少し笑った。

　その笑いは、私が面白いことを言ったから起きたのではなかった。話が噛み合わなくて、噛み合わないことがおかしかっただけだ。それでも、笑いは起きた。

　一時間で店を出た。馬車は来ていた。

　帰りの馬車で、私は窓の外を見ていた。

　うまく喋れなかった。四十分のうち三十分は聞いていただけだった。二人は明日、私を誘わないかもしれない。

　それでも、私は行った。

　それだけで、帰りの馬車の中で、私は少し落ち着かなかった。落ち着かないのは、悪い落ち着かなさではなかった。

　二人はその後も、月に一度くらい誘ってくれた。三回に一回は、私の都合が悪くて断った。断っても、次があった。断っても次があるということを、私はそのころ、初めて経験した。

　＊

　十五歳の冬、学院で奨学生の来訪が話題になった。

　地方の中学から選ばれた学生が三名、来月から講読会に加わるという。上級生たちがそれを話しているのを、私は隣の机で聞いていた。誰かが「分家の商会が出しているお金だそうよ」と言った。誰かが「じゃあ天導さんの婚家ね」と言って、それから、ばつが悪そうに黙った。

　私は笑って、「まだ何も決まっていませんよ」と言った。上手に言えたと思う。

　帰りの馬車で、私は窓に映る自分の顔を見ていた。守る顔をしている、と思った。この家を、この家の名前を、この家の中の人たちを、守ると決めた顔だ。

　帰宅して、部屋に入って、鍵をかけて、鏡台の底板を外した。

　藍色の帳面はそこにあった。頁を開いた。四月、薬。四月、薬。五月、薬。五月、薬。六月、薬。七月、薬。八月、湖、灯籠、舟屋。

　何も変わっていなかった。当たり前だ。

　私は帳面を戻し、板を戻し、白粉の瓶を並べ直した。

　それから布団に入って、目を閉じて、あの三行を思い浮かべた。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「やめる」に意識を向けた。確認の文が出た。元の世界の、元の身体へ戻ります。ここでの記憶は残ります。この世界は続き、この身体はここで生き続けます。この入口からは戻れません。

　一度だけ見て、私は消した。

　枕元に本があった。先月、一臣が置いていった『北方回航記』の上巻。三分の二まで読んである。北の海で船が氷に挟まれて、乗組員が三か月そこで暮らす話だ。挟まれたまま、彼らは氷の上で犬を飼い始める。

　その続きを、私は読みたかった。

　残る理由はもう、この世界が珍しいからではなくなっていた。ここには、私が続きを読みたい本と、その本を貸してくれた人がいる。それだけのために人はどこまでも黙っていられるのだと、私はこのころ知った。

# 第三章　雨がやむまで

　十六歳の春に、婚約が正式になった。

　といっても、儀式らしいことは何もなかった。応接に伯父と一臣の父――同じ人だ、天導貞光――と母がいて、書付が読まれ、私は「はい」と言った。一臣は隣にいて、書付が読まれるあいだ、まっすぐ前を見ていた。終わったあと、彼は私に「これで、あなたが断るときの手続きが増えた。すまない」と小声で言った。私は笑ってしまって、母に見られた。

　その月に、小野澪が学院へ来た。

　奨学生の三人のうちの一人だった。十七歳。私より一つ上の学年に編入されて、寮に入った。彼女の名前を名簿で見つけたとき、私は廊下で立ち止まった。

　小野。湖の星見荘を守っていた小野弥吉の娘。ゲームで私が動かしていた主人公だ。父の遺したものを抱え、この学院へ来るところから物語が始まる。慎のルートでは彼女が薬の話を持ち込む。遼のルートでは彼女が記者に会う。TRUEルートでは、彼女がすべての鍵を握る。

　その子が、いま同じ校舎にいる。

　私は最初の一週間、遠くから見ていた。彼女は背が低くて、歩くのが速くて、教室で誰よりも先に窓を開ける。三日目には二人の友達ができていた。

　四日目に、私は勇気を出して声をかけた。

「小野さん。天導です」

　澪は振り返って、私を上から下まで見た。露骨だった。

「存じております」

「講読会の名簿で、お名前を見て」

「はい」

「あの、」

　私は言葉に詰まった。何を言おうとしていたのか、自分でも分からなくなった。仲良くしましょう、と言うつもりだったのだろう。それがどれだけ気持ちの悪い申し出か、口に出す寸前に分かった。

「握手を求められるのかと思いました」と澪が言った。

「え」

「令嬢の方は、よく握手をなさいます。私みたいな者に。それで、そのあと自分で自分に感心なさる」

　私はしばらく黙って、それから、「はい、すみません」と言った。

　澪は少し驚いた顔をした。

「謝られるとは思いませんでした」

「わたしは、たぶん、そういうことをしそうです。気をつけます」

　次の合同講読会で、私は空いていた澪の隣の席に座った。座ってから、これも同じことではないかと不安になった。案の定、澪が小声で言った。

「天導さん。ここに座られると、私は天導さんに守られている生徒ということになります」

「そうですね」

「それは、私が自分で選んだ立場ではありません」

「わかりました。次からは別に座ります」

　私は本を開いた。澪も開いた。それから、澪が言った。

「今日はもう、座ってしまわれたので」

「はい」

「今日はいいです」

　その日、澪は私に本の三十六頁の註を指して「これ、間違ってます」と教えてくれた。彼女は註の間違いを見つけるのが好きらしかった。

　この人には、対等に断る声がある。私はそれを、その日ひとつ覚えた。

　＊

　一臣をお茶に誘おうと決めたのは、五月の終わりだった。

　決めてから、便箋を出すまでに四日かかった。

　書いた。読み返した。捨てた。書いた。読み返した。捨てた。

　「よろしければ」と書くと弱い。「いらしてください」と書くと図々しい。「お暇なときに」と書くと、暇なときなど作らなくていいですよ、という意味になる。私は十六の手で三十通ぶんくらい迷って、結局こう書いた。

『天導一臣様

　先日お借りした『北方回航記』の下巻について、お尋ねしたいところがございます。

　もしお時間がございましたら、来週のいずれか、お茶をさしあげたく存じます。

　天導瑠璃』

　――お尋ねしたいところ。

　嘘ではない。実際、二十二章の氷の記述は分からない。でも、私が本当にしたいのは質問ではない。

　それが分かっていて、私は「相談」の形にした。用事があれば、彼は来る義務がある。義務があれば、私は断られない。断られないやり方を、私は選んだ。

　三日後、彼は来た。

　庭の東屋に茶を出して、私は二十二章について尋ねた。彼は真面目に答えた。氷に挟まれた船が沈まないのは船体が持ち上げられるからで、危険なのは氷が緩むときだと。彼は紙に船の断面を描いて説明した。上手だった。

　十五分で説明が終わった。

　彼は湯呑を置いた。

「では」

　立ち上がろうとした。

　私は自分の膝の上で拳を握った。

　――失敗した。

　全部、自分のせいだった。相談の形で呼んだから、相談が終われば終わりになる。当たり前のことだ。彼は誠実に用件を果たした。誠実に果たしたから帰るのだ。

　彼が二歩歩いた。

「あの」

　私の声は思ったより大きかった。

　一臣が振り返った。

「もう少し、」

　喉が渇いていた。

「用事がなくても、いてくださいませんか」

　言ってしまってから、耳が熱くなった。庭の日差しが急に強くなった気がした。彼は立ったまま私を見ていた。三秒か四秒だと思う。私にはとても長かった。

「……ああ」と彼は言った。

　彼は椅子に戻った。座り直すとき、椅子の脚が石を擦って鳴った。

「すまない。私は用が済むと帰る癖がある。父にもよく言われる」

「わたしが、用事のある手紙を書いたので」

「そうだったのか」

「そうでした」

　彼は湯呑を持ち上げて、中を見て、空だと気づいて置いた。私は新しく注いだ。

　それから四十分、私たちは氷の話の続きをした。話は犬に移った。乗組員が氷の上で犬を飼い始めるところだ。彼は「あれは食料の問題として書かれていない。犬に名前をつけた章から、記録が日記になっている」と言った。私は「わたしもそう思いました」と言った。本当にそう思っていた。

　帰るとき、彼は門のところで言った。

「次の日曜は空いている」

「え」

「用はない。港の集金は土曜に終わる。日曜は何もない」

　彼はそう言って、私の返事を待った。

「いらしてください」と私は言った。

　その夜、私は自分の部屋で、意味もなく机の上のものを並べ替えた。二回並べ替えた。

　＊

　次の日曜は、朝から雨だった。

　東屋は使えないので、南の小広間に通した。窓の外で、庭の敷石に雨が跳ねていた。屋根の下の樋がひとところ壊れていて、そこだけ水が滝みたいに落ちる。

　一臣は少し濡れて来た。門から玄関まで走らなかったらしい。フミが手拭いを持ってきて、彼は肩を拭いた。

「傘は」

「持って出た。途中で人にやった」

「人に」

「橋のところで、赤ん坊を負ぶった人が濡れていたので。私は濡れても平気だ」

「風邪をひきます」

「ひかない」

　彼は本当にひかなそうな顔をしていた。

　その日、彼は『北方回航記』の下巻ではなく、別の本を持ってきていた。『灯台守の記録』という薄い本だった。

「これは、あなたが好きかどうか分からない」

「読みます」

「まだ何も言っていない」

「読みます」

　彼は笑った。声を出さない笑い方だった。

　二人でそれぞれの本を読んだ。彼は下巻を、私は灯台守を。三十分くらい、雨の音しかしなかった。私は活字を追いながら、この時間がずっと続けばいいと思っていた。四頁進んだところで、それに気づいた自分が恥ずかしくなって、六頁戻った。

「天導さん」

「はい」

「あと何頁で終わる」

「え?」

「その本、あと何頁ある」

　私は残りをつまんだ。

「二十くらい」

「では、まだ灯台守は死なない」

「え」

「残りの厚みで、話の終わりが分かる。二十頁も残っていれば、まだ大きな不幸は起こらない。三頁なら死ぬ」

「ひどい読み方です」

「本の読み方に善悪はない」

「あります」

　私は真面目に反論した。それから、彼が自分の下巻の残りを指でつまんで厚みを測っているのを見て、笑ってしまった。

「あなた、いま自分でやりました」

「習慣だ」

「じゃあ何頁残っていますか」

「六十。まだ全員生きている」

　私は声を出して笑った。笑ったら、彼が本を持ったまま少し驚いた顔をして、それから、また声を出さずに笑った。

　彼は本を伏せた。伏せて、また持ち上げた。

「一臣さん、逆さです」

「?」

「本が、逆さです」

　彼は自分の手元を見た。持ち替えた。

「……いま、話をしていたので」

「はい」

「話をしていたので、頁を見ていなかった」

「はい」

　私は、笑うのをこらえるのに失敗した。彼は耳のあたりが赤かった。彼が耳を赤くするところを、私はその日、初めて見た。

　雨が強くなった。樋の壊れたところの音が大きくなって、彼の声が聞こえにくくなった。

「聞こえない」と彼が言った。

「わたしもです」

　私は自分の椅子を持ち上げて、彼の側へ移した。移してから、近すぎたと思った。彼の袖の湿った匂いがした。移した以上、戻すほうが変だった。

　二人で並んで座って、それぞれの本を膝に置いた。

　そこから、私は一行も読めなかった。

　目が同じ行を四回なぞって、意味が入ってこない。隣で彼の頁がめくれる音がする。めくれる間隔がずいぶん長い。長すぎる。

　顔を横に向けたら、彼と目が合った。

　二人とも、すぐ本に戻った。

　そのあと、彼が「灯台守の話をしてくれないか」と言った。私は最初の三十頁を要約した。要約が下手で、途中で人物の名前を間違えた。彼が「その男はさっき死んだと言わなかったか」と言い、私が「死んでません、船が沈んだだけです」と言い、彼が「船が沈んで男が生きているのか」と言い、そこでまた二人で笑った。

　三時のはずが、四時半になっていた。

　雨がやんだのは五時前だった。庭が光った。樋の音が止まって、部屋が急に静かになった。

「やんだ」と彼が言った。

「やみましたね」

　どちらも立たなかった。

　一分くらいそうしていた。それから彼が立って、「帰る」と言った。玄関まで送った。彼は靴を履きながら言った。

「今日は、用がなかった」

「はい」

「用がないほうが、長かった」

　彼が門を出て、角を曲がるまで、私は玄関に立っていた。

　部屋に戻って、私は布団に顔を埋めた。夕食まで一時間、私はそこで一人で笑っていた。フミが呼びに来たとき、まだ顔が熱かった。

　＊

　六月に、私はもう一度誘った。

　今度は用件を作らなかった。ただ「今月の第二日曜は空いておりますか」と書いた。三日で返事が来た。

『第二日曜は仕事です。船具の受け渡しに立ち会う。

　第三日曜なら空いています。』

　私は返事を読んで、まず「仕事」の二文字にしゅんとなった。それから第三日曜という言葉を見て、心臓が跳ねた。

　跳ねてから、暦を見た。

　第三日曜は、学院の課外の発表会だった。私は司会の一部を割り当てられていて、二か月前から決まっていた。

　私は暦の前で十分くらい動かなかった。

　誰も悪くない。彼は仕事があり、私には学院の役がある。それだけだ。断られたのでもないし、避けられたのでもない。

　なのに、その週、私はずっと落ち着かなかった。

　落ち着かないまま、私は澪に菓子を分けた。ちょうど贈答の落雁が届いていて、講読会のあとに二つ渡した。澪は一つを口に入れて、「甘すぎます」と言って、二つ目も食べた。

「天導さん、今日は上の空です」

「そうですか」

「註の間違いを三つ見逃しました」

「三つも」

「三十六頁と、四十頁と、四十一頁です」

　私たちは落雁を食べながら、間違った註を三つ確認した。四十一頁のは、澪の思い違いだった。澪は「これは私が悪い」と即座に言った。

　その帰り道、私は少し楽になっていた。

　一臣に会えないあいだの時間が、ただの空白ではなくなっていた。落雁が甘すぎるという話をする相手がいる。それは、私が十歳でここへ来たときには、まったく持っていなかったものだった。

　七月の第一日曜に、私と一臣は会った。彼は『灯台守の記録』の続きを持ってきた。

　＊

　七月の第一日曜のことを、書いておきたい。

　その日、一臣は『灯台守の記録』の下巻を持ってきた。上巻の最後で、灯台守は船の灯を消し忘れて、それが原因で一隻が座礁する。

「あなた、結末を知っていますか」

「知らない。厚みで測るのはやめた」

「やめたんですか」

「あなたに、本の読み方に善悪があると言われたので」

　私は笑ってしまった。

　その日は晴れていて、東屋に出た。蟬がうるさかった。彼は上着を脱いで、椅子の背にかけた。それだけのことが、私にはずいぶん珍しく見えた。

　二時間、私たちは灯台守の話をした。彼は「灯を消し忘れたのは、あの男の落ち度ではない」と言った。私は「落ち度です」と言った。彼は「灯を一人で守らせる仕組みが悪い」と言った。私は「仕組みが悪いのと、あの人が悪いのは、両立します」と言った。

　彼は少し黙って、「そうかもしれん」と言った。

　帰るとき、彼は門で立ち止まって、こう言った。

「来月は、八月だ」

「はい」

「八月は、商会が忙しい。船が動く」

「はい」

「来られないかもしれない」

「はい」

「言っておかないと、あなたが待つと思ったので」

　私は、その場では「お気になさらず」と言った。

　馬車が見えなくなってから、私は東屋に戻って、彼の使った湯呑を自分で下げた。フミが「わたくしがいたしますのに」と言った。

　私は、あの一言を、その夜も、次の日も思い返していた。

　――あなたが待つと思ったので。

　この人は、私が待つことを知っている。

　＊

　夏の舞踏会があった。

　分家の商会が主催で、本家も協賛に名を連ねている。私は十六の娘として一度だけ出るように言われた。

　会場に入る前、控えの間で、私は一つだけ願った。

　――一曲でいい。彼と踊りたい。

　誰かに頼んで実現させたくはなかった。母に頼めば一分で決まる。それでは駄目だ。

　結局、彼のほうから来た。

「天導さん。一曲、お相手いただけますか」

　私は「はい」と言った。声が裏返らなかったのを、あとで自分で褒めた。

　彼は踊りが上手ではなかった。四拍目でいつも半歩遅れる。私が笑うと、「これは仕事ではないので練習していない」と言った。

　曲の途中で、彼は言った。

「あなたは、この家の人間に見えないときがある」

「どういう意味ですか」

「褒めている」

「褒め方が下手です」

「知っている」

　ゲームでは、この台詞に近いものを、一臣は澪に言う。彼のルートの中盤、彼が澪の率直さに気づく場面だ。私はそれを七周のあいだ何度も見た。

　いま、それが私に向かって来た。

　私は嬉しかった。舞い上がるほど嬉しかった。

　そして、その嬉しさの裏側で、冷たいものが動いた。

　――もし、澪が彼に近づいたら。

　その夜、私は一つのことを思いついた。

　澪には、事件について相談したいことがあるらしい。父の遺したもののことで、誰かに話したがっている気配がある。その相談先が慎になれば、澪は慎と関わる。慎と関われば、一臣とは重ならない。

　思いついたとき、私は自分のことを賢いと思った。

　賢いと思った瞬間があったことを、私は書いておかなければならない。

　その少しあと、私は早瀬遼という記者の存在を知った。

　二十三歳。地方紙から出てきた男で、十二年前の湖の事故を洗い直しているという噂だった。学院の職員室で、彼が澪に面会を申し込んで断られた、という話を聞いた。

　私は先回りした。

　学院の事務に「小野さんは奨学生で、外部の取材に応じると立場が難しくなります」と言った。言い方は完璧だった。相手を心配する言い方の見本のようだった。事務は頷いて、面会の申し込みは以後取り次がれなくなった。

　三日後、澪が私の前に立った。

「天導さん。早瀬という記者の面会を、断らせたのは天導さんですか」

「……心配だったんです」

「私に聞きに来てくださればよかった」

　澪の声は震えていなかった。震えていないぶん、まっすぐ来た。

「私は会うかどうか、自分で決められます。断るかもしれません。会うかもしれません。それを決める前に消されました」

「ごめんなさい」

「謝られると、私は困ります。謝る人には、次から何も言えなくなるので」

　彼女は行った。

　私は廊下に立っていた。十歳の秋、小暮さんに逃げられたときと、同じ場所に立っていた。

　＊

　九月、澪が自分から話しに来た。

　放課後の空いた教室だった。彼女は机の上に、油紙に包んだものを置いた。

「父の遺したものです」

「小野さんの」

「十三の年に父が亡くなりました。その前の年に、これを書いたと言っていました。私はまだ読んでいません」

「読んでいない?」

「封がしてあります。父は、私が十八になったら開けろと。でも」

　澪は指で油紙の角を撫でた。

「父は、天導の旦那様が亡くなった日、湖にいました。桟橋にいたんです。それからずっと、あの日のことを話しませんでした。話さないまま、暇を出されて、病気で死にました」

　私は油紙を見ていた。

　中身を、私は知っている。ゲームで読んだ。小野弥吉の遺書には、あの日、桟橋に貞光がいたことと、桟橋の柱に細工があったことが書いてある。

「私、誰かに相談したいんです」と澪は言った。「開けるかどうかも含めて」

　私はそのとき、決めた。

　二つ、決めた。

　一つ目。澪に慎を勧める。

「蘆田先生のご子息をご存じですか。蘆田慎さん。医学生の。あの方は、古い薬のことにも詳しくて、口が固いです」

「お薬?」

「その、当時のことを調べるなら、当時の医療の記録も要るでしょう」

　二つ目。その慎に会う場を、私が作る。

「来月、うちで小さな茶会をします。詩の話をする会です。蘆田さんも来られます。そこでお引き合わせします」

「詩の会」

「はい」

　澪は少し黙った。

「私は、詩の話をしに行くのではありません」

「わかっています」

　わかっていなかった。私は、わざと分からないふりをした。

　十月、茶会は開かれた。

　私は招待状に「詩集の読み合わせ」と書いた。慎への手紙にも「詩の会にお越しください」と書いた。事件のことは一行も書かなかった。

　当日、慎は詩集を三冊持ってきた。澪は手ぶらで来た。慎は行の終わりで一拍おいて詩を読み、澪はそれを聞き、二時間が過ぎた。

　澪が二度、口を開こうとした。二度とも、私が茶を勧めた。

　帰り際、慎が玄関で私に言った。

「天導さん。今日は、何か別の話があったのでは」

「いいえ」

「小野さんが、私の父の診療所のことを訊きたそうにしていました。私は父の帳面を見ることができます。必要なら」

「詩の会ですから」

　慎は私を見た。彼はゆっくり喋る人だから、彼の沈黙は普通の人の沈黙より長い。

「わかりました」

　彼は帰った。

　二日後、澪が私を捕まえた。

「天導さん」

　彼女は落ち着いていた。落ち着いた声で、こう言った。

「あの日、私が何をしに行ったか、天導さんは知っていましたね」

「……はい」

「知っていて、詩の会にした」

「はい」

「なぜです」

　私は答えられなかった。

　答えは、私の部屋の鏡台の底にある。

　藍色の帳面。四月、薬。四月、薬。五月、薬。五月、薬。六月、薬。七月、薬。八月、湖、灯籠、舟屋。

　あれを出せば、澪の父の遺書を開くまでもない。あれを出せば、澪の知りたいことの半分は今日わかる。

　私は言った。

「ごめんなさい」

　澪は目を伏せた。

「その謝り方は、この間と同じです」

　彼女は行った。

　私は教室に残った。窓の外はもう暗くなっていた。

　その夜、私は鏡台の底板を外さなかった。外そうとして、指を置いて、やめた。

　やめた理由を、私は自分ではっきり言える。

　母が捕まるのが怖かった。この家が壊れるのが怖かった。壊れたら、次の日曜に来る人がいなくなるのが怖かった。

　三つとも、全部本当だった。

# 第四章　星の間

　十七歳の秋、蘆田慎が来た。

　二十二歳になっていた。彼は玄関ではなく、庭の勝手口から入ってきた。手に風呂敷包みを持っていた。

「天導さん。人のいないところで話せますか」

　東屋へ通した。彼は包みを解いた。中には帳面が二冊あった。表紙に年号と「処方」とある。

「父の診療所の処方簿です」

　私は動かなかった。

「十三年前の、春から夏の分です。天導藤乃様のお名前で、薬が六回出ています。四月と五月に二度ずつ、六月、七月」

　私は自分の顔が動かないように、頬の内側を噛んだ。

「量が多い。四月のものは、通常の処方の三倍あります。父は、奥様が眠れないと訴えるので出したと言っています。父は何も知らなかったと思います。ただ、この量を続けて出したことは、父の落ち度です」

　慎は帳面を閉じた。

「私はこれを持ち出しました。父には言っていません。父が知れば、燃やすかもしれない。父は自分の落ち度を隠す人ではありませんが、患者の家のことを守る人です」

　彼は帳面を私のほうへ押した。

「これを、どうするべきか、あなたに」

　私は帳面を見た。

　その瞬間に、私の中で二つの声が同時に立った。

　一つは、受け取れ、と言った。受け取って隠せ。鏡台の底にはもう一冊入る。そうすれば、母を告発する道具が世界からもう一つ減る。

　もう一つは、この人にそれをさせるな、と言った。

　私は口を開いた。

「蘆田さん。それを、わたしに渡さないでください」

　慎が顔を上げた。

「わたしに渡したら、わたしはそれを隠します」

「……隠す」

「隠します。たぶん、今日のうちに」

　私は自分の声が震えているのを聞いた。

「わたしは、母を守りたいんです。守りたいから、そういうことをします。それは自分でわかっています。だから、渡さないでください」

　慎は長いあいだ黙っていた。彼の沈黙は長い。この日の沈黙は、たぶん今までで一番長かった。

「では、誰に渡せばいいのですか」

「小野澪さんに」

　私は言った。

「あの人は、自分で決められる人です」

　翌週、澪の机の上に、風呂敷包みがあった。

　彼女は放課後、私を空き教室に呼んだ。処方簿を開いて、六つの行を指した。

「天導さん。ご存じでしたか」

「いま知りました」

　嘘だった。

「ご自宅に、これに対応するものはありませんか」

「対応するもの?」

「奥様の帳面です。買った物を書きつけるような」

　私は澪の目を見た。

　言えばよかった。あります、と。鏡台の底に、と。八月、湖、灯籠、舟屋、と書いてあります、と。

「知りません」

　言ってしまった。

　澪はそれ以上訊かなかった。彼女は包みを結び直して、「わかりました」とだけ言った。

　その帰り、私は澪と校門まで一緒に歩いた。歩けば、まだ言い直せる距離があった。校門までは二百歩ある。二百歩のあいだに、あれは嘘です、と言うことはできた。

　私は言わなかった。

　澪は「では」と言って、寮のほうへ曲がった。私は馬車に乗った。

　＊

　同じ秋の終わり、一臣が手紙を持ってきた。

　彼は南の小広間に入って、座らなかった。窓のところに立って、外を見て、それから懐から折った紙を出した。

「父の机にあった」

　私は受け取った。

　下書きだった。天導貞光の字で、天導家の親族会の三人に宛てた文面が、途中まで書かれている。日付は十三年前の七月。

　――万一の事あらば後見の儀、当方にて引き受け候。瑠璃の件、御含み置き願い上げ候。

「万一の事」

　私は声に出して読んでしまった。

「そうだ」と一臣が言った。「宗一郎さんが亡くなったのは八月十五日だ。この下書きは七月に書かれている」

「これは」

「私は、父を疑いたくない」

　彼はまだ窓の外を見ていた。

「父は、私を殴ったことがない。学費を出してくれた。奨学の制度も、父が押し切って作った。小野さんが学院にいるのは父の金だ。私はその金で育った」

　彼の指が、窓枠を一度叩いた。

「それでも、これは七月の日付だ」

　私は紙を見ていた。

　この紙は、私に渡された。私はこれも隠せる。鏡台の底には、まだ隙間がある。

「一臣さん」

「なんだ」

「これを、わたしに預けないでください」

　彼が振り返った。

「わたしに預けたら、わたしは隠します」

　私は同じ台詞を、この秋二度言った。

　一臣は紙を私の手から取り戻した。取り戻すとき、彼の指が私の指に触れた。

「私が持っている」と彼は言った。「どうするかは、私が考える」

　彼は二週間考えた。

　二週間のあいだに二度、彼は来た。舞踏の練習をした。冬の会があるからで、彼は四拍目に半歩遅れる癖を直したいと言った。フミが手拍子を打ち、私が数を数えた。三度目に彼が合ったとき、フミが「まあ」と声を上げて、三人で笑った。

　笑ったあと、彼が言った。

「父は、若いころ天導の船に乗っていたそうだ」

　私は茶を注いだ。

「あの人は、天導の名前を――」

「お茶が冷めます」

　彼は口を閉じた。閉じてから、私を見た。

「そうだな」

　その日、彼はあと十五分いて、帰った。帰り際に何も言わなかった。

　私はそのとき初めて、隠し事が親しさを削るということを、体で知った。彼が話そうとしたところに私が茶を置いた。それだけで、部屋の中の何かが一段冷えた。

　でも、その二時間前に、三人で手拍子を打って笑ったことも本当だった。笑ったことは、あとから来た沈黙で消えなかった。私は両方とも覚えている。

　二週間後、一臣は下書きを持って学院へ行き、小野澪に自分で渡した。

　＊

　冬に、早瀬遼に会った。

　珈琲店の二階だった。澪が呼び、私が付き添った。付き添いという名目は、私が自分で言い出したものだった。

　早瀬は二十四歳で、コートの肩に雪を乗せたまま入ってきて、椅子に座る前から喋っていた。

「小野さん。この間は失礼しました。学院の事務を通したのが間違いだった。あなたに直接手紙を出すべきでした」

「事務は関係ありません」と澪が言った。「私が会うと決めたので、今日来ました」

　早瀬は珈琲を三杯頼んだ。三杯とも自分の前に並べた。

「変ですか」と彼は言った。「一杯目は熱いうちに、二杯目は話しながら、三杯目は帰る前に。私は喋ると喉が渇く」

　澪は自分から質問した。用意してきた紙を広げて、順に読み上げた。父の名前。星見荘。八月十五日。桟橋。事故と発表された経緯。

　早瀬は答えられるものには答え、答えられないものには「知りません」と言った。

　私は付き添いのふりをして黙っていた。黙っていれば安全だった。

　でも、澪が最後の一つを読み終えたとき、私は一つだけ訊いた。

「早瀬さん。天導恭介という人を、探しておられますか」

　早瀬が三杯目の珈琲を持ち上げた手を止めた。

「探しました」

「見つかりましたか」

「見つけました」

　私は膝の上で手を握った。

「南浦の蓬田造船に、九年います。その前は三つ職を変えている。名は恭介のままです。会いました」

「会った」

「先月」

　早瀬は珈琲を置いた。

「私は取材のことを、あなた方に全部話す義理はない。話す気になったのは、あの人が、自分の口で話したがっているからです」

「なんて」

「あの日、電報が来たと言っています」

　私は息を詰めた。

「本社から至急の呼び出しだと。それで湖を出た。夕方の汽車で帝都へ向かい、翌朝、本社でそんな電報は出していないと言われた。それで戻った。戻ったときには、宗一郎さんは湖から引き上げられていた」

　澪が紙に何か書いた。

「それから、あの人はこうも言っている。娘さんから手紙が来ていないか、南浦へ移ってからずっと、何度も造船所の事務に確かめたそうです」

　部屋の空気が、遠くなった。

「一通も来ていない。あの人はそれを、娘が書かないのだと思っている」

　私は自分の手が冷たいのに気づいた。

「わたしは」と言いかけて、声が出なかった。

　早瀬は私を見て、それ以上何も訊かなかった。彼は「言うのは、あの人自身がすべきです」と言った。「私が代わりに書くと、あの人はただの証言者になる。あの人は、長いあいだ、誰にも話を聞いてもらえなかった人だ。私は、あの人が自分で喋る場所を作りたい」

　彼は三杯目を飲み干して、雪の中へ出て行った。

　＊

　十八歳の誕生日の朝、三村弁護士が来た。

　四月二十日。晴れていた。庭の桜はもう散っていて、敷石に花びらが張りついていた。

　三村は五十過ぎの、小柄な人だった。玄関で名刺を出し、「お嬢様に直接お渡しするようにと申し付かっております」と言って、封書を差し出した。

「どなたから」

「天導宗一郎様から。十八歳の誕生日にお渡しするようにと」

　私は封書を持って、自分の部屋へ上がった。

　鍵をかけた。窓を閉めた。座って、封を切った。

　三通入っていた。

　一通目。遺言の写し。

　――余、天導宗一郎、天導瑠璃を余の実子として認知す。本条項は余の死亡により効力を生ずるものとす。

　日付は、瑠璃が生まれた年の八月。私が生まれる、ではない。この身体が生まれた年の八月。証人二名の署名。宗一郎の署名。

　ただの「おじさま」ではなかった。

　私は自分がこの八年、「おじさま」の肖像に手を合わせていたことを思った。仏間で、母の隣で、珈琲の匂いの中で。

　二通目。手紙の写し。

　――藤乃へ。

　――私たちの子に、名を考えた。

　――男の子なら勝手にせよ、女の子なら瑠璃としたい。瑠璃丸の瑠璃だ。船の名を人につけるのは縁起が悪いと父は言うだろうが、あの船は沈まなかった。

　――銀細工屋に星を頼んだ。裏に名を彫らせる。生まれる前に彫らせるのは気が早いが、私は気が早い。

　日付は、この身体が生まれる二月前。

　私は髪飾りを取り出した。裏を見た。「瑠璃へ」。

　この三文字は、生まれる前に彫られたものだ。生まれる前に、この人はもう名前を決めていた。

　三通目。母の字だった。

　――宗一郎様。私はあなたに何も求めません。ただ、この子の身分だけは、あなたの手で確かにしてください。あなたが署名しないなら、私はこの子を連れてどこへでも行きます。

　――生きておられるうちに言えないのでしたら、せめて亡くなったときに効く紙を、三村先生へ預けてください。

　――あなたは決めない人です。決めないことで、人を待たせて、待たせていることに気づかない人です。私はもう待ちません。

　私は三通を膝に並べた。

　母は、被害者ではなかった。

　いや――被害者ではなかった、というのは正確ではない。母は血のない分家の娘で、兄に後見権を奪われて、愛した人には決めてもらえなかった。それは全部本当だ。

　同時に、この認知の形を求めたのは、母自身だった。母の手紙と六回の購入記録は、それぞれ別のことを示している。この三通だけで殺人の全手順が分かるわけではない。それでも、何も選べず兄に従わされたのだ、という私の説明では足りなかった。

　私が十二歳の夏に選んだ解釈は、私が楽になるための解釈だった。

　ゲームの中で三村弁護士は、養女指名の偽造を明らかにする証言者だった。そのゲームの記憶を持ち出して、この封書ごと疑うことはできる。あの証言は嘘だった、この書類も嘘だ、と。

　でも、この三通は、私の手の中にある紙だ。母の字がある。宗一郎の署名がある。銀の星の裏の刻印と、手紙の内容が合っている。

　ゲームと違う、ということは、ゲームの証言が全部嘘だったということではない。ここには、ゲームになかった別の証拠がある。それだけだ。

　私は鏡台の底板を外した。

　三年余り隠してきた藍色の帳面を出した。今度は、戻すつもりで開かなかった。

　三村の封書と並べて、机の上に置いた。

　――出す。

　今夜、私は十八歳の披露の席に立つ。あの席には、伯父がいて、親族会の三人がいて、学院の教師がいて、記者もいる。澪がいる。慎の父がいる。一臣がいる。

　その日の午後、母が部屋に入ってきた。

　ノックはなかった。母は机の上を見た。三村の封書と、藍色の帳面。

　母は何も言わなかった。

　私も言わなかった。

　母は一分ほど立って、それから、私の髪に触れた。

「今夜は、髪を上げなさい」

「はい」

「星をつけて」

「はい」

　母は出て行った。

　＊

　星の間で、澪が立ってから、一時間半かかった。

　澪が父の遺書を読み上げた。封は十八歳の春に自分で切ったと、澪は言った。父の遺した紙だけでなく、今、生きて話せる人を探してきたのだと。小野弥吉は、八月十五日の午後、桟橋の柱に新しい鋸の痕を見つけたと書いていた。誰にも言えなかったと書いていた。貞光が灯籠の見回りを口実に旦那様を先端へ誘い、落ちたあともすぐには救助を呼ばなかった、と書いていた。

　慎が処方簿を出した。彼の父の蘆田先生は、その場で「私の落ち度です」と言った。息子が持ち出したことを咎めなかった。

　一臣が、貞光の下書きを出した。自分の父の机から取ったと、はっきり言った。会場がざわめいた。貞光が「一臣」と言った。一臣は「はい」と答えて、それ以上何も言わなかった。

　お絹という人が呼ばれた。三十八歳の、痩せた女の人だった。天導家を十三年前に解雇された使用人で、早瀬が探し出した。彼女は震えながら、八月十五日の夜、台所へ行けと言われたこと、その前に奥様が娘さんへ匙を運ぶのを見たこと、戻ると娘さんの姿がなく、あとで舟屋で眠っているところを見つけたことを話した。話し終わったあと、彼女は「わたしは、あの晩、台所へ行きました」と言って、泣いた。翌年に暇を出され、余計なことを言えば次の勤め口もないと脅されたことを、泣きやんでから付け足した。

　早瀬が、南浦から来た人がいると言った。

　天導恭介は、会場の後ろのほうに立っていた。

　五十一歳だった。日に焼けていて、写真帖の中より痩せていて、背広が明らかに借り物だった。肩の縫い目が合っていない。

　彼は前へ出て、電報のことを話した。八月十五日の十五時に電報を受け取ったこと。十七時の汽車で帝都へ向かったこと。翌朝、本社で誰もそんな電報を出していないと言われたこと。戻ったときには、宗一郎はもう亡くなっていたこと。

　それから、彼は言った。

「あのう、もう一つ、よろしいでしょうか」

　彼の言葉遣いは、この部屋の誰よりも丁寧で、この部屋の誰よりも不慣れだった。

「そのあと、九月の親族会で、血の検査の紙を見せられました。娘は二つのときの検査でAB、わたしはO、妻はAだと。わたしの子ではない、認めろと。あれは誰の子かまで分かる検査ではありませんでした。それでもわたしは、否認の書類に署名しました」

　彼はそこで口を閉じ、もう一度開いた。

「生まれたとき、宗一郎さんが瑠璃という名をお出しになって、わたしはそのまま従いました。それでも、わたしが育てた娘でした。署名してよい理由にはなりませんでした」

「わたしは、九年、造船所の事務に、手紙が来ていないか訊いておりました。娘から来ていないかと。一通も来ませんでした」

　私は立っていた。

「わたしは、五通、書きました」

　自分の声が部屋に響いた。

「十一のときから、五通。全部、母に渡しました」

　恭介が私を見た。

　彼の顔が、ゆっくりと崩れた。崩れるという言い方しかできない。彼は口を開けて、閉じて、それから手で顔を覆った。

　私は「お父様」と言おうとした。言えなかった。「パパ」も言えなかった。この身体はそう呼んでいたはずなのに、私の口はどうしても動かなかった。私は八年、この人を「恭介さん」としか呼んでいなかった。

　貞光が立ち上がった。

「作り話だ」

　彼の声は、まだよく通った。

「小野という男は解雇された使用人だ。その娘が持ってきた紙に何が書いてあろうと、死人の作文だ。処方は医者の落ち度で、私とは関係がない。電報は――そこの男が、十四年前に自分の失態をごまかすために作った話だろう」

「わたしは、電報を持っております」

　恭介が言った。

　彼は懐から、折り畳んだ紙を出した。

「十四年前の八月十五日、十五時、湖の星見荘で受け取ったものです。ずっと持っておりました」

　彼は、その紙を胸の高さで持って、しばらくそこに立っていた。

「捨てられませんでした」

　誰かが息を吐く音がした。

　三村弁護士が前へ出て、紙を受け取った。裏を見て、局名と時刻を読み上げた。早瀬が手帳に書きつけた。

　母は、椅子に座ったままだった。

　母は一度も立ち上がらなかった。誰の話にも異議を唱えなかった。処方簿が読み上げられたときも、お絹が泣いたときも、母は前を見ていた。

　私は、その母の背中を見ていた。

　この人は、この八年、私に珈琲の淹れ方を教え、布を選んでくれ、髪を上げなさいと言った人だ。

　同じ人が、あの六行を書いた。

　最後に、私が出した。

　三村の封書と、藍色の帳面。

「これは、母の家計簿です。十四歳の冬に、母の抽斗から取りました。薬の購入が六回。余白に、八月、湖、灯籠、舟屋と書いてあります」

　誰も何も言わなかった。

「三年余り、隠していました。誰にも見せませんでした。今日まで、自分から出しませんでした」

　母は、椅子に座っていた。座ったまま、まっすぐ前を見ていた。

　警察が来たのは、それから四十分後だった。母と貞光が連れて行かれた。母は玄関で一度だけ振り返って、私を見た。何も言わなかった。

　その夜のうちに、親族会が開かれた。

　結論は、二つだった。

　一つ。天導瑠璃は宗一郎の実子である蓋然性が高いが、遺言認知の実行および養女指名の手続には、逮捕された二名が関与している。したがって、調査が終わるまで、瑠璃の跡取りとしての権限を停止する。

　二つ。この停止は、血縁の否定ではない。

　三村弁護士が、そう読み上げた。読み上げてから、私に小さく頭を下げた。

　＊

　廊下で、一臣に会った。

　深夜だった。星の間の灯りは消されていて、廊下の端の洋燈だけがついていた。彼は柱に手をついて立っていた。

「一臣さん」

「天導さん」

　彼は姿勢を直した。

「今日のことは、正しかった」

「はい」

「あなたがやったことは正しい。私は、それを言いに来た」

　私は頷いた。

「私は、父の息子だ」と彼は言った。

　彼は自分の手を見た。

「今日、私はあの紙を出した。出したから逃げたことにはならない。私はあの人の金で学校へ行き、あの人の商会で働いている。明日から、商会の帳簿を全部開いて、本家から分家の商会へ流れた金がどこへ行ったか調べる。誰かに調べられる前に、自分で調べる」

「はい」

「そのうえで」

　彼は言葉を切った。

「あなたとの婚約は、続けられない」

　私は、廊下の床を見た。

「あの婚約は、父の計画の最後の一手だった。本家の血を持つ娘と、養子から続く分家の息子を結ぶ。それで乗っ取りが完成する。私はそれを知らずに、あなたに、嫌なら断れると言った。何も知らずに」

「知らなかったでしょう」

「知らなかったことは、免罪にならない」

　彼は言った。

「あの取り決めの上に、これから何かを積むことはできない。同じ形のまま続けたら、私は父の仕事を仕上げることになる」

　私は頷いた。頷いてから、口が勝手に動いた。

「わたしたちの時間まで」

　言いかけて、止めた。

　彼が待った。

「わたしたちの時間まで、なかったことに、しないでください」

　彼は長く黙っていた。洋燈の芯が一度、音を立てた。

「しない」

　彼は言った。

「雨の日曜のことも、氷の話も、四拍目のことも、私は覚えている。あれは、取り決めの中で起きたことではない」

「はい」

「ただ、いま、私はあなたに何も約束できない」

「はい」

「それから」

　彼は少し言いにくそうにした。

「あなたは、三年余り、あの帳面を持っていた」

　私は顔を上げた。

「私は今日、それを聞いた。あなたが自分で言ったから聞いた。それでも、私は少し、傷ついている。私が父の紙をあなたに預けようとしたとき、あなたは隠すと言った。あのとき正直に言ってくれたことは、ありがたかった。でも、あなたはその前から、もっと大きなものを持っていた」

「はい」

「今すぐ、それを気にしていないふりはできない」

「はい」

　私はそれだけしか言えなかった。

　彼は「では」と言って、行った。角を曲がる前に、一度こちらを見た。それだけだった。

　＊

　私は星の間に戻った。

　誰もいなかった。四十三の時計のうち、動いている十九だけが鳴っていた。

　椅子に座って、目を閉じた。

　あの三行を思い浮かべた。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「やめる」に意識を向けた。

　　元の世界の、元の身体へ戻ります。
　　ここでの記憶は残ります。
　　この世界は続き、この身体はここで生き続けます。
　　この入口からは戻れません。

　帰れる。八年前と同じ文面だ。この文面は一度も変わっていない。

　帰れば、六畳の部屋があって、机の上にゲーム機があって、月曜には会社がある。北原さんがまだいるかもしれない。麻辣の店はもうないかもしれない。

　帰れば、この八年は、私が覗いた物語になる。

　私は目を開けて、時計を見た。

　――次の日曜は、もうない。

　それが一番はっきりした思いだった。情けないくらい、はっきりしていた。宗一郎の遺言でも、母の逮捕でもなく、次の日曜がなくなったことが、私の胸のまん中にあった。

　同時に、あの人たちのことがあった。

　あの背広の肩の縫い目が合っていない人が、九年、事務に手紙を訊きに行っていたということ。台所へ行きましたと言って泣いた人。桟橋で鋸の痕を見つけて、誰にも言えないまま病気で死んだ人。

　その全部が、もう終わったあとだ。私が八年かけてやったのは、終わったあとの片づけだった。

　私は「はじめから」に意識を向けた。

　　この人生の始まりへ戻ります。
　　このやり直しは一度だけです。

　もう一度、あの人が死ぬ前へ。この身体の始まりへ。

　零歳。泣くことしかできない年月。何年も。

　怖い。想像するだけで手が冷える。

　それでも、と私は思った。

　あの人たちに会える。生きている宗一郎に会える。恭介に、あの背広を着る前の彼に会える。お絹という人に会える。小野弥吉に会える。彼らが死ぬ前に、追われる前に、泣く前に、会える。

　そして――これは、私が私のために言うことだ。

　私も、もう一度暮らしたい。

　この八年、私はここが好きだった。雨の日曜が好きだった。落雁が甘すぎると言い合うのが好きだった。朗読を三度目でうまく読めた日が好きだった。私はそれを、事件の前から、もう一度やってみたい。今度は、隠さずにやってみたい。

　自分を全部捨てて誰かを救いに行く、という気持ちではなかった。私はそんなに立派ではない。

　――私も、今度は。

　そう思って、私は選んだ。

　　この人生の始まりへ戻ります。
　　このやり直しは一度だけです。

　はい。

　四十三の時計の音が、遠くなった。

# 第五章　七夜の花

　最初にあったのは、圧力だった。

　全身が締めつけられて、頭が押し出される感覚。ただしそれは、私が経験しているのではなかった。もう終わったことの余韻として、身体の側に残っていた。私はその余韻の中へ、あとから入った。

　肺に何もなかった。

　息を吸おうとした。吸えなかった。喉が詰まっているのではない。動かし方が分からない。この身体は、まだ一度も息を吸ったことがない。

　水の外の空気が、皮膚に触れて冷たかった。誰かが私を逆さに持ち上げた。背中を叩かれた。誰かが指を口に入れた。声がした。遠い。

「息をしていません」

「先生」

「湯を」

　――吸え。

　私は自分に命令した。命令の意味を身体が知らなかった。

　どのくらいそうしていたか、私には分からない。あとで三分だったと聞いた。三分。座って数えれば短い。中にいると、時間ではなかった。前の人生でフミは、生まれてすぐ泣いた子だと言っていた。あの話と、今度の始まりは違っていた。

　誰かが私の胸を指で押した。押されたはずみに、肋のあたりが動いた。動いた場所を、私は掴んだ。掴んで、引いた。

　空気が入った。

　入った瞬間、私は泣いた。泣こうと思ったのではなかった。空気が通ると、この身体は勝手に泣くようになっていた。声が出るというより、身体全部が音になる。喉が焼けるように痛かった。

　部屋の中で、誰かが「あああ」と声を上げた。誰かが泣き出した。金盥の音がした。

「戻ってきた」

　女の人の声だった。かすれていて、力がなかった。

「戻ってきました。奥様、お嬢様です。息をしております」

「戻ってきた」

　もう一度、その人が言った。

　私は目を開けようとした。開いたが、何も見えなかった。白い明るさと、黒い影の塊があるだけだった。この目は、まだものを見る仕事を覚えていない。

　布に包まれた。誰かの腕の中へ移された。

　その人の匂いがした。汗と、血と、髪油の匂い。

「瑠璃」

　その人が言った。

　天導藤乃。二十六歳。前の人生では四歳の娘へ薬を飲ませ、十二歳の私に珈琲を教え、十八歳の夜に星の間で私を見た人。

　いま、この人は、私の頭のてっぺんに顎を乗せて、震えていた。

　私は、この人の腕の中で泣き続けた。

　＊

　その日は、ほとんど眠っていた。

　眠るというより、意識が落ちる。落ちて、また浮かぶ。浮かんだときに口の中に何かが押し込まれていて、吸う。吸うと甘い。吸っている途中で、また落ちる。

　抵抗は何もできなかった。

　私は二十七年ぶん――こちらで過ごした分も含めれば、三十五年近い意識を持っている。持っているのに、首が持ち上がらない。腕が意思のとおりに動かない。動かそうとすると、腕全体が一つの塊のように跳ねる。指は握るか開くかしかできない。

　視界は白い。音は、遠くと近くの区別がない。

　これは、想像していたより、ずっと悪かった。

　夜中に、私は一度、本気で怖くなった。

　この状態が何年も続く。何年も。喋れず、歩けず、誰にも何も伝えられず、ただ寝て、飲んで、泣く。私は星の間で「怖い」と思ったが、その怖さは想像の中の怖さだった。実物は、想像の三倍あった。

　泣いた。

　泣いたら、足音がした。

　誰かが来て、私を抱き上げた。揺れた。歌でもない、ただの「うん、うん」という音が耳の上で鳴った。

　私は泣きやんだ。泣きやんだのは、私が納得したからではなかった。この身体が、揺れると泣きやむようにできていた。

　――こういうことか。

　私はそう思って、そのまま眠った。

　元の世界の夜と、ここは違った。あちらでは、私が泣いても誰も来ない。当たり前だ。二十七歳の一人暮らしなのだから。それは不幸ではなく、そういうものだった。

　ここでは、泣くと誰かが来る。

　＊

　三日目に、私は男の人に抱かれた。

　抱かれた瞬間に、これは下手だ、と分かった。

　腕の角度が悪い。頭が支えられていなくて、後ろへ落ちそうになる。慌てて直される。直したせいで今度は首が前へ折れる。また直される。身体が前後に揺すられて、私は不安で泣いた。

「あああ、すまん、すまん」

　男の声だった。低くて、少し掠れている。

「奥様、これは、どうも、わたしがやると」

「首を、支えて。手のひら全部で」

「はい」

「肘のほうへ寄せて」

「はい」

　直されて、やっと安定した。安定すると、私は泣きやんだ。

　その人の胸は硬かった。服の生地が厚くて、少し油の匂いがした。機械の油だ。この人は毎日、船を作る場所にいる。

　天導恭介。三十三歳。

　私はこの人を、写真帖の中で見た。作業着の襟がよれた、笑い方の下手な人。前の人生では四年後に湖で電報に呼び出され、八年後に南浦へ行き、十八年後に肩の合わない背広を着て星の間の後ろに立つ人。

　いま、この人は、生まれて三日の赤ん坊を落としそうになって、汗をかいている。

　しばらくして、産婆が来て、私を取り上げた。

「旦那様、少し休まれては」

「ああ」

　私は産婆の腕の中から、その人のほうを見た。まだ、はっきりとは見えない。輪郭と、明るさの差だけだ。

　その人は、手を、そのままの形で持っていた。

　私を抱いていた形のまま、腕を胸の前に置いて、しばらくそこに立っていた。中身がなくなった腕を、下ろさずにいた。

　その形を、私は知っていた。

　十八歳の夜、星の間の後ろに立っていた人が、あのとき同じ姿勢をしていた。誰も抱いていない腕を、身体の前に置いて。

　――この人は、死ぬ人ではなかった。

　私は長いあいだ、あの写真帖の人のことを「差し出して出ていった父」だと思っていた。それから四か月ほど、「湖の日に遠ざけられた人」だと思っていた。

　違った。この人は、娘を失う人だ。

　前の人生では四年後に、この人は娘を失った。娘は死なないが、この人からは取り上げられる。取り上げられ、南浦へ移ってから九年、事務に手紙を訊きに行く。

　私は、この人をここに残したいと思った。

　救う計画の一項目としてではなく、この、抱き方の下手な人を、この家に残しておきたいと思った。

　＊

　五日目に、私は計画を立てようとした。

　私が持っている知識を、順番に並べようとした。八月に遺言認知。貞光がいつから後見を狙うのかは、まだ知らない。二年で血液型。三年冬に婚約。四年の夏に薬。八月十五日、偽電報、投薬、舟屋、桟橋。

　並べているうちに、乳の時間になった。

　飲んだ。飲むと眠くなる。眠気は、私が抗える種類のものではなかった。二十七年ぶんの意志は、この身体の眠気の前では何の役にも立たない。

　目が覚めると、さっき並べたものの三つ目までしか思い出せなかった。

　私はもう一度並べ直した。並べ直している途中で、おむつが濡れて、泣いた。泣くと呼吸が乱れて、頭の中の順番が崩れた。

　その日、私は三回それをやって、三回とも崩れた。

　夕方に、私は少し笑ってしまった。

　笑ったといっても、この身体はまだうまく笑えない。口の端が動いただけだ。

　――四年ある。

　四年あるのだ、と思った。四年かけて、覚えていればいい。今日並べられなくても、明日また並べればいい。

　そう思ったら、少し楽になった。

　産婆が帰る日、彼女は母にこう言っていた。

「息をなさらなかった子は、あとから追いつきます。慌てずに」

「はい」

「泣き声がしっかりしておいでですから、大丈夫でございます」

　私は、その「大丈夫」を、自分に言われたことにして聞いた。

　＊

　七日目の夜に、七夜の祝いがあった。

　私は襖を開け放った座敷の、真ん中の布団に寝かされていた。目はまだよく見えない。人の輪郭が四つ、五つ。声で誰かを見分けるしかなかった。

　産婆がいた。母がいた。恭介がいた。

　もう一人、いた。

「宗一郎様がお見えです」

　その声を聞いたとき、私の中で何かが跳ねた。

　肖像でしか見たことのない人。仏間の写真の人。前の人生では既に亡くなっていた人。私がゲームで七周のあいだ、一度も声を聞かなかった人。

　その人が、畳を鳴らして入ってきた。

「藤乃。おめでとう」

　声は、思っていたより高かった。柔らかい。人を追い詰めない喋り方をする人の声だった。

「宗一郎さま」

「恭介君も。よく無事で」

「はい」

「三分と聞いた。産婆が言うには、あれで戻る子は珍しいと」

　宗一郎は布団の横に膝をついた。私を覗き込んだのだと思う。私の視界の上半分が、暗くなった。

「小さいな」

　彼は言った。

「名前だが」

　彼は懐から紙を出した。紙を広げる音がした。

「藤乃に手紙で書いたとおりだ。女の子なら瑠璃。瑠璃丸の瑠璃。あの船は初代が乗って、初代が沈めなかった船だ。父は船の名を人につけるものではないと言うだろうが、父はもういない」

　紙に何か書く音がした。

「これを命名紙とする」

　それから、彼はもう一つ、懐から出した。

「これも渡しておく」

　小さな、固いものが、私の枕元に置かれた。

「銀の星だ。生まれる前に注文した。裏に彫らせてある」

　母が「まあ」と言った。

「まだ男か女か分からないうちに、彫らせたのですか」

「気が早いのは昔からだ」

　私の枕元に置かれたそれを、私は見ることができなかった。でも、私は知っている。六つの角を持つ、掌に隠れるほどの星。裏に「瑠璃へ」。前の人生では十八歳の夜、私はそれを髪に挿して星の間へ降りた。

　――何も、変わっていない。

　私はそれを確かめた。時間を巻き戻しても、この星の裏の文字は同じだった。

「ありがとうございます」と恭介が言った。

　彼の声は、部屋の隅から聞こえた。

「あの、ありがとうございます。あの」

　言葉が続かなかった。

　彼はもう一度、「ありがとうございます」と言った。

　それから、こう言った。

「あの、わたしも、一字、足させてもらえませんか」

　部屋が、静かになった。

　畳の擦れる音がした。誰かが姿勢を変えた。

「恭介さん」

　母の声だった。低い声だった。

「宗一郎さまがお決めになったものです」

「はい」

「あなたが口を出すことでは」

「はい」

　彼はそう答えた。答えて、それでも続けた。

「あの、三分、この子は息をしませんでした」

　声が震えていた。

「わたしは、廊下におりました。中で先生が湯を、と言うのが聞こえて、それから、誰も何も言わなくなって。わたしは、廊下で、立っておりました」

　彼は言葉を探していた。探して、見つからないまま喋っていた。

「そのとき、わたしは、この子を呼べませんでした」

　私は、白い明るさの中で、その声を聞いていた。

「名前がまだ決まっておりませんでしたから。息をしてくれと言うにも、呼ぶ名前がない。それで、ただ、あの、立っておりました」

　誰も何も言わなかった。

「この子は息をしました。それで、わたしは、これからこの子が庭で走るところを見たい。走って、転んで、笑うところを見たいと思いました」

　彼は一度、息を吸った。

「花の字を、いただけませんか」

　沈黙があった。

　長い沈黙だった。

　宗一郎が「ふむ」と言った。

「花」

「はい。あの、大それたことを申しました。取り消します」

「いや」

　宗一郎はそう言って、また黙った。

　私は、彼が何を考えているか分からなかった。この人は決めない人だ。母がそう言っていた。決めないことで人を待たせる人だ。

「瑠璃花」

　彼は言った。

「るりか。……語呂は悪くない」

「宗一郎さま」と母が言った。

「藤乃。恭介君はこの子の父だ」

　その一言で、部屋の空気が変わった。

　母は何も言わなかった。

「瑠璃丸の瑠璃に、花を足す。船に花か。悪くない。船首に花を彫る国もある」

　宗一郎は紙を引き寄せた。筆の音がした。

「天導瑠璃花。これでいい」

　産婆が「よいお名前です」と言った。声が明るかった。彼女は本当にそう思ったのだと思う。

　恭介は、何度も頭を下げているらしかった。畳の擦れる音が、何度もした。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

「そう何度も下げるな」

「はい」

　母は、そのあいだ、一度も声を出さなかった。

　私は母の顔を見ることができなかった。でも、母がそこにいて、黙っていることは分かった。

　あとになって、私はこの夜のことを何度も考えた。

　母は、宗一郎が選んだ「瑠璃」という名を大切にしていた。その名は船の名で、本家の名で、この子が天導であることの印だった。母にとって、名前は道具ではなく、証書だった。

　そこへ、夫が一字足した。

　母は反対して、通らなかった。この家で、母が誰かに何かを取られたのは、初めてではない。

　母は結局、こう言った。

「瑠璃花。……はい」

　その「はい」を、私は覚えている。

　＊

　人が座り直して、酒が運ばれてきた。

　恭介が、私のそばへ来た。

　彼は膝をついて、私の顔を覗き込んだ。視界の上半分が暗くなった。

「瑠璃花」

　彼は言った。

　私の身体が、跳ねた。

　跳ねてから、私は自分が何をしたのか分かった。

　――返事をしようとした。

　るりか。

　それは私の名前だ。二十七年、私が呼ばれてきた名前だ。母がそう呼び、学校の先生がそう呼び、会社の人がそう呼び、北原さんが「瑠璃花さん、辛いの平気でしたっけ」と打ってきた、あの名前だ。

　漢字まで同じだった。瑠璃花。

　私の喉が、勝手に鳴った。

　声を出そうとして、出せなくて、そうしたら涙が出た。この身体の涙腺は、私の意思とは関係なく働く。目尻から耳のほうへ、熱いものが流れた。

「おお、おお」

　恭介が慌てた。

「泣くな、泣くな。瑠璃花。瑠璃花」

　彼は名前を三回呼んだ。呼ぶたびに、私はもっと泣いた。

　彼は私の名前を知らない。

　当たり前だ。この人は、私が別の世界から来たことも、私が二十七歳であることも、私の名前が瑠璃花であることも、何ひとつ知らない。この人が「花」を足したのは、この子が庭で走るところを見たかったからだ。それだけだ。

　これは偶然だ。

　私はそう自分に言った。言いながら、涙が止まらなかった。

　――誰かが、私を呼んでいる。

　その一つのことが、理屈より先に来た。私はそれを止められなかった。

　この世界が私のために用意されたわけではない。私の名前が呼ばれたから、私がここに来るべきだったのだという証明にはならない。この名前は、天導瑠璃花という別の子についた名前だ。私はそれを、あとから借りて聞いている。

　全部わかっている。

　わかっていて、私は嬉しかった。

　嬉しかった、というのが、まず最初にあった。理屈はそのあとに来た。

　恭介が私を抱き上げた。今日はもう、少し上手になっていた。首が落ちなかった。

「瑠璃花。父さんはな、名前をつけたのは初めてだ」

　彼は誰にともなく言った。

「船には名前をつけたことがある。人は初めてだ」

　＊

　夜が更けて、人々が下がった。

　私は揺りかごに寝かされていた。灯りが一つ残っていた。

　母が来た。

　母は揺りかごの縁に手をかけて、しばらく黙っていた。それから、低い声で話し始めた。

「瑠璃花」

　母は、その名前を使った。使ったが、続けてこう言った。

「瑠璃、というのはね。本家の船の名前なの」

　私は目を開けていた。

「初代が乗った船。この家で一番古い名前。あなたのお父様が――宗一郎さまが、あなたにその名をくださった。あなたはそれを持って生まれてきたの」

　母の指が、揺りかごの縁を撫でた。

「私も兄も、天導の名を持っています。でも、三代前の養子から続く分家には、初代の血がありません。私にはない血が、あなたにはある」

　母は少し笑ったようだった。

「いつか、あなたがこの家の本家になる日が来ます。そのとき、あなたの血を認めた紙が証書になる。その名も、本家からあなたに贈られたものだと、誰も忘れられなくなる。私はそのために、あなたを産んだのではありません。でも、産んだからには、そうします」

　母は揺りかごを軽く揺らした。

「おやすみ、瑠璃花」

　揺れは優しかった。手つきに乱暴なところは一つもなかった。

　私は、その揺れの中で考えていた。

　同じ夜だ。

　父が「花」を足した夜と、母が「本家になる日」を語る夜が、同じ夜だ。私はこの二つを、別々の日に受け取ることができない。両方、今日だ。

　＊

　母が下がって、灯りが小さくなった。

　私は目を閉じて、あの三行を思い浮かべた。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「はじめから」は、灰色になっていた。

　意識を向けても、確認の文は出なかった。もう使えない。一度きり、と書いてあったとおりだ。

　「やめる」に向けた。

　　元の世界の、元の身体へ戻ります。
　　ここでの記憶は残ります。
　　この世界は続き、この身体はここで生き続けます。
　　この入口からは戻れません。

　出た。使える。

　いつでも帰れる。

　帰れば、私は六畳の部屋で目を覚ますのだろう。二十七歳の身体で、自分で立ち上がって、自分で味噌汁を作って、自分の口で喋る。

　いま、私は口を利けない。腕も上がらない。眠気が来たら、抵抗できずに落ちる。

　それでも。

　もう一度、あの声を聞きたかった。

　瑠璃花、と、あの人がもう一度呼ぶのを聞きたかった。

　救う計画のためだけに、私はここに残るのではない。それも本当にある。四年後の八月十五日の死を止めたい。宗一郎を死なせたくない。あの人を追い出させたくない。

　でも、いま、私をここに留めているのは、そんなに立派なものではなかった。

　名前を、もう一回呼んでほしい。

　私は目を閉じた。

　眠気が来た。抵抗する方法はない。私はそれに負けながら、明日の朝もあの人が来るだろうか、と考えていた。

# 第六章　気持ち悪い子

　三か月で、目が見えるようになった。

　正確には、輪郭がぼやけなくなった。人の顔が顔として見える。誰が誰かが分かる。天井の木目が数えられる。それだけのことが、私にはとても大きかった。

　見えるようになって最初に気づいたのは、自分が人の口ばかり見ているということだった。

　これは癖ではなく、必要だった。声だけでは、この家の誰が何を言っているのか掴みきれない。誰の口が動いたかを見れば、話者が分かる。私は無意識にそれをやっていた。

　母が私を抱いて、庭を見ながら誰かと話していた。私は母の顎の下から、母の口を見上げていた。

　母が、途中で黙った。

　私を見た。

　目が合った。

　私は――しまった、と思った。思ったときには遅かった。赤ん坊は、目が合ったら笑うか、そらすか、泣くかする。私はどれもせず、母の口を見つめ返してしまった。

「……瑠璃花」

　母は私の顔を、正面から覗き込んだ。

　私は今度こそ目をそらした。そらし方が遅かった。

　その日から三日、母は私の前で喋らなくなった。

　三日である。私はその三日を数えた。母は私を抱く。乳を飲ませる。おむつを替える。全部する。何も言わない。歌わない。「よしよし」も言わない。無言で、丁寧に世話をする。

　三日目の夜、私は試した。

　母が私を抱いたとき、私は目を閉じた。閉じて、眠ったふりをした。首の力を抜いて、口を少し開けた。

　しばらくして、母が話し始めた。

「今日はね、庭の梅を切ったの。切りすぎたと佐伯が言うのだけれど、あれくらいでいい」

　私は目を閉じたまま聞いていた。

　この人は、私が見ていないときには喋る。

　この人にとって、私はまだ人間ではないほうがいい。人間になった瞬間に、この人は口を閉じる。

　その二日後、お絹が私を抱いた。

　お絹は二十歳の女中で、この春に入ったばかりだった。丸い顔で、笑うと目がなくなる。彼女は私を抱くとき、必ず自分の顔を私の顔から二十センチくらいのところに置く。

　私は、彼女の口を見た。

　お絹は、私が口を見ているのに気づいた。気づいて、こう言った。

「あー」

　口を大きく開けて、はっきりと。

「あー。あーって言うんですよ。お嬢様。あーあー」

　彼女は私の視線に合わせて、口の形を作ってみせた。

「うー。うーうー。ほら、口が違いますでしょう」

　私は嬉しくなって、手足をばたつかせた。ばたつかせたのは、私が動かしたのではない。この身体が勝手にやった。でも、そのとき私は本当にばたつかせたかった。

「わあ、喜んだ」

　お絹は私を抱き直して、部屋中を歩き回った。

　同じことをして、母は三日黙り、お絹は口の形を教えてくれた。

　私はこの二人の違いを、そのときはまだ、性格の違いだと思っていた。

　＊

　四か月のころ、夜泣きがひどくなった。

　私は泣きたくて泣いていたのではない。夕方になると腹のあたりが張って、身体が勝手に泣く。止め方が分からない。夜中に三度も四度も起きる。

　ある晩、母が匙を持ってきた。

「糖蜜です」と母は言った。開いた襖のところに、お絹が控えていた。

　匙が唇に当たった。甘い匂いがした。

　私は口を開けた。開けてしまった。この身体は甘い匂いに勝てない。

　舌に載った瞬間、私はそれを吐き出した。

　甘さの下に、苦いものがあった。舌の奥のほうが、じん、と痺れるような苦さだった。私は顔を背けて、口の中のものを全部押し出した。頬から首へ、生温かいものが流れた。

「あら」

　母は布で私の顎を拭いた。

「いやなの」

　母はもう一度、匙をすくった。

　私は首を横に振った。振ったつもりだった。実際には頭が左右に揺れただけだと思う。それでも、母の手が止まった。

「変な子ね」

　母は匙を器に戻した。

「甘いのに」

　母は顎を拭いた布をお絹に渡し、下で洗ってくるよう言った。お絹が頭を下げ、足音が階段を下りていった。母は襖を閉めた。

　母は私を抱き上げた。抱き上げて、揺らしながら、独り言のように言った。

「泣いていると、迷子になるの」

　私の背中が冷たくなった。

「泣いている子は、迷子になるのよ。誰も見ていないところで、勝手にどこかへ行ってしまう。そういうことになっている」

　母の声は優しかった。子守唄を歌うときの声だった。

　私は動かなかった。

　四年後の八月。舟屋。灯籠。娘がいない。

　この人はもう、その形を頭の中に持っている。

　母は十分ほど私を揺らして、それから、揺りかごへ戻した。戻す手つきは丁寧だった。私の頭を最後に支えて、そっと離した。

　母が出ていってしばらくして、私はまた泣いた。

　今度は、私が泣いた。

　足音がした。

「おう、おう、どうした」

　恭介だった。

　彼は私を抱き上げた。四か月経って、彼の抱き方はずいぶん良くなっていた。左手が首の後ろに来て、右手が背中を包む。安定していて、揺れの周期が一定している。

　私の身体は、その揺れで泣きやんだ。

　泣きやんでしまった、と私は思った。

　私はいま、恐ろしいことを聞いたばかりだ。この家の中で何が計画されているのか、私は誰よりも知っている。それなのに、この身体は、抱かれた瞬間に安心してしまう。心臓が落ち着いて、手足の力が抜けて、瞼が重くなる。

　私は、自分の身体に裏切られている気がした。

　同時に、それが救いだった。

　元の世界で、私は夜中に目が覚めても、誰も来なかった。誰かに来てほしいと思ったこともない。そういうものだと思っていた。

　ここは違う。

　不自由は続いている。喋れない、動けない、逃げられない。でも、泣けば誰かが来る。この差は、私が思っていたより、はるかに大きい。

「腹が減ったか。おむつか。どっちだ」

　恭介は真面目に私の顔を覗き込んだ。

「父さんには分からん。すまん」

　彼はそのまま、部屋を三十周くらい歩いた。私は途中で眠った。

　＊

　八月の終わり、母が誰かに報告しているのを聞いた。

　私は隣室の揺りかごにいて、襖が少し開いていた。相手は佐伯だった。

「三村先生に、お預けしました」

「さようでございますか」

「宗一郎さまが署名されました。証人は二名。三村先生が原本を保管します。写しは、私が持ちます」

　紙の音がした。

「天導瑠璃花、と書いてありました」

　母の声が、そこで少し変わった。

「七夜の名前が、そのまま書かれています」

「はい」

「宗一郎さまは、あの夜つけた名を、そのまま書類にお使いになったのですね」

　母はそれ以上言わなかった。

　私は揺りかごの中で、天井の木目を見ていた。

　八月の遺言認知。私が十八歳の誕生日に、三村弁護士から受け取った封書に入っていた紙。あの写しには、こう書いてあった。

　――余、天導宗一郎、天導瑠璃を余の実子として認知す。

　瑠璃、だった。

　いまは、瑠璃花になっている。

　私は、それをしばらく考えていた。

　名前が変わったのは、七夜の夜からだ。それより前に書かれたもの――出生前の手紙も、銀の星の刻印も、変わっていない。「女の子なら瑠璃」であり、「瑠璃へ」だ。過去の紙が勝手に書き換わる、というようなことは起こっていない。

　七夜より後に作られる文書が、瑠璃花になる。ただそれだけのことだった。

　当たり前だ、と思ってから、私は少し安心した。

　この世界は、都合よく作り直されているわけではない。父が一字足した。だから、その日以降に人が書く紙にその字が入る。それだけの、地味な因果だ。

　その地味さが、私にはありがたかった。

　ただ、聞き取れることは断片だった。

　私は毎晩、その日に聞いた断片を頭の中で並べようとした。並べている途中で眠くなる。この身体は、私の集中に付き合ってくれない。三つ目の項目を思い出そうとしたところで、いつも意識が落ちる。

　翌朝、私は前の晩に何を並べようとしていたか、半分忘れている。

　＊

　九月、宗一郎が来た。

　昼間ではなかった。夜だった。玄関からではなく、庭から入ったらしい。私は母の部屋の隅の揺りかごにいて、灯りは落とされていた。

　私は目を閉じた。目を閉じているほうが、この家では情報が集まる。

「静子さんのお話は、どうなさるの」

　母の声だった。

「まだ、決めていない」

「先方は待っておいでよ」

「分かっている」

　衣擦れの音がした。

「宗一郎さまは、いつもそう」

「藤乃」

「私にも、そうでした」

　沈黙。

「瑠璃花のことは、片づけた」と宗一郎が言った。「三村に預けた。あれで、万一のときにこの子の身分は動かない」

「万一のとき」

「私が死んだときだ」

「縁起でもない」

「船屋の当主は海で死ぬこともある」

　宗一郎が笑ったようだった。

「藤乃。私は、決めるのが下手だ。それは知っている。だから、決めなくても効く紙を作った」

「紙」

「そうだ」

「宗一郎さま」

　母の声が、少し高くなった。

「紙は、生きている人の代わりにはなりません」

「そうかもしれん」

「そうです」

　また沈黙があった。

　私は目を閉じたまま、聞いていた。

　この二人は、いま、互いを好きなのだと思う。少なくとも母のほうは間違いなくそうだ。声の温度が違う。母がこの声で喋る相手を、私は他に知らない。

　前の人生では、その母がこの人を殺す側に回った。

　私は自分の指を握った。この身体の指は、握るか開くかしかできない。

　母は、この人を愛したまま、この人を殺す計画を立てている。愛が本物でないから殺せるのではない。両方が同時に、この人の中にある。それを、私はこの夜、耳だけで知った。

　＊

　十月、天導貞光が来た。

　応接ではなく、母の居間に通された。私はまた隅にいた。

「後見の件だが」

　貞光の声は、十八年後と同じだった。よく通る。

「万一のことがあれば、私が引き受ける」

「万一」

「宗一郎に何かあったとき、この子の後見人を誰にするかという話だ。母親では通らん」

「なぜ」

「お前は養子から続く分家の人間だ。本家の血がない。親族会がそれを言う」

　母が黙った。

「兄様にも本家の血はありません」

「私は男だ」

　それだけだった。それだけで済むのだと、この人は思っている。

「三人には、もう当たってある」

「兄様、それは」

「万一のためだ。今すぐ何がどうという話ではない」

　母は、しばらく黙っていた。

　私は、母が反論するのを待っていた。

　母は、こう言った。

「……はい」

　私は目を開けそうになった。

「分かりました。兄様が引き受けてくださるなら」

「そうだ。それでいい」

　貞光は茶を飲んで、帰った。

　揺りかごの中で、私は天井を見ていた。

　十二歳の夏、母は珈琲を淹れながら私にこう言った。

　――私の兄は、あの年、私を後見人にしなかった。兄が親族会に手を回して、自分が後見人になった。

　あの年、というのは、宗一郎が死んだ年だ。母の言い方だと、事が起きたあとに、母の知らないところで兄が動いたことになる。

　いま、母は生後六か月の私の隣で、それを事前に聞いて、「はい」と言った。

　母は嘘をついていた。

　――嘘、なのだろうか。

　私は考えた。

　十二年後の母は、本当にそう思い込んでいるのかもしれない。この夜のことを、自分に都合よく作り変えて、被害の話にしてしまっているのかもしれない。人はそういうことをする。

　どちらかは、私には決められない。

　私は、揺りかごの中で、決められないままそれを置いた。

　＊

　同じころ、宗一郎が昼間に来た。

　こちらは隠れて来たのではなかった。玄関から入って、佐伯が茶を出して、母と二人で話をして、それから座敷に来た。

　彼は私を抱かなかった。抱き方を知らないらしく、座布団の上の私を上から覗き込むだけだった。

「大きくなったな」

「そうでしょうか」

「七夜のときより重そうだ」

「持ってごらんになれば」

「いや、落とす」

　彼はそう言って笑った。

　それから、彼は私の顔を見て、こう言った。

「瑠璃花」

　私の身体が、跳ねた。

　この人も、その名前を使う。この人がつけたのは「瑠璃」なのに、この人も「瑠璃花」と呼ぶ。

「よく動く子だ」

　彼はそう言った。

「藤乃。この子の目は、私に似ているか」

「さあ」

「似ていないほうがいい」

　彼はそう言って、帰った。

　帰り際、彼は玄関で恭介と会った。

「恭介君。花の字は、よかった」

「はあ」

「私は、あの晩、少し迷った。迷ったのは、断る理由を探したからだ。船の名を大事にしたかった。だが、あれでよかった」

「……ありがとうございます」

「あの子が庭で走るところを、私も見たい」

　彼はそう言って、行った。

　＊

　秋の日曜に、分家の家から子どもが二人来た。

　六歳の一臣と、五歳の慎だった。慎は蘆田の子だが、その日はたまたま父に連れられて来ていた。

　私は座敷の座布団の上に寝かされていた。首は据わっている。転がることもできる。まだ座れない。

　二人が私を覗き込んだ。

　六歳の天導一臣は、痩せていて、髪が硬そうだった。真面目な顔で私を見て、それから言った。

「これが、僕の奥さんになるの」

　大人たちが笑った。

「一臣君。奥さんじゃない。婚約だ」と誰かが言った。

「こんやくって、何」

「奥さんになる約束だ」

「じゃあ奥さんじゃないか」

　また笑いが起きた。

　五歳の慎が、横から言った。

「赤ちゃんは、やくそくできないよ」

「なんで」

「しゃべれないから」

　一臣が黙った。

「そうか」

　一臣は納得したらしい。彼は私の顔をもう一度見て、指を一本、私の手のそばに置いた。私の手が勝手にその指を握った。

「握った」

「握りますよ、赤ちゃんは」とお絹が言った。「誰の指でも握ります」

「じゃあ、やくそくじゃないね」

「そうですね」

　一臣は指を抜いて、庭へ走っていった。慎がついていった。

　私は座布団の上に残された。

　この子は、あの人ではない。

　私はそれを、はっきり分かっていた。分かっているつもりだった。

　十六の春、庭の東屋で「もう少し、用事がなくてもいてくださいませんか」と言ったときの、あの人の三秒。雨の日曜に本を逆さに持っていたあの人。廊下で「私は、いま、あなたに何も約束できない」と言ったあの人。

　あの人は、ここにいない。

　ここにいるのは、赤ん坊に指を握られて、握るだけなら約束ではないと納得して庭へ走っていく六歳の子どもだ。

　私はこの子を、あの人に育てることはできない。育ててはいけない。

　それが分かっていて、私は、庭のほうを見ていた。

　＊

　その夜、お絹が私を寝かしつけた。

「お嬢様は、よく人の顔を見なさる」

　彼女は揺りかごの横に座って、繕い物をしていた。

「わたしの村ではね。赤ん坊は、生まれるときに前のことを忘れるって言うんですよ」

　私は目を開けた。

「生まれる前は、みんな知っているんですって。誰の子になるかも、どこへ行くかも。それを、生まれるときに、ぜんぶ忘れる。忘れないと、生きていられないから」

　彼女は糸を切った。

「だから赤ん坊が泣くのは、忘れた直後で心細いからだって、うちの婆様が言っておりました」

「……」

「お嬢様は、あんまり泣きませんね」

　私は天井を見ていた。

　忘れないと生きていられない、というのは、たぶん本当だ。

　私は忘れていない。二十七年と八年。全部覚えている。覚えたまま、この揺りかごにいる。

　私は生きにくい。

　夜が更けて、恭介が帰ってきた。

　彼は服を着替えてから、私の部屋に来た。

「起きとるか」

　彼は揺りかごの横に座った。座って、しばらく黙っていた。

「今日な、船台で若いのが足を挟んだ。骨は折れとらん。折れとらんが、あれは治るまで二月かかる」

　彼は自分の膝を見ていた。

「わしがもう少し早う声をかけとれば、ああはならんかった」

　彼はそう言って、また黙った。

「瑠璃花」

　私の身体が、また跳ねた。何度呼ばれても、跳ねる。

「父さんはな、口が下手だ。奥様に、そういうことを言うと、言い訳をするなと言われる。言い訳じゃないんだ。ただ、話しておきたいんだ」

　彼は私の手のあたりに、自分の指を置いた。

「お前は、まだ何も分からんから、いいな」

　私は彼の指を握った。

　この身体は、誰の指でも握る。お絹がそう言った。それは本当だ。

　でも今夜は、私が握った。

　彼はしばらくそのままでいて、それから、私が眠るまでそこにいた。眠るまで、というのは正確ではない。私は眠ったふりをして、彼がいつまでいるかを確かめていた。

　彼は、私が眠ったと思ってからも、二十分ほどそこにいた。

# 第七章　左手

　一歳の四月に、歩いた。

　つかまり立ちは三月からできていた。立てるのに歩けないのは、恐怖のせいだった。頭が重い。重心が高い。倒れたときに手が間に合わない。二十七歳の頭で計算すると、この身体で前へ踏み出すのは、竹馬で走るのと同じくらい無謀に思えた。

　その日、恭介が縁側にいた。

　仕事が早く上がった日で、彼は袖をまくって、木の切れ端を削っていた。私は柱につかまって立っていた。距離は、大人の三歩ぶん。

　彼が顔を上げた。

「おう」

　彼は削るのをやめて、膝を立てた。

「来るか」

　両手を、私の高さに出した。

　私は柱から手を離した。

　離した瞬間に、身体が前へ倒れかけた。倒れないように足が出た。出た足の上に体重が乗って、また倒れかけて、もう一方の足が出た。

　一歩。二歩。三歩。

　四歩目が出なかった。

　尻もちをついた。畳の上だったので痛くはなかったが、衝撃で頭が前に振れて、私は自分の膝に額をぶつけた。

「おおおお!」

　恭介が畳を叩いた。

「歩いた! 見たか、おい、誰か、いま歩いたぞ!」

　彼は私を抱き上げて、そのまま立ち上がった。天井が近づいた。

「奥様! 瑠璃花が歩きました!」

　母が廊下から出てきた。

「聞こえています」

「三歩です。三歩、こっちへ」

「そう」

　母は私を見た。

「よかったこと。あなたが仕事を休んだ日に歩いてくれて」

「はい!」

　恭介は嬉しそうに答えた。

　私は彼の腕の中から母を見た。母は少し笑って、廊下の奥へ戻った。

　彼は、いま自分が何を言われたか、たぶん分かっていない。

　その鈍さのことを、私は昔なら、情けないと思ったかもしれない。この日は思わなかった。彼が母の言い方に気づかなかったおかげで、この家の縁側は十秒間だけ、何の含みもない場所になった。

　それから、私は自分のことを考えた。

　私は嬉しかった。

　三歩歩けたことが、素直に嬉しかった。この一年、私は寝返りを打てた日に嬉しかったし、座れた日に嬉しかったし、離乳の粥を自分で飲み込めた日に嬉しかった。

　この一年は、私にとって、耐えただけの空白ではなかった。

　もちろん辛かった。喋れないことは辛い。伝わらないことは辛い。眠気に負けて話を聞き逃すのは毎晩のことだった。それでも、身体が一つずつできるようになっていく。その過程を覚えていられるのは、私にとって初めてだった。

　二十七歳の人間は、新しく歩けるようになったりしない。

　＊

　言葉は、歩行より遅かった。

　口の中の構造が、私の知っている構造と違う。舌が短い。上顎が浅い。息の量が足りない。二十七年ぶん喋ってきた私が、同じつもりで発音しようとすると、まったく違う音が出る。

　私が最初に狙ったのは、「とう」だった。

　父さん、は無理だ。四音は出ない。とう、なら二音だ。「と」は舌先を上の歯茎につけるだけ。「う」は唇を丸める。

　私は昼のあいだ、一人で練習した。

「た」

「て」

「とぅ」

　お絹が通りかかって、笑った。

「お嬢様、独り言でございますか」

　彼女は座って、私の前に茶碗を置いた。

「まんま。ま、ん、ま」

「……ま」

「そう! まんま!」

「まー」

「上手!」

　お絹は手を叩いた。彼女は「上手」と言うとき、必ず手を叩く。

　私は「まんま」を三日で覚えた。「まんま」は便利だった。食べ物を要求できる。要求が通ると、生活が変わる。私は自分の生活を要求で動かせるようになったことに、思っていた以上に感動した。

　「とう」が出たのは、それから二週間後だった。

　夕方、玄関で音がした。私は廊下へ這っていった。歩けるのに這うのは、そのほうが速いからだ。

　恭介が上がってきた。

「とう」

　彼が止まった。

「とう」

「……いま」

「とう」

　彼はその場に荷物を落とした。落として、廊下を走ってきた。

　彼は走ってきて、私の前で膝をついて、それから、自分の顔を両手で覆った。

「とう」

「はい」

　彼は手をどけた。目が赤かった。

「はい。父さんです」

　私はもう一度、「とう」と言った。

　彼は私を抱き上げて、そのまま玄関に置いてきた荷物を取りに戻り、荷物を持ったまま台所へ行き、お絹に「いま、とうと言いました」と報告した。お絹は「まあ!」と言って手を叩いた。

　その夜、母が私に「言ってごらんなさい」と言った。

　母は私の前に座って、待っていた。

「とう、と言えるのでしょう」

　私は黙っていた。

「瑠璃花」

　私は母の膝を見ていた。

　声が出せなかった、のではない。出さなかった。

　母の前で新しいことをすると、母はそれを覚える。覚えて、数える。この子は何か月で何ができたか、何を聞いていたか。母はそういうことを数える人だ。

「そう」

　母はそれだけ言って、立った。

　私は、その夜、少し胸が痛んだ。母は言葉を待っていた。待っていたのは間違いない。私はそれを与えなかった。

　ひとつ、私が自分に禁じたことがある。

　私は、彼に「パパ」と言わない。

　石盤の字を、私は知っている。「パパは かえってくる」。あれを書いたのは、この身体の持ち主だ。あの呼び方は、あの子のものだ。

　私はそれを借りて、この人を喜ばせることができる。たぶん、とても喜ぶ。

　でも、それは私の言葉ではない。

　私は「とう」と呼ぶ。二音の、私が自分で作った呼び方で呼ぶ。

　＊

　その夏、私は自分の左手のことに気づいた。

　夜だった。私は布団に寝かされていた。枕元の小さな棚に、銀の星が置いてあった。母が「これはお前のものだから」と言って、そこに置くようになっていた。実際に髪に挿すのは、まだ何年も先だ。

　部屋は暗かった。障子越しに、廊下の灯りが弱く入っていた。

　私の左手が、上がった。

　上がって、棚のほうへ伸びた。

　私は右手で自分の左手首を掴んだ。

　掴んでから、心臓が鳴った。

　私は左手を動かそうと思っていなかった。

　この一年余り、私はこの身体の勝手な動きに散々つきあってきた。抱かれれば安心する。甘い匂いに口が開く。誰の指でも握る。それは全部、赤ん坊の身体がそうできているからだ、と説明できた。

　これは、違う。

　棚の上には、星の他に何もない。星は暗くて、光ってもいない。なぜそこへ手が伸びるのか、ただの反射だと片づけることが、私にはできなかった。

　私は左手首を掴んだまま、しばらく息をしていた。

　試した。

　右手で左手を放した。左手は、また上がった。星のほうへ。指が開いて、握るような形になって、それから力が抜けて落ちた。

　私は左手を、自分の胸の上に置いた。

　――いるの。

　声には出さなかった。出せる年齢でもなかった。

　返事はなかった。

　その数日後、廊下から足音がした。

　恭介の足音だ。彼は右足を少し引きずるように歩く。船台で昔やった怪我だと聞いた。

　その音が、まだ襖の向こうにいるうちに、私の左手が上がった。

　私は驚いて、右手で押さえた。押さえたが、左手は襖のほうを向いたままだった。

　襖が開いた。

「起きとるか」

　彼が入ってきた。

　私の左手が、彼のほうへ伸びた。

　私は――そのとき、押さえなかった。

　彼はその手を見て、笑った。

「お、なんだ」

　彼は私の左手を、自分の手で包んだ。大きな手だった。指の腹が硬い。

　私はそのまま、しばらく彼に手を握られていた。

　その夜、私は考えた。

　この手は、私の手だ。私が使っている。でも、この手には、私の都合ではない動きがある。星へ伸びる。この人の足音へ伸びる。

　あの子は、いない。

　いないはずだ。私はこの身体に一年余りいて、頭の中で誰かの声を聞いたことは一度もない。夢に別人が出てきたこともない。

　いないのに、手が伸びる。

　＊

　その少しあと、私は母の前で一度だけ、左手を押さえた。

　昼間だった。母が私を膝に乗せて、髪を梳いていた。

　窓の外を、恭介が通った。

　私の左手が上がった。

　私は右手で、それを押さえた。押さえて、母のほうを向いて、言った。

「かあ」

　母の手が止まった。

「……いま」

「かあ」

　母は櫛を置いて、私の顔を両手で挟んだ。

「もう一度」

「かあ」

　母は、笑った。

　この一年余りで、母がいちばんはっきり笑った顔だった。目のまわりに皺が寄って、口が開いて、歯が見えた。二十七歳の母の、こんな顔を、私は初めて見た。

「かあ、ね。かあさん」

「かあ」

「上手ね」

　母は私を抱きしめた。強く抱きしめた。私の耳が母の鎖骨に当たって痛かった。

　私は母の肩越しに、庭を見ていた。

　いま私がやったことを、私は正確に書いておく。

　私は、母を安心させるために、左手を押さえて「かあ」と言った。父へ伸びた手を隠して、母のほうへ言葉を渡した。母の機嫌がよければ、この家は静かで、私は情報を集めやすい。

　打算だった。

　母を抱きしめさせた瞬間に、私は自分の目的のために母の喜びを作った。

　同時に、母が笑ったのを見て、私も嬉しかった。それも本当だった。

　私はこの一つの行為について、自分に言い訳をしない。この行為は、これ一つで一つだ。私が母と全部同罪だとか、私が母を欺いた極悪人だとか、そういう大きな話ではない。ただ、私はこの日、そういうことをした。

　＊

　一歳の秋、恭介が舟を作った。

　手のひらに乗るくらいの、木の舟だった。船体を彫って、帆を紙で作って、爪楊枝の帆柱を立ててある。

「見とれよ」

　彼は庭の盥に水を張った。私は縁側に座らされて、それを見ていた。お絹が後ろにいた。

　彼は舟を水に置いた。

　舟は、置いた瞬間に横倒しになって、沈んだ。

　帆の紙が水を吸って、白いものが盥の底へ沈んでいった。

　沈黙があった。

「……あー」

　彼が声を出した。

　お絹が吹き出した。

「旦那様、船をお作りになる方が」

「言うな」

　彼は盥に手を突っ込んで、舟を拾い上げた。ぐったりした紙の帆が垂れた。

「錘が要る。底に鉛を入れんといかん。分かっとったんだ。分かっとったが、鉛を削るのが面倒でな」

　彼は濡れた舟を持ったまま、私を見た。

「瑠璃花。父さんの計算が悪かった」

　私は笑った。

　声を出して笑った。この身体で、たぶん初めて、腹から笑った。笑いすぎて縁側から落ちそうになって、お絹に支えられた。

「あ、笑っとる。笑うか。父さんの失敗を笑うか」

　彼も笑っていた。

　その日、彼は縁側で鉛を削った。削って、舟の底に埋めて、もう一度浮かべた。今度は浮いた。浮いたが、帆が水を吸って重くなっているので、ゆっくり傾いた。

「明日、紙を張り替える」

「とう」

「ん」

「とう」

「はい、はい」

　夕方の風が出て、盥の水面が揺れた。傾いた舟が、ゆっくり回った。

　これは、私が役に立ったから与えられた時間ではなかった。

　この家で、私は「良い子」であることに慣れている。八年やった。良い子でいると、生活が楽になり、人が優しくなる。私はその交換に慣れすぎていた。

　この午後、私は何もしていない。彼の失敗を笑っていただけだ。

　それでも、この午後は起きた。

　私は、母にはこの話をしなかった。母に話すと、母は「まあ」と言うだろう。言ったあとで、たぶん何かもう一つ言う。

　言われたくなかった。

　＊

　一歳の秋から冬にかけて、お絹が私に言葉を教えた。

　彼女の教え方は、物を持ってきて名前を言う、というだけだった。柄杓。笊。桶。手拭。庭の石。庭の木。

「これは、なんでございましょう」

「いし」

「そう。こちらは」

「いし」

「これも石でございますね。では、こちらは」

「き」

「木でございます。上手」

　彼女は手を叩いた。

　ある日、彼女が茶碗を落として割った。

　欠片が畳に散った。彼女は「ああ」と声を出して、すぐに拾い始めた。

　私は、そこへ這って行こうとした。

「お嬢様、いけません!」

　彼女は私を片手で押し戻して、片手で欠片を集めた。

「割れたものは、触ってはいけません」

「われた」

「はい。割れました」

「おきぬ、いたい?」

　彼女は手を止めた。

「……いいえ、痛くございません」

　彼女は指を見せた。少し切れていた。

「ちょっとだけ」

「ちょっとだけ」

「はい」

　彼女は笑った。

　その夜、私は彼女の指に巻かれた布を見ていた。

　今度のあの夏には、この人に母の匙を止めてもらえないだろうか。前の人生では、止められなかった。台所へ行けと言われて、行った。

　止められなかったのは、この人が弱いからではない。この人には、そのとき、誰も何も頼まなかったからだ。

　私は、それをこの冬に考え始めた。

　＊

　二歳の四月、母子の健康検査があった。

　蘆田先生が来て、母と私を診た。血を採るというので、私は身構えた。二歳の身体で針を刺されるのが痛いのは分かっていたが、それより、何の検査かが分かっていた。

　蘆田先生の後ろに、七歳の慎がいた。

「息子です。見学させております」

「大きくなられて」と母が言った。

　慎は白い前掛けのようなものをつけて、綿と瓶の載った盆を持っていた。手が緊張していて、盆が少し傾いていた。

　私の腕から血が採られた。痛かった。私は泣いた。二歳の身体は、痛ければ泣く。それでよかった。

　慎が綿を差し出した。彼は、押さえるところを間違えて、針の跡より三センチ下を押さえた。蘆田先生が黙って位置を直した。慎の耳が赤くなった。

　翌週、結果が来た。

　母が紙を見ていた。私は畳の上で積み木を積んでいた。積み木は五個までしか積めない。手の震えのせいだ。

　母は紙を長く見ていた。

　それから、佐伯を呼んだ。

「これは、私が預かります」

「はい」

「蘆田先生には、結構ですとお伝えして」

「はい」

　母は紙を折って、袂に入れた。

　その日の夕方、恭介が帰ってきた。

「検査、どうでした」

「異状ありません」

「そりゃよかった」

　彼はそれで納得した。手を洗いに行った。

　母は、紙を出さなかった。

　私は積み木を六個目で崩しながら、それを見ていた。

　前の人生で父が見せられた紙には、AB型とあった。恭介はO型、母はA型。十八歳の夜に本人から聞いた。今回の紙は、母の指に隠れて読めなかった。

　いま、この家で、その紙は母の袂の中にある。

　前の人生では、二年後の九月に、その検査結果が父へ突きつけられた。今度もそうなるとは限らない。

　＊

　二歳の夏に、二つのことがあった。

　一つは、庭でのことだった。

　夕方、恭介が縁側に座っていた。私はその横で、石を並べていた。石を大きさの順に並べるのが、そのころの私の遊びだった。二歳の指では、これがけっこう難しい。

「瑠璃花」

「とう」

「あのな」

　彼は庭を見ていた。

「お前が生まれる前な、父さんは、月を数えたんだ」

　私は石を置いた。

「奥様が、身重だと分かった月から数えて、いつ生まれるかを数えた。数えて、数えて、それでな」

　彼は言葉を切った。

「途中でやめた」

　蝉が鳴いていた。

「数えるのをやめた。それだけだ」

　彼は何も言わなかった。

　二歳の私は、その意味が分かった。

　彼は数えた。数えて、合わなかった。合わないことに気づいて、それ以上数えるのをやめた。

　この人は、知りたくなかったのだ。知らなければ、この子は自分の子だ。知ってしまえば、この子は自分の子でなくなるかもしれない。だから、途中でやめた。

　この人は、そういう弱さを持っている。

　私は石を置いて、彼のほうへ這って行った。這って、彼の胸に額を寄せた。

　彼は、しばらく動かなかった。それから、私の背中に手を置いた。

「すまんな」

　彼は誰に謝ったのか、言わなかった。

　もう一つは、その数日後だった。

　母が私を膝に乗せて、髪を撫でながら、いつもの話をしていた。

「瑠璃花。あなたはね、本家の子です。本家の血を持っているの。瑠璃というのは、本家の船の名前で――」

　私は、それを何度も聞いていた。生まれた夜から聞いている。眠っていると思われているあいだに、何十回も。

　その日、私は疲れていた。昼寝を逃していた。

　口が、勝手に動いた。

「るり、ほんけ」

　母の手が止まった。

　止まって、二秒くらい何も起きなかった。

　私は自分が何を言ったか気づいて、身体を固くした。

　母は、私を膝から下ろした。

　下ろして、正面に座らせて、私の顔を見た。

「いま、なんて言ったの」

「……」

「瑠璃花」

「まんま」

　私はそう言った。

　母は動かなかった。

「まんま」

　母は、しばらく私を見ていた。

　それから、立ち上がって、部屋を出た。

　私は畳の上に一人で座っていた。

　やってしまった。

　母は今日から、私が眠っていても喋らなくなる。母にとって、この部屋はもう安全な部屋ではない。

　私は、この家で自分が集めていた情報の道を、自分の口で塞いだ。

　同時に、私はもう一つのことを理解した。

　母は今日、怖かったのだ。

　自分が抱いて育てている子が、自分が話した言葉を覚えていた。眠っていると思って喋った言葉を、覚えていた。

　その日から、母は私の前で本家の話をしなくなった。

# 第八章　もう一度呼んで

　秋になって、母の揺り椅子が運び出された。

　私の部屋の隅に、ずっと置いてあったものだ。母がそこに座って、私を膝に乗せて、髪を撫でながら本家の話をしていた椅子だった。

　男二人が来て、それを廊下から運び出した。私は襖のところに立って見ていた。

　代わりに、私の部屋には低い棚が入った。母が座る場所は、なくなった。

　母は、その週から、私の部屋で長く過ごさなくなった。

　その代わりに、廊下から見るようになった。

　私が積み木をしていると、襖が少し開いていて、母が立っている。目が合うと、母は「はい」と言って、行ってしまう。何を「はい」と言ったのか分からない。

　十一月に、母が恭介に話をした。

　夜だった。私は寝かされていて、隣の部屋から声が聞こえた。母は私の前では喋らなくなったが、隣の部屋の声までは消せない。

「この子を、本家で育てようと思います」

　箸を置く音がした。

「本家、といいますと」

「宗一郎さまの屋敷です。あちらのほうが、人手も、教える者もあります。学院のことを考えても、本家から出るほうがいい」

「はあ」

「あなたは造船所がありますから、通いにくくなるでしょうけれど」

　沈黙。

「奥様」

「はい」

「それは、いつからの話ですか」

「来年の春から」

　また沈黙があった。

　私は布団の中で、身体を固くしていた。

　――行きたくない。

　それは、計画のための判断ではなかった。本家へ移れば、母と貞光の会話は聞きやすくなるかもしれない。宗一郎の近くにいられるかもしれない。冷静に考えれば、そちらのほうが有利ですらある。

　それでも、私は行きたくなかった。

　恭介の声がした。

「わたしは、反対です」

　私は息を止めた。

「ここが、この子の家です」

　母が何か言った。低くて、聞こえなかった。

「はい。わたしは造船所の人間です。学もありません。それはそうです。ですが、この子はここで生まれて、ここで歩きました。庭のどこに石があるかも、この子は知っております」

　母がまた何か言った。

「はい。……はい。ですが、わたしは、反対です」

　その日の話は、それで終わったらしかった。

　結局、翌春の移転はなくなった。母がなぜ引いたのか、私には分からない。夫の反対が理由だったのかもしれないし、他の事情があったのかもしれない。

　私は布団の中で、安心して、それから、その安心の形を確かめた。

　あの人は、七夜に宗一郎に向かって「一字足させてほしい」と言えた。

　でも、あれと、今夜のこれは、違う。

　七夜のあれは、宗一郎が相手だった。宗一郎はこの人に対して権力を持っているが、この人を毎日評価する人ではない。今夜の相手は妻だ。この家で毎日一緒に飯を食う人だ。反対すれば、明日から空気が変わる。

　声が震えていた。

　私はそれを聞いていた。震えたまま言ったのだということを、私は知っている。

　＊

　三歳が近づくころ、私は自分の演技を変えた。

　母は私を見ている。廊下から、食卓から、庭から。私が何を覚えているか、何を分かっているかを測っている。

　だから、間違えることにした。

　靴を左右逆に履いた。お絹が「あら、あべこべ」と言って直してくれた。

　「あさ」と「あか」を混ぜた。「あかごはん」と言って、お絹に笑われた。

　積み木を、わざと崩した。

　母は、見ていた。見ていて、何も言わなかった。ただ、少しずつ、廊下に立つ回数が減った。

　演技はうまくいった。

　うまくいって、私は困った。

　三月のある日、私は恭介に言った。

「とう。みずうみ、いや」

「みずうみ?」

「みずうみ、いっちゃ、だめ」

　彼は私の頭を撫でた。

「湖か。夏に行くかもしれんな。星見荘といってな、涼しいところだ」

「だめ」

「怖いか。水が怖いか」

「……」

「大丈夫だ。父さんが手を離さん」

　通らなかった。

　当たり前だ。私はこの一年、わざと言葉を間違える子をやっている。その子が「湖に行くな」と言っても、それは水を怖がる幼児の言葉にしか聞こえない。

　私は自分で自分の口を、信用されないものにしていた。

　「普通の子」でいることは、母から身を守るのに役立った。同時に、それは私が誰かに何かを伝える力を、まるごと削っていた。

　それを、私はこの春に理解した。理解しても、すぐには方法が思いつかなかった。

　＊

　三歳の誕生日に、恭介が赤い靴を買ってきた。

　四月二十日。庭の桜がもう散っていて、敷石に花びらが張りついていた。

　彼は仕事から帰るなり、風呂敷包みを畳の上に置いた。

「開けてみろ」

　私は結び目と格闘した。三歳の指では結び目は解けない。彼が半分ほど解いてくれた。

　中から、赤い革の靴が出てきた。

　子どもの靴だ。つやつやしていて、爪先が丸くて、留め金が銀色だった。この家では見たことのない種類のものだった。町の店で売っているものだ。

「わあ」

　私は本気で声を上げた。

「履いてみろ」

　私は座って、右足を入れた。

　足が、中で泳いだ。

　左足も入れた。同じだった。踵が浮く。爪先まで、指二本ぶんくらい余っている。

「……おおきい」

「大きいか」

「おおきい」

「いや、そんなはずは」

　彼は靴を脱がせて、自分の指を中に入れた。

「うん。大きいな」

　彼は自分の指と、私の足を、交互に見た。

「あのな。店で、こう、店の人に、うちの子の足はこのくらいだと言うたんだ」

　彼は右手の親指と人差し指を広げてみせた。

「このくらいだと」

「とう」

「うん」

「それ、おおきい」

「そうだな」

　彼は自分の指を見て、それから、私の足に自分の指を当てた。

「これは、わしの指が太いんだ」

　お絹が横で吹き出した。

「旦那様、お測りになりませんでしたの」

「測った。指で測った」

「指でお測りになったのですね」

「そうだ」

「それはもう、旦那様のお指の長さでございましょう」

「そうなるな」

　私は笑った。笑いすぎて、後ろへ倒れた。

「紙を詰めよう」

　彼は新聞紙を丸めて、靴の爪先に詰めた。

「履いてみろ」

　私は履いた。今度は少しましだったが、歩くと爪先の紙が潰れて、また泳ぐ。

　私は縁側から庭へ出た。三歩で、右の靴が脱げた。

「あー」

　もう三歩で、左が脱げた。

　私は裸足で庭の砂利の上に立っていた。靴が二つ、後ろに転がっていた。

「瑠璃花!」

　彼が走ってきた。走ってきて、私を抱き上げた。

「砂利は痛いだろう」

「いたくない」

「痛い」

　彼は私を縁側まで運んで、座らせて、足の裏を払った。小石が二つついていた。

「痛くないか」

「いたくない」

「そうか」

　彼はもう一度、靴を私の足に当てた。当てて、自分の指と比べて、首を振った。

「もう少し、大きくなってから履くか」

「うん」

「今度、店へ一緒に行こう。店の人に足を見せて、それから買う」

「うん」

　彼は靴を並べて、そこに紙を詰め直して、箱に戻した。箱を棚の上に置いた。

「ここに置いとくからな。大きくなったら履け」

「いつ」

「そうだな」

　彼は考えた。

「来年か。再来年か」

「らいねん」

「来年でもいいな」

　その約束を、私はその場でしっかり受け取った。

　一年半前、盥に浮かべた舟が沈んだときも、私は笑った。あれは、その場で終わる笑いだった。今日の笑いには、続きがついている。来年、この靴を履く。そのときは店へ行く。

　この家の中で、私が「来年」の話をしたのは、これが初めてだった。

　彼が箱を置いてから、言った。

「瑠璃花」

　私の身体が跳ねた。三歳になっても跳ねる。

「もういっかい」

「ん?」

「もういっかい、いって」

　彼はきょとんとした。

「瑠璃花?」

「うん」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花。瑠璃花。瑠璃花。……なんだ、そんなに呼ばれたいか」

　彼は笑って、私の頭に手を置いた。

　私は畳の上に座って、その手の重さの下にいた。

　嬉しかった。

　三歳の私は嬉しかったし、二十七年ぶんの私も嬉しかった。私はこの人に、自分の名前を呼ばせている。呼ばせている、という言葉が正しい。私が「もういっかい」と言って、この人がそのとおりにしている。

　その嬉しさの端に、小さく、冷たいものがあった。

　私はこの人に、自分の名前を呼ばせている。

　この人が呼んでいるのは、この人の娘だ。三分息をしなかった子だ。庭で走るところを見たいと思った子だ。その子の名前を、私が「もういっかい」とせがんでいる。

　私はその冷たさを、その日は端に置いたままにした。置いたままにして、四回目を言った。

「もういっかい」

「瑠璃花」

　お絹が茶を持ってきた。

「旦那様、そろそろお茶になさいませ。お嬢様も、お手をお洗いになって」

　私たちは笑いすぎて疲れていた。彼は縁側に胡座をかいて、茶をすすった。私は隣に座って、湯冷ましを飲んだ。庭で鵯が鳴いていた。桜の花びらが、風で敷石の上を動いた。

　何も起きない午後だった。

　＊

　その春から夏にかけて、私は母を観察していた。

　母は変わっていなかった。朝、庭を見る。昼、帳面をつける。夕方、佐伯と話す。夜、自分の部屋にいる。

　変わったのは、私を見る時間だった。

　以前は、廊下に立って中を覗いていた。いまは、食卓で正面から見る。私が匙を持つ手を見る。私が何を先に食べるかを見る。私が父の話にどう反応するかを見る。

　六月のある日、母が言った。

「瑠璃花。この字が読めますか」

　母は新聞を広げて、大きな見出しを指した。

　私は、しばらくそれを見た。

　読めた。二十七年ぶんの私には読めた。三歳の子には読めない。

「まる」

　私は言った。

「まる?」

「まるが、ある」

　私は見出しの中の「。」を指した。

　母は、新聞をたたんだ。

「そうね」

　その日の午後、私は縁側で自分の指を見ていた。

　私はいま、自分を隠すために、自分の一番使える道具を捨てている。読めることを隠し、覚えていることを隠し、分かっていることを隠している。

　隠しているあいだに、四年目の夏が近づいている。

　＊

　その夏、蘆田先生がまた来た。

　慎は八歳になっていた。前より背が高くなって、前掛けの丈が合っていなかった。

　診察のあいだ、慎は先生の後ろに座って、紙に何か書いていた。

　私は、先生の鞄の横に置かれた紙を見た。前回の検査の綴りらしかった。上のほうに、母の名前と、私の名前があった。型の欄はAとABだった。去年は隠れて見えなかった字が、今は見えた。

　私は、慎のそばへ這っていった。

「しん」

「はい」

「えーびー」

　慎が顔を上げた。

「るりか、えーびー。かあ、えー。とう、おー」

　彼は私を見た。

「……お嬢様。それは、どこで」

「えーびー」

　私は同じことをもう一度言った。母がA、父がO、自分がAB。そこから父が除かれる意味まで口にすれば、誰に教わったのかを訊かれる。私は目に入った字を繰り返す子の顔をしていた。

　慎は、しばらく私を見ていた。

　彼は紙を伏せた。伏せて、こう言った。

「はい。わかりました」

　彼はそれ以上、何も訊かなかった。父にも言わなかった。

　帰り際に、彼は私の頭を撫でた。撫で方が下手で、髪が乱れた。

　私はそのとき、彼の困った顔を見て、懐かしいと思った。

　十五歳の春、縁側で詩を読んでくれた二十歳の人。十七歳の秋、東屋で処方簿を差し出した二十二歳の人。あのとき彼が見せた顔と、いま八歳の彼が見せている顔が、似ていた。

　似ている、というだけだ。

　この子は、あの人ではない。この子が今日黙ると決めたのは、この子が自分で決めたことで、前の人生で彼が処方簿を持ち出した理由と繋がってはいない。私はそこを混ぜないようにした。

　その代わり、私は失敗した。

　私は数日後、恭介に「みずうみ、しぬ」と言った。

　言い方をもっと考えるべきだった。彼は驚いて、母に相談した。母はその晩、私の部屋に来た。

「瑠璃花。誰がそんなことを言ったの」

「……」

「誰から聞いたの」

「しらない」

　母はしばらく座っていた。

　翌週から、私の部屋の前に、女中が一人つくようになった。お絹ではない、別の女中だった。

　監視が増えた。

　＊

　秋に、私は習慣を作った。

　毎日、外で見つけたものを、恭介のところへ運ぶ。

　石。銀杏の葉。誰かの落とした真鍮のボタン。蝉の抜け殻。それを、彼が帰ってくると、両手で持っていって渡す。

「これは」

「あげる」

「そうか」

　彼は受け取って、縁側の棚に並べた。

　これを、私は一月続けた。毎日欠かさず続けた。

　彼は一月経つころには、私が何か持ってくることに慣れきっていた。玄関で靴を脱ぎながら「今日は何だ」と言うようになった。

　私はそのために一月やった。

　十一月の、母が湯屋へ行く日を待った。

　母は月に二度ほど、町の湯屋へ行く。行くと二時間は帰らない。その日の午後、母は出かけた。廊下についている女中は、お絹に呼ばれて洗濯物を運んでいた。すぐ戻ってくる。そのあいだだけだった。

　母の居間に、文箱がある。黒漆の、蓋に蒔絵のある箱だ。母はそこに大事なものを入れている。

　私は廊下を這っていった。三歳の私は歩けるが、廊下を歩くと足音が響く。這うほうが静かだ。

　母の居間に入った。文箱は違い棚の下の、引出しの中にある。

　引出しは重かった。

　三歳の腕では、開かなかった。

　私は両手で取っ手を掴んで、身体ごと後ろへ引いた。二センチ動いた。もう一度引いた。また二センチ。四回目で、手が滑って、私は尻もちをついた。

　息が上がっていた。汗が出ていた。

　五回目で、手が入るくらい開いた。

　文箱を引き出した。重い。畳に置いた。

　蓋を開けた。

　中に、紙が何通か入っていた。私は一番上を取った。

　この世界の崩し字は、八年かけて少しずつ読めるようになった。読み方は覚えている。けれど、薄暗い棚の下で小さな紙を繰る指がもどかしく、廊下の音がするたびに字の続きを見失った。

　二通目に、それがあった。

　――藤乃へ。

　――私たちの子に、名を考えた。

　――男の子なら勝手にせよ、女の子なら瑠璃としたい。瑠璃丸の瑠璃だ。

　私は、その紙を掴んだ。

　十八歳の誕生日の朝、私はこの手紙の写しを読んだ。三村弁護士が届けた封書の中で。

　いま、私は原本を持っている。

　続きには、銀の星を注文したことも書いてあった。瑠璃、とこの名が選ばれたときの紙だ。

　私はその一通を胸に抱えて、文箱を戻し、引出しを閉めようとした。

　閉まらなかった。

　開けるより、閉めるほうが重かった。私は畳に足を突っ張って、両手で押した。半分閉まったところで、腕が震えて力が抜けた。

　時間がなかった。

　私はそのまま部屋を出た。引出しは、五センチほど開いたままになった。

　自分の部屋に戻って、私は紙を布団の下に隠した。

　手が震えていた。

　＊

　夕方、恭介が帰ってきた。

「今日は何だ」

　彼は玄関で靴を脱ぎながら言った。

　私は両手で紙を持っていた。

「あげる」

「お、なんだ、紙か。……絵か?」

「ちがう」

　彼は受け取った。

　受け取って、玄関の上がり口に立ったまま、それを広げた。

　彼の顔から、表情が消えた。

　私は、その顔を見ていた。

　彼は手紙を最後まで読んだ。それから、最初へ戻って、二度読み返した。「私たちの子」の一行で、紙を持つ指が止まった。

　そのあいだ、私はずっとそこに立っていた。

　彼は紙を下ろした。

「瑠璃花」

「うん」

「これは、どこから持ってきた」

「……はこ」

「箱」

「かあさまの、へや」

　彼はしゃがんだ。しゃがんで、私と目の高さを合わせた。

　叱られると思った。

　彼は、叱らなかった。

　彼は、私の脇の下に手を入れて、抱き上げた。抱き上げて、上がり口に座って、自分の膝の上に私を置いた。

　それから、紙をもう一度、膝の横で開いた。

「……瑠璃、か」

　彼は言った。

「女の子なら瑠璃、と書いてある」

　私は彼の膝の上で、じっとしていた。

「わしは、あの晩」

　彼の声が、掠れた。

「あの晩、この手紙のとおりに名前がついた。わしはそれに、花を足したいと言うた」

「うん」

「わしは、この子はわしの子だと思うとった」

　彼の腕が、私の腹のあたりで少し締まった。

「思うとった、というのは、嘘だな」

　彼は言い直した。

「分からんかった。分からんかったが、わしの子だと思うことにしとった。それで、名前をつけたいと言うた」

　私は何も言えなかった。

　三歳の口では言えない、ということではない。二十七年ぶんの口があっても、この人に言うことは何もなかった。

　彼はしばらく黙っていた。

　それから、立ち上がった。

「これは、返しに行く」

「え」

「元の場所へ返す。奥様の物だ。お前が取ってきた物は、返さんといかん」

　彼は私を下ろした。

「一緒に来い」

　彼は母の居間へ行って、引出しを開けて、文箱を出して、手紙を戻した。戻して、引出しをきちんと閉めた。閉めると、隙間がなくなった。

　それから、彼は私の手を引いて、自分の部屋へ戻った。

　座って、私を膝に乗せた。

　彼は、泣いていた。

　声を出さずに、目のところだけが濡れていた。彼は袖でそれを拭いた。拭いても、また濡れた。

　私は、何もできなかった。

　この人の役に立つことを、私は何ひとつ言えなかった。ちがう、あなたの子だよ、とは言えない。この人はもう読んでしまった。あなたは悪くない、とも言えない。それは慰めにもならない。

　私は、彼の膝の上にいた。それだけだった。

　しばらくして、彼が言った。

「瑠璃花」

「うん」

「お前は、お前だ」

　私は顔を上げた。

「誰の子だとか、そういうのは、わしにはよう分からん。分からんが、お前は、わしがとうと呼ばれとる相手だ」

　彼は鼻をすすった。

「それだけは、間違いない」

　私は、彼の胸に額を押しつけた。

　この人は、いま、母と宗一郎のあいだに子があるという手紙を読んだ。見ないようにしていた疑いを、もう避けられなくなった。知って、そのうえで、さっきと同じ名前で私を呼んだ。

　七夜に「瑠璃花」と呼んだときと、今夜「瑠璃花」と呼ぶときで、この人の声は変わっていなかった。

　私はそれを、強く受け取った。

　たぶん、必要以上に強く受け取った。この人が呼んでいるのはこの身体の子で、私はその声を横から聞いているだけだ。それは分かっている。

　分かっていて、私はその夜、彼の膝の上で眠るまで、一言も喋らなかった。

# 第九章　期限

　十一月の終わりに、本家へ連れて行かれた。

　母と、女中が一人ついた。馬車で四十分ほどの距離だった。門をくぐって、玄関で草履を脱いで、廊下を歩いた。

　その廊下の突き当たりに、あの部屋があった。

　襖が開いていた。

　壁いっぱいに星図が貼ってある。北の空と、南の空と、海図。赤い糸で航路が引いてあって、折れ目に印がある。

　その下に、真鍮の時計が並んでいる。

　私は、母の手を離した。

　離して、部屋の中へ歩いていった。

「瑠璃花」

　母が呼んだ。私は止まらなかった。

　壁の前に立って、上を見上げた。

　三歳の身長からだと、時計の列は頭のずっと上にある。十八歳の目で見たときとは、まったく違う光景だった。

　音は、同じだった。

　いくつもの秒針がわずかにずれて刻む音。屋根を叩く雨のような音。

「おや」

　声がした。

「気に入ったか」

　宗一郎が入ってきた。三十三歳。

　私はこの人を、この三年で四回しか見ていない。生きて動いているところを見るのは、いつも少し慣れない。

　彼は私の横に来て、しゃがんだ。

「これはな、船に載せる時計だ。海の上では、時計が狂うと場所が分からなくなる。だから、船屋は時計を集める」

「いくつ」

「四十三」

　私は思わず彼を見た。

「数えたことがある」と彼は言った。「若いころ、暇な冬に数えた」

　彼は立って、壁のいちばん端の時計を指した。

「動いているのは、そのうち十九だけだ」

　私は口を開けた。

　同じだ。十五年後も、動いているのは十九だ。

「なぜ、ぜんぶ動かさないの」

「直せる者がいない。ぜんまいを巻ける者はいるが、狂ったのを直せる者はもういない。祖父の代に一人いたそうだ」

「なおさないの」

「直したいと思っている。思っているうちに、十年経った」

　彼はそう言って、笑った。

　この人は、決めない人だ。

　私はそれを、母から聞いた。十二歳の夏に、珈琲を飲みながら。

　実物のこの人は、確かに決めない。時計を直すのを十年先延ばしにしている。静子さんとの話も先延ばしにしている。認知は紙にしてある。紙にして、三村に預けてある。決めなくても効く紙。

　彼は私を抱き上げて、いちばん高い時計を見せてくれた。

「これは、瑠璃丸に載っていたやつだ」

「るりまる」

「そうだ。お前の名前の船だ」

　そのとき、玄関のほうで声がした。

「旦那様、静子様がお見えです」

　宗一郎の腕が、少し固くなった。

　彼は私を下ろした。

「藤乃」

　母が廊下から入ってきた。

「静子さんが来た。この子を、頼む」

　母は私の手を取った。

　その手つきに、何も乱暴なところはなかった。母はいつも通りだった。ただ、母の指が、私の手首を掴む位置が、いつもより上だった。

　久我静子という人が玄関から入ってきた。二十三歳だった。若い。背が高くて、髪をきっちり結っていて、風呂敷包みを持っていた。

「宗一郎さん。お約束のもの、お持ちしました」

「ああ、すまん」

「ずいぶんお待たせしてしまって」

「いや、待たせているのはこちらだ」

　二人はそう言い合って、笑った。

　その笑い方に、含みはなかった。この人は、この人でこの縁談を待っている。待っているが、待っているだけの人ではない。彼女は自分で包みを持って、自分で来た。

　母は、私の手を引いて、廊下を戻った。

　その途中で、私は立ち止まった。

「みずうみ」

　母が振り返った。

「みずうみ、こないで」

　私は、廊下の奥にいる二人に向かって言った。

「みんな、みずうみ、こないで」

　静子が「まあ」と言った。

「湖が怖いのね」

「かわいそうに、水を怖がるんです」と母が言った。

　母は私の手を引いた。強く引いた。

　馬車の中で、母は何も言わなかった。

　言わなかったが、私は分かっていた。

　母は、あれを、私が母に向かって言ったのだと思っている。母の予定を邪魔する言葉として聞いている。

　実際、そのとおりでもあった。

　＊

　十二月に、宗一郎と静子の婚約が決まった。

　式は翌年の十月と決まった。

　その話を、私は食卓で聞いた。母が佐伯に告げているのを、横で粥を食べながら聞いた。

　十月。

　私は匙を止めた。

　母の期限が決まった。

　宗一郎が結婚すれば、正妻が来る。正妻に子ができれば、この子の順位は下がる。認知の遺言は、その前に効かせなければならない。

　つまり、来年の夏だ。

　前の人生で私が知っていた日付は、八月十五日。あの夏の集まりが、結婚前の最後になる。母にとっての期限が、初めて具体的に見えた。今日、八月十五日と口にした人は、まだいなかった。

　その夜、母が私の部屋の戸口に来た。

　襖を開けて、そこに立っていた。

　私は布団に座っていた。目が合った。

　母は、何も言わなかった。

　一分か、二分か、母はそこに立っていた。

　それから、襖を閉めて、行った。

　私は布団に潜って、目を閉じて、あの三行を思い浮かべた。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「はじめから」は灰色のままだ。

　「やめる」に意識を向けた。

　　元の世界の、元の身体へ戻ります。
　　ここでの記憶は残ります。
　　この世界は続き、この身体はここで生き続けます。
　　この入口からは戻れません。

　いつでも帰れる。

　三歳の身体で、監視のついた部屋で、あと八か月をここで過ごさなくてもいい。

　私は、それを見て、閉じた。

　＊

　年の暮れに、恭介が木の船を持ってきた。

　二年ほど前に盥で沈んだ舟とは、まるで違うものだった。

　長さは腕の半分くらい。船体が滑らかに削ってあって、船首が少し反っている。帆柱は三本。帆は薄い布で、糸で縫ってある。船体の横に、細い刀で字が彫ってあった。

「るりまる」

　私は読んだ。人前でも、平仮名なら少しずつ読んでみせるようにしていた。

「読めるのか」

「よめる」

「そうか」

　彼は嬉しそうだった。

「本物の瑠璃丸を、わしは見たことがある。若いころ、残してあった船体の修理に入った。船底の板を三枚替えた」

「うかぶ?」

「浮かぶ。底に鉛を入れた。今度は計算した」

　私たちは台所から盥を借りて、水を張って、浮かべた。

　浮かんだ。

　傾かなかった。

「おお」

「うかんだ」

「浮かんだな」

　彼は腕を組んで、しばらく見ていた。

　私は水に指を入れて、船を押した。船は盥の縁まで行って、跳ね返って戻ってきた。

「とう」

「ん」

「これ、もらっていい」

「お前のだ。名前が彫ってあるだろう」

「るりまる」

「そうだ」

　私は船を持ち上げて、水を切って、抱えた。冷たかった。

　その夜、私は布団の中で、木の船を横に置いて考えていた。

　この人は、私の血の父ではない。この人はそれを知っている。知って、それでも、船に「るりまる」と彫った。

　私は、決めた。

　血がどうであれ、この人は父だ。

　これを、私は事件の前に決めておきたかった。

　もし、来年の夏に何かが起きて、そのあとでこの人が何かをしてくれたとしても、私はきっとそれを恩として受け取ってしまう。恩の交換で家族になるのは、私の悪い癖だ。十歳のとき、フミの湯呑を拾って、あと三回手伝えば父の居場所を教えてもらえるだろうかと考えた、あの癖だ。

　だから、何も起きていない年末の夜に、決める。

　布団の中で、私の左手が動いた。

　彼が部屋を出て、廊下を歩いていく音がした。その音のほうへ、左手が伸びた。

　私は、押さえなかった。

　伸ばしたままにした。手は、しばらく空中にあって、それから、力が抜けて落ちた。

　枕元の棚には、銀の星がある。裏に「瑠璃へ」と彫ってある。

　船の名前は瑠璃丸。刻印は瑠璃。呼ばれる名は瑠璃花。

　三つとも、いま、この部屋にある。

　＊

　その冬、私の部屋の前についていた女中は、たみという人だった。

　二十四か五で、口数が少なくて、廊下に座っている。母に言われてそこにいるのだから、私は最初、彼女を敵だと思っていた。

　十二月のある日、私は廊下でわざと転んだ。転んで、彼女が近づいてきたときに、部屋の中の様子が見えるかどうかを確かめた。見えた。

　その次の日、たみさんが言った。

「お嬢様」

「はい」

「わたくしは、目が悪うございます」

「え」

「遠くのものが、よく見えません。奥様には申し上げておりません」

　彼女はそれだけ言って、また廊下に座った。

　私は、それが何を意味するのか、しばらく考えた。

　考えて、たぶん、これはこの人が私にできる精一杯なのだと思った。この人は仕事を辞められない。母に逆らえない。廊下から離れることもできない。できるのは、自分の目が悪いと私に言うことだけだ。

　私は、それを受け取った。

　冬のあいだ、私は父と数を数える遊びをした。

　彼が仕事場から持ち帰った木の端切れを、床に並べる。十個ずつ束にして、十の束を十作る。百になる。

「百だ」

「ひゃく」

「船の板は、これの何倍要ると思う」

「しらない」

「わしも数えたことがない」

　彼は本当に数えたことがないらしかった。二人で数え始めて、三十で飽きた。

　そういう夜が、その冬に何回かあった。

　母は、その部屋に入ってこなかった。廊下を通ることはあった。通るとき、足音が少し遅くなるのが分かった。

　＊

　正月に、本家で人が集まった。

　静子が来ていた。彼女は台所を手伝って、母と並んで働いていた。母は静子に丁寧だった。とても丁寧だった。

　昼過ぎに、座敷で誰かが言った。

「夏は、湖へ行かれるので」

「ええ」と静子が答えた。「今年は私も伺うつもりです」

　私は、母の顔を見た。

　母は、湯呑を持っていた。

　母の指が、湯呑の縁で止まった。ほんの一瞬だった。それから、母は湯呑を口へ運んだ。

　私はそれを見た。

　母が何を計算したのか、私には分からない。人が増えると難しくなる、と思ったのかもしれない。予定を変えるかもしれない、と思ったのかもしれない。

　私に分かるのは、母の指が一瞬止まったということだけだ。

　その晩、家に帰ってから、私は恭介に言った。

「とう」

「ん」

「なつ、みずうみ、いや」

　彼は、私を見た。

　この前とは、少し違う目だった。

「まだ言うか」

「いや」

「怖いか」

「こわい」

　彼は座って、私を膝に乗せた。

「何が怖い」

「みずうみで、だれか、しぬ」

　彼は黙った。

　長く黙った。

「誰か、というのは」

「わかんない」

「誰かが、そう言うたのか」

「ちがう」

　彼は、私の頭に手を置いた。

「分かった」

　彼はそう言った。

「分かった。覚えとく」

　覚えとく、と彼は言った。

　それだけだ。彼は次の日に何かを調べたりしなかった。母に問い質したりもしなかった。三歳の子が湖を怖がっている、という話を、彼は自分の中に置いただけだった。

　それでも、この前とは違った。この前、彼は「大丈夫だ」と言った。今度は「覚えとく」と言った。

　私は、その差を数えた。

　＊

　三月の終わり、母が来た。

　夜だった。監視の女中は廊下にいた。母は入ってきて、襖を閉めた。

　母は、私の布団の横に座った。

　灯りは小さかった。

「瑠璃花」

「かあさま」

「起きていたのね」

「うん」

　母は、しばらく黙っていた。

　それから、こう言った。

「あなたは、誰」

　私は、母の顔を見た。

　母の顔には、怒りはなかった。責めてもいなかった。母は、本当に訊いていた。

「あなたは、私が抱いた子です」

　母は言った。

「三分、息をしなかった。産婆が諦めかけた。私は、この子は死ぬのだと思いました。そのとき、あなたが泣いた」

　母の手が、布団の上に置かれた。

「戻ってきた、と私は言いました」

　私は動かなかった。

「私は、あなたに乳をやりました。夜中に何度も起きました。歩いたのも見ました。かあ、と呼ばれました」

「うん」

「あなたは、私が眠っていると思って話したことを、覚えていました」

　母の声は、震えていなかった。

「二つのとき、あなたは、るり、ほんけ、と言いました。私は、あの言葉を、あなたの前で何十回も言いました。眠っている子の前で。あなたは、それを覚えていた」

「……」

「三つの子が、湖で人が死ぬと言いました」

　母は私を見ていた。

「あなたは、誰」

　私は、答えなかった。

　答えられなかった、のではない。答えなかった。

　母がいま怖がっているのは、幽霊ではない。前の子と比べているのでもない。母は、自分が四年近く抱いて育てた子が、自分の言葉を全部覚えていて、まだ起きていないことを口にする、という事実だけを見ている。

　母は、その子に、直接訊いている。

　この問いに答えれば、私はこの家で何かを失う。何を失うかも分からない。

　私は、母の手を見ていた。布団の上に置かれた手。三年と十一か月、私を抱いた手。前の人生で、薬を六回買った手。

「かあさま」

「はい」

「ねむい」

　母は、私を見ていた。

　それから、立ち上がった。

「そう」

　母は襖を開けて、出て行った。

　問いは、そのまま部屋に残った。

　＊

　その夜、私は眠らなかった。

　布団の中で、三つのことを並べた。

　一つ。この身体の左手。私の意思と関係なく、星へ伸びる。父の足音へ伸びる。

　二つ。前の人生の石盤。「パパは かえってくる」。板の左側が擦れて曇っていた。あの子は左利きだった。私は右利きだ。

　三つ。私がこの身体に入った日。三分の無呼吸。

　この三つを、私はずっと別々に置いていた。

　並べると、一つの形になった。

　十歳の八月十五日、この身体の子は「……なければ、よかった」と言った。生まれてこなければよかった、と言ったのだと思う。母の話を聞いたあとで。

　その子の願いは、たぶん、どこかへ届いた。

　もし、あの子の拒んだ気持ちが、巻き戻すことでは消えなかったのなら。私が「はじめから」を選んで身体が生まれ直しても、生きる本人は来なかったのかもしれない。

　あの三分は、その空白だったのかもしれない。

　空いていた。

　空いていたところへ、私が入った。

　――違うかもしれない。

　私はすぐにそう思った。

　これは私の推理だ。誰かが教えてくれたのではない。あの三行の画面は、そんなことを一言も表示していない。「はじめから」の確認画面は「この人生の始まりへ戻ります。このやり直しは一度だけです」としか言わなかった。「やめる」の確認画面は「この身体はここで生き続けます」と言う。それだけだ。

　画面は、私の帰り道のことは教える。

　あの子がどこにいるかは、教えない。

　私は目を閉じて、意識の中で三行を出した。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　――あの子は、どこ。

　何も起きなかった。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　三行は三行のままだった。追加の項目も、説明も出なかった。

　私は目を開けた。

　枕元の棚に、銀の星がある。

　私は左手を伸ばした。今度は、私が伸ばした。指先が棚に触れて、星の角に当たった。

　「いるなら」と、私は声に出さずに言った。

　「いるなら、この四年、ごめん」

　返事はなかった。

　この身体で言葉を選んで喋るのは、私だけだ。それでも、星へ伸びる左手や、父の足音に先に動く身体は残っている。本人が席を外していても、好きだったものの跡まで消えたわけではないのかもしれない。

　布団の中で、私は自分の左手を見ていた。

　この身体の子が生きていたら、この子は、たぶん、この四年を私と同じようには過ごさなかった。もっと素直に泣いて、もっと素直に笑って、母の言葉を覚えなかったかもしれない。

　でも、この四年に起きたことのいくつかは、この子のものだ。

　七夜に「花」を足してもらったのは、この子だ。赤い靴を買ってもらったのは、この子だ。木の船に「るりまる」と彫ってもらったのも、この子だ。

　私は、それを横で聞いて、救われた。

　名前を呼ばれるたびに、私は嬉しかった。三歳の誕生日に「もういっかい」と言った。あれは、この子の名前だ。

　それでも、私は、あの嬉しさを嘘だったことにするつもりはない。

　私は本当に嬉しかった。それは起きたことだ。

　問題は、その先だ。

　私はいま、四歳になろうとしている。夏に事件がある。事件を止めたら、そのあと、私はどうするのか。

　私は、まだ答えを持っていなかった。

　持たないまま、朝が来た。

　四月二十日に、私は四歳になった。

# 第十章　あなたは誰

　四歳になって最初に考えたのは、母に兄のことを言うかどうかだった。

　母は、兄に裏切られる。

　宗一郎が死ねば、後見人になるのは母ではない。貞光だ。貞光は生後六か月のときにそう言いに来て、母は「はい」と言った。そのあと親族会の三人にも当たった。母が計画の見返りとして期待しているものは、たぶん手に入らない。

　それを、母に言えば。

　私は、四月から五月にかけて、そのことを何度も考えた。

　言えば、母は計画をやめるかもしれない。兄と組む理由がなくなる。母の目的は、この子を本家に据えることだ。据えたところで後見が兄なら、母は何も得ない。

　私は、この筋道を五回くらい頭の中でなぞった。

　なぞって、二つのことに気づいた。

　一つ目。母は、もう知っている。

　母は生後六か月の私の隣で、それを聞いた。「万一のことがあれば、私が引き受ける」と言われて、「はい」と答えた。母は知っている。知ったうえで、続けている。

　だから、私が教えても、母は驚かない。母は「知っています」と言うだけだ。

　二つ目。もし母が計画を変えたら、私は何も知らなくなる。

　私が持っている知識は、八月十五日の湖という一点だけだ。偽電報、投薬、舟屋、桟橋。母が別の方法に変えたら、その全部が使えなくなる。次に何が起きるか、私には分からなくなる。

　私は、その怖さのほうが大きかった。

　そしてもう一つ、これは書いておかなければならない。

　私は、母の孤独を使いたかった。

　母に「伯父様は、かあさまを後見人にしない」と教える。母は動揺する。母は誰かに縋りたくなる。そこで私が何かを言えば、母は聞くかもしれない。

　――そういう筋道を、私は考えていた。

　考えて、そこで自分が気持ち悪くなった。

　私は十六の年に、澪の相談を詩の茶会に変えた。あれは、人の困りごとを自分の都合のいい形に置き換える手つきだった。四歳になって、私はまた同じことをしようとしていた。

　私は言わなかった。

　これが正しい判断だったのかは、いまでも分からない。言っていれば違ったかもしれない。言わなかったから起きたことがあるかもしれない。私は、この選択が正解だったと自分に言い聞かせるつもりはない。

　私は、ただ、言わなかった。

　＊

　七月に入って、薬が四度目の配達に来た。

　二度目と三度目は、私が数えた。玄関の呼び鈴が鳴って、薬屋の小僧が包みを置いていく。母が受け取る。それを、私は廊下の角から見ていた。

　四度目の日、私は廊下の角にいなかった。

　母の居間の襖が開いていて、母が中にいて、包みを解いていた。

　私は入り口に立った。

　母が振り返った。

　私と目が合った。

　母の手の下に、瓶が四本並んでいた。茶色の、小さな瓶。

　母は、包み紙を戻さなかった。

「見ていなさい」

　母は言った。

　私は動けなかった。

「隠すのはやめました」

　母は瓶を一本ずつ持ち上げて、棚の奥へ入れた。四本とも。

「あなたは、私が隠しても見ています。だから、見ていなさい」

　母は棚の戸を閉めた。閉めて、こちらを向いた。

「怖い?」

　私は答えなかった。

「怖いなら、そう言いなさい」

　私は襖のところに立っていた。

　母は、それ以上何も言わなかった。私は部屋を出た。

　自分の部屋に戻って、木の船を抱えて座った。

　四本。

　配達は四度目。

　前の人生で私が知っていた記録は、六回だった。四月と五月に二度ずつ、六月、七月。

　今回は四回だ。

　同じ計画ではない。

　私はそれを、自分に何度も言った。同じ手口が来るとは限らない。回数が違えば、量が違う。量が違えば、使い方が違うかもしれない。

　私は、八月十五日という日付を知っている。偽電報を知っている。舟屋を知っている。

　知っているものが、そのまま来るとは限らない。

　今回、何が同じで何が違うかは、私が自分で確かめなければならない。

　＊

　翌日の夕方、恭介が帰ってきた。

　いつもより早かった。彼は着替えもせずに、私の部屋へ来た。

「瑠璃花」

「とう」

　彼はしゃがんだ。

「今日な、診療所へ行ってきた」

　私は顔を上げた。

「お前が夏に湖へ行くだろう。子どもの旅行に持っていく薬をもらいたいと言うた。腹の薬とか、虫刺されのとか」

「うん」

「そのついでに、蘆田先生の帳面を見せてもらった」

　彼は自分の膝を見ていた。

「奥様の名前で、薬が出とる。四月と、五月と、六月と、七月。四回だ」

　私は息を止めた。

「先生は、眠れんと言うので出したと言うとった。量が多いのが気になっとると。ご主人から言ってやってくれと言われた」

　彼は顔を上げた。

「わしは、お前が湖で人が死ぬと言うたのを、覚えとる」

「とう」

「それと、これが、繋がるかどうかは分からん」

　彼は正直にそう言った。

「分からんが、わしは今夜、手紙を書く」

「だれに」

「小野さんだ。星見荘の。あの人は仕事が丁寧だ」

　彼は立って、私の手を引いた。

「見とれ。父さんは字が下手だ」

　彼は座敷の卓に紙を広げて、筆ではなく鉛筆で書いた。字は本当に下手だった。

　私は横に立って、それを見ていた。彼は読み上げながら書いた。

「小野弥吉様。……ええと、いつもお世話になっております。八月に伺います。……つきましては、二つ、お願いがございます」

　彼は舌を出して、鉛筆を舐めた。

「一つ。桟橋の柱と板を、わたしが着く前に一度見ておいてください。腐りや、傷や、新しい痕がないか。とくに先のほうを」

「うん」

「二つ。夜に、桟橋のあたりを見ておいてください。人が出入りしていたら、覚えておいてください」

　彼は一度、鉛筆を止めた。

「……理由は、着いてから申し上げます。子どもの言うことで、わたしにも確かなことは分かりません。ただ、わたしは自分で確かめたいと思っております」

　彼は最後にそう書いた。

　私は、その紙を見ていた。

　彼は「誰が」を書かなかった。

　書けなかったのだと思う。彼が持っているのは、幼児の言葉と、診療所の帳面の四行だけだ。その二つから、妻の名前を紙に書くことは、この人にはできない。

　でも、彼は自分の足で診療所へ行って、自分の目で帳面を見た。

　三月に「大丈夫だ」と言った人が、正月に「覚えとく」と言い、七月に診療所へ行った。

　私はそれを見ていた。

　彼は封をして、宛名を書いて、私に渡した。

「明日、出す。お前が持ってろ」

　私は封筒を両手で持った。

　その夜、私は封筒を枕の下に入れて寝た。翌朝、彼が郵便局へ持って行った。

　＊

　七月の終わり、私はお絹を捕まえた。

　台所の裏で、彼女が豆を選っていた。私はその横に座った。

「おきぬ」

「はい、お嬢様」

「おねがい」

「なんでございましょう」

「みずうみで、ずっと、いっしょにいて」

　お絹は手を止めた。

「ずっと、と申しますと」

「ずっと。よるも」

「夜も、お嬢様のお側におりますよ」

「かあさまが、だいどころ、いって、って、いっても」

　お絹の手が、豆の上で止まった。

　彼女は、私を見た。

　彼女はしばらく黙って、それから、豆の笊を横へ置いた。

「お嬢様」

「うん」

「わたくしは、奥様に雇われております」

「うん」

「奥様が台所へ行けとおっしゃったら、行くのが仕事でございます」

「うん」

　お絹は、自分の手を見ていた。

「……お嬢様は、四つでいらっしゃいますね」

「よっつ」

「お嬢様が、糖蜜をお吐きになったのを、わたくしは覚えております」

　私は顔を上げた。

「四つの月のころでしたか。奥様が匙をお持ちになって、お嬢様が顔をお背けになった。あんなに甘いものを、赤ん坊が吐くというのは、めったにございません」

　彼女は、笊の縁を指で撫でた。

「あれから、わたくしは、ときどき考えるのです。あれは何だったのかと。考えて、考えるのをやめます。考えると、この家におれなくなりますので」

「おきぬ」

「はい」

「こわい?」

　お絹は、少し笑った。

「怖うございます」

　彼女は言った。

「怖いですけれど」

　彼女は笊を持ち上げて、豆を選り始めた。

「離れません」

「ほんと」

「わたくしは、お嬢様の側におります。台所へ行けと言われても、行きません。叱られたら、叱られます」

「ありがとう」

「四つのお子様に礼を言われるのは、初めてでございます」

　彼女は笑った。目がなくなる笑い方だった。

　＊

　八月の初めに、分家の家から人が来た。

　十歳の一臣が、母親と一緒に来ていた。彼は座敷で退屈そうにしていて、庭に出て、私が木の船を持っているのを見つけた。

「それ、船?」

「うん」

「見せて」

　彼は座り込んで、船を手に取った。ひっくり返して、底を見た。

「鉛が入ってる」

「とうが、いれた」

「へえ」

　彼は帆柱を指で弾いた。

「これ、ぐらぐらするよ」

　本当だった。真ん中の帆柱の根元が、少し緩んでいた。

「直せる?」

「直せるよ」

　彼は自信満々に言って、庭の隅から小枝を拾ってきた。小枝を帆柱の穴に押し込もうとした。

　穴が広がった。

　帆柱が抜けた。

「あ」

「あ」

　私たちは二人で、抜けた帆柱を見た。

「ごめん」

「いい」

「僕、直せると思ったんだ」

「うん」

　彼は帆柱を持ったまま、しばらく困っていた。

　私は彼を見ていた。

　十二年先の春、前の人生では、この人は雨の日曜に本を逆さに持っていた。この人は氷に挟まれた船の話をする。この人は行き止まりの生垣まで一緒に歩く。

　この十歳の子は、木の船の帆柱を抜いた。

　同じ手だ。指の形が同じだ。でも、この子は、あの人がしない間違いをする。

「ねえ」と彼は言った。

「うん」

「僕、君と結婚するんだって」

　私は答えなかった。

「知ってる?」

「しってる」

「どう思う?」

　私は、庭の砂利を見ていた。

　この問いに、四歳らしい可愛い返事をすることはできる。「いや」でも「いいよ」でも、大人は笑う。

　でも、私はこの子に何かを約束させたくなかった。約束させて、それを十二年かけて育てるようなことは、絶対にしたくなかった。

「おおきくなったら」

「え?」

「おおきくなったら、じぶんで、きめる」

　彼は目を丸くした。

「そうだね」

　彼はあっさりそう言った。

「そのほうがいいや」

　彼は帆柱を私に返して、庭を走っていった。

　私は帆柱を持って、縁側に座っていた。

　十六の春の東屋を思い出した。「もう少し、用事がなくても、いてくださいませんか」と言ったときの、三秒。

　あれは、もう起きない。

　あの三秒は、私が十歳から六年かけて作った暮らしと、少しずつ彼と話してきた時間の上に起きたことだ。あの関係はもうない。この世界では、私は四歳で、あの人は十歳で、あの六年は起きていない。

　私は、それを悼んだ。

　誰にも言えないので、縁側で、一人で悼んだ。

　＊

　八月の初旬に、何も起きない日が一日あった。

　朝から暑くて、庭の蝉がうるさくて、私は縁側で氷を舐めていた。氷は佐伯が町から持ち帰ったもので、鉋で削って、砂糖水をかけたものだった。

　お絹が洗濯物を干していた。夕立が来て、彼女は慌てて取り込んで、それから、恭介の靴下を干し直していた。

「旦那様の靴下は、いつも右だけ穴があきます」

「なんで」

「歩き方でしょうねえ。右足を引きずっておいでですから」

　夕方、恭介が帰ってきた。

　疲れていた。肩が落ちていて、玄関で座り込んだ。

「今日は何だ」

　彼は、いつもの台詞を言った。

「なんもない」

「なんもないか」

「うん」

「そうか。父さんも今日は何もできんかった」

　彼は靴を脱いで、上がってきた。

「船台の材が、寸法が違うて届いた。一日、突っ返す相談だけで終わった」

「たいへん」

「大変だ」

　夕食は、三人だった。母と、恭介と、私。

　母は静かだった。恭介は材の話を三回した。三回目のとき、母が「その話は聞きました」と言った。恭介は「そうでしたか」と言って、笑った。

　夕食のあと、彼は棚から靴の箱を下ろした。

「そういえば、あれだ」

　赤い靴だった。

「履いてみろ」

　私は履いた。

　まだ大きかったが、去年ほどではなかった。踵が浮かない。爪先に指一本ぶんの余りがある。

「お」

「はいる」

「入るな」

　彼は靴の中を指で押した。

「ちょっと待っとれ」

　彼は道具箱を持ってきて、靴の内側に薄い革を貼った。

「これで、踵が滑らん」

　私は立って、廊下を歩いた。

　脱げなかった。

　廊下の端まで歩いて、戻ってきた。

「あるける」

「歩けるな」

「とう」

「ん」

「みずうみからかえったら、ふねのところ、いきたい」

「船?」

「とうの、しごとのとこ」

　彼は驚いた顔をした。

「造船所か」

「うん」

「あんなもん、うるさいし、危ないぞ」

「いきたい」

　彼は少し考えて、それから、笑った。

「よし。帰ったら連れて行く。船台は上から見せる。下は危ないから、上からだ」

「うん」

「靴を履いて来い。あれなら足を守る」

「うん」

　私は嬉しくて、その夜は赤い靴を枕元に置いて寝た。

　湖から帰ったら、造船所に行く。

　私は、八月十五日の向こう側に、予定を一つ作った。

　＊

　八月十一日の夜、私は「行かない」と言ってみた。

　夕食のあとだった。母が席を立ったあとで、恭介に言った。

「みずうみ、いかない」

「行かんか」

「いかない。おうちにいる」

　彼は箸を置いた。

「お前一人で家におるか」

「おきぬと」

「奥様は行かれる」

「うん」

「父さんも行く」

「……」

　私は黙った。

　そこが行き止まりだった。

　私が家に残っても、湖では人が集まる。宗一郎が行く。母が行く。貞光がもう行っている。父も行く。私が残れば、私は何も見られない。何も聞けない。伝えることもできない。

　それに、母が私を置いていくとは思えなかった。

「怖いか」

　彼が訊いた。

「こわい」

「うん」

　彼は、しばらく黙っていた。

「瑠璃花。父さんはな、湖では、お前から離れん」

「ほんと」

「本当だ。船台の仕事より、そっちが大事だ」

　彼は自分の膝を叩いた。

「もし父さんが離れんといかんことになったら、お絹さんにつける。お絹さんは、あれは頑固だ」

「うん」

　その夜、布団の中で、私は三行を出した。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「やめる」の確認の文が出た。四年前と同じ文だった。

　いま帰れば、私はこの四日先を知らない。

　私は文を閉じた。

　閉じてから、天井を見て、自分がいま何を考えたか確かめた。

　帰りたくなかった、のではない。帰れなかった、のでもない。

　私は、この人たちがどうなるかを見たかった。それから、造船所へ行きたかった。

　その二つだった。

　＊

　八月十二日に、荷造りをした。

　行李が三つ。私のものは、着替えと、木の船と、赤い靴だった。

「船は置いていきなさい」と母が言った。

「もっていく」

「壊れます」

「もっていく」

　母は、それ以上言わなかった。

　出発の朝、母が私の髪を梳いた。

　久しぶりだった。母が私の髪に触れるのは、たぶん半年ぶりだった。

　櫛が、丁寧に動いた。母は髪を分けて、耳の後ろで留めた。

　それから、銀の星を出した。

「これをつけていきなさい」

「ほし」

「そう」

　母は、星を私の髪に留めた。

「本家の子ですから」

　母はそう言った。

　鏡の中の私は、四歳だった。髪に銀の星があった。前の人生の十四年先で、私は同じ星を挿して星の間へ降りた。あのときも、母がこれを留めた。あのときも、母は「あなたは瑠璃という名前で紹介されます」と言った。

　母の手が、私の頭から離れた。

　玄関で、恭介が行李を縛っていた。彼は最後に、赤い靴を布に包んで、上に載せた。

「これは、着いたら出す」

「うん」

　母の贈り物と、父の贈り物が、同じ荷物の中にあった。

　私は、その二つに挟まれていた。

　馬車が来た。

　私は、この家の玄関を振り返った。

　この家に、私は帰ってきたい。

　事件を止めて、それから、ここへ帰ってきて、造船所へ行って、赤い靴を履いて、来年の春も、その次も、ここで暮らしたい。

　そう思っている自分を、私は否定しなかった。

　八月十三日の朝、私たちは帝都を出た。

# 第十一章　灯籠

　帝都から汽車で一日かかった。

　朝に出て、途中で二度乗り換えて、夕方に町へ着いた。町は湖の手前の谷にあって、駅前に郵便局と、宿が二軒と、雑貨屋があった。

　馬車に乗り換えるあいだ、恭介が郵便局の前で立ち止まった。

「電話があるな」

　彼は看板を見上げていた。

「星見荘にも電話はあったな。本社への照会は、ここからでも繋がるか」

「繋がりますよ」と馬車の御者が言った。「繋がるまでに時間はかかりますがね。三十分か、一時間か」

「ほう」

　彼は郵便局の場所を、しばらく見ていた。

「ここから湖まで、どのくらいだ」

「山道を一時間ですな。車ならもう少し早い」

「車があるのか」

「宿に一台あります。使う人はめったにおりません」

　恭介は頷いた。

　私はその横で、彼の袖を持っていた。彼が何を覚えようとしているのか、私には分かった。私は何も足さずに、その袖を握っていた。

　馬車は山道を登った。曲がるたびに車体が傾いて、母が私の肩を押さえた。木が途切れて、湖が見えた。

　夕方の湖は、鉛の色をしていた。向こう岸の山が黒く、その上の空だけが明るかった。

　星見荘は、湖の東の斜面に建っていた。木造の二階建てで、屋根が深い。前庭から、湖へ向かって桟橋が伸びている。桟橋は思ったより長かった。杭の上に板を渡して、湖の中へ二十メートルほど出ている。先のほうに、小さな舟屋があった。

　玄関に、男の人が立っていた。

「お着きでございます」

　小野弥吉だった。三十八歳。日に焼けて、痩せていて、背筋がまっすぐだった。

「小野さん。手紙は」

「頂戴しました」と小野は言った。「昨日、桟橋を見ました」

「どうでした」

「今日また見ます」

　彼はそれだけ言って、行李を運び始めた。

　玄関脇には電話があった。受話器を上げた女中の声が、階段まで聞こえた。恭介はそちらを一度見て、荷物を下ろした。

　玄関の奥から、天導貞光が出てきた。

「遅かったな」

「兄様。もういらしていたの」

「十二日に着いた。一臣も連れてきた」

　貞光は私を見た。

「大きくなった」

「はい」

　母がそう答えた。私は答えなかった。

　その夜、私は小野の娘に会った。

　台所の裏で、五歳の女の子が椅子に座って、豆をつまんでいた。

「澪、ご挨拶を」と小野が言った。

　彼女は椅子から降りて、両手を前で組んだ。

「小野澪です。五つです」

　私は、彼女を見ていた。

　十七歳の澪。註の間違いを見つけるのが好きで、握手を警戒して、落雁を甘すぎると言って二つ食べる人。星の間で立ち上がって、手を震わせながら父の遺書を読んだ人。

　その人が、いま五歳で、豆をつまんでいる。

「るりか」

　私は言った。

　名字を言うべきだったかもしれない。四歳だから、それでよかった。

「るりかちゃん」

　彼女はそう言った。

　私は、少しだけ息が詰まった。

　るりかちゃん。

　この世界で私をそう呼んだ人は、いない。父は「瑠璃花」と呼ぶ。母も「瑠璃花」と呼ぶ。お絹は「お嬢様」だ。

「ちゃん」がついた瞬間に、それは、元の世界の呼ばれ方に近づいた。

　私はそれを、ただ嬉しいと思った。

　嬉しいと思って、それから、自分に言った。

　――この子は、私を知らない。

　この子が呼んでいるのは、四歳の天導瑠璃花だ。名前が同じだから私が呼ばれているのではない。同じ名前を持った子が、いま、ここにいるだけだ。

「豆、たべる?」と澪が言った。

「たべる」

　私たちは生の豆を三つずつ食べて、小野に叱られた。

　＊

　八月十四日の昼に、宗一郎が着いた。

　彼は一人だった。

「静子さんは」と母が訊いた。

「この暑さだ。今年はやめておくと言うので、そうさせた」

「まあ」

「無理をさせても仕方がない」

　私は、母の顔を見た。

　母の顔は、動かなかった。

　それより前、午前中に私は桟橋へ行こうとした。

　行こうとした、というのは、確かめたかったからだ。柱を、自分の目で見たかった。四歳の目で見て何が分かるわけでもないが、見たかった。

　前庭を横切って、桟橋の付け根に足をかけたところで、身体が持ち上がった。

「お嬢様!」

　お絹だった。

「桟橋はいけません」

「みる、だけ」

「いけません。落ちたら、わたくしがどうなるかご存じですか」

　彼女は私を抱いたまま、前庭へ戻った。

　私は彼女の肩越しに、桟橋を見た。

　板が二十枚くらい並んでいて、その先に舟屋がある。杭は水面から上に一メートルほど出ていて、下は見えない。

　見えないものは、見えない。

　午後、澪と貝殻を集めた。お絹は岸のすぐ上に座り、ときどき私たちの籠を覗き込んだ。

　湖に貝がいるとは思っていなかったが、岸には小さな二枚貝の殻がたくさん落ちていた。白いのと、薄紫のと、内側が虹色になっているのがあった。

　澪は虹色のを探すのがうまかった。

「これ、いちばんいい」

「うん」

「はんぶんこ」

　彼女は虹色の殻を二つ、私にくれた。私は白いのを三つあげた。

　その途中で、澪が私の髪を見た。

「それ、なに」

「ほし」

「きれい」

　彼女は手を伸ばして、触った。

「ぎんいろ」

「うん」

「いいなあ」

　澪は、その次に、こう言った。

「ちょうだい」

　私は、口を開けた。

　あげる、と言いかけた。

　言いかけて、止めた。

　喉のところで、言葉が止まった。

　――だめだ。

　これは、私のものではない。

　母がこれを私の髪に留めた。母は「本家の子ですから」と言った。この身体が生まれる前に宗一郎が注文して、裏に「瑠璃へ」と彫らせた。この星は、この身体の子のものだ。

　私が友達を作りたいからといって、あげていいものではない。

「ごめん」

　私は言った。

「あげられない」

「なんで」

「おじさまが、くれたから」

　生まれる前からこの子へ贈られていたことまで、説明する言葉は見つからなかった。

　澪は、少し口をとがらせた。

　それから、貝殻を見た。

「じゃあ、これでいい」

　彼女は虹色の殻を、自分の掌の上で並べ直した。

「これ、ぎんいろよりきれい」

「うん」

「ほんとに、きれいだもん」

　彼女は本気でそう言っているようだった。

　私たちは日が傾くまで、貝を並べていた。

　＊

　夕方の前に、澪が私を裏山の入口まで連れて行った。

「あっちに、いちごがある」

「いちご」

「ちいさいの。すっぱい」

　私たちは、小野に「山へ入るな」と言われていたので、お絹に見てもらいながら、入口の草のところだけを探した。赤い実が三つあった。澪が二つ取って、一つを私にくれた。

　すっぱかった。

「すっぱい」

「でしょ」

　澪は笑った。彼女は、笑うとき、口を大きく開ける。十七歳の彼女は、あまり大きな声で笑わなかった。落雁を甘すぎると言うときも、顔はほとんど動かなかった。

　五歳の彼女は、こうやって笑うのか、と私は思った。

「るりかちゃんは、いつまでいるの」

「わかんない」

「あしたも、いる?」

「いる」

「あさっても?」

「いる」

「じゃあ、あしたも、いちご」

「うん」

　その約束は、果たせなかった。

　＊

　十四日の夕方、大人たちが岸へ出た。

　桟橋ではなかった。桟橋から少し北へ寄った、砂利の岸だった。水が浅くて、子どもが入っても膝までしかない。

　小野が先に来て、石を並べて、足元を整えていた。

「こちらのほうが安全でございます」

「そうだな」と宗一郎が言った。

　子どもは三人いた。私と、澪と、一臣。一臣は靴を脱いで水に入って、すぐ小野に叱られた。

　宗一郎が、紙の灯籠を一つ持ってきた。

「一つだけだ」

　彼は言った。

「明日、たくさん流す。今日は、これだけ」

「なんで、きょう?」

　私が訊いた。

「今日は、私が流したいからだ」

　彼は、水際に膝をついて、灯籠に火を入れた。

「誰の?」

「私の母の」

　彼は言った。

「明日は、みんなで流す。今日は、私が一人で流す。それだけだ」

　彼は灯籠を水に置いた。

　その灯籠の火が、紙を通して、青みがかった白に見えた。

　私は、それを見た。

　息が、止まった。

　――青みがかった白。

　フミが言った。

　十歳の八月、私の髪を梳きながら。お嬢様は帰ってからひと月ばかり、灯籠のお話ばかりなさいました。青いのが一つあった、あれは誰のだった、あれはどこまで行くの、と。

　こんな光だったのかもしれない。

　前の人生の灯籠は、十五日の夜だった。今は十四日の夕方だ。あの子の見た一つと同じ物ではない。それでも、話さずにはいられなかった気持ちが、少し分かった。

　灯籠は、風のない水面をゆっくり離れていった。

　澪が「あっ」と言った。

「まわった」

　灯籠は、少し回りながら進んだ。

「あれ、どこまでいくの」

　澪が訊いた。

　宗一郎は、少し考えて、言った。

「向こう岸までは行かん。途中で沈む」

「かわいそう」

「そういうものだ」

　私は、水の上の光を見ていた。

　この子が話し続けた光は、こんなふうに揺れただろうか。私はいま、自分の目で水の上の火を見ている。

　＊

　その夜、私は聞いてしまった。

　寝かされた部屋は二階で、隣の部屋との壁が薄かった。

　私はお絹の隣の布団にいた。お絹は眠っていた。

　隣の部屋から、母と貞光の声がした。

「明日の晩だ」

「はい」

「灯籠のあとに人が散る。あのときが一番いい」

「はい」

「子は」

「眠らせます」

「眠らんかったら」

「舟屋へ置きます」

　私は、布団の中で目を開けていた。

「舟屋へ置けば、迷子だ」

「はい」

「探す。皆で探す。宗一郎は先に走る。あれは走る男だ」

「はい」

「桟橋は暗い」

　それだけだった。

　声が止んで、襖の音がして、足音が離れた。

　私は、天井を見ていた。

　薬と舟屋は、前の人生で知ったものと同じだった。でも、聞こえた相談は、眠らなくても娘を置き、探しに走らせるというものだった。前の人生で小野が書いた、灯籠の見回りに誘う手口だけではない。

　私は隣のお絹を揺すった。彼女が目を開けるまで、袖を離さなかった。

「ふねごや。かあさま、おくすり」

　お絹は壁のほうを見た。もう声はしなかった。それでも、私を抱いて座り直してくれた。

　翌朝、お絹についてきてもらい、父の部屋へ行った。

「かあさまと、さだみつさま。ふねごやに、おくって」

「お前をか」

「おくすりで、ねかせるって」

　父はお絹を見た。お絹は、言葉は聞けなかったが私が夜中に起こし、同じことを言った、と答えた。

「分かった。お前を舟屋へは行かせん」

　父は私を膝に乗せたまま、お絹へ顔を向けた。

「奥様が何とおっしゃっても、この子から離れんでください。薬はわたしか医師が確かめるまで飲ませないでください。責められたら、わたしの指図だと言ってください」

　お絹は、背筋を伸ばして「はい」と言った。

　＊

　十五日の午後、小野が来た。

　彼は玄関ではなく、裏の勝手口から入ってきて、恭介を呼んだ。

　私は廊下の角にいた。

「旦那様。桟橋の先の柱ですが」

「はい」

「新しい痕があります」

　恭介の声が変わった。

「痕」

「鋸の痕です。水面のすぐ下、二本目と三本目の杭の内側に、切り込みが入っております。深さは半分ほど。上から板を踏んでも、すぐには落ちません。人が集まれば、折れるおそれがあります」

「いつのものです」

「昨日はございませんでした」

　小野は、はっきりそう言った。

「わたしは十二日に一度、十四日の朝に一度、見ております。十二日は何もございませんでした。十四日の朝も、あの位置は見ました。ございませんでした」

「では」

「二日のうちのものです。それより古い痕ではございません。木の色が違います。それから、杭の根元に泥が塗ってございます。上から見ると、痕が見えません」

　沈黙があった。

「小野さん」

「はい」

「わたしは、これを、旦那様に申し上げたい」

「わたしが申し上げます」

「いや」

　恭介の声が、詰まった。

「わたしが言うと、話が」

　彼は言葉を切った。

　私は、廊下の角から出た。

「とう」

　二人が振り返った。

「瑠璃花。ここにおったのか」

「おのさんが、みた」

　私は言った。

「おのさんが、はしらを、みた。それ、おじさまに、いって」

　恭介が私を見た。

　彼は、しばらく私を見て、それから、頷いた。

「そうだな」

　私はそのまま座敷へ行った。宗一郎は縁側にいた。

「おじさま」

「おう」

「おのさんが、はしらを、みたって」

「柱?」

「さんばしの、はしら。あたらしい、きずが、あるって」

　宗一郎の顔が、変わった。

　彼は立ち上がった。

「小野!」

　小野が来た。恭介が来た。

　宗一郎は自分で二人に確かめた。小野が同じことをもう一度言った。恭介が診療所の話はせずに、手紙で点検を頼んだこと、その理由は子どもの言葉だったことだけを言った。

　宗一郎は、湖のほうを見た。

　三十四歳の彼は、決めない人だと言われている。時計を十年直せていない。縁談を先延ばしにしている。

　その人が、この日は、五分で決めた。

「今夜の灯籠は、中止だ」

　彼は言った。

「桟橋の先は封鎖する。小野、綱を張ってくれ。誰も入れるな」

「はい」

「柱は、そのままにしておけ」

「そのまま、でございますか」

「直すな。切ったところを削ったり、板を替えたりするな。誰かが見たときに、そのままの形で残っていなければならん」

「承知しました」

「それから」

　彼は少し考えた。

「舟を一艘、岸寄りに出しておけ。人が乗れるやつだ。櫂も入れておけ」

「はい」

　小野は行った。

　三十分後、桟橋の中ほどに、綱が二本張られた。杭に結んで、腰の高さと、膝の高さ。板の上に「あぶない」と書いた板が置かれた。

　私はそれを前庭から見ていた。

　私が四年前から知っていた桟橋が、いま、封鎖された。

　＊

　午後三時に、電報が来た。

　配達の男が自転車で山道を登ってきて、玄関で紙を渡した。

　恭介が受け取って、広げた。

「本社からです」

　彼は言った。

「至急、戻れと」

　母が廊下に出てきた。

「何ですって」

「本社からの呼び出しです。船台の件でしょう。材の寸法で揉めておりましたから」

「今日?」

「今日と書いてあります」

　私は、彼の袖を掴んだ。

「とう」

「うん」

「いかないで」

　彼はしゃがんだ。

「行かんといかん」

「いかないで」

「瑠璃花」

　彼は私の手を、自分の手で包んだ。

　その手に、力が入っていた。

「父さんは、行く」

　彼は言った。

「行って、確かめてくる」

　私は彼の目を見た。

　彼の目は、私を見ていた。私だけを見ていた。

　――確かめてくる。

　彼は、そう言った。ただ行かねばならない、というだけではなかった。確かめてくる、と言った。

　父はお絹にも、朝の頼みをもう一度確かめた。それから立ち上がって、母のほうを向いた。

「奥様。夕方には戻ります」

「無理をなさらないで」

「はい」

　三時半に、彼は出た。

　馬車で山を降りていくのを、私は前庭から見ていた。母も見ていた。貞光も、二階の窓から見ていた。

　母は、玄関に戻るとき、少し肩の力を抜いた。

　私は、それを見た。

　＊

　午後六時に、恭介が戻った。

　馬車ではなかった。町の宿の車で山道の途中まで来て、そこから林の中の道を歩いて登った。裏口から入ってきたので、家の中の誰も、彼が戻ったことにしばらく気づかなかった。

　最初に気づいたのは、お絹だった。

「旦那様!」

　彼は靴が泥だらけで、汗だくだった。

「奥様には、まだ言うな」

　彼は言った。

「小野さんと、旦那様を呼んでくれ」

　三人は、玄関脇の小部屋に入った。

　私は、その隣の部屋にいた。お絹に抱かれていた。

　声は、よく聞こえた。

「電話を借りました」

　恭介が言った。

「郵便局の電話です。ここの玄関で話せば、家中に聞こえます。先に疑いだけを知らせたくなかった。三十分待って、本社に繋がりました」

「それで」

「誰も、電報を出しておりません」

　沈黙があった。

「本社の当番に、電報を扱う係へ確かめてもらいました。今日、湖へ電報を出した者はいないと。船台の件は先週片づいた、と言われました」

「では、この電報は」

「町の郵便局で、受信の記録は見せてもらいました。発信は帝都の別の局からです。誰が出したかは、そこでは分かりません」

　紙を置く音がした。

「原本は、わたしが持っております」

「恭介君」

　宗一郎の声だった。

「はい」

「これは、君を遠ざけるためのものだ」

「……はい」

「柱が切られ、君が呼び出された」

「はい」

「二つとも、今日だ」

　誰も、何も言わなかった。

　しばらくして、宗一郎が言った。

「警察を呼ぶ」

「旦那様」

「町の駐在では足りん。郡の警察を呼ぶ。私が電話をかける」

　今度は隠す必要がない、と宗一郎は言った。玄関へ出て、この家の電話で警察へ話した。電報の原本も、切られた柱も、そのままにしておくと伝えた。

　掛け時計は六時五分だった。受話器を置いた宗一郎は、こちらへ向き直った。

「車で一時間ほどだそうだ。それまで、小野は舟と桟橋を頼む」

「承知しました」

「それから、今夜の宴は中止だ」

　宗一郎が言った。

「灯籠も中止、宴も中止。家の者は、全員、大広間に集めろ。集まって、待つ」

「集めるので?」

「散らさないためだ。人が散るのが、一番まずい」

　彼は立ち上がったらしかった。

「子どもは」

「別室に」と恭介が言った。「お絹が見ております」

「それでいい。目を離すな」

　＊

　私は、二階の小さな部屋にいた。

　お絹と、田中という若い使用人が一緒だった。田中は連絡役で、廊下と部屋を往復していた。

　夕食は、握り飯だった。酒は出なかった。宴が中止になったので、酒は蔵から出されていない。

　私は握り飯を半分食べて、残した。

　母が来たのは、六時二十分ごろだった。

　襖を開けて、母は部屋の入り口に立った。

「お絹」

「はい」

「台所へ行きなさい」

　お絹は、私の横に座ったままだった。

「お絹」

「奥様」

　お絹の声は、震えていた。

「わたくしは、ここにおります」

　母は、動かなかった。

「なんですって」

「お嬢様の側におります。旦那様からも、そう申しつかっております」

「私が行けと言っています」

「行きません」

　沈黙があった。

　母は、田中を見た。田中は下を向いた。

　母は、部屋を出て行った。

　私は、お絹の袖を握っていた。彼女の手も震えていた。

　「おきぬ」

「はい」

「ありがとう」

「まだ何もしておりません」

　彼女はそう言った。

　私は、天井を見ていた。

　古い手口は、崩れた。

　電報は照会された。柱は封鎖された。灯籠は中止された。宴は中止された。酒は出ていない。子どもは別室にいて、大人が二人ついている。警察が呼ばれた。

　前の人生で私が知っていた道筋の、ほとんど全部が塞がった。

　私は、少しだけ、息をついた。

　その二十分後に、母が戻ってきた。

　母は、小さな瓶と、匙を持っていた。

　＊

「瑠璃花」

　母は言った。

「眠りなさい」

　母は畳に膝をついた。瓶の栓を抜いた。匙を出した。

「大人の話が長くなります。あなたは眠っていなさい」

　母は瓶を傾けた。

　匙の上に、透明な液が落ちた。

　母は匙を持って、私のほうへ来た。

　私は、四か月のときのことを覚えていた。甘い匂い。舌の奥の苦さ。顔を背けて吐いたこと。

　私は、襟のことを考えていた。もし飲まされたら、飲んだふりをして襟に吐こう。襟に薬が残れば、それが証拠になる。四年、私はそれを考えていた。

　匙が、近づいた。

　その手首を、お絹が掴んだ。

　速かった。

　お絹は膝立ちになって、両手で母の手首を掴んでいた。匙が傾いて、液が畳に落ちた。

「奥様」

　お絹の声は、震えていた。震えたまま、はっきりしていた。

「なりません」

　母が、お絹を見た。

　母の顔から、表情が抜けた。

　私は、その顔を見た。

　この人は、いま、初めて止められた。

　この人は、娘へ飲ませる匙を、こんなふうに止められたことがなかった。乳をやり、おむつを替え、糖蜜を飲ませ、髪を梳き、星を留めた。毎日、母がすることだった。名前には父が一字を足したし、本家への引越しにも反対した。でも、この小さな匙を持つ手には、誰も触れなかった。この家では、母親のすることに、女中は口を出さない。

　いま、女中が手首を掴んでいる。

「離しなさい」

「離しません」

「お絹」

「奥様。これは、なりません」

　母は、匙を持ったまま動かなかった。

　匙の中身は、もう畳に落ちていた。

　田中が立ち上がって、廊下へ走り出した。

# 第十二章　桟橋

　お絹は、母の手首を離さないまま、身体をずらした。

　自分の背中で、私を母から隠す位置に動いた。それから、片手で私の襟の後ろを掴んで、後ろへ押した。

「お嬢様、下がって」

　私は畳の上を後ろへ滑った。

　お絹は母の手首を離した。離すと同時に、母の手から匙を取った。取った匙を、そのまま畳の上に置いた。

「奥様。これは、このままにしておきます」

　彼女は、匙に触った手を、着物の脇でこすった。

「田中さん」

　廊下へ出かけていた田中が、戻ってきた。

「お嬢様を抱いてください。そのまま、廊下の柱のところに立っていてください」

「は、はい」

　田中は私を抱き上げた。若い男で、抱き方が下手だった。私の脇が痛かった。

　お絹は、卓の上の茶碗と、湯冷ましの入った器を、隅へ寄せた。

「これも、洗いません」

　彼女は誰にともなく言った。

　母が、畳の上の小瓶へ手を伸ばした。

　お絹が、その前に立った。

　押さえはしなかった。ただ、母と私のあいだに立った。

　母は小瓶を取って、袂に入れた。

「お絹」

「はい」

「あなたは、明日から」

「はい」

　母は、それ以上言わなかった。

　母は立ち上がって、部屋を出た。

「田中さん、旦那様方に」

「もう、呼びました。廊下の者に言ってあります」

　階下で、人が動く音がした。

　それから、母の声が聞こえた。

　庭からだった。

「瑠璃花!」

　私は、田中の腕の中で、身体を固くした。

「瑠璃花がいません!」

　母の声は、大きかった。よく通った。

「誰か! この子がいません!」

　お絹が、窓を開けた。

　彼女は身を乗り出して、庭に向かって叫んだ。

「ここにおります!」

　声が裏返っていた。

「お嬢様は、ここにおります! 二階の、この部屋におります! わたくしと、田中さんがついております!」

　庭が、静かになった。

　私は、田中に抱かれたまま、窓のほうを見た。

　窓の下の芝に、母が立っていた。母は、こちらを見上げていた。

　その少し離れたところに、一臣がいた。

　十歳の彼は、母の横に立っていた。彼は、たぶん、母に何か訊かれたのだ。

「僕――」

　彼の声がした。

「僕、桟橋かもって言ったけど」

　彼は、大人たちのほうを向いた。

「見てない」

　彼ははっきりそう言った。

「見てないです。おばさんが、桟橋のほうへ行かなかったかって訊いたから、行ったかもって言っただけです。僕、見てないです」

　誰かが「よし」と言った。

　母は、動かなかった。

　＊

　宗一郎と恭介は、前庭の、陸寄りの場所にいた。

　桟橋の付け根から十メートルほど手前。そこは芝で、平らで、湖から離れている。

　二人は、田中が降りていくのを待たずに、お絹の声を聞いていた。

「二階だそうだ」と宗一郎が言った。

「はい」

「では、探す必要はない」

　彼は、そこから動かなかった。

　私は、あとでこの場面のことを、恭介から何度も聞いた。

　宗一郎は、走らなかった。桟橋へ行かなかった。子どもがどこにいるかを聞いて、聞いた場所にいるなら、それでいいと判断した。

　小野は、岸寄りに出してあった舟の横にいた。彼はそこを離れなかった。灯りを一つ持って、桟橋のほうを照らしていた。

　その灯りの先で、人が動いた。

「旦那様!」

　小野が叫んだ。

「桟橋に人が入っております!」

　綱が、外されていた。

　腰の高さの綱が地面に落ちていて、その先に、人影が一つ。屈んで、板を持ち上げようとしている。

「貞光さん!」

　宗一郎が叫んだ。

　貞光だった。

　彼は板の一枚を外して、それを桟橋の上に置いていた。手には、鉄の棒のようなものがあった。板の下へ棒を差し込み、切られた杭に残る木片を剥がそうとしていた。

「貞光さん! 何をしている!」

　貞光は顔を上げた。

　灯りの中で、彼の顔がこちらを向いた。

「危ないから、片づけている」

　彼は言った。

「危ないだと」

「柱が切れているのだろう。子どもが入ったら落ちる。片づけておいたほうがいい」

「触るな!」

　宗一郎は、桟橋の付け根に立っていた。付け根から先へは、行かなかった。

「そのまま置け」

「置いてどうする」

「警察が来る」

　貞光の手が、止まった。

「警察」

「この家から電話した。もうすぐ着く」

「……宗一郎」

「貞光さん、こちらへ来い」

　宗一郎は、手を出した。

「切られた柱を、警察に見せる。電報もだ。本社は出していないと言った。発信局まで照会してもらう」

　貞光は、鉄の棒を持ったまま立っていた。

「電報まで、残してあるのか」

「原本がある」と恭介が答えた。宗一郎のすぐ後ろ、傷のない陸寄りの板まで来ていた。

　貞光は、切られた杭から家のほうへ目を動かした。どちらか一つを隠せば済む話ではなくなった。そのときの顔を、父は覚えていると言った。

「触らずに、置いて、こちらへ来い」

　しばらく、誰も動かなかった。

　湖の水が、杭に当たる音がしていた。

　貞光が、鉄の棒を板の上に置いた。

　置いて、両手を上げた。

「分かった」

　彼は言った。

「分かった。片づけん」

　彼は歩いてきた。

　板を踏んで、綱の落ちたところを跨いで、こちらへ歩いてきた。

「宗一郎。私は、この家のためを思って――」

「いいから来い」

　貞光は、桟橋の付け根まで来た。

　宗一郎の正面に立った。

　二人の距離は、一メートルもなかった。付け根の右手は芝で、左手は水だった。水面までは一メートル半ほど。下は杭と、石だ。

　貞光は、両手を下ろした。

　そして、宗一郎の胸を、押した。

　＊

　私は、その瞬間を見ていない。

　二階の窓から、庭側は見えた。灯りは前庭に二つ、小野の手に一つ、それだけだった。桟橋の付け根は、家から見ると横向きになる。人が二人立っているのは見えた。何をしているかまでは、四歳の目には分からなかった。

　見えたのは、片方の影が、急に消えたことだった。

　水の音がした。

　大きな音だった。石を投げ込んだのとは違う、重い音。

　それから、叫び声がいくつも重なった。

「旦那様!」

「宗一郎!」

　人が走る音がした。

　陸寄りにいた影が、数歩走った。走りながら、上着を脱いで捨てた。

　恭介だった。

　彼は付け根まで走って、そこから飛び込んだ。

　もう一度、水の音がした。

「とう!」

　私は叫んだ。

　窓枠に手をかけて、身を乗り出した。

「お嬢様!」

　お絹が、私の胴を掴んだ。

「出てはいけません!」

「とう!」

「見えます、ここから見えます。見ていてください。出てはいけません」

　彼女は私を抱いたまま、窓の内側に膝をついた。

　私は、彼女の腕の中から、湖を見ていた。

　小野の灯りが、桟橋のほうへ動いた。

「旦那様! 息はございますか!」

「ある! 顔は出とる!」

　恭介の声だった。

　水の中から聞こえてくる声は、変な響き方をした。

「小野さん、舟!」

「今、行きます!」

　灯りが岸寄りへ戻って、それから、水の上へ出た。舟が出た。櫂の音がした。

　私は、それを見ていた。

　息をするのを忘れていた。

　――生きている。

　顔が出ている、と父は言った。父の声が聞こえた。それは、父が水の上にいるということだ。

　二人とも、生きている。

　私は、それを確かめたくて、また身を乗り出した。お絹の腕が、私の腹に食い込んだ。

「お嬢様」

「はなして」

「離しません」

「みたい」

「見えます。ここから見えます」

　彼女は、私を離さなかった。

　＊

　小野が舟を寄せた。

　恭介が、下から宗一郎の身体を持ち上げた。小野が舟の上から引き上げた。二人がかりで、時間がかかった。

　宗一郎は、舟の底で咳をした。

　咳の音が、水の上を渡って、二階まで届いた。

　人々が岸へ走った。使用人が、女中が、書生が。舟が岸に着いて、宗一郎が担ぎ上げられた。誰かが「布を!」と叫んだ。

　貞光は、桟橋の付け根に立っていた。

　立ったまま、動かなかった。

　男が四人、家のほうから走ってきて、彼を囲んだ。囲んで、家のほうへ連れて行った。彼は抵抗しなかった。

　誰かが「医者を!」と叫んだ。書生が村のほうへ走った。

　母は、前庭の芝に立っていた。

　母は動かなかった。誰も母に触らなかった。誰も母に何も言わなかった。

　その中を、恭介が歩いてきた。

　全身から水を垂らして、髪が額に貼りついていた。彼は家の下まで来て、上を見た。

「お絹さん!」

「はい!」

「瑠璃花を、こっちへ連れてきてくれ」

　お絹は私を抱いて、階段を降りた。

　玄関を出て、芝の上に降りた。夜の空気が冷たかった。

　恭介が、私のところへ来た。

　濡れた手で、私の顔を挟んだ。

「怪我はないか」

「ない」

「そうか」

　彼はしゃがんだ。しゃがんだら、膝が震えていた。

「そうか」

　彼はもう一度言った。

　＊

　母が、そこへ来た。

　誰も止めなかった。恭介が立ち上がって、私の前に半分出た。

「藤乃さん」

「近くには行きません」

　母は言った。

「話をさせて」

　母は、二歩手前で膝をついた。

　私と母の顔の高さが、同じになった。

「瑠璃花」

「かあさま」

「あなたは、誰」

　三月の夜と、同じ問いだった。

　私は、母の顔を見た。

　母の顔は、汚れていなかった。着物も乱れていなかった。ただ、目のまわりが赤かった。

「ゆりかごから、きいてた」

　私は言った。

　小さな声だった。母にだけ届く声だった。恭介は少し離れたところにいたし、お絹は私の後ろにいた。二人には聞こえなかったと思う。

「きいてた」

「揺りかご」

「うん。かあさま、ほんけのはなし、してた」

　母は、動かなかった。

「それから、さだみつさまが、ろっかげつのとき、きた」

　母の目が、大きくなった。

「うしろみは、じぶんだって、いった。かあさま、はい、っていった」

「……」

「かあさまは、しってた」

　母は、しばらく黙っていた。

　それから、言った。

「知っていました」

　母の声は、低かった。

「知っていて、はいと言いました」

　母は自分の膝を見た。

「知らなかったつもりでいた時期もありました。あとから、そう思うようにしていました。でも、知っていました」

「かあさま」

「はい」

「なんで」

　母は、顔を上げた。

「あなたを、この家の子にしたかった」

　母は言った。

「宗一郎さまは、決めない人でした。私は、決めさせるために紙を書かせました。紙は書かれました。でも紙は、宗一郎さまが死ななければ効かない」

　母は、そこで一度、息をした。

「私が、この四年で作ったものは、それだけです」

「つくった」

「作りました」

　母は、その言葉を使った。

　私は、その言葉を聞いた。

　この人は、いま、自分で言った。誰かに強いられたとも、兄に引きずられたとも言わなかった。作った、と言った。

　私は、それを聞いて、何かが自分の中で片づくのを感じた。

　同時に、私は自分に言った。

　――これは、この人が自分について言ったことだ。

　私が母を四年間見ていて、私が母の言葉を四年間集めていて、私がそこから何を考えるかは、私の側のことでしかない。この人が本当のところ何を思って四年を過ごしたのか、私には最後まで分からない。

　母が、私の顔を見た。

「瑠璃花」

「うん」

「あなたに、名前をつけたのは」

　母は、そう言いかけて、止めた。

　私は待った。

「あの人です」

　母は、恭介のほうを見なかった。見ないまま言った。

「私は、瑠璃という名前がほしかった。船の名前です。この家で一番古い名前です。それを、あなたにつけたかった」

「うん」

「あの人が、花を足しました」

　母は、少し笑った。笑ったように見えた。

「私は、あの晩、腹が立ちました」

「うん」

「いまも、少し立っています」

　母は立ち上がった。

「それだけです」

　母は、そう言って、家のほうへ歩いていった。

　女が二人、母について行った。

　＊

　村の医師が来た。宗一郎は座敷に寝かされて、毛布をかけられていた。肋を打っていたが、骨は折れていなかった。水はあまり飲んでいなかった。

　彼は、半身を起こして、貞光に会うと言った。

　貞光は、別の部屋で、男四人に囲まれて座っていた。

「貞光さん」

　宗一郎は、そこまで運ばれた椅子に座って言った。

「あんたは、私を押した」

「足が滑った」

「滑ったのは私だ。あんたの手は、私の胸にあった」

「証拠がない」

「小野が見ていた。恭介君も見ていた。あの二人は、あんたが手を出したところを見ている」

　貞光は黙った。

「それから、一臣のことだ」

　宗一郎はそう言った。

「あの子は、桟橋かもしれないと言った。あれは、大人が訊いたからだ」

　彼は、部屋の隅を見た。母は、そこにはいなかった。

「十歳の子に、自分が見ていないことを言わせた。それをやったのは大人だ。あの子は、すぐに自分で訂正した。あの子は何もしていない」

　彼は座り直した。

「今夜、灯籠をやめた。宴もやめた。無駄だったとは思わん」

　彼は、恭介と小野のほうを見た。

「舟が出ていた。人が水際にいた。私は引き上げられた。あれがなければ、私はいま喋っていない」

　警察が着いたのは、七時を少し回ったころだった。電話から一時間ほどが経っていた。郡の警察から二人と、駐在が一人。

　彼らはまず、桟橋を見た。切られた杭、外された綱、板の上に置かれた鉄の棒、貞光が外して脇へ置いた板。何も動かされていなかった。

　次に、二階の部屋を見た。畳の上の匙。隅に寄せられた茶碗と器。どちらも洗われていなかった。

　小瓶は、母の袂にあった。

　警察の一人が、母に「持っておられるものを出してください」と言った。母は袂から小瓶を出して、卓の上に置いた。警察はそれを、母の袂から出たものとして書き留めた。

　恭介は、そのあいだ、何もしなかった。彼は母に近づかなかったし、袂に手を入れなかった。彼は、電報の原本を出しただけだった。

　＊

　その夜、警察が持って行ったものは、こうだった。

　未洗浄の匙と、茶碗と、湯冷ましの器。母の袂から出た小瓶。受信した電報の原本と、恭介が町の郵便局で受け取った受信記録の写し。切られた杭の位置を示した小野の書付。外された綱。板の上の鉄の棒。

　現場の経緯を証言したのは、主に三人だった。小野弥吉、天導恭介、お絹。

　小野は、十二日と十四日朝に柱を見たこと、十五日午後に痕を見つけたこと、夜に貞光が桟橋へ入ったこと、宗一郎の胸に貞光の手があったことを話した。

　恭介は、電報のこと、町での照会のこと、桟橋で見たことを話した。

　お絹は、匙のことを話した。話しながら、途中で泣いた。泣いてから、「わたくしは、四年前も、同じ薬らしいものを見ております」と言った。

　私は、何も訊かれなかった。

　警察は、四歳の子どもには話を聞かなかった。座敷の隅にいる私を一度見て、それだけだった。

　それで、よかった。

　私の言葉が要らなかったということが、私には嬉しかった。この四年、私が誰かに何かを伝えようとして、伝わらなかったことがたくさんあった。それでも、届いた言葉があった。父はそれを覚えて、自分で確かめに行った。

　大人たちは、自分で見て、自分で調べて、自分で証言した。

　私の出番は、なかった。

　＊

　廊下の隅に、一臣が座っていた。

　膝を抱えて、壁に背をつけていた。誰も彼のところへ行かなかった。大人は皆、警察と、宗一郎と、母のところにいた。

　私は、お絹の手を引いて、そこまで行った。

　彼は顔を上げなかった。

「僕、なんにもしてないよ」

　彼は言った。

「うん」

「桟橋かもって言っただけだよ。おばさんが訊いたから」

「うん」

「見てないって、ちゃんと言ったよ」

「いった」

　彼は、膝に顔を埋めた。

「父さん、どうなるの」

　私は、答えられなかった。

　この子の父は、たったいま、人を水に落とした。それを小野と恭介が見ていて、これから警察に渡される。この子は十歳で、明日から、その息子として生きる。

　前の人生の、十三年先の彼は、自分の父の机から紙を取って、それを自分の手で人に渡す。彼は、父を疑いたくないと言いながら、それでも紙を確かめようとした。

　この子が、そういう人になるかどうかは、私には分からない。

「わかんない」

　私は言った。

「わかんないけど」

　私は、彼の靴の先を見ていた。彼は靴のまま廊下に座っていた。誰も叱らなかった。

「かずおみは、みてないっていった」

「うん」

「それは、じぶんでいった」

　彼は顔を上げた。

　目が赤かった。

「そうだよ」

「うん」

　彼は、袖で顔を拭いた。

　お絹が、握り飯を一つ持ってきて、彼に渡した。彼は両手で受け取って、廊下でそれを食べた。

　＊

　夜が更けて、座敷に人が減った。

　宗一郎は毛布にくるまって、まだ座敷にいた。医師が、動かさないほうがいいと言った。

　恭介は、着替えて、宗一郎の横に座っていた。二人とも、何も喋らなかった。

　私は、その部屋の隅で、お絹の膝にいた。

　小野が入ってきた。彼は澪を抱いていた。澪は眠っていた。五歳の子は、騒ぎの途中で寝てしまったらしかった。

「起きませんでした」と小野が言った。

「そりゃいい」と宗一郎が言った。

　小野は座って、澪を膝の上で抱え直した。

　私は、その二人を見ていた。

　部屋には、二人の父がいた。

　湖に落ちて生きている人と、飛び込んで引き上げた人。片方は私の血の父で、片方は私を「瑠璃花」と呼ぶ父だ。

　二人とも、この部屋にいる。

　どちらも、死んでいない。

　私は、昨日の夕方の灯籠を思い出した。

　青みがかった白い光。水の上をゆっくり回りながら離れていった。あれはどこまでいくの、と澪が訊いた。向こう岸までは行かん、途中で沈む、と宗一郎が答えた。

　あの光を、この子は、ひと月のあいだ話し続ける。

　――話し続ける?

　私は、そこで少し混乱した。

　前の人生でフミが言った「お嬢様は帰ってからひと月、灯籠のお話ばかりなさいました」というのは、あの世界での話だ。この世界の八月十五日は、もう別のものになった。

　同じ夕方の、同じ灯籠ではなかった。それでも、私も光の行き先を目で追った。あの子が何度も話したくなった夜を、死のことだけで埋めずに思い浮かべられた。

　私は、それでいいと思った。

「瑠璃花」

　恭介が言った。

　私の身体が、跳ねた。

「眠いか」

「うん」

「寝ろ」

「ここで」

「ここでいい」

　彼は自分の膝を叩いた。

　私は、お絹の膝から降りて、彼のところへ這っていった。四歳にもなって這うのはおかしいが、その夜は足に力が入らなかった。

　彼は私を膝に乗せて、片手で背中を支えた。

　私は、その手の重さを感じながら、目を閉じた。

　この人の声で名前を呼ばれると、私は毎回跳ねる。四年経っても跳ねる。

　私は、ここで眠りたいと思った。

# 第十三章　つづきから

　九月の初めに、親族会が開かれた。

　本家の座敷に、親族会の三人と、宗一郎と、三村弁護士と、恭介が座った。私は隣の部屋にいた。襖は閉まっていたが、隙間があった。

　最初に読み上げられたのは、警察から回ってきた供述の写しだった。

　辰巳という男の供述だった。帝都の局から電報を打った男で、分家の商会に出入りしていた。八月十五日の朝、貞光から金を受け取り、文面を渡され、指定の時刻に打つよう言われたと、彼は話していた。

　三村がそれを読み終えると、しばらく誰も喋らなかった。

　それから、宗一郎が言った。

「三村さん。あれを」

　三村は、封筒を出した。

「天導宗一郎名義の遺言。認知の条項を含みます。日付は四年前の八月。原本は当職が保管しております」

「開けてくれ」

「よろしいので」

「私が生きているうちに開ける」

　紙を開く音がした。

　宗一郎は、読み上げさせなかった。自分で言った。

「瑠璃花は、私の子だ」

　座敷が、静かになった。

「藤乃との間の子だ。四年前、私はそれを紙にして、三村さんに預けた。私が死んだら効くようにした」

　彼は続けた。

「私は、死ぬまで言わないつもりだった。生きているうちに言えば、面倒が起こると思った。だから紙にした。決めなくても効く紙を作った」

　彼は、そこで一度、息を吸ったようだった。

「その紙が、私を殺す理由になった」

　誰も何も言わなかった。

「だから、いま言う。私は生きている。生きているあいだに、自分の口で言う」

　三村が言った。

「では、遺言による認知は」

「実行しない。あれは死んだときに効くものだ。私は死んでいない」

「死んだあとにも効かせない。認知の条項を撤回する書面を、いま作ってくれ」

「承知しました」

　三村が紙を広げ、しばらく筆を動かした。書き上げた文を読み、宗一郎に署名を求めた。隙間から、紙の上を動く宗一郎の手が見えた。

「ご署名、確かに。こちらも保管いたします」

「登録上の父は、いかがなさいますか」

　三村は、恭介のほうを見た。

　恭介は、座り直した。

「わたしは、否認しません」

　彼は言った。

「嫡出の否認は、しません。あの子は、わたしの子として届けてあります。そのままにします」

「よろしいので」

「はい」

「血のことは、いま旦那様がおっしゃったとおりです。それを承知のうえで、ということになりますが」

「承知しております」

　恭介は、はっきり言った。

「わたしは、名前をつけました」

　彼は、それだけ言った。

　三村が「承りました」と言った。

　その日の親族会で、決まったことは、いくつかあった。

　天導貞光は、本家の一切の役職を解かれた。後見人の指名も、まだ効いていないので取り消された。彼の刑事のことは警察と裁判所の仕事になる。

　蘆田医師との侍医の契約は、終えることになった。処方を続けた判断に、家としてもう信頼を置けない、という宗一郎の意向だった。母と示し合わせていたと決まったわけではない。処方の記録は、捜査のために残された。

　天導藤乃は、司法の手に渡った。親族会は、この件について何も決めなかった。決められないから決めない、と三村が言った。

　最後に、三村が言った。

「本件の資料は、すべて写しを当職が保管いたします。捜査に要る原本は提出し、残る保管物も所在を届け出ます。写しは、当家が仲直りをなさっても、破棄いたしません」

「なぜ」

　親族会の一人が訊いた。

「二十年後に、また同じことを考える者が出たときのためです」

　三村はそう答えた。

　＊

　その週に、いくつかのことが決まった。

　小野弥吉は、星見荘の管理人を続けることになった。宗一郎が自分でそう言った。「あの人がいなければ舟は出ていなかった」というのが理由だった。

　澪の学費についても、宗一郎が申し出た。小野は最初、断った。

「うちの娘に、そこまでしていただく義理はございません」

「義理ではない」

「では、何でございますか」

「私が、そうしたい」

　小野は、しばらく考えて、それから、「娘が大きくなったときに、娘に決めさせてやってください」と言った。宗一郎は「そうしよう」と言った。

　九月の半ばに、慎が挨拶に来た。

　九歳になっていた。父に連れられて、玄関で頭を下げた。

「父の診療所は、これからも町にございます。ただ、こちらのお屋敷には、伺わなくなります」

　彼は、そう言った。子どもが大人の言葉を暗記して言っているのが分かった。

　私は玄関に出て行った。

「しん」

「はい」

「またね」

　彼は、少し困った顔をした。

「……はい」

　彼は、それから、自分で考えて、こう言った。

「僕は、大きくなったら、お医者になるかもしれません」

「うん」

「なるかもしれないし、ならないかもしれません」

「うん」

「まだ、わかりません」

「うん」

　私は、それでいいと思った。

　この子が十一年先に詩集を貸してくれる人になるかどうかは、この子が決めることだ。私が決めることではない。

　同じ月に、宗一郎と静子の婚約について、話があった。

　延期になった。

　静子が自分でそう言ったのだという。

「あの家が落ち着くまで、私は入りません。入っても、私は片づけをしに来た人になってしまいます」

　彼女はそう言ったと、佐伯が話しているのを、私は聞いた。

「それで、宗一郎様は何と」

「分かった、と。それから、待つ、と」

「まあ」

「あの旦那様が、待つとおっしゃったのは、初めてでございましょう」

　＊

　九月十四日に、母に面会した。

　場所は、警察の建物の一室だった。恭介が連れて行った。お絹もついてきた。二人は部屋の外の廊下にいた。中には、私と、母と、立ち会いの人が一人いた。

　机があって、椅子が二つあった。私は椅子に座ると足が床に届かなかった。

　母が入ってきた。

　着物は自分のものだった。髪は結っていなかった。後ろで束ねているだけだった。

　母は座った。

　机の上に、茶が二つ出された。母のほうは湯呑で、私のほうは湯冷ましだった。

「熱いよ」

　私は言った。

　母の茶から湯気が立っていた。母は、湯呑に手を伸ばしかけていた。

「……そう」

　母は手を引いた。

「ありがとう」

　母は、そう言った。

　それから、しばらく黙っていた。

「瑠璃花」

「うん」

「娘だと思って抱いていたのは」

　母は、そこで一度、言葉を切った。

「誰ですか」

　私は、母を見た。

　この四年、母が私に訊いたのは「あなたは誰」だった。今日は、違う訊き方だった。

「わたし」

　私は言った。

「わたしだよ」

「あなた」

「うん」

　私は、自分の言葉を選んだ。四歳の口で言える言葉を、湖から帰ってからずっと考えていた。

「わたしは、べつのところに、いた」

「別のところ」

「べつの、せかい。おおきいひとだった。おとなだった」

　母の目が、動いた。

「はじめは、じゅっさいだった」

「十歳」

「ここのおうちで、じゅっさいから、じゅうはちまで、いた」

　母は、まばたきをした。

「じゅうはちで、いろいろあって、それで、じぶんで、もどってきた」

「戻って」

「あかちゃんのところに」

　母は、机の上で手を組んだ。

「あなたは、四年前に生まれた子ではないのですか」

「からだは、そう」

「中身が」

「うん」

　母は、長く黙っていた。

「では、私の娘は」

　私は、答えられなかった。

「わからない」

　私は言った。

「はなしたこと、ない」

「話したこと」

「うん。いちども、ない。へんじも、もらったことない」

　母は、私の顔を見ていた。

「わたしが、きたとき、あのこと、はなせなかった」

　私は言った。

「さんぷん、いきしなかったとき。あのこは、まだ、きてなかったのかもしれない。わたしは、あとから、はいった」

「……」

「でも、それは、わたしがそうおもってるだけ。だれにも、きいてない」

　母は、目を伏せた。

「戻ると思います?」

「もどるとおもう」

　私は言った。

「でも、みたことない。だから、わからない」

　私は、そこで自分の限界をはっきり言った。

　私は証明していない。誰も保証していない。あの三行は、この身体がここで生き続けるとしか言わない。あの子が戻るかどうかは、私の推測だ。

「かあさま」

「はい」

「わたしは、ここに、いたかった」

　母が、顔を上げた。

「じけんを、とめたかった。それは、ほんと。でも、それだけじゃない」

　私は、言葉を探した。

「ごはん、たべたかった。とうと、ふねを、うかべたかった。かあさまに、かみを、といてもらいたかった」

　母は、動かなかった。

「ぬのを、えらんだこと、おぼえてる」

「布」

「みどりの、あおいの。にあうって、いってくれた」

　母の顔が、少し崩れた。

　それは、七年先の記憶だ。母にとっては、まだ起きていないことだ。母には、何のことだか分からない。

　分からないまま、母は、それを聞いた。

「わたし、うれしかった」

　私は言った。

「あれ、うそじゃない」

　母は、湯呑を持った。

　もう、湯気は立っていなかった。母は一口飲んで、置いた。

「私は」

　母は言った。

「あなたが誰でも、乳をやって、着替えさせて、四年間、あなたを抱いていました」

「うん」

「それだけは、あなたが誰でも、変わりません」

「うん」

　母は、それ以上何も言わなかった。

　立ち会いの人が「時間です」と言った。

　私は椅子から降りた。降りるのに苦労した。母は手を出さなかった。出せなかったのかもしれない。

「かあさま」

「はい」

「いく」

「はい」

　私は、扉のところで振り返った。

　母は座ったままだった。私を見ていた。

　私は、この人に、これから自分が帰ることを言わなかった。許してくださいとも、許さないとも言わなかった。この人の許しや命令で、帰るかどうかを決めたくなかった。私はまだ、この家の朝がほしかった。

　だから、言わなかった。

　＊

　面会から、二週間、私は家で暮らした。

　帝都の家だ。母のいない家だった。母の居間の襖は閉まっていた。母の揺り椅子は、もう庭の物置にあった。

　お絹がいた。佐伯がいた。恭介が毎日帰ってきた。

　九月の終わりの日々は、驚くほど普通だった。

　朝、起きる。顔を洗う。飯を食う。庭で遊ぶ。昼寝をする。おやつを食べる。夕方、玄関で音がする。「今日は何だ」と言われる。「なんもない」と答える。

　私は、その二週間で、何も役に立たなかった。

　役に立たなくても、食卓に私の席があった。私の茶碗が出た。私の靴が玄関に並んでいた。

　その二週間のあいだに、宗一郎が一度、家へ来た。

　肋がまだ痛むらしく、歩き方がゆっくりだった。彼は座敷に座って、恭介と何か話した。話は短かった。

　それから、彼は私を呼んだ。

「瑠璃花」

「はい」

「私が、お前の血の父だという話は、聞いたか」

　私は頷いた。

「そうか」

　彼は、それだけ言って、しばらく庭を見ていた。

「私は、お前をこの家から連れて行かん」

「うん」

「私が引き取れ、と親族会で言う者もいる。だが、恭介君が届けを出した父だ。名前もあの人がつけた」

　彼は、湯呑を持った。

「私は、決めるのが下手だ。今度だけは、早く決めた」

「おじさま」

「なんだ」

「とけい、なおした?」

　彼は、私を見た。

　それから、笑った。笑って、肋が痛んだらしく、顔をしかめた。

「まだだ」

「なおして」

「……そうだな」

　彼は、帰るときに、玄関で恭介にこう言った。

「時計を直せる者を探す。見つかったら、この子を呼ぶ」

「はあ」

「あの部屋の音は、全部鳴っていたほうがいい」

　彼は帰った。

　その二週間、私は何度か学院の話を聞いた。来年の春から通うことになる。佐伯が制服の見本を持ってきて、お絹が「まだ大きゅうございます」と言った。

　夕方には、庭で遊んだ。木の船を盥に浮かべた。帆柱は、恭介が一臣の抜いたところへ楔を打って、直してあった。

　私は、盥の縁に顎を乗せて、船が回るのを見ていた。

　この生活が続くところを、私は想像できた。

　想像できてしまうことが、少し困った。

　＊

　九月二十七日の夕方、恭介が帰ってきて、こう言った。

「明日は休みだ」

「うん」

「明後日、造船所へ行くか」

　私は、立ち上がった。

「いく」

「よし。朝が早いぞ」

「いく」

「靴を出しとけ」

　私は棚から箱を下ろした。赤い靴だった。

　湖へ持って行って、湖では一度も履かなかった。荷ほどきのときに布に包んだまま、棚に戻してあった。

　私は靴を出して、玄関に並べた。彼が貼った革が、内側についていた。踵は滑らない。

「はいる」

「入るか」

「はいる」

　翌二十八日の夜、彼は私が寝るまで部屋にいた。

　いてくれと、私が言った。

「とう」

「ん」

「ここに、いて」

「おるよ」

「ずっと」

「ずっとは無理だ。父さんも寝る」

「ねるまで」

「寝るまでな」

　彼は、私の布団の横に座った。胡座をかいて、壁に寄りかかった。

　私は、天井を見ていた。

「とう」

「ん」

「もういっかい、よんで」

　彼は、笑った。

「また、それか」

「うん」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花」

「もういっかい」

「瑠璃花。瑠璃花」

　私は目を閉じた。

　彼の声は、四年前と同じだった。七夜の晩、私の顔を覗き込んで、慌てて「泣くな、泣くな、瑠璃花」と三回呼んだときと、同じ声だった。

「そんなに、呼ばれたいか」

「うん」

「変な子だ」

「うん」

　彼は、私が眠るまでそこにいた。

　＊

　九月二十八日の夜。

　彼は、私が寝入ったと思って、隣の部屋へ戻った。襖の向こうで布団を敷く音がして、それから、静かになった。

　私は目を開けた。

　天井が見えた。障子越しに、廊下の灯りが弱く入っていた。枕元の棚に、銀の星と、木の船があった。

　私は、目を閉じて、三行を思い浮かべた。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「はじめから」は、灰色だった。

　私は、「つづきから」を見た。

　長く見た。

　これを選べば、明日の朝が来る。造船所へ行く。船台を上から見る。赤い靴を履いて、うるさい場所を歩く。帰ってきて、飯を食う。

　来年、学院に上がる。宗一郎が父だと公表された家の子として。母のいない家で、父と、お絹と、佐伯と暮らす。

　十歳になる。十六歳になる。十八歳になる。

　その十六歳の春に、天導一臣は二十二歳だ。彼の父は服役しているか、その後どうなっているか分からない。彼は商会にいるかもしれないし、いないかもしれない。彼と私は、たぶん婚約しない。

　東屋で「もう少し、用事がなくてもいてくださいませんか」と言う日は、来ない。

　雨の日曜に本を逆さに持つ人は、来ない。

　あの人は、もう、いない。

　私は、そのことを、はっきり惜しんだ。

　あの人たちは、私が元の世界へ帰るための教材ではなかった。現実で人と関われるようになるための練習台でもなかった。

　天導一臣は、私が好きになった人だ。声を出さずに笑う人で、傘を人にやってしまう人で、四拍目に半歩遅れる人だった。

　蘆田慎は、行の終わりで一拍おく人だった。

　小野澪は、註を三つ指して、その一つは自分の間違いだと即座に認める人だった。

　あの三人に、私はもう会えない。

　この世界には、十歳の一臣と、九歳の慎と、五歳の澪がいる。会える。会えるけれど、それはあの三人ではない。

　私は、布団の中で、しばらく泣いた。

　声は出さなかった。

　＊

　泣きやんでから、私は考えた。

　七夜にもらった名前は、この子に残る。

　瑠璃花。父がつけた名前。命名紙に書かれて、八月の遺言認知の文書に書かれて、これから学院の名簿に書かれる名前。

　私が持って帰るのではない。私はこの名前を、四年間、横で聞いていただけだ。

　それでも、私が救われたことは、消えない。

　三分息をしなかった子のために父が足した一字が、たまたま私の名前と同じだった。それは偶然で、天命でも所有権でもなくて、この世界が私のために誂えられた証拠でもない。

　偶然だったのに、私は救われた。

　あの晩、生まれて七日の身体で、私は返事をしようとして泣いた。あの涙を、私は取り消さない。三歳の誕生日に「もういっかい」と言った。あれも取り消さない。

　私は、この家で、たくさん笑った。

　盥で沈んだ舟を笑った。大きすぎる靴を笑った。指で足を測った人を笑った。

　あれは、全部、私が笑ったのだ。

　私は左手を、枕元へ伸ばした。

　指が銀の星に触れた。星は冷たかった。

　左手が、星を握った。

　私は、その手を見ていた。

　これが返事なのかどうかは、分からない。この手は、四年間、私の意思と関係なく星へ伸びた。父の足音へ伸びた。それを、私は「あの子だ」と思ってきた。

　思ってきただけだ。

　証明は、していない。

　私は、右手で、左手をそっと外した。星を棚に戻した。

　＊

　元の部屋のことを、私は思い出した。

　六畳と台所。折りたたみの机。充電したままのゲーム機。

　仕事がある。月末だけ忙しい。北原さんがいる。麻辣の店の誘いを、私は断った。次はぜひ、と打った。

　あの「次」は、まだ来ていない。

　あちらの時間がどうなっているか、まだ知らない。それでも、あの返事を書いた私へ戻る。

　――一回だけ、誘えた。

　私は、そのことを思い出した。

　十六の春、四日かけて手紙を書いて、相談の形にしてしまって、失敗して、それでも「もう少し、用事がなくてもいてくださいませんか」と言った。

　言ったら、彼が椅子に戻った。

　あれは、私がやったことだ。

　私は、まだできるかもしれない。

　私は、目を閉じた。

　三行が浮かんだ。

　　つづきから
　　はじめから
　　やめる

　「やめる」に意識を向けた。

　　元の世界の、元の身体へ戻ります。
　　ここでの記憶は残ります。
　　この世界は続き、この身体はここで生き続けます。
　　この入口からは戻れません。

　この身体は、ここで生き続ける。

　十歳の布団の中で初めて読んだときと、同じ文だった。一度も変わっていない。

　私は、四つのことを並べた。

　この身体は生き続けると、画面が言っている。

　左手は、まだ星へ伸びる。

　あの子が生きるのを拒んだ理由だと、私が考えているもの。十歳の八月十五日に、父に捨てられたと母から聞かされる、あの筋道はもうない。母は逮捕された。宗一郎は生きている。父は追い出されない。

　そして、私は、この身体をもう返す。

　それで、戻ると信じる。

　信じる、というのは、証明ではない。母が保証したのでもない。「はじめから」が灰色になったから証明されたのでもない。私は見届けない。

　隣の部屋で、父が寝返りを打った。

　私は、目を閉じたまま、その音を聞いた。

　――ありがとう。

　言わなかった。言えば、この人は起きてしまう。

　私は、選んだ。

# 終章　二人の朝

　九月二十九日の朝、恭介は娘の泣き声で目を覚ました。

　まだ暗いうちだった。障子が青い。彼は布団から出て、隣の部屋の襖を開けた。

　娘は布団の上に座って、泣いていた。

「どうした」

　声をかけると、娘は彼のほうを見た。見て、両手を出した。

　左手のほうが先に出た。

　彼は座って、抱き上げた。娘は彼の首に腕を回して、耳のあたりに顔を押しつけた。

「パパ」

　娘はそう言った。

　恭介は、動きを止めた。

　しばらくそのままでいて、それから、背中を叩いた。

「うん」

「パパ」

「おるよ」

　彼は、そのまま部屋を三周ほど歩いた。歩いているうちに、娘は泣きやんだ。

　――そんな呼び方もするのか、と彼は思った。

　最初に喋ったのが「とう」で、それからずっと、彼はそう呼ばれていた。「パパ」は初めてだった。誰かの真似をしたのだろうか。

　娘は彼の首へ腕を回し直した。恭介は問いかけるのをやめて、その背中を支えた。

　台所へ行くと、お絹が竈の前にいた。

「おはようございます。お早いこと」

　娘は彼の腕の中から、お絹を見た。

「おきぬ」

「はい、おきぬでございますよ」

　お絹は笑った。

　娘は下ろされると、お絹の足元へ寄っていって、袂を掴んだ。お絹が「重うございますよ」と言いながら、片手で竈の火を見た。

　朝飯のとき、娘はよく食べた。

　飯を茶碗に半分と、卵と、味噌汁。汁の椀を両手で持って、傾けすぎて、膝にこぼした。お絹が拭いた。娘は「あー」と言って、笑った。

　庭に出ると、まだ空に星が一つ残っていた。

　娘はそれを指した。

　左手だった。

「ほし」

「ああ、残っとるな」

「ほし」

　娘は左手を伸ばした。届くはずのない高さへ、手を伸ばして、指を開いた。

　恭介は、その手をしばらく見ていた。

　この子は、赤ん坊のころから星に手を伸ばす。夜中に見に行くと、枕元の銀の星のほうへ手が出ていることがあった。誰に似たのか分からない。自分でも、藤乃でもない。

　彼は、それを不思議だと思ったことはあるが、意味があると思ったことはなかった。

「そら、朝飯も済んだ。顔を洗え」

　彼は言った。

「うん」

　湖のことを、娘は何も言わなかった。

　湖から帰ってきてからの、ひと月半ほど、この子は湖の話をしなかった。恭介はそのほうがいいと思っていた。四つの子が見た夜のことなど、忘れたほうがいい。

　昨日の晩、この子は「もういっかい呼んで」と言った。何度も言うので、彼は四回だか五回だか名前を呼んだ。あれも、覚えていないだろう。

　彼は縁側に座って、煙草に火をつけて、それから、消した。

　娘が横に来た。

　彼は、一昨日約束したことを言おうとして、口を開けて、閉じた。

　――言い方を、変えよう。

　なぜそう思ったのか、彼にも分からなかった。

「瑠璃花」

　娘が彼を見た。

「今日な、父さんの仕事場へ行こうと思うとる」

「しごとば」

「船を作るところだ。うるさいぞ。鉄を叩く音がする。埃も立つ」

「ふね」

「そうだ」

　彼は、娘の顔を見た。

「行きたいか」

　娘は、しばらく考えた。四つの子が考える顔をしていた。

　それから、頷いた。

「いく」

「よし」

　彼は立ち上がった。

　玄関に、赤い靴が並べてあった。一昨日の夕方、この子が自分で出して並べたものだ。

　彼は靴を持ってきて、縁側に置いた。

　娘の足を、片方ずつ持った。踵を合わせて、指の先を押した。指一本ぶんの余りがある。中に貼った革は、はがれていない。

「入るか」

「はいる」

「歩いてみろ」

　娘は立って、縁側から庭へ降りた。三歩歩いて、振り返った。

　脱げなかった。

「あるける」

「歩けるな」

　彼は、しゃがんだまま、その足元を見ていた。

　この靴を買ったときは、大きすぎて、三歩で脱げた。砂利の上に裸足で立った子を、慌てて抱き上げた。あれから一年五か月だ。

「よし、行くか」

「うん」

　彼は娘の手を取った。

　左手のほうが、先に出た。

　＊

　目が覚めたとき、私は自分の腕の長さに驚いた。

　布団から出した腕が、長い。手が大きい。指が動く。私が動かそうと思ったとおりに、全部動く。

　私は起き上がった。

　起き上がるのに、何の苦労もいらなかった。

　六畳の部屋だった。折りたたみの机。会社の鞄。壁際のカラーボックス。台所との境の引き戸。狭い。天井が低い。この天井の低さを、私は懐かしいと思うより先に、狭いと思った。

　枕元にゲーム機があった。伏せて置いてある。昨日の夜、エンディングを見終わって、そのまま伏せた。

　昨日の夜。

　枕元のスマホの日付は、あの日曜の次の月曜日だった。こちらでは一晩しか経っていなかった。

　私は、両手で顔を覆った。

　覚えていた。全部覚えていた。

　石盤の字。三度目に読み切った朗読。緑がかった青い布。行き止まりの生垣。逆さの本。四拍目の半歩。廊下の洋燈。

　三分の無呼吸。誰かの腕。「戻ってきた」。

　七夜の座敷。畳を擦る音。あの、下手な言葉の連なり。花の字を、いただけませんか。

　瑠璃花。

　私は、自分の名前を、声に出して言ってみた。

「るりか」

　自分の声だった。二十七歳の、低い声。

　あの人の声ではなかった。

　私は、しばらくそのまま座っていた。

　――今日は、船を見るはずだった。

　その一つのことが、頭に浮かんだ。

　造船所へ行く。船台を上から見る。赤い靴を履いて。朝が早いぞ、と言われた。靴を出しとけ、と言われた。私は出して、玄関に並べた。

　私は、その朝を知らない。

　あの子が起きたのかどうか、私は知らない。父が今日どうしたかも知らない。私は見届けなかった。見届けないと決めて、選んだ。

　あの身体は、あそこで生き続ける。画面はそう言っていた。

　私は、それを信じることにした。信じた、というだけで、確かめてはいない。それでも、あの左手のことを思うと、たぶん大丈夫だと思える。思えるというだけだ。

　私は床に座り込んで、しばらく泣いた。

　二十七歳の身体は、涙の出方も違った。四歳のときのように、身体全部が音になったりしない。静かに出て、静かに止まった。

　＊

　顔を洗って、時計を見たら、七時十分だった。

　いつも七時十五分に家を出る。間に合う。

　私は着替えて、鞄を持って、玄関で靴を履いた。革の、黒い、去年買ったやつだ。踵が少し減っている。

　電車の中で、スマホを見た。

　北原さんとのやりとりが、いちばん上にあった。

『そういえば瑠璃花さん、辛いの平気でしたっけ。駅前にできた麻辣の店、今度行きません? 来週の水曜とかどうですか』

『わあ、麻辣いいですね。ただ来週ちょっとバタバタしてしまいそうで……次はぜひ!』

　昨日の夜、二十三時四分。

　私は、その二つの吹き出しを、しばらく見ていた。

　その上をたどると、六月にも同じようなのがあった。四月にもあった。去年の十一月にもあった。全部、私が断っている。全部、私が「次はぜひ」と書いている。

　この人は、まだ誘ってくれている。

　私は、文字を打ち始めた。

『北原さん、おはようございます。昨日の麻辣の件なんですが』

　消した。

『昨日はすみません。麻辣、行きたいです』

　「行きたいです」の後に、何か足そうとした。

　――忙しかったら大丈夫です。

　打ちかけて、消した。

　これを足すと、この人は気を遣う。気を遣った断り方を、私はまた読むことになる。読んで、ああやっぱり、と思う。それを何回もやってきた。

　消した。

　――来週じゃなくてもいいので。

　これも消した。

　私は、こう打った。

『昨日はすみません。麻辣、行きたいです。水曜、空いてます』

　送った。

　電車が揺れた。手すりを持ち直した。

　心臓が鳴っていた。四歳の身体で桟橋を見ていたときと、同じくらい鳴っていた。

　断られるかもしれない。もう別の人と行くことになっているかもしれない。「あれ、来週バタバタするんじゃなかったでしたっけ」と返ってくるかもしれない。

　そうしたら、私はその返事を読む。

　読んで、次のことを考える。

　十六の春、私は四日かけて手紙を書いた。六月に誘ったら仕事だと言われた。第三日曜を提案されて、こちらの都合が合わなかった。誰も悪くなくて、待つ時間だけがあった。

　あれで、私は死ななかった。

　会社に着いて、席についた。北原さんはまだ来ていなかった。

　スマホを伏せて、鞄からファイルを出した。月末の伝票の整理が残っている。

　昼まで、返事は来なかった。

　夜、部屋に帰って、私はゲーム機を充電器に挿した。

　ケーブルを挿すと、小さな灯りがついた。

　電源を入れると、いつものタイトルが出た。保存した終幕も、澪の名前も残っていた。けれど、目を閉じて同じ題を思い浮かべても、あの三行は浮かばなかった。指で触れるゲームの画面だけが、膝の上にあった。

　このゲームを捨てるつもりはない。あれは、私が好きだった物語だ。あの人たちに私は会えないけれど、会えたことは、確かにあった。

　私は台所で味噌汁を作った。作りながら、明後日の水曜に何を着るかを考えた。会社の服でいいと思った。北原さんは着替えてくるかもしれないが、それはそれでいい。

　スマホを見た。

　返事は、まだ来ていない。


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## 日本国外からご覧のみなさまへ

【日本国外からご視聴のみなさまへ】

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