星猫くるる HOSHINEKO KURURU

S031 切れた電池のラジオ

風の強い観測室で、瀬尾と茅が電池のないラジオを見つめる。

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / 体裁が未整備 / キャラクターデザイン無し

4,162字・約9分

S031-1 S1 電池を抜く

梢岬観測室の最後の戸締まりに、瀬尾は新しい鉛筆を持ってきた。閉鎖票の枠が小さく、いつもの太い芯では日付がはみ出す。それだけの理由だったが、削りたての木の匂いは、この部屋には少し場違いだった。窓辺の観測机には何もなく、棚の端に灰色のラジオが一台あった。管理を引き受けて八年になる四十六歳の瀬尾と、三十五歳の修理人の茅で、きょうはこの部屋を保管室として閉じる。

二人が階下で照合した図面には、撤去済みの風向計の空気管が残されていた。岬の外気を取り込む古い方式で、室内側の吹出口は棚の裏にある。途中に二枚の薄い弁があり、風圧によって震えることがある、と保守欄に記されていた。ラジオとは接続されていない。茅の工具袋にある止栓は、その管を室内側で閉じるためのものだった。図面を読んだ瀬尾にも、弁がどんな音を出すかまでは分からなかった。

閉鎖の手順書を机に置いた。窓の留め金、残置品の電池、壁の指定箇所の処置、それから室内回路の遮断。工具を数え、二人とも廊下へ出て、鍵をかける。順番を飛ばしても速くはならない。瀬尾は留め金を一つずつ押し、机から入口までの通路に物がないことを確かめた。扉には茅が持参した楔が挟まっている。廊下の窓からも、まだ十分な明るさが入っていた。

手順書の下には、今後の保管品を記す空の用紙もあった。保管室になれば、瀬尾は月に一度、雨漏りと窓を見に来る。閉鎖といっても二度と入らない場所にはならない。そのことが、かえって今日を最後の日らしくしていた。観測のためにはもう入らず、使わない物を傷めないために入る。持ち帰るラジオも、捨てることまでは決まっていない。瀬尾は空の用紙を手順書の後ろへ戻した。まだ何も置かれていない将来の棚のことより、今ある一台を確かめるほうが先だった。

棚から入口までは数歩で、瀬尾はいつも掃除の道具を片手に往復していた。作業のために空けた今日は、その短さがよく分かった。茅の工具袋には小さな仕切りがいくつもあり、必要な物が一つずつ収まっている。瀬尾も鍵を上着の同じポケットへ戻した。目を離しても場所が変わらない物を、体の近くに置いておきたかった。これは特別な戸締まりではない。そう思うために、普段の動作を一つずつ使った。

一年使わなかった部屋なのに、ラジオには手を置く場所があるように思えた。天面の取っ手は低く、つまみは指の腹に合う窪みを残している。瀬尾はここで放送を聞いたことがない。退役した機材の一覧に載っているから、棚を拭くたび少し動かしていただけだ。スイッチの印は切を指していた。電源コードはなく、外部電源の差込口にも何も挿さっていない。

茅が小さな検査器で電池を一本ずつ調べた。負荷をかけると針が下がり、どちらも使用可能の範囲に届かなかった。液漏れはない。瀬尾は結果と本体の番号を閉鎖票へ写し、空にした電池室を茅にも向けた。さっきまで二本が並んでいた溝の、端と端がやけに遠く見えた。

「電池は切れていますね」

「抜いて、別に持ち帰りましょう」

瀬尾は二本の端子を絶縁し、小袋に入れた。交換する電池は持ってきていない。袋を上着のポケットに収め、裏蓋を戻す。乾いた留め具の感触が親指に残った。本体は冷たく、表示窓は暗い。机に戻した鉛筆だけが白い紙の上で妙にはっきりしていた。瀬尾は電池の欄に印をつけた。済んだことは、これで済んだはずだった。

S031-2 S2 二つの音

窓の下の草が、一斉に岬の内側へ伏せた。そのとき棚のあたりで、細い高音が生じ、低い音へ落ちた。長さは鉛筆を持ち直すほどもない。瀬尾は紙に触れる直前で芯を止めた。鳴った、と思ってからラジオを見たので、表示窓に何かが灯った瞬間を見逃したような気がした。実際に見ている窓は暗いままだった。

「いま、まだ、と聞こえました」

「聞こえた場所から確かめましょう」

茅はすぐ棚に顔を寄せなかった。工具袋を通路から外し、携帯灯を点けて入口の脇に置いた。瀬尾にもそこから棚を見る位置を示す。二人の間に、いつでも廊下へ出られる幅ができた。瀬尾はその幅を眺めてから、自分が息を止めていたことに気づいた。吸い直す音を茅に聞かれるのが、少し恥ずかしかった。

まだ、というのは瀬尾がつけた言葉だった。最初から子音まで聞こえたわけではない。高い音と低い音を頭の中でもう一度つなぐと、二度目にはひとの声に近づいた。言葉でなかったものを、口に出して言葉にしてしまったのかもしれない。けれど一度そう聞いた耳は、ただの二音へうまく戻れなかった。

電池を抜き忘れたのではない。ポケットを外から押すと、二本の硬い輪郭が指に返った。調べ終えた物をもう一度調べれば、さっきの確認まで頼りなくなる気がする。瀬尾は袋を取り出しかけてやめた。数は変わっていないし、交換もしていない。茅の前で済ませたことを、恐ろしいという理由だけで取り消す必要はなかった。

外の草が起き上がった。瀬尾は棚を見ていたが、茅は窓と棚を交互に見ている。次に草が伏せたときにも二音があった。聞く準備をしていたためか、今度のほうが小さく感じられた。茅は手帳に短い線を二本引いた。音の終わった後まで待つ鉛筆の先を、瀬尾は見つめた。自分の鉛筆は机に置いたままだった。

瀬尾は、自分の聞き違いだと言えば、作業が早く進むかと考えた。茅は怖がっている様子を見せないし、声のように聞こえたというのは瀬尾だけだ。そう言い直してしまえば、二人とも仕事の話だけができる。しかし茅の手帳には線が二本ある。音はあった。その聞こえ方を、なかったことにするのも違う。瀬尾は説明のつかない部分を抱えたまま、ラジオと棚の間の狭い隙間へ目を戻した。そちらを見ることはできた。手を伸ばすことまでは求められていない。

もし放送なら、次の言葉が来るはずだと思った。待っていれば聞き取れるかもしれない。その待ち方を自分が始めていることに気づき、瀬尾は閉鎖票を裏返した。続きを書き取るための紙ではない。ひとつの音に続きを用意してしまえば、その間の静けさまで話の一部になる。裏返した紙にも印刷の枠は透けていた。瀬尾は紙を元へ戻し、茅の立っている位置を見た。自分の耳だけで部屋をいっぱいにしないよう、同じ場所を調べているもう一人の足元に、しばらく目を置いた。

部屋が使われていた頃、ここで聞こえるものには用途があった。窓を開ける音なら換気、戸の音なら出入り。瀬尾の仕事はその用途を妨げないことだった。いまは全部を終わらせるために来ているのに、棚の音だけが用事を持たずに残っている。瀬尾は呼ばれたという考えを、閉鎖票のどの欄にも書かなかった。

S031-3 S3 棚の裏

茅は瀬尾の見えるところでラジオを持ち上げた。裏に線がついていないことを二人で確かめ、開いた扉を通して廊下へ運ぶ。入口から見える作業マットに置いた。瀬尾は室内の同じ位置に立っていた。棚板にはラジオの底の四角い輪郭が残り、その中央だけ、周りよりも木の色が明るかった。

草が伏せた。高い音から低い音へ、同じ短さで落ちた。廊下ではなく、いま空いた棚の背後からだった。瀬尾は目だけを入口へ向けた。マットの上のラジオは横向きで、二つのつまみが扉の縁から出ている。音の場所と物の場所が、ようやく別々になった。どちらを見ていればよいのか、かえって分からなくなった。

「ラジオは、もうそこにないのに」

茅は机に広げてあった図面の一点に指を置き、それから棚の裏を携帯灯で照らした。薄い蓋のついた吹出口が、図の高さにあった。取り外された計器の跡からそこまでの経路を指でたどると、紙の上では短い線にすぎない。瀬尾は棚を拭くとき、ずっとこの蓋の前にラジオを戻していたことになる。音を出す物の形を、音の前に自分で置いていた。

「ここを閉じます。出口は空けたままで」

指定箇所の処置は、茅のきょうの作業に初めから含まれていた。壁を壊す必要はない。茅は手順書の該当欄と止栓の寸法を照らし合わせてから、室内側の蓋を外した。瀬尾は灯りを持ち、扉と茅の間に立たないようにした。管の奥をのぞき込みたくなったが、作業をする手のための明るさを動かさずにおいた。

茅が止栓を締め、蓋を戻す。二人は窓の下を見た。草がもう一度伏せ、ゆっくり起き上がるまで、棚のあたりは静かだった。弁に風が通っていた、と考えれば説明はつく。止栓で音が止まったことも、それを支えていた。壁の中を全部取り出して確かめたわけではないが、ラジオを鳴らす電源を探し続ける理由はなくなった。

瀬尾は音の消えた棚を見ていた。怖さが消えるときにも、スイッチのような手応えがあればよかった。原因が分かったという考えは先に進んでいるのに、体のほうは二つ目の音の低さを、まだ待っている。

S031-4 S4 閉鎖票

瀬尾が灯りを保持し、茅が室内回路を遮断した。作業前に無電圧を確かめていた系統で、旧管とは別の処置だった。瀬尾は手順書に印をつけた。

茅が工具を数えた。瀬尾は図面と閉鎖票を揃え、鉛筆を紙の折り目に挟んだ。窓の留め金は入室時に確認したままで、机にも棚にも持ち帰る物は残っていない。瀬尾が廊下へ出てラジオを拾うと、茅は工具袋と携帯灯を持ち、最後に楔を外した。扉は茅の手の中でゆっくり動いた。二人とも外にいることを、瀬尾は数でなく顔を見て確かめた。

「これで、閉鎖の手順は終わりです」

「はい。鍵は私が」

鍵は途中で引っかからずに回った。瀬尾は一度だけ戸を引いて確かめた。

閉鎖票の音の欄に、風に伴う二音、旧管止栓後は聞こえず、と書いた。まだ、とは書かなかった。隠すためではない。その文字を使うと、誰かが何かを言ったという記録になる。瀬尾が見て聞いた範囲に、そこまでのことはなかった。茅は紙を受け取り、処置の欄に署名して返した。瀬尾も隣に署名した。新しい鉛筆の芯は、もう紙に引っかからなかった。

電池は分別回収へ、本体は廃止機材の保管棚へ運ぶ。行き先は来たときから決まっている。

階段へ向き直ると、閉じた扉は背中側になった。瀬尾は呼吸を浅くした。足音と自分の息が重なると、棚の音ほどの小さなものは聞き逃すと思ったからだった。聞こえるはずがない、と考えることもできた。その考えを確かめるために静かにしようとしている自分がいた。扉の向こうからは何も聞こえなかった。

瀬尾は鍵をしまい、聞き終わらないまま階段を下りた。

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