星猫くるる HOSHINEKO KURURU

S035 忘れ物の予行演習

駅の遺失物窓口で、遠野が濃紺の帽子を持って杉本に相談する。

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / 体裁が未整備 / キャラクターデザイン無し

3,097字・約7分

「まだ忘れていない物でも、相談できますか」

駅の遺失物窓口で、杉本は書きかけの伝票から顔を上げた。男は濃紺の帽子を両手で持ち、窓口の線を越えないよう気をつけていた。

「紛失の予防ということでしたら」

「受け取りです」

「何をなくされましたか」

「それを今日、決めたいんです」

杉本は椅子を少し引いた。窓の向こうの男は名刺を出しかけ、今は会社の名前を名乗る必要がなかった、とポケットへ戻した。遠野という。六十四歳。来週、初めて一人で温泉へ行く。

これまで出張には同僚がいて、旅行には家族がいた。一人で乗り換え、宿に泊まり、何かをなくしても自分で取り戻さなければならない。遠野はその最後の部分に不安があった。

「なくさなければ、大丈夫ですよ」

「泳がなければ溺れないと言われましても」

杉本は返事を探した。たとえ話の中へ入ると、駅に帰ってこられなくなる気がした。

平日の午後で、次の列車まで二十分あった。ほかに客はいない。杉本は、実際の届け出は受けられないが、確認する内容なら説明できると言った。

遠野は胸ポケットから小さな手帳を出した。表紙に「一人旅」と書き、下に二重線を引いてある。開いたページには、家の鍵、薬、充電器、宿の電話番号が並んでいた。

「では帽子をなくしたことにします」

「今お持ちの帽子ですね」

「そう言われると困るんです。持っていないことにしていただきたい」

「特徴を伺います」

「紺色で、丸くて」

「大きさや、ほかに目印は」

遠野は帽子を裏返し、洗濯表示を読もうとした。

杉本は止めた。

「なくしたあとは、そこを見られません」

遠野は帽子を元に戻した。手帳に何かを書いた。杉本の位置からは、「帽子の内側を暗記」と読めた。

「暗記までは必要ありません。旅の前に写真を撮っておく方法もあります」

「その電話をなくした場合は」

「別の場所にも記録を」

「記録を入れた鞄も」

「今日は帽子だけにしましょう」

遠野は素直に頷いた。帽子だけでも、思っていたより忙しいらしかった。

いつ、どの列車の、どこに置いたか。杉本が順に説明すると、遠野は手帳に質問を書き写した。最後に受け取りの際は本人確認をお願いすることがあると聞いて、満足そうに肩の力を抜いた。

「それならできます。私は私ですから」

「それを確認する書類が必要です」

遠野は財布を出しかけて、途中で手を止めた。

「財布もなくした設定にすると、長くなりますね」

「ええ」

「そこは次の課題にします」

次があるのか、と杉本は思った。

窓口の呼び鈴が鳴った。薄い上着を着た女性が、ホームで拾った折り畳み傘を持っていた。遠野はすぐに横へ避けた。杉本は礼を言い、拾った場所と時刻を聞き、傘を受け取った。

傘の持ち手には小さな魚のシールが貼ってあった。遠野が、なるほど、と呟いた。女性が去ったあと、彼は自分の帽子を眺めた。

「魚を貼ればよろしいんですね」

「ご自分で分かる目印であれば」

「魚だと、あの傘の方と同じ人だと思われませんか」

「持ち主は目印だけでは決めません」

遠野は「魚可」と書いた。書いてから、文字だけでは意味が分からなくなると思ったのか、横にかなり慎重な魚の絵を描き足した。

「昔、娘が手袋をなくしましてね」

遠野は絵の尾を太くしながら言った。

「私は名前を書いておけと言ったんです。そうしたら、書いてあるからなくしても平気だと思った、と」

「戻ってきましたか」

「ええ。片方ずつ別の日に。同じ公園で」

「よかったですね」

「私は一組いっぺんになくしたと思って叱ったんですが、本人は一日に片方までにしたと言うんです」

杉本は、遠野の手帳の細かい項目を見た。なくし方を分割して管理する娘には、確かにこの父がいるだろうと思った。

「今回も娘から、心配なら聞いてくればと言われまして」

「それでここへ」

「まず旅行をしてからだとは、言われなかったので」

遠野は帽子の縁を指でならした。縫い目の小さなほつれを見つけ、ここを特徴にできると嬉しそうにした。杉本が直せば目印ではなくなると言うと、彼は考え込んだ。

「安全と識別が両立しない」

「帽子のほつれですから、好きなようになさって大丈夫です」

遠野はその返事には何も書かなかった。代わりに、ほつれた糸を指で内側へ入れた。

杉本は傘に管理用の札を付けた。遠野はその手元を見ていたが、やがて帽子をカウンターに置いた。

「いったん、お預けしたらどうなりますか」

「お荷物のお預かりはロッカーでお願いします」

「では私がここを離れて、帽子を置いていけば」

「それは、今から置いていくと分かっていますから」

「忘れ物として弱い」

「強さの問題ではありません」

遠野は帽子を戻した。受け取る練習には、まず忘れる技術が必要なのだと考えている顔だった。

構内放送が次の列車を告げた。遠野は時計を見た。

「お時間を取りました。これで終わります」

杉本が会釈すると、遠野は少し恥ずかしそうに笑った。

「会社にいた頃は、何をするにも手順があったんです。自分の失敗にも手順があると思うと、少し安心で」

杉本は、帽子をなくした時刻は正確でなくてもよいこと、最後に見た場所だけでも役に立つことを付け加えた。遠野は、もう一度手帳を開いた。

「分からない、と言ってもいいんですね」

「分かる範囲で大丈夫です」

遠野はその一行だけ、二重線を引かなかった。

改札へ向かう背中を見送り、杉本は傘の伝票を仕上げた。拾得場所の欄にホーム番号を書き、引き出しから輪ゴムを一本取る。そのとき、カウンターの端に小さな手帳が残っているのに気づいた。

濃い緑の表紙だった。「一人旅」の二重線がこちらを向いている。

杉本は手帳を持って窓口を出た。遠野はまだ改札の手前にいた。ポケットを順番に叩き、帽子を確かめ、鞄の口を開けていた。杉本が声をかける前に、遠野が振り向いた。

二人の目が合った。

遠野はまず手帳を見た。それから杉本を見た。口が一度開き、閉じた。

「今のは」と彼は言った。

杉本は待った。

「予行演習ではありません」

「承知しました」

遠野は窓口へ戻ってきた。手帳を受け取ろうとして、また手を引っ込める。

「特徴からですか」

「置かれたところを私が見ていますし、今ご本人に声をかけたところですから」

「でも手順を」

杉本は手帳を胸の前へ下げた。

「では、お色は」

「緑です」

「表紙には」

「一人旅。二重線。角が少し潰れています」

そこまでは滑らかだった。遠野は胸を張りかけた。

「中に、何か特徴はありますか」

遠野は動かなくなった。

「確認事項を、そこへ全部書いてありまして」

杉本は笑いそうになったのを、咳で隠そうとして失敗した。遠野も笑った。さっきまでカウンターの線から出ないようにしていた手が、今は気楽に端へ載っていた。

「魚があります」と遠野が言った。

「魚」

「絵です。右を向いています。たぶん」

杉本は、許しを得て今日のページを開いた。魚は左を向いていた。尾と口の描き分けが曖昧なので、厳密には決めにくかった。

「確認できました」

手帳を渡すと、遠野はすぐ胸ポケットへしまわず、最後に一行を書き加えた。

杉本はもう覗き込まなかった。遠野は自分から表紙を閉じて見せた。

「帰る前に、座った所を見る。これを追加しました」

「今日は座ってはいませんでしたが」

「立った所も」

「それでいいと思います」

遠野は手帳をしまい、帽子をかぶった。二歩進んで、カウンターを振り返った。そこに何も残っていないと確かめ、今度こそ改札へ向かった。

夕方、傘の持ち主が来た。杉本が目印を聞くと、男性は自信たっぷりに答えた。

「持ち手に、鳥のシールが」

杉本は傘を見た。魚だと思ったものには、確かに羽のような線があった。

「ほかの特徴も、分かる範囲でお願いします」

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