S037 水曜日の余白

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / 体裁が未整備 / キャラクターデザイン無し
3,075字・約7分
父の予定表で、水曜日だけが毎週空いていた。
月曜は資源回収、火曜は通院か買い出し。木曜には町内会の仕事があり、金曜の小さな升目には「包丁」と書かれている。毎週研ぐのかと聞くと、研ぐほどでもない週は砥石を見て終わる、と父は答えた。
歩が実家へ戻ったのは、勤めていた印刷会社を辞めた四月だった。今は在宅で校正の仕事を受けている。原稿の赤字を戻す時間は決まっていても、その前後には、誰も予定を入れてくれない。父の卓上カレンダーを見るのが癖になったのは、そのせいかもしれない。
父は三十七年、市内の路線バスを運転した。退職したのは一年前。仕事中の話は滅多にしないが、朝食を終えて皿を流しへ運ぶ時刻は、今も六時四十分だった。
母は隣町の姉の家へ週に二度、庭仕事を手伝いに行く。水曜もその日だった。父は一人で昼を過ごす。歩は二階にいて、昼になれば降りてくる。それでも父が何をしているか、あまり知らなかった。
「水曜、図書館の講座があるよ」
夕食のあと、歩は広報紙を差し出した。スマートフォンで写真を撮る講座だった。父は眼鏡をかけ、時間と場所を読んだ。
「カメラの機能なら、電話屋で聞いた」
「もっと上手に撮るやつ」
「上手でなくても、撮った物は分かる」
歩は、そういう話ではないと言いかけてやめた。父が最後に撮った写真は、冷蔵庫の品番だった。確かによく読めた。
次の週には公民館の体操を勧めた。父は膝を曲げ伸ばしして見せ、これは家でできると言った。歩は笑ってしまい、それ以上言えなくなった。
「何かしたいこと、ないの」
「水曜日に?」
「曜日はいいけど」
父は卓上カレンダーを見た。歩が見つけた空欄を、初めて見たような顔だった。
「何も書かなくていい日が、あってもいいだろう」
歩には、少し意地を張っているように聞こえた。退職後は人に会ったほうがいい。外へ出る用事があったほうがいい。どこかで読んだ文章が、頭の中で整った順番に並んだ。自分も三日続けて家から出ていないことは、その列に入れなかった。
水曜の朝、歩の仕事の予定が一つ消えた。入稿が遅れ、原稿が届くのは夕方になるという。返事を送り、椅子を回すと、窓の下で父が靴紐を結んでいた。
「出かけるの」
窓から声をかけると、父は眩しそうに見上げた。
「ちょっとそこまで」
「私も行っていい?」
「行先、決めてないぞ」
歩は携帯電話を持ち、帽子を探した。見つからないので母の古い帽子を借りた。玄関に出た時には、父は門の外で待っていた。時計を見ていなかった。
父は大通りへ向かわず、川沿いの細い道へ入った。歩が子供の頃には柵のなかった所に、低い金網ができている。新しい家と古い物置が交互に並び、細い植木鉢が歩道へ少しずつ張り出していた。
「こっち、久しぶり」と歩が言うと、父は「そうか」と答えた。説明はしなかった。
橋の手前で、父が足を止めた。水の中に、白い腹を見せた自転車が沈んでいた。いや、自転車ではなく、曲がった買い物籠だった。歩が見間違いを言うと、父は自分も最初はそう見えたと言った。
「前にも来たんだ」
「先週、あれを引き上げてる人がいた。今日はその続きが気になった」
籠は岸へ寄せられていた。回収を頼んだのか、持ち主を探しているのか、二人には分からなかった。父はしばらく見てから歩き出した。歩は、分からないままでいいのかと思い、それを口にはしなかった。
次の角に小さなパン屋があった。父が立ち止まったのは店先の黒板を見るためだった。新しいパンの絵と、今日の焼き上がり時刻が書いてある。
「ここ、知ってる?」
「前は電器屋だった」
「パンは買ったことないの」
「いつも通る時、まだ開いてなかった」
今日は開いていた。二人で中へ入り、父は丸いチーズパンを選んだ。歩は紙袋を一つでいいと言いかけ、父が自分の分をもう受け取っているのを見て、別々に買った。
店を出たところで、父はパンの底を触った。
「温かい」
それだけの声が、思ったより嬉しそうだった。
歩は川へ戻ると思ったが、父は先の坂へ向かった。坂の上には昔の終点があった。今は路線が駅の反対側まで延び、ここは途中の停留所になっている。バスの転回場だった空き地には、低い集合住宅が建っていた。
父は停留所のベンチに座った。歩は隣に座り、時刻表を見た。次のバスまで十七分。父は見なかった。
「乗る?」
「疲れたらな」
父は紙袋を開けた。歩も開けた。チーズの匂いが二人の間に広がった。歩のパンには干し葡萄が入っていたが、父に一口どうかとは言わなかった。父も聞かなかった。それぞれ食べたい物を選んだのだ。
しばらくすると、制服姿の運転手が反対側の歩道を通った。父は小さく手を上げた。相手は会釈をして、急ぎ足で角を曲がった。
「知り合い?」
「後輩。これから出庫だろう」
「話さなくていいの」
「あっちは時間がある」
歩は一瞬、その言い方を逆だと思った。だが父は、何時までに何をしなければならないという時間のことを言っていた。
父は紙袋の端を畳んだ。きっちり二度折り、膝の上に置いた。
「ここ、昔は七分休めた」
「短いね」
「前が遅れると三分になる。遅れなくても、七分で出る。あの角の桜が咲いても、見に行くと帰る時間が心配でな」
歩は角の先を見た。桜の季節は終わっていて、葉が大きくなっていた。父は立たなかった。今日も見に行かないのか、と聞きそうになって、自分が何かを完了させたがっていることに気づいた。
歩の携帯電話が振動した。原稿の送付予定を知らせるだけのメールだった。父が「仕事か」と聞いたので、夕方まで何もないと答えた。
「じゃあ、よかった」
「何が?」
「パン、冷める前に食べられる」
歩は残りを口へ運んだ。底の熱はもう弱くなっていたが、真ん中はまだ柔らかかった。赤字を返したあとの数十分を、次の仕事のために空けておく癖がついていた。空いているのに、自由に使うと誰かに見つかりそうだった。
バスが来た。歩は腰を浮かせかけた。父は動かず、乗客が降りるのを見ていた。二人が乗らないと分かると扉が閉まり、大きな車体が坂を下っていった。
「逃しちゃった」と歩は言った。
父は空になった紙袋を畳み直した。
「乗りたかったのか」
「別に」
「じゃあ、逃してない」
歩は笑った。父は何がおかしいのか分からない顔をしていた。
停留所の向かいで、配達員が地図を確かめていた。父は立ち上がりかけたが、相手が自分で番地を見つけたので座り直した。仕事を辞めても、道に迷った人を見つける目は残るらしい。歩がそう言うと、父は「家の中で鍵を探すのは下手なんだけどな」と答えた。
先月、父の鍵が見つからなかった時、歩は忘れっぽくなったのではと心配した。結局は自分が郵便を取りに借り、そのまま鞄へ入れていた。歩がその話をすると、父は覚えていたが、蒸し返さなかった。ベンチの下へ転がった紙袋の切れ端を拾い、自分の袋に入れただけだった。
帰りは桜のある角を曲がった。木の下には、花ではなく細い種の柄が落ちていた。歩は靴底に挟まった一つを外し、父が待つほうへ歩いた。昼食の時間は少し過ぎたが、家には朝の味噌汁が残っていた。
夕方、届いた原稿を開く前に、歩は父のカレンダーを見た。水曜日の升目はまだ白い。パン屋の名前を書けば、今日したことは残せる。散歩と書いてもよい。そう考えながら、歩は隣にあった鉛筆を取らなかった。
次の火曜日、父は金曜の「包丁」に小さな丸を付けた。木曜に予定が入ったので、先に研いだらしい。歩は明日も歩くのかと聞こうとして、冷蔵庫から麦茶を出した。
「明日、晴れるって」
「そうか」
父はカレンダーを閉じず、台所の窓を開けた。
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