S040 返さない栞

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / 体裁が未整備 / キャラクターデザイン無し
3,089字・約7分
返す本から栞を抜いて、紗季はまた同じページへ戻した。
薄い革の栞だった。遼が仕事の余りで作ったもので、端に一つだけ、小さな穴がある。紐は付いていない。紗季は以前、その穴を何に使うのか尋ねた。遼は、切り落とすには革が惜しかった、と答えた。
本は明日までに返さなければならない。遼の工房へ見学に来る人に、昔の装丁の例として見せるらしかった。旅行記で、土地の名前は今と違い、巻末の地図は海岸線の辺りが折れている。紗季が働く古書店には、同じ版はなかった。
遼が初めて店へ来たのは去年の秋だった。月に一度ほど古い地図を買いに来て、橋の名前や紙の厚さを確かめた。何に使うのか聞くと、地図を切るのではなく、新しい本の見返しを作る時に色を参考にするという。
紗季は仕事柄、客の探している物を覚える。遼のために地図を取り分けるのも、その範囲に入っていた。入っている、と自分に言っていた。
本を借りたのは春だった。遼が買った地図と同じ港を描いた旅行記があると聞き、見たいと言った。返す時に、紗季の紙の栞を挟んだままにした。翌月、遼が持ってきた。次は遼の革の栞が本の中に残り、紗季が工房へ届けた。
そのあとも一度ずつ、栞は人より長く相手の手元にいた。
どこまでが偶然だったか、紗季にはもう正しく説明できない。最後の一度は、抜くのを忘れたのではなかった。
閉店後、紗季は本を紙で包んだ。贈り物ではないので、紐は掛けない。栞をどうするか迷い、結局、本とは別の小さな封筒へ入れた。これで返し忘れる物はない。
工房は駅の北側にあった。道路に面した窓には、背の外れた本と、何も書かれていない布張りの帳面が並んでいる。入口に立つと、遼が大きな刷毛を洗っているのが見えた。
窓を叩く前に彼が顔を上げた。その時の笑顔だけで、紗季は封筒を持ってきたことを少し後悔した。
「明日でよかったのに」
「明日、店の棚替えなんです。遅くなるから」
遼は手を拭き、奥の椅子から布の見本をどけた。紗季が座ると、自分は作業台の端へ寄りかかった。いつもそこに立つので、床のその場所だけ少し光っている。
「読み終わりました?」
「最後の章だけ、二回読みました」
「船に乗り遅れるところ」
「はい。あんなに準備して、最後に靴を探すのが」
遼は笑った。自分も出かける前に道具を片づけ始めて、列車を逃すことがあると言った。紗季は、今日も自分が来なければこの人はいつまでも刷毛を洗っていたのだろうかと思った。
包みを渡すと、遼は紙を破らずに開いた。紗季はその手つきをよく知っている。店で買った本の帯が緩んでいると、指の腹で押さえてから持ち上げる。革の小さな傷にも、すぐ目が行く。
「栞も、別にしました」
封筒を載せた時、遼の指が止まった。
「ああ。ありがとうございます」
それだけだった。紗季が期待していたのが、気づかないふりなのか、何かに気づくことなのか、自分でも分からなかった。
遼は本を作業台へ置いた。封筒はその上に重ねず、少し離して置いた。
壁の時計が六時半を打った。文字盤は古いが、中の機械を交換したので正確だと以前聞いた。その話をもう一度してしまいそうになり、紗季は窓の外を見た。向かいの惣菜屋が揚げ物の札を裏返している。
「何か、次に読みたい本は」と遼が言った。
紗季は首を横に振った。
「今は、ないです」
本が嫌になったわけではない。けれど、また本を借りれば、次の約束をしなくても次ができる。その仕組みを使い続けることが、今日は急に苦しくなった。
遼は一度頷き、洗った刷毛を吊るした。水滴が受け皿へ落ちた。
「お茶、飲みますか」
「片づけの途中じゃないですか」
「途中ですけど、区切りは付けられます」
紗季は「じゃあ」と答えた。遼が奥へ行くと、工房にいる自分の靴の音だけが残った。床に紙片が落ちていたので拾おうとして、仕事の途中の大事な物かもしれないと思い、手を止めた。
遼は二つの湯呑みを持って戻ってきた。形も大きさも違う。紗季に白いほうを渡し、自分は持ち手のある厚い器を取った。
「こっちは熱くても持てるので」
「私のは」
「少し待ってください」
二人で白い湯呑みが冷めるのを待った。親切が途中で足りなくなるところまで含めて、紗季はこの人といるのが好きだった。
店では、遼が来ると他の客へ声をかける順番まで意識してしまう。特別に見えないように待たせて、あとで冷たかったかと考える。遼が買わずに帰る日には、探す物がなかったのか、それとも用事を作れなかったのか、閉店まで考えていた。
今は店員でも客でもない。そのことが楽なはずなのに、値段を告げたり袋の要不要を聞いたりする台詞が一つも使えず、紗季は湯呑みの底を見ていた。
遼も話を探しているようだった。窓際の帳面へ手を伸ばしかけてやめ、器を両手で包み直す。その迷う時間を、自分だけのものではないと分かった時、紗季は少し顔を上げられた。
「栞」と遼が言った。
紗季は顔を上げた。
「返してもらうつもりでは、なかったんです」
「でも、お借りした本に」
「最初のは、そうでした。その次からは、持っていてもいいかなと思って」
遼は封筒を開けず、角を指で押した。
「言えばよかったんですけど」
紗季は、手元に置いていいと言われたら嬉しかっただろうと思った。それと同時に、返す理由が一つ減って困っただろうとも思った。両方を話すには、今の沈黙が短すぎる気がした。
「私の紙の栞は、捨てました?」
「いえ」
遼は作業台の引き出しから、一枚の細い紙を出した。古書店の栞で、裏に紗季が在庫の番号を鉛筆で書いていた。誰にでも配る栞だった。遼は、帳面に挟んでいたらしい。
「返しそびれて」
「三か月ありますよ」
「ありましたね」
遼は笑わなかった。紗季も笑えなかった。三か月を、二人とも数えていた。
工房の外を自転車が通った。ベルの音が窓の端から端へ移り、遠ざかった。紗季は湯呑みへ手を伸ばした。もう持てる温度だった。
「日曜日、お店は休みです」
言ってから、それがただの営業案内に聞こえないか心配になった。遼は時計ではなく紗季の顔を見た。
「僕も、午後は空いています」
「川の向こうに、新しい喫茶店ができたでしょう」
遼は知らなかった。紗季は場所を説明した。橋を渡って左、花屋の隣。説明が細かくなるほど、用事があるように聞こえる気がして、途中でやめた。
「そこへ、一緒に行きませんか。本は持ってこないで」
遼は少しだけ目を伏せた。断られるのだと思い、紗季は湯呑みを置いた。音が大きくなった。
「地図も?」
顔を上げた遼は、真面目な顔を保とうとしていた。
紗季はようやく笑った。
「道が分からなければ、電話で見ましょう」
「じゃあ、そうします」
二時に橋の手前で待ち合わせた。遼は手帳に書こうとして、紗季が見ていることに気づくと、「これは忘れないため」と言った。紗季も携帯電話へ入れた。予定の名前をどうするか迷い、店の名前だけを書いた。中身まで画面に説明する必要はなかった。
帰る時、遼が革の栞を封筒から出した。
「持っていてもらえますか」
紗季は受け取った。穴の開いた端をつまむと、革が指の熱ですぐに柔らかくなる。何度も見た栞なのに、初めて渡された物のようだった。
「返しませんよ」
「はい」
入口で振り返ると、遼が紙の栞を帳面へ戻していた。返して、と紗季は言わなかった。
駅へ向かう途中、携帯電話が鳴った。遼から、喫茶店は日曜も開いているかという短い確認だった。紗季は調べていなかった。二人で同時に検索し、日曜定休だと分かった。
少し前なら、会う理由がなくなったと思ったかもしれない。
紗季は立ち止まって返事を打った。
『二時のままで。歩きながら探しましょう。』
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