S041 片道ずつの坂

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / 体裁が未整備 / キャラクターデザイン無し
3,085字・約7分
坂の半分で、奏は三度目の「大丈夫」を言った。
実花は足を止めた。駅から徒歩十二分という物件の案内を、携帯電話でもう一度見る。徒歩の中に坂道が含まれていることを、画面は特に強調していなかった。
「疲れた?」
「平気。あと少しだろ」
奏は肩の鞄を掛け直した。実花は、疲れたかどうかを聞いたのに、平気かどうかで返されることに、前から少し引っかかっていた。だが今日は内見の日で、二人とも遅れたくなかった。
付き合って二年、別々の町に暮らしていた。実花は朝早く製パン所へ通い、奏は夜まで専門学校の事務室で働く。週末に会うと、どちらかが終電の時刻を確かめる。もう帰らなくていい場所を一つ作ろうと言ったのは奏で、物件を探し始めたのは実花だった。
選んだ町は、二人の職場のちょうど中間にあった。家賃を半分ずつにしても無理はなく、二口のコンロと広い流しがある。実花は台所の写真を何度も見た。奏は収納が多いのがいいと言った。
建物の前で、不動産会社の人が待っていた。二階の角部屋。南向きの窓から、今上ってきた坂が見えた。実花は最初に水道の蛇口をひねり、奏は窓の鍵を確かめた。二人が別の所を見ることが、少し嬉しかった。
「家具を置くと、こんな感じですね」
担当者が間取りへ四角を書き込んだ。実花は冷蔵庫の幅を測った。奏は扉を開けたまま、廊下から台所がどのくらい見えるか確かめていた。
「ここに二人用の机を」と実花が言うと、奏は頷いた。
「いいね」
「窓際でいい?」
「いいと思う」
返事が早すぎた。実花はメジャーを巻き戻した。
「本当に、どこでもいいの?」
奏は担当者のほうを見た。担当者はベランダの説明を始めかけて、少し待った。実花は自分の声が部屋に響いたことを後悔した。
結論は持ち帰ることにした。階段を下りる時、奏は先に行かず、実花の一段下にいた。そういうところは、いつも変わらなかった。
外へ出ると、昼前の光が坂の途中の鏡に当たっていた。実花は駅の方向へ向かい、奏は反対側にある小さな公園を指した。
「少し座らない?」
今度は疲れたのだと、ちゃんと言ったように聞こえた。
ベンチに座って、奏は靴紐を緩めた。新しい靴だった。実花は朝、気づかなかったことを小さく恥じた。初めて一緒に住む部屋を見に行くから、と選んだのかもしれない。
「坂、きつかったね」と実花は言った。
「うん。帰りが毎日これなのは、ちょっと」
「言えばよかったのに」
「台所、気に入ってたから」
実花は携帯電話を膝に伏せた。
「気に入ったけど、それで決めたわけじゃないよ」
「うん」
奏の返事に、まだ受け入れる準備だけがあるように聞こえて、実花は次の言葉を探した。
「私、奏が何を嫌なのか知りたい。全部いいって言われると、私が一人でここを選んだことになる」
奏はほどいた靴紐を結び直した。きつく締めず、足首の前に指一本ぶんの隙間を作った。
「実花の職場に寄せたほうがいいとは、思ってた」
「ここは真ん中でしょう」
「地図だとね」
奏が路線検索の画面を見せた。実花が始業に間に合う列車は、乗り換え先で十四分待つ。始発の関係だった。奏が帰る時間帯は、同じ乗り換えが三分で済む。距離を半分にしても、時間は半分にならなかった。
実花も調べていた。ただ、朝が早いのは自分の仕事の事情だから、仕方ないと思っていた。奏の通勤を長くしないことが、自分の負担する分だと思っていた。
「でも、そっちばかり遠くしたくなかった」
「俺も、朝の十四分を実花だけに持ってほしくなかった」
二人は画面を見た。青い線が、親切なくらい単純に駅を結んでいる。その線のどこにも、眠い朝や帰りの坂は描かれていなかった。
実花は鞄から小さなパンを二つ出した。職場の余りではなく、昨日自分で買ったものだった。奏に甘くないほうを渡そうとして、手を止めた。
「どっちがいい?」
奏は少し考え、ジャムの入ったほうを指した。
「今日はこっち」
実花は渡した。いつもと違う選択に、意味を探しすぎないことにした。
パンを食べ終えるまで、部屋の話をしなかった。公園の水飲み場で、犬を連れた人が携帯用の器へ水を入れている。奏は器を畳むところまで見ていた。実花は、自分なら途中で別の物を見るだろうと思った。そういう違いは、以前から好きだった。
「台所は」と奏が言った。「広いほうがいい。俺も料理したい」
「片づけをするって言ってたじゃない」
「それは、実花が作るのが好きだから。分担の案で言っただけで、作らないって意味じゃない」
実花は内見した流しを思い出した。自分が立ち、奏が後ろで皿を受け取る場面ばかり浮かべていた。職場でも家でも、自分は作る側にいる。それを望んでいると思っていた。
「朝、食べるものができてたら、嬉しいかも」
「毎朝は約束できない。夜、遅い日もあるし」
「うん」
「前の晩に何か作っておくなら、できる日がある」
実花は頷いた。全部できるという言葉より、できる日のあることのほうが、初めて住む部屋に置けそうだった。
家賃の話もした。今見た部屋より少し高くても、駅に近ければ二人の帰る時間が減る。半分ずつにすることだけを公平と思っていたが、手取りも帰宅時刻も違う。奏は収入に合わせて割合を変える案を出した。実花は、その代わり家事を多くすることになるのかと尋ねた。
奏はすぐ答えず、食べ終えた袋を小さく折った。
「そこを一緒に数えると、俺、払った分だけ何もしなくていいことにならない?」
実花は顔を上げた。
「それは嫌」
「俺も嫌だな」
二人は、家賃と家事を別に話すことだけ決めた。細かい割合は、給与と生活費を一度並べてから考える。今日のベンチで全部を決める必要はなかった。
奏は膝の上で、物件の案内を広げ直した。実花が冷蔵庫の幅を書いた数字の隣へ、「机は別々にも置けること」と書く。実花は理由を聞いた。夜に書類を読む時、実花が眠っていても灯りを使える場所が欲しいという。
二人用の机を窓辺に置く想像は、気に入っていた。それでも実花は、その一行を消してほしいとは思わなかった。一緒に暮らす部屋には、一緒にいない時間も入る。自分にも早朝に静かに着替えられる場所が欲しいと、初めて言葉にした。
実花は担当者へ、今日の物件は見送ると連絡した。次を急いで紹介してもらうことはせず、条件を整理してもう一度送ると伝えた。奏は電話のあいだ、黙って坂の先を見ていた。
電話を切ると、実花は少し寂しくなった。あの窓から見える朝を、一度は自分のものとして想像してしまったからだ。
「残念?」と奏が聞いた。
「少し。台所、よかったから」
「俺も、収納は惜しい」
今度は、その言い方が同じ部屋を一緒に見た人の言葉に聞こえた。
駅へ戻る坂で、奏は歩幅を狭めていた。実花は自分も合わせたが、すぐに思い直して聞いた。
「靴、痛い?」
「右が少し擦れる」
実花は鞄の絆創膏を出した。奏はガードレールに手を置き、踵へ貼った。新しい靴を履いてきた理由は、聞かなくてもよかった。今痛いのだと教えてもらえた。
駅では、二人は違うホームへ上がる。いつもなら改札の手前で次に会う日を決め、時間の少ないほうが先に行く。
今日は奏が路線図の前で足を止めた。
「次、実花の職場の一つ手前の駅を歩いてみよう。坂があるか、夜に店が開いてるか」
「その次は、そっちの帰り道も」
住む町はまだ決まらなかった。二人はそれぞれのホームへ向かう前に、来週の時間を決めた。見学ではなく、ただ歩くために会う約束だった。
階段を上る途中、実花は振り返った。奏も同じところで振り返り、鞄を持っていないほうの手を上げた。距離はさっきより開いていたが、今日はその間に何があるか、少し分かった気がした。
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