S044 隣の返事

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / 体裁が未整備 / キャラクターデザイン無し
3,014字・約7分
「はい」と隣が言ったので、私は読むのをやめた。
まだ、質問の文を読んでいなかった。
借りた録音室は、古い雑居ビルの三階にあった。部屋はAとBの二つ。私が使っているのは廊下の奥のAで、隣のBとの間には厚い吸音材が入っている。管理人から、壁を叩かないこと、夜十時までに退室することを聞いていた。
時計は九時七分だった。
私は語学教材の編集をしている。今夜は自分の声で、会話の間を確かめるための仮録音をするだけだった。正式な読み手は来週来る。「道を尋ねる」「予定を確かめる」「店で注文する」。短い文章を順に読んで、相手が返すまでの空白を測る。
次に読むのは、「この席は空いていますか」だった。
隣の返事は、それに合っていた。だが「はい」なら、何にでも合う。私はヘッドホンを外し、壁を見た。灰色の布が、蛍光灯の光を均等に吸っていた。人の声を通すような壁には見えなかった。
廊下へ出ると、Bの扉の小窓は暗かった。使用中の札も裏返っている。取っ手には触れず、自分の部屋へ戻った。
録音を再生した。私が喉を整える音、椅子の軋み、それから短い無音。隣の声は入っていなかった。ヘッドホンの外から聞こえた声なら、マイクにも入るはずだと思ったが、私は音響の専門家ではない。壁の低い振動だけ、椅子を通って聞こえたのかもしれない。
管理人へ連絡を送った。隣室を使っている人はいるか。返事はすぐには来なかった。
私は録音位置を戻した。画面の波形が左から右へ流れる。「この席は空いていますか」と読み、三秒空ける。二人目の声色を作るのはやめて、平らな声で「はい」と読んだ。
その「はい」に、違和感があった。
私が出したつもりの高さより、少し低かった。さっき隣から聞いた声に似ていた。真似をしてしまったのだと思い、水を飲んだ。
次は予定を尋ねる場面だった。「明日は、何時にお会いしましょう」。私は台本を指で追い、読み始めようとした。
壁の向こうから、「九時で」と声がした。
台本の返事は「十時で」だった。
間違っていることに、私はかえってほっとした。誰かが同じ教材を読んでいるわけではない。隣室で、電話でもしているのだろう。声が聞こえることと、こちらの台本に答えていることは、別の話だった。
その時、携帯電話が震えた。管理人からだった。
『Bは今月、貸していません。機材を外したので。外の階段の声かもしれません。』
私は窓を見た。録音室の窓は二重で、閉じた内窓の向こうに外窓がある。外階段はそのさらに先、壁を挟んだ反対側だ。それでも、古い建物には分からない音の通り道がある。
管理人は続けて、困るようなら今日はそこまででよいと送ってきた。利用料の話はあとで、とあった。私は「もう少しで終わります」と返信した。実際には台本が半分残っていた。
次のページをめくった。店で注文する場面は、どれも返事が予想できる。「こちらで召し上がりますか」「持ち帰りで」。隣から何か聞こえる前に、私は二人ぶんを続けて読んだ。
何も聞こえなかった。
台本をめくる紙の音が大きかった。私は一つ飛ばしで項目を読み、わざと間を空けなかった。それでは今日の仕事にならないと分かっていたが、録音が進むことで落ち着いた。
九時二十四分、机の脚に靴が当たった。
「大丈夫です」
隣が言った。
謝るより先だった。
私は口を閉じた。自分が「すみません」と言いかけていたことを、舌の位置で分かった。壁を叩かないようにと言われていたから、音を立てたことを隣へ謝ろうとしたのだ。隣に人がいないと聞いたのに。
足元を見ると、机の脚に古い擦り傷があった。私の靴で付いたものではない。同じ場所へ足を伸ばした人が、前にも何人もいたのだろう。その人たちも、ここで謝ったのだろうか。私は椅子を後ろへ引こうとして、止めた。別の音を一つ増やすのが嫌だった。
そのまま、しばらく動かなかった。返事は続かなかった。換気の低い音があり、廊下の照明が点滅するかすかな音がした。普段なら聞き分けない音を、一つずつ名前の付くものに分けていた。
私はマイクの録音を止めた。ケーブルを抜き、ヘッドホンも外した。機械を通る音でないことを確かめるつもりだった。
だが確かめたら、次は何をすればいいのか、分からなかった。
台本にない質問をすればいい。そう思って、「今日は何曜日」と頭の中で作った。口へ出す前に、次の返事を待っている自分に気づいた。
待っているあいだ、壁は静かだった。
声はいつも、一つ先に来たわけではない。ただ偶然重なった三つの言葉かもしれない。私は台本の余白に時刻を記そうとした。九時七分、九時何分だったか、その次は二十四分。二つ目を覚えていなかった。記録できない空白が一つできるだけで、今まで確かだった順番まで曖昧になった。
管理人から電話が来た。着信音に肩が上がり、携帯電話を取り落としそうになった。
「藤代さん、まだいらっしゃいます?」
私は「はい」と答えた。自分の声は、自分の口から出た。
「いったん出ても大丈夫ですよ。音の確認は明るい時にします。鍵は一階の返却口へ」
話しているあいだ、隣は静かだった。私は帰ることにした。管理人は、また日程を相談しましょうと言った。電話が切れると、急に室内が狭く感じた。
鞄へ台本を入れた。ケーブルをまとめ、持ってきた録音機をケースへ収める。椅子を元の位置へ戻そうとして、また脚を鳴らすのが嫌で、持ち上げた。
扉を開ける前に、部屋を振り返った。机の上には何もない。マイクは設備なので、そのまま残す。窓は閉めた。空調のスイッチを切ると、換気の音が止まった。
今まで静かだと思っていた部屋より、さらに静かな部屋が現れた。
「お先に」と言いそうになった。
私は唇を押さえた。隣の返事を聞くために、言葉を渡してはいけない気がした。返事が来るかどうか確かめることが、隣にいるものを人として扱う手順なのだと、なぜか思った。
何も言わず、扉を閉めた。
廊下でBの前を通った。小窓は暗いままだった。私は足を止めず、階段を下りた。一階の返却口へ鍵を入れると、金属が底に当たる音がした。返事のように聞こえない、短い音だった。
外へ出ると、車が通った。タイヤが路面の継ぎ目を踏み、人が自転車の鍵を外し、遠くで店のシャッターが下りていた。音は全部、何かが動いたあとに来た。私はそれを見ながら駅まで歩いた。
家へ帰り、録音機を机へ置いた。再生はしなかった。今夜の仮録音は使わず、明日、昼の部屋を借りればよかった。
夕食の残りを温めた。電子レンジが止まる前に、終了音の節を頭の中で思い浮かべた。実際の音は少し遅れて鳴った。よく知っている音なら、先に聞こえたような気になる。それで説明できることが、まだあった。
食べ終えて、食器を流しへ置いた。隣の部屋からテレビの音がした。ここでは普通のことだった。私は時計を見た。十一時二分。
寝る前、明日の管理人への返事を打った。昼の時間で取り直したい。Bの部屋に人がいなかったか、念のため確認してほしい。送信する前に、二つ目の文を消した。
布団へ入り、灯りを消した。隣のテレビも、しばらくして止まった。
私は何も尋ねなかった。
何かが聞こえたわけでもない。ただ、暗い部屋で息を吸うたび、その先に置く言葉を待たれている気がした。こちらが言うことを決めれば、それより先に返事が来る。
だから、何も決めないようにした。
それが、誰かを待たせている時の沈黙に似ていることには、気づかないようにした。
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