星猫くるる HOSHINEKO KURURU

S048 箱を閉じたあと

仕事を終えた製本室で、千尋と槙が空いた作業台を挟んで話す。

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / キャラクターデザイン無し / 体裁が未整備

6,576字・約14分

S048-1 S1 最後の紙

台の上に残った白い紙は四枚だった。千尋は自分の指の影が落ちている一枚を、まだ持ち上げずに見ていた。見本帳は完成し、精算も済んでいる。紙を揃えて箱にしまえば、今日しなければならないことは、ほとんどなくなる。
六週間という期間には、初めから終わりがあった。製本をする千尋と、装丁をする槙がこの部屋で会う理由も、その期間の中にあった。次の共同仕事は決まっていない。三十四歳の千尋にはそれが珍しいことではなく、三十六歳の槙にとっても、仕事を終えるたびに交わす挨拶の一つになるはずだった。
そう考えれば楽なのに、紙の縁に指を置いたまま、次の動作に移れなかった。自分の仕事に不足があるわけではない。帰るのが惜しいと認めるだけのことが、ずいぶん大きな訂正に思えた。
「これで、今日の分は全部ですね。」
千尋が言うと、槙は見本帳の置かれた台を見た。
「今日の分というか、この仕事は全部。」
「そうでした。」
今日の分なら、明日の分が残る。千尋は自分が選んだ言い方を、紙から離せない指と一緒に意識した。槙の返事は冷たいのではなく正確だった。終わった仕事を、終わったと扱うための言葉だった。
部屋を借りていられるのは今日までだった。退室の期限にはまだ余裕がある。誰かが入ってきて帰るよう促すことも、慌てて荷物をまとめる必要もない。言わずに帰るとすれば、それは時間のせいにはできなかった。
「片づけが済んだら、少し相談してもいい。」
八秒間、二人は何も言わずに作業を続けた。
四枚の紙の端が揃い、槙に押さえられた箱は台の同じ位置にあった。千尋は紙から指を離した。いつものように端を揃え、いつものように箱を支えてもらった。その結果だけでは、さっきの問いに答えをもらったことにはならない。
「いいよ。聞く。」
槙の声を聞いて初めて、千尋は息を吐いた。
「長くはならないと思う。」
「長さは、話してからでいいんじゃない。」
打合せなら所要時間を先に伝えられる。相談したい内容も、順番をつけて並べられる。けれど、これから言うことについては、相手がどこで言葉を返すかによって、短くも長くもなる。自分一人では終わりまで決められない話を、千尋はようやく始めようとしていた。
台の奥には飲み終えたカップが二つあった。作業のあとに飲む薄いお茶も、今日はもう残っていない。もう一杯を口実にするより、空になったままのカップがあるほうがいいと思った。ここにいる理由を増やさなくても、槙は聞くと言ってくれたのだから。
「片づけながらでも、いいかな。」
「うん。」
千尋は布を手に取った。片づけが済んだらと言ったばかりなのに、それまで待つ必要は、もうなかった。

S048-2 S2 依頼ではなく

布を台の手前に置くと、見本帳との間に広い木目が出た。材料で埋まっていた場所が、ただの台へ戻っていく。自分たちが使うための場所でなくなることは寂しかったが、そこを空けずに帰るわけにはいかない。千尋は布の角を指の腹で押さえた。
「来週、会えますか。」
槙はすぐに返事を決めなかった。
「次の仕事の相談?」
それはもっともな聞き返しだった。相談という言葉で始めたのは千尋だ。二人が六週間で作ったものは、互いに仕事を渡せる関係でもある。そこから外へ出ようとしていることは、箱や紙を見ているだけでは伝わらない。
「次の仕事の相談じゃなくて、あなたに会いたい。」
十二秒間、二人は何も言わずに作業を続けた。
台の手前側を一往復拭いた跡が残り、カップ二つは槙によって奥に寄せられていた。木目はさっきよりもはっきり見えた。千尋は布を置いたまま、続きの言葉を探した。すぐに、嫌ならいい、と付け足したくなった。それでは、嫌かどうかを聞く前に自分が話を引き取ってしまう。
「仕事じゃない誘いとして、聞いていいんだね。」
「そう。そういうつもりで言った。」
槙は聞く意味を確かめたのであって、まだ会うと約束したのではない。千尋にはその区別がありがたかった。頷き一つを大きく受け取り、あとで自分だけが気まずくなることを、ここではしなくてよかった。
「何か手伝ってほしいことがあるわけでもなくて。」
「うん。」
「何も頼まないで会いたい。そう言うと、することがないみたいだけど。」
「することは、話して決められるよ。」
その返事の中に、千尋はまだ日付を入れなかった。会いたいという自分の希望に、相手の予定を勝手に継ぎ足さないようにした。いったん仕事という言葉を外してみると、今まで簡単だったことまで、一つずつ確かめなければならない。
仕事なら、作るものを間に置ける。気に入った装丁のことを話し、紙の厚さについて意見を求めることもできる。相手を見るために相手以外のものを見ていられる。今、完成した見本帳を二人の間へ戻したら、きっと話はしやすくなる。けれど千尋は、それを手に取らなかった。
「この仕事が終わるから、次の理由を作らなきゃと思ったんだけど。」
そこで言葉を区切ると、槙は先を促さずに聞いていた。
「理由を仕事にすると、また同じことになるね。」
「会いたいという理由は、もう聞いたよ。」
千尋は、言ったことを取り消さずにいられた。相手に聞かれた言葉は、もう頭の中だけの案ではない。うまく言えたかをいつまでも直し続ける代わりに、その言葉の先へ進める。
薄いお茶の残っていないカップを、槙が奥へ寄せてくれた。それは台を拭くためであり、それ以上の意味をつけなくていい。その一方で、会いたいという理由を聞いた、と槙は言った。千尋は手の動きではなく、今聞いた声のほうを頼りにした。

S048-3 S3 土曜の余白

二本の鉛筆は、台の端で並んでいた。千尋の道具袋と槙の道具袋は、口を開けたままそのそばにある。使い終えたものを戻す場所は決まっている。千尋はその小さな確かさを見ながら、自分の予定を口にした。
「来週の土曜なら、午後が空いてる。」
「僕も、その日の午後は空いてる。」
「よかった。」
言ってから、その言葉だけでは先に進めないことに気づいた。空いているというのは、一緒に過ごすということではない。それでも、都合が合わないという説明に隠れる場所が一つなくなったのは、悪いことではなかった。
千尋は、槙に会いたい理由を、自分だけが知っているままにしたくなかった。一緒に仕事をしやすいから、話していて楽だから。そのどちらも嘘ではないが、それだけを渡すと、一番伝えたい部分が自分の中に残る。残したまま相手から答えをもらおうとするのは、少しずるい気がした。
「私は、槙さんが好きです。」
十秒間、二人は何も言わずに作業を続けた。
鉛筆はそれぞれの袋に一本ずつ入り、槙が閉じた二つの口は、どちらもきちんと閉まっていた。いつもなら、その状態を見れば片づけの次へ進める。けれど千尋は、袋が閉まったことと、言ったことが届いたかどうかを、一つにはできなかった。
「僕も、千尋さんが好きです。」
槙は千尋の言い方と同じように、名前を入れて答えた。
聞き慣れた自分の名前だった。仕事の途中で呼ばれるときには、返事のあとに手を貸したり、何かを確かめたりする。その名前が今は、何も作らないところで、ただ自分を指していた。千尋は次の指示を待たなくていいのだと気づいた。
「仕事がしやすい、というだけじゃなくて。」
槙が続けたので、千尋は小さく笑った。
「私も、そこを言い残しそうになった。」
「一緒に仕事をしたことまで、なくす必要はないけどね。」
「うん。なくしたくない。」
六週間が口実だったわけではない。二人で見本帳を作った時間を、別の目的のために使っていたことにもしたくない。仕事の中で知った人に、仕事の外でも会いたくなった。その順番なら、千尋は自分のしてきたことを、そのまま受け取れた。
二つの袋は別々のままだった。これからも道具は各自で持ち帰る。好きだと言われたからといって、相手の荷物まで自分のもののように扱えるわけではない。それが今はよそよそしく感じられなかった。どちらも自分の足でここを出て、また会うことを選べる。
「じゃあ、土曜のことをちゃんと決めようか。」
槙の言葉に、千尋は頷いた。
好きだという返事は、待ち合わせの時刻の代わりにはならない。時刻を決める話が、せっかく言ったことを薄めるとも思わなかった。会うことを具体的にするための相談なら、千尋には続けたい言葉があった。さっきまで片づけの終わりが怖かったのに、今はそのあとにも、まだ話すことが残っていた。

S048-4 S4 待ち合わせ

「二時に、駅の東口はどう。」
千尋が言うと、槙は繰り返した。
「土曜の二時、東口。」
「そこから、川沿いを歩きたい。」
二人とも知っている道だった。新しい場所を教えるためではなく、一緒にそこにいたかった。何か特別な行先を思いつかないことを、千尋は一瞬物足りなく思ったが、知らない場所を急いで加える必要はない。歩くという案に、自分の希望はちゃんと含まれていた。
「歩くの、いいね。」
槙は答えてから、台の上に残った見本帳を見た。揃えた四枚の保護紙と箱の蓋が、そのそばにある。
「仕事の道具は、持っていかなくていいんだね。」
八秒間、二人は何も言わずに作業を続けた。
見本帳は四枚の保護紙に包まれて箱に収まり、槙の合わせた蓋が上に載っていた。千尋は箱の外へ手を戻した。持っていく物を聞かれているのだと分かっているのに、何も持っていかなくても会っていいのかと、自分まで確かめたくなった。
「うん。道具は置いてきて。私も置いてくる。」
「仕事の話を、一言もしないようにする必要はない?」
「それは、しなくていいと思う。話したくなったら話していい。ただ、何かを完成させるために会うんじゃない。」
「それなら、手ぶらで考えられるね。」
槙の言う手ぶらは、手に何も持てないという意味ではなかった。鞄を持っていても、二人の間に渡す仕事がなくていい。千尋は空けた台の面積を見た。物がなくなることと、関係がなくなることを、さっきまでは同じように恐れていた。
「雨だったら、どうしよう。」
千尋は天気のことをまだ知らなかった。今分かることに合わせて約束を決め、分からないことは分からないまま相談すればいい。
「同じ時刻に、同じ東口で会うのはどう。どこへ行くかは、そのとき二人で決める。」
「うん。雨だから約束そのものがなくなる、ということにはしない。」
「そうしよう。」
川を歩く予定と、会う約束が分かれた。歩けないときには会わない、という結び方にせずに済んだことが嬉しかった。千尋は、雨の場面を先回りして作り込むのをやめた。当日の自分たちに残していい相談もある。
蓋の上には、まだ何も載っていなかった。箱の中身はもう見えない。けれど何を入れたかは知っている。見えなくなった途端に、その仕事の確かさまで消えるわけではない。千尋は今日をきちんと閉じたうえで、来週に会えるのだと思った。
「二時なら、慌てずに行ける。」
「僕も。」
日付と場所を言葉にすると、好きだと言った直後とは違う落ち着きがあった。相手の声の調子から未来を読み取ろうとしなくても、同じ時刻のことを話している。その明瞭さを、千尋は今夜の気持ちの一部として受け取った。

S048-5 S5 書き込む

千尋と槙はそれぞれの手帳を出した。台が空いているので、二冊を離して置けた。袋から各自の鉛筆を取り出し、翌週の土曜の欄に予定を書いた。千尋は十四時、東口、と記し、その先に槙の名前を書いた。
仕事の予定と同じ字で書いているのに、最後の名前だけが少し違って見えた。誰かに見せるための文字ではない。自分が来週、その欄を開くための文字だった。嬉しいと思うだけで、その日の午後がいつまでも広がっていくようだったが、千尋は次の週の欄には書かなかった。
「まず、その土曜日だけを約束したい。」
十二秒間、二人は何も言わずに作業を続けた。
二枚の布は一枚ずつ畳まれ、槙が重ねて箱の蓋に置いていた。台の端にあった柔らかいものが、小さな厚みになって収まっている。千尋は言い方が限定に聞こえたかもしれないと思った。会いたい気持ちを小さく見せたいのではなかった。
「その次を、今は嫌だと言ってるんじゃなくて。」
「うん。毎週の予定に、自動でしてしまわないということ?」
「そう。今日、言えたことが嬉しいから、まだ言ってない分まで決まったみたいにしたくなくて。」
槙は開かれた自分の手帳を見てから、千尋へ答えた。
「僕も、それでいい。その先は、また相談しよう。」
先の約束をしないと言われたのではない。今決める範囲を二人で同じにしたのだと、千尋は受け止めた。一度の誘いに答えてもらったばかりで、その返事を将来全部の返事に広げてしまわずに済む。それは自分にも相手にも、必要な余白だった。
「もし予定が変わったら、連絡しよう。」
槙が言った。連絡先は互いに知っていた。新しく何かを交換しなくても、仕事以外の用で送ることはできる。
「うん。行けなくなったときは、そのままにしない。」
「分からないことが出たときも。」
「それも、連絡する。」
連絡できることと、連絡するつもりでいることは違う。千尋は何度か使ってきた宛先を、初めて知ったようには思わなかった。ただ、そこへ送ってよい言葉が増えた。見本帳の進み具合を知らせるためだけに、相手の名前を探さなくてよくなった。
二人は鉛筆をそれぞれの袋へ戻した。千尋は自分の手帳を閉じ、自分の鞄にしまった。槙も自分の手帳をしまう。約束は同じでも、それぞれが持ち帰るのだ。そのことが、片方だけに覚えておいてもらうよりも嬉しかった。
「これで、書き忘れはないね。」
「今決めた分は。」
千尋が答えると、槙は頷いた。まだ決めていない分を空けたままにすることは、書き忘れではなかった。千尋はその違いを、自分の手帳をもう一度開かなくても分かっていた。
箱と布、二つのカップが残っていた。片づけは終わりに近づいている。今は台の上の物を減らしても、自分の中の約束まで減っていく感じはしなかった。

S048-6 S6 箱の外

カップを片づけ、箱と畳んだ布を所定の場所へ収めると、台には何もなくなった。千尋と槙は各自の道具袋を鞄に入れた。六週間使った部屋を空にするために必要なことは、椅子を戻して鍵を返すだけだった。
千尋は台の縁に自分の椅子の背を寄せた。相手に相談することはもう済んだ、と言って帰ってもよかった。土曜の予定は書いたし、会う意味も確かめた。それでも、口にしたい呼び方が一つ残っていた。
「今の約束を、デートと呼んでもいい。」
十秒間、二人は何も言わずに作業を続けた。
千尋の椅子は台の下に押し込まれ、槙の椅子も隣に収まっていた。二つの背は同じ側を向いている。座る場所は片づいたが、千尋は立ったまま返事を待っていた。ここまでの相談を、椅子の並びに答えてもらうつもりはなかった。
「うん。僕も、デートの約束をしたつもりでいる。」
槙が言った。
「来週の土曜、二時に東口で。」
「道具は持たずに。」
「雨でも、まずそこに。」
二人の言葉が同じ予定の別々の部分を埋めた。千尋は嬉しかった。嬉しいということを、うまい言い方に替える必要もなかった。
「楽しみにしてる。」
「僕も。」
それだけ言えば、今夜は足りた。好きだと言った返事が、これからも変わらない保証を求めることはできない。千尋はそれを不安のための考えにせず、来週の自分に残す時間として受け取った。今夜の槙が、今夜の言葉で会いたいと答えたことは、ちゃんとここにある。
部屋の鍵は一つだった。千尋はそれを室内の返却箱へ入れた。扉を閉めれば、ここにはもう入れない。だからといって、退出を遅らせる用事を考えなくてよくなっていた。今日の仕事を持ち越さずに済むことも、約束を持ち帰れることも、両方嬉しかった。
槙は自分の鞄を持ち、千尋も自分の鞄を持った。相手の荷物を引き受けることで、今の気持ちをもう一度証明する必要はなかった。袋の中には各自の道具があり、手帳には各自の字で同じ時刻がある。
「帰ろうか。」
「うん。」
台の上を最後に見た。白い紙はもう残っていなかった。千尋は揃え終えた端を直すために戻らなかった。箱を支える人も、ここに留まらなくていい。
二人で戸口を越えたとき、千尋は土曜の午後をまだ知らなかった。道の明るさも、最初に何を話すのかも知らない。それを今決めてから出る必要はないと思った。ここで言えたことを持って、ここを出られる。
扉が閉まり、二人は箱のないほうへ歩きだした。

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