星猫くるる HOSHINEKO KURURU

S050 盆の行き先

引っ越し前、梓が空の木盆を透に渡す。

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / キャラクターデザイン無し / 体裁が未整備

6,255字・約13分

S050-1 S1 四つの名前

午後の光が机の真ん中まで入っていた。梓は床の箱から鍋を出し、電気ケトルをその隣に置いた。卓上灯は透が棚から運んできた。線を巻いた灯の足が、鍋の取っ手にぶつからないよう離して置かれる。四年間同じ台所にあったものが、机の上では大きさの違う四つの荷物になった。三十八歳の梓と三十五歳の透がこの借家で一緒に暮らすのは、明日までだった。二人とも次の住居は決まっている。戻るかどうかを話し合う日は、もう過ぎていた。

木の盆だけが棚に残っていた。梓は盆の丸い持ち手に指を掛けた。

四年前、ここで暮らし始めて最初の日曜日に、二人は生活用品の店でこの盆を選んだ。梓は、小さいものを各自一枚ずつ持てばいいと思っていた。透は、大きい一枚なら二人の茶を一度で運べる、と棚の前で言った。大きい盆を使う自分は想像できたが、小さい盆を二枚使う二人は、梓にはうまく想像できなかった。迷った末に、横三十六センチ、奥行き二十四センチのこれを買った。代金は半分ずつ払った。借家に戻り、梓が二人分の茶を載せて机まで運ぶと、透は空いた縁に指を置いた。「明日の朝、一人分にも使っていい?」と透が聞いた。「使ったら、自分で戻そう」と梓は答えた。誰かが運び、誰かが片付ける係に分けたのではなかった。茶を飲み終わると、二人は自分の器を流しへ持っていき、空の盆を流し横の棚へ戻した。大きい一枚が棚に収まったとき、小さいものを各自買う案は、買わなかったもののままになった。

低い縁が棚板から離れた。持ち手の内側は指の腹が滑るほど擦れている。梓は反対の持ち手にもう片方の手を添えて、盆を机へ置いた。器は載っていない。木目が端から端まで見えた。鍋もケトルも灯も、場所を取るものには違いないのに、空の盆の占める面積だけが、梓には余分に感じられた。立てれば薄い。伏せればただの長方形だ。それをどちらの箱へ入れるかは、薄さとも面積とも違う問題だった。

「今日、四つとも決めよう」

梓は紙を机の端に置いた。鍋、ケトル、灯、盆と縦に書き、上に自分と弟の名前を書いた。名前の下にはまだ何もなかった。個人の衣類や食器は既に分けてあり、青い印の箱は梓、白い印の箱は透のものと決めてある。明日の鍵の返却までに、この部屋へ戻って分け直す用事を残したくなかった。

「順番にね」

透が紙を自分にも読める向きへ少し回した。梓は、四つだから二つずつ、と書きかけた鉛筆を止めた。数が同じなら紙の左右はきれいに見える。けれど箱を閉じてしまえば、同じなのは数だけになる。相手が困らないよう先に決めることと、相手の代わりに決めることは、紙の上ではよく似ていた。梓は名前の間に線を引かなかった。透が立っている側にも余白を残した。

S050-2 S2 二対一

鍋は梓が引き取ると言った。これからも料理に使う。透には自分の小鍋がある。使い道を口にしたあとで梓は大きい鍋を青い箱の近くへ移した。入れてしまえば話が終わる気がして、まだ床には下ろさず机の端に置いた。透は鍋の名前の脇を指した。梓はそこに自分の名を書いた。

「灯も、読書に使いたい」

「僕は作業灯があるから、いいよ」

透は灯の線を巻き直した。ほどけない程度にゆるくして、足のところへまとめる。その手を見ながら、梓は自分の名を二度目に書いた。使う予定を言って選ぶのは簡単だった。鍋の料理も灯の読書も、次の部屋で続けられる。持っていった人が毎日使わなくても、もう一人へ説明する必要はない。そう思うと、二つの名前を鉛筆で書いただけで、机の片側が梓の家の一部になっていた。

ケトルは透が欲しいと言った。一人分の茶を淹れる。梓がうなずくより先に、透はケトルの口を自分の側へ向けた。

「それは、透って書いて」

弟が自分の名前を指定したので、梓は言われたとおり書いた。使わないものを断る返事より、自分のものを選ぶ返事のほうが机の上では短かった。梓が二つ、透が一つ。盆だけを透にすれば、紙の両側に二つずつ並ぶ。線を引かなかった紙にも、見えない線はできるのだと思った。

「数を二つずつにするために盆を決めたくない」

言ってから、梓は鉛筆を置いた。鉛筆を握っていると、続きを埋めるのが自分の仕事になってしまう。

「僕も、残りを預かることにはしたくない」

透はケトルから手を離して、盆を見た。欲しくないと言ったのか、欲しいと言ったのか、梓にはその一言だけでは分からなかった。そこでいつものように、じゃあ私が持っていく、と言えば話は先へ進む。でも先へ進むたびに、透が決められる場所を一つ減らすことにもなる。梓は盆を自分の側へ引かなかった。

「三つは、いま書いたとおりでいい?」

「いい。ケトルは使うし、鍋と灯はそっちで使って」

「盆の数合わせで、ほかを取り替えたりはしない?」

「しない」

これで三つを決めた、と梓は紙の上を指で順にたどった。盆の行で指が止まった。三つに納得したのなら、残る一つだけを選べばいいはずだった。それでも四つを机に載せたときより、盆は大きく見えた。誰にも選ばれていないものは、まだ二人のものなのか。それとも、名前を書かなかったから二人の間に置かれているだけなのか。梓は空欄を急いで埋める代わりに、紙を机の端へ戻した。

S050-3 S3 欲しいと言う

「私も欲しい」

梓が言うと、透は盆のほうを見たままうなずいた。弟が断るつもりかどうかを確かめてから言えばよかった、と一瞬思った。確かめる前に言わなければ、梓の希望は弟の返事によって小さくも大きくもなる。欲しいと言った声の大きさを、梓はそのままにしておいた。

「茶と本を一緒に載せて、持っていきたい。次の部屋でも」

一人分なら小さい盆でいい、と自分で付け足しそうになった。個人の丸い盆は青い箱の側に置いてある。昔から持っているものを持っていけば、茶のために困りはしない。困らないという理由で、大きい盆を使う楽しみまで消してしまうのは違う気がした。梓は丸盆のことをまだ言わず、透の返事を待った。

「僕も使いたい。朝の分をまとめて載せて、カウンターに置く」

「一人分を?」

「うん。一人分を」

盆には透の一人分の朝食も、二人で運ぶ食事も載ってきた。一人では大きすぎるのでは、と梓が思いかけたのは、盆の実際の使われ方を忘れたからではなかった。自分が大きい盆を欲しいと言ったあとで、弟の使い道だけを小さくできるなら、楽に決まるからだった。梓はその考えを口にせず、丸い盆を机の端に置いた。

「私にはこれもある。だから困らないのは、本当。でも、大きいほうも欲しいのは本当」

「小さいほうがあるから、すぐ辞退しなくていい」

透の言葉を聞いて、梓は丸盆を重ねようとしていた手を引いた。重ねれば小さいほうは木の長方形の中に隠れる。二つを持つか、一つだけにするかを見せるために運んだのに、隠してしまうところだった。机は狭くなったが、梓は二枚を並べたままにした。

新居の寸法を書いたメモは、それぞれの箱の上にあった。梓の棚は幅三十二センチ、透のカウンターは四十四センチ。覚えていた数字を、二人は紙でもう一度確かめた。梓の棚には盆を横にしたまま置けない。ただ冷蔵庫の脇には、立てておく余地がある。透のカウンターには水平に置ける。このことは引越しの荷物を作る前から分かっていた。新しく見つけた答えのように、数字へ指を置くわけにはいかなかった。

「そっちのほうが置きやすいね」

「置きやすい。でも、それだけで僕にする?」

梓は首を振った。相手のほうが便利だと言えば、自分の希望を訂正しなくても引き下がれる。けれど、自分が欲しいと言ったものを渡すのなら、置けないせいで手放したことにはしたくなかった。透のほうが便利なのも、梓にも持っていく方法があるのも、同じ机の上に残っていた。

S050-4 S4 紙の置き場

梓は緩衝用の紙を一枚広げ、定規を当てた。横三十六センチ、奥行き二十四センチ。鉛筆で四本の線を引くと、透が紙の余りを折り込んだ。切らなくても、線に沿って折れば盆と同じ大きさになる。二人は紙型を盆の隣へ置いた。木の縁も持ち手もない長方形は、同じ幅なのに頼りなく見えた。梓は端を押さえ、折った部分が戻らないようにした。

紙型の横に三十二センチの印を付ける。幅が足りないことは、見比べるまでもなかった。梓は紙を横向きから立てる向きへ起こし、冷蔵庫脇へ入れるときの手の動きを机の上で試した。紙はたわみ、盆なら片手でつかめる持ち手の場所が何もない。透が紙の下を支えた。現地に置いたわけではないので、うまく取り出せるかまでは分からない。それでも、持っていくことが不可能ではない、と知っていたことを二人の前に置けた。

次に四十四センチの印を付け、紙型を机へ戻した。透のカウンターなら八センチ余る。横に余る幅は見えても、その場所を毎朝どう使うかは紙には載らない。梓は余白を指で押さえた。数字を比べる作業には答えがある。だが答えがあるところだけを比べていると、弟に選ばせるつもりで始めた話を、定規に決めさせることになる。

「置けないからじゃない」

梓は紙型を机から持ち上げずに言った。

「分かってる。立てればそっちでも使える」

「使えるから、迷ってる」

「僕のほうも、ただ置いておく場所にするつもりはない」

透はカウンターの幅の印から指を引き、盆の内側を指した。木目の真ん中に器を置くつもりの指だった。梓は弟の手を見ていた。弟がそうするだろうと自分で想像するのと、弟がそうしたいと言うのとは、同じ盆を見ていても違った。

紙型を半分ずつにすれば机の左右へ同じだけ置ける。梓は折り目を付けるところまで考えて、やめた。半分の紙は盆の半分ではない。二人の代金を足せば一枚になったものを、別々の住居へ同時に持っていく方法は、この机にはなかった。真ん中へ名前を書くことならできる。そうして決まっていない状態を、決まった形に見せることもできる。

「二人の名前のまま、そっちに置くっていうのは」

梓はそこまで言って、紙型の角をそろえた。透はすぐには返事をしなかった。

「預かるのと、使うのは、決めておきたい」

弟の声は大きくなかった。梓は紙型を盆から少し離した。自分が使わない日にも自分の物だと言っておけば、持っていかない損を減らせる気がしたのだった。その損を減らすために、透の部屋の盆を、梓が使わない日まで共有物にする。梓はそれを欲しいと同じ声では言えなかった。鉛筆を置いた紙には、まだ盆の行だけ名前がなかった。

S050-5 S5 渡す前

梓は丸盆を青い箱の側へ戻した。まだ木の盆には触れなかった。紙型と定規を机の端へ寄せると、四つの品物のうち三つは、それぞれの名前の側にあった。空いた中央に盆がある。梓はその場所を見ながら、まず結論を言おうと思った。理由を先に並べれば、透が理由ごと引き受けるまで待つことになってしまう。

「大きいほうは透に渡したい。私は丸いほうを使う」

透は丸盆を見て、それから梓を見た。

「欲しいって言ったのは、なしにする?」

「なしにはしない。欲しいけど、渡すって決めたい」

言葉にしたあとでも、梓の使い道は消えなかった。茶と本を載せた大きい盆を持つ自分は、まだ思い浮かぶ。丸盆では本まで載せるのは難しい。別々に運べば済むことだが、済むから欲しくなかったことにしていいわけではない。梓は欲しいと言った自分を訂正せずに、弟へ渡すと言った自分も、同じ机の前へ置いた。

「共有のままにすると、そっちで使ってる日にも、私の予定を残すことになるでしょう」

「借りるのが駄目ってことではないよ」

「うん。でも、返す日を決めて預ける話にはしたくない。そっちの物として使ってほしい」

透は盆の縁に手を置こうとして、その手を膝へ戻した。梓が握っている鉛筆の先を見ていた。返す日を書かなければ、いつでも返せる共有品になる、という抜け道を梓はもう紙に残さなかった。弟が受け取るなら、使う場所も使わない日も、弟が選ぶことになる。

「僕の物として、受け取る」

「朝ごはんに使うから?」

「それに使いたいから。残りだからじゃない」

梓は盆の行へ透の名を書いた。三つの名前を書いたときより、筆圧を強くしないようにした。特別な品だから特別な決まりを付ける、ということはしない。透は四つの行を上から読み、盆の横でもうなずいた。梓の名は二つ、透の名も二つになった。数がそろったことは、最後に起きたことだった。

「これでいい?」

「いい。そっちは?」

「私も、これでいい」

梓は鉛筆を紙の上に置いて立ち上がった。透も立ち、机の反対側へ両手を出した。盆の長い辺を二人の間に向けると、二つの持ち手をどちらも梓が持つ形になった。持ち手の内側に指を収める。机から離した盆の底には、何も載っていなかった。

梓は盆を透の両手へ渡した。

透が底を支えてから、梓は指をほどいた。持ち手には一瞬、二人の指があった。引き取る側が支えたのを見て手を離した、それだけの短い時間だった。透は盆を自分の側へ寄せ、白い印の箱の前に置いた。梓が机に戻した手は、盆を取る前と同じように空いていた。けれど、もう一度棚へ戻すための手ではなかった。

S050-6 S6 それぞれの箱

透は白い箱の底に紙を敷いた。盆を立てて入れる前に、持ち手の側にも紙を当てる。カウンターでは水平に使うつもりでも、運ぶ箱の中では立てるのだった。梓はその置き方に口を出さず、青い箱へ鍋を下ろした。灯は鍋とぶつからない場所に収める。机の上で巻かれた線は、そのまま灯の足の近くにあった。丸盆は梓の個人の荷物として、自分の側へ入れた。

ケトルを入れた透が箱の内側を押さえた。盆の縁はもう見えない。梓は白い箱の口を見てから、盆の名前を書いた紙へ視線を戻した。紙には使う日も返す日も書いていなかった。名前があるだけだった。その少なさを、書き足すところが残っているとは思わなかった。

「使うよ」

透は箱のふたを片方だけ倒しながら言った。

「私は丸いほうを使う」

大きい盆の使い道を言ったときとは違い、梓はもう自分の茶や本を透へ説明しなかった。丸い盆に載る分を載せる。本は別に持つ。それで何度机と台所を往復するかは、梓の部屋の用事になる。透も、どんな朝食を載せるかを言わなかった。次の朝の細かい形まで、ここで二人分を決める必要はなかった。

梓は鉛筆を持ち直し、四つの名前を指で確かめた。鍋と灯は梓。ケトルと盆は透。箱の中身を見ながら読むと、紙は相談のための余白ではなく、今日決めたことの短い記録になった。盆の行を薄く書き直すことも、二人の名前へ戻すこともしなかった。四つの行に、空欄はない。

「全部、入ったね」

「うん」

透が白い箱のふたを閉じた。梓は青い箱のふたを合わせた。テープを端まで貼り、床へ押し付けるように箱の角を押さえる。透も自分の箱へテープを貼った。机の上には紙型と定規、鉛筆と名前を書いた紙だけが残った。紙型の幅は三十六センチのままで、二人のどちらの幅にも縮んでいなかった。

盆を置いていた棚は空いていた。梓は棚を見ても、そこへ戻すものを探さなかった。明日は鍵を返す。今日は二つの箱を別々の側へ寄せた。箱を閉じたあとで、相手が困らないか、もう一度聞くことはしなかった。困るときには聞けばいいし、借りたくなったときには頼めばいい。その可能性を残すために、いまの品物を共有のままにしておく必要はない、と梓は思った。

名前を書いた紙を折り、梓は自分の箱の上に置いた。四つを決める用事は、それで終わった。盆の持ち手に触れたときには、机の真ん中を空けるためにどちらかへ動かすのだと思っていた。真ん中は空いた。しかし、盆の行き先は、空いたところではなかった。

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