星猫くるる HOSHINEKO KURURU

S065 空席の息

練習室で千景と遼がそれぞれの譜面を持って歌う。

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / キャラクターデザイン無し / 体裁が未整備

6,890字・約14分

S065-1 S1 二冊の譜面

練習室の壁時計が一時を指したとき、綾瀬千景は机に二冊の譜面を置いた。表紙の薄い青は、覚えていたより白に近かった。市民会館へ来るまでの道は変わっていない。入口の傘立ても、廊下で靴底が鳴る場所も同じだったのに、椅子に腰を下ろすまでの動きだけが、借りた部屋へ入る人のように遅くなった。
牧原遼は向かいに座らず、机の短い辺に椅子を寄せた。譜面を一冊取ると、端を揃えたまま表紙を開く。修理店では小さな部品を扱う指が、紙の角をつぶさないように動いていた。千景は自分の冊子の背を押さえた。製本所で見慣れた綴じ方でも、今日は中身を読む前に綴じ糸へ目が行った。
二人が定期練習をやめたのは半年前だった。千景は仕事の終わる時刻が定まらず、遼は店を閉めてから練習へ向かう日が続かなくなった。今は千景が三十四歳、遼が四十一歳である。互いに辞めた理由を知っていたので、会うなり懐かしさで復帰の話を始めることはしなかった。二人で歌うのも、それ以来になる。
「早かったですね、遼さん」
「十三時に判断するなら、十三時には座っていたくて」
千景は受付用紙を入口の台に置いてきたことを伝えた。一時四十分までに出欠を書けばよい。今はまだ二人の名前の隣が空いている。遼は腕時計に目を落とし、机の上へは外さなかった。
日曜のこの机で、千景は遼へ、金曜の夕方に受けた世話役からの電話の内容を話した。
世話役は千景に、『日曜の三時の発表会で、千景さんと遼さんに、欠席する二人の代わりに歌ってほしい。返事は二人で相談してからでいい』と頼んでいた。
話し終えると、千景は譜面から手を離した。頼まれたときには、二人分の名前が一息で出てきたことに少し慌てた。その晩、遼へ連絡した際には、日曜に会って相談できるかだけを先に聞いた。電話で二人の分まで返事をしなくてよいと言われたことも、今日は改めて伝えておきたかった。
「私が先に受けている、ということではありません」
「僕も受けたつもりにはなっていません。今日はそこからですね」
遼の返答に千景はうなずいた。二人とも曲名と開始時刻は知っている。『川の朝』、そのあとに『窓の灯』。千景がアルト、遼がテノールで、欠席する二人の空く声部へ入る。それでも、曲を知っていることと、今日それを歌えることは、机の上で分けて確かめる必要があった。
遼は最初の曲のページに指を挟み、千景が同じところを開くのを待った。代役という言葉には、空いた幅のすべてを一人で満たすような響きがある。千景自身も、一人減った列へ立つ場面ばかりを想像していた。譜面には一人分の線しかない。その線を見てからなら、自分が引き受けるものの大きさを測れる気がした。
窓の外で、会館の旗の端が折れ、また伸びた。誰かが廊下を通る足音はしたが、部屋には入ってこなかった。千景は机の二冊を交互に見た。相談する時間が、頼まれた言葉の後ろに、ようやく実際の長さで置かれていた。

S065-2 S2 最後列の幅

最初の曲の譜面には、どちらの冊子にも同じ小節番号が振られていた。千景は自分の声部を目で追い、隣の声部へ視線が滑ったところで戻した。前に歌っていたときは、ページを開けば目が勝手に進んでいた。今は線を一つずつ選ぶ。遼が紙の端を持ち上げたので、千景も次のページへ進んだ。
「曲は変わっていないですね」
「覚えていた場所はあります。でも、覚えていたつもりの場所も」
千景は笑いかけ、それを軽い返事だけで済ませないよう、入りの小節を指した。二人の声部は同時に始まるところばかりではない。遼が先に入るとき、千景はその声を自分の入口と取り違えずに待つ。以前は何度もやったことを、今日は説明できる形にしておきたかった。
日曜のこの机で、千景は遼へ、土曜の正午に受けた世話役からの二度目の電話の内容を話した。
世話役は千景に、『明日は二曲だけをお願いしたい。二人に独唱も司会も頼まないから、いつもの声量で最後列に入ってほしい』と頼んでいた。
千景がそこまで伝えると、遼はページの端から指を離した。譜面が机に平らに戻る。千景は昨日の電話を切ったあと、自分の声を大きくすれば空席が目立たないのかと考えかけた。依頼の範囲を今もう一度口にすることで、その余分な計算を机から下ろせた。
「二曲だけ、というところを確かめたかったんです」
「僕も。人数が足りないから、足りない分を全部、と思っていました」
「最後列に入って、普段の声でいい。そこは私も変えたくありません」
遼は背もたれへ身体を預け、すぐに戻した。椅子を前へ動かすことと、引き受けると決めることは同じではない。千景はその動きを待ってから、自分の譜面を少し遼の方へ寄せた。机の幅が狭くなり、互いのページのどこを見ているか分かるようになった。
昼下がりの休みを、二人ともここへ持ってきている。千景は本来なら家で何もしない時間にできたし、遼も店の時計を見ずに過ごせたはずだった。会館へ来たことを理由に断れなくなるのは避けたかった。座って譜面を確かめたあとで断るなら、それも今日の相談の結果になる。
「今から見て、難しければ断りましょう」
「はい。来たからには、で決めないように」
千景は譜面を自分の位置へ戻し、『窓の灯』を開いた。二曲目は一曲目より紙がよく開く。折り目がついているだけなのに、昔から手がかかった曲という記憶に、紙まで賛成しているように見えた。千景はその見え方を信用せず、最後のページを先に探した。
遼は一曲目の終わりへ小さく指を置いた。まだ通していない曲を、終わりだけで知ったことにはしない。その用心の仕方が、千景には助かった。今必要なのは歌う気持ちを強くすることより、二曲のうち、どこに自分の足場がないかを探すことだった。
最後列は、舞台の端に一人ずつ立つ場所ではない。普段の団員と並ぶ列である。千景は譜面の余白に何かを書こうとして、鉛筆を置いた。場所を確かめる前に安心の印をつける必要はなかった。

S065-3 S3 四拍の向こう

『窓の灯』の最後の段には、千景の声部だけが待つ休符があった。四拍。そのあとの短い入口は、一度遅れると、ほかの声に言葉の頭を隠される。千景は小節線の上で指を止めた。覚えていないのではなかった。前にもここで息を早く吸い、入らない拍に声が出そうになったことを覚えていた。
「ここが、私は心配です」
遼は自分の譜面で同じ位置を探した。テノールはそのあいだ歌っている。遼の声が続いているから、千景が待つ長さを遼へ預けることはできない。千景はそのことを分かっていたのに、隣の人が覚えていれば何とかなるという計算が、頭の端に残っていた。
日曜のこの机で、遼は千景へ、土曜の夕方に受けた世話役からの電話の内容を話した。
世話役は遼に、『明日、窓の灯の最後の入口では、指揮者の手を見て入ってほしい。二人だけへの合図は出せないので、休符の四拍はそれぞれで数えてほしい』と頼んでいた。
千景は、昨日自分へ来た電話とは別の話だったことを確かめた。世話役が遼にも連絡したとは聞いていたが、この入口についての頼みまでは知らなかった。遼は知っているつもりで飛ばさず、最後まで伝えてくれた。千景は譜面から顔を上げた。
「私だけを見てくれる合図は、ないんですね」
「団の合図はあります。手が上がって、下がる。それを見ながら、自分でも数える」
「遼さんに振り向いてもらうのも、やめた方がいいですね」
「僕がそこで別の動きをすると、僕の入りも分からなくなりそうです」
千景はうなずき、譜面の高さを変えた。机に寝かせたままでは、顔を上げるたびに紙の位置を探し直す。実際には持って歌うのだから、胸の前へ上げてみる。上辺を少し下げれば、正面を見るために頭ごと動かさなくてもよかった。
「四つ目まで、いったん声にして数えていいですか」
「ここでは。舞台ではそれぞれ、ですね」
千景は休符の手前の小節を小さく歌い、そこで声を止めた。一、二、三、四と口にしたあと、入口の音へ移る。数える声と歌の声の境目に、ひとつ余計な間を挟んだ。遼が何か言う前に、千景は自分で止めた。
「今、四のあとに待ってしまいました」
「僕も紙の上で一緒に見ていました。もう一度、その前から」
間違いを指摘されるより先に自分で見つけられたことで、千景の肩は少し下がった。だから歌える、と結論するにはまだ早い。四拍を知っていることと、その四拍の終わりに息が用意されていることは違う。譜面には両方が同じ場所に印刷されている。
千景は鉛筆の先を休符の下へ運び、まだ紙には触れさせなかった。合図がないのではなく、二人だけに追加される合図がない。その区別を、過去の依頼の言葉から今日の動きへ移す必要があった。遼の肩を見る代わりに正面を見る。そのための印を、どこへ置くか考えた。

S065-4 S4 鉛筆の印

千景は休符の下に、小さく一から四まで書いた。音符の列へはみ出さず、他の小節の数字と混ざらないよう間を空ける。製本所で紙を揃えるときとは違い、揃っている線へ自分の不揃いな数字を加える作業だった。四の下を強く引きそうになって、そこはやめた。そこだけ大きく見ると、また四のあとに待ってしまう。
遼は自分の譜面を持ち直した。千景の数字を自分の冊子へ写さず、自分が歌い続ける声部の線を追う。二人が同じ目印を持つ必要はなかった。千景はそれを見てから、入口の前で息を用意する位置に、短い縦線を一つ加えた。
「ここで準備して、四を終えたら入ります」
「僕は自分のところを歌います。千景さんへ合図は出さない」
「それでお願いします」
二人は机の側から椅子を少し引き、譜面を持って立った。実際の列の隣り合う位置を再現しようとはせず、互いの声を聞ける距離を保つ。千景は遼の口を見ないようにした。今ここで見る物を決めておけば、舞台で頼りたいものも増やさずに済む。
最後の入口の前から、もう一度確かめた。千景は今度は数を口にせず、休符の下の数字を目で渡った。四の終わりで音を出す。遼は自分の声部をそのまま進めた。入口のあと、千景は譜面へ顔を寄せすぎていたことに気づき、音を保ったまま紙を少し下げた。
「今は、待ちすぎませんでした」
「でも本番も必ず同じ、とは言えないですね」
「はい。そこまで約束しなくていいと思います」
その返答を聞いて、千景は一曲目へ戻った。入口一つだけを直して、二曲全部の代役を引き受けたことにはできない。二人は『川の朝』から『窓の灯』まで、一度通した。練習室の音は客席へ届く音とは違う。それでも、ページをめくる位置と待つ拍と、終わる位置は、二冊の紙の上で辿れた。
最後の音を止めたあと、千景は時計を見た。一時三十五分。歌っているあいだ短く感じた時間が、針の上では決めてあったところまで進んでいた。遼が座らずにいるので、千景も譜面を閉じて立ったまま答えた。
「私は、二曲の代役を引き受けます。遼さんの分まで決めることはしません」
「僕も引き受けます。いつもの声で、最後列の自分のところを」
二人は入口の台へ移った。受付用紙には名前と出欠の欄があり、その先に次回の予定を書く欄もあった。千景は自分の名前の隣へ出席の印を記した。遼も自分の欄を埋める。二人とも次回の欄には鉛筆を置かなかった。
遼が用紙を受付へ提出するあいだ、千景は二冊を胸の前へ重ねた。紙には自分の鉛筆の数字が残っている。頼まれた声を再現する印ではなく、自分が今日選んだ動きを助ける印だった。戻ってきた遼へ一冊を渡すと、二冊はまたそれぞれの手に分かれた。

S065-5 S5 空いた場所の高さ

二時に団へ合流すると、二人は最後列の空いている場所へ入った。千景の隣には普段の団員が立ち、遼は別の声部の列にいた。机の短い辺に椅子を寄せていた姿とは違い、いま遼の譜面も、周りの冊子の一つになっていた。千景は遠い肩を探さず、自分の立つ位置で足の幅を決めた。
袖で待つあいだ、千景は紙の端を何度も撫でそうになった。折れを伸ばす癖で、実際には折れていない角まで触ってしまう。数字を入れた最後のページを開き、確認したら閉じた。今から印を増やすと、増やしたものを探すために譜面ばかり見そうだった。
「鉛筆は、もうしまいます」
「僕も。ここからは二冊を持って行くだけですね」
その言葉のあと、遼は千景の譜面を覗かなかった。千景も遼の冊子を確かめなかった。机で相談したことを、離れる直前に別の約束へ変えずに持っていける。千景は鉛筆を鞄にしまい、鞄を置いて、譜面だけを手にした。
三時、団とともに舞台へ出た。客席は練習室の壁より遠く、明るいところと暗いところの境目がはっきりしていた。誰が二人の代役を見ているかは分からない。千景は空席を埋めた姿を客席から想像しかけて、譜面の最初の段へ視線を戻した。今日はその想像に返事をするために立っているのではなかった。
指揮者の手が上がった。千景は周りと息を吸い、『川の朝』の自分の声部を歌った。練習室では聞こえなかった隣の声が、同じ音のところへ重なる。自分の声を探そうとすると少し大きくしたくなるので、千景は普段の声量を思い出した。自分だけを聞き分けられなくても、歌っていないことにはならない。
一曲目の終わりで譜面を持つ手を少し緩めた。ページは机で確かめた位置でめくれた。遼がうまく歌っているかを見る余裕はなく、千景にはテノールの声が一つの列として届いた。二人で相談したあとでも、実際に歌うのはそれぞれの場所からだった。
『窓の灯』が最後の段へ進むと、千景の鉛筆の数字が目に入った。紙へ寄りたくなるのを抑え、上辺を下げる。指揮者の手が見えた。休符の一拍目を胸の内で置き、二拍目のあいだ他の声を聞き、三拍目で息を用意した。四拍目には、遼を探さなかった。
手が下がる動きに合わせ、千景は入口の音を出した。そこからの言葉は、ほかのアルトの声と重なって進んだ。自分だけがきれいに入ったのか、列の音に紛れて遅れが消えたのかまでは分からない。けれど、四のあとにもう一拍待つことはしなかった。千景はその範囲だけを、歌いながら受け取った。
最後の音が切れるまで、譜面を下ろさなかった。終わったところで、団とともに礼をした。拍手は二人を選んで届くものではなかった。千景はその音の中で、今日自分が引き受けた二曲には、ちゃんと終わる場所があったのだと知った。礼を終えても、次の曲のページを探す必要はなかった。

S065-6 S6 返した二冊

舞台を降り、鞄を取って廊下へ出たときには、三時二十分頃になっていた。窓から入る光が、来たときより机の奥へ伸びている。千景は譜面を閉じたまま持ち、返却箱の前で遼を待った。青い表紙の下から、最後のページの角だけがわずかに出ていた。
「最後のところ、四のあとで待たずに入れました」
千景が言うと、遼は自分の冊子を一度開き、それから閉じた。
「僕は自分のところを歌っていたので、千景さんだけを聞けてはいません。でも、列の入口は聞こえました」
「私も遼さんだけは聞けませんでした」
二人はそこで少し笑った。机では互いの声しかなかった。舞台では二人以外の声があり、それを数える暇もなく歌った。確認できなかったことを、親切な言葉で埋める必要はなかった。千景は自分が入った拍を覚えていればよく、遼の声の出来まで自分の報告に含めなくてよかった。
廊下の返却箱は、蓋のない浅い箱だった。千景は譜面を縦に差し込まず、背を揃えて平らに置いた。印を消して返そうかと一度迷ったが、歌う場所を示す小さな数字を、今日失敗しなかったことの記念にはしない。そのまま次に譜面を使うための印として残し、手を離した。
遼も隣へ一冊を置いた。二冊の青が並んだのは、昼の机に置いたとき以来だった。机から舞台までは、それぞれの手にある時間の方が長かった。千景は箱の中の二冊を重ねず、並んだままにした。いま揃えるための用事は終わっていた。
「二曲でしたね」
「二曲だけ。司会も、独唱もありませんでした」
遼はそう答えて、鞄の持ち手を握り直した。頼まれた範囲と、実際にしたことを並べるだけの会話だった。それをしてみると、千景が金曜の電話で感じた、どこまで膨らむか分からない役目は、もう今日の午後の大きさに収まっていた。
定期参加をやめた理由は、二曲歌ったから消えるものではない。明日になれば千景は製本所へ行き、遼は修理店を開ける。今日のために休息を使ったことも、引き受けたときの判断に含まれている。次回の予定を空欄にしたのは、忘れたからではなかった。
「戻る話は、今日はしなくていいですね」
「はい。今日の代役が終わった、で」
千景はその返事を聞き、鞄を肩に掛けた。引き受けることができたというだけで、これからも引き受ける人になったとは決めなくていい。遼は廊下の時計を見たが、急ぐとは言わなかった。出口までの短い距離は、二人ともまだ使える時間だった。
入口の台には、提出前に用紙を置いていた場所が空いていた。千景は足を止めずにそこを見た。二人で相談してから返事をするという頼みは、相談し、返事をし、二曲を歌うことで終わった。過去の声を思い出すために、もう譜面を開く必要はなかった。
千景は空になった手を一度開き、遼と並んで会館の外へ出た。

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