星猫くるる HOSHINEKO KURURU

S066 谷を歩く日

最終営業の索道で、澄と透が空の搬器を迎える。

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / キャラクターデザイン無し / 体裁が未整備

7,028字・約15分

S066-1 S1 額の留め金

留め金は、開くほうへ回すといったん固くなった。澄はそこで力を抜き、額を壁に押しつけないように持ち直した。窓口の内側からなら楽に届いたはずの高さが、今日は少しだけ高かった。踏み台を使うほどではない。その半端さが、両腕の疲れになっていた。
「下を持ってくれる」
透が空の保管筒を机に置いて、額の下辺に手を添えた。四十二歳になった元駅務員の手は、厚いガラスの重さをよく覚えていた。三十八歳の整備担当である澄は、今度は片手を自由にして留め金を回した。爪の縁に金属の冷たさが集まったあと、留め金が横を向いた。
午後二時を少し過ぎていた。枝谷索道の山麓駅には、曇り空の明るさが窓の形で入っていた。今日は最終営業日だった。窓口に吊られた札も、床の乗り場への矢印も、明日からは人を運ばない。けれど最後の便はまだ残っていて、駅の奥からは、普段と同じ低い機械の音が聞こえた。
額から抜いた紙は、ガラスに貼りついてはいなかった。澄の指が端を押さえた分だけ、すんなりと裏板から離れた。今年の定期検査を終えたことを記す証だった。上辺に薄い日焼けがあり、右下には、額へ入れる前についた折り目が一本あった。澄は紙を透に渡しかけて、机へ置いた。
「受け渡しは、最後の便のあとで」
「うん。筒だけ先に用意した」
透はそう言って、筒の蓋を外した。急がせる音にならないようにしたのかどうか、澄には分からなかった。机の木目に蓋が触れる音は小さかった。透は文書の引継担当として来ていた。昔と同じ窓口に立っても、今日は切符を売らず、ここにあるものを受け取って帰る。
澄は空になった額を裏返した。留め金を戻すと、何も挟んでいない裏板がかすかに動いた。何年間も、掃除のときにしか触らなかったものだった。ガラスを拭くときはいつも、布越しに検査証の文字が手についてくるような気がした。いま机にある紙の文字は、拭いても取れない種類の汚れに似ていた。今日までという時間が、そこには印刷されていないのに読めた。
「壁へ戻す?」
「まだ、いい」
透は額を机の脇に立てかけた。壁には、額の外の壁よりわずかに白い四角が残った。その四角の中にも釘があり、釘の下には煤のような細い筋があった。空いた場所まできれいになるわけではなかった。澄はそこを見て、作業着の袖を下ろした。袖口の糸が一本ほどけているのを、今になって見つけた。
保管筒には何も書かれていなかった。透が持ってきた細い筆記具が、その横に揃えてあった。澄は証の四隅を机の上で確かめた。濡れも、裂けもない。状態は、渡すためには申し分なかった。窓の外では、索条の下を谷へ降りていく道が、斜面の木の間にいったん隠れていた。
前日に二人で入れた予約は、翌朝十時、谷の案内所で古い地形図を一緒に見るための一枠だった。

S066-2 S2 番号の行

二時半に、透が台帳を開いた。机の上へ広げると、綴じ目の近くが持ち上がった。澄は紙を傷めない位置に掌を置いた。透が検査証の番号を読み、澄が台帳の同じ行を指でたどった。二人とも途中で声を低くし、最後の数字だけ、もう一度普通の大きさで言った。聞き違いはなかった。
「今年の日付も、同じ」
透が指を離すまで、澄は自分の指を動かさなかった。台帳の余白には何も足す必要がなかった。数値が合うという、ずっと望んでやってきた仕事の結果が、今日は次の仕事へ進むための合図にならなかった。次にすることは分かっていた。ただ、分かっている順番の中に手を戻すのが遅れた。
透は検査証の右下を見た。
「この折り目は、そのまま記すね」
「最初からあった。ここへ入れるときにも確認した」
透は紙を持ち上げず、机すれすれの高さから折り目を見た。外からの光が、浅い尾根の片側だけにかかった。破れと折れを分けて記す、その短いあいだ、証は書かれた内容より紙であることのほうを強く示していた。澄は折り目の先を伸ばしたくなったが、指を出さなかった。
台帳には証の写しが綴じてあった。写しの右下にも灰色の細い線があり、折り目まで複写されていた。澄はそこを見つけて少し笑った。透も同じところを見たが、笑いの理由を尋ねなかった。実物には触って分かる厚みがあり、写しには線がある。線になったものは、指で平らにしようとしても変わらない。
「写しは、あるんだね」
「ここにある。原本とは別に引き継ぐ」
透は筒を指ささなかった。澄には、そのほうがありがたかった。原本の行き先を示されなくても、目を少し右へ動かせば、蓋のない筒が見えた。丸めた紙を収めるための、余裕のある太さだった。証が入ったあとにも、筒の内側には空間が残る。その空間のために、いまよりずっと遠くへ運ばれてしまう気がした。
「これをここへ置いていっても、索道を残すことにはならない」
澄が言うと、透はすぐに頷かなかった。
「紙を残すのと、運転を続けるのは、別だから」
「分かってる。確認したかっただけ」
誰に確認したのかは、澄にもはっきりしなかった。透はそれ以上の説明をしなかった。二人の間に台帳が開かれていて、番号と日付はどちらから見ても同じだった。澄は掌を外し、浮き上がった綴じ目をもう一度押さえた。閉じてしまうと、次に開くのはここではなくなる。
窓の下の床に、靴についた泥が乾きかけていた。澄はそこを踏まないよう椅子を引いた。帰る前に掃けばよい程度の量だったが、今すぐ掃いても、最後の便を終えるためにまた同じ靴で歩く。箒へ伸ばしかけた手を戻し、証を平らにしておいた。紙は筒へ入れなかった。まだ机の上で、部屋と同じ明るさを受けていてほしかった。

S066-3 S3 最後の往復

三時の針が上を向くころ、澄は机を離れた。透は台帳を閉じ、最終の時刻を書く運行記録を持った。狭い通路を歩く順番は昔から変わらなかった。澄が前を行き、透があとから扉を押さえる。整備担当と駅務担当だったころには、その順番を決めた覚えもなかった。
乗り場の床には細い溝があった。雨の靴底を何度も受けた溝の中だけ、暗い色が残っていた。屋根の縁からは山の稜線が見えず、向かいの斜面の途中までしか見えなかった。索条はそこから、見えないところへ続いていた。最後だからといって空が晴れるわけではないことを、澄は少し楽に思った。
最終の搬器に客はいなかった。空の搬器が帰ってくるということは、さっきから分かっていた。二人は決まった位置で、その到着を待った。速度が落ちるにつれ、窓の反射が移動し、座席の背が見えるようになった。誰も座っていない座席は、人を待っているようにも、待つことを終えたようにも見えた。
澄はいつもの順に確認した。目を向ける場所を増やさなかった。最後の一回だけを特別にすると、普段してきた確認に足りないところがあったように思えた。床と搬器の間、扉、止まった位置。手と目が仕事の順番を覚えていた。胸の奥で別の順番が騒いでも、そちらを先にはしなかった。
「到着、確認した」
透が記録に目を落とした。
「最終の時刻、書いた」
澄は機械を止めた。低い音が小さくなると、それまで音の陰にいた別の音が近づいた。屋根の上で枝が擦れ、谷川がずっと下で流れていた。機械が止まったことを教えるための特別な静けさはなかった。聞こえていたものが減り、前からあったものが聞こえただけだった。
透は筆記具の先を紙から離したまま待っていた。澄は所定の閉鎖の確認を進めた。一つ終えるたび、済んだことを透に伝えた。仕事を細かく刻んで延ばすつもりはなかった。けれど最後の確認のあとに次の項目がないことは、声に出す前から分かっていた。澄は手を戻し、もう一度同じ場所へ触れるのをやめた。
「これで、運転は終わり」
透は頷いて、記録を挟んだ板を胸の前へ下ろした。慰める言葉も、労う言葉もなかった。澄はそれを待っていたのかもしれないと気づき、待つのをやめた。今日の運転が無事に終わったことは、誰かの言葉で大きくしてもらわなくても、今ここにあった。
搬器の窓には二人の姿が薄く映った。澄が半歩動くと、透との間に窓枠の黒い線が入った。その線を避けるために立ち直るのはおかしかった。澄はそのまま窓から目を離した。乗り場へ引かれた白い線の内側に、二人の靴だけがあった。
帰りの通路で、透は先に扉を開けた。外へ抜ける風がなくなったぶん、建物の中の空気には紙の匂いが濃かった。机のところまで戻れば、まだ済んでいない仕事がある。澄はそのことを支えにして歩いた。足元で泥の小さな粒が潰れた音がした。機械が動いていたあいだなら、聞き取れなかった音だった。

S066-4 S4 机に戻る

三時半、窓の四角い明るさは机の端へ移っていた。検査証は置いたときのままだった。澄はそれを確かめてから椅子に座った。何かが変わっていると思ったわけではない。机の上の順番だけでも先へ進んでいてくれたら、自分はその順番に従えば済むと、どこかで思っていた。
透は運行記録を台帳の横に置き、その上へ閉鎖の引継票を重ねなかった。三種類の紙が横に並んだ。検査を終えたという証、今日の運転が終わったという記録、管理を渡すための票。普段なら名前で区別できる紙が、今日はどれも同じことを違う側から言っているように見えた。
澄は引継票の欄を指した。
「異常なしは、ここでいいんだね」
「今日、機械について確認したことを書く欄は、そこ」
透は欄の線から少し離れたところを指した。澄の指と触れないようにした距離は、仕事をしているときの距離だった。二人が同じ小さな文字を見るには、そこまで近づく必要があった。澄は指を引き、筆記具を取ったが、まだ紙へ下ろさなかった。
壁の白い四角が、視野の端に入った。日焼けしていないところを隠すために空の額を戻すことはできる。戻せば、少なくとも窓口からは元の形に見えるかもしれなかった。澄は額のガラスに自分の袖が映っているのを見た。紙を抜いたあとのガラスは、前よりよく物を映した。
「音がなくなったことを書く欄はないね」
「それは、この票にはない」
透の答えは短かった。書けばいい、と言われたら、澄は余白に何を書いただろう。静かになった、と書くのは違う気がした。谷川の音はさっきより近かったし、透が椅子を引く音は大きすぎるほどだった。なくなった音の長さを、残った音の大きさで書くことはできない。
「ずっとここにいたら、止まった音にも慣れるのかな」
「今は、分からない」
透が分からないと言うので、澄もそれ以上確かめなかった。自分はここに残りたいのだろうか。それとも、去ることをすぐに上手にできる人だと思われたくないのだろうか。机の上には正しい番号の証があり、透は受け取る用意をしていた。誰も澄の手を急かしてはいなかった。
澄は「異常なし」と書いた。字の最後が少しだけ欄の右へ寄った。今日は機械に異常がなかった。それ以上の意味をその四文字に持たせようとすると、正しく書けなくなる。書き終えた場所へ筆記具を戻し、署名の欄を空けておいた。先に原本を渡す、その順序なら自分の手が追いつくと思った。
透は閉じた台帳の上から一枚の記録を取って、端を揃えた。紙が擦れる乾いた音がした。澄は、機械が動いていたときにも、この音はいつもしていたはずだと思った。記録の紙と証の紙は少し色が違った。透の手の影が重なると、違いは見えなくなり、手が退くとまた見えた。
机から離れたところには、乾いた泥の粒が残っていた。あとで掃くことは忘れていなかった。それを最後の仕事にしてしまわなくてもよい、と澄は考えた。紙を渡すことと、床をきれいにすることは、どちらを先にしても、もう終わった運転を遅らせはしない。澄は椅子を机へ寄せた。脚が床の同じ傷を通って、小さく鳴った。

S066-5 S5 受取人

四時になって、澄は検査証を持ち上げた。二つの手で支えるほど大きな紙ではなかったが、片手では折り目のある側が下がった。左右の端を持つと、透へ向けた紙の面から、自分にはもう文字が読めなくなった。裏には、表の印刷が淡く透けていた。
「お願いします」
いつもの引継ぎにも使っていた言葉だった。最後にふさわしい言葉を考えていたら、この短い言葉が使えなくなるところだった。透は両手を出した。指が紙の端を挟んだことを確かめてから、澄は手を離した。何かを失った手の形を見ているのが嫌で、澄は掌を膝へ伏せた。
透は紙をすぐに丸めず、まず机へ置いた。澄の側から透の側へ、紙一枚分より短い距離を移っただけだった。持ち主の席を示す線は机にはなかった。それでも、さっきまで澄が指で押さえていた右下を、今は透がそっと伸ばしていた。澄はそこへ手を戻さなかった。
「確かに受け取りました」
透が受取欄に署名した。最初の字のあとの短い間に、澄は窓の外を見た。索条は変わらず張られていて、空の明るさも急には変わらなかった。受け取ったという声を聞いても、山の景色には何も起きなかった。そのことが寂しく、同時にありがたかった。今起きたことを山全体に知らせる必要はなかった。
澄は自分の署名をした。書き慣れた名前の最後で、筆記具をゆっくり離した。透の名前と自分の名前の間には印刷された欄の境があった。何度も同じ仕事をしてきたことは書かれていなかったが、今日は二つの名前がそこに並ぶ。澄は書き落としがないかを確かめ、引継票を透へ向けた。
透は検査証を緩く丸めて、筒へ収めた。紙が内側に触れる音は、一度だけだった。蓋を閉める前に、澄は筒の口を見た。読み取れる文字はなく、紙の縁が白い弧になっていた。透は蓋を閉じ、台帳と記録は別にまとめた。証を入れた筒は、持ってきたときと同じ大きさだった。
「これで、私も要らなくなった」
言ってから、澄は少しだけ息を止めた。透は筒を机に置いたまま、澄を見た。否定を頼む言葉になっていた。仕事を受け取る人に、その仕事のほかの答えまで求めていた。透が口を開く前に、澄は首を振った。
「違う。今日の仕事は済んだ」
「うん。済んだね」
透はその言葉には答えた。澄は膝から手を上げ、袖口の糸を内側へ折り込んだ。切ってしまう道具は机の上にはなかった。帰ってから直せる程度のほつれだった。明日のために今すぐ何かを繕わなければいけないわけではないことが、指先からゆっくり分かった。
二人で机の上を片づけた。透は書類をまとめ、澄は床の泥を掃いた。箒の先は、溝の奥にある小さな粒を一度では拾わなかった。澄は一度だけ角度を変え、拾えた分を塵取りへ入れた。何もなかったようにするほど磨くのは、今日の仕事ではなかった。空の額は立てかけたままにした。澄は窓口の内側から白い四角を見て、部屋の明かりを消した。

S066-6 S6 道の側

四時半、門の鍵を確かめると、金属の音が斜面へ向かって短く響いた。澄は鍵から手を離した。透は保管筒を片腕に抱えていた。そこから紙が落ちる心配はなかったが、澄の目は一度だけ蓋へ行った。透は目の動きに気づいたように、筒を持つ位置を少し下げた。
駅前の地面には建物の影が落ちていた。晴れた日の影ほど輪郭ははっきりしなかった。澄は影の外に靴先を出した。仕事を終えて外へ出るのは、何百回もしてきたことだった。その何百回のどこにも、明日はここが動かないという続きはなかった。足に覚えのある場所で、足の次だけを考えなければならなかった。
谷へ下る道は、索条の下を一度横切ってから曲がっていた。窓から見えていた部分の先は、門の前に立ってもまだ見えなかった。澄は、索道に乗れば短く感じる距離を、道で測ったことがあまりなかった。整備で斜面を見るときの目と、行きたい場所まで歩く目は違うのだろうか。今は違いが分からなくても、歩けば足のほうが知る気がした。
「明日の十時、案内所の予約」
澄が言うと、透は顔を上げた。
「地形図を見る枠だね」
「行く。ここから、谷の道を歩いて」
口に出すと、前日に入れた予定が初めて自分の声になった。予約したときには、今日のあとの日に一つ予定があれば、それだけでよいような気がしていた。予定を入れた自分が、今日のここから帰る自分と同じ人であることを、澄はまだ引き受けていなかった。
「歩くなら、待合わせはここでいい?」
「同じところでいい。仕事に来るんじゃなくて、歩きに来る」
澄は作業着の胸を指で押さえた。身分を示すためではなかった。何も持っていない手が、いつもの場所を探しただけだった。透は空いているほうの手をポケットから出し、門の外の地面を軽く指した。
「ここで待つ。二人で行こう」
「うん。二人で」
案内所の地形図にどんな道が載っているのか、澄はまだ見ていなかった。今の道と違っているかもしれないし、同じ線がずっと引かれているかもしれない。見た結果まで今日のうちに決めなくてよかった。まずはその机に二人で座る。そのために歩く距離がある。索道が運ばなくなった体を、自分の足で運ぶ。
透は筒を抱え直した。その動作を、今度は澄も最後まで見た。受け取った物を持って帰る人の手だった。手ぶらになった澄が隣に立つことと、矛盾はしなかった。原本はもう返してもらわない。空になった額の前へ戻るために、鍵を開け直すこともしない。それでも明日は、この門の外で待ち合わせられる。
澄は一度振り返った。窓のガラスには薄い空が映り、額のあった壁は外からは見えなかった。中に置いてきたものが見えないことを、なくなったことにしなくてもよいと思った。谷川の音は門の内側でも外側でも同じだった。透が歩きだすのを待たず、澄は自分の靴先を道へ向けた。
澄は透と並び、閉じた門から道の側へ足を踏み出した。

感想は番号(S066)を添えて、お問い合わせフォームへ。

習作の棚へ戻る