星猫くるる HOSHINEKO KURURU

S069 帰り支度の見本

見本市の机で真砂と央介が青灰色の布と三枚の栞のある見本帳を見る。

AI が作成 / 人間が未査読 / コンセプト・ターゲット無し / キャラクターデザイン無し / 体裁が未整備

6,920字・約14分

S069-1 S1 返すための席

見本帳を返すだけなのに、真砂は椅子を勧められた。立ったまま渡してしまうつもりでいた手が、紙袋の口で止まった。椅子に座れば、何かをもう一度選ぶことになりそうだった。
「返却の相談も、座っていいんですか」
「本が重ければ、本だけ先に座ってもらっても」
央介は白布の机を空けた。真砂は笑って灰色の見本帳を置いた。紙袋の底が手の中で平らになった。装丁を仕事にしている三十六歳の真砂には、本の重さは珍しくない。それでも、さっきまで判断を全部この一冊に預けていたと思うと、袋の軽さが少し頼りなかった。
小さな製本見本市の壁時計は十五時四十分を指していた。入口のそばには十六時閉会の紙が出ている。ほかの机でも紙を重ねる音がし始めていたが、急かす声はなかった。央介は四十三歳だと今日の立ち話で言っていた。初めて会った相手の年齢より、貸すときに見本帳の底を支えてくれた手の形を、真砂はよく覚えていた。
「返すつもりでは来たんです」
「はい」
「返す前に、どれにするか決めるつもりでも来たんです」
「二つとも、ここでできます」
央介は空の収納箱を机の脇へ寄せた。箱は貸し出したあいだも彼の手元に残っていた。蓋の上には細い返却済み札が置かれている。真砂には、札のほうが自分より帰る準備を整えているように見えた。
見本帳を閉じると、迷っていた布の色が見えなくなる。開いておくと、閉会まで迷える。どちらも簡単なので困った。央介は鉛筆の横に白い控え紙を一枚置いた。注文書ではない。選んだものを自分で覚えておくための紙だった。
「借りたものを返すのと、気持ちを全部決めるのは、別にしてもいいですか」
「全部までは決めなくていいですよ。本の帰る場所は決まっていますから」
彼は灰色の箱の底を指で軽く叩いた。真砂は椅子に座った。本に帰る場所を譲った以上、自分はしばらくここにいてもよい気がした。
「返すほうは、どう進めましょう」
「番号を合わせる、中身を確かめる、箱へ戻す。」
「短いですね。私が持っていた時間より」
「手順は持ち歩かなくて済みますから」
真砂は膝の紙袋を畳まずに置いた。何も入っていないように見えるが、あとで自分の栞を戻す必要がある。返すものが一冊なら、返す動作も一度で終わると思っていた。その一度の中に、確かめる場所がいくつかあるだけなのだと、央介の指す机を見て納得した。
机の上には青い貸出票と台帳があった。自分の名前を書いたときには、借りるための紙だった。返すためにも同じ紙を使うことが、今は少し愉快だった。行きと帰りに同じ道を通る本を、自分だけが難しく考えている。
「決められなくても、本を人質にはしません」
「本も安心すると思います」
央介は見本帳ではなく真砂に向かってうなずいた。真砂も本の代わりに、浅く頭を下げた。

S069-2 S2 十七番の顔

青い貸出票は見本帳の下敷きにならない位置に置いた。央介が台帳を近づけると、机には紙を読むための小さな隙間ができた。真砂はその隙間へ顔を寄せた。自分で書いた文字でも、返すときには少し改まって見える。
「何を見ればいいですか」
「青い票を見る、背の数字を見る、台帳の貸出欄を見る。」
真砂は青い票を指先で押さえた。番号は十七。口に出して読み、票から指を離した。見本帳を持ち上げ、灰色の背に付いた十七を央介にも向けた。彼が台帳の貸出欄を指し、二人はそこにある十七を確かめた。数字はどこでも落ち着いていた。迷っているのは借り手だけだった。
「三か所とも、意見が一致していますね」
「この本については」
「私の好みも、どこかに番号で書いてあればいいんですけど」
「自分で書く紙なら、そこにあります」
白い控え紙はまだ空白だった。真砂はそれを見て、返事を後回しにしている相手と目が合った気がした。青い票の十七は見本帳そのものの番号で、好きな布の番号ではない。分かっていることなのに、数字を三度確かめたあとの安心を、選択にも少し分けてほしかった。
央介は見本帳を机へ戻すのを待った。真砂は背を下にぶつけないように置き、表紙を開いた。布の見本が光の向きでわずかに濃く見えた。新しい色が現れたわけではない。さっき見て好きだと思った青灰色が、ここでもやはり好きな色だった。
「これは返してしまっても、私の好きだった色でいてくれますね」
「そこは返却欄に書かなくて大丈夫です」
「書く場所がなくて助かりました」
台帳の狭い欄へ気持ちまで入れることを考えると、真砂は鉛筆を細く削り直す自分を想像してしまった。央介が笑ったので、彼もあの小さな欄を見ていたのかもしれない。真砂は青い票を台帳の脇へそろえた。まだ挟みはしない。番号が合っただけでは返したことにならないのを、今はちゃんと覚えていた。
見本帳には薄い品目表が差してあった。真砂は端を持ち上げた。自分の控えに使えそうな紙ほど、返すものかどうかを確かめておきたかった。
「この表も、本と一緒ですね」
「はい。巻末の袋へ戻します」
「よかった。見やすいので、つい自分の紙の顔をしていました」
「紙の顔は似ていますから」
真砂は白い控え紙と品目表を並べてみた。白いほうには何も書かれていない。何も書かれていないほうが自分のものだと、ここではすぐに分かった。持ち帰りたい情報と持ち帰ってよい紙が別になるだけで、返却はずいぶん丁寧な仕事になる。
彼女は品目表を見本帳の開いたところに置いたまま、鉛筆を取った。番号を確かめるために寄せた顔を少し離すと、机全体が見えた。帰るものと残るものは、まだ混ざっている。それでも十七番の行き先については、二人とも同じところを見ていた。

S069-3 S3 栞の投票

黄色い栞は三枚とも少しずつ上へ出ていた。真砂が書いた「好き」は、青灰色の布の見本を挟んでいる。「丈夫そう」は綴じ方の例にあった。「また考える」は、前の二枚に意見するような位置で揺れた。央介は文字を読める角度で見本帳を見ていたが、採決を急がせなかった。
「栞だけ見ると、まだ会議中ですね」
「三枚目を入れたのは私です。議長も私なのに」
「閉会までには間がありますよ」
「この会議まで閉会の時刻を借りるのは、申し訳ないです」
真砂は白い控え紙に、青灰色の布、と書いた。綴じ方の例を開き直し、その下へ、平らに開く綴じ、と書き添えた。鉛筆の音は短かった。選ぶ前にはあんなに大きかった問題が、紙の上では二行に収まった。注文ではないので、数量を書く場所も必要なかった。
「書いたあとで、違う色がよくなったら」
「その紙に、また書けます」
「紙はそのためにあるんでした」
自分の仕事でも紙を使うのに、今日は紙に決めてもらおうとしていた。真砂は鉛筆を置いた。迷いが全部消えたわけではない。消えるまで本を借りている理由がなくなったのだ。その差は、紙袋に一冊分の余地が戻るくらいには大きかった。
「中を戻します。私の栞も回収しないと」
「黄色い栞を抜く、品目表を巻末の袋へ戻す、全ページを確かめる。」
真砂は「好き」を抜き、「丈夫そう」を抜き、「また考える」を抜いた。三枚を重ねると、いちばん上の栞しか意見を言わなくなった。どれを上にするかまで悩むのはやめた。重ねたまま自分の紙袋へ入れ、品目表を巻末の袋へ差し戻した。紙の端が袋の中に落ち着くまで指で送ってから、見本帳を前へ戻した。
央介と一緒にページをめくった。外せない見本はどれも元の場所にあり、綴じ方の例にも傷はなかった。めくる手が止まるたび、真砂は選び直すためではなく、そこにあることを確かめるために見た。さっきまで同じ本を何度も開いていたのに、今度は終わりへ進んでいた。
「なくなったのは、私の迷った跡だけですね」
「それは袋に入っています」
「持ち帰れる迷いになりました」
彼女は紙袋の口をのぞいた。底に三枚の黄色がある。忘れ物でも貸出物でもない。自分が入れて、自分が持って帰る紙だった。央介は最後のページを見終えて、欠けたものも傷もないと伝えた。真砂は礼を言い、開いた表紙へ手を添えた。
控え紙を見本帳に挟みそうになって、置く場所を机の手前にした。挟めばきれいに片付くが、そのきれいさでは自分の選択まで返してしまう。央介は何も言わず、紙のために鉛筆を少し横へずらしてくれた。
「ここを、帰る側にします」
真砂が白い紙を指すと、央介は箱を指して、こちらは残る側ですね、と答えた。どちらも同じ机の上にあるのに、もう行き先は混ざらなかった。

S069-4 S4 箱の寸法

真砂は空箱を机の手前へ置いた。薄い灰色の箱は、本が入っていないと少し頼りなく見えた。貸すときに央介がこれを残した理由は分かる。箱まで一緒に持ち歩けば、開くたびに置き場所が要る。いまはその置き場所を十分にもらっているのに、真砂は箱を少し回してしまった。
「向きを合わせています」
「まだ何も言っていませんよ」
「自分に言いました」
角を白布の縁と平行にすると、やっと本を置いてもよい感じになった。箱の深さを目で確かめる。浅いが、閉じた見本帳なら収まる。開いたままでは入らないのは当然で、それでも開いているあいだのほうが、この本をよく知っていた気がした。
央介は蓋と返却済み札を持ち上げ、机の脇へ置いた。真砂は箱を回す手を止めて、見本帳へ戻した。借りるときには出してもらったので、入れるところを見るのは初めてだった。
「持つ向きも教えてください」
「表紙を閉じる、背を左へ向ける、箱の底へ平らに置く。」
表紙を閉じると、布の色や綴じ方の例は灰色の下へ収まった。真砂は両手で支え、背を左へ向けた。箱の底へ平らに下ろすと、縁と本のあいだに狭い隙間が残った。押し込む必要はない。その隙間を見てから、指を抜いた。
「ぴったりなのに、窮屈じゃないんですね」
「取り出す指の場所が要りますから」
「私も、そのくらいの片付け方をしたいです」
央介は箱の両側を見て、蓋を合わせた。蓋が下りる音は、本を閉じた音より小さかった。真砂の手はもう箱の外にあった。何かを無事に収めたときの満足と、手を離したあとの頼りなさが、同じ指先に少しずつ残っていた。
箱に入ると、見本帳はさっきよりきちんとしたものに見えた。中身は一つも増えていないし、減ってもいない。真砂の栞だけが別の場所へ移った。今日は自分の考えをまとめに来たつもりだったが、目の前でまとまった姿になったのは本のほうだった。
「本の帰り支度が、私より先に終わりました」
「真砂さんは、まだ座っていますから」
「本も座っています」
「もう箱に乗っています」
言い方を変えただけなのに、箱が小さな乗り物のように思えた。真砂は笑って、持ち上げかけた手を自分の膝へ戻した。運び出すのは自分ではない。ここがこの本の帰り先なのだから、机の上をどれだけ進んだかを競う必要もなかった。
白い控え紙が箱の影に入っていたので、真砂はそれを少し手前へ引いた。青灰色、という自分の文字を読めた。実物が閉じられても、何を見て選んだかは分かった。控えの余白にさらに説明を書き足すこともできるが、彼女は鉛筆を取らなかった。
央介は蓋へ手を置かず、台帳を開き直した。箱に収まることと、貸出が終わることには、まだ鉛筆一本分の隔たりがあった。真砂はそれを待った。急いで帰るために始めた返却ではなくなっていたが、帰れなくなったわけでもなかった。

S069-5 S5 返却のしるし

台帳は箱よりずっと薄かった。薄いのに、見本帳がどこにいることになっているかは、こちらで決まる。真砂はさっき自分の名前を見た行へ目を戻した。貸出欄の十七の隣には、返却を確かめるための空いた欄があった。空白がようやく仕事をする番だった。
「ここまでで、物は戻りましたね」
央介が言った。真砂はうなずいてから、もう少し待つつもりの手を膝の上で重ねた。返した側が勝手に丸をつけるのも変なので、鉛筆には触れなかった。
「紙のほうも終わらせてください」
「返却欄に丸をつける、青い票を台帳に挟む、箱に返却済み札を載せる。」
央介は返却欄に丸をつけた。輪の終わりが始まりへ戻るのを、真砂は見た。彼は青い票を台帳に挟み、台帳を閉じた。それから細い返却済み札を箱の上に載せた。札は箱を留めるためのものではなかった。置かれただけなのに、灰色の蓋がそれまでより動かしにくく見えた。
彼が箱を自分の側へ引いた。短い距離だった。白布の上で角が静かに滑り、真砂とのあいだに空いた場所ができた。
「確かに受け取りました。返却はこれで完了です」
「ありがとうございます。受け取られたのが私じゃなくてよかったです」
「箱が小さいですからね」
央介は札がずれていないか見てから、真砂のほうを向いた。話を真面目に続けられたので、彼女は一拍遅れて笑った。座る場所を勧められたときから始まった本との競争は、箱の大きさでようやく決着したらしい。
真砂は紙袋の口を開いた。栞は底にある。貸出票までこちらへ入れれば、持って来た物が全部戻るような気がしたが、青い票の役目は台帳の中へ移っていた。借りたときと同じ姿に戻すことが、返すことではない。その違いを間違えずに済んだのが、今は少しうれしかった。
「この丸で、もう私が持っていることにはならないんですね」
「はい。この箱は、こちらで片付けます」
「分かりました。私の頭の中でも、返却にしておきます」
「そちらの台帳は、お任せします」
頭の中にまで返却欄を想像して、真砂はそこにも丸をつけた。実際には何も書かなかった。目の前の丸は央介の鉛筆でつけた一つだけで、それで十分だった。二重に確かめるために、本をもう一度開ける必要もない。
札の文字は、真砂からは少し斜めに見えた。それを正面へ向けたくなったが、央介の側では読みやすい向きだった。箱を回して合わせたときの手を思い出し、真砂は膝の上で指を開いた。持ち主にとって使いやすくなるのを、そのまま見ていてよかった。
閉じた台帳の端から青い紙がわずかに見えた。白い控え紙の端は自分の近くにある。似たような紙の顔でも、今は間違えない。真砂は返却済みの箱へではなく、返却を確かめてくれた央介へ礼を言った。彼も、丁寧に見てくれてありがとう、と答えた。本を借りた時間まで返さなくてよいことが、その言葉で分かった。

S069-6 S6 軽い袋

壁時計は十五時五十五分だった。閉会まで五分ある。もう何かを決めるための五分ではなく、席を立つのに十分な五分だった。真砂は紙袋の持ち手を整えた。見本帳を入れていたときのように大きく開く必要はない。底の三枚の栞が滑らない程度に、口を細くした。
「私も、帰るほうを片付けます」
「紙袋を持つ、控えを取る、椅子を戻す。」
「私の手順も短かったですね」
「座っているあいだに、だいぶ済みましたから」
真砂は紙袋を持った。軽くなったことは分かっていたのに、持ち上げた手が少し余った。机の白い控え紙を取り、書いた側を自分へ向けた。青灰色の布と平らに開く綴じ。書かれた二つを読んでから立ち上がり、椅子を机のそばへ戻した。脚が床に触れる音も、閉じた箱の蓋と同じくらい静かだった。
返却のためにできた机の隙間には、もう自分の物はなかった。央介の側には箱と台帳があり、青い貸出票は台帳の中にある。真砂はそれを取らなかった。紙袋を持ち替え、控えを落とさない位置へ指を添えた。栞三枚も、この袋の底にいる。
「忘れているものは、ないですね」
「残すものも、一緒に確かめましたから」
真砂はその答えを聞いて、箱の上へ視線を戻した。帰りに持つものだけを数えたら、あの一冊を忘れ物にしてしまいそうだった。残るべきものが残っているという確かめ方なら、机の空いたところにも意味があった。
「一冊持って帰らないだけなのに、仕事を終えた気がします」
「返す仕事は、終わりました」
「選ぶ仕事も、今日はここまでにします」
央介は控え紙へ目を向けてうなずいた。書いたものを見せて注文にするつもりはない。真砂は紙を自分のほうへ戻した。選んだ色を誰かに保証してもらわなくても、今日はその色を選んだと言えた。明日違うことを考える余地も、この余白のままで持って帰れる。
箱の蓋をもう一度開けてもらう言葉は、口にしなかった。青灰色がどんな光を返すかは覚えているし、綴じの開き方も指の感覚に残っている。その二つが少し薄れたとしても、今つけた返却の丸を消す用事にはならない。真砂は袋を提げたまま、椅子から一歩離れた。
「本のほうは、もう出発しないんですね」
「ここで片付けを待ってもらいます」
「では、私だけお先に」
「今日はありがとうございました」
真砂も同じ礼を返した。初めて借りたときの礼より長くする必要はなく、短く急ぐ理由もなかった。机の向こうで央介が少し頭を下げたので、彼女は控え紙を振らないようにして会釈した。
黄色い栞のいちばん上が何だったかを、もう確認しなかった。「また考える」だったとしても、今から座り直せという命令ではない。三枚とも自分の紙なのだから、帰ってからでも好きな順に重ねられる。机に置いてきた見本帳には、一枚も残っていない。
白布の縁と箱の角は、彼女が合わせたままだった。けれど、それを見張っている役目はない。入口から入って来たときより小さくなった袋が、膝の横でかすかに鳴った。
真砂は軽い紙袋を提げ、控えの白い角を指で押さえて、見本市の出口へ歩いた。

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