星猫くるるHOSHINEKO KURURU

カードアース

レナティア編 第一章 黎明(2/3)

 彼は、きょとんとした。それから、こらえきれないように笑って、ひょいと身をかがめ、レナティアの耳もとに口を寄せた。

「——カタカナで、ロロ。いい名前だろ?」

「え」

 伏字じゃ、なかったのだ。

 四角がふたつ並んでいるようにしか見えないあの名前は、読める人にだけ読める、ちゃんとした名前だった。名乗らないのが当たり前のこの島で、こっそりと、けれど確かに、この人は自分の名前を持っている。

「よし、決めた。キミ、いっそ俺のお嫁さんにならない? でーっかいギルドのマスターの奥さん。悪くないだろ?」

「いえ、けっこうです」

 即答だった。

「そ、即答ぁ!?」

「うひひ」と狸が笑う。

 ロロはわかりやすくしょんぼりして、それから、ひとりごとみたいに呟いた。

「……はあ。きょうも、スウィートに癒してもらお」

 なんのことかは分からなかった。でも、悪い人ではなさそうだ、とレナティアは思った。名乗ったことを、この人は笑わなかったから。

「ま、お嫁さんは冗談として」と、ロロは咳払いをひとつした。「キミ、行くとこないんだろ? とりあえずギルドだけでも入ってよ。損はさせないからさ」

「お世話になります。お嫁さんには、なりませんけど」

「うんうん、それでいい。お嫁さんのほうは諦めないけどね!」

 ログに白い文字が流れた。

『レナティアが、ギルド「CE7743」に加入しました』

『ナナシが、ギルド「CE7743」に加入しました』

「あれ。たぬさんも?」

「俺もって? レナちゃんのお婿さんに立候補しろってこと?」

「そうじゃなくって」

「じゃ、マスターのお嫁さんになれってこと?」

「そうそう^^」

「「マジか」」

 狸とロロの吹き出しが、きれいに重なった。

「冗談です^^」

「レナちゃん、意外と言うねえ」

 ロロはそのまま、二人を例の倉庫へ連れて戻った。扉をくぐるとき、レナティアの足は正直、少しすくんだ。さっき無視された場所だ。

 けれど今度は、吹き出しがいくつか、こちらを向いた。

「お、マスターおかえりー」

「新人?」

「さっきの勇者様募集の子だ」

「ういーす」

 歓迎、と呼ぶには薄い。でも、無視ではなかった。看板の裏側に入る、というのは、そういうことらしい。

「ここが、うちの巣だね」

 ロロは胸を張った。

「巣、ですか」

「帰る場所、って言ってもいい。俺はね、でっかいギルドを作りたいんだよ。誰が来ても、ただいまって言えるやつ」

 その文字は、さっきまでより少しだけ、まじめだった。

 談話室の隅に、小さな女の子が座っていた。

 椅子の上にちょこんと乗って、足を揃えて、何も言わずにこちらを見ている。猫の耳。ラベンダー色のやわらかな髪に、小さな貝殻の飾り。硝子玉がらすだまみたいに大きな瞳。頭の上に、名前は出ていない。

「あの子は?」

「スウィート。俺の癒やし」

 ロロの顔が、一瞬でゆるんだ。

「昔のキャラ作りコンテストで賞を取ったときにもらった、入賞作のミニチュア。戦ったりはしないけど、部屋に置いて、一緒に出かけられるんだよ」

「さっきまで俺と一緒に外を回っててね、いま帰ってきたとこ。だからキミが最初に来たときは、いなかったはずだ。……かわいいだろう。疲れたらあの子の前に座って、今日もがんばったなあって、自分を褒めるのさ」

「お話、するんですか?」

「たまにね。たまに喋るから、いいんだよ。いつも喋ったら、ありがたみがないだろ」

 よく分からない理屈だった。でもロロが本気で言っているのは分かった。狸が「ロロさんて、いつもこうなんです?」と小声で聞くと、近くのナナシがひとことだけ返した。

「いつもこう」

 たぶん、昔からこうなのだ。

 スウィートは、ぱちり、とまばたきをひとつした。

 それだけだった。それだけなのに、なんだか、見送られたような気がした。

 ——その日ひから、レナティアと狸の毎日が始まった。

 現実の季節でいえば、秋のはじめ。この世界の大きな物語——メインストーリーの最終章は、冬に解禁されると告知されていた。だからこの「毎日」には、たぶん、終わりの日付がある。それでもよかった。そこまでの毎日をぜんぶこの世界で使うと、レナティアはもう決めていた。

 朝は掲示板の前で依頼を選ぶ。昼は狩りか、おつかい。夕方には石段に座って、行き交う船を眺める。夜は談話室の隅で、ナナシたちの吹き出しを聞くともなしに聞く。

「ただいまー」「おかえり」「狩場どこ空いてる?」「盾募集」「ヒーラーどこ……」

 言葉は途切れない。でも、誰が言っているのかは分からない。名前がないと、声は波の音に似てくる。ここは居場所なのかもしれないけれど、まだ、あたしの居場所ではない。そんな距離感だった。

 掲示板の依頼は、英雄譚には載らないものばかりだった。

 いわく、畑を荒らすイノシシを三匹追い払ってほしい。いわく、港の倉庫から逃げたニワトリを捕まえてほしい。いわく、薬草を五束、山道の灯りの点検、井戸のバケツの回収。

 レナティアは、ぜんぶまじめに受けた。

 イノシシは、三匹で銅貨がすこしと、ジビエの串焼きが三本。村のおばあさんは「助かったよ勇者様」と言ってくれた。勇者様。掲示板の依頼でも、言われれば嬉しい。

 ニワトリは、イノシシより強敵だった。

 白い羽根をまき散らして、倉庫の木箱の隙間を全力で走り抜ける。狸が右へ回れば左へ逃げ、レナティアが左へ回れば樽の上へ飛ぶ。三十分の追跡の末、レナティアはついに切り札を出そうとした。

「こうなったら……ヒーちゃん、お願い!」

「はいストップ! 火はだめです!」

 倉庫の入口で、狸が両腕でバツを作って立ちふさがった。

「ここは港の倉庫! 積み荷は油と干物! 俺はいま倉庫番の気持ちになっている! 火はだめです!」

「……ごめんなさい^^;」

「レナちゃんさあ、倉庫を焼いたら英雄譚に載っちゃうよ。悪いほうで」

「悪いほうは、いやです」

「わかればよろしい」

「たぬさんは、倉庫番さんだったんですか」

「俺はいろんな番になれる狸」

 ヒーちゃんは出番のないまま、レナティアの肩の上でしゅんとしていた。ニワトリは最終的に、狸が投げた餌に釣られて自分から籠に入った。知恵の勝利、ということにした。

 薬草集めは、静かで、いちばん好きだった。

 山道の脇に咲く白い花のうち、葉の裏が銀色に光るものだけを摘む。ユカちゃんが地面の中をゆっくり泳いで、当たりの株を教えてくれる——ような気がする。気がするだけかもしれない。でも、そういうことにしておいた。狸は三分で飽きて、石に座って尻尾で小石を転がしていた。

「たぬさんも、探してください」

「俺、葉っぱの裏とか見えないもん。狸だから」

「都合のいいときだけ狸ですね」

 そして、拾えるものはぜんぶ拾った。

 石ころ。貝殻。錆びた釘。カエルの皮。名前の分からないきのこ。気づけばカバンは満杯で、街に戻って査定してもらうと、ぜんぶ合わせて銅貨四枚だった。

「レナちゃん、その錆びた釘、一本一銅にもならないよ」

「でも、何かに使うかもしれません」

「使わないんだなあ、これが。はじめての冒険者はね、みんな拾うの。石、釘、謎の羽根。世界がぜんぶ宝物たからものに見える時期なんだよ。俺も前の時代、倉庫を釘でいっぱいにしたから分かる」

 世界がぜんぶ宝物に見える時期。

 からかわれた気は、しなかった。狸の言い方は、その時期をちゃんと通ってきた人の言い方だったからだ。

 売るものと残すものを分けるだけで、十五分かかった。

 貝殻はきれいだから残す。石ころは形が丸いから残す。きのこは怖いから売る。カエルの皮は、使い道が分からないけれど、依頼で必要になるかもしれないから残す。錆びた釘は、狸が「ぜったい使わない」と言い、レナティアが「ぜったいは言い切れません」と言い、最終的に一本だけ残した。

「一本だけなら、未来の自分も許してくれる」

「未来のあたしに、釘が必要かもしれません」

「その未来、だいぶ渋いね」

 錆びた釘は、カバンのいちばん奥にしまった。いつか使うかどうかは分からない。でも、いま捨てるには、まだ世界が新しすぎた。

 夜の談話室では、ときどき、よその話が流れてきた。

 最初の数日は、レナティアが席に座っても、吹き出しは少しだけ遠かった。

「例の勇者様募集の子だ」

「まだ名前ついてる」

「狸さんと組んでるんでしょ」

「物好きだなあ」

 悪口というほどではない。けれど、近寄ってくる言葉でもなかった。レナティアはスープの器を前に置いたまま、どう返せばいいのか分からず、ただ「こんばんは^^」と打った。返事はひとつだけだった。

「ばんわ」

 その一つが、思ったより嬉しかった。

 次の夜には、別の吹き出しが浮いた。

「レナティアさん、薬草どこで取ってる?」

「山道の、白い花の群生のところです。葉の裏が銀色のものだけ摘みます」

「まじめか」

「はい^^」

「はいなんだ」

 それから、誰かが薬草の場所を聞きにくるようになった。誰かがニワトリの捕り物の顛末を笑うようになった。誰かが「火はだめです」と狸の真似をして、狸が「俺の持ちネタ取らないで」と抗議した。

 三日目には、テーブルに余ったパンのアイテムが置かれていた。

「食べていいやつ」

 そう書かれた札ふだが立っている。誰が置いたのかは分からない。レナティアが一切れ取っても、誰も何も言わなかった。何も言われないことが、少しだけ、受け入れられたように感じた。

「狸さん、今日は何番だった?」

「倉庫番だそうです」

「何番まであるんだろ」

「たぬさんは、いろんな番になれるそうです」

「便利だな」

 笑いが起きた。レナティアはパンをかじるモーションをしながら、笑われることと、一緒に笑うことは、ぜんぜん違うのだと知った。最初の日のくすくすは、あたしの外側で鳴っていた。今夜の笑いは、テーブルの上で鳴っている。

 歓迎された、とはまだ言えない。けれど、通りすがりの名前つきではなくなってきた。テーブルの端に、レナティアが座っていることを、何人かが知っている。そのくらいの距離だった。

「──で、隣の湾の弱小ギルド、また掲示板で晒されてる」

「見た見た。マスターの発言、切り貼りされてたやつでしょ」

「ほんとに言ったの? それ」

「さあ。でも祭りになってたし、もう解散するっぽいよ。抜けた人、何人かうち来てた」

「まあ、うちはでかいから。埋もれてれば燃えないでしょ」

 レナティアには、半分も意味が分からなかった。掲示板というのが、依頼の貼ってあるあの板ではなく、どこか別の、大きくて見えない場所を指していることだけは分かった。誰かがそこで燃えて、家を失って、この「でっかい巣」に流れてくる。

 ロロの言う「誰が来てもただいまって言える場所」は、そういう人たちの終着駅でもあるらしかった。

 ——何日目かの夕方、石段でジビエの串焼きアイテムを分けながら、狸がふと言った。

「しかしレナちゃんは、しっかりしてるよねえ。敬語だし、依頼はまじめだし。てっきり、リアルはいい歳の社会人なのかと思ってた」

「じゅうななさいです」

「れなさんじゅうななさい!?」

「じゅ、じゅうななです! 17! 数字で17!」

「あー、びっくりした」

「なんで頭に『れな』がつくんですか」

「昔、そういう冗談が流行っててさー。文字だとほら、『さんじゅうななさい』と見分けがつかないから」

「つきます。いまも、ついてませんでした」

「まあまあ。——え、でも、じゃあ、結婚できる年としじゃないじゃん!」

「現実では、女性は16歳から結婚できるんですよ」

「そうだっけ!? あ、でも、このゲームの結婚は十八歳からだよ」

「知っています」

「じゃあ、十八になったら、どっちと結婚するの!」

「どっちって、誰と誰ですか^^;」

「うひひ」

 狸はあっさり笑って、串の肉を頬張るモーションをした。それから、少しだけ真顔になった。

「でもさ。夜ふかしは、ほどほどにね。おじさんとの約束」

「たぬさん、おじさんだったんですか」

「狸だよ。狸の齢はふしぎなの」

 はぐらかされた。でも、心配してくれたのは分かったので、レナティアは「はい^^」とだけ返した。

 ——そして、その翌週。

 レナティアのレベルは、二十五になっていた。

 二十五は、節目の数字だった。この世界の大きな物語——メインストーリーは、レベル二十五で次の章へ進む。新しい章の行き先は、鉱山の奥。討つべき相手は、そこに棲みついた「若い竜」。推奨人数、四人。報酬は銀貨と、初回討伐の称号。

「ドラゴン!」

 依頼画面を開いたレナティアの目の色が変わったのを、狸は見逃さなかった。

「お、来たねえ。ドラゴン退治は英雄譚の花形だもんねえ」

「でも……あたしたち、英雄候補生ですよ? もうドラゴンと戦っちゃうんですか!?」

「戦っちゃうんだなあ。この世界、けっこう気前がいいから」

 しかも今度の狩場は、いつもの野っ原の続きではないらしい。鉱山の最奥は、扉をくぐったパーティーごとに切り離される、挑む者たちだけの特別な空間になっているのだと狸が言った。ここまでの冒険は、ぜんぶ広いフィールドの上だった。誰かが横を通って、手を振って、ときどき獲物を取り合う、地続きの世界。扉の奥は、初めてだった。

「四人用って書いてあります。あたしたち、二人です」

「あと二人は、自動で組んでくれるんだよ。ほら、ここ押して——」

 狸に教わって、マッチングの列に並んだ。しばらくして、二人組の相手が見つかった、と表示が出る。相手の頭上はどちらもナナシ。こちらの名前も、向こうに見えているはずだった。

『よろしくお願いします』

 レナティアが定型の挨拶を打った、その三秒後。

『すみません、抜けます』

『二人組なら、そっちでどうぞ』

 短い吹き出しがふたつ浮かんで、相手は消えた。マッチングの列に戻る気配もない。

「……あたしの名前の、せいでしょうか」

「んー。まあ、名前つきと組むと、あとで『あいつと組んでたやつ』って辿られるかもだからね。気にする人は気にするんだよ」

「ごめんなさい。たぬさんまで」

「なんで謝るの。——よし、決めた。二人で行こう。四人用を二人で行くの、冒険っぽいじゃん」

「でも、危なくないですか」

「大丈夫。俺、不死狸ふしだぬきだから」

「ふし、だぬき」

「死んでも戻ってくる狸。ぜんぜん死ぬけど、ぜんぜん平気」

「縁起でもないです」

「まあまあ。ポーションもいっぱい買ったし」

 狸のリュックには、赤いポーションの瓶がぎっしり詰まっていた。回復役に頼らず、自分の飲み薬でしのぐ。盾を持たない主義の狸なりの、生き残り方らしかった。

 鉱山の奥は、空気が冷えていた。

 壁に埋まった青い鉱石が薄く光り、足元には古い線路が延び、錆びた台車が傾いている。天井から落ちる水滴の音。奥へ進むほど、風の音が低くなって、やがてそれは、大きな生き物の寝息に変わった。