星猫くるるHOSHINEKO KURURU

カードアース

レナティア編 第一章 黎明(1/3)

レナティア編 第一章 黎明

 英雄になるなら、まず、名前がいる。

 少女は、そう思っていた。

 物語はいつもそうだった。竜を倒した者にも、魔王を封じた者にも、必ず名前があった。名前のない英雄の話を、少女は一冊も知らない。

 はじめは、いちばん上の世界に入るつもりだった。「おすすめ」の印がついた、いちばん大きくて、いちばんにぎやかな世界。

 名前の入力欄に、呼ばれたい名前を打ち込む。

 レナ。

『その名前は、すでに使われています』

「ええ……」

 世界中でいちばん最初に断られた気分だった。気を取り直して、後ろに音を足してみる。憧れの物語の姫の名前から、余っていた響きを借りてきたような、我ながら急ごしらえの名前。

 レナティア。

『その名前は、すでに使われています』

「ええー……」

 急ごしらえまで、先を越されていた。それからも思いつくかぎり打ちこんでみたけれど、ぜんぶ、とっくに誰かのものだった。いい名前は、早い者勝ちで狩り尽くされたあとだったのだ。しまいには機械のほうが気をつかって『レナ2847は、いかがですか』と勧めてきた。

 数字のついた英雄の話を、少女は一冊も知らない。

 お断りだった。

 世界を選ぶ画面まで戻ると、ひとつ下に、もうひとつの世界があった。印も飾りもつかない、静かな世界。入口に注意書きがいくつも並んでいたけれど、難しくてよく分からなかったので、ぜんぶに頷いておいた。

 名前の画面で、手が止まった。

 入力欄に、最初から文字が入っていたのだ。

 ——ナナシ。

 消していいのだろうか。少し迷ってから、少女はそれを消した。もういちどだけ、と願をかけて打つ。

 レナ。

『その名前は、すでに使われています』

「なんで、ですか」

 こんなに静かな世界でも、だめらしい。それなら、と、あの急ごしらえの名前を打つ。

 レナティア。

『ようこそ、レナティア。あなたの物語を始めましょう』

 通っとおった。呼ばれてみると、悪くなかった。レナはあたしで、ティアはおまけ。世界にひとりだけの名前が、こうしてできた。

 画面の中に立つレナティアは、薄紫の髪を高く結んだ、まだ幼さの残る少女だった。白い外套の裾が膝のあたりで揺れ、胸元には紫の小さな石が光っている。強そうには見えない。でも、物語のはじまりに立つ人は、だいたい最初は強くない。

 名前がほしくて、名前を捨てる人たちの世界へ来てしまったことに、少女はまだ、気づいていない。

 ——そうして少女、レナティアの冒険は、チュートリアルの町から始まった。

 その町では、誰もがレナティアに優しかった。

 道の真ん中に立つ老人の頭の上には、金色のびっくりマークが浮かんでいて、話しかけると「おお、勇者様さまの卵じゃな!」と声を出して喜んだ。行くべき場所は地図の上で光り、迷いそうになると道の端に小さな矢印が灯った。畑のカカシを三回叩けば剣の振り方を覚えたことになり、教官は「筋がいい! 君は英雄候補生だ!」と手放しで褒めた。

 英雄候補生。

 いい響きだった。あたしは候補生。まだ何者でもないけれど、何者かにはなれるらしい。

「最後に、旅の心得を教えよう」

 卒業試験のかわりに、教官は三つ教えてくれた。困っている人を見たら助けること。仲間の傷はすぐ癒すこと。それから——欠けたパーティーは、いちばん弱いところから崩れること。

「前に立って敵の怒りを引き受ける、盾の者。傷を癒す、祈りの者。敵を討つ、剣の者。誰も欠けなければ、誰も死なぬ」

「はい^^」

 顔文字は、教官には見えていなかったかもしれない。

 旅立ちの馬車は、町の門から出ていた。行き先の候補がいくつも並ぶ中で、レナティアは「海の見える街」を選んだ。理由は単純で、海を見たことがなかったからだ。

 馬車は本当に走った。乗ると視界が高くなり、車輪の音がして、畑と丘と風車ふうしゃが後ろへ流れていく。ただ移動するだけの時間が、もう楽しかった。御者のおじいさんが「よい旅を」と言ってくれたので、レナティアは深くお辞儀を返した。おじいさんが人間なのか、この世界の住人なのかは、よく分からなかった。どちらでも、親切は親切だった。

 やがて、画面の向こうに海が開けひらけた。

 コーベ、という街だった。

 港に面した白い石の街で、山の斜面へ向かって赤い屋根と青い屋根が段々に積み上がっている。広場には帆柱を模した街灯が立ち、ロープに結ばれた小さな旗が、決まった間隔でぱたぱた鳴っていた。坂の下では船が荷を下ろし、樽たると木箱が石畳に積まれ、肉を焼く屋台の看板と、薬草屋の緑の瓶が、海の青の手前できらきらしている。

「わ……」

 レナティアは、しばらく歩くのを忘れた。

 これだ。あたしが見たかったのは、こういうものだ。

 石畳を、たくさんの冒険者が行き交っていた。革鎧の人、ローブの人、大きな斧を担いだ人。けれど——歩きながら、レナティアはだんだん、妙なことに気がついた。

 すれ違う人の、頭の上。

 ナナシ。

 ナナシ。

 ナナシ。

 ……ナナシ?

 ほとんど全員が、ナナシだった。顔も装備も違うのに、名前だけがみんな同じで、遠目には巨大なひとつの群れに見える。あの入力欄の「ナナシ」を、この人たちは消さなかったのだ。

 どうして、と思った。呼ばれたい名前は、なかったんだろうか。

 広場のはずれに、古い倉庫を改装したような大きな建物があった。正面に木の看板がかかっていて、白いペンキの文字でこう書いてある。

 CE7743。

 暗号だろうか。扉の前の広い石段には冒険者が何人も座っていて、脇の掲示板には紙の依頼書がびっしり貼られ、その前でナナシたちの吹き出しが浮かんでは消えていた。人がいちばん集まっている場所。つまり、ここが酒場——物語で言うところの、冒険者の集う場所に違いない。

 英雄譚の、最初のページみたいな場所。

 レナティアは扉を押し、胸いっぱいに息を吸って、精いっぱいの声——精いっぱいの文字を打った。

「レナティアです! 一緒に旅をしてくれる勇者様は、いませんか!」

 しん、とした。

 太い梁。ランプの光。丸テーブル。壁一面の地図。カウンターで黙々とグラスを磨く白ひげの店主。天井近くに重なっていた吹き出しが、一拍だけ止まって——それから、さざなみみたいに、ひそひそが広がった。

「うわ、名乗ってる」

「名前つき、ひさびさに見た」

「勇者様募集ってなに、こわ」

「新手の商材?」

「前にもいたよねえ、名前つき。三日でナナシになってたけど」

「引っ越してった子もいたねー」

 くすくす。くすくす。そして吹き出しは、何事もなかったように元の話題へ戻っていった。カードアース1はもうずいぶん人が減ったらしいとか、前の時代のヤエスは殺伐としてたとか、昔の付術師はありがたかったとか、レナティアの知らない昔話ばかりだった。誰ひとり、こちらを見なかった。

 胸の奥が、ちりっとした。

 あたし、英雄候補生なのに。さっきまで、あんなに褒められていたのに。

「どももー。きみ、おもしろいねえ」

 間延びした声——文字が、すぐ後ろから転がってきた。

 振り返って、レナティアは目を丸くした。

 狸たぬきだった。

 二本足で立つ、信楽焼みたいな狸。立った耳の先が、ちょうどレナティアの首のあたりに来る。ぬいぐるみと呼ぶには大きくて、横幅もあって、重心の低い、妙に頼もしい体格だった。まるいお腹に、しましまの尻尾。腰には大ぶりの片手剣が一振りだけで、盾も鎧もなく、背中の大きなリュックだけが妙に立派だった。どこからどう見ても、勇者には見えない。

 そして、その頭の上にも「ナナシ」と浮かんでいた。

「たぬさんも、ナナシなんですね」

 たぬさん、と口が勝手に呼んでいた。狸だから、たぬさん。

「あー、俺ね、名前考えるのめんどくさくてさー。それより聞いてよ。俺、ここまでの修行? チュートリアル? あれ全部飛ばしてきちゃったんだよね。前の時代でさんざんやったし」

「ぜんぶ、とばした……?」

「うん。おかげで操作がいろいろ変わってるの知らなくて、初日に街なかで馬車に轢かれかけた。あぶないあぶない」

 自慢げに言うことだろうか。

「で、そのまま一人で野っ原の雑魚を倒してたら、レベルばっかり十五になっちゃってさー。そろそろ誰かと組みたいなーって思ってたのに、声かける相手がいないの。仕事が忙しくて出遅れたら、知り合い、誰もいなくて」

「それで、この街に?」

「そ。人がいちばん多い街だって聞いたから。……ねえねえ、きみ、勇者様探してるんでしょ。よかったら俺と組まない?」

「……たぬさんは、勇者様なんですか?」

「ぜーんぜん。見ての通りの狸だよ。剣は振れるけど、盾は持たない主義。来る攻撃は、ひらっと避けるよける。かっこいいでしょ」

 盾は持たない。それは教官の言っていた「前に立つ盾の者」とは、なんだか違う気がした。でも本人が「主義」と言うのなら、そういうものなのだろう。

「それにこの左手はね、いつか、とっておきを迎えるために空けてあるんだ」

「とっておき?」

「まだ秘密。ロマンだからね」

 かっこいいのかどうかは、分からなかった。でも。

 レナティアは、胸の奥のちりっとした場所を思った。この狸も、たぶん、同じだったのだ。

「……うん。ぜひ^^」

「やったぜー! 初めて友達できたぜー!」

 狸はいそいそとリュックから一冊の帳面を取り出した。背表紙せびょうしに「ともだち帳」と書いてある。開いた最初のページは、真っ白だった。その一行いちぎょう目に、狸はレナティアの名を書きつけた。

 ナナシ、ではなく。レナティア、と。

「これ、書くとどうなるんですか?」

「相手がどこにいるか、だいたい分かる。ログインしてるかも分かるし、連絡もできる。便利だよー」

「追いかけられたりも、します?」

「するね」

 狸の吹き出しは、そこで少しだけ、ゆっくりになった。

「だからこの島じゃ、あんまり気軽に書かない人も多い。名前を見せないのも、まあ、そういうこと。見つかりたくない人と、見つけられたくない人がいるんだよ」

 レナティアは、自分の名前が書かれた一行目を見た。

 見つけてほしい、と思った。この広い街で、誰もあたしを見てくれなかったから。

「あたしは、だいじょうぶです。たぬさんになら」

「……そ、そう?」

 狸の耳が、ぴこ、と動いた。

 二人で街を出ると、海沿いの道に、見たことのない景色が続いていた。片側には畑と風車、もう片側には白い柵と、きらきら光る海。狸はのんびり歩きながら言った。

「いやー、前の時代はこんなに綺麗じゃなかったよ。野っ原で知らないやつらと獲物の取り合い。横からかっさらったり、かっさらわれたり。今は敵も獲物も、ちゃーんと人数ぶん湧いてくれるんだから、平和だよねえ」

「そういうものなんですか」

 レナティアには、その平和のありがたみは分からなかった。生まれて初めての冒険が、この景色なのだから。

 道ばたの茂みから、ぬぼっと魔物が現れた。レナティアの背丈ほどもある、まるまる太ったカエル。

「狸の戦士、いっきまーす……っと」

 狸が剣を構える。カエルの舌がべちんと伸びる。狸はそれを、ひらりと——避けきれなかった。頬をはたかれて、ころんと転がる。

「いったあ。……あれー? 勘が鈍ったかなー」

「たぬさん、危ない!」

 考えるより先に、口が動いていた。

「ユカちゃん、タマちゃん、お願いおねがい!」

 教わったばかりの、癒やしの呪文。足元にユカちゃんの光が咲き、まるいタマちゃんが狸にふわりと寄り添う。狸の傷が、じわじわと塞がっていく。

「お、おお、効いてる効いてる! ——ていうかレナちゃん、その子ら、ユカとタマぁ?」

「精霊さんです。ユカちゃんと、タマちゃん。だめ、ですか」

「いや、いいね。そういうの、俺、好きだよ。うひひ」

 レナちゃん。

 ぴた、と足が止まった。

 誰も、あたしを、ちゃんづけでなんて呼ばなかった。名乗っただけで、くすくす笑われたのに。この狸は、当たり前みたいに、あたしをレナちゃんと呼んだ。

「……えへ^^」

「なに笑ってんのー」

「ないしょです」

 カエルは最後、狸の剣でべしゃりと潰れた。あんまり格好よくはなかった。英雄譚とは、ぜんぜん違った。でも、わるくなかった。

 その帰り道で、ひらひらと手を振る冒険者に出会った。

「やあやあ、そこのお二人さん!」

 線が細くて、顔立ちの整った男の人だった。ともすれば女の子にも見えるくらいなのに、装備だけがやたら豪華で、金きんの縁取りのマントに、ぴかぴかの肩当て、飾りの多い長剣。短い髪は淡い水色で、光を受けると銀色にも見える。いかにも「できる人」風なのに、笑い方がにやにやしていて、どこか軽薄だった。

 その頭の上の名前を、レナティアは目をこらして読もうとした。

 ——読めなかった。四角がふたつ、並んでいるように見える。伏字だろうか。ナナシですらない、もっと徹底した隠し方に思えた。

「俺ぁ、このへんで、でーっかいギルドのマスターをやっててねえ。見どころのある新人を見かけたら、こうして声をかけてんのさ。どうだい、うち入らない? CE7743ってんだけど」

「しー、いー、なな……?」

 どこかで見た並びだ、と思ってから、思い出した。あの倉庫の看板だ。

「『カードアース名無しさん』って読むんだよー」と、横から狸。「有名だよね。この島でいちばんでかいんじゃない?」

「いやあ、それほどでもあるけどねえ」

 謙遜の形をした自慢だった。

「あの……あたし、さっき、あそこの建物に入って、その、勇者様を募集して、無視されました」

「あっはっは! それはそれは。ま、気にしなさんな。あそこはうちの溜まり場でね、無所属の子がいきなり入ってきて大声出したら、みんな困って黙っちゃうのよ。うちの看板を背負えば、ちゃんと『ただいま』って言える場所になるさ」

 無視されたのは、あたしが余所者だったから。そういうことらしい。少しだけ、胸の重石が軽くなった。

 ふと、彼がレナティアの頭上を見て、不思議そうに首をかしげた。

「ていうかキミ、ちゃんと名前つけてるんだねえ。この島じゃ珍しい。レナティアさん、で合ってる? いい名前だ。由来は?」

「えっと……レナって入れたら、もう使われてますって言われて。それで、うしろに足したんです」

「ふうん、レナ。……まさかそれ、キミのほんとの——」

 彼はそこで言葉を切って、口を自分の手でふさいだ。

「——おっと。やめとこ。この島でそれを聞くのは、野暮ってもんだ」

 何を聞かれかけたのかは、なんとなく分かった。聞かれても、たぶん、困らなかったけれど。

 レナティアは、ずっと気になっていたことを、思いきって尋ねてみた。

「あの。大きなギルドのマスターさんでも、やっぱり、名前は隠さないといけないんですか?」