カードアース
レナティア編 第九章 星霜(2/2)
ナナシの海で、狸だけが「レナちゃん」と呼んでくれました。伏字みたいな名前の人が、耳打ちで、こっそり名乗ってくれました。名前を捨てさせる通達が出た夜に、あたしは石段で、精いっぱいの声で、あの人の名前を呼びました。名前がないと、呼べないから。呼ばれないと、いないのと同じだから。——人間だろうと、AIだろうと、呼べば振り向くものは、そこにいるのです。あたしの物語で確かなことは、結局、それひとつだけでした。そして、それだけあれば、十分でした。
カードアースは、あたしにとって、現実ではありませんでした。
これからも、現実ではありません。あそこで食べたごはんはお腹にたまらないし、あそこで死んでも、あたしは死にません。あの世界の胸は偽乳だし、あの世界のあたしは、ほんとうのあたしより、すこし背筋が伸びています。
ぜんぶ、わかったうえで、書きます。
それで、いいのです。
ここはファンタジーの世界で、あたしは、冒険をするために、ここにいるのです。現実の代わりでも、現実からの避難所でもなく——本棚に、物語の本が一冊あるように。人生に、もうひとつの世界が、ひとつあるだけ。本を閉じても本が嘘にならないように、ログアウトしても、あの冒険は嘘になりません。
たぬさんが人間でも、AIでも。
あの「どももー」が、十五年前と同じ喉から出ていても、いなくても。
……まあ、それでも、いいよね。
うん。いいのです。あたしが決めました。この章の筆者権限です。
*
最後に、事務連絡と、お礼を。
あたしがレナティア編を書きはじめたきっかけは、あの有名なインタビューの、最後の一言でした。この世界のほんとうの歴史は、プレイヤーの日記の中にある。そういう本が出たら、初版で買う、並んででも——と、あの偉い人が言ったのです。
真に受けました。
「一冊買う」の約束は、最後まで読むに変更しておきます。偉い人、逃げないでくださいね。もっとも、あなたもタクト編を書いてしまったので、もう共犯です。ベンチの話、あたし、好きでした。あたしの世界にはベンチはなかったけれど、かわりに、談話室の窓ぎわに、指定席がありました。あなたの言うとおりです。ほんとうの歴史は、ああいう席の記憶のことです。それから——「思い出の街」を作ってくれて、ありがとうございました。あの棚がなければ、あたしの章のごはんは、ぜんぶ絵のままでした。
それから、シックスさん。書いてよいことを、自分で決めてくださって、ありがとうございました。サナナさん。いちご大福の会は、またやりましょう。今度は「作家と編集長の会」でどうですか。
マイちゃん。次のライブ、前のほうの席で観ます。飛んでも減らない何かが、あなたには、もうちゃんとあると思います。
アーネさん。あなたが何者なのか、あたしはいまだに知りませんが、あなたのお茶の時間に、何度も助けられました。ここにいてくれて、ありがとう。
ロロさん。もし、どこかでこの本を読んでいたら。あなたの巣の「ただいま」を、あたしはぜんぶ覚えています。あの半年は、勝ち逃げなんかじゃなくて、ただの、勝ちでした。……それから、隅の椅子の子は、元気ですか。
そして、たぬさん。
あなたはたぶん、この本を読んで、「俺、こんなにかっこよく書かれていいのー?」とか言うのでしょう。いいのです。多少盛りました。偽乳の世界の作法です。
今夜も、いつもの朝市で待ち合わせです。地図の白いところは、まだ半分も埋まっていません。りんご飴は、二本でいいです。三本目は、いつか、とっておきの誰かが左手に来た日に。
——それでは、みなさん。
あなたの世界にも、よい冒険がありますように。呼べば振り向くだれかが、いますように。
友達帳の一行目は、いつでも、空けておいてくださいね。
——レナティア(ほんものの、はず)