星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第一編 ミステリー編

第一編 ミステリー編


第一話 舟屋で目を覚ます

八月十六日、未明。

最初に分かったのは、板の匂いだった。水を吸って乾き、また吸った木の匂い。次に、頬の下にある毛布の目の粗さ。三番目に、頭の重さ。

目を開けても暗かった。目が慣れるまで、数を数えた。三十まで数えたところで、屋根の隙間から入る細い光が見えた。月の光だった。光は斜めに床へ落ち、そこだけ板目が白く浮いていた。

外で男の声がした。

「旦那様が、桟橋から――」

続きは水音と、別の誰かの叫び声で消えた。足音が二つ、三つ、板の上を走っていく。金具が杭に当たる音が、遠くで何度も鳴った。舟を繋いだ鎖の音だろう、と思った。

起きようとして肘をついたところで、私は一度止まった。身体が小さい。肘から手首までの長さが、私の知っている腕の三分の二ほどしかない。指を開くと、爪が小さく丸かった。

そこで、二つの記憶が同時に来た。

ひとつは、この身体の持ち主のものだった。天導瑠璃、十歳。帝都の天導家、その分家の娘。毎年八月は、湖の別荘・星見荘で盆を過ごす。昨日は十五日で、灯籠流しの宴があった。

もうひとつは、別の女のものだった。白石澄、二十九歳。損害保険会社の事故調査部に七年いた。車両事故、火災、工場での転落。現場を見て、写真を撮り、関係者に話を聞き、報告書を書く。報告書の一行目には、いつも日時と場所を書いた。

白石澄の最後の記憶は、火曜の夜の帰りの電車だった。その先はない。どうしてここにいるのかは分からない。分からないことは、分からないと書く。それが仕事だった。

分かっていることを先に並べる。

私は、この名前を知っている。

休日に遊んでいた乙女ゲーム『帝都恋綺譚』の、悪役の令嬢の名前だ。十八歳の成年披露の夜、主人公の小野澪に断罪される人。エンディングの一枚絵で、瑠璃は船の甲板に一人で立っていた。背中しか描かれていなかった。

私は毛布の上で自分の手を見た。あの背中の、八年前の手だった。

 *

ゲームがこの夜に割いた分量を、私は覚えている。TRUEルートの終盤、回想の一枚絵が一枚と、地の文が十数行。何度も読み返したから、ほとんど暗唱できる。

ゲームでは、この夜は事故として処理され、八年後に澪が真相を明らかにする。そのあいだの十七歳の冬に、ゲームの瑠璃は母の家計簿と弁護士の封書を暖炉で焼く。

私はその記録を三度、頭の中でなぞった。それから、仕事のときと同じ問いを立てた。この記録は、誰が、何を見て書いたものか。

答えは簡単だった。ゲームは澪の目で語られる。湖の夜の舟屋の中は、画面に出ない。十一歳の澪はこの夜、番人小屋で寝ていたはずだ。舟屋の中を見た者は、記録の中に一人もいない。

もう一つある。記録の真相は、焼かれたあとに残った紙で組み立てられている。家計簿と封書に何が書いてあったのか、ゲームは一行も見せなかった。瑠璃が焼いた、という事実だけが残っている。

燃えた書類を抜いて出された結論を、私は仕事で何度も見た。たいていは間違っていない。そして、たいていは全部ではない。

だから、今言えることは少ない。ゲームでは、この夜はこう終わる。ゲームは、それ以上のことを保証しない。

 *

外の声は増えていた。

「舟を出せ」

「番人はどこだ。小野はどこにいる」

二つ目の声は伯父のものだった。低く、よく通る。十歳の瑠璃の耳が、それを覚えていた。

私は四つ這いで床を進んだ。脚に力が入らない。膝が板に当たるたびに、頭の奥が遅れて揺れた。薬だ、と白石澄が言った。酒でも熱でもない。事故を起こした運転手の聴取で、同じ揺れ方をする人を何人も見た。まぶたが重く、言葉の前に一拍空く。

舟屋の戸は半分開いていた。隙間から湖が見えた。

黒い水面に灯籠が浮いていた。数えた。岸に近いところに七つ。沖へ流れていくものが、見える範囲で十一。桟橋の杭に引っかかっているものが二つ。合わせて二十。そのうち三つは火が消えていた。現場に着いたら、まず動いているものを数える。止まってから数えても、動いていたときのことは分からない。

沖の灯籠は、岸からずいぶん離れている。流されてから時間がたっている。騒ぎのほうは、今始まったばかりの声だった。灯籠が流れてから人が騒ぎ出すまでに、間がある。私はその間を覚えておくことにした。意味は、まだ分からない。

桟橋は舟屋の右手、三十歩ほど先から湖へ延びている。付け根に提灯が四つ集まっていた。人影は六つか七つ。先端のほうには灯りがない。灯りの届くところまでで、桟橋の板は途切れていた。途切れた先の水の上に、何かの影が斜めに突き出ている。折れた柱の上半分だと思った。

救命舟は、まだ桟橋の脇に繋がれたままだった。

私は戸から手を離した。

十歳の脚で走っても、あの水には届かない。届いたところで、何もできない。ゲームでは、宗一郎が見つかるのは朝だ。その一行を、私は信じたくなかった。信じたくないことと、外れることは違う。

星見荘の大時計が、遠くで一つ鳴った。一時。

おじさま、と瑠璃の口が勝手に動いた。

本家のおじさまは、毎年、私に星の話をしてくれた。痩せて背の高い人で、髪にはもう白いものが混じっていた。帝都の屋敷に時計ばかりの部屋があって、そこへ入れてもらえる子どもは私だけだった。おじさまの指は、時計の裏蓋を開けるときも、私の髪に何かを留めるときも、同じように器用に動いた。去年の誕生日には、銀の星の髪飾りをくれた。十歳の瑠璃の記憶には、そういうことが細かく、たくさんあった。

白石澄は、その人を画面の中の一行でしか知らない。

どちらの記憶も、あの人は今夜もう戻らないと言っていた。

涙は出なかった。薬のせいかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 *

私は床に座り直し、仕事の手順に戻った。現場は、最初に入った者が壊す。だから、壊される前に見る。

月の光が落ちている範囲で確かめられたことは、次のとおりだった。

  • 舟屋の床板は、戸口から三歩ぶんが湿っている。湖の飛沫と夜露。戸口の砂が、湿った板の上に筋になって残っている。
  • その湿った板の上に足跡がある。大人の草履の跡が、戸口から私の寝ていた場所まで往復で一筋。形のはっきりしたものが五つ。
  • 私の足跡はない。私の足袋の裏は白く乾いていて、砂が一粒もついていない。
  • 私は、網の束の上に重ねた毛布に寝かされていた。頭の下に、もう一枚丸めてあった。
  • 口の中が甘い。糖蜜の甘さで、奥に少し苦みがある。宴で子どもに出されるのは冷やした麦湯で、糖蜜ではない。
  • 毛布から香の匂いがする。白檀に、花のような甘いものが混じった匂い。

最後の一つは、十歳の瑠璃がよく知っている匂いだった。母の部屋の匂いだ。

私はそこで、考えを先へ進めるのをやめた。

足跡が言うのは、私が自分で歩いてここへ来たのではない、ということだけだ。毛布の匂いが言うのは、この毛布が母の部屋を通った、ということだけだ。誰が私を運んだか。誰が糖蜜を飲ませたか。物はそこまでは言っていない。

ゲームは、母が兄に命じられて娘を眠らせた、と言う。私の見た物は、それと矛盾しない。矛盾しないことと、裏が取れたことは違う。

宴の最後の記憶を探した。

提灯の下の縁台。母の隣。向かいに伯父と、本家のおじさま。一臣さまは少し離れて湖を見ていた。背の高い、口数の少ない従兄で、宴の席でも膝に本を置いていた。

父の席は空いていた。夕方、本社から至急帰れという電報が来て、父は五時の汽車で帝都へ戻ったのだ。行きたくないなあ、と父は日に焼けた大きな手を私の頭に置いて言った。それが、十歳の瑠璃の覚えている最後の父だった。

お絹が女中頭に呼ばれ、台所へ立った。すぐ戻ります、と言った。

その先がない。

お絹が戻ったのか、戻らなかったのか。私は灯籠を流したのか。何を飲んだのか。十歳の瑠璃の記憶は、糸が切れたようにそこで終わっていた。

切れた場所を覚えておくことにした。調査でいちばん大事なのは、たいてい、証言が途切れる場所だ。

 *

外で女の声がした。

「瑠璃! 瑠璃はどこ!」

声は近づいてきて、舟屋の前で止まった。戸が大きく開いた。提灯の光が、真正面から私の目に入った。

母だった。

天導藤乃。三十四歳。細身で、女にしては背が高い。切れ長の目をしていて、その形は、十歳の瑠璃が鏡で見慣れた自分の目と同じだった。髪が片側だけほどけて、肩に落ちていた。宴のために着た、紅と白の大きな花の浴衣に、薄物を羽織っている。その袖が片方ずれていた。提灯を持つ手が震え、光が床の上で揺れた。

母は提灯を床に置き、膝をついて私を抱きしめた。

強い腕だった。座り込んだ十歳の身体は、膝をついた母の胸にちょうど収まった。母の胸は熱く、心臓が速く打っていた。毛布と同じ香の匂いがした。母は泣いていた。声を殺さずに泣いていた。瑠璃、瑠璃、よかった、よかった、と何度も言った。外の男たちにも聞こえる声だった。

私は母の肩越しに戸口の床を見ていた。提灯の光で、さっきの足跡がよく見えた。母はその上に膝をついていた。五つのうち二つが、母の膝の下になった。

現場は、最初に入った者が壊す。

母の腕が少しゆるんだ。泣き声が一度途切れた。母は私の髪を撫で、そのまま唇を私の耳に寄せた。

「何も覚えていないわね」

小さな声だった。問いの形をしていなかった。外には届かない声だった。

十歳の瑠璃なら、何と答えただろう。母が怖いとき、瑠璃はいつも、母の欲しい答えを先に探した。

白石澄は、別のことを考えていた。ここで「覚えています」と答えた子どもが、この先どう扱われるか。ゲームは何も言っていない。ゲームにないことを、今の私は予測できない。

それに、私は本当に何も覚えていない。お絹が台所へ立ったところから先は、何も。

「はい」

と私は言った。

母はもう一度、私を強く抱いた。それから、また声を上げて泣いた。外に聞こえる声で。

 *

母は私を立たせようとした。膝が言うことをきかなかった。母は私に背を向けてしゃがみかけ、途中でやめて、戸の外へ言った。

「誰か来て。この子が歩けないの」

村から手伝いに来ていた男が一人走ってきて、私を背負った。汗と、湖の水の匂いがした。母は男の横を歩き、私の手を握って離さなかった。

舟屋を出たとき、大時計が半を打った。一時半。

桟橋の付け根に人が増えていた。救命舟は、ようやく水に出ていた。櫂を握っているのは、番人の小野さんだった。四十過ぎの、首の太い人だった。番人小屋から走ってきたのか、寝間着の上に何も羽織っていない。舟の灯りが、折れた桟橋の先の水を行ったり来たりしていた。

「番人を呼んでも来なかった」と、伯父が誰かに言っていた。「あれだけ呼んだのに」

小野さんの舟の灯りは、何も見つけなかった。

私は男の背中から、湖の灯籠をもう一度数えた。火の消えたものが五つに増えていた。

ゲームのとおりなら、あの人は朝まで見つからない。小野さんは秋までに職を失い、父は帰ってこない。私は母の手で育てられ、八年後、成年披露の夜に断罪される。

失ったものを、報告書の損害の欄のように並べた。おじさま。父。番人の一家の暮らし。それから、まだ起きていない八年分の私。

十歳の瑠璃は、知らない男の背中で、母の手を握り返していた。その内側で、私は報告書の一行目を書いた。

八月十六日、午前一時。星見荘、舟屋。

調査は、ここから始まる。今度は、何も焼かずに済む方法で。