天導ルリカは生まれるのを止めた
第三話 帳簿を読む子
第三話 帳簿を読む子
十二歳の春から、十四歳の冬まで。
*
十一歳の春、母と私は本家へ移った。
十二歳の四月、佐伯の帳簿の整理を手伝わせてもらうことになった。
きっかけは、算術の成績だった。学院の教師が、天導さんは数字の並びを見るのが上手い、と母に言った。母は喜んだ。母は、私が褒められると、そのたびに少し長く私の髪を撫でた。
「佐伯の手伝いをしてごらんなさい。家のことを覚えるのは、あなたのためになる。見るのは、本家の帳簿だけでいいの。私の帳面は、私がつけます」
母は、私の手の届く帳簿を、先に決めた。
佐伯は本家の家令で、五十を過ぎた、口数の少ない人だった。背が高く、白髪まじりの頭をきちんと撫でつけていた。本家の支払いの帳簿を、年ごとに綴じて保管している。私はその綴じ直しと、古い帳面の目録作りを任された。
最初の日、佐伯は私に言った。
「帳簿は、書いた者の癖が出ます。癖を覚えると、どこが違うかが分かります」
「違う、というのは」
「いつもと違う書き方をしているところです。急いでいたか、人に言われて書いたか。そういうところには、たいてい、あとで訊かれることがある」
白石澄は、その言葉を気に入った。仕事で先輩が同じことを言っていた。領収書の束は、書いた者の癖で読め。
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十二歳の夏、私は八月の帳簿に辿り着いた。
二年前の、湖の年の帳簿だった。私は佐伯のいない時間に、それを開いた。開く理由は、目録作りだった。目録を作るには、中を見なければならない。
八月の頁は、他の月より行が多かった。葬儀の費用、湖からの運送、弔問客への返礼。
十五日の欄に、一行だけ、他と違う字があった。
車代 辰巳 帝都往復
辰巳は、伯父の商会の手代だった。湖の年に二十八で、商会の帳場より、伯父の用事で方々へ使いに出ていることのほうが多い男だった。盆の湖行きの費用は、毎年本家が持つ。だから分家の者の車代も、本家の帳簿に載る。
十五日は、湖の宴の日だ。伯父は十二日から湖にいた。十五日に精算された、辰巳の帝都往復の車代。辰巳は、その日、湖にいなかったのかもしれない。
私は帳面を開いたまま、しばらくその一行を見ていた。
父に電報が来たのは、十五日の午後三時だった。本社から、至急帰京せよ。本社はそんな電報を出していなかった。
電報は、どこかの電信局から打たれている。受け取った紙には、打った局の名が入る。湖の近くの局から打てば、局の名で分かってしまう。本社から打ったように見せるには、本社のある帝都の局から打つしかない。
誰かが、十五日に、帝都にいなければならなかった。
私は目録の用紙に、何も書かなかった。その夜、自分の帳面に書いた。
湖の年 八月十五日 本家支払帳 車代 辰巳 帝都往復
辰巳=伯父の商会の手代
偽電報は帝都から?(未確認)
ゲームでは、伯父が偽電報を打たせたことになっていた。この一行は、それと矛盾しない。矛盾しないことと、裏が取れたことは違う。けれど、一つの紙が、ゲームと同じ方向を指していた。
私はそれを、少しだけ嬉しいと思った。嬉しいと思ってから、人が一人死んだ日の帳簿を読んで嬉しがっている自分に気づいて、帳面を閉じた。
*
十二歳の秋、母に珈琲の淹れ方を教わった。
母の居間で、宗一郎が外国から持ち帰った挽き具を使った。母は挽き方を細かく教えてくれた。私が淹れたほうは薄かった。
「薄い」と母は言った。「でも、湯の落とし方は上手」
母は窓のほうを向いて、それから、低い声で話し始めた。
兄に後見を奪われたこと。自分の生まれた分家には初代の血がないこと。この家では、自分は最後まで客だということ。宗一郎は、決めない人だったこと。
「奥様が亡くなってからも、あの人は何も決めなかった」と母は言った。「家の決めた方を、家の決めた日にお迎えすることにしただけ。決めたのは、あの人ではないの」
奥様というのは百合子さまで、家の決めた方というのは静子さまのことだった。百合子さまが亡くなったのは、私が八つの春。おじさまと静子さまの婚約が決まったのは、九つの冬。十歳の瑠璃の記憶の中で、その二つは、大人たちが声を低くして話していた季節として残っていた。
十歳の瑠璃なら、この話を聞いて泣いただろう。母がかわいそうだと思っただろう。
白石澄は、話を聞きながら、話の形を見ていた。
母の話には、日付がなかった。いつ兄に何を言われたのか。いつ何を知ったのか。母は「あの年」「あのとき」とだけ言った。日付の代わりになっていたのは、奥様が亡くなってから、という一か所だけだった。そして、母の話の中で、母はいつも何かを奪われる側にいた。
本人の話は、本人に都合がいい。私もそうだ。調査の聴取で、自分を悪く言う人はいない。悪く言わないことは、嘘をついていることと同じではない。ただ、それだけで事実の場所に置いてはいけない。
「かわいそう」
十歳の瑠璃の声で、私は言った。
母は、少し笑った。
「あなたは優しい子ね」
その夜、帳面に書いた。
十二歳秋 母の話 兄に後見を奪われた 日付なし
「奥様が亡くなってからも、あの人は何も決めなかった」
何を決めなかったのか (未詳)
母は「知らなかった」とは言っていない
最後の一行を、私はしばらく見ていた。母は、奪われたとは言った。知らなかったとは、一度も言わなかった。
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十三歳の秋、天導一臣が、婚約のことを先に私に言いに来た。
伯父の息子で、十九歳。背が高く、眉がまっすぐで、口数が少ない。本家へ来るときも、たいてい一冊、本を小脇に抱えていた。分家の商会の仕事をしていて、月に何度か帳簿を届けに本家へ来る。私は挨拶をするだけの間柄だった。
「父たちが、あなたと私の婚約を進めようとしている。嫌なら、私の父に言う」
ゲームの一臣は、婚約者の瑠璃に冷たかった。婚約は父たちの取り決めで、一度も話したことがない、と澪に言う人だった。
目の前の一臣は、話しに来た。
私は、少し考えさせてください、と言った。彼は、いくらでも、と言った。
その夜、帳面の三頁目に、小さく書いた。
一臣 ゲームと違う
それから、その行を線で消した。調査の記録ではないと思った。消した線の下で、字はまだ読めた。
*
十四歳の冬、母の家計簿を見つけた。
探していたわけではなかった、と言えば嘘になる。ゲームの瑠璃は、十七歳の冬に母の家計簿を焼く。焼くためには、それがどこにあるのかを知っていなければならない。瑠璃は知っていた。なら、この家のどこかにある。
私は二年かけて、母が留守のときに、母の居間を一か所ずつ見た。見て、何も動かさずに出た。
文机の二段目には古い鉄の錠がついていて、違い棚の小箱にあった鍵で開いた。
見つけたのは、その奥だった。藍色の表紙の、古い帳面。表紙の年号は、湖の年だった。
家計簿だった。母の字で、呉服、炭、氷、書生の月謝、車代。几帳面な字で、月の合計まで出してある。
同じ字で、別の記入があった。
四月 薬
四月 薬
五月 薬
五月 薬
六月 薬
七月 薬
七月の欄の余白に、四つの語。
八月 湖 灯籠 舟屋
私は、帳面を持ったまま、しばらく動かなかった。
ゲームでは、母は兄に命じられて娘を眠らせた。兄が妹に計画を持ちかけたのが、いつだったか。ゲームははっきりとは言っていなかった。ただ、伯父が親族会の三人に根回しを始めたのは、七月だった。澪の手に渡る伯父の下書きの日付が、七月だから。
薬は、四月から買われていた。
私は、帳面の最初の頁の問いを思い出した。迷子の子が、薬を飲んでいたのはなぜか。
その下に、何を書き足すべきか、私にはもう分かっていた。分かっていて、ペンを取らなかった。
十歳の瑠璃が、私の中で首を振っていた。
*
私は、帳面を持ち出さなかった。
持ち出せば、母は気づく。母は、この帳面が今もここにあるかを、ときどき確かめているはずだ。私が母なら、そうする。気づけば、母は何かをする。何をするかは分からない。分からないことを起こしたくなかった。
焼かないことも、決めてあった。ゲームの瑠璃は焼いた。焼いたから断罪された。
では、どうするか。
本家の星の間には、宗一郎の遺品の写真機がある。蛇腹の、三脚に載せる古い型だ。乾板が何枚か、箱に入ったまま残っている。宗一郎が生きていたころ、私に一度、撮り方を教えてくれた。十歳の瑠璃の記憶に、それがあった。
二月、母が親戚の家の茶会に招かれ、泊まりがけで出かけた夜、私は写真機を母の居間へ運んだ。十四歳の腕には重かった。三脚の脚を一本ずつ伸ばした。灯りを二つ寄せた。
家計簿の四月から七月の頁を開いて、一枚ずつ撮った。乾板は四枚使った。余白の四語が入るように、最後の一枚は少し引いて撮った。
撮り終えて、帳面を元の位置に戻した。文机の二段目の奥。表紙の向きも、元のとおりに。
写真機を星の間に戻したのは、夜中の二時だった。
乾板は、自分で現像しなかった。現像のしかたは知らなかったし、薬品もない。露光した乾板を、黒い紙に包んで、鏡台の底板の下に入れた。像が本当に写っているかどうかは、分からない。分からないまま、底板を戻した。
その夜、帳面に書いた。
十四歳冬 母の家計簿 文机二段目奥 湖の年
薬 四月から六回(四月二、五月二、六月一、七月一)
余白 八月 湖 灯籠 舟屋
原本はそのまま 乾板四枚 鏡台底
その下に、十歳の瑠璃が覚えている季節と、今夜見た物を並べた。
八歳の春 百合子さま亡くなる
九歳の冬 おじさまと静子さまの婚約
十歳の四月 家計簿に最初の「薬」
十歳の七月 伯父の根回し(ゲームの下書きの日付)
十歳の八月十五日 湖
十歳の十月 婚礼の予定 取りやめ
並べてみると、薬が始まったのは婚約の四か月あとで、婚礼の半年前だった。婚約と薬のあいだに何があったのかは、どの紙にも書いていない。
それから、一行空けて、最初の頁の問いの下に書き足した。
薬は、伯父の根回し(七月)より先、四月から買われている。
書いたのは、それだけだった。
その先の一行――だから母は、兄に命じられる前から動いていた――を、私は書かなかった。
白石澄は、それを書くべきだと言った。物が指している方向を、書かずに置くのは、調査員の怠慢だ。
十歳の瑠璃は、書くなと言った。
私は、二人のどちらにも従わずに、帳面を閉じた。四月の二行は、伯父に言われる前から妹が眠れなかった、ということかもしれない。そういう可能性も、まだ消えていない。消えていないうちは、書かなくていい。
それが言い訳だと、私は分かっていた。
分かっていて、その冬、私はその一行を書かなかった。