星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第六話 母の先手

第六話 母の先手

十七歳の十二月から、十八歳の四月二十日まで。

 *

十二月、佐伯が星の間の目録を作り直し始めた。

成年披露の日に、家の習わしで、本家の財産は後見の手を離れて私に引き渡される。宗一郎の遺品もその中にある。四十三の時計、望遠鏡、蔵書、写真機。佐伯は一つずつ番号を振り、古い目録と突き合わせた。私はそれを手伝った。十二歳の春からの、いつもの仕事だった。

写真機の番で、佐伯は乾板の箱を開けて数えた。

「四枚、少のうございますな」

指で押さえた古い目録は、宗一郎が亡くなった年の春に佐伯自身が作ったものだった。乾板、十二枚。箱の中は八枚。

「旦那様が最後の夏にお撮りになったのでしょう。焼いたものは、お部屋から出てまいりませんでしたが」

佐伯は新しい目録に、乾板八枚、と書き、備考の欄に小さく、四枚不明、と添えた。

「この目録は、どなたが見るのですか」

「お引き渡しの日に、後見人の伯父様と、奥様にお目通しいただきます」

そうですか、と私は言った。声は普段どおりに出た。

四枚。十四歳の二月、私が母の居間で使った数だ。

佐伯は、四枚を宗一郎が使ったと思っている。目録を読む人も、たぶんそう読む。四枚不明、という一行から、私の鏡台の底板までは遠い。

そう考えて、私は次の時計の番号を読み上げた。

 *

正月の三日、母の居間に呼ばれた。

母は文机の前ではなく、火鉢のそばにいた。膝の上に、台紙に貼った写真が十枚ほどあった。

「佐伯の目録を見ていたら、思い出して」

一枚目は湖と桟橋。二枚目は星見荘の庭。三枚目に宗一郎がいた。縁台に座って、何かを言いかけて笑っている。私が覚えているより若かった。

「これだけは、あの人が撮ったのではないの」母は三枚目を指で押さえた。「私が撮ったのよ。あの人に教わって」

母が写真の話をするのを、私は初めて聞いた。

「あの人は、何を決めるのも遅い人だった。婚礼の日も、家のことも、何もかも。でも、写真を撮るときだけは早かった。三脚の脚を一本ずつ伸ばして、灯りを寄せて、すぐに決めた」

三脚の脚を一本ずつ、と母が言ったとき、私は十四歳の二月の夜を思い出した。思い出しただけだった。三脚の脚は、誰が伸ばしても一本ずつ伸びる。

「あなたも教わったでしょう。十の年に」

「少しだけ」

「覚えている?」

「あまり」

母は、そう、と言って笑い、三枚目をいちばん上に戻した。宗一郎の笑った顔の端を、指がまだ押さえていた。

母はこの人を好きだったのだ、と思った。そして、決めないこの人を、許さなかった。

十歳の瑠璃が、母の膝の写真に手を伸ばしかけた。私はそれを止めた。

帰り際に、母は言った。

「成年の日には、星の間の物は全部あなたの物になるのね。写真機も。大事になさい。あの人の物だから」

 *

二月の半ば、母が茶会で家を空けた夜、私は三年ぶりに母の居間へ入った。

確かめておきたいことが一つあった。披露の夜、私は写しを出し、原本は母の文机にあると言うつもりでいる。誰かが確かめに行けば、写しは写しでなくなる。そのために、原本が今もそこにあることを見ておきたかった。

文机の二段目の錠前が、替わっていた。

三年前の錠は古い鉄のもので、鍵は違い棚の小箱に入っていた。今ついているのは、新しい真鍮の錠前だった。鍵穴のまわりの木に、釘の跡が四つ、まだ白く残っていた。取り付けて何か月もたっていない。

違い棚の小箱には、古い鍵だけが残っていた。差してみることはしなかった。合わないのは見れば分かった。こじ開ければ跡が残る。跡が残れば、母は気づく。

自分の部屋へ戻り、鏡台の底板を外した。黒い紙の包みが一つ、写しの封筒が一つ。乾板四枚、写し四枚。黒い紙の折り目は、私が折ったとおりの順だった。

底板を戻して、考えた。

四月二十日に後見が終わる。八年近く、この家の鍵を預かっていたのは伯父だった。その手が離れる前に、母は自分の物を自分で閉じた。伯父に見られたくない物が、あの引き出しにある。

人は、空の引き出しに新しい鍵をつけない。原本はあの中にある。鍵が、それを教えている。

帳面を開いた。

 成年前の変化(十二月〜二月)
  十二月  星の間の乾板 四枚不明(佐伯の目録) 佐伯は宗一郎の使用と解している 目録は伯父と母が見る
  一月三日 母が写真の話をした(初めて) 遺品の目録を見たため
  二月   文机二段目の錠前が新しい 伯父への備え 原本は在るとみる(確認できず)
  鏡台の底 乾板四・写し四 異常なし
  三村の封書 ゲームでは十七歳の冬に焼かれる この冬、所在不明
  母が私の調べに気づいた可能性 低い

最後の一行を見た。

低い、の横に根拠を書こうとした。書けるのは、鏡台の底が元のままだということだけだった。一つの根拠で判断の欄を埋めるな、と白石澄は新人のころに教わった。

私はその一行を消さず、書き足しもしなかった。四月二十日まで、あと二か月だった。

 *

三月、澪の下宿で最後の段取りをした。

出す順番は澪が決めた。遺書、処方簿、下書き、お絹の話、父の話。お絹と父は、早瀬さんが前の日に帝都へ連れてくる。

「お父上は、当日まで瑠璃さんには会わないそうです」と早瀬さんが言った。「会えば、顔に出るから、と」

父らしい、と思った。七年半会っていない人を父らしいと思える自分が、少し不思議だった。

一臣さまは、澪が下書きを出すとき、その隣に立つと言った。

「私が見つけた物だ。父の前で、私が見つけたと言う」

婚約のことは、誰も口にしなかった。

帰り際、草履を履きかけた澪に、私は言った。

「披露の夜、小野さんのあとに、わたしも出すものがあります」

澪は手を止めた。

「物で、裏が取れたんですね」

「取れました」

澪は、何を、とは訊かなかった。九月の、分かった、と同じ顔をしていた。

「天導さんの順番は、天導さんが決めて。私は私の順番で出す」

 *

四月二十日、十八歳の誕生日の朝、三村さんが本家へ来た。

宗一郎の代からの弁護士で、小柄で、灰色の髪を短く刈った人だった。声が低かった。私一人に会いたいと言った。母は朝のうちに髪結いへ出ていた。

応接間で、三村さんは革の鞄から封蝋を押した封筒を出した。

「旦那様のご遺言により、成年披露の朝に、ご本人へお渡しいたします」

「母には」

「ご遺言は、ご本人に、とだけ」

中には三つの物が入っていた。

一つ目は、遺言認知の写し。天導宗一郎は天導瑠璃を自分の子と認める、この遺言は遺言者の死亡の時に効力を生ずる。日付は、私が九つの年の十二月、暮れの押し詰まったころだった。

「認知の届は、あの年の九月、親族会のご了承を得て済ませてございます。表向きは、ご養女として」

二つ目は宗一郎の字の便箋一枚で、宛名はなかった。

 私たちの子に、名を考えた。女の子なら、瑠璃という。君がよいと言えば、そうしたい。
 銀細工屋に、星を一つ頼んだ。

日付はなかった。女の子なら、と書いてあるから、私が生まれる前の字だった。名を考えた人は、名を決めるのも、相手に預けていた。星を頼んだのも、生まれる前だった。私がその星をもらったのは、九つの誕生日だった。

三つ目は母の字だった。宗一郎に宛てた手紙で、日付は認知の紙と同じ年の十二月の初め。

 静子さんとのお話が決まったと伺いました。
 あなたが生きているあいだは、この子は恭介の子のままで構いません。あなたが決めない人だということは、もうよく分かりました。
 ですから、せめて、あなたが亡くなったときにだけ効く紙を、この子のために書いてください。三村さんに預けてください。
 私はもう待ちません。

私は三つ目を二度読んだ。

推理の四段目が、母自身の字で埋まった。宗一郎が死ねば私が跡取りになる。母はそれを知っていた。知っていたどころか、その紙を書かせたのは母だった。

日付を並べた。母の手紙が九つの年の十二月の初め。認知の紙が同じ月の終わり。おじさまと静子さまの婚約が決まった月だった。薬は翌年の四月から。婚礼は十月。

紙ができる前におじさまが死んでも、私は恭介の子のままで、誰も何も得ない。婚礼のあとでは、紙の値打ちは薄れていく。死んだときに効く紙があって、おじさまがまだ結婚していない。その二つがそろっているのは、十二月から十月までの十か月だけだった。母の計画は、その十か月の中でしか意味を持たなかった。

私はもう待ちません、と母は書いていた。何を待っていたのかを、手紙は言っていない。待つのをやめた日付だけが書いてあった。

「三村さん。母は、この手紙がここに入っていることを知っていますか」

三村さんは少しのあいだ私を見た。

「私は、ご依頼人の言葉をお運びするだけです。それ以上は、ご依頼人が亡くなられたあとも申し上げられません」

一礼して、三村さんは帰った。

帳面の、所在不明、の横に、四月二十日、三村さんより、と書き足した。封書の在りかだけは分かった。ゲームでは十七の冬に燃えたはずの封書が、なぜここでは十八の朝まで届かないのかは、分からないままだった。

封書は、乾板の写しと一緒に、今夜の手提げの底に入れた。

 *

夕方、髪結いから戻った母が、私の部屋へ来た。

着物は母が選んだ振袖だった。黒地に、袖と裾の縁だけが深い紅で取ってある。天導の家では、本家の血筋の子が成年披露に黒地を着る。養女の私にそれを着せると決めたのも、母だった。お絹の後に私付きになった女中が帯を締めて下がると、母は私を鏡台の前に座らせた。

母の手に、銀の星があった。宗一郎が私の九つの誕生日にくれた髪飾りで、湖の年の親族会のあとは、ずっと母の手文庫にしまわれていた。

「今夜はこれをつけていなさい」

母は星を、左の鬢の上に留めた。指は冷たく、迷わなかった。

「あなたは本家の子。それ以外は要らない」

十歳の夏から何度も聞いた言葉だった。今夜の母は、それを耳元で囁かなかった。鏡の中の私に言い聞かせる声で言った。

私は底板のことを考えていた。底板の下には、乾板だけが残っていた。写しと封書は、足もとの手提げの中にある。

母は星の角度を指で一度だけ直した。鏡の中で目が合った。母は笑った。十二歳の秋、珈琲が薄いと言ったときと同じ笑い方だった。

「きれいよ、瑠璃」

「ありがとうございます」

星の間のほうで、時計が六時を打った。宗一郎が死んでから、四十三のうちで動いているのは、佐伯が毎朝巻く一台だけだった。

披露は七時から。澪は一臣さまの客として、六時半に着く。

私は手提げの紐を握った。母はそれを見ていたかもしれない。見ていなかったかもしれない。

私は、見ていなかったほうに賭けた。