天導ルリカは生まれるのを止めた
第十章 朝四時の窯
第十章 朝四時の窯
路地の奥で、また雨戸の閉まる音がした。
その人は、敷居の外に立っていた。背広の脇で、手を握って、開いた。言うことを言い終えた人の顔をしていた。これで終わりにする、と決めて来た人の顔だった。
私は、その顔を見ていた。
十二月の廊下で、私はこの人に言った。自分で決めるところが好きだ、と。言うつもりのなかった言葉だった。
この人はいま、自分で決めて、ここへ来た。終わりにすると決めて。
好きなところで、振られに来られた。
腹が立った。腹が立ったら、頭がはっきりした。祖母の店で、業者に納品の日を勝手に延ばされたときと同じだった。怒ると、私は計算が速くなる。
「一臣さん」
その人の肩が、少し動いた。村瀬さんではなく、天導さんでもなく、名前で呼ばれたからだと思う。
「私は、罪人の娘を止めて出てきました」
その人が、私を見た。
「あなたも、もう罪人の息子ではありません」
「……何を」
「なので、『資格が無い』という言い分は、もう効きません」
言えた。声は震えなかった。震えるより先に、口が動いた。
その人は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくり首を振った。
「止めた、と言って、止められるものではない。血は、そのままだ」
「そのままです」
私は頷いた。
「私の血も、そのままです。天導宗一郎の娘で、天導藤乃の娘です。おじさまが死んで、いちばん得をしたのが私だったことも、残ります。残るものは、減らせません。十歳のときから、分かっていました」
「では」
「だから、受け取らないことにしたんです」
私は、店の中を手で示した。天火と、窯と、粉の袋と、台の上の空の籠と、壁に貼った紙の値札。五つで一銭。一つ一銭。一袋三銭。土曜だけ、一つ五銭。
「罪人の娘っていうのは、罪人のしたことの上で、ご飯を食べてる娘のことです。私は、あの家の粥も、炭も、月謝も、受け取るのをやめました。この店のものは、質屋に入れた着物二枚と、丸十さんの立て替えと、あとは全部、五つで一銭のボーロでできてます。一年と三か月、そうしてきました。家賃は、一度も遅れてません」
「……それは、あなたの話だ」
「一臣さんの話もします」
私は、その人の擦り切れた袖口を見た。
「お父様の紙を、自分で出しました。商会の帳簿を全部開いて、流れたお金を、三か月かけて本家へ返しました。商会を辞めました。名前まで、置いてきました。いまは浜田の帳場で、月に十八円、自分で稼いでます。お父様のお金は、一銭も受け取ってないでしょう」
その人は、答えなかった。
「受け取ってないなら、もう罪人の息子じゃありません。罪人の息子を止めた人です。私と、同じです」
川のほうで、また汽笛が鳴った。今度は短かった。
「……それでも」
その人は、低い声で言った。
「私の父は、宗一郎さんを死なせた。あなたに、赦してもらえるようなことでは」
「赦しは、出せません」
その人が、顔を上げた。
「私は、一臣さんに何もされてないので。されてないことは、赦せません。赦しは、出せないんです」
言いながら、私は祖母のことを思い出していた。
十六の冬、店の手伝いを始めて最初の年末だった。店が一年でいちばん忙しい週に、私はシューの皮を四十、全部焦がした。オーブンの温度を、一段まちがえた。粉も卵もバターも、四十個ぶん、ごみ箱に入った。私は厨房の隅で、ごめんなさい、を二十回くらい言った。
祖母は、いいよ、とは言わなかった。
じゃあ、明日は三時半に来な、と言った。
それだけだった。私は次の朝、三時半に厨房の灯りをつけた。祖母は四時に来て、焦がしたのと同じ数のシューを、私と並んで絞った。謝るのは、その日から、しなくなった。
謝っている人に要るのは、いいよ、ではない。明日の朝、何時に来ればいいかだ。
「一臣さんに要るのは、赦しじゃないと思います」
「……では、何だ」
「仕事です」
その人は、黙った。
「明日の朝、四時に来てください」
「四時」
「窯に火を入れる人が、いないんです」
私は、店の奥を指した。冷えかけた鉄の窯。
「この窯、焚き口が低いんです。私がしゃがんで火を入れると、髪が焦げます。三回焦がしました。それから、粉を二袋、いっぺんに担げる人がいません。丸十さんの小僧さんに頼むと、一袋一銭取られます。それから、掛けの取り立てに行ける人がいません。私は、取り立てが下手です。四十銭、取りはぐれました。それから――」
指を折って数えていたら、途中で止まらなくなった。
「それから、帳面を見てくれる人がいません」
言いながら、十五の秋の明星軒を思い出していた。帳場は、とこの人は訊いた。私です、と私は答えた。両方は無理だ、とこの人は言った。
「明星軒で、両方は無理だって、言いましたよね」
「……言った」
「無理でした。一年と三か月やって、やっぱり無理でした。原価の計算は速いですけど、足し算を二回まちがえます。浜田の帳場で、番頭さんより早く間違いを見つける人が、要ります」
その人は、私の指を見ていた。四本折ったところで止まった、私の右手の指を。
「……松吉が、そう言ったのか」
「言いました。眉毛が、こう、って」
私は、自分の眉の上に、指で横に一本、線を引いた。
その人は、何とも言えない顔をした。口の端が、ほんの少しだけ動いた。十の秋に、長椅子で見たのと同じ動き方だった。
*
「それに、一臣さん」
「……なんだ」
「十二月の廊下で、私、言いましたよね。探して、見つけて、嫌だったら、お菓子を一つ買って帰ってくださいって」
「言われた」
「二つ買ったら、嫌じゃなかったことにしますって」
「一つは、松吉のだ」
「知ってます」
私は、店の奥の棚からノートを取ってきた。十月の頁を開いて、その人の前に差し出した。
十月七日
港の小僧 マドレーヌ 二(十銭)
頁をめくった。
十月十四日
港の小僧 マドレーヌ 二(十銭)
めくった。十月二十一日。十月二十八日。十一月四日。
「私が風邪で店を閉めてた土曜を除いて、二十九回。全部、二つです」
その人は、ノートを見ていた。長いこと、見ていた。
「……数えていたのか」
「数えるのは、得意なので」
「一つは、松吉の」
「それでも、二つです。二つ買ったら、嫌じゃなかったことにするって、私が決めました。一臣さんに、その決まりを変える資格は、ありません」
言ってから、しまった、と思った。資格、という言葉を、今度は私のほうが使っていた。
その人も、それに気づいたらしかった。
声を出さずに笑った。笑うと、口の横の新しい線が、少しだけ消えた。
それから、その人は、一歩、前へ出た。
敷居を、越えた。
土間に、その人の靴が載った。粉の白い土間に、靴の跡が一つついた。
*
店の奥の三畳で、番茶を出した。
その人は、背広の上着を脱いで、畳んで、膝の横に置いた。ポケットから本がはみ出していた。背表紙が見えた。『北方回航記 下』。
「まだ、読んでるんですか」
「三度目だ」
「三度目」
「読むものが、ほかになかった」
嘘だと思った。港の帳場の近くには、古本屋がいくらでもある。
私は、三村のことを話した。十八の誕生日に来た封書のこと。三通の中身のこと。そのあとで三村が、これは私が申し上げたことではありません、と言って置いていった話のこと。
「裁判は、この春で済みました」
「知っている。新聞で読んだ」
「親族会は、私の身の振り方を、決め直すそうです。三村先生は、修道院とは言いませんでした。言わなかったのが、答えだと思います」
その人の手が、湯呑の上で止まった。
「あなたは、まだ二十になっていない」
「来年の四月です」
「それまでは、後見の同意がなければ、結婚もできない」
「できません」
「住むところも、後見が決められる」
「決められます」
その人は、湯呑を置いた。
置いて、しばらく、畳の目を見ていた。私は黙っていた。この人が黙って考えているときは、口を挟まない。十の秋の長椅子から、ずっとそうしてきた。
店の外は、もう暗かった。路地のどこかの家で、子どもが父親に叱られていた。勘太の声ではなかった。
「北に、函崎という港がある」
その人が、言った。
「北方回航記の船が、最後に帰ってきた港だ。氷が緩んで、船が持ち上がったまま、流されて、あの港に着いた。上巻の最後に地図がある」
「覚えてます。港の形が、手のひらみたいだった」
「分家の商会の船が、昔、あそこへ荷を出していた。帳簿で見た。冬は港が凍る。夏は、霧が出る。菓子屋は、港の近くに二軒しかない」
「……二軒」
「帳簿で見た」
帳簿で菓子屋の数まで見る人がいるだろうか。いる、と私は思った。この人なら、見る。
「天導の名前は、北までは届いていない。親族会も、北までは探しに来ない。あなたが二十になるまで、あと一年だ」
その人は、顔を上げた。
まっすぐな眉の下で、目が、まっすぐに私を見ていた。十二月の廊下のときのように、窓の外を見てはいなかった。
「行こう」
その人は、そう言った。
十の秋から、この人は、自分のことをいつも自分で決めてきた。門まで戻る。父には何も言わない。私が決めた。どれも、この人が、この人のことを決めた言葉だった。
私のことまで一緒に決めた言葉を聞いたのは、初めてだった。
「行く!」
三畳じゅうに響いた。
隣の煙草屋から、おしげの咳払いが聞こえた。
「……行きます」
敬語が、あとから走ってきた。やっぱり、間に合っていなかった。
その人は、今度は声を出して、少しだけ笑った。
*
「一臣さん」
「なんだ」
「私のこと、これから、なんて呼ぶんですか」
その人は、黙った。
「天導さん、は、もう違います。桐谷さん、は、言いにくそうでした」
「……言いにくい」
「じゃあ」
その人は、湯呑を持ち上げて、中が空だと気づいて、置いた。十六の五月の東屋で、初めて見た癖だった。
「瑠璃」
呼ばれた。
この身体の名前だった。宗一郎という人が、生まれる前に、船の名前から取った名前だ。十歳の秋から、何百回も呼ばれてきた。母に。伯父に。フミに。三村に。
この人に呼ばれたのは、初めてだった。
「はい」
返事をしたら、目の奥が熱くなった。
十四のとき、私はこの人に、口づけをせがんだ。はしたない、と言われた。十六のとき、目を閉じて待った。眠いのか、と言われて、上着をかけられた。
「一臣さん。十六のとき、私が目を閉じてたの、覚えてますか」
「……雨の日曜の」
「そうです」
「眠いのかと思った」
「違います」
その人は、少し考えた。考えて、ようやく分かった、という顔をした。耳が赤くなった。今度は、夕日のせいにできなかった。夕日は、とうに沈んでいた。
「……そうだったのか」
「そうでした」
「三年、気づかなかった」
「三年です」
私は、目を閉じた。
十九の春だった。この人は二十五だった。十歳の秋に、私は配合表のノートに書いた。仕込み、八年。焼き上がり、十八の春。一年、遅れた。一年遅れて、それでも、ちゃんと膨らんだ。
今度は、上着はかけられなかった。
*
その夜、ノートを開いた。
右下の隅に、いつものように数字を書いた。
五月十一日
あと二百二十一
焼き上がり 十九の春
十歳の見込みより、一年遅い
十二月の見込みより、二百二十一日早い
遅いのか、早いのか。予定から外れて焼き上がったものは、ふつうは疑ってかかる。祖母なら、どっちでもいいから割って中を見な、と言う。
割らなくても、分かった。
書いてから、頁をずっと前までめくった。十四の年の、同じ日付に、一行だけ書いてあった。
五月十一日 十四の私は、もう言わない。
十四の私は、あの約束を守った。十九の私も、言わなかった。目を閉じただけだった。
余白に、貝の形を描いた。筋を五本、扇の形に。決まったね、と祖母の声がした気がした。
*
次の朝の四時、店の戸を叩く音がした。
私は梯子段を下りて、雨戸を一枚外した。
外はまだ暗かった。路地の向こうの空だけが、少し青かった。その人は、背広の上着を着ないで、シャツの袖をまくって立っていた。
「四時だ」
「四時です」
その人は、窯の前にしゃがんだ。焚き口が低いので、背の高い人には、なおさら低かった。私は付け木を渡した。その人は、焚き口の奥に薪を組んで、付け木を差し入れた。
火が入った。
鉄の窯の中で、薪がはぜる音がした。その人の横顔が、焚き口の火で赤く見えた。
「火が大きすぎます。もう一本、抜いてください」
「分かった」
「それから、右の奥が熱くなりやすいので、薪は左に寄せて」
「分かった」
「分かったばっかり」
「分かったのだから、仕方がない」
私は、粉の袋の口を開けて、量りを出した。五つで一銭のボーロの生地を、今日は八十、仕込む。卵、砂糖、粉。
それから、別の小さな鉢に、本の菓子の材料を量った。粉と砂糖に、バタと、黄身と、塩をひとつまみ。薄く伸ばして、表に卵白を塗る。ノートの四月二十七日の頁は、開かなくても覚えていた。
「それは」と、焚き口の前から声がした。
「売り物じゃないです。本の菓子です」
その人は、何も言わなかった。焚き口の火のほうへ、顔を戻した。耳が赤いのは、火のせいだということにしておいた。
粉を量った。量りの針が、決めた目盛りで止まった。止まるのを見て、朝が始まった気がした。