星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第十一章 北の港(1/2)

第十一章 北の港

 決めてからは、早かった。

 一臣は、月曜の朝に浜田回漕店へ暇を願い出た。番頭は引き止めたそうだ。月末までは帳場に座る、ということで話がついた。帳面を途中で放り出して辞めることは、この人にはできない。

 そのあいだ、朝の四時には、店の戸が鳴った。

 一臣は窯に火を入れ、粉を二袋担いで、五時半に港へ帰っていった。港まで、川沿いを歩いて半刻かかる。五時半に出れば、帳場が開く六時半に間に合う。

「寝ていないでしょう」

「寝ている。帳場の昼休みに」

「本を読んでるって、松吉が」

「……半分は寝ている」

 三日目の朝に、おしげが煙草屋の戸を開けて、焚き口の前にしゃがむ背中を見た。見て、何も言わずに戸を閉めた。昼すぎに、私を煙草屋の奥へ呼んだ。

「あんたの、いい人かい」

「いい人です」

「そうかい」

 おしげは、それだけ言って、煙管に火をつけた。

「フミおばさんには、あたしから言っとくよ。言っていいんだろ」

「いつか、言ってください。ひと月くらい、あとで」

 おしげは、煙を吐いた。私の顔を見て、もう一度吐いた。

「ひと月あとね」

 それで、分かったのだと思った。

  *

 窯は、隣町のパン屋の息子が買い戻してくれた。

 去年、店を閉めた人の息子で、父親の窯でもう一度パンを焼きたいのだという。十五円だった。二十四円で買って、十か月使って、十五円。丸十の主人は「いい値だ」と言った。代金は先に受け取って、窯は、六月一日の朝の仕込みが済んでから引き渡す約束にした。

 丸十への借金は、残り四円だった。

 私は、十五円のうちから四円を出して、丸十の帳場に置いた。

「月末まで、待ってもいいんだがね」

「待たないでください。今日、返したいんです」

 丸十の主人は、帳面の私の名前の横に、朱で線を一本引いた。引いてから、帳面を私のほうへ回して見せた。

  七月十日 借 二十四円
       完済

「娘っ子に貸したのは、初めてだったが」

 主人は、帳面を閉じた。

「娘っ子に返されたのも、初めてだ」

 ノートの頁に、私も書いた。

  五月二十日
   丸十 四円 返済
   借 残り なし

 書いてから、残りの字の横に、小さな丸を一つ描いた。貝ではない、ただの丸だった。

  *

 五月の終わりに、澪が来た。

 月に一度の日だった。いつものように台の前で立ち止まって、紙の値札を見て、私の顔を見た。

「ボーロを、五つ」

 一銭玉を受け取って、紙の袋に五つ入れた。澪は、その場で一つ食べた。

「澪さん。奥で、お茶を飲んでいきませんか」

 澪は、二つ目を口に入れかけて、止めた。

「……はい」

 奥の三畳で、番茶を出した。

 私は、話した。港の小僧のこと。二つのマドレーヌのこと。五月十一日の夕方のこと。朝の四時の戸の音のこと。三村の、修道院と言わなかった話のこと。

 澪は、ずっと黙って聞いていた。聞き終わってから、湯呑を置いた。

「行かれるんですね」

「行きます」

「どちらへ」

「函崎です」

 澪は、目を上げた。

「……私に、言っていいんですか」

「澪さんにだけ、言います」

「どうして」

 私は、少し考えた。考えてあったことを、もう一度考えた。

「親族会には、三村先生を通して、手紙を出します。探さないでください、って。それで、たぶん、探そうとする人が出ます。そのとき、場所を知っている人が一人もいないと、私は、誰にも、探さないでくださいを頼めません」

「……」

「探さないでください、を守ってくれる人に、一人だけ、場所を知っていてほしいんです。何かあったときに、澪さんにだけは、菓子を送れるように」

「私に、何をしろと」

「何もしないでください」

 澪が、瞬きをした。

「探しに来ないでください。探そうとする人がいても、放っておいてください。場所を訊かれても、知りませんって言ってください。……澪さんは、頼まれたことを、ちゃんとやる人なので」

 澪は、長いこと、湯呑の中を見ていた。

「知りません、と言えばいいんですね」

「はい」

「私、嘘は下手です」

「知ってます。だから、嘘じゃなくていいです。知りませんって言わなくても、黙っててくれれば」

 澪は、湯呑を持ち上げて、飲まずに、また置いた。

「天導さん」

「桐谷です」

「……瑠璃さん」

 澪に、名前で呼ばれたのは、初めてだった。

「一臣さんに、色目は使っていません。最後まで」

「知ってます。ありがとうございました」

「悪くも言いませんでした」

「知ってます」

「……一度だけ、言いたくなりました。舞踏会で、瑠璃さんと二曲続けて踊っていらしたとき」

「なんて」

「下手だって」

 私は、笑ってしまった。

「言いませんでした。約束なので」

「……はい」

「函崎へ行かれたら、約束の期限は切れますか」

「切れません」

「そうですか」

 澪は、ようやく番茶を一口飲んだ。飲んでから、少し笑った。日に焼けた頬に、皺が寄った。

「ボーロ、あと五つください。函崎は、遠いので」

 帰りぎわに、澪はもう一度、台の前で振り返った。

「探しません」

「はい」

「誰にも、探させません」

 そう言って、澪は路地を曲がっていった。

 探させません、とまでは、私は頼んでいなかった。

  *

 六月一日の夜、千鳥町を出た。

 昼のうちに、勘太とその妹に、最後のボーロを一袋ずつやった。一銭は、取らなかった。勘太は袋を握って、「姉ちゃん、どっか行くのか」と訊いた。

「行く」

「どこ」

「内緒」

「いつ帰ってくんの」

「帰ってこない」

 勘太は、袋を握ったまま、私の顔を見ていた。泣くかと思った。泣かなかった。代わりに、袋を開けて、一つ食べた。

「うめえ」

「知ってる」

「焦げたのも、うまかった」

 勘太は、袋を持って路地の奥へ走っていった。振り返らなかった。この路地の子は、振り返らない。

 持っていくものは、来たときより少し多かった。着替えが三枚。配合表のノートが二冊。ブリキ屋の貝の型が十二。銀の星の髪飾り。一臣の荷物は、柳行李一つと、本が七冊だった。七冊のうちの二冊が、『北方回航記』の上巻と下巻だった。

「上巻も、持ってたんですか」

「あなたから、返してもらった」

「……返しましたね」

「それから、ずっと持っていた」

 夜汽車は、北へ向かう線の、いちばん端の三等だった。

 窓の外で、帝都の灯りが少しずつ減っていった。一臣は、下巻を膝の上で開いていた。開いているだけで、頁はめくっていなかった。

「読まないんですか」

「読んでいる」

「めくってません」

「……厚みを測っている」

「やめたって、言ってました」

「今夜は、やめるのをやめた」

 私は笑った。笑ったら、汽車が大きく揺れて、肩が一臣の腕に当たった。私は謝らなかった。一臣も、腕をどけなかった。

 夜半を過ぎて、私は眠った。眠るつもりはなかった。目を開けると、窓の外が白くなっていて、私の肩には、背広の上着が掛かっていた。

「眠いのかと思った」と一臣は言った。

「今度は、本当に眠かったです」

「そうか」

 一臣は、窓の外を見ていた。口の端が、少しだけ動いていた。

  *

 函崎は、霧の中にあった。

 汽車を降りると、駅の屋根の向こうが白くて、何も見えなかった。潮の匂いがした。帝都の港とは違う、冷たい匂いだった。六月なのに、襟元が肌寒かった。

 霧が晴れてから、港を見た。

 手のひらの形をしていた。親指と小指が岬になって、湾を抱えている。指のつけ根のあたりに、倉庫と、船具屋と、漁師の家と、小さな造船所が並んでいた。北方回航記の上巻の、最後の地図と同じ形だった。

「ここに、船が流れ着いたんですね」

「氷が緩んで、持ち上がったまま、流されて」

「氷圧」

「覚えていたのか」

「十二の年に、教えてもらいました」

 一臣は、湾のほうを見ていた。見ながら、何か言いかけて、やめた。やめてから、もう一度口を開いた。

「ここにする」

「はい」

 決めたのは、この人だった。それでよかった。

 店は、港の坂の途中に見つけた。前は網元の干物を売っていた店で、土間に魚の匂いが残っていた。二階に六畳が二間。煉瓦の小さな窯が、裏の小屋についていた。干物を燻すための窯で、菓子を焼くには温度が低い。一臣が、焚き口を広げればいいと言った。

 二階の二間は、襖で分けた。

 大家は、港の古い網元の後家さんで、私たちを見て「ご夫婦かい」と訊いた。

「まだです」と私は言った。

「まだ」

「来年の春に」

 大家は、一臣の顔を見た。一臣は、黙って頭を下げた。大家は、ふうん、と言って、家賃を月に二円と決めた。帝都の下町より、五十銭安かった。

 看板は、一臣が板に書いた。細い字で、右へ少しずつ上がっていく字だった。

  洋菓子 きりたに

「洋菓子、でいいのか。ボーロも蒸しパンも売るのだろう」

「いいんです。祖母の店が、そうだったので」

 祖母の店、と私が言っても、一臣は何も訊かなかった。訊かずに、その通りに書いた。

  *

 店は、七月の初めに開いた。

 最初の一か月は、帝都の下町の最初の一か月と、同じだった。ボーロは売れた。蒸しパンは、少し売れた。マドレーヌは、売れなかった。港の人は、見たことのない貝の形の菓子に五銭は出さない。

 売れたのは、別のものだった。

「これを、船に積めないか」

 七月の半ばに、一臣が言った。

 手には、本の菓子が一枚あった。私が朝、自分たちの分だけ焼いたものだった。薄くて、粉が落ちなくて、指に何も残らない。

「船ですか」

「港の漁船は、一度出ると三日は戻らない。船の上で食べる物は、握り飯と干物と、固い乾麺麭だけだ。乾麺麭は、湿気るとまずいし、粉が落ちる。船の上は、揺れる。片手で綱を持って、片手で食べる」

 一臣は、本の菓子を指でつまんだまま言った。

「本を読みながら食べられる菓子は、綱を持ちながらも食べられる」

 私は、しばらく何も言えなかった。

 十四の春に、分家の縁側で、この人が頁から目を離さずに三枚食べた菓子だった。一人のために詰めた配合だった。それが、一人のためでなくなるかもしれない。

「湿気らないようにするなら、焼きを強くして、厚みを少し足します。バタは減らします。代わりに、ラードと、塩を少し多く。……長く持たせるなら、缶が要ります」

「缶は、船具屋にある。茶を入れる缶を、船主に回してもらう」

「値段は」

「それは、私が決める」

 一臣は、そう言って、坂を下りていった。

 三日後に、網元の船が二艘、本の菓子を缶で積んでいった。一缶に四十枚。一缶三十銭。原価は、缶を返してもらう約束で、一缶十一銭。一臣は、船主と、缶を返す約束と、湿気た分は取り替える約束と、代金は漁から戻った日に払う約束を、一枚の紙に書いて、両方で判を押した。

「掛け、ですか」

「掛けだ。取り立ては、私がやる」

 一臣は、取り立てが上手かった。

 怒鳴るわけでも、紙を突きつけるわけでもなかった。船が戻った日の夕方に、坂の下の網元の家へ行って、戸口で頭を下げて、「本の菓子の缶を、いただきに参りました」と言う。それだけだった。網元たちは、空の缶と一緒に、代金を払った。払わない家には、次の日の夕方にも同じことを言いに行った。三日目には、払った。

「どうやったんですか」

「毎日、同じことを言いに行っただけだ」

「それだけ」

「用が済むまで、帰らない」

 十六の年、この人は私に言った。私は用が済むと帰る癖がある、と。

 癖は、変わっていなかった。用が済むまでは、帰らない。

 八月には、網元の船が七艘になった。九月には、港の外から来る運搬船の事務長が、缶を二十、まとめて頼んでいった。港の人は、その菓子を、本の菓子とは呼ばなかった。船の菓子と呼んだ。

 ノートの原価表に、私は新しい行を足した。

  船の菓子(本の菓子)
   一缶 四十枚
   売 三十銭
   原 十一銭
   帳場 一臣さん

 帳場、の行を書くのは、初めてだった。

  *

 十月に、その客が来た。

 昼すぎの、店がいちばん空いている時刻だった。一臣は裏の小屋で、窯の焚き口の煉瓦を積み直していた。私は、台の前で、夕方のボーロの袋を折っていた。

 戸が開いて、影が差した。

 大柄な男の人だった。

 紺の作業着を着ていた。袖を肘までまくっていて、日に焼けた腕が見えた。指が太い。顎に、剃り残しのような無精ひげがあった。髪に、白いものが増えていた。作業着の胸に、刺繍の文字があった。蓬田造船。

 港の外の造船所に、南の造船所から船が一艘、引き渡しに来ている。そう、網元の家で聞いたのは、三日前だった。

 十七の六月、早瀬さんは南浦でこの人に会って、娘さんは元気で菓子を焼いてる、と言ったそうだ。この人は、そうか、と言って、しばらく黙っていたという。

 その人は、台の上を見た。紙の値札を、一枚ずつ見ていた。ボーロ、五つで一銭。蒸しパン、一つ一銭。船の菓子、一缶三十銭。マドレーヌ、一つ五銭。

 十歳の九月の朝、二階の窓から見た背中だった。十七の十二月、星の間で、借り物の背広を着て、電報を胸の高さで持っていた人だった。

 その人は、私の顔を見なかった。値札を見ていた。

「これを」

 低い声だった。

「一缶。……それと、その、貝のを、一つ」

「はい」

 私は、船の菓子の缶を一つ台に載せて、マドレーヌを一つ、紙の袋に入れた。

「三十五銭です」

 その人は、作業着の胸のポケットから、小銭を出した。太い指で、一枚ずつ台に置いた。十銭が三枚。五銭が一枚。釣りは、要らなかった。

 私は、その三十五銭を見ていた。見て、手に取った。

「ありがとうございました」

 祖母の店で、何万回も言った言葉だった。千鳥町の路地でも、この坂の店でも、一日に何十回も言う。今日も、同じ声で言えた。

 その人は、缶を小脇に抱えて、紙の袋を作業着のポケットに入れた。入れてから、一度だけ、台の向こうの私を見た。

 何も言わなかった。

 私も、言わなかった。

 その人は、戸を開けて、出ていった。坂を、下へ歩いていった。急がなかった。ゆっくりでもなかった。仕事の現場から次の現場へ移るような歩き方だった。

 振り返らなかった。

 裏の戸が開いて、一臣が煉瓦の粉をはたきながら入ってきた。

「今の人は」

 一臣は、戸口のほうを見ていた。星の間で、あの人が電報を出したとき、この人も壁際にいた。

「お客さんです」

 私は言った。

 一臣は、しばらく戸口を見ていた。それから、「そうか」と言った。それ以上、訊かなかった。

 どうしてこの店に来たのかは、訊かなかった。追いかけて、訊くこともできた。坂の下まで走れば、まだ間に合った。訊けば、答えをあてにすることになる。あの人の答えを、この店の帳面のどこかに書くことになる。

 あの人は、十歳の九月の朝、振り返らずに門を出た。今日も、振り返らずに坂を下りた。私は、あの人をあてにしない。あの人も、私に何かをしに来たのではなかった。菓子を買いに来た。一缶と、一つ。三十五銭。