天導ルリカは生まれるのを止めた
第十二章 いなくなった二人 / 六月の親族会――澪
第十二章 いなくなった二人
六月の親族会――澪
本家の応接は、声が大きかった。
小野澪は、扉の外の長椅子に座って、それを聞いていた。三村弁護士に頼んで、ここまで入れてもらった。話があります、と言った。瑠璃さんのことで、と。三村はしばらく澪の顔を見て、それから、何も訊かずに頷いた。
扉の向こうで、白髪の大叔父の声がした。
「本家の血を引く娘が、罪人の息子と、だぞ」
「分家の嫁の郷里にも、息子から手紙が来たそうだ。探さないでくれ、と。娘のほうと、一字一句同じ文句だ」
別の声が言った。
「警察に届けるべきだ。二十前の娘だ。後見の同意もなく、家を出た。連れ戻す理由はいくらでもある」
「探偵を雇えばいい。帝都の中なら、ひと月で見つかる」
「帝都の中にいればな」
「新聞に嗅ぎつけられたら、どうする。裁判が済んで、やっと静かになったところだ」
「だから、嗅ぎつけられる前に、連れ戻すのだ」
澪は、膝の上で手を組んでいた。
学院の制服ではなかった。紺の木綿の着物で、髪を後ろで一つに結んでいた。膝の上の巾着の中に、紙の袋が一つ入っていた。袋の中に、ボーロが一つだけ残っていた。函崎は遠いので、と言って五つ余分に買った、そのうちの最後の一つだった。
扉が開いた。三村弁護士が顔を出した。
「小野さん。どうぞ」
*
応接の長い卓に、親族会の三人が座っていた。三村が、その端に立った。
澪は、卓の前に立った。
一年半前、この家の星の間で、澪は父の遺した手紙を読んだ。あのときと同じ三人だった。あのときより、三人とも少し痩せていた。
「小野さん」と大叔父が言った。「あなたは、瑠璃と親しかったと聞いた。下町の店にも、通っていたそうだな」
「月に一度です」
「では、行き先を知っているのではないか」
澪は、大叔父の顔を見た。
知っている。函崎。北の港。瑠璃さんは、下町の店の奥の三畳で、番茶を出しながら、そう言った。何もしないでください、と言った。探しに来ないで。探そうとする人がいても、放っておいて。
放っておいては、いけないと思った。
放っておけば、この三人は探偵を雇う。探偵は、ひと月かふた月で、下町の路地の煙草屋に行き着く。煙草屋から、フミという女中に行き着く。そこから先は、分からない。分からないけれど、行き着くかもしれない。
瑠璃さんは、黙っていてくれれば、と言った。
黙っているだけでは、足りない。澪はそう考えて、ここへ来た。
星の間の日の三日前に、澪は瑠璃さんに言った。座っているだけが、いちばん難しい、と。今日は、その逆だった。立っているのは、難しくなかった。難しいのは、一言で済ませることだった。
澪は、口を開いた。
「親が犯罪者であると知った二人はいなくなりました」
応接が、静かになった。
澪は、それ以上言わなかった。言うことは、それだけだった。
大叔父の口が、少し開いて、閉じた。隣の一人が、何か言いかけて、やめた。三人目は、卓の上の自分の手を見ていた。
親が犯罪者だと知った。だから、いなくなった。二人を追い出したのは、罪を犯した親たちと、その罪を七年余り黙って吸ってきたこの家だ。澪の一言は、ここに座っている大人たちへの断罪でもあった。
世間は、それで納得する。新聞も、それで納得する。天導家の事件の、最後の一行として。罪人の娘と、罪人の息子が、恥じて姿を消した。それ以上の記事にはならない。
探せば、その一行の続きが始まる。
連れ戻せば、罪人の娘は、もう一度、本家の娘として帝都に戻ってくる。罪人の息子と一緒に。新聞は、それを書く。裁判が済んで、やっと静かになったものが、もう一度、騒がしくなる。
澪は、それを口に出さなかった。口に出さなくても、この三人には分かる。三人とも、この家の名前を守るために、この卓に座っている人たちだった。
「……それだけか」
大叔父が、ようやく言った。
「それだけです」
「行き先は」
澪は、答えなかった。
知りません、とは言わなかった。嘘は下手だった。瑠璃さんも、それを知っていた。嘘じゃなくていいです、と瑠璃さんは言った。
澪は、黙って立っていた。
長い沈黙だった。卓の端で、三村弁護士が、一度だけ目を伏せた。
「……捜索願は、出さん」
大叔父が言った。
「探偵も、雇わん。本家の娘は、事件のあと、身を慎んで家を出た。それで話は済んでいる。済んだ話を、蒸し返す理由はない」
隣の一人が、「しかし」と言った。
「済んでいる」と大叔父は繰り返した。
澪は、頭を下げた。
*
本家の門を出て、澪は、しばらく歩いた。
正門だった。瑠璃さんは、一年と少し前、ここではなく裏門から出ていったと聞いた。
澪は、正門の前で立ち止まって、巾着を開けた。
紙の袋の中の、最後のボーロを出した。小さくて、丸くて、少し焦げていた。瑠璃さんは焦げたのを売らなかったから、これはたぶん、紛れこんだのだと思った。
口に入れた。
甘すぎなかった。
一年半前の十二月、星の間で、澪は父の名前を返してもらった。瑠璃さんの帳面がなければ、もっとずっとかかった。あのとき澪は、瑠璃さんに、何も返せなかった。
今日、一つだけ返せた気がした。
守る、というのは、隣に立つことだけではないのだと、澪は思った。黙っていることでも、いい。一言で済ませることでも、いい。探させないことでも。
澪は、門の前から歩き出した。振り返らなかった。
北のほうの空は、帝都の煤で、よく見えなかった。
二十歳の春――瑠璃
四月二十日の朝の四時に、店の戸が鳴った。
鳴らなくてもいいのに、と私は思う。一臣は、もう二階の襖の向こうで寝起きしている。わざわざ裏の小屋の窯に火を入れてから、表へ回って、店の戸を叩く。千鳥町の頃の癖だ。
「四時だ」
「四時です」
一臣は、窯の焚き口の前にしゃがんだ。去年、一臣が広げて積み直した煉瓦の焚き口は、広くなって、背の高い人でも火が入れやすくなった。薪を左へ寄せる。右の奥は、この窯でもやっぱり熱い。
私は、量りを出した。
ボーロを百。蒸しパンを六十。船の菓子の生地を、缶に十二。マドレーヌを十二。今日は土曜ではないけれど、マドレーヌを焼く。売り物にしない一つを入れて、十三。
今日、私は二十歳になった。
*
函崎の役場は、港の坂を下りきったところにあった。
昼すぎ、店を大家の後家さんに頼んで、二人で坂を下りた。大家は、店番を頼むと、ふうん、と言って、前掛けを締めた。
「来年の春に、って言ってたね」
「今日が、その春です」
「ふうん」
大家は、台の上の値札を眺めて、自分でボーロを一袋取って、一銭を缶に入れた。
日曜で、役場の表は閉まっていた。裏の宿直の窓口で、紙を一枚もらった。
一臣が、夫の欄を書いた。細い、右へ少しずつ上がっていく字だった。名前。本籍。生年月日。私は、妻の欄を、自分で書いた。
後見人の同意、という欄があった。
書かなくてよかった。二十歳になれば、要らない欄だった。その欄のために、私たちは帝都を出て、手のひらの形の港まで来た。紙の上では、空いたままの、細い一行だった。
名字の欄を書くとき、私は少し笑った。
天導。
夫の名字も、天導だった。天導の分家の息子と、天導の本家の娘だった。どちらの欄にも、同じ名字が並んだ。
「何がおかしい」
「紙の上では、私、ぜんぜん止まってないなって」
「……止まっていない」
「天導瑠璃のままです。天導一臣の奥さんの、天導瑠璃」
一臣は、書き終えた紙を、窓口に出す前に、もう一度見た。見て、少し考える顔をした。
「看板は、きりたにだ」
「看板は、きりたにです」
「では、それでいい」
一臣は、紙を窓口に出した。
宿直の人が、判を押した。
それで、終わりだった。儀式らしいことは、何もなかった。十六の春に、本家の応接で書付を読み上げられたときより、ずっと短かった。
役場を出ると、湾の上に霧が出はじめていた。
一臣は、坂の下で立ち止まって、傘を開いた。雨ではなかった。霧が、細かい粒になって降りてきていた。
一臣は、傘を傾けなかった。
まっすぐ、二人の真ん中に差した。坂を半分も上らないうちに、一臣の左の肩と、私の右の肩が、同じくらい湿って色を変えた。
十六の夏、夕立の庭で、この人は同じように傘を差した。どちらかだけを濡らさない。二人ぶんを、半分ずつ濡らす。
私は、傘の柄に手を添えた。一臣の手の上に、私の手が重なった。どちらも、傘を傾けなかった。
*
世間から見れば、これは破滅なのだと思う。
本家の跡取りだった娘が、北の端の港で、罪人の息子と、五つで一銭のボーロを焼いている。実の父は湖で死んで、母は帝都の獄にいて、十歳の朝に門を出た恭介さんは、今度は坂を振り返らずに下りていった。天導の家には、二度と戻れない。戻れば、罪人の娘と罪人の息子として、帝都の新聞に、もう一度名前が載る。
母には、年に一度、三村を通して手紙を出している。菓子を焼いていること。元気でいること。それだけを書く。
返事は、来ない。
澪には、季節ごとに、船の菓子を一缶送っている。差出人の名前は書かない。缶の蓋に、貝の絵を一つ描くだけだ。
澪からも、返事は来ない。
来ないのが、澪の返事だと思っている。探さないでください、と私は頼んだ。澪は、探さない人だった。誰にも、探させない人だった。去年の六月から、坂の下に、帝都から来た見慣れない人が立ったことは、一度もない。
ときどき、湾に南から船が入る。そういう日は、私は台の前で、戸口のほうを少しだけ多く見る。
あの作業着の客は、あれから一度も来ていない。
それでいい、と思っている。あてにしない、と決めたのは私だった。あの人も、たぶん、そう決めている。
*
夜、二階の六畳で、ノートを開いた。
今日の売上を書いた。ボーロ、蒸しパン、船の菓子、マドレーヌ。仕入れを書いた。残りを書いた。
右下の隅は、空いていた。
十二月十八日に七百三十から始めて、一日に一つずつ減らしていった数は、二百二十一で止まった。その先は、数える必要がなくなった。
会える日を数えなくていいのは、毎日、会えるからだ。
祖母の配合表には、数えないでいい欄が一つもなかった。粉も、砂糖も、卵も、バタも、全部グラムで書いてあった。数えないでいい欄を一つ持ったのは、私が初めてだと思う。
余白に、貝の形を描いた。筋を五本、扇の形に引いた。
それから、売り物にしなかった十三個目のマドレーヌを、半分に割った。
半分を、火鉢の向こうに差し出した。一臣は、『北方回航記』から目を離さずに、それを受け取った。受け取って、齧って、粉が膝に落ちた。
一臣は、頁から目を上げて、膝の粉を見た。
「これは、本が汚れる」
「本の菓子じゃないので」
「……そうだった」
一臣は、本を閉じた。閉じて、膝の横に置いて、残りのマドレーヌを両手で持って、食べた。
見たことがない、と書いてきた菓子だった。十二の年に。
*
朝の四時に、店の灯りをつける。
祖母がそうしていたからではない。四時に始めないと、七時の坂の人通りに間に合わないからだ。
量りを出す。粉を量る。針が、決めた目盛りで止まる。止まるのを見て、朝が始まる。
裏の小屋で、薪のはぜる音がする。右の奥が熱くなりすぎないように、誰かが薪を左へ寄せている。
私は、天導瑠璃を止めた。
紙の上では、止まっていないらしい。それでも、坂の上の看板には、きりたに、と書いてある。細い、右へ少しずつ上がっていく字で。
世間から見れば破滅で、私たちにとっては、朝の四時だった。