星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第三編 0歳転生編(2/2)

 十回ほどやって、やめた。

 帰り道はない。少なくとも、私には見えない。

 泣いた。声を出すと誰かが来るので、枕に顔を押しつけて泣いた。この枕は、今朝もこうやって濡れていたのだと思った。

 泣き終わると、少し頭が冷えた。冷えた頭で、私は並べた。仕事で締めの前にやるのと同じように。

 八年後、この子は十八の成年披露で断罪される。ゲームのとおりなら、理由は三つある。学院での虐め。母の帳面と三村の封書を焼いたこと。それから、誰も口に出さなくても皆が知っている一つ――瑠璃は、宗一郎が死んだことでいちばん得をした子だということ。

 最後の一つは、私にはどうにもできない。六年前に終わっている。

 今朝、窓に飛びついた自分を思い出した。今夜のはずだった。ゲームのとおりなら、今夜なら、まだ何かできたかもしれない。十歳の足で何ができたのかは分からない。それでも、あれは「間に合うかもしれない」と思えた最後の時間だった。十歳からでは、もう遅い。

 それでも、残りの二つは、まだ起きていない。

 一つ目の手。ゲームの瑠璃と同じように、証拠を消す。帳面がどこにあるのかを見つけて、誰よりも先に燃やす。そうすれば母は捕まらないかもしれない。でもそれは、あの子が十七でやったことだ。そして、人が死んだことを隠す側に、自分の手で入ることだ。桟橋の番人は、名前を汚されたまま死んだ。その娘が、いつか学院に来る。私は彼女の返事を七周ぶん選んできた。

 やめた。

 二つ目の手。逃げる。この家を出る。十歳の身体に、お金はない。行き先もない。この世界の地図も、汽車の乗り方も知らない。父がどこにいるのかは、佐伯が言えないと言った。ゲームでは遼が南のどこかの港まで探しに行ったけれど、町の名は一度しか出てこなくて、私は覚えていない。

 汽車に一晩揺られて、着いたら大人になっていた、というようなことでも起これば別だけれど、そんなことは起こらない。起こったら、それはそれで困る。

 これも、やめた。

 三つ目の手。良い子でいる。小暮さんを虐めない。澪が来ても虐めない。そして、焼かない。帳面は、ゲームの瑠璃が十七で燃やしたのだから、それまではこの家のどこかにある。私が自分で見つけて、自分で持っておく。燃やさずに持っていれば、いつかそれを出す日が来る。いつ出すかは、そのとき私が決めればいい。

 それにした。

 決めてから、理由を確かめた。

 一つ目は、はっきりしていた。画面の前で泣いた、あの子のことだ。眠らされて、十八で全部を数え上げられて、門の外で「あなた、誰」と言った子。この子を、断罪されない十八歳にしてあげたい。それは私がこの三年、七回、思ったことだった。

 二つ目は、うまく言葉にならなかった。

 仏間で、母の声は一度も震えなかった。人を死なせる手伝いをした人の声が、あんなふうに平らでいられるものだろうか。それとも、平らにしておかないと崩れる何かがあるのだろうか。手をつけない珈琲を、仏壇の前に一つ置く人。私には分からなかった。分からないまま、あの人が警察に連れていかれるところを思い浮かべると、胃が縮んだ。

 今日初めて会った人なのに。

 どちらにしても、この子の母だ。帳面を焼かずに自分で持っておけば、それをいつ、誰に出すのかも私が決められる。この人が連れていかれる日を、少なくとも私の手で早めずにすむ。二つ目の理由は、たぶんそういうことだった。私はそれ以上考えるのをやめて、目を閉じた。タイトル画面は、もう思い浮かべなかった。

 *

 翌朝、学院の門で、皆が退いた。

 馬車を降りて石畳に足を置いた瞬間、正面にいた三人の女の子が横へ寄った。避けたというより、道を空けた。よく躾けられた動きだった。誰も私を見なかった。見ないようにする、ということを十人ぐらいが同時にやると、空気の温度が下がる。

 教室でも同じだった。私の席の左右は空いていた。授業のあいだ、教師は私を三度あてた。三度とも、答えられるように易しい問いだった。

 昼、下級生の組の前の廊下で、小柄な子とすれ違った。眼鏡をかけて、教科書を胸に抱えている。名札に「小暮」とあった。

 ゲームの中で、天導瑠璃が階段で突き飛ばした子だ。持ち物を庭に捨てられた子だ。回想の一枚絵でしか出てこない。

「あの」と私は言った。

 小暮さんの肩が跳ねた。

「この前は、ごめんなさい」

 この前というのが、いつのことか私は知らない。何をしたのかも知らない。それでも、この子に謝るべきことが、この身体にはある。

 小暮さんは私を見た。眼鏡の奥の目が、みるみる潤んだ。そして教科書を抱えたまま、走って逃げた。

 私は廊下に立っていた。

 許してもらえたと思うな、と自分に言った。あれは赦しではない。恐怖だ。私は謝って自分が軽くなろうとして、この子をもう一度怖がらせた。昨夜決めた「良い子」は、私が決めただけで、この子にはまだ何の関係もない。

 午後の授業で、後ろの席の子が消しゴムを落とした。私の椅子の下まで転がってきた。拾って渡すと、その子は「ありがとうございます」と言った。とても小さな声だった。

 その「ありがとうございます」を、私は帰りの馬車で三回思い出した。

 三回思い出してから、自分に呆れた。消しゴムを拾って礼を言われただけだ。それを三回思い出す二十七歳が、ここにいる。

 でも、それが今日いちばん良かったことだった。

 窓の外を、知らない街が流れていった。石畳と、洋燈の柱と、看板の文字。読める文字と、読めない文字が混ざっている。この世界の暮らしを、私はまだ何も知らない。

 *

 屋敷に戻ると、女中のフミが髪を梳いてくれた。六十近い人で、手つきがゆっくりしている。

「お嬢様、今日はお静かでいらっしゃいますね」

「フミさん。わたし、灯籠って見たことある?」

 どうしてそんなことを訊いたのか、自分でも分からなかった。仏間の二つの珈琲と、写真帖の左手と、石盤の「かえってくる」が、頭の中で混ざっていた。

「まあ」とフミが手を止めた。「お忘れですか。四つのときに、湖でご覧になったでしょう」

「……覚えてない」

「そうでしょうねえ。あんなことがあった年ですから。でもお嬢様は、帰ってからひと月ばかり、灯籠のお話ばかりなさいました。青いのが一つあった、あれは誰のだった、あれはどこまで行くの、と」

「青い?」

「青みがかった白でしょうか。ほかは橙でしたのに、一つだけそういう色だったと。何度もおっしゃるので、こちらも覚えてしまいました」

 フミは櫛を置いて、私の髪の分け目を直した。

「お嬢様のお話は、いつも同じところで止まるのです。あれはどこまで行くの、と。行き先だけは、誰も答えられませんから」

 鏡台の上に、銀の星の髪飾りがあった。今朝、母が「今日はつけていきなさい」と言って挿したものだ。

 私はそれを裏返した。

 「瑠璃へ」

 小さく彫ってある。それだけ。

 フミが横から覗いて、「旦那様が、お生まれになる前にご用意なすったものです」と言った。

「生まれる前?」

「ええ。まだ男か女か分からぬうちに、銀細工屋へ注文なさったと聞いております」

 旦那様というのが誰のことか、私は訊かなかった。この家でフミがそう呼ぶ人は、仏間の写真の人だろうと思った。

 私は星を指で撫でた。冷たかった。

「お生まれのときも、よい泣き声でした。すぐに泣いてくだすって、産婆さんが笑っておられましたよ」

 フミは、鏡の中の私にそう言った。

 夜、私は明日の授業の本を開いた。教科書の三十二頁から。読んでも頭に入らなかったが、それでも一頁ずつ進めた。

 この身体は借り物だ。この家には嘘がある。六年前の人は死んでいる。ゲームの年表は、ここでは六年ずれている。帰り道は見えない。全部そうだ。

 それでも、明日また学院へ行く。誰かと話せる人になろう。麻辣を断った私が、ここで一度くらい、はい行きますと言える人になれるかもしれない。

 私はそう思って、教科書に指を挟んだまま眠った。