星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第二章 良い子の勘定(1/2)

第二章 良い子の勘定

 家庭教師の川口先生は、水曜と土曜の午後に来た。

 十歳の秋、最初の朗読で、私は失敗した。『海国志』の序という文章で、旧い言い回しばかりが並んでいる。読点の位置を間違えて、意味の切れないところで息を継いだ。二行目でつかえ、三行目で止まった。

 先生は待った。私はもう一度頭から読もうとして、また同じところで止まった。顔が熱くなった。二十七歳の人間が十歳の教科書につかえている、と思うと余計に喉が詰まった。

「お嬢様」と川口先生が言った。「今日はここまでにいたしましょうか」

「いいえ」

 自分でも驚くくらい早く出た。

「もう一回、読ませてください」

 先生は少し目を丸くして、それから紙を私のほうへ寄せた。

「では、息を継ぐところに、私が薄く印をつけます。印の場所で吸ってください。意味は、印のとおりに切れます」

 私は三度目を読んだ。印の場所で吸うと、文章がすっと通った。最後まで読み切ったとき、自分の声が部屋の中でちゃんと形を持っているのが分かった。

「よく通るお声です」と先生は言った。「急がずにお読みになれば、聞くほうも楽です」

 私は嬉しくて、その日は夕食まで自分の部屋で同じ文章を三回読んだ。

 この身体でうまくできたことは、それが最初だった。

 *

 良い子でいる、と決めたのだから、何をするかを書き出しておこうと思った。

 石盤ではなく、帳面を一冊おろした。一行目に何を書くか迷った。こういうものは一行目に日付と場所を書くのだ、と誰かが言っていた気がした。誰だったかは思い出せない。ときどき、見たことのない夢を見る。罫線のノートを膝に置いて、一行目に必ず日時と場所を書く女の人の夢だ。その人は何でも表にする。時刻と、人と、証拠を。

 私は一行目に日付を書いた。二行目に「帝都 本家 自室」と書いた。三行目に「一、小暮さんに謝る(済)」と書いた。

 四行目で、何を書けばいいのか分からなくなった。

 帳面を閉じた。夢の人は、たぶん私よりずっと頭がいい。私は表を作ると、表を作ったことで安心して、中身を考えなくなる。会社でもそうだった。

 帳面は、それきり引き出しの奥に入った。

 *

 冬になるころには、朝、昇降口で「おはようございます」と言うと、二人か三人が返してくれるようになった。下級生の小暮さんもそのうちの一人だった。彼女は目を合わせない。合わせないまま、小さな声で「おはようございます」と言って、すぐ自分の組の靴箱へ行く。

 それでよかった。彼女が返してくれるのは、私が怖くなくなったからではなく、返しても大丈夫だと思えるようになったからだろう。私にはその区別がついていた。ついていて、それでも、返事が返ってくると足取りが軽くなる。

 ゲームの瑠璃は、この子を階段で突き飛ばした。この身体の十歳までのあいだに、たぶん何かをした。私はそれを知らない。知らないまま、毎朝同じ時刻に同じ言葉を言った。八年後の断罪の席で読み上げられるはずの行を、一行ずつ減らしているつもりだった。

 礼儀正しくすると、生活が楽になった。使用人が私に話しかけてくれる。教師が私の名前を呼ぶ。母がときどき褒める。

 ある日、廊下でフミが盆を落として湯呑を割った。私は屈んで破片を集めるのを手伝った。フミは恐縮して、その週のあいだずっと私に甘くしてくれた。夜、寝る前に、私はその甘さを思い出して、少しいい気分になった。

 それから、こう思った。

 あと何回か手伝ったら、フミに恭介の居場所を訊いても答えてくれるだろうか。一回、二回――

 数えかけて、やめた。自分に嫌な気がした。嫌な気はしたが、その考えを捨てはしなかった。

 *

 十一歳の春、佐伯から住所を得た。

 得た、というより、三月かけて少しずつ削り出した。年始の書状の宛名書きを手伝わせてもらい、返礼の整理を手伝い、古い名簿の綴じ直しを手伝った。何度目かに、私は言った。

「佐伯さん。お父様に、お手紙を書いてはいけませんか」

 佐伯は名簿を閉じた。長く黙っていた。それから、紙に鉛筆で書いた。

「南浦の、蓬田造船という所へ、三年前に人が入ったと聞いております。同じ人かどうかは存じません」

 私は「ありがとうございます」と言った。佐伯は何も言わなかった。

 その晩、便箋を出した。

 書き出しで一時間かかった。

 「パパへ」と書いて、消した。私の口はその言葉を出せなかった。二十七年ぶんの私は、この人の娘ではない。この人の娘だった子が、いまどこにいるか、私には分からない。呼びかけても、声は返ってこない。それでも、この人に読んでほしいものを書くなら、あの石盤の言葉を借りるしかない気がした。

 結局、こう書いた。

『お父様
 瑠璃です。十一になりました。
 わたしの部屋の石盤に、まえに書いた字がのこっていました。「パパは かえってくる」と書いてありました。
 わたしはそれを消してしまいました。ごめんなさい。
 でも、消したことを、あなたに知らせておきたいと思いました。
 お元気ですか。お仕事はどうですか。お返事がなくてもかまいません。
 瑠璃』

 三度書き直した。四度目を封に入れた。

 翌朝、切手を貼ろうとして、母に見つかった。

「何を出すの」

「……お父様に」

 母は封筒を手に取った。宛名を見た。表情は動かなかった。

「南浦」

「はい」

 母は封筒を袂に入れた。

「出しておきます」

「自分で出せます」

「あなたが郵便局へ行くのは、まだ早い」

 母はそう言って、行った。

 返事は来なかった。

 夏に二通目を書いた。母に渡した。秋に三通目を書いた。母に渡した。冬に四通目を書いた。母に渡した。

 五通目のとき、私は宛名の下に小さく「南浦 蓬田造船気付」と書き足した。母は何も言わずに受け取った。

 返事は、一度も来なかった。

 私は、あの人はもう私のことを考えていないのだと思った。ゲームの最後に門の外で待っていた人が、十一歳の娘の手紙に一度も返事をしない。ゲームは、そこまでは描いていなかった。差し出して出ていった人なのだから、そういうものなのだと思った。母がそう言ったからではなく、五通とも返事がないという事実からそう考えるのが自然だった。

 ただ、そう考えたときに胸の奥が痛んだので、私はまだこの家の子ではないなと自分で思った。

 *

 同じ年の五月、母が布を選びに連れて行ってくれた。

 母は、その日は藤色に金の入った着物を着ていた。仏間の薄物とは別人のようだった。華やかな色を着ると、この人は背がもっと高く見える。

 呉服屋の座敷に反物が並んで、番頭が次々に広げる。母は私の顔の下に布をあてて、光の向きを変えた。

「これは駄目。顔が黄色く見える」

「はい」

「これも駄目。子どもに見せる色ではない」

 母は五本ほど却下してから、藍と、その隣の、少し緑がかった青を並べた。

「瑠璃。こちらとこちら、どちらが好き?」

 私は緑がかったほうを指した。理由はなかった。ただ、見た瞬間にそちらへ目が行った。

 母はしばらくその布を見ていた。

「あなたは目がいい」と母は言った。「その色はね、瑠璃という色に近いの。染屋が一番手を抜けない色よ」

「そうなんですか」

「あなたに似合う。よく似合う」

 母は番頭に反物を頼んだ。帰りの馬車で、母は窓の外を見ていた。私は膝の上に手を置いて、さっきの言葉を頭の中でもう一度再生していた。

 あなたに似合う。

 ここへ来て、九か月になる。誰かに似合うと言われたのは、そのあいだで初めてだった。

 この人はもう人を死なせる手伝いをした。私がここへ来る前に。私はそれを、ゲームで知っている。

 知っていて、その日の午後が嬉しかったことは、本当だった。私はその午後を、胸の中で取り消さなかった。取り消せなかった、というほうが正しいかもしれない。

 *

 十二歳の夏、母に珈琲の淹れ方を教わった。

 仏間ではなく、母の居間だった。豆を挽く道具は宗一郎が外国から持ち帰ったものだという。母は挽き方を細かく指示した。粗すぎると薄い、細かすぎると苦い、その中間はここ、と、母は挽き終わった粉を私の掌に少し出して見せた。

 二人ぶんを淹れて、飲んだ。私が淹れたほうは薄かった。

「薄い」と母は言った。

「すみません」

「でも、湯の落とし方は上手。次はもう少し豆を増やしなさい」

 母は窓のほうを向いて、しばらく黙ってから、言った。

「宗一郎さまは、この道具を私に置いていったの」

「おじさまが」

「ええ。私の従兄。小さいころから、本家へ行くと一緒に遊んだ人です」

 母の声が、いつもより低かった。

「私の兄――貞光は、八年前の親族会で、私を後見人にしなかった」

 私は湯呑を置いた。

「あなたの後見人は、本来なら母親であるべきでしょう。それが取られた。兄が親族会に手を回して、自分が後見人になった。この家の帳簿も船も、いま全部あの人が握っている。私は自分の娘の学費の額さえ知らされないの」

「どうして」

「私に血がないから。私の生まれた家は、三代前に養子で入った天導の分家です。初代の血がない。だから、この家では私は最後まで客なの」

 母は珈琲を飲んだ。

「宗一郎さまには、百合子さまという奥様がいらした。お身体の弱い方でね。あなたが二つの冬に、お亡くなりになった」

 私は黙って聞いていた。

「その翌年の暮れに、あの人は静子さんという方と婚約なさった。久我様のお嬢さんで、お若い、家の決めた方。婚礼は、あなたが四つの年の十月のはずでした」

 母は碗の縁を指でなぞった。

「百合子さまがいらしたあいだは、選べないのだと思っていた。いらっしゃらなくなっても、あの人は私を選ばなかった。あの人はそういう人。人を傷つけないつもりで、決めないの」

 私は母の横顔を見ていた。

 ゲームにも、その一行はあった。宗一郎は病身の奥様を二年前に亡くし、秋には次の人との婚礼が決まっていた。ゲームでは、奥様が亡くなったのは瑠璃が八つのときで、事件は十歳の夏だった。ここでは、二つの冬と、四つの夏。奥様の死のあとに再婚が決まり、秋の婚礼を待たずに事件が起きる。その順序は同じだった。

 婚約と事件が、六年早い。

 ずれているのは事件だけではなかった。奥様が亡くなるところから、もうずれている。なぜそうなのかは、母の話からは分からなかった。

 そして、この人は、宗一郎を愛したままだ。選ばれなかった相手を、八年経っても愛したままで、その相手を死なせる手伝いをした。私はそう知っている。

 でも、いま母が語っているのは、兄に踏みつけられた女の話だった。

 ――従わされたのだ。

 私はそう解釈した。

 ゲームでもそうだった。主犯は伯父で、母は兄に命じられて娘を眠らせた。いま目の前で、母は兄に後見を奪われた話をしている。二つはきれいに重なった。母は分家の家で育って、血がないと言われ続けて、兄に後見権を奪われた。あの計画も、たぶんこの兄が主で、母はそこへ引き込まれた。そう考えると、この人の弱さと、あの犯罪が一本につながる。

 つながると、私は楽になった。

 楽になったついでに、もう一本の線が引けた。

 帳面を見つけても、母は守れる。

 ゲームの澪が伯父を告発するとき、母の帳面さえ表に出なければ、罰を受けるのは伯父だけで済むかもしれない。母は従わされただけなのだから、それでいい。帳面は燃やさない。燃やせば、ゲームの瑠璃と同じになる。ただ、出す時期を、私が選ぶ。伯父が裁かれたあとでも、出さなくていいなら出さない。

 私はその夜、布団の中で、その線を何度もなぞった。なぞるたびに、線は太くなった。

 母が語ったのは、母の話でしかなかった。母がいつ何を知らされていたのか、母が誰の案で動いたのか、それを裏づけるものを、私は一つも持っていなかった。そのことは、布団の中でも分かっていた。分かっていて、私は自分が楽になれる解釈を選んで、それを事実の場所に置いた。

 *

 十三歳の春、天導一臣が庭に来た。

 十九歳の彼は、そのころもう分家の商会の仕事に出ていて、月に一度か二度、天導へ帳簿を届けに来る。私は挨拶をするだけの間柄だった。背が高く、眉がまっすぐで、いつも帳簿と一緒に本を一冊抱えている。学生服を脱いだばかりの背広は、まだ肩のあたりが落ち着いていなかった。実物の彼は、ゲームの立ち絵より歩くのが速い。

 その日は、応接を出たあとに彼が私を探しに来た。

「天導さん」

「はい」

「立ち話ですまないが、先に本人へ言っておきたいことがある」

 私は庭の椅子から立った。

「父たちが、あなたと私の婚約を進めようとしている」

 知っていた。ゲームの瑠璃は一臣の婚約者だ。いつ決まったのかまでは、ゲームには出てこなかった。

「まだ決まっていない。形式が決まるのは、あなたが十六になる春だろうと聞いた。それまで三年ある」

「……はい」

「嫌なら、私の父に言う」

 彼は正面から私を見て言った。

「私の父に言えば、あなたが断ったという形にせずに済む。あなたの母上に断らせるのも角が立つだろう。私が言うのが一番早い。ただ、あなたが本当にどう思っているのかを、私が代わりに決めるわけにはいかない。だから訊いている」

 ゲームの天導一臣は、婚約者の天導瑠璃に冷たかった。会話の選択肢にすら出てこない。名前だけが「婚約者」として存在して、ルートの終盤で「あの婚約は父たちの取り決めで、私は一度も彼女と話していない」と言う。

 いま、私の前に立っている人は、ちゃんと話している。

 そして私は知っている。この婚約は、十八の夜に破棄される。婚約者の天導瑠璃は、断罪される側に立っている。この人が手袋を外すのは、澪の卒業式の朝だ。

 そこまで考えたところで、口が勝手に動いた。

「一臣さん、私と駆け落ちしてください。私もちゃんと働くので。お菓子作りとか」

「……は?」

 一臣は、本当に分からないという顔をした。眉がまっすぐのまま、少しだけ上がった。

「嫌なら父に言う、という話をしている」

「はい」

「駆け落ちは、嫌な相手とするものではないと思うが」

「……ですよね」

「それに、あなたは十三だ」

「はい。すみません。言ってみただけです」

 私は自分の足元を見た。庭の苔が、やけにきれいだった。

 どうしてお菓子作りなのか、自分でも分からなかった。私はお菓子を作れない。ホットケーキを焦がしたことしかない。どこかの台所で、粉の目方を量りながら、帳面に何か書きつけている女の人の夢を見たような気がする。その人は、一臣さんの好きなものまで帳面につけていた。気のせいだ。たぶん。

 軽く振られた。当たり前だった。

「嫌では、ないです」と私は言い直した。「……少し、考えてもいいですか」

「いくらでも」