星猫くるるHOSHINEKO KURURU

天導ルリカは生まれるのを止めた

第十二章 灯籠(2/2)

「新しい痕があります」

 恭介の声が変わった。

「痕」

「鋸の痕です。水面のすぐ下、二本目と三本目の杭の内側に、切り込みが入っております。深さは半分ほど。上から板を踏んでも、すぐには落ちません。人が集まれば、折れるおそれがあります」

「いつのものです」

「昨日はございませんでした」

 小野は、はっきりそう言った。

「わたしは十二日に一度、十四日の朝に一度、見ております。十二日は何もございませんでした。十四日の朝も、あの位置は見ました。ございませんでした」

「では」

「二日のうちのものです。それより古い痕ではございません。木の色が違います。それから、杭の根元に泥が塗ってございます。上から見ると、痕が見えません」

 私は廊下の角で、七月の封筒を思い出していた。私が枕の下に入れて一晩寝た、あの封筒だ。父が「着く前に一度見ておいてください」と書いたから、小野は十二日にも十四日の朝にも柱を見ていた。前と後を見た人がいるから、この痕がいつ付いたかを言い切れる。

 沈黙があった。

「小野さん」

「はい」

「わたしは、これを、本家の旦那様に申し上げたい」

「わたしが申し上げます」

「……なぜ見たのかと訊かれたら、わたしが答えんといかん」

 恭介はそこで黙った。小野は父の顔を見たまま、返事を待っていた。

 点検を頼んだ理由を話せば、妻とその兄を疑っていることまで伝わる。父はそれを恐れたのだと思う。けれど、柱はもう切られている。二人が黙っているあいだに、私が持っていけばいい。見た人の名前を。

 私は、廊下の角から出た。

「とう」

 二人が振り返った。

「瑠璃花。ここにおったのか」

「おのさんが、みた」

 私は言った。

「おのさんが、はしらを、みた。それ、おじさまに、いう」

 恭介が私を見た。

 私は返事を待たずに座敷へ行った。宗一郎は縁側にいた。

「おじさま」

「おう」

「おのさんが、はしらを、みたって」

「柱?」

「さんばしの、はしら。あたらしい、きずが、あるって」

 宗一郎の顔が、変わった。

 彼は立ち上がった。

「小野!」

 小野が来た。恭介が来た。

 宗一郎は自分で二人に確かめた。小野が同じことをもう一度言った。恭介が診療所の話はせずに、手紙で点検を頼んだこと、その理由は子どもの言葉だったことだけを言った。

 私が宗一郎に渡したのは、「おのさんが、みた」という一言だけだった。見た人がそこにいれば、宗一郎は子どもの話ではなく、小野の目を確かめられる。

 宗一郎は、湖のほうを見た。

 三十二歳の彼は、決めない人だと言われている。時計を十年直せていない。静子さんとの縁談も、親族会に急かされるまで決めなかった。

 その人が、この日は、五分で決めた。

「今夜の灯籠は、中止だ」

 彼は言った。

「桟橋の先は封鎖する。小野、綱を張ってくれ。誰も入れるな」

「はい」

「柱は、そのままにしておけ」

「そのまま、でございますか」

「直すな。切ったところを削ったり、板を替えたりするな。誰かが見たときに、そのままの形で残っていなければならん」

「承知しました」

「それから」

 彼は少し考えた。

「舟を一艘、岸寄りに出しておけ。人が乗れるやつだ。櫂も入れておけ」

「はい」

 小野は行った。

 三十分後、桟橋の中ほどに、綱が二本張られた。杭に結んで、腰の高さと、膝の高さ。板の上に「あぶない」と書いた板が置かれた。

 私はそれを前庭から見ていた。

 私が四年前から知っていた桟橋が、いま、封鎖された。

 *

 午後三時に、電報が来た。

 配達の男が自転車で山道を登ってきて、玄関で紙を渡した。

 恭介が受け取って、広げた。紙を裏返したところで、一度、手が止まった。

「本社からです」

 彼は言った。

「至急、戻れと」

 母が廊下に出てきた。

「何ですって」

「本社からの呼び出しです。船台の件でしょう。材の寸法で揉めておりましたから」

「今日?」

「今日と書いてあります」

 私は、彼の袖を掴んだ。

「とう」

「うん」

「いかないで」

 彼はしゃがんだ。

「行かんといかん」

「いかないで」

「瑠璃花」

 彼は私の手を、自分の手で包んだ。

 その手に、力が入っていた。

「父さんは、行く」

 彼は言った。

「行って、確かめてくる」

 私は彼の目を見た。

 彼の目は、私を見ていた。私だけを見ていた。

 ――確かめてくる。

 彼は、そう言った。ただ行かねばならない、というだけではなかった。確かめてくる、と言った。

 父はお絹にも、朝の頼みをもう一度確かめた。それから立ち上がって、母のほうを向いた。

「奥様。用を確かめてまいります」

「無理をなさらないで」

「はい」

 三時半に、彼は出た。

 馬車で山を降りていくのを、私は前庭から見ていた。母も見ていた。貞光も、二階の窓から見ていた。

 母は、玄関に戻るとき、少し肩の力を抜いた。

 私は、それを見た。

 *

 午後六時に、恭介が戻った。

 馬車の音はしなかった。裏口から入ってきたので、家の中の誰も、彼が戻ったことにしばらく気づかなかった。

 最初に気づいたのは、お絹だった。

「旦那様!」

 彼は靴が泥だらけで、汗だくだった。

「奥様には、まだ言うな」

 彼は言った。

「小野さんと、旦那様を呼んでくれ」

 父が表の道を来なかったわけは、私にも分かる気がした。電報で父を遠ざけた人は、父が今夜は戻らないと思っている。そう思わせたまま、先に宗一郎と小野に話すつもりなのだ。

 三人は、玄関脇の小部屋に入った。

 私は、その隣の部屋にいた。お絹に抱かれていた。

 声は、よく聞こえた。

「電話を借りました」

 恭介が言った。

「郵便局の電話です。ここの玄関で話せば、家中に聞こえます。先に疑いだけを知らせたくなかった。三十分待って、本社に繋がりました」

「それで」

「誰も、電報を出しておりません」

 沈黙があった。

「本社の当番に、電報を扱う係へ確かめてもらいました。今日、湖へ電報を出した者はいないと。船台の件は先週片づいた、と言われました」

「では、この電報は」

「紙にある局の名が町の局でしたので、窓口で記録を見せてもらいました。この電報は、帝都から来たものではありません。今日の昼過ぎに、あの町の窓口で打たれております。打ちに来たのは若い男だったと、窓口の者が申しました。名前までは分かりません」

 紙を置く音がした。

「原本は、わたしが持っております」

「恭介君」

 宗一郎の声だった。

「はい」

「これは、君を遠ざけるためのものだ」

「……はい」

「柱が切られ、君が呼び出された」

「はい」

「二つとも、今日だ」

 誰も、何も言わなかった。

 しばらくして、宗一郎が言った。

「警察を呼ぶ」

「旦那様」

「町の駐在では足りん。郡の警察を呼ぶ。私が電話をかける」

 今度は隠す必要がない、と宗一郎は言った。玄関へ出て、この家の電話で警察へ話した。電報の原本も、切られた柱も、そのままにしておくと伝えた。

 照会が済むまでは、父が町の電話で黙って確かめた。電報が偽物だと分かったから、今度は家じゅうに聞こえる電話で呼ぶ。警察が来ると皆が知れば、今夜、誰も桟橋にも舟屋にも手を出せない。宗一郎はわざと玄関の電話を使ったのだと、私は思った。

 掛け時計は六時五分だった。受話器を置いた宗一郎は、こちらへ向き直った。

「車で一時間ほどだそうだ。それまで、小野は舟と桟橋を頼む」

「承知しました」

「それから、今夜の宴は中止だ」

 宗一郎が言った。

「灯籠も中止、宴も中止。家の者は、全員、大広間に集めろ。集まって、待つ」

「集めるので?」

「散らさないためだ。人が散るのが、一番まずい」

 彼は立ち上がったらしかった。

「子どもは」

「別室に」と恭介が言った。「お絹が見ております」

「それでいい。目を離すな」

 *

 私は、二階の小さな部屋にいた。

 お絹と、田中という若い使用人が一緒だった。田中は連絡役で、廊下と部屋を往復していた。

 夕食は、握り飯だった。酒は出なかった。宴が中止になったので、酒は蔵から出されていない。

 私は握り飯を半分食べて、残した。

 母が来たのは、六時二十分ごろだった。

 襖を開けて、母は部屋の入り口に立った。

「お絹」

「はい」

「台所へ行きなさい」

 お絹は、私の横に座ったままだった。

「お絹」

「奥様」

 お絹の声は、震えていた。

「わたくしは、ここにおります」

 母は、動かなかった。

「なんですって」

「お嬢様の側におります。旦那様からも、そう申しつかっております」

「私が行けと言っています」

「行きません」

 沈黙があった。

 母は、田中を見た。田中は下を向いた。

 母は、部屋を出て行った。

 私は、お絹の袖を握っていた。彼女の手も震えていた。

 「おきぬ」

「はい」

「ありがとう」

「まだ何もしておりません」

 彼女はそう言った。

 私は、天井を見ていた。

 古い手口は、崩れた。

 電報は照会された。柱は封鎖された。灯籠は中止された。宴は中止された。酒は出ていない。子どもは別室にいて、大人が二人ついている。警察が呼ばれた。

 前の人生で私が知っていた道筋の、ほとんど全部が塞がった。

 どれも、私が一人で塞いだのではない。父は七月に自分の目で帳面を見て、小野に手紙を書いた。だから小野は柱を前と後で見ていて、新しい痕に気づけた。父は着いた日に町の電話を覚えていたから、電報を本社に照会できた。お絹は七月に「離れません」と言い、今朝、父から「わたしの指図だと言ってください」と言われていた。だから、母に「行きません」と言えた。

 私は、少しだけ、息をついた。

 その二十分後に、母が戻ってきた。

 母は、茶色い小瓶と、匙を持っていた。

 *

「瑠璃」

 母は言った。

「眠りなさい」

 母は畳に膝をついた。瓶の栓を抜いた。匙を出した。

「大人の話が長くなります。あなたは眠っていなさい」

 母は瓶を傾けた。

 匙の上に、透明な液が落ちた。

 母は匙を持って、私のほうへ来た。

 四か月の夜、糖蜜の上に傾いた瓶も、あの色だった。甘い匂い。舌の奥の苦さ。顔を背けて吐いたこと。

 私は、襟のことを考えていた。もし飲まされたら、飲んだふりをして襟に吐こう。襟に薬が残れば、それが証拠になる。四年、私はそれを考えていた。

 匙が、近づいた。

 その手首を、お絹が掴んだ。

 速かった。

 お絹は膝立ちになって、両手で母の手首を掴んでいた。匙が傾いて、液が畳に落ちた。

「奥様」

 お絹の声は、震えていた。震えたまま、はっきりしていた。

「なりません」

 母が、お絹を見た。

 母の顔から、表情が抜けた。

 私は、その顔を見た。

 この人は、いま、初めて止められた。

 この人は、娘へ飲ませる匙を、こんなふうに止められたことがなかった。乳をやり、おむつを替え、糖蜜を飲ませ、髪を梳き、星を留めた。毎日、母がすることだった。名前には父が一字を足したし、本家への引越しにも反対した。でも、この小さな匙を持つ手には、誰も触れなかった。この家では、母親のすることに、女中は口を出さない。

 いま、女中が手首を掴んでいる。

 七月の台所の裏で、「叱られたら、叱られます」と言った手だった。今朝、父から「薬はわたしか医師が確かめるまで飲ませないでください」と言われた手でもあった。

「離しなさい」

「離しません」

「お絹」

「奥様。これは、なりません」

 母は、匙を持ったまま動かなかった。

 匙の中身は、もう畳に落ちていた。

 田中が立ち上がって、廊下へ走り出した。