天導ルリカは生まれるのを止めた
第十二章 灯籠(1/2)
第十二章 灯籠
帝都から汽車で一日かかった。
朝に出て、途中で二度乗り換えて、夕方に町へ着いた。町は湖の手前の谷にあって、駅前に郵便局と、宿が二軒と、雑貨屋があった。
馬車に乗り換えるあいだ、恭介が郵便局の前で立ち止まった。
「電話があるな」
彼は看板を見上げていた。
「星見荘にも電話はあったな。本社への照会は、ここからでも繋がるか」
「繋がりますよ」と馬車の御者が言った。「繋がるまでに時間はかかりますがね。三十分か、一時間か」
「ほう」
彼は郵便局の場所を、しばらく見ていた。
「ここから湖まで、どのくらいだ」
「山道を一時間ですな。車ならもう少し早い」
「車があるのか」
「宿に一台あります。使う人はめったにおりません」
恭介は頷いた。
私はその横で、彼の袖を持っていた。彼が何を覚えようとしているのか、私には分かった。私は何も足さずに、その袖を握っていた。
父は、湖で自分が呼び出されたときに、その呼び出しが本物かどうかを確かめる道を覚えているのだと思った。十一日の夜に「湖では、お前から離れん」と言った人が、離れなければならなくなったときのことを、先に考えている。前の人生で父を湖から引き離したのは、八月十五日の電報だった。私はそれを言わなかった。言えば、また夢の話になる。父が自分で考えて覚えた道なら、その日、父は自分でそれを歩く。
馬車は山道を登った。曲がるたびに車体が傾いて、母が私の肩を押さえた。木が途切れて、湖が見えた。
夕方の湖は、鉛の色をしていた。向こう岸の山が黒く、その上の空だけが明るかった。
星見荘は、湖の東の斜面に建っていた。木造の二階建ての洋館で、屋根が深い。前庭から、湖へ向かって桟橋が伸びている。桟橋は思ったより長かった。杭の上に板を渡して、湖の中へ二十メートルほど出ている。付け根から少し離れたところに、小さな舟屋があった。
玄関に、男の人が立っていた。
「お着きでございます」
小野弥吉だった。三十六歳。日に焼けて、痩せていて、背筋がまっすぐだった。
「小野さん。手紙は」
「頂戴しました」と小野は言った。「昨日、桟橋を見ました」
「どうでした」
「何もございませんでした。明日の朝、もう一度見ます」
彼はそれだけ言って、行李を運び始めた。
玄関脇には電話があった。受話器を上げた女中の声が、階段まで聞こえた。恭介はそちらを一度見て、荷物を下ろした。
玄関の奥から、天導貞光が出てきた。
「遅かったな」
「兄様。もういらしていたの」
「十二日に着いた。一臣も連れてきた」
貞光は私を見た。
「大きくなった」
「はい」
母がそう答えた。私は答えなかった。
その夜、私は小野の娘に会った。
台所の裏で、五歳の女の子が椅子に座って、豆をつまんでいた。日に焼けて、髪を短く切っていて、膝に擦り傷があった。
「澪、ご挨拶を」と小野が言った。
彼女は椅子から降りて、両手を前で組んだ。
「小野澪です。五つです」
私は、彼女を見ていた。
前の人生の澪。私が十六だった春に学院へ転入してきて、良い子でいようとしていた私に「いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ」と言った人。ぶとうとして止まった私の手を見て、「なんでぶたないんですか?」と訊いた人。張り合いの果てに、同じ菓子を半分に割って、桟橋の番人だった父親の話をした人。十八の夜、「あのとき言ってくれていたら、私はあなたを守れた」と言った人。
その人が、いま五歳で、豆をつまんでいる。
目だけは同じだった。人をまっすぐ見る目だ。
「るりか」
私は言った。
名字を言うべきだったかもしれない。四歳だから、それでよかった。
「るりかちゃん」
彼女はそう言った。
私は、少しだけ息が詰まった。
るりかちゃん。
この世界で私をそう呼んだ人は、いない。父は「瑠璃花」と呼ぶ。母は、七夜の晩に一度口にしたきり、花をつけずに「瑠璃」と呼ぶ。お絹は「お嬢様」だ。
「ちゃん」がついた瞬間に、それは、元の世界の呼ばれ方に近づいた。
私はそれを、ただ嬉しいと思った。
嬉しいと思って、それから、自分に言った。
――この子は、私を知らない。
この子が呼んでいるのは、四歳の天導瑠璃花だ。名前が同じだから私が呼ばれているのではない。同じ名前を持った子が、いま、ここにいるだけだ。
「豆、たべる?」と澪が言った。
「たべる」
私たちは生の豆を三つずつ食べて、小野に叱られた。
*
八月十四日の昼に、宗一郎が着いた。
彼は一人だった。
「静子さんは」と母が訊いた。
「この暑さだ。今年はやめておくと言うので、そうさせた」
「まあ」
「無理をさせても仕方がない」
私は、母の顔を見た。
母の顔は、動かなかった。
それより前、午前中に私は桟橋へ行こうとした。
行こうとした、というのは、確かめたかったからだ。柱を、自分の目で見たかった。四歳の目で見て何が分かるわけでもないが、見たかった。
前庭を横切って、桟橋の付け根に足をかけたところで、身体が持ち上がった。
「お嬢様!」
お絹だった。
「桟橋はいけません」
「みる、だけ」
「いけません。落ちたら、わたくしがどうなるかご存じですか」
彼女は私を抱いたまま、前庭へ戻った。
私は彼女の肩越しに、桟橋を見た。
板がずっと先まで並んでいて、付け根から少し離れたところに舟屋がある。杭は水面から上に一メートルほど出ていて、下は見えない。
見えないものは、見えない。
午後、澪と貝殻を集めた。お絹は岸のすぐ上に座り、ときどき私たちの籠を覗き込んだ。
湖に貝がいるとは思っていなかったが、岸には小さな二枚貝の殻がたくさん落ちていた。白いのと、薄紫のと、内側が虹色になっているのがあった。
澪は虹色のを探すのがうまかった。
「これ、いちばんいい」
「うん」
「はんぶんこ」
彼女は虹色の殻を二つ、私にくれた。私は白いのを三つあげた。
その途中で、澪が私の髪を見た。
「それ、なに」
「ほし」
「きれい」
彼女は手を伸ばして、触った。
「ぎんいろ」
「うん」
「いいなあ」
澪は、その次に、こう言った。
「ちょうだい」
私は、口を開けた。
あげる、と言いかけた。
言いかけて、止めた。
喉のところで、言葉が止まった。
――だめだ。
これは、私のものではない。
母がこれを私の髪に留めた。母は「本家の子ですから」と言った。この身体が生まれる前に宗一郎が注文して、裏に「瑠璃へ」と彫らせた。この星は、この身体の子のものだ。
私が友達を作りたいからといって、あげていいものではない。
「ごめん」
私は言った。
「あげられない」
「なんで」
「おじさまが、くれたから」
生まれる前からこの子へ贈られていたことまで、説明する言葉は見つからなかった。
澪は、少し口をとがらせた。
それから、貝殻を見た。
「じゃあ、これでいい」
彼女は虹色の殻を、自分の掌の上で並べ直した。
「これ、ぎんいろよりきれい」
「うん」
「ほんとに、きれいだもん」
彼女は本気でそう言っているようだった。
私たちは日が傾くまで、貝を並べていた。
*
夕方の前に、澪が私を裏山の入口まで連れて行った。
「あっちに、いちごがある」
「いちご」
「ちいさいの。すっぱい」
私たちは、小野に「山へ入るな」と言われていたので、お絹に見てもらいながら、入口の草のところだけを探した。赤い実が三つあった。澪が二つ取って、一つを私にくれた。
すっぱかった。
「すっぱい」
「でしょ」
澪は笑った。彼女は、笑うとき、口を大きく開ける。前の人生の彼女は、私の前で、こんなふうに口を開けて笑ったことはなかった。口の端だけで笑う人だった。
五歳の彼女は、こうやって笑うのか、と私は思った。
「るりかちゃんは、いつまでいるの」
「わかんない」
「あしたも、いる?」
「いる」
「あさっても?」
「いる」
「じゃあ、あしたも、いちご」
「うん」
*
十四日の夕方、大人たちが岸へ出た。
桟橋ではなかった。桟橋から少し北へ寄った、砂利の岸だった。水が浅くて、子どもが入っても膝までしかない。
小野が先に来て、石を並べて、足元を整えていた。
「こちらのほうが安全でございます」
「そうだな」と宗一郎が言った。
子どもは三人いた。私と、澪と、一臣。一臣は靴を脱いで水に入って、すぐ小野に叱られた。
宗一郎が、紙の灯籠を一つ持ってきた。
「一つだけだ」
彼は言った。
「明日、たくさん流す。今日は、これだけ」
「なんで、きょう?」
私が訊いた。
「今日は、私が流したいからだ」
彼は、水際に膝をついて、灯籠に火を入れた。
「誰の?」
「妻の」
彼は言った。
「百合子という。お前を一度、抱いたことがある。お前は、覚えておらんだろう」
私は、宗一郎の手元の火を見ていた。
覚えている、と言いたかった。細い腕で、抱き方が下手だった。赤ん坊を抱いたことがないから重いのか軽いのか分からない、と笑った人だ。言えなかった。
一歳の年に、私はこの人の奥様の部屋のほうを指差して、蘆田先生の袖を離さなかった。先生は発った。百合子さんは、二歳の冬に亡くなった。百合子さんが亡くなって、二度目の夏だった。
「明日は、みんなで流す。今日は、私が一人で流す。それだけだ」
彼は灯籠を水に置いた。
その灯籠の火が、紙を通して、青みがかった白に見えた。
私は、それを見た。
息が、止まった。
――青みがかった白。
フミが言った。
前の人生の十歳の八月、私の髪を梳きながら。お嬢様は帰ってからひと月ばかり、灯籠のお話ばかりなさいました。青いのが一つあった、あれは誰のだった、あれはどこまで行くの、と。
こんな光だったのかもしれない。
前の人生の灯籠は、十五日の夜だった。今は十四日の夕方だ。あの子の見た一つと同じ物ではない。それでも、話さずにはいられなかった気持ちが、少し分かった。
灯籠は、風のない水面をゆっくり離れていった。
澪が「あっ」と言った。
「まわった」
灯籠は、少し回りながら進んだ。
「あれ、どこまでいくの」
澪が訊いた。
宗一郎は、少し考えて、言った。
「向こう岸までは行かん。途中で沈む」
「かわいそう」
「そういうものだ」
私は、水の上の光を見ていた。
この子が話し続けた光は、こんなふうに揺れただろうか。私はいま、自分の目で水の上の火を見ている。
*
夕食は、広間で皆そろってとった。宗一郎、貞光、母、父、分家の夫人と一臣。小野は給仕に立っていた。
汁物が出たところで、分家の夫人が私に笑いかけた。
「瑠璃花ちゃんは、湖は楽しい?」
私が答える前に、母が言った。
「この子は、桟橋へ行きたがって困るの」
母は笑っていた。
「今朝も一人で行こうとして、お絹に抱いて戻されたんですよ。春から、夢に見るらしくて。湖がどうとか、桟橋がどうとか。怖いくせに、行きたがるの」
「まあ、子どもはそういうものですわ」
「目を離すと、すぐいなくなるから」
母はそう言って、私の髪の星を指で直した。
宗一郎が「気をつけねばな」と言った。貞光が「小野、明日は桟橋の付け根に縄を張っておけ」と言った。小野が「はい」と答えた。
食事のあいだに、母は同じことを、言い方を変えてもう二度言った。一度は宗一郎に、一度は給仕の小野に向かって。
私は、匙を持ったまま動けなかった。
春から、私は何度も「みずうみ、いや」と言った。「みずうみで、だれか、しぬ」と言った。本家の廊下で「みんな、みずうみ、こないで」と言った。
それを母は、この家じゅうに、「桟橋を怖がって、桟橋へ行きたがる変な子」として配っていた。今朝、柱を見ようとして桟橋へ行きかけたことまで、母は話の種にした。
明日の晩、私がいなくなれば、ここにいる全員が、同じことを思う。やっぱり、あの子は桟橋へ行った。
私の警告は、母の迷子の口実になっていた。
私はその夜から、人前で桟橋という言葉を口にするのをやめた。湖の話も、しなかった。そして、お絹の袖を、寝るときも離さなかった。
私が桟橋の話をするたびに、母の話が本当らしくなる。だから、口に出さない。それから、迷子は一人でいる子にしか起きない。お絹がそばにいて、父がそばにいれば、私は迷子になれない。七月にお絹と約束したのは、この一つのためだった。
*
その夜、私は聞いてしまった。
母が私を寝かせたのは、二階の奥の部屋だった。母が廊下を去ったあと、私はお絹の袖を引いて、彼女にあてがわれた部屋までついていった。壁を隔てた隣が、貞光の部屋だった。
私はお絹の隣の布団にいた。お絹は眠っていた。
隣の部屋から、母と貞光の声がした。
「明日の晩だ」
「はい」
「灯籠のあとに人が散る。あのときが一番いい」
「はい」
「子は」
「眠らせます」
「眠らんかったら」
「舟屋へ置きます。あの子は桟橋のことばかり言っていますから。いなくなれば、皆、桟橋だと思います」
私は、布団の中で目を開けていた。
「舟屋へ置けば、迷子だ」
「はい」
「探す。皆で探す。宗一郎は先に走る。あれは走る男だ」
「はい」
「桟橋は暗い」
それだけだった。
声が止んで、襖の音がして、足音が離れた。
私は、天井を見ていた。
薬と舟屋は、前の人生で知ったものと同じだった。でも、聞こえた相談は、眠らなくても娘を置き、探しに走らせるというものだった。前の人生で小野が書いた、灯籠の見回りに誘う手口だけではない。
夕食の席で母が三度同じことを言ったのは、このためだった。眠らせられなくても、皆が「あの子は桟橋へ行った」と先に思っていれば、舟屋に置いただけで迷子になる。
私は隣のお絹を揺すった。彼女が目を開けるまで、袖を離さなかった。
「ふねごや。かあさま、おくすり」
お絹は壁のほうを見た。もう声はしなかった。それでも、私を抱いて座り直してくれた。
すぐにお絹を起こしたのは、朝になってから私が父に言うだけでは足りないからだった。朝に言えば、夢を見たのだと言われる。夜中に私が揺り起こして同じことを言ったと、大人のお絹が父に言えば、それは朝に作った話ではなくなる。
翌朝、お絹についてきてもらい、父の部屋へ行った。
「かあさまと、さだみつさま。ふねごやに、おくって」
「お前をか」
「おくすりで、ねかせるって」
父はお絹を見た。お絹は、言葉は聞けなかったが私が夜中に起こし、同じことを言った、と答えた。
「分かった。お前を舟屋へは行かせん」
父は私を膝に乗せたまま、お絹へ顔を向けた。
「奥様が何とおっしゃっても、この子から離れんでください。薬はわたしか医師が確かめるまで飲ませないでください。責められたら、わたしの指図だと言ってください」
お絹は、背筋を伸ばして「はい」と言った。
*
十五日の午後、小野が来た。
彼は玄関ではなく、裏の勝手口から入ってきて、恭介を呼んだ。
私は廊下の角にいた。
「旦那様。桟橋の先の柱ですが」
「はい」