天導ルリカは生まれるのを止めた
第十三章 桟橋(2/2)
恭介は、そのあいだ、何もしなかった。彼は母に近づかなかったし、袂に手を入れなかった。彼は、電報の原本を出しただけだった。
*
その夜、警察が持って行ったものは、こうだった。
未洗浄の匙と、茶碗と、湯冷ましの器。母の袂から出た小瓶。受け取った電報の原本と、恭介が町の郵便局で写してもらった窓口の記録。切られた杭の位置を示した小野の書付。外された綱。板の上の鉄の棒。
現場の経緯を証言したのは、主に三人だった。小野弥吉、天導恭介、お絹。
小野は、十二日と十四日朝に柱を見たこと、十五日午後に痕を見つけたこと、夜に貞光が桟橋へ入ったこと、宗一郎の胸に貞光の手があったことを話した。
恭介は、電報のこと、町での照会のこと、桟橋で見たことを話した。
お絹は、匙のことを話した。話しながら、途中で泣いた。泣いてから、「わたくしは、四年前も、同じ薬らしいものを見ております。あのときも茶色い小瓶から、糖蜜に落としておいででした」と言った。
私は、何も訊かれなかった。
警察は、四歳の子どもには話を聞かなかった。座敷の隅にいる私を一度見て、それだけだった。
それで、よかった。
私の言葉が要らなかったということが、私には嬉しかった。この四年、私が誰かに何かを伝えようとして、伝わらなかったことがたくさんあった。それでも、届いた言葉があった。父はそれを覚えて、自分で確かめに行った。
大人たちは、自分で見て、自分で調べて、自分で証言した。
私の出番は、なかった。
*
廊下の隅に、一臣が座っていた。
膝を抱えて、壁に背をつけていた。誰も彼のところへ行かなかった。大人は皆、警察と、宗一郎と、母のところにいた。
私は、お絹の手を引いて、そこまで行った。
彼は顔を上げなかった。
「僕、なんにもしてないよ」
彼は言った。
「うん」
「桟橋かもって言っただけだよ。おばさんが訊いたから」
「うん」
「見てないって、ちゃんと言ったよ」
「いった」
彼は、膝に顔を埋めた。
「父さん、どうなるの」
私は、答えられなかった。
この子の父は、たったいま、人を水に落とした。それを小野と恭介が見ていて、これから警察に渡される。この子は十歳で、明日から、その息子として生きる。
前の人生の、十三年先の彼は、自分の父の机から紙を取って、それを自分の手で人に渡す。彼は、父を疑いたくないと言いながら、それでも紙を確かめようとした。
この子が、そういう人になるかどうかは、私には分からない。
「わかんない」
私は言った。
「わかんないけど」
私は、彼の靴の先を見ていた。彼は靴のまま廊下に座っていた。誰も叱らなかった。
「かずおみは、みてないっていった」
「うん」
「それは、じぶんでいった」
彼は顔を上げた。
目が赤かった。
「そうだよ」
「うん」
彼は、袖で顔を拭いた。
お絹が、握り飯を一つ持ってきて、彼に渡した。彼は両手で受け取って、廊下でそれを食べた。
*
夜が更けて、座敷に人が減った。
宗一郎は毛布にくるまって、まだ座敷にいた。医師が、動かさないほうがいいと言った。
恭介は、着替えて、宗一郎の横に座っていた。二人とも、何も喋らなかった。
私は、その部屋の隅で、お絹の膝にいた。
小野が入ってきた。彼は澪を抱いていた。澪は眠っていた。五歳の子は、騒ぎの途中で寝てしまったらしかった。
「起きませんでした」と小野が言った。
「そりゃいい」と宗一郎が言った。
小野は座って、澪を膝の上で抱え直した。
私は、その二人を見ていた。
部屋には、二人の父がいた。
湖に落ちて生きている人と、飛び込んで引き上げた人。片方は私の血の父で、片方は私を「瑠璃花」と呼ぶ父だ。
二人とも、この部屋にいる。
どちらも、死んでいない。
私は、昨日の夕方の灯籠を思い出した。
青みがかった白い光。水の上をゆっくり回りながら離れていった。あれはどこまでいくの、と澪が訊いた。向こう岸までは行かん、途中で沈む、と宗一郎が答えた。
あの光を、この子は、ひと月のあいだ話し続ける。
――話し続ける?
私は、そこで少し混乱した。
前の人生でフミが言った「お嬢様は帰ってからひと月、灯籠のお話ばかりなさいました」というのは、あの世界での話だ。この世界の八月十五日は、もう別のものになった。
同じ夕方の、同じ灯籠ではなかった。それでも、私も光の行き先を目で追った。あの子が何度も話したくなった夜を、死のことだけで埋めずに思い浮かべられた。
私は、それでいいと思った。
「瑠璃花」
恭介が言った。
私の身体が、跳ねた。
「眠いか」
「うん」
「寝ろ」
「ここで」
「ここでいい」
彼は自分の膝を叩いた。
私は、お絹の膝から降りて、彼のところへ這っていった。四歳にもなって這うのはおかしいが、その夜は足に力が入らなかった。
彼は私を膝に乗せて、片手で背中を支えた。
私は、その手の重さを感じながら、目を閉じた。
この人の声で名前を呼ばれると、私は毎回跳ねる。四年経っても跳ねる。
私は、ここで眠りたいと思った。