天導ルリカは生まれるのを止めた
第十四章 生まれてこなければ(1/2)
第十四章 生まれてこなければ
九月の初めに、親族会が開かれた。
本家の座敷に、親族会の三人と、宗一郎と、三村弁護士と、恭介が座った。私は隣の部屋にいた。襖は閉まっていたが、隙間があった。
最初に読み上げられたのは、警察から回ってきた供述の写しだった。
辰巳という男の供述だった。湖の町の局から電報を打った男で、貞光の家に住み込んでいる二十二歳の書生だった。八月十五日の朝、貞光から金を受け取り、文面を渡され、指定の時刻に打つよう言われたと、彼は話していた。
三村がそれを読み終えると、しばらく誰も喋らなかった。
それから、宗一郎が言った。
「三村さん。あれを」
三村は、封筒を出した。
「天導宗一郎名義の遺言。認知の条項を含みます。日付は昨年の十二月。原本は当職が保管しております」
「開けてくれ」
「よろしいので」
「私が生きているうちに開ける」
紙を開く音がした。
宗一郎は、読み上げさせなかった。自分で言った。
「瑠璃花は、私の子だ」
座敷が、静かになった。
「藤乃との間の子だ。去年の暮れ、静子さんとの話が決まったとき、藤乃に頼まれて、私はそれを紙にした。三村さんに預けた。私が死んだら効くようにした」
彼は続けた。
「私は、死ぬまで言わないつもりだった。生きているうちに言えば、面倒が起こると思った。だから紙にした。決めなくても効く紙を作った」
彼は、そこで一度、息を吸ったようだった。
「その紙が、私を殺す理由になった」
誰も何も言わなかった。
「だから、いま言う。私は生きている。生きているあいだに、自分の口で言う」
三村が言った。
「では、遺言による認知は」
「実行しない。あれは死んだときに効くものだ。私は死んでいない」
「死んだあとにも効かせない。認知の条項を撤回する書面を、いま作ってくれ」
「承知しました」
三村が紙を広げ、しばらく筆を動かした。書き上げた文を読み、宗一郎に署名を求めた。隙間から、紙の上を動く宗一郎の手が見えた。
「ご署名、確かに。こちらも保管いたします」
「登録上の父は、いかがなさいますか」
三村は、恭介のほうを見た。
恭介は、座り直した。
「わたしは、否認しません」
彼は言った。
「嫡出の否認は、しません。あの子は、わたしの子として届けてあります。そのままにします」
「よろしいので」
「はい」
「血のことは、いま旦那様がおっしゃったとおりです。それを承知のうえで、ということになりますが」
「承知しております」
恭介は、はっきり言った。
「わたしは、名前をつけました」
彼は、それだけ言った。
三村が「承りました」と言った。
父の声は、揺れていなかった。
十一月の夕方、玄関の上がり口で手紙を読んだ人だ。あの日から、この座敷まで、十か月あった。父はそのあいだ、誰にも急かされずに、自分がこの子の何なのかを考えていたのだと思う。考えて、いま、それを一行で言った。
私は、襖の隙間の前で、いま決まったことを順に並べた。
死んだときにだけ効く紙は、なくなった。宗一郎を殺しても、あの紙で得をする者は、もういない。母が求めて書かせた紙は、この日、宗一郎自身の手で、効かない紙になった。
宗一郎は、生きたまま、私が自分の子だと言った。恭介は、それを聞いたうえで、私の父のままでいると言った。私は、血の父を知ったまま、名前をつけた人の娘でいられる。
その日の親族会で、決まったことは、いくつかあった。
天導貞光は、本家の一切の役職を解かれた。後見人の指名も、まだ効いていないので取り消された。彼の刑事のことは警察と裁判所の仕事になる。
蘆田医師との侍医の契約は、終えることになった。処方を続けた判断に、家としてもう信頼を置けない、という宗一郎の意向だった。母と示し合わせていたと決まったわけではない。処方の記録は、捜査のために残された。
天導藤乃は、司法の手に渡った。親族会は、この件について何も決めなかった。決められないから決めない、と三村が言った。
最後に、三村が言った。
「本件の資料は、すべて写しを当職が保管いたします。捜査に要る原本は提出し、残る保管物も所在を届け出ます。写しは、当家が仲直りをなさっても、破棄いたしません」
「なぜ」
親族会の一人が訊いた。
「二十年後に、また同じことを考える者が出たときのためです」
三村はそう答えた。
*
その週に、いくつかのことが決まった。
小野弥吉は、星見荘の管理人を続けることになった。宗一郎が自分でそう言った。「あの人がいなければ舟は出ていなかった」というのが理由だった。
澪の学費についても、宗一郎が申し出た。小野は最初、断った。
「うちの娘に、そこまでしていただく義理はございません」
「義理ではない」
「では、何でございますか」
「私が、そうしたい」
小野は、しばらく考えて、それから、「娘が大きくなったときに、娘に決めさせてやってください」と言った。宗一郎は「そうしよう」と言った。
九月の半ばに、慎が挨拶に来た。
九歳になっていた。父に連れられて、玄関で頭を下げた。
「父の診療所は、これからも町にございます。ただ、こちらのお屋敷には、伺わなくなります」
彼は、そう言った。子どもが大人の言葉を暗記して言っているのが分かった。
私は玄関に出て行った。
「しん」
「はい」
「またね」
彼は、少し困った顔をした。
「……はい」
彼は、それから、自分で考えて、こう言った。
「僕は、大きくなったら、お医者になるかもしれません」
「うん」
「なるかもしれないし、ならないかもしれません」
「うん」
「まだ、わかりません」
「うん」
私は、それでいいと思った。
この子が十一年先に詩集を貸してくれる人になるかどうかは、この子が決めることだ。私が決めることではない。
同じ月に、宗一郎と静子の婚礼について、話があった。
一年、延ばすことになった。
静子が自分でそう言ったのだという。
「あの家が落ち着くまで、私は入りません。入っても、私は片づけをしに来た人になってしまいます」
彼女はそう言ったと、本家から来た佐伯が話しているのを、私は聞いた。
「それで、宗一郎様は何と」
「分かった、と。それから、待つ、と」
「まあ」
「あの旦那様が、待つとおっしゃったのは、初めてでございましょう」
*
九月十四日に、母に面会した。
場所は、警察の建物の一室だった。恭介が連れて行った。お絹もついてきた。二人は部屋の外の廊下にいた。中には、私と、母と、立ち会いの人が一人いた。
机があって、椅子が二つあった。私は椅子に座ると足が床に届かなかった。
母が入ってきた。
着物は自分のものだった。髪は結っていなかった。後ろで束ねているだけだった。
母は座った。
机の上に、茶が二つ出された。母のほうは湯呑で、私のほうは湯冷ましだった。
「熱いよ」
私は言った。
母の茶から湯気が立っていた。母は、湯呑に手を伸ばしかけていた。
「……そう」
母は手を引いた。
「ありがとう」
母は、そう言った。
それから、しばらく黙っていた。
「瑠璃」
「うん」
「娘だと思って抱いていたのは」
母は、そこで一度、言葉を切った。
「誰ですか」
私は、母を見た。
三月の夜も、湖の夜も、母が私に訊いたのは「あなたは誰」だった。今日は、違う訊き方だった。
「わたし」
私は言った。
「わたしだよ」
「あなた」
「うん」
私は、自分の言葉を選んだ。四歳の口で言える言葉を、湖から帰ってからずっと考えていた。
「わたしは、べつのところに、いた」
「別のところ」
「べつの、せかい。おおきいひとだった。おとなだった」
母の目が、動いた。
「はじめは、じゅっさいだった」
「十歳」
「ここのおうちで、じゅっさいから、じゅうはちまで、いた」
母は、まばたきをした。
「じゅうはちで、いろいろあって、それで、じぶんで、もどってきた」
「戻って」
「あかちゃんのところに」
母は、机の上で手を組んだ。
「あなたは、四年前に生まれた子ではないのですか」
「からだは、そう」
「中身が」
「うん」
母は、長く黙っていた。
「では、私の娘は」
私は、答えを、湖から帰ってからずっと考えていた。四歳の口で言える形に、何度も並べ直していた。
「じゅっさいの、あさ」
私は言った。
「はちがつ、じゅうごにち。わたしが、はじめて、きたひ。このこ、ないてた。まくらが、ぬれてた」
母は動かなかった。
「のどに、ことばが、のこってた。このこの、ことば。『……なければ、よかった』って。おしまいの、ところだけ。うまれてこなければ、よかった、って、いったんだと、おもう」
「……」
「わたしは、そのあとに、きた。かあさまと、はなしたあとだった。なにを、はなしたかは、しらない」
母は、長いあいだ、机の木目を見ていた。
それから、顔を上げた。
「分かります」
母は言った。
「十の子が、あの日の朝に私のところへ来て、湖のことを訊いて、パパはいつ帰ってくるのかと訊いたら」
母の声は、淡々としていた。淡々としているぶん、自分の中の何かを正確に読み上げているように聞こえた。
「私は、こう言うでしょうね。あなたは宗一郎さまの子として、本家に入るために生まれたの。それ以外のあなたは、要らない。パパの娘でいたいなら、生まれてこなくてよかった」
パパ、と母は言った。石盤の字と同じ呼び方を、この人生で初めて聞いた。
私は、椅子の上で、自分の手を握っていた。
「言うでしょうね。私なら」
母は、それを否定しなかった。言い訳もしなかった。前の人生で、宗一郎の六度目の命日の、酒の残る朝に、この人が十歳の娘に言ったであろう言葉を、この人は、いま、四歳の私の前で、自分の口で組み立ててみせた。
「このこは、それで、うまれるのを、やめたんだと、おもう」
私は言った。
「わたしは、あいてた、からだに、はいった。……わたしは、そう、おもってる」
母は、目を閉じた。
「その子は」
母は、目を閉じたまま言った。
「戻ってくるの」
私は、すぐには答えなかった。
この問いが来ることは、湖から帰ってからずっと分かっていた。答えを並べ直すたびに、「もどす」と言いたくなった。そう言えば、この人は目を開けるだろう。でもそれは、私の持っていない約束だった。
「……もどしたい」
私は言った。
「もどしたい。でも、もどしかたを、しらない」
母は、目を閉じたままだった。
「とびらが、あるの。わたしにしか、みえない、とびら」
あの三行のことを四歳の口で言える形にすると、とびら、になった。
「でも、わたし、じぶんでは、あけられない。じゅっさいの、さいしょのよる、あけようとした。でなかった。じゅうななの、ふゆにも、やった。ここへ、きてからも。いっかいも、でなかった」
「……自分では、開けられない」
「うん。あくときは、かってに、あく。じゅうはちの、よるは、かってに、あいた」
「開かなかったら」
「わからない」
私は、そこで自分の限界をはっきり言った。
「あかなかったら、わたしが、このからだで、おおきくなる。それしか、できない」
私は証明していない。誰も保証していない。扉がもう一度開くのか、開いたときにあの子が戻るのか、どちらも私には分からない。分からないことを、分かっている顔で言ってはいけなかった。この人の前では、とくに。
「開いたら、あなたは、どこへ行くの」
「しらない。とびらの、さきは、かいてない」
母は、黙った。
「でも、もし、あいたら」
私は続けた。
「こんどは、あとまわしに、しない」
それだけは、私が自分で決められることだった。扉を開けることはできない。でも、開いた扉の前で「次はぜひ」と言わないことなら、私が決められる。
「もし、そのこが、もどったら」
これも、湖から帰ってから、ずっと考えていた言葉だった。言い方を、何度も直した。
「かあさまを、かあさまって、よぶかどうかは、そのこが、きめる」
母は、目を開けた。
「これは、やくそく、じゃない」
私は言った。
「わたしが、きめちゃ、いけないこと。わたしも、とうも、きめちゃ、だめ。そのこが、きめる」
約束なら、守れるかどうかを私が請け負うことになる。これは違った。この子の口を借りて、この人を母と呼んでみせることも、呼ばせないと決めることも、私はしてはいけない。それを、この人の前で、自分に言い聞かせておきたかった。
母は、私の顔を見ていた。
「……そう」
母はそう言って、それ以上、何も言わなかった。
「かあさま」
「はい」
「わたしは、ここに、いたかった」
母が、顔を上げた。
「じけんを、とめたかった。それは、ほんと。でも、それだけじゃない」
私は、言葉を探した。
「ごはん、たべたかった。とうと、ふねを、うかべたかった。かあさまに、かみを、といてもらいたかった」
母は、動かなかった。
「ぬのを、えらんだこと、おぼえてる」
「布」
「みどりの、あおいの。にあうって、いってくれた」
母の顔が、少し崩れた。
それは、何年も先の記憶だ。母にとっては、まだ起きていないことだ。母には、何のことだか分からない。
分からないまま、母は、それを聞いた。
「わたし、うれしかった」
私は言った。
「あれ、うそじゃない」
母は、湯呑を持った。
もう、湯気は立っていなかった。母は一口飲んで、置いた。
「私は」
母は言った。
「あなたが誰でも、乳をやって、着替えさせて、四年間、あなたを抱いていました」
「うん」
「それだけは、あなたが誰でも、変わりません」
「うん」
母は、それ以上何も言わなかった。
立ち会いの人が「時間です」と言った。
私は椅子から降りた。降りるのに苦労した。母は手を出さなかった。出せなかったのかもしれない。
「かあさま」
「はい」
「いく」
母は、何か言いかけた。
「瑠璃――」
そこで、母は止まった。
続きを、母は言わなかった。「花」を足さなかった。足さないまま、「瑠璃」で止まった名前を、母は飲み込んだ。
七夜の晩に一度口にしたきり、四年のあいだ、母は私を「瑠璃花」と呼ばなかった。命名紙に書かれた花の一字を、母の口は、今日も足さなかった。
「……はい」
私は、扉のところで振り返った。
母は座ったままだった。私を見ていた。
私は、この人に、許してくださいとも、許さないとも言わなかった。扉が開いたら行きなさい、とも、行かないで、とも、この人の口から聞きたくなかった。扉の前で何を選ぶかを、この人の許しや命令で決めたくなかった。それに、私はまだ、この家の朝がほしかった。
だから、それ以上は言わなかった。
*
面会から、二週間、私は家で暮らした。
帝都の家だ。母のいない家だった。母の居間の襖は閉まっていた。母の揺り椅子は、もう庭の物置にあった。
お絹がいた。女中頭がいた。恭介が毎日帰ってきた。
九月の終わりの日々は、驚くほど普通だった。