天導ルリカは生まれるのを止めた
第六章 断罪ヒロインを止めた
第六章 断罪ヒロインを止めた
四月二十日。瑠璃さんの、十八の誕生日。
*
成年披露は、本家の星の間で、夜の七時に始まりました。
壁の一面に星の図が、向かいの一面に海の図が貼ってありました。残りの壁は、船の時計で埋まっていました。動いているのは一台だけで、ほかの時計は、みんな違う時刻で止まっていました。旦那様が亡くなってから、家令の佐伯さんが毎朝一台だけを巻いているのだと、瑠璃さんが前に話してくれました。
上座に、親族会の長老の方が三人並んでいました。その脇で、分家の旦那様の貞光様が、八年にわたって瑠璃さんの後見を務めてきたという挨拶をしました。恰幅のよい、赤みのある顔の方で、黒い羽織を着ていました。低い、よく通る声でした。
瑠璃さんのお母様の藤乃様は、前の列にいました。細くて背の高い方で、切れ長の目が瑠璃さんとよく似ていました。牡丹の柄の、華やかなお着物でした。近くを通ると、香の匂いがしました。
瑠璃さんは、黒地に深紅の縁取りのお着物を着ていました。髪を結い上げて、左の鬢に銀の星を留めていました。
私は、慎さんと遼さんと一臣さまと一緒に、後ろの客の席にいました。膝の上に、風呂敷包みを一つ抱えていました。足もとには、多恵さんの家から提げてきた鞄を一つ置いていました。
貞光様が座ると、私は立ちました。
瑠璃さんの長い夢の中では、ここで澪が立つのだそうです。立って、本当のことを言って、最後に瑠璃さんを断罪する。
私は長老の方たちの前まで歩いて、頭を下げました。
「小野弥吉の娘、澪です。父の名誉のことで、皆さまにお見せしたいものがあります」
*
父の手紙を読みました。八月十二日の朝、桟橋の柱に傷はなかった。わしは毎朝見ていた。見ていなかったのではない。
慎さんが立って、蘆田医院の処方簿を開きました。一臣さまが立って、お父上の書斎で見つけた下書きを、長老の方たちに一枚ずつ渡しました。
「私が、見つけました」
一臣さまは、それだけ言いました。貞光様は、一臣さまを見ませんでした。
遼さんが、廊下からお絹さんを連れてきました。小柄で、丸い顔の人でした。お絹さんは震えながら、八月十五日の晩のことを話しました。
それから、大柄な男の人が、右の足を少し引きずりながら入ってきました。日に焼けて、指が太く、背広の肩が合っていませんでした。瑠璃さんのお父様です。夢の中で、造船所の足場から下りてきた人でした。あの年の電報のこと、娘を湖に置いて汽車に乗ったことを、低い声で話しました。
「乗るんじゃなかった。わしは、あの日、乗るんじゃなかった」
瑠璃さんは、お父様のほうを見ませんでした。膝の上で、両手を握っていました。
最後に、私は藍色の帳面と封書の束を、長老の方たちの前に置きました。
「奥様の家計簿と、三村様から瑠璃さんに届いた封書です。去年の冬に、瑠璃さんが、ご自分で私に渡してくださいました」
座敷がざわめきました。
藤乃様は、瑠璃さんを見ていました。瑠璃さんはお母様のほうへ向き直って、深く頭を下げました。
藤乃様は、何も言いませんでした。
九時少し前に、警察の方が来ました。貞光様と藤乃様が席を立ちました。藤乃様は、瑠璃さんの前で一度だけ足を止めて、鬢の星を見ました。何か言いかけて、言わずに出ていきました。
瑠璃さんの肩が、少し下がりました。私の立っているところからは、瑠璃さんの背中しか見えませんでした。
*
長老の方たちは隣の間で長く話して、戻ってきました。真ん中の、いちばん年上の長老が、紙を読み上げました。
天導貞光と天導藤乃のことは、警察に任せる。星見荘の番人、小野弥吉の名誉は、天導家として、これを回復する。
私は頭を下げました。父の手紙を、胸に抱えたままでした。
長老は、紙をめくりました。
「天導瑠璃」
瑠璃さんが、一歩前に出ました。
「あなたに罪はない。帳面を自ら出したことも聞いた。しかし、あなたがこの家の跡取りでいるかぎり、あの夜の企みは実を結んだことになる。よって、本家跡取りの儀はこれを解き、天導一臣との婚約も解く。瑠璃は星見荘に移り、追って、外国の修道院へ遣る」
瑠璃さんは、黙って頭を下げようとしました。
長い夢の中で、瑠璃さんが何度も見た場面でした。
「待ってください」
私は言いました。
座敷じゅうが、私を見ました。瑠璃さんも、頭を下げかけたまま、私を見ました。
私は、瑠璃さんの隣まで歩いて、並んで立ちました。
長い夢の中の私は、瑠璃さんの罪を読み上げたのだそうです。学院での虐めと、帳面を燃やしたこと。けれど、私には、読み上げるものがありませんでした。瑠璃さんは、どちらもしていないからです。
だから代わりに、言いたいことを言いました。
「瑠璃さんは、十歳でした」
声が震えました。震えたまま、続けました。
「あの晩、お母様に薬を飲まされて、暗い舟屋に置かれました。いちばん好きだったおじさまが、本当のお父様が、湖に落ちて、朝まで見つかりませんでした。ひと月で、育ててくれたお父様が、門を出ていきました。それから八年、この家で、あの子に何があったのか、誰か訊いてあげたでしょうか」
長老の方たちは、黙っていました。
「瑠璃さんは、それでも誰も虐めませんでした。番人の娘の私に、最初の日に、ようこそ、と言いました。お母様の帳面を燃やさないで、私に渡しました。渡したら自分がどうなるか、全部分かっていて。今夜ここで、自分が何を言われるかも、全部分かっていて」
目の奥が熱くなりました。
「父は、見ていなかった番人と呼ばれて死にました。今夜、父が毎朝見回っていたことを、認めていただきました。ありがとうございます。……だから、今度は、瑠璃さんの番です」
涙が、ぼろぼろ落ちてきました。止めようとしましたが、止まりませんでした。
「何度も見たんです。瑠璃さんが、荷物一つで、門の外へ出ていくところ。何度も、何度も。そのたびに、どうして誰もこの子のために何も言ってあげないんだろうって、泣いたんです」
本当に何度も見たのは、私ではありません。長い夢の中の瑠璃さんです。けれど、そこで瑠璃さんが泣いたぶんまで、私は泣きたかったのです。
「瑠璃さんを、本家にしてあげてください」
私は、畳に手をつきました。
「お願いします。瑠璃さんを、本家にしてあげて」
座敷が、しんとしました。
隣で、瑠璃さんが、すっと手を挙げました。
「あの」
長老が、瑠璃さんを見ました。
「本家はダメでも、海外に幽閉とかはやめてください。私、澪さんとお菓子屋さんを開くって約束したので」
座敷が、もっとしんとしました。
「……菓子屋」
と、真ん中の長老が言いました。
「はい。一品目は、芋ようかんです」
後ろの客の席で、遼さんが、ぶはっと吹き出しました。慎さんが、遼さんの袖を引っぱりました。一臣さまは、口を結んだまま、少しだけ下を向きました。肩が揺れていました。
それから、一臣さまが立ちました。
「婚約を解くことには、私も異存ありません。……菓子屋の件は、私には何も言えません」
「言わなくてよい」
と、長老が言いました。
*
長老の方たちは、もう一度、隣の間へ行きました。今度は、すぐに戻ってきました。
真ん中の長老は、紙を読みませんでした。手に持ったまま、私と瑠璃さんを見ました。
「本家の件は、ならん。先ほど言ったとおりだ。あなたの母の企みを、この家が実らせるわけにはいかん」
瑠璃さんは、はい、と言いました。畳の上で、私の手を、そっと握りました。
「外国の件は、取り下げる」
私は顔を上げました。
「星見荘へ移りなさい。そこで、しばらく頭を冷やすように。……二人ともだ」
「二人とも」
「小野の娘。あなたも、頭を冷やしなさい」
長老は、紙をたたみました。
「菓子屋の件は、二十歳になってから、自分で決めればよい。この家は、もう口を出さん」
*
星見荘へは、その晩の夜行で行くことになりました。
荷物を一つずつ持って、瑠璃さんと本家の門を出ると、門の外に、大柄な男の人が立っていました。背広の上着を脱いで、腕にかけていました。
男の人は瑠璃さんを見て、少し迷ってから言いました。
「送っていこうか」
瑠璃さんが、息を止めたのが分かりました。長い夢の、いちばん最後の場面でした。
瑠璃さんは、あなた、誰、とは言いませんでした。
「……はい。駅まで。二人ぶん、お願いします」
男の人は私を見て、頷きました。それから、私たちの荷物を二つとも片手で持ちました。
駅までの道で、瑠璃さんはずっと下を向いていました。下を向いて、声を出さずに泣いていました。私は瑠璃さんの手を握って歩きました。男の人は、少し前を、ゆっくり歩いていました。
改札の前で、男の人は荷物を私たちに返しました。
「湖は、まだ寒い。風邪ひかんようにな」
瑠璃さんは、はい、と言いました。それから、もう一度、はい、と言いました。
*
夜行の三等車は、寒くて、座席が固くて、ほとんど眠れませんでした。
夜が明けるころ、窓の外が白くなってきました。田んぼに、薄く水が張ってありました。
瑠璃さんが、窓に額をつけたまま言いました。
「説得、結局ダメだったねー」
「本家は、です」
「うん、本家は」
「外国は、なくなりました」
「あれはね、澪の説得じゃなくて、お菓子屋さんの説得だと思う」
「芋ようかんと言ったのが、よかったんだと思います」
「長老さま、最後、ちょっと笑ってたよね」
「笑ってました」
瑠璃さんは額を窓から離して、私を見ました。
「澪。断罪、しなかったね」
「しませんでした。言ったとおりです」
「お話、壊れちゃった」
「壊してしまいました」
「壊れてよかったんだよ」
瑠璃さんは、少し笑いました。
「あのね。夢の中のお話には、一回最後まで見た人しか行けない、裏の道があったりするの。……たぶん、これ、それ」
「裏の道」
「うん。裏の道」
瑠璃さんはしばらく窓の外を見ていました。それから、小さな声で言いました。
「泣いてくれて、ありがとう。夢の中で泣いてた私の分まで」
私は何も言わないで、瑠璃さんの手を握りました。瑠璃さんの手は、今朝は、あまり冷たくありませんでした。
*
星見荘に着いたのは、午後でした。
星見荘の門をくぐるのは、父が暇を出されてから初めてでした。桟橋は、事件の次の年に架け替えられていて、板も杭も新しくなっていました。番人小屋には、知らない白髪のおじいさんが住んでいて、私の名前を聞くと、帽子を取って頭を下げました。
夕方、瑠璃さんが言いました。
「灯籠、流したい」
「今、四月ですよ」
「うん。でも、流したい」
番人のおじいさんに訊くと、舟屋に、去年のお盆の残りがあると言いました。
舟屋の戸の前で、瑠璃さんは足を止めました。
八年前の晩、十歳の瑠璃さんが置かれていた場所でした。瑠璃さんの中には、そのときのことを覚えている十歳の瑠璃さんがいるのだと思います。
私は、瑠璃さんの手を取りました。
「一緒に入りましょう」
「……うん」
舟屋の中は、板の匂いがしました。棚の上に、紙の灯籠が重ねてありました。私たちはそれを、両腕に抱えられるだけ抱えて、外へ出ました。
*
日が沈んで、湖が暗くなってから、桟橋の先へ行きました。新しい板は、歩いても鳴りませんでした。
灯籠の中の蝋燭に、一つずつ火を入れました。
「これは、おじさまの分」
瑠璃さんが、最初の一つを水に置きました。
「これは、父の分」
私が、次の一つを置きました。
二つの灯籠は、並んで、ゆっくり離れていきました。
「あとはね、澪の夢の中の、私たちの分」
瑠璃さんは、灯籠を一つずつ私に渡しました。私は一つずつ名前を呼んで、水に置きました。
「桟橋の下に、一緒に潜ったるりちゃん」
「帳面をくれて、北の町でお菓子屋さんをしている瑠璃さん」
「豆を食べた、るりかちゃん」
「南浦の造船所の、瑠璃さん」
「はんぶんこした、天導さん」
どの人にも、私は会ったことがありません。夢の中でしか。それでも、みんな瑠璃さんでした。
灯籠は、少しずつ間をあけて、暗い水の上に並んでいきました。
手元には、灯籠が二つ残っていました。瑠璃さんは、その一つを自分で水に置きました。
「これは、夢の中で泣いてた私の分」
それから、最後の一つを、私と二人で持ちました。
「これは」
瑠璃さんは少し考えてから、言いました。
「みんなの分」
誰の分なのか、私は訊きませんでした。二人で、そっと水に置きました。
灯籠は、ほかの灯籠を追いかけるように、ゆっくり沖へ出ていきました。湖の上に、小さな火がいくつも揺れていました。向こう岸までは届かないかもね、と瑠璃さんが言いました。途中で沈んでも、それでいいの、とも。
瑠璃さんは、両手を口の横に当てました。
「みんなハッピーエンドになーれ!」