天導ルリカは生まれるのを止めた
第五章 本家でよくないですか
第五章 本家でよくないですか
二年目の春から、卒業の朝まで。
*
四月に、瑠璃さんは十七になりました。私は、学院の最後の学年になりました。
その春に見た夢の瑠璃さんは、初めて、私と仲の悪い瑠璃さんでした。
夢の中の私は、瑠璃さんに意地の悪いことを言っていました。学院の廊下で、瑠璃さんが、分からないことがあったら何でも訊いてください、と言って、握手の手を出したときです。
「いまさら良い子のふりをしても、もう遅いですよ」
瑠璃さんの顔が、みるみる赤くなりました。手が上がりました。ぶたれる、と思いました。夢の私は、目をつぶりませんでした。
手は、私の頬の前で止まりました。止まったまま、ぷるぷる震えていました。
「……なんでぶたないんですか?」
「いや、暴力はさすがにダメだ」
瑠璃さんは真顔でそう言って、手を下ろしました。
夢の中の私たちは、それからずっと張り合っていました。試験の順位で、講読会の窓際の席で、購買の栗饅頭の取り合いで。仲が悪いのに、その瑠璃さんも、どこか優しい人でした。張り合いの果てに、最後の一つの栗饅頭を真ん中から割って、はんぶんこしました。そのとき夢の私は、父の話をしました。
夢は、そこで終わりませんでした。ずっと先の、どこかの夜に、夢の私は瑠璃さんに言っていました。
「あのとき言ってくれていたら、私はあなたを守れた」
瑠璃さんは、何も答えませんでした。
目が覚めたとき、私は泣いていました。
守れた、という言葉が、胸に残っていました。夢の私は、守りたかったのに、守れなかったのです。
今度は、言われる前に守ろう。そう思いながら、顔を洗いました。
*
その一年で、瑠璃さんの手帳の四行は、少しずつ埋まっていきました。
六月に、慎さんが、蘆田医院の古い処方簿を持ってきてくれました。七年前の四月から、天導藤乃様の名前が並んでいる頁です。慎さんは頁を開いたまま、しばらく黙っていて、それから「父には、僕から話します」と言いました。
七月に、遼さんが、湖の近くの村でお絹さんを見つけました。夏休みに伯母の家へ帰っていたあいだに、私は三度、お絹さんに会いに行きました。三度目に、お絹さんは話してくれました。八月十五日の晩、奥様がお嬢様に匙で何かを飲ませていたこと。そのあと台所へ行けと言われて、行ったこと。
九月に、一臣さまが、お父上の書斎から手紙の下書きを見つけました。湖の年の七月に、親族会の長老の方たちへ配った、後見の根回しの下書きです。一臣さまは、それを自分で私のところへ持ってきて、
「これは、私が決めた」
とだけ言いました。
南浦の造船所の、瑠璃さんのお父様には、遼さんが手紙を書きました。返事は短くて、行く、とだけありました。
瑠璃さんは、四行の横に一つずつ印をつけていきました。印をつけるたびに、少しずつ静かになりました。
最後まで残ったのは、一行目でした。
*
十二月の、雪の降った日でした。
放課後、瑠璃さんに空き教室へ呼ばれました。用務員さんが暖炉に火を入れてくれていました。瑠璃さんは暖炉の前に椅子を二つ並べて、膝の上に、藍色の表紙の帳面を一冊と、紐でくくった封書の束を置いていました。
「お話の中の私はね」
瑠璃さんは、火を見ながら言いました。
「今ごろ、これを、ここに入れるの」
瑠璃さんは帳面を持ち上げて、暖炉のほうへ少し差し出しました。火の明かりで、藍色の表紙が赤っぽく見えました。
私は、瑠璃さんの手首をつかみました。
夢の中の桟橋の下で、触らないで、と私の手を止めたのは、るりちゃんのほうでした。今度は、私が止める番でした。
「……入れないよ」
瑠璃さんは笑いました。
「入れない。渡すの。はい」
瑠璃さんは、帳面と封書の束を、私の膝にのせました。
「母の家計簿。七年前の。四月から、薬のことが書いてある。先月、母の文机の奥で見つけたの。封書は、三村さんっていう弁護士さんから届いたもの。お話の中では、中身、最後まで分からないの。燃えちゃうから」
「読んだんですか」
「昨日、読んだ」
瑠璃さんは、封書の束のいちばん上の一通を、指でさしました。宛名の字が、細くて、きちんとしていました。
「おじさまの字。私が生まれる前に書いたんだって。女の子なら、瑠璃、って。銀細工屋さんに星を頼んだ、って」
瑠璃さんは、何も留めていない左の鬢に、指で触りました。
「……おじさま、私の本当のお父さんだったみたい」
私は、何も言えませんでした。
「お話の中の私は、これを読まないで燃やしちゃうの。だから、知らなかったんだ。夢で何回見ても」
瑠璃さんは笑っていました。笑っているのに、声の最後が少しだけ揺れました。
「ずるいよね。知ってたら、十歳の夏までに、もっとちゃんと、おじさまの時計を見ておいたのに」
私は、瑠璃さんの手を取りました。
冷たい手でした。暖炉の前にいたのに、指の先まで冷えていました。私は両手で包んで、握りました。瑠璃さんは少しびっくりしたようでしたが、手を引っこめませんでした。
火が、ぱちんと鳴りました。
そのとき、私は、この人が好きなのだと思いました。
夢の中の、どの瑠璃さんでもなく、この、冷たい手の瑠璃さんが。
言いませんでした。言ったら瑠璃さんは、きっとまた、それはお話の決まりだから、と笑う気がしました。お話の決まりで好きになったのだと、この人に思われるのは、嫌でした。
手を握ったまま、私は別のことを言いました。
「瑠璃さん、本家でよくないですか?」
「え」
「旦那様の、本当の娘さんなんですよね。だったら、瑠璃さんが本家で、いいじゃないですか」
瑠璃さんは、笑って首を振りました。
「だめだよ」
「どうしてですか」
「お母さまは、私を本家にしたくて、あの夜のことをしたの。私が本家になったら、お母さまの計画がうまくいったことになっちゃう」
「瑠璃さんは、何も計画していません」
「うん。してない。でも、私が本家をもらったら、計画した人が欲しかったものが、ちゃんと届いちゃう。それは、だめ」
瑠璃さんは、私の手の中で、指を少し動かしました。
「だから、もらわないの」
*
私は、その日は引き下がりました。
次の日、また言いました。
「瑠璃さん。お母様が欲しかったのと違うやり方で本家になれば、いいんじゃないですか」
「どんなやり方?」
「……考えます」
その次の週にも言いました。
「半分だけ本家、というのは」
「半分だけ本家ってなに」
瑠璃さんは、お腹を抱えて笑いました。
年が明けてからも、私は言いました。寄宿舎の台所で、瑠璃さんが芋ようかんを切っているとき。図書室で、また一臣さまの本を二人で読んで、また一頁も覚えていなかったとき。
「瑠璃さん、本家で」
「だめ」
瑠璃さんは、そのたびに笑って首を振りました。首の振り方が、だんだん上手になっていきました。
一度だけ、笑わなかった日があります。
二月の終わりの、図書室の帰りでした。窓の外で、雪が雨に変わりかけていました。
「ほんとはね、ちょっと怖いの」
瑠璃さんは、本の包みを胸に抱えて言いました。
「修道院。海の向こうの。お話の最後の絵でね、私、船の甲板に一人で立ってるの。背中しか描いてないの。どんな顔してるのか、何回見ても分からなかった」
私は、瑠璃さんの横を歩いていました。
「その絵、私も見なくていいです」
瑠璃さんは立ち止まって、私を見ました。それから、ふっと笑いました。
「澪、見なくていい絵、多いね」
「はい。多いです」
瑠璃さんは、また歩き出しました。その日は、本家で、とは言いませんでした。言わなくても、私が何を思っているかは、瑠璃さんにも分かっていたと思います。
*
三月に、私は学院を卒業しました。女子師範の推薦の話もありましたが、お断りしました。四月の二十日までは、同じ部屋だった多恵さんのお家の呉服屋に置いてもらい、そのあとは、どこへでも瑠璃さんの行くところへ行く、と決めていました。瑠璃さんには、まだ言っていませんでした。
卒業式の朝、寄宿舎を出て並木道を歩いていくと、並木の途中に瑠璃さんが立っていました。在校生が来るには、まだ早い時間でした。
瑠璃さんは、紺の外套を着て、白い手袋をしていました。
私が近づくと、瑠璃さんは右手の手袋を、指先から一本ずつ引っぱって外しました。外した手を、私のほうへ出しました。
「澪」
私は立ち止まりました。
「……それ、一臣さまの」
「取っちゃった」
瑠璃さんは、耳まで赤くなっていました。
「絵、見なくていいって言ったでしょ。だから、見なくていいやつにした」
私は、手袋をしていない瑠璃さんの手を取りました。三月の朝で、瑠璃さんの手は、やっぱり冷たかったのです。
瑠璃さんは、少しだけ力を入れて握り返しました。
「手袋越しでは、嫌だった」
「……台詞まで」
「台詞まで」
並木道の向こうで、下級生の誰かが「天導さまが」と言うのが聞こえました。瑠璃さんは手を離しませんでした。私も離しませんでした。
瑠璃さんの十八の誕生日まで、あと一か月と少しでした。