カードアース
シックス編 第一章前編
シックス編 第一章前編
知らない天井だった。
白くて、つるりとしていて、隅の細い溝から朝の光がにじんでいる。窓の光ではない。部屋そのものが「朝ですよ」と言っている光だ。
「……おお」
声が出た。声も出るのか。
布団をどける。軽い。足を床に下ろす。膝が曲がる。足の裏に、ひやりとした板の感触が届く。立つ。立てた。一歩目で、ぐらりと傾いた。
「おっと。おっとっと」
机の角をつかむ。指に硬さが返ってくる。硬いのに、どこか薄い。新品の靴みたいな身体だった。サイズは合っているのに、まだ足に馴染んでいない。
どこからともなく、短い定型の音声が流れた。駅の券売機と同じ温度の、誰のためでもない声だ。
『からだ合わせを行います。その場で、ゆっくり三歩、歩いてください』
「からだ合わせ」
復唱しても、返事はない。そういう相手ではないらしい。かわりに、壁に小さな文字が出た。身体プロファイルを調整しています。歩幅、重心、腕の振りを、あなたに合わせます——。
言われるまま、三歩歩いた。三歩目で、床を踏む感触が、すこん、と足の真ん中に来た。さっきまで靴下二枚ぶんくらい遠かった床が、急に素足の距離になる。音声は『完了しました』とだけ言って、それきり黙った。愛想はないが、仕事は確かだ。なるほど、こういうことか。この世界は、身体を貸してくれるだけじゃない。身体の側を、俺に合わせて仕立て直してくるのだ。
「歩ける。……歩けるな。よし」
誰もいない部屋で、俺はひとりで実況していた。癖にしておこう、と思う。これから俺は、これを仕事にするつもりなのだ。
流し台の上の小さな鏡に、知らない男が映っていた。……いや、俺か。これが、こっちの俺。現実の俺より肩まわりが厚くて、髪は暗い青緑色をしている。深い海の底みたいな色だ。自分で選んだくせに、三秒ほど他人だった。からだ合わせが済むと、鏡の中のそいつが、ちゃんと俺の速度でまばたきをした。それで、手打ちにした。
ここはゲームの中だ。カードアース3。ゴーグルで覗くだけのゲームじゃない。俺の身体には最先端の何かが埋まっていて、この世界を丸ごと体感できる。俺はこの体験を配信したくて、自分からこの枠に潜り込んだ。サナナには「抽選に当たった」と言ってある。説明としてはそれがいちばん早い。
部屋を見回す。白いベッド、小さなテーブル、二人掛けのソファ、流し台と調理台。調理台の横の壁には、二〇二七年一月のカレンダーが掛かっている。ゲームの中にもカレンダーがあるのか。生活はできそうだが、自宅という感じはしない。ホテルの部屋を、ゲーム用に消毒したみたいな空間だ。
机の上でスマホが鳴った。
ゲーム内のスマホだ。視界に文字が浮かんだりはしない。この世界では、情報はスマホの中にある。画面には大きく「限定録画を開始」。その下にチャンネル名。
シックス。
俺だ。俺がそう登録した。その下に、共有相手がひとり表示されている。
サナナ。
読み終えた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。早い。早すぎる。俺はまだロボットみたいな歩き方しかできないんだが。
膝を上げすぎた妙な足取りでドアへ向かうと、開ける前に外から開いた。
「うおっ」
前のめりになった俺を、柔らかいものが受け止めた。
肩から、腕から、胸から、体温がまとめて届く。手だけじゃない。ぶつかった場所ぜんぶが、ちゃんとあたたかい。
「おっと。大丈夫か?」
耳元で女の声がした。顔を上げる。俺より、頭半分ほど低い。赤い短髪。小さく見えるのに、立ち方だけ妙に強い。白い短い上着の前は大胆に開いていて、下には黒いブラトップみたいなインナーが見える。ヘソまで出ているのに、いやらしいというより、本人の態度が堂々としすぎていて目のやり場に困る服だった。
「……誰だ?」
「オレだよ」
その雑な自己紹介で通ると思っているやつを、俺はひとりしか知らない。
「お前か。……可愛いな」
「可愛いだろ!」
声は、知らない女の子の声だった。なのに、この間合いと、この距離の近さと、この言い方は、現実のあいつのままだった。中身がそのままで、外側と声だけが赤髪の美少女になっている。脳が追いつくまで三秒かかった。
「声、違うな」
「ボイチェンだよ。オレは普通に喋ってるだけ。いまのAIはすげーんだ、地声のクセまで消してくれる」
「便利な時代だ」
「だろ。——おい、本名で呼ぶなよ。録画に乗ったら面倒だ」
「分かってる。……サナナか?」
さっきスマホに出ていた名前を口にすると、サナナはにっと笑った。
「そうだよ。可愛い名前だろ」
「名前も可愛い。全部可愛い」
「褒めすぎ。気持ち悪い。録画回してから言え」
俺はスマホの「限定録画を開始」を押した。数字が動き出す。00:00:01。
「はい、始まった。……で、と」
サナナは俺のスマホを横からのぞき込んで、眉を寄せた。
「チャンネル名、デフォルトのままだな。シックス」
「俺がシックスだからな」
「お前がシックスで、チャンネルもシックスだと、しっくりこないんだよ。呼び分けできないし、検索したらお前本人と混ざる。……よし、ログを足すか。シックスログ」
「シックスログ」
「体感の記録だから、ログ。お前の名前が入ってて、何のチャンネルか一発で分かって、口に出して言いやすい。伸びる名前の三条件だ」
「いま考えたろ」
「いま考えたに決まってるだろ。三秒で正解を出すのが編集者なんだよ」
サナナはそのまま俺のスマホを操作して、設定を二つ三つ直した。共有相手というより、ほぼマネージャーである。
「限定録画……これ、誰が見られるんだ?」
「実質オレだけ。あとで見返して、使えるところだけ編集して出す」
「編集って、どこでやるんだ。家に帰ってからか?」
「このスマホに最初から入ってる。スターターの編集機能。切って、つないで、字幕入れて、そのまま公開まで、ゲームから出ないで全部できる」
「外の動画サイトにも?」
「出せる。CE3の公式ゲートを通すと、向こうのサイトに投稿されたことになる。逆に言うと、現実の端末とか、本名とか、そういうのはこっちから見えない。配信者には便利。身元確認したい幼馴染には不便」
「最後のは誰の話だ」
「未来のお前」
「便利な時代だ」
「二回目だぞ、それ」
サナナは俺のスマホを、さらに二回叩いた。録画設定の奥に、見慣れない言葉が並んでいる。サーバ側体感ログ。平面切り出し。自動マスク。何かの契約書みたいで、すでに配信者っぽさより事務っぽさが勝っていた。
「普通の録画と何が違うんだ」
「お前の目に映った映像だけじゃないってこと。部屋の中の物の位置とか、音とか、許可の出てる相手の表情とか、そういうのをサーバがまとめて持ってる。録画っていうか、世界のほうを、まるごと覚えてるの。あとから少しだけカメラを置き直せるし、通りすがりの人は勝手にぼかせる。体感勢のログを、PCやスマホで見られる平面動画に焼くわけ」
「編集者、要るのか、それ」
「要るに決まってるだろ。素材が賢くなっても、面白いところを選ぶのは人間の仕事だ。……たぶん」
「最後の、たぶん、要る?」
「未来のお前、その二」
「お前が編集するのか」
「オレ、編集うまいんだよ。学校の文化祭の動画、全部オレが切ってた。素材はいいのに撮り方が下手なやつの動画を直すの、得意」
「それ、俺のことか」
「これからのお前のことだな」
ひどい言われようだが、頼もしいのも事実だった。餅は餅屋、動画はサナナだ。
サナナはベッドに腰掛けて、両手をひらひらさせた。指から手首まで、黒い薄手の手袋をはめている。
「で、体感勢の調子はどうだ」
「変だ。床を踏んでる感じはある。風呂上がりに新しい靴下を履いたみたいな感じが、全身にある」
「例えが生活くさいな。痛みは?」
「ない。転びかけたけど、痛くなかった」
「ふーん。……こっちはこれだ。触覚デバイス。手袋型。装着した指にだけ、感触が返る」
「手だけか」
「手だけ。だから、ほら」
サナナが手を差し出してきた。握る。と、わざと指の間に指をねじ込んできた。
「なんで恋人繋ぎなんだよ」
「検証だよ、検証。指ごとに返るらしいから。人差し指だけ動かすぞ。分かるか?」
「分かる。くすぐったい」
「よし。じゃあ薬指」
「分かる。……なあ、これ、録画に残ってるんだよな」
「『体感勢と恋人繋ぎしてみた』。サムネはこれでいこう」
「やめろ」
ためしに、俺のほうから強めに握り返してみた。
「痛っ……くは、ないな。おい、いま俺、けっこう強く握ったぞ」
「あー、それはこっちには来ない。手袋はさ、触った感じは返してくれるけど、握り返される力までは作れないんだよ。押し合いっこは、できない。……そっちは? オレの握力、感じる?」
「感じる。指が、ちゃんと俺の手の形に沿って曲がってる。……なんか、悪いな。俺だけ」
「いいんだよ。そのぶん検証台になれ」
つないだ手は、たしかにあたたかかった。
考えてみれば、あいつとこうやってだらだら過ごすのは、ずいぶん久しぶりだった。昔は毎日、あきもせず一緒にいたのに、いまの俺たちは、現実では会えていない。だからこのあたたかさが、たとえゲームの作りものでも、俺にはけっこう、くるものがあった。
ただ、サナナの側は手袋の中で空気を握っているだけらしい。俺だけが、全身で世界を受け取っている。ちょっとした申し訳なさがあった。
サナナはひとしきり検証を終えると、ベッドの上にごろりと転がって、枕を抱えた。完全にくつろいでいる。人の部屋──というか、ゲームの部屋なんだが。
「そういえば俺、配信で何かやろうとしてたんだよな」
「何?」
「ええと……セ」
「セ?」
「セック……」
「待て」
サナナが、すっと立ち上がった。真顔だった。さっきまで枕を抱えてごろごろしていたのに、立ち方だけ機敏だった。
「それは配信で言っていいやつか?」
「言っていいと思うが」
「……」
サナナは三秒ほど固まって、壁を見ていた。視線の先には、二〇二七年一月のカレンダー。それから、ぽんと手を打った。
「ああ——セックか! そうだよ、今日は一月七日、七草のセックだ。それならオレが作ってやるよ」
「なんで一回止めた」
「いいから。座ってろ」
よく分からんが、飯を作ってくれるらしい。サナナは調理台の前に立って、手を動かし始めた。俺の目には、何もない空中から米と草を取り出しているように見える。実際は画面から材料を選んでいるんだろう。包丁の音がして、鍋から湯気が立って、三十秒で椀がふたつテーブルに並んだ。
「早いな」
「調理はミニゲームだからな。はい、七草がゆ」
白い粥に、緑が散っている。湯気から、草の青い匂いがした。匂いも来るのか。椀を持つと熱い。熱いのに、火傷の怖さはない。
ひとくち、すくって食べた。
米の甘さ。草のほろ苦さ。喉を通る熱。
そして——腹に、落ちた。
「……うまい」
胃のあたりが、じんわりあったかくなる。食った、という実感が、ちゃんと身体の真ん中にある。ゲームの中で、俺はいま、間違いなく朝飯を食っている。
「おい、リアクション。配信者だろ」
「そうだった。——うわ、めっっちゃうめえ!」
「ヘタクソか! 棒読みすんな!」
「難しいんだよ。本当にうまいときほど、声にすると嘘くさくなる」
「それを何とかするのが配信者なんだよなあ」
サナナは笑いながら、自分の椀をつついた。匙は動くが、口には運ばない。
「食わないのか」
「オレはPCだぞ。画面と音だけ。味の道具も今日は置いてきた。あれ、鼻の下がくすぐったいんだよな。……つまりオレの七草がゆは、見た目百点、味ゼロ点。お前のは?」
「見た目百点、味百点、腹まで来る」
「役満じゃねえか。ずるいぞ体感勢」
「……俺だけずるいな」
「ずるい。しかもお前、いま腹まで膨れてるんだろ? それ、ちょっと心配なんだけど。ゲームの飯で満腹になったらさ、リアルの飯、食わなくならないか? 危なくない?」
いい質問だった。いい質問すぎて、答えの手前で言葉を選ぶ。
「——俺は、大丈夫らしい」
「らしい、って何だよ」
「そういう枠なんだよ。ちゃんとしてるんだ、いろいろ」
「ふうん」
サナナはそれ以上突っ込んでこなかった。突っ込んでこない、ということを、俺は覚えておくことにした。
「よし、次。外に出たい」
「お、いいね。そこが本番だろ」
部屋を出ると白い廊下で、扉の横に「体感ユーザー用オンボーディングルーム 06」と小さく表示が出ていた。ルーム06のシックス。縁起がいいのか悪いのか分からない。エレベーターで下りて、誰もいない受付のロビーを抜ける。
自動扉が開いた。
光が、どっと入ってきた。
「……おお」
白い石畳の広場だった。中央で噴水が水を跳ね上げている。水しぶきが風に乗って、頬に当たって、ひやりと消えた。頬で、風が分かる。広場の先には青い水路が走り、石とガラスの建物が並び、壁から蔦が垂れ、遠くの塔の上を鳥がゆっくり回っている。
空が、高かった。
現実より高い、という言い方は変だ。でも、そうとしか言えなかった。青の奥に、まだ青がある。
広場には人がいた。革鎧の男。ローブの女。猫耳のやつ。みんなキャラクターのはずなのに、遠目にはただ、朝の街を歩く人に見えた。
俺は一歩、石畳に出た。足の裏が石を踏む。風が服を揺らす。噴水の音が、耳の奥で広がる。
「……すごいな。おい、サナナ、すごいな、これ」
「お、やっと配信者っぽい声出た」
「これ、俺だけが見てるの、もったいないな」
「録画は残ってるけどな」
「そうじゃなくて。……ちゃんと見せたい。テストじゃなくて、ちゃんとしたやつで」
サナナは少し黙って、それから、にっと笑った。
「じゃあ今日はここまでだ。続きは本番でやれ。今日のぶんはオレが確認して、使えるところだけ動画にしといてやる」
「任せた」
「任された。——初セック、完了だな」
「その言い方で合ってるのか?」
「合ってることにする」
俺は停止ボタンを押した。最後に映っていたのは、噴水越しの、高すぎる空だった。
腹は満ちていた。それが、なんだか無性に嬉しかった。