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レナティア編 第二章 曙光(1/3)
レナティア編 第二章 曙光
コーベの朝は、鐘の音で始まる。
港の鐘が二回鳴ると、掲示板の依頼が入れ替わる。三回目の鐘で、パン屋の屋台の看板が「焼きたて」の表示に切り替わる。四回目はない。四回目のかわりに、たいてい狸の声がする。
「レナちゃーん、おはよー。日課いこ、日課ー」
日課、というのは冒険者の朝の勤めだ。その日の掲示板に並ぶ「おすすめ」の依頼を三つこなすと、報酬の経験値がたっぷりもらえる。毎日つづければ、一日か二日にひとつ、レベルが上がる勘定になる。この世界は、コツコツやる者の味方をするように出来ているのだった。
レナティアのレベルは、四十を超えた。
あの弱いドラゴン——いまとなっては本当に弱かったと分かる——から、秋が少し深まった。ユカちゃんの光は倍の広さになり、タマちゃんの癒やしは倍長持ちするようになり、氷の精霊はまだ名前を待っている。装備も、ずいぶん変わった。狸は竜に潰されて以来、軽い革の鎧と肩当てを着込むようになった。「痛くはなかったけど、悔しかったから」だそうだ。盾は、今も持たない。「剣は二本のほうが、なんか格好いいだろ」という理由で、左手はとっておきのためにあけてあるらしい。
装備屋の試着室に初めて入った日、レナティアは三十分出てこなかった。
「レナちゃーん。生きてるー?」
「生きてます」
「じゃあその生を、そろそろ世に見せてあげて」
「待ってください。青と紺で迷っています」
「それは哲学だねえ」
試着室の外で、狸は床に座って尻尾を抱えていた。店の中には同じような冒険者が何人もいて、壁際で腕を組んだナナシ、鏡の前でひたすら横を向くナナシ、試着室から出るたびに仲間から「それはない」と即答されるナナシがいた。装備屋は、戦場よりも時に厳しい。
レナティアは、まず白を試した。きれいだった。けれど汚れそうだった。次に赤を試した。強そうだった。けれど火の魔法が得意そうに見えて、あたしは氷です、と誰にともなく弁明したくなった。緑は森の妖精みたいだったが、狸が「山菜」と言ったので脱いだ。最後に青へ戻って、そこから紺との違いを鏡の前で二十回確かめた。
「青は、勇者様っぽいです」
「紺は?」
「夜の勇者様っぽいです」
「どっちも勇者様なら、朝型のほうでいいんじゃない?」
「夜にも冒険します」
「じゃあ昼夜兼用で」
店員のナナシが、黙って同じ棚からもう一着、微妙に色の違う青を出してきた。沼が増えた。レナティアが悩むと、狸は文句を言わずに待った。なぜなら、彼も昨日、リュックの染色で四十分悩んだからである。赤いリュックは背負うとトマトに見え、茶色いリュックは背負うと焼き芋に見え、結局いつもの色に戻した。戻すのにも染料代がかかった。
「装備って、楽しいですね」
「うん。強さと関係ないところで時間が溶けるの、すごくゲームって感じする」
レナティアは青を買った。紺は、いつか夜の勇者様になる日のために、試着だけで我慢した。
変わったのだが。
「レナちゃんさあ、その新しいローブ……ローブ?」
「ローブです。お店の分類にそう書いてありました」
「どう見てもジャージなんだよなあ」
レベル四十帯の魔法職装備「疾風の修練着」は、青い生地に白い二本線の入った、前をチャックで閉める運動着のような外見をしていた。レナティアはそのチャックを、首元まできっちり閉めている。
「チャック、すこしあけなよww その着方だと、ますますジャージだよ」
「開けません。だらしないです」
「体育の授業でもそこまで閉めないよ」
「体育のとき閉めない人が、冒険で閉める人を笑わないでください」
「ぐうの音も出ない」
装備を選ぶのは、楽しい。性能の数字も大事だけれど、レナティアはまず見た目から入る。試着室の鏡の前でくるりと回って、袖の長さを確かめて、色違いに三十分悩む。狸はその三十分を、床に座って尻尾の毛づくろいをして待つ。文句は言わない。自分も、リュックの色違いに四十分悩んだことがあるからだ。
——中級試験、という言葉が二人の間に落ちてきたのは、そんな頃だった。
レベル五十。この世界の冒険者は、そこでいちど「一人前」の関門をくぐる。中級試験に合格すると二次職への道が開けて、装備も、依頼も、行ける土地も、ぐんと広がるのだという。試験は毎週末、闘技場で開かれている。
「で、これが受験の条件ね」
狸が掲示板の写しを広げた。
いわく、中級試験を申請する者は、四体の「主」を討伐していること。
北の沼の主。古い水車の主。霧の谷の主。それから、燈台の主。
「四体……!」
「ボスラッシュだねえ。ま、いまのレナちゃんならいけるよ。ひとつずつ、日課のついでに回っていこ」
英雄譚のページが、いっぺんに四枚も増えた気分だった。レナティアはその晩、宿のベッドで地図に四つの丸をつけて、丸の横にちいさな星を描く場所を空けてから眠った。
最初の「主」は、北の沼にいた。
見上げるような大蛙——ではなく、見下ろすくらいの、中くらいの蛙だった。ただし取り巻きの子蛙が多い。狸が本体を引きつけ、レナティアが取り巻きを氷で凍らせ、足の止まったところをまとめて狸が薙ぐ。ドラゴンで覚えた型が、そのまま通じた。
「はい、一体目クリアー。楽勝楽勝」
「たぬさん、三回舐められてましたけど」
「舐められてたんじゃない。反応を確かめられてたの。面倒くさかったから吐かれたの」
「威張ることですか?」
沼のほとりで、二人は弁当アイテムを並べた。ジビエの串と、硬いパン。タマちゃんがふわふわと漂って、狸の頭の上にちょこんと乗った。
「お、なんか懐かれてる」
「タマちゃんは、たぬさんを覚えてるんだと思います。いつも治してますから」
「精霊って、そういうの覚えるの?」
「わかりません。でも、覚えてると思うことにしてます」
「いいね、それ。俺も覚えられとこ」
狸は頭の上のタマちゃんごと、ぺこりとお辞儀をした。タマちゃんは転がり落ちて、ぷるぷる怒った(ように見えた)。
二体目の主は、古い水車小屋にいた。
街道を外れた谷間に、半分朽ちた水車小屋がある。水車はまだ回っていて、回るたびに木の羽根から水しぶきが飛んだ。小屋の床は濡れて滑り、壁には古い麦袋が積まれ、中央の歯車だけが妙に新しい。いかにも、ただの廃屋ではありません、という顔をしていた。
「ここ、いかにもですね」
「いかにもだねえ。いかにもすぎて逆に何もないかもしれない」
「そう言って、前に宝箱を見逃しました」
「あれは宝箱が宝箱っぽくなかったのが悪い。木箱のふりしてた」
水車小屋の主は、最初から姿を見せなかった。床の歯車が回り、足場がゆっくり動く。右へ、左へ、たまに逆回転。足元を流れる水路から小さな水の精が飛び出してきて、近づく者を押し流そうとする。
「たぬさん、床が動いてます!」
「俺も動いてる! 俺の意思じゃなく!」
狸は足場ごと水車のほうへ運ばれていった。レナティアが手を伸ばすより早く、狸は木の羽根にひっかかり、ぐるん、と半周した。
「たぬさーん!?」
「大丈夫! こういう遊具、前の時代にもあった!」
「遊具じゃないです!」
「料金は払ってないから実質無料!」
水車は無慈悲にもう半周した。狸のチャットの吹き出しが、上へ行ったり下へ行ったりした。
レナティアは笑いそうになった。笑っている場合ではない。けれど笑いそうになった。狸の尻尾が水しぶきを浴びて、筆みたいに細くなっていたからだ。
氷の精霊が、杖の先で小さく震えた。名前はまだない。けれど、こちらを見ている気がした。
「水車を、止められますか?」
答えはない。代わりに、冷気が足元へ降りた。水路の水が白く凍り、歯車の噛み合わせに薄い氷が差し込まれる。ぎぎ、と軋む音。水車の速度が落ちた。
「いまです、たぬさん!」
「狸の戦士、いっきまーす!」
水車から解放された狸が、濡れた床で一回転んでから、主の本体へ飛び込んだ。床下からせり上がってきたのは、苔をまとった大きな石臼だった。臼に顔があり、臼なのに怒っていた。歯車を止められたのが気に入らないらしい。
「主って、臼なんですか!?」
「臼にも人生があるんだよ、たぶん!」
「人生を語るには回りすぎです!」
臼は重い。狸の剣は弾かれる。レナティアの氷も表面で砕ける。けれど、歯車の隙間に差した氷だけは効いていた。主が回ろうとするたびに、氷が軋んで動きを遅らせる。狸はその遅れに合わせ、臼の縁へ剣を入れた。一撃、二撃。最後は水車の羽根が止まった反動で、主が自分から床へ転がり、狸の前でぴたりと仰向けになった。
「いまです!」
「いざ!」
剣が、臼の中心を叩いた。ごん、といい音がした。派手な爆発はなかった。ただ、古い水車小屋の音がひとつ止まり、谷間に水の流れる音だけが戻ってきた。
二体目、討伐。
レナティアは地図の丸に星を描いた。水しぶきで少しにじんだけれど、それもよかった。狸は濡れた尻尾を両手で絞っていた。
「レナちゃん、今日の日記にはこう書いて。勇者狸、水車を制す」
「勇者狸、水車に回される、でいいですか」
「正史が改竄されている」
「見たままを書きます^^」
その日の夜、談話室で報告すると、ナナシたちは水車の攻略法よりも「狸が何周したか」を聞きたがった。攻略情報とは、いつも少しだけ、人の興味とずれる。
——三体目へ向かう前の、その週のことだ。
その人は、噴水の前で狸に手を振ってきた。
「あっれー? やっぱり! その尻尾、見覚えあると思ったのよ」
頭の上の名前は、ナナシ。この島ではありふれた表示。けれど格好は、ちっともありふれていなかった。深い緑のローブめいた装備に、白いレースの胸飾りが重なっている。胸元をきっちり支える硬い布地は鎧というよりコルセットで、隠すための下着ではなく、見せるための正装に見えた。
「うっわ、ひさしぶり! 前の時代ぶり? 元気してた?」
「元気元気ー。……ていうか、あんたが悪いのよ? 一緒に始めようねって言ってたのに、いつまでも来ないんだもの」
「ごめんてー。仕事が忙しかったの。気づいたら、置いてかれてたのは俺のほうっていう」
「待ってても、あんた来ないじゃない。アタシ、もう六十五よ」
ろくじゅうご。レナティアは思わず、自分の四十そこそこの数字を思い浮かべた。この人は、狸と同じ約束から始めて、狸を待たずに、ひとりで六十五段目まで駆け上がった人なのだ。
二人はしばらく、レナティアの知らない固有名詞で盛り上がった。あの狩場がどうの、あのギルドがどうの。狸が楽しそうなので、レナティアはおとなしく待った。待ちながら、心の中で呼び名を決めた。
――白いレースのコルセットの人。……コルセットさん。
我ながら安直だと思ったが、ナナシばかりのこの島では、あだ名がないと心の中で呼ぶことすらできないのだ。
「で、この子が例の? 掲示板でちょっと見たわよ、名前つけてる新人ちゃんでしょ」
「レナティアです。はじめまして^^」
「ふうん。……へえ。ちゃんと敬語なんだ。感心感心」
コルセットさんは、レナティアを上から下まで、すうっと見た。値札を探すみたいな見方だった。それは一瞬のことで、次の瞬間にはもう、にこにこと笑っていた。
「あの」
レナティアは、思い切って打った。
「お名前……は、無いんですよね。あたし、コルセットさん、って呼んでもいいですか」
打ってから、失礼だったかしら、と思った。何にでも名前を付けるのは、あたしの癖だ。精霊で実証済みである。でも、よく考えたら下着の名前で人を——
「あら」
その人は、胸元の白いレースを、指先でつん、と弾いた。
「いいとこ見るじゃない。これね、そのへんの既製品じゃないのよ。前の時代から頼んでる職人に、型から起こさせた一点物。見なさい、この編み目。防具のくせに、防御より仕立てにお金がかかってるの。……そこに目をつけたのは、あんたが初めて」
「はあ」
「いいわよ、コルセットさんで。むしろ、そう呼びなさい」
あだ名は、悪口のつもりではなかった。この人がいちばん誇っているものの、名前だった。だからだろう、本人はまんざらでもなさそうで、狸まで「じゃ、俺もコルセットで」と便乗した。「あんたは敬称くらい付けなさいよ」「えー、長いもん。コルセッさん?」「縮めるくらいなら呼び捨てなさい」「じゃ、コルセットで」「……あんた、昔っからそれよね」——こうして、ナナシの島にひとり、コルセットさんが生まれた。さん付けはレナティア、呼び捨ては狸。呼び分けごと、本人公認である。
「ね、狸。あんた、今週も昼間はぜんぜん入れないんでしょ」
「そーなの。仕事が繁忙期でさー。夜しか入れない狸生活。よく知ってるね?」
「あんたの忙しい時期、昔っから変わんないもの」
コルセットさんは、狸の返事を最後まで聞かないうちに、もうレナティアのほうを見ていた。にこにこと。値札を確かめ終えた顔で。
「レナティアちゃん、中級試験、受けるんでしょ? 主、あといくつ残ってるの?」
「えっと……霧の谷と、燈台です」
「ふうん。……ま、がんばんなさい」
その日は、それだけだった。それだけだったことの意味を、レナティアは翌日に知る。
——翌日の昼。
狸は仕事で、夜まで来ない。レナティアは噴水のふちに座って、ひとりで日課の依頼書を眺めていた。ひとりの日課は、ふたりの日課より、すこし音が少ない。
「レナティアちゃん、はっけーん」
コルセットさんだった。昼の光の下でも、緑の服に重なった白いレースは、変わらず堂々と目立っていた。
「昨日の今日でなんだけどね。霧の谷、連れてったげる。アタシ、ヒーラーだから、まー死なないわよ」
「え、えっと。ありがとうございます。でも、主は、たぬさんと——」
「あのね、レナティアちゃん。あんた、始めてまだひと月経ってないでしょ」
コルセットさんは、レナティアの言葉の途中に、するりと自分の言葉を滑り込ませた。
「この世界はね、新入りには追い風が吹くの。新兵補正。始めて三十日のあいだ、経験値がもりもり増える。で、あんたの三十日は、もう半分ない。追い風が吹いてるうちに駆け上がるのが、いっっちばん効率いいの。この島の常識」
「おいかぜ」
「そ。それとね、はい、これ」
目の前に、小さな窓が開いた。『師弟契約の申請: ナナシ』。
「師弟登録。アタシが師匠、あんたが弟子。弟子は狩りの経験値が増えて、師匠には師範点ってのが入る。どっちも得しかない、公式の仕組み。ね、断る理由なんかないでしょ?」
断る理由は、ひとつだけあった。レナティアはそれを、おずおずと口に出した。