カードアース
レナティア編 第二章 曙光(2/3)
「あの。たぬさんが、夜には来られるので。夜に、みんなで……」
「狸のこと?」
コルセットさんは、ふふ、と笑った。心配のいらないことを心配する子どもを見る、大人の笑い方だった。
「やあねえ、気にしなくていいのよ。狸さんは強いから。少しくらいレベルを引き離したって、すーぐ追いついてくるわ」
「でも」
「あの狸はねえ、気に入った女の子のためなら、頑張るの。アタシのときも、そうだったし」
あたしのときも。
その一言が、するりと入ってきて、胸のどこかに引っかかった。どこに引っかかったのかは、自分でもよく分からなかった。
「……あの、それは」
「ん? ——ふふ。なあに、その顔」
コルセットさんは、身をかがめて、レナティアの顔を下からのぞき込んだ。
「あんた、狸さんのこと、好きなの? アタシがくっつけてあげようか?」
「そっ……そういうのでは、ないですっ」
「あはは。真っ赤になっちゃって。かわいいわねえ」
コルセットさんは満足そうに笑って、身体を起こした。
「ま、そういうことなら、なおさら安心して来なさいな。狸さんは強い。あんたが先に行ったくらいじゃ、びくともしない。あんたはあんたの追い風を使う。それだけの話。——ね、仲良くしましょ?」
レナティアは、断る理由を探した。最後のひとつだった理由は、「狸さんは強いから」で、きれいに畳まれてしまっていた。畳んだのが自分ではないことだけが、少し、気持ち悪かった。
「……じゃあ、少しだけ。お世話になります」
それが、間違いだったのかどうか。いまでも、よく分からない。
——コルセットさんの「手伝い」は、レナティアの知っている冒険と、なにもかも違った。
まず、連れて行かれたのは主のところではなく、装備屋だった。
「はいこれ着て。防具? 要らない要らない、脱いで脱いで。攻撃の腕輪と、攻撃の指輪と、攻撃の外套。レナティアちゃんは杖だけ振ってればいいの」
「まもり、なくて平気ですか?」
「アタシが治すもの。それにほら、外から歌のお兄さんが強くしてくれるから」
歌のお兄さん、と呼ばれた人は、パーティーの外から音の魔法を吹き込んでくる付術師だった。頭上はやっぱりナナシ。楽器みたいな杖を抱えて、口の端で笑っている。音使いさん、と心の中で呼ぶことにした。
「どうも。……へえ、君が。掲示板の」
「レナティアです。よろしくおねがいします^^」
「丁寧だなあ。効率より礼儀が大事なタイプ? いいね、そういうの。趣味でゲームやってる人って感じで」
「はい^^ 趣味です。がんばります」
「……そう」
音使いさんは、なぜか少し、つまらなそうな顔をした。
狩りが始まると、世界の速度が変わった。
霧の谷。レナティアの適正より、ずっと上の狩場。音使いさんの歌でレナティアの杖は嘘みたいに軽くなり、放った氷は嘘みたいに大きくなり、敵は嘘みたいに溶けた。危なくなる前にコルセットさんの回復が飛んでくる。詠唱の風が鳴る間もなく、次の敵、次の敵、次の敵。
「ほら谷の主よ。凍らせて。——はい死んだ。次、行くわよ」
「はい」
返事は、それしか置く場所がなかった。この人の言葉は、質問の形をしていても、ぜんぶ決定事項なのだ。「はい」以外の返事の置き場所が、あらかじめ、きれいに片づけられている。
霧の谷の主は、姿をゆっくり見る間もなく倒れた。地図の丸に星を描き足す暇も、なかった。
レベルが上がる。上がる。また上がる。師弟契約の追い風と、新兵補正の追い風が、二枚重ねで背中を押す。コルセットさんは小さな瓶をぽんぽん割った。スタミナの薬。休まず狩り続けるための、なにかの課金アイテムらしい。
「遠慮しないの。アタシが出すんだから」
「あの、こんなにしていただいて……なにか、お返しを」
「やあねえ。仲良くしましょって言ってるだけよ、アタシは」
その言葉に、嘘はなかったのだと思う。ただ、コルセットさんの「仲良く」は、辞書のそれと少し違った。狩場も、装備も、狩る順番も、休憩の時間も、ぜんぶコルセットさんが決めた。レナティアの返事は「はい」だけが求められていて、実際、「はい」以外を言う隙間がなかった。
一日目は、速すぎて、楽しかった。
嘘みたいに敵が倒れる。レベルの数字が光る。荷物の中に、見たことのない素材が増える。音使いさんの歌で足が軽くなり、コルセットさんの回復で痛みは遠く、レナティアはただ杖を振るだけでよかった。
「ほら、左。そこじゃない、左。はい凍った。えらいえらい」
「はい!」
「返事はいいのよねえ」と音使いさんが言った。「返事だけで敵が死んだら、君、天下取れるよ」
「返事で倒せる敵も、いつか出るかもしれません」
「前向きだなあ」
音使いさんの口元が、またつまらなそうになった。皮肉が通じないと、皮肉を言う人は少し寂しそうな顔をするのだと、レナティアはこの日に学んだ。
二日目になると、速さは、景色を置き去りにしはじめた。
霧の谷には、吊り橋があった。たぶん、下を覗けば深い谷が見えたのだと思う。けれどコルセットさんは橋の途中で止まらなかった。止まる必要がないからだ。橋の向こうの敵をまとめて引き寄せ、レナティアが凍らせ、コルセットさんが回復し、音使いさんが次の歌を重ねる。吊り橋の板が何枚抜けていたのか、谷底に何が光っていたのか、見ている暇はなかった。
「効率いいでしょ?」
「はい。すごいです」
「狸とちまちま日課やってたら、ここまで何週間もかかるわよ」
それは、たぶん本当だった。だから返事に困った。困っている間に、次の敵が来た。
三日目の朝には、レナティアのカバンに空きがなくなった。いつもなら、拾った素材を一つずつ見て、これは何に使うのだろうと狸に聞く。狸はたいてい「知らない」と答え、知らないならなぜ拾わせたのですか、と言い合いになる。けれどこの日は、コルセットさんが「いらないものは捨てて」と言った。
「どれがいらないものですか?」
「高く売れないもの全部」
「高く売れるかどうか、見ただけでは分かりません」
「慣れれば分かるわよ。はい、これ、これ、これ。あとそれも」
地面に素材が落ちた。小さな角、濡れた羽根、青い石。拾った時には宝物に見えたものが、効率の前では荷物だった。
昼過ぎ、コルセットさんはまた瓶を割った。スタミナの薬。割るたびに淡い光がレナティアの足元へ広がり、疲れの数字が巻き戻る。
「こんなに使って、大丈夫なんですか」
「大丈夫大丈夫。アタシ、こういうの貯めてるから。強くなる時に使わないで、いつ使うの」
「お祭りの時とか」
「かわいいこと言うわねえ」
コルセットさんは笑った。笑ったあと、次の一行だけ、語尾から笑いが消えた。
「強くなる子は、こういう時に遠慮しないの。ね?」
ね、の形をした命令だった。
その夜、宿の机で日記を開いた。書くことは、たくさんあるはずだった。レベルが上がった。強い敵を倒した。霧の谷の主も倒した。コルセットさんは親切だった。音使いさんは、たぶん親切ではなかったけれど、役には立った。
けれど、ペンが止まった。
レナティアは、白い頁のまんなかに、小さく一行だけ書いた。
『今日は、たくさん倒しました』
それ以上が、どうしても出てこなかった。
三日で、レベルは五つ上がった。
四つの主のうち、霧の谷が終わった。北の沼と古い水車には、ちゃんと二人で星をつけてある。レナティアは強くなった。数字の上では、たしかに、なった。
なのに、その晩の日記には、書くことがひとつも見つからなかった。
あの谷の霧が何色だったか、思い出せない。霧の谷の主がどんな声で吠えたのか、思い出せない。地図の丸に星を描き足そうとして、やめた。あれはあたしの冒険譚というより、なんだか——工事の記録みたいだった。
そして、狸のこと。
友達帳を開くと、狸はずっとログインしていた。夜も、夜中も。夜中の三時にも。仕事があるはずなのに。
「たぬさん、寝てますか?」
「寝てる寝てるー。狸は寝ながら狩りできるから」
「できません、そんなこと」
「できるんだなあ、これが。ふぁ……」
あくびの音が、文字からも聞こえた気がした。
友達帳の狸の欄は、ずっと明るかった。
一日目の夜。
「たぬさん、いまどこですか?」
「森ー。木がいっぱい」
「森はだいたい木がいっぱいです」
「哲学だねえ」
二日目の夜。
「たぬさん、ごはん食べましたか」
「食べた食べた。ポーション色のするやつ」
「それ、ごはんじゃないです」
「固形物だったからセーフ」
三日目の夜中。
「たぬさん」
「はい、狸です」
「起きてますか」
「寝てます」
「起きてますね」
「寝ながら返事してる」
そのあと少し間が空いて、もう一つ吹き出しが来た。
「レナちゃん、たのしい?」
レナティアは、すぐに返事を打てなかった。楽しい、と書けば嘘になる気がした。楽しくない、と書けば、コルセットさんに失礼な気がした。強くなっているのに楽しくないなんて、強くなりたいと言った自分が悪い気がした。
「強くは、なっています」
そう返すと、狸からしばらく返事が来なかった。
「そっかー」
ただそれだけが返ってきた。いつもの伸ばし棒が、少しだけ短く見えた。
あとで知ったことだが、狸はこの三日、ほとんど寝ていなかった。昼は仕事へ行き、夜に帰ってきて、レナティアが五つ駆け上がったレベルの階段を、自分の足で、朝まで登り続けていたのだ。談話室の吹き出しが、すれ違いざまに言っていた。
「あの狸、ここ三日ずっといない? 廃人?」
「日課ぜんぶ+夜通し狩りっぽい。狸、お金かけたんじゃない? ほら、休まず狩れるやつ」
「へー。何をそんなに急いで」
何を急いでいたのかを、レナティアは聞けなかった。聞かなくても、たぶん、分かってしまったからだ。
——気に入った女の子のためなら、頑張るの。
コルセットさんの文面が、頭のすみで再生された。再生されたことが、なんだか、いちばんいやだった。
四日目の朝、狸は噴水の前にいた。目の下にくま——狸なので元からくまはあるのだが、それとは別の、本物のくまをこしらえて、それでもいつも通りに手を振った。
「レナちゃん、おっはよー。俺もレベル五十なったよー。霧の谷の主も、夜組に混ぜてもらって倒してきた。えっへん」
「たぬさん」
「ん?」
「むちゃ、しましたね」
「してないしてない。狸は夜行性だから、夜のほうが調子いいの。あと、課金の回復薬をがぶがぶ飲んだ。ドーピングが失格というルールは、無いからね!」
「威張ることじゃ、ないです」
「信楽焼は夜行性じゃない、も先に言っとくね」
「言おうと思ってたのに」
笑ってから、狸はちょっとだけ、真顔になった。
「……ごめんね。置いてかれたのが、ちょっとだけ悔しかったんだ。狸のくせに、器がちっちゃいでしょ」
「置いていったのは、あたしです」
「レナちゃんは悪くないよ。強くなるのは、いいことだもん」
いいことだもん、と打った狸の文字が、ほんの少しだけ、いつもより平たかった。レナティアはその平たさを、ずっと覚えていることになる。
「——よし! 残りの主、一体!」
「燈台です」
「うん。蛙と臼は一緒。霧は別々になったけど、最後の燈台は俺と行こう。ちゃんとゆっくり、寄り道しながら」
燈台の主への道のりは、丸一日かかった。
朝いちばんに、狸はまず市場で干し魚を買った。
「主を倒しに行くんですよね?」
「うん。だから干し魚」
「なぜ、だから、なんですか」
「海沿いだから。気分」
気分は大事らしい。ついでに硬いパン、酸っぱい果物、灯油の小瓶、なぜか木の釘も買った。木の釘は依頼品だった。燈台へ続く村の掲示板に「風で外れた雨戸を直してほしい」とあり、狸が「こういうのを拾いながら行くのが旅だよ」と言ったのだ。
村の雨戸は、想像より高い場所にあった。狸が肩車を申し出たが、レナティアは丁重に断った。狸の肩車は高さより不安が増す。かわりに、ユカちゃんの光で足場を少し強くして、積み上げた木箱の上に立った。釘を打つたび、下で狸が「大工レナちゃん」「勇者大工」「釘の巫女」と称号を増やしてくる。
「称号は増やさないでください。記録に残ったらどうするんですか」
「残ったら名誉でしょ。釘の巫女」
「絶対にいやです」
雨戸が直ると、村の老人役のNPCが、報酬に貝殻の首飾りをくれた。性能はなかった。防御も上がらない。魔力も上がらない。説明文には「海辺の子どもが作ったもの」とだけ書いてあった。
「これ、売れますか」
「売れるけど、たぶん一銅」
「じゃあ持ってます」
「だよね」
レナティアは首飾りをカバンのいちばん壊れにくそうな場所へしまった。コルセットさんなら、きっと捨ててと言う。高く売れないから。けれど、今日は狸と一緒だったので、捨てなくてよかった。
昼には、海沿いの小道で釣りをした。燈台へ行くなら急いだほうがいいのでは、とレナティアは思ったけれど、狸は「光るのは夕方だから」と言って竿を出した。釣れたのは、小魚三匹と、濡れた靴片方と、誰かの落とした瓶の蓋だった。
「靴、片方だけ釣れました」
「もう片方も釣れば装備一式だね」
「水属性が強そうです」
「見た目も強そう」
靴はそっと海へ返した。返していいものなのかは分からないが、持っていたくはなかった。
午後、崖の道に入ると風が強くなった。レナティアのローブ——分類上はローブである——の裾がばたばた鳴り、狸の耳が風で後ろへ倒れた。道の下には海が広がっている。波の白い線が、崖にぶつかるたびに砕ける。前を歩く狸のリュックには、干し魚と硬いパンと木の釘の余りと、なぜか村で拾った丸い石が入っている。
「その石、持っていくんですか」
「形がいいから」
「何に使うんですか」
「分からない」
「分からないものを、持っていくんですか」
「レナちゃんだって貝殻持ってるじゃん」
「あれは、いただいたものです」
「この石も、たぶん大地からいただいたもの」
言い方だけは壮大だった。レナティアは笑った。笑ったら、コルセットさんと三日間走った霧の谷のことが、少しだけ遠くなった。
海沿いの崖の道で貝を拾い、途中の村でニワトリに追いかけられ(今度は捕まえる依頼ではなかったのに)、崖のてっぺんで日が暮れて、二人は燈台の灯りがともる瞬間を見た。海がいちめん、金色になった。
「わ……」
「ね。これ見せたくてさ、時間調整してたんだ」
「時間調整で、ニワトリに追いかけられてたんですか」
「あれは予定外」
燈台の主は、光を食べる大きな蛾だった。燈台の灯を守りながら戦うという、ちょっと頭を使う相手で、レナティアの氷が翅を凍らせ、狸の剣がとどめを刺した。地図の最後の丸に、星をふたつ描いた。ひとつは主のぶん。もうひとつは、金色の海のぶん。