カードアース
タクト編 第四章(1/2)
タクト編 第四章
二〇〇七年、三月。俺は大学を卒業した。
六年かかった。留年した二年は、ちょうどカードアースの黄金期と、きれいに重なっている。因果関係については、黙秘する。
卒業証書を実家に郵送したら、母から電話が来た。メールではなく、電話。わが家における最高警戒レベルの通信手段である。
「あんた、それで、就職は」
「決まってる。ゲーム屋」
「……前に言ってた、お手伝いのところ?」
「そこに正式入社。株式会社になったし、社会保険もある。ちゃんとしたところだよ」
「ちゃんとしたところはね、自分でちゃんとしたって言わないの」
一本取られた。だが入社したのは事実だ。社長と、森下くんと、俺と、バイト二人で始めた新生ラピスラズリ事業は、親会社の九月決算を黒字で越えたあと、子会社として切り出され、株式会社ラピスラズリになった。この一年で常勤と学生バイト、契約スタッフを合わせた人数は倍になり(つまり十人になり)、俺の名刺には「企画運営部」と刷られた。部員は俺ひとりである。
瑠璃はといえば、高認——本人が「大検」と言い張っていた、高卒と同等の認定試験に、一発で受かった。名前が変わったばかりの頃で、俺たちの世代には、まだ大検のほうが通りがよかったのだ。
受かった報告のチャットが、また五分ものだった。「合格しました。これで、会社のお手伝いを堂々とできます。大学も、行こうと思います。服のことを、ちゃんと勉強したいので」――被服系の学部に、その春から通うことになった。不登校だった子が、である。ドット絵の服が、この子の人生の進路を絵付きで示したのだ。
そういうわけで、二〇〇七年の俺たちは、平日は同じ会社で働き(瑠璃は学業のかたわらデザイン担当として)、夜は同じゲームの運営チャットにいて、休日はときどき、リアルで飯を食う仲になっていた。
付き合っているのか、と聞かれれば、たぶん、そうだった。
たぶん、というのは、はっきりした言葉を、どちらもまだ口にしていなかったからだ。三年前、ヤエスの雑踏で「チャットは短く打ちな」と教えた俺が、いちばん大事な一行を、いつまでも打てずにいた。
一度だけ、遠回しに聞いたことはある。俺のどこがいいのか、と。瑠璃は例によって長く考えてから、二つ答えた。
「役に立たないまま、使い捨てなかったところです。囮ではなく、立派な盾になれって言ってくれました」
「それは、恋愛の理由になるのか」
「それから、わたしが喋り終わるまで、待ってくれるところです」
三年前の五分を、こいつはまだ覚えていた。俺は返事に困り、結局また、待つ側へ逃げた。
――転機は、一枚のドット絵だった。
その日、瑠璃のデスクの画面に、見慣れない衣装が表示されていた。純白のドレス。三十二ドット四方の小さな身体に、長い裾。歩くと、レースが遅れて、ふわりと舞う。
「新作か? 結婚システム用の?」
「はい。ウェディングドレスの、新しいやつです」
「ふうん。……売れそうだな」
「売り物じゃ、ないです」
瑠璃は画面を見たまま、言った。
「一着だけの、非売品です。……着たい人が、います」
「へえ。誰」
「にぶいですね」
振り向いた顔が、耳まで赤かった。俺は自分の心臓の音を聞きながら、猛烈な勢いで思考した。ここで返すべき最適の一行。三年間打てなかった一行。よし。落ち着け。俺は一鯖のタクトだぞ。戦場で五百人を速くした男だぞ。
「……その、なんだ」
噛んだ。五百人を速くした男が、一行を打てずに噛んだ。
「あの、タクトさん。わたしから、言っていいですか」
「いや、待て。それは、俺から言う。言うから、その、少し待て。準備がある」
「準備」
「男には準備がいるんだ」
――そして俺は、準備をした。したのだが、ここで人生最大の操作ミスをやらかす。
プロポーズの文言を推敲するのに、メモ帳ではなく、社内チャットの入力欄を使っていたのだ。下書きのつもりだった。エンターキーは、無情だった。
『瑠璃さん。三年前、あなたは俺をかばって死にました。今度は俺が、一生かけてあなたをかばう係をやらせてください。結婚してください』
送信先、社内チャット【全体】。
時刻、火曜の午後二時。
三秒後、隣の島で社長が立ち上がる音がした。振り向くと、社長は既に泣いていた。プログラマが拍手していた。バイトが「おめでとうございます!」と叫んだ。当の瑠璃は自分のデスクで画面を見たまま固まって、それから、消え入りそうな声で言った。
「……本番は、ちゃんと、口で言ってほしかったです」
「言う! 言うから! これは事故で!」
「でも」
瑠璃は、画面から目を離さずに続けた。
「お返事は、先にしておきます。――はい。よろこんで」
社長の泣き声が、二倍になった。娘を取られる涙と、社員に娘をもらってもらう安堵の涙は、両立するらしかった。俺はその日、人生でいちばん格好悪いプロポーズを成立させた男として、社史(があれば)に載った。
なお、本番のやり直しは後日、ちゃんとやった。夜の海の見える場所で、口で言った。文言は秘密である。チャットログに残っていない言葉が、俺たちにもひとつくらいあっていい。
結婚が決まったあと、社内はしばらく仕事にならなかった。
社長は朝礼で「本日は通常業務に戻ります」と宣言して、五分後に「で、式はいつだ」と聞いた。プログラマは結婚システムのログを洗いはじめ、「新郎がGMの場合の例外処理がない」と真面目な顔で言った。例外処理とは俺の人生のことか。バイト二人は、仕事の合間に勝手に招待状の文面を作っていた。
『新郎タクトは、新婦瑠璃をパーティーに招待しました。承諾しますか?』
瑠璃はそれを見て、少し考え、「承諾ではなく、参加します、がいいです」と直した。招待されるだけの人ではなく、自分で歩いて入る人。そういう言葉の選び方を、俺は好きだった。
ゲーム内式の準備も、ほとんど大型アップデートだった。教会の飾り、花びらのエフェクト、夫婦登録の文言、誓いの指輪のアイコン。全部、瑠璃が一度は見て、直した。直されるたびにプログラマは「結婚こわい」と言い、社長は「娘の式だぞ、当然だ」と言った。どちらも正しい。
CE1時代のギルド連中にも招待状を送った。返事は早かった。
『出席。礼服は持ってない』
『礼服を買え』
『戦闘用の黒ローブで行く』
『葬式にするな』
『余興で昔のマスターの恥ずかしい話をします』
『やめろ。出禁にするぞ』
俺が本気で止めたので、余興は「サクラ街道で拾われた盾士が、いかにしてギルマスを拾い返したか」という題になった。止めた意味は、あまりなかった。
――式は、二回挙げた。
一回目はリアルで、身内だけの小さな式。俺の母は、瑠璃に会うなり「まあまあまあ」と三回言って、それから俺に向かって「あんたには、もったいない」と言った。全国の母の定型文である。ただ、帰りぎわにぽつりと付け足した。
「……ゲームも、ちゃんとしたところだったのねえ」
定義は今日も不明のままだが、認定はされたらしかった。
二回目は、ゲームの中だった。
新生ラピスラズリ、中央広場の教会。瑠璃のキャラクターは、あの非売品の純白ドットドレスを着た。俺は礼服のドットを新調した。参列者は、ラピスの常連たちと、社長(自社のゲームでまた道に迷いながら来た)と――CE1時代の、うちのギルドの連中だ。引退するする詐欺のよしみで、招待状を送ったら、ほぼ全員が来た。
「マスターの結婚式と聞いて」
「エア嫁じゃなかったのか……」
「エア嫁って言ったやつ、正座」
「言ったの俺だわ。正座します」
式のスピーチは、火力職の古参がやった。ひどいスピーチだった。
「えー、新郎は、我々のマスターでした。マスターは新婦を、サクラの街道で拾いました。最初はレベル十の盾でした。育成には時間がかかりましたが、マスターは言いました。効率だけなら大手に入ってる、と。……本日、そのお言葉の意味が分かりました。マスターは三年がかりで、人生の固定パーティーを組んでいたのであります。新婦の加入をもって、本パーティーは終身雇用、脱退不可となります。デスペナはありません。かばうの使用は、今後はお互いに、無制限であります」
ゲーム用語しかないスピーチに、リアルの式では絶対に出ない種類の笑いと、少しの洟をすする音が起きた。
そして式の最後、教会のシステムが夫婦の登録を受け付けたとき、俺はGMアカウントに切り替えて、一行だけ流した。
「【GM】タクト:末永くお幸せに。……俺のときも、登録申請、来ました」
「GM! よかったな GM!」
「一年半越しの回収だ」
「自分で祝って自分で泣くな」
――新婚生活について、詳細は語らない。
語らないが、朝の話だけ、少しする。結婚してしばらく経った、ある朝のことだ。先に起きた瑠璃が台所に立っていて、俺が寝ぼけたまま居間に出ると、味噌汁の匂いと、エプロンの背中があった。結い上げた髪に、俺が贈った瑠璃色の小さな髪飾りが留まっている。家の中でもつけているのを、俺はまだ、本人に指摘できずにいる。
「おはようございます。……あ。見ました?」
「何を」
「エプロン、新調しました。かわいいので」
「見た。かわいい。……ちなみにその下は」
「ちゃんと着てます。なんですか、その顔。……もう。夜まで、おあずけです」
「おあずけということは、夜には」
「知りません♪」
語尾に音符がついた。服飾の話をするときの音符が、こういうところでも出るようになった。それだけ書いて、この話題は店じまいとする。ネタは真面目に語ると死ぬし、のろけは真面目に語ると殺される。翌朝も、味噌汁はうまかった。以上だ。
――さて。ここからが、この章の本題である。
二〇〇八年の秋、二つの知らせがほぼ同時に来た。
ひとつは、家の中の知らせ。瑠璃の懐妊だった。予定日は年明け。社長は電話口で今度は堂々と泣き、俺は生まれて初めて「父親になる」という日本語を、自分事として発音した。
もうひとつは、外からの知らせ。
CEの運営会社から、俺個人宛てに、一通の書状が届いたのだ。
『貴殿が運営に関与する私設サーバの件につき、一度、直接お話しさせていただきたく――』
心当たりは、大いにあった。
CE1は、もう黄昏の中にいた。新規は絶え、アップデートは間遠になり、ヤエスの露店通りは歯抜けになっていた。それでも消えない火を、どこかに写し取っておきたくて――俺は例のエミュレータに手を出していた。有志のプログラマと組んで、古いCE1をそっくり再現した、私設の保存サーバ。身内だけの、博物館のような場所。法的にどうかと言われれば、限りなく黒に近い灰色である。
つまりこの書状は、召喚状だった。俺は覚悟を決め、いちばんましなスーツを着て、先方の本社に出頭した。
会議室に通されて、説教が始まる――はずだった。
「単刀直入に申し上げます」
先方の担当役員は、書類を三枚、机に滑らせた。
一枚目。私設サーバの件は、条件付きで不問としたい。条件とは、正規の月額ライセンス制に移行し、管理を先方指定の形に改めること。
二枚目。株式会社ラピスラズリの買収提案。
三枚目。タクト個人への、CE2開発チームへの参加打診。
「……順番に聞きたい。二枚目はなんだ。うちは黒字とは言え、小さな会社だぞ。何が目当てだ」
「衣装です」
役員は即答した。
「正確には、御社の『衣装文化』です。戦闘でもレベルでもなく、着せ替えのためにログインする顧客層。それを生んだデザインと、運用の仕組み。……次のカードアースは、戦うだけのゲームにはしません。世界に『暮らす』ゲームにします。御社がこの二年半で育てたものが、我々には必要です」
瑠璃のドットの話をしているのだ、と分かるまで、数秒かかった。あの三十二ドット四方の布の襞を、この大企業は「買収に値する資産」と呼んでいる。
「三枚目は」
「一鯖のタクト。CE1で最も運営に文句を言い、最も的確だった客。その後は運営側に回り、小規模タイトルを黒字で回し、あまつさえ我々のゲームの保存サーバまで作った人。……次のカードアースには、あなたのような人間が要ります。プレイヤーの怒りの意味が分かる人間が」
口説き文句としては、満点だった。俺は、たぶん三秒くらい、揺れた。
揺れてから、断った。
「光栄だが、受けられない。年明けに子供が生まれる。妻は大学の途中だ。いま俺が家と会社を空けるわけにはいかない。――それに、ラピスの買収は、俺が決めることじゃない。社長のゲームだ」
「では、条件を変えましょう」
役員は、粘った。さすがに大企業の役員は、断られてからが本番らしかった。
「フルタイムは求めません。まずはオブザーバーとして、月に数日。会議に出て、意見を言うだけでいい。二年後――CE2の開発が山場を迎える頃に、あらためて、フルタイムの話をさせてください」
「月に数日で、何を期待している」
「遠慮なく怒ることです」
「それは、いまでもできます。無料で」
「有料で、会議室の中でお願いします」
うまい返しだった。俺は少し笑った。向こうは、こちらをただの技術者としてではなく、面倒な客として買おうとしていた。文句を言う権利に給料を払う。なかなか変な提案で、だからこそ、筋が通っていた。
「ラピスの社員は」
「希望する方には、学業中の方も含めて、現在の実績と卒業時期に応じた正式な雇用案を出します。グループ内への異動も選べる。ラピスの現行サービスは、統合から二年間維持し、その先は利用者と運営チームを交えて年ごとに判断する。予告も移行先もない停止はしません」
「瑠璃の衣装は」
「本人の同意なしにCE2へ転用しない。ただし、思想は学ばせていただく」
「思想」
「歩くと布が舞うことに、そこまでこだわる思想です」
それは、買いかぶりではなかった。瑠璃は布の一枚一枚に、歩幅と、風と、見られる側の気持ちを入れる。数字で測れないものを、仕様書にする人間だ。CE2が「暮らすゲーム」を目指すなら、その目線はたしかに要る。
「俺の私設サーバは」
「潰しません。保存目的の価値は認めます。ただし、逃げ場ではなく、博物館にしましょう。課金も、管理も、正式に」
役員はそこまで言って、少しだけ声を落とした。
「こちらも、分かっています。古い世界をただ消せば、恨みだけが残る。次を作るなら、前の世界に墓標が必要です。……あなたが勝手に作ったものは、本来なら叱るべきものですが、叱って壊すより、買って残すほうが、未来の得です」