カードアース
タクト編 第四章(2/2)
説教されに来たはずの俺は、いつの間にか、口説かれていた。腹立たしいくらい、よく見ている。俺が作った小さな博物館の、いちばん奥にあった未練まで、きちんと値札を付けられていた。
「条件は、書面で」
「もちろん」
「あと、うちの社長は泣く」
「承知しています」
「承知してるのか」
「事前調査で」
大企業の買収調査は、恐ろしい。
その場では持ち帰り、社長と、瑠璃と、三人で話した。
社長は、意外なほどあっさりしていた。
「売ろう」
「即答か」
「ラピス・オンラインを始めたときのわしは、ゲームのことなど何も知らんかった。これから伸びると言われて始め、作った者に辞められて止めた。娘まで別のゲームに取られて、客を奪ったゲームの、いちばん熱心な客に話を聞いた。なさけない話だ」
「今ごろ気づいたのか」
「今だから気づいた。わしが持て余したものを、きみと瑠璃と、森下くんが、二年で黒字の仕事にした。向こうが買いに来たのは、わしのゲームではない。三人の仕事だ」
「買収がなくても、うちは続けられる」
「今年の決算は黒字だ。来年も、今の規模なら続けられる。その次も、たぶんな。だが、森下くんが倒れればサーバは止まる。きみをここだけに縛るより、次のカードアースで腕を試したほうが、きみにも向こうにもいい。瑠璃に小さなドット絵だけ描かせ続ければ、あの子が自分で選んだ進学と、その先を狭める。家族経営のまま守るとは、そういうことだ」
言われて、俺は黙った。社長はゲームの永遠を売買しようとしていたのではない。一人ごとの仕事の先を、会社の大きさに縛られない形で渡そうとしていた。
「条件は」
「希望する人全員への、書面での雇用提案。ツールと衣装だけ吸い上げて、作った人を捨てないこと。ラピスは少なくとも統合期間の二年は開けたままにして、その後に閉じるなら、利用者と運営の人間に先に話すこと。 ……わしが守れるのは、名前ではなく、それくらいだ」
瑠璃は、俺の顔をじっと見て、それから言った。
「父は、勝手です。始めるのも止めるのも、人に言われて決めたのに。最後だけ、父親みたいなことを言います」
「嫌か」
「いいえ。でも、今度はわたしも選びます」
「タクトさんは、行きたいんですよね。次のカードアース」
「……どうかな」
「顔に書いてあります。ヤエスの話をするときの顔と、同じ顔です」
敵わない。四年間、俺を観察してきた専属の盾は、俺の顔のログを全部保存しているのだった。
「行ってください。月に数日なら、家のことは回ります。わたしも、卒業したら――次のカードアースの服、作ってみたいですし」
こうして、話はまとまった。ラピスラズリはCEグループの子会社になり、希望したスタッフには正式な雇用の選択肢が書面で渡された。ラピスのサービスに二年の統合期間が約束され、俺は肩書きの末尾に「CE2開発オブザーバー」という十一文字を足した。エミュ鯖は正規ライセンスの月額制になって、管理は有志に引き継いだ。俺の手を離れても、博物館の灯りは点いたままだ。
新生ラピスラズリがその二年後も、それからずっと続いたのは、あの日の条文が永久保存を命じたからではない。客が残り、黒字が残り、衣装と生活のチームが次のカードアースに必要とされ、毎年、開けておく理由を作り直したからだ。
ゲームで出会って、ゲームで結ばれた俺たちの生活が、会社と、契約と、家族という、現実の骨組みに接続されていく。不思議な感覚だった。ヤエスのベンチは、こんなところまで続いていたのだ。
――そして、二〇〇九年、一月十一日。
夜明け前の病院の廊下で、俺は人生でいちばん長い待機時間を過ごした。都市戦の開戦前とは比べものにならない。点呼もなければ、作戦図もない。ただ、廊下の長椅子で、母から届いたメールを何度も読み返していた。
『生まれたら、すぐ知らせなさい。あと、あんたはうろたえるだけだから、廊下では静かにしてなさい』
全部その通りになった。
社長も来た。来なくていいと言ったのに来た。病院の廊下に花束を抱えて立ち、看護師に「ご祖父様ですか」と聞かれて「父です」と答えた。
「違うよ、おじいちゃん」俺は優しく社長に指摘してあげた。
社長は一度まばたきし、花束を抱え直した。「そうか。おじいちゃんか……」と、初めて聞く役目を口の中で確かめた。それから顔を上げ、「……娘と孫は、大丈夫ですか」と聞いた。
「タクトくん、何かできることは」
「静かにしてください」
「わかった」
三十秒後、社長は「名前は」と聞いた。静かにするとは、声量の問題だと思っているらしい。
俺は答えられなかった。候補はいくつかあった。瑠璃と夜に並べたメモもある。だが、最終決定は、瑠璃が抱いたときの顔を見てからでいいと思っていた。ゲームのキャラクター名なら、響きと字面と、呼ばれたときの気持ちで決められる。人間の名前は、もっと重い。いや、ゲームの名前だって十分重かったはずなのだが、この夜だけは、その重さの種類が違っていた。
廊下の時計の針が、遅すぎる速度で動いた。都市戦の開戦前なら、残り三分は装備を確認し、指示を飛ばし、通話を繋ぐ時間だ。ここでは、何もできない。ただ待つ。待つことにも、こんなに体力が要るのだと、初めて知った。
朝の光と一緒に、娘は生まれた。
瑠璃は、汗だくの顔で笑って、小さなその子を見て、言った。
「……名前、決めてたんです。ずっと」
「聞こうか」
「舞。おどりの、舞う、です。わたしのドレス、歩くと裾が舞うでしょう。あの子にも、ああいうふうに、軽やかに生きてほしいので」
舞。まい。一月十一日生まれの、舞。
俺は、その日のうちにギルドチャット(いまだに現役である)とラピスの運営チャットに報告を流した。反応は、洪水だった。
「マスターに娘!?」
「祝い品を送りたい。住所を寄越せ」
「送るな送るな」
「装備は? 初期装備は決まったのか」
「よし、俺が布おむつのドットを打つ」
「打つな」
「二十年後、うちのギルドに勧誘だ」
「気が早すぎる」
親バカならぬ、親バカギルドの誕生だった。会ったこともない連中が、画面の向こうで、俺の娘の誕生を本気で祝っている。エア嫁を疑っていた男は「エア娘では?」と言いかけて、全員に正座させられていた。
夜、病室の窓の外を眺めながら、俺は少しだけ、先のことを考えた。
CE2が世に出るのは、たぶん二年後。俺はそこで、また新しい戦場に立つのだろう。運営として、今度は文句を受け取る側の席で。
腕の中の舞は、握った俺の指を、離さなかった。
――この子が大人になる頃、ゲームはどうなっているんだろうな。
画面の中の世界は、どこまで本物に近づいているんだろう。この子は、誰と、どんな世界で遊ぶんだろう。
答え合わせは、十八年後。
このときの俺は、まだ何も知らない。