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レナティア編 第四章 別日の蒼穹(1/3)
レナティア編 第四章 別日の蒼穹
知らない街の、知らない朝市は、焼きたてのパイの匂いがした。
匂いが、した。
あたしは、屋台の前で足を止めて、鼻から息を吸い込んだ。バターと、焦げた砂糖と、下の段の籠からは香草の青い匂い。目をつぶっても、そこにパイがあると分かる。
「ん、匂い拾えてるっぽいね。よかった、ちゃんと動いてる」
隣で狸が、まるい鼻をひくひくさせた。
「新しい道具、無駄にならなくてよかったよー。けっこうしたもんね、あれ」
「はい。……すごいです、たぬさん。世界に、匂いがあります」
道具、というのは、先週手に入れたばかりの「味と匂いの器械」のことだ。仕組みはよく分からない。分からないが、着けると、この世界の食べ物の味と香りが分かるようになる。この旅の楽しみが、目と耳の外側に、もうひとつ増えたのだった。
最初に嗅いだのは、花ではなく、馬車の藁だった。
街道の乗合馬車へ乗る前のことだ。あたしはいったん世界から顔を上げ、現実の部屋で、買ったばかりの器械を自分の鼻と口元へ着けた。狸は声だけで取り付けを案内してくれた。鼻から口までを軽く覆う、白い小さな面のような道具で、内側に取り替え式の口あて(あたし専用。衛生のためだそうだ)がついている。
あたしが世界へ顔を戻し、馬車へ乗り込むと、狸が隣からたずねた。
「そろそろ試してみよっか。接続の印、ついてる?」
「はい。では、入れます」
現実の頬へ白い面が触れたまま、設定画面で味と匂いを有効にした。次の瞬間、世界が急に近くなった。
「……草の、乾いた匂いがします」
「おお」
「あと、革と、土と……たぬさん、これ、馬車の匂いです」
「記念すべき初匂いが馬車」
「悪くないです。ちゃんと、旅の匂いです」
狸は「いいこと言うなあ」と笑った。馬車の窓の外では、麦畑が流れていた。風が入るたび、土の匂いが少し濃くなり、遠くの雨の匂いまで混ざった。目で見るより先に、雨が近いと分かる。そのことが、なんだか、とても贅沢だった。
次の日は、渡し船に乗った。
川幅の広い場所で、ゆっくり進む小さな船。足元の板は少し濡れていて、川の水と、濡れた木と、船頭の昼ごはんらしい焼き魚の匂いがした。あたしがずっと鼻をひくひくさせていると、狸が横でまるい鼻をひくひくさせた。
「レナちゃん、俺より狸っぽい」
「たぬさんより、ちゃんと匂いを楽しんでいます」
「狸の立場が」
川の真ん中で、船頭が小さな団子を売ってくれた。食べると、甘い味がした。甘い、ということが、舌ではなく、鼻の奥から喉へ落ちていく。飲み込んでも、お腹には何も届かない。けれど、味だけは確かにあった。
「変です」
「どんなふうに?」
「夢でごはんを食べているみたいです。でも、夢より、ちゃんとおいしいです」
「名言だねえ」
「夢よりおいしい団子」
「店の看板にできそう」
その夜の宿には、温泉があった。湯気の匂いは分かる。木桶の匂いも、石鹸の匂いも。けれど、お湯の熱さは、手のひらと足の裏から、少しだけ伝わる程度だった。身体の全部が湯に溶けるような感じはない。それでも、湯気の白さと、湯上がりの冷たい空気と、宿の廊下に干された薬草の匂いで、あたしは十分に機嫌がよくなった。
「全部が分かるわけじゃないんですね」
「全部が分かったら、帰ってこれなくなるかもよ」
「帰るところ、必要ですか」
「必要だよ。帰るから、また来られるんだし」
狸は、そういうことを、さらっと言う。あたしは湯気の向こうで、少しだけ黙った。
三日目の昼は、景色のいい丘で昼寝をした。草の匂い、日なたの匂い、遠くの市場から流れてくる焼き菓子の匂い。狸は昼寝のつもりが本気で寝て、寝返りを打つたびに坂を少しずつ転がった。
「たぬさん。転がってます」
「んー……仕様です」
「仕様なら止めます」
あたしは狸のリュックを掴んで止めた。狸は半分寝たまま親指を立てた。急がない旅は、こういう何の役にも立たない仕事でできている。役に立たないのに、日記には書きたくなる。
——あたしたちの旅は、このところ、ずっとこんな調子だ。
地図の端の知らない街へ行き、市場を冷やかし、景色のいい丘で昼寝をして、気が向いたら小さな依頼を受ける。強くなるための狩りは、しない。誰かと競う予定も、ない。行き先は、狸とあたしの気分だけが決める。
急がない冒険は、あたしの性に合っていた。昔は——たぶん、昔のあたしは、もっと、前のめりだった気がする。強くなりたくて、追いつきたくて、いつも杖を握りしめていた気がする。今のあたしの杖は、たいてい、背中でお留守番をしている。それでいい。物語の続きは、逃げない。
「レナちゃん、はいこれ。りんごのパイ。焼きたて」
「ありがとうございます。……ふふ、あったかい」
手のひらに、パイのぬくもりが乗る。ひとくちかじると、さくりと崩れて、りんごの甘酸っぱさが、鼻へ抜けた。
「……! おいしい! たぬさん、おいしいです!」
「お、初の食レポ。感想それだけ?」
「おいしい、です。すごく」
「語彙う」
うるさいです。おいしいものは、おいしいのだ。
ただ、ひとつだけ、不思議なことがあった。さくさくと一枚食べ終えても——お腹は、ちっとも、ふくれないのだった。
——その街に「黒い魔物」の噂が立ったのは、着いて三日目の夕方だった。
広場の依頼板の前に、人だかりができていた。板の張り紙には、こうあった。
『湖畔の森に特殊な魔物が出現。危険度・高。討伐者には特別報酬』
「特殊な魔物、だって」
「へー、珍しいね。このへん、平和が売りなのに」
人だかりの冒険者たちは、口々に噂を交換していた。声で、である。この頃のあたしたちは、みんな声でおしゃべりをする。誰かの声が、誰かの声に重なって、広場は市場みたいに賑やかだった。
「見たやつがいるらしい。人の形をしてるんだと」
「人型の特殊個体? 報酬いいんだろうな」
「黒いドレスを着てるって話だぜ。少女の姿だとよ」
「なにそれ、こわ」
黒いドレスの、少女の姿の、魔物。
噂は、張り紙の前で育っていた。
「翼があったって聞いたぞ」
「いや、角だって。黒い角。たぶんすごい素材が落ちる」
「討伐報酬、特別って書いてある。衣装か? 乗り物か?」
「黒いドレスそのものが手に入るなら行く」
「着るの?」
「売る」
噂の中の黒い魔物は、話す人が増えるたびに大きくなった。翼が増え、角が伸び、爪が鋭くなり、報酬も勝手に豪華になっていく。誰もまだ見ていないものが、見た人の話よりも派手になっていく。その速さに、あたしは少しだけ戸惑った。
依頼板の横では、討伐隊を組もうとしている人たちがいた。盾を持った人が人数を数え、弓を持った人が報酬の分け方を相談し、魔法使いらしい人が「もし衣装だったら誰がもらうか」を先に決めようとして揉めている。
「倒す前から、分ける話なんですね」
「報酬があるって分かった瞬間、人は未来の喧嘩を始めるからねえ」
「未来の喧嘩」
「便利な言葉でしょ」
便利だけれど、少し寂しい言葉だった。
あたしは、パイの最後のひとかけを持ったまま、なんとなく、空を見た。夏のはじめの、高い青空だった。嫌な予感というほどのものではない。ただ、その言葉の並びが、妙に、絵になって頭に残った。
「行ってみる? レナちゃん」
「討伐に、ですか?」
「見物に。ほら、うちらの旅、気分が行き先でしょ。いま気分が、湖って言ってる」
「……そうですね。あたしの気分も、湖って言ってます」
半分は好奇心で、半分は——たぶん、あの張り紙の「討伐」の二文字が、少しだけ、ひっかかったからだった。
湖へ向かう道は、親切すぎるくらい親切だった。
街はずれの門を出ると、道しるべの小さな光が、草の上にぽん、ぽん、と灯った。踏むと少し先の光が灯る。迷いようがない。あたしが足を止めてそれを見ていると、狸が「便利だねえ」と言った。
「便利ですけど、少し、ずるいです」
「ずるい?」
「物語の旅人は、道に迷って、泉を見つけたり、知らない人に道を聞いたりします」
「レナちゃん、迷子に憧れがあるタイプ?」
「迷子ではありません。寄り道です」
「言い方でかなり変わるね」
光の道しるべは、親切に湖へ連れていこうとする。あたしたちは、途中でわざと外れた。外れた先には、小さな風車小屋と、誰もいない花畑があった。依頼でも、報酬でもない。ただ、風車が回っていて、白い花が揺れている場所。
あたしはそこで、器械越しに花の匂いを嗅いだ。甘すぎない、青い匂い。少し土の匂いが混じる。狸は花畑の真ん中で、なぜか背中のリュックを枕に寝転がった。
「たぬさん、湖は」
「湖は逃げないよ。特殊な魔物は逃げるかもしれないけど」
「それは急いだほうがいいのでは」
「急がない旅の危機だねえ」
言いながら、狸は起き上がらない。あたしも、しばらく花畑に座った。報酬のために急ぐ人たちの背中が、遠くの街道を小さく走っていく。あたしたちは、その列から外れて、風車の音を聞いていた。だからこそ、黒い魔物という言葉の中に「追われている誰か」を感じる余裕が、まだ残っていたのかもしれない。
——湖畔の森は、夕暮れの色をしていた。
木々の間から差す光が斜めになり、湖の面が金色に揺れている。見物人は、あたしたちのほかにもいた。腕自慢らしい冒険者のパーティーが二組、報酬の話をしながら森の奥へ入っていく。
そして、日が落ちきる少し前。
森の奥で、悲鳴が上がった。
駆けつけると、腕自慢のひとりが尻もちをついていて、その視線の先——夕闇の溜まった木立の間に、それは、立っていた。
黒い、総レースのドレス。小さな身体。背中に、闇を切り取ったような翼。
人の形をしていた。少女の形を、していた。けれど頭の上に、名前がない。かわりに、あたしの視界の隅で、警告の赤い縁取りがその輪郭を囲っている。敵。システムが、そう言っている。
「うわ、出た! 特殊個体!」
「囲め囲め! 報酬もらうぞ!」
腕自慢たちが得物を抜いた。黒い影が、びくりと震えて、後ずさる。
……後ずさる?
「たぬさん。いまの、見ました?」
「見た。魔物って、後ずさるっけ?」
魔物は、湧く。湧いて、まっすぐ襲ってくる。ゴブリンも、竜も、そうだった。ためらう魔物を、あたしは知らない。
腕自慢の剣が振られた。黒い影は、それを——翼で庇うように受けて、森の奥へ跳んだ。反撃を、しなかった。もう一組が回り込み、魔法の光が木立を薙ぐ。影は逃げる。逃げながら、一度だけ、こちらを振り向いた。
その口が、開いた。
聞こえてきたのは——咆哮だった。獣の声。魔物の声。けれど、その声は。
「……たぬさん。いまの声、なんだか」
「うん」
狸の耳が、ぴんと立っていた。
「泣いてるみたいだったね」
——夜になって、森は狩場になった。
報酬目当ての冒険者が続々と集まり、松明と魔法の光が木立を走り回る。黒い影は、一晩じゅう追われ続けていた。倒されない。けれど、逃げ続けている。翼があるのに、高く飛ばない。飛べないのか、飛ばないのか。
最初の一時間で、報酬狩りたちは三回、影を追い詰めた。
一度目は、湖へ続く細い道だった。先回りした弓の人が矢を番え、盾の人が道をふさいだ。黒い影は湖へ逃げるか、盾に突っ込むかの二択に見えた。けれど影は、濡れた岩を蹴って横へ跳び、湖面をかすめるように滑った。足先が水を打ち、月明かりが細く跳ねる。飛んだというより、落ちる場所を選んだ、という動きだった。
「すごい……」
「綺麗だねえ。怖いけど」
二度目は、倒木の前だった。魔法の光が左右から挟み、影は倒木の上へ追い上げられた。そこで、影は一瞬だけ、しゃがみこんだ。泣いているように見えた。次の瞬間、背中の翼が広がって、黒い羽がばらばらに散った。追っ手たちは視界を奪われ、影はその隙に森の奥へ消えた。
「攻撃、でしょうか」
「目くらまし、かな。傷つけるっていうより、逃げるためのやつ」
三度目は、あたしたちのすぐ近くだった。
若い剣士が、影の進路に飛び出した。剣を構え、声を上げる。影は止まった。止まって、剣士を見た。剣士のほうが先に動けなくなった。人の形をしたものに本気で斬りかかるには、たぶん、一拍いる。その一拍で、影は木の根を蹴り、剣士の肩をすり抜けた。
「今の、攻撃できたのに」
「しなかったね」
しなかった、という事実が、少しずつ積み重なっていく。積み重なるほど、あたしの中の「魔物」という言葉が、うまく形を保てなくなっていった。
四度目は、報酬狩りたちが網を使った。
光る糸で編まれた、魔物捕獲用の網。投げると空中で広がり、対象を包む。黒い影はそれを見て、初めて明らかに怯えた。翼を広げる。でも、網は翼ごと包む形で落ちてくる。
「たぬさん!」
「あいよ!」
狸が、わざと大きな声で叫んだ。
「あーっ! あっちに宝箱!」
報酬狩りの一人が、反射的に振り向いた。
「どこ!?」
「ない!」
「ないのかよ!」
その一瞬で、あたしは氷の薄い板を網の下に滑り込ませた。網は氷に触れて、つるりと斜めへ流れた。黒い影の肩をかすめ、地面へ落ちる。影はその隙に、木の陰へ逃げた。
「今の、妨害だろ!」
「え、俺? 宝箱があるような気がしただけだけど」
「なかったじゃねえか!」
「宝箱って、心の中にあるものだから」
狸の理屈は、ひどかった。ひどかったが、追っ手は一瞬だけ怒る相手を間違えた。その間に、黒い影はまた遠くへ行った。
「たぬさん、嘘はよくないです」
「嘘じゃないよ。宝箱はなかったけど、助けたいものはあった」
言い方だけは、ずるいくらい、きれいだった。
あたしと狸は、追跡の輪から少し離れて、その動きを見ていた。
「整理しよ、レナちゃん。あれが変なとこ、いくつある?」
「三つ、です。魔物なのに、先に襲ってきません。魔物なのに、ためらいます。それから——あの声。あれはたぶん、言葉です。言葉が、獣の声に、変えられてます」
「変えられてる、って思うんだ?」
「はい。だって、声の切れ方が、会話の長さです。咆哮の長さじゃ、ないです」
まよう英雄でいい、と、いつかあたしは決めた。倒していいものと、助けるものを、間違えそうになったら、ちゃんと迷うと。
なら、今は、迷うところだ。あたしの視界は、あの子を「敵」だと言っている。でも、あたしの目は、まだ、そう言っていない。
「……試したいことが、あります。手伝ってください、たぬさん」
「よしきた。どんな作戦?」
「まず、話しかけます」
作戦その一、会話。
追っ手の途切れた岩場で、あたしたちは黒い影と向かい合った。あたしは杖を地面に置き、両手を上げて、一歩ずつ近づいた。
「こんばんは。あたしは、レナティアです。あなたは、魔物ですか?」