カードアース
レナティア編 第四章 別日の蒼穹(2/3)
影は、じっとこちらを見た。それから、口を開いた。
咆哮。短く三つ、長くひとつ。
「……だめです。何を言ってるか、分かりません。でも」
「うん。返事の形はしてたね、今の」
作戦その二、ターゲット。
あたしは視界の道具を切り替えて、あの子をあらためて「調べて」みた。名前、表示なし。種別、特殊魔物。討伐推奨。報酬対象。——システムの答えは、にべもない。けれど、その項目の並びが、普通の魔物とは少し違った。普通の魔物にはあるはずの「生息地」の欄が、空白だった。この子は、この森に、湧いていない。
作戦その三は、思いつきたくなかったやつだ。
ダメージ。魔物なら、魔物としての傷のつき方をする。人なら——考えている間に、それは向こうからやってきた。追っ手の腕自慢が岩場に踏み込んできて、抜き打ちの一撃が、影の肩口を掠めたのだ。
黒いドレスの肩に、傷が走った。散ったのは、魔物の黒い霧ではなく——赤い、光の粒だった。
あの子が、痛そうに、肩を押さえた。
考えるより先に、あたしの身体が動いていた。
「ユカちゃん、タマちゃん——お願い!」
守りの祈り。冒険者のための、癒やしの魔法。あたしの精霊たちの光が、夜の岩場を横切って、黒い影を包んだ。
討伐対象の魔物に、冒険者の回復は、効かない。この世界の決まりだ。効かないはずだった。
肩の傷が——ふさがった。
「……効いた」
「効いちゃったねえ」
狸が、静かに言った。
「レナちゃん。あれ、プレイヤーだ」
——けれど、夜は、あたしたちの発見を待ってくれなかった。
報酬狩りの冒険者たちが、岩場を取り囲みつつあった。十人。二十人。「弱ってるぞ」「今夜で仕留める」「報酬は山分けだ」。松明の輪が、じりじりと狭まる。黒い影は岩を背に、翼を広げて、もう逃げ場がない。
そして——影が、初めて、攻撃の構えを取った。
追い詰められた獣の構えだった。翼が張り、爪先が地を掻く。ああなったら、誰かが傷つく。あの子が誰かを傷つけてしまったら、もう誰も、あの子の話を聞かない。
「どいて! その子は——」
あたしの声は、報酬の熱気に届かなかった。誰かの剣が振り上がり、あの子の爪が閃きかけ、あたしは杖を握って、選ばなくてはならなかった。あの子が誰かを裂く前に、あたしの氷で、あの子を止めるべきか。氷の槍は、弱った身体には、致命傷になるかもしれない。でも、他に、間に合う手が——
杖の先に、冷気が集まる。
あの子の黒い瞳が、氷の光を映して、こちらを見た。
——撃て。撃つな。撃て。間に合わない。まよう英雄は、まよったまま、それでも指先に力を込めて——
「まぁて言うたらまてーい!!」
まるい影が、あたしの氷と、あの子の間に、飛び込んだ。
狸だった。
片手に剣を提げ、もう片方の腕をいっぱいに広げて、あの子を背中にかばって、報酬狩りの輪のまんなかで、堂々と仁王立ちしていた。
「はいはいはいはい! 全員いったんストーップ! 武器おろして! 深呼吸!」
「な……なんだ、あんた!? 邪魔するな、報酬が」
「報酬ね! じゃあクイズです! 魔物に回復魔法って、効くでしょうか!」
「は?」
「効きませーん! でもこの子には、いま効きました! はい、つまりこの子は魔物じゃありませーん! 討伐したら報酬どころか、たぶんあなた方、明日から大変なことになりまーす!」
松明の輪が、ざわりと揺れた。
「で、でも、システムは敵だって」
「システムがなんて言おうと!」
狸は、一歩も引かなかった。まるいお腹を張って、しましまの尻尾を立てて。
「俺の後ろで泣いてる子を、俺は斬らせないよ」
あの晩の、ドラゴンの下敷きになった狸を、あたしは思い出していた。すぐ死ぬくせに、へらへら笑うくせに、こういうときだけ、この狸は、誰よりも早く、いちばん危ない場所に立つ。
あたしは杖の冷気を解いて、狸の隣に並んだ。
「あたしも、です。……この子は、あたしが守ります。文句がある方は、まず、あたしの盾をどうにかしてください」
ユカちゃんの光が、あの子と狸とあたしを、まるごと包んだ。守りへ寄せた精霊使いの、ありったけの備え。ちょっとやそっとでは、割れない。
報酬狩りたちは、顔を見合わせた。回復が効く魔物、引かない狸、光の壁。割に合わない、と誰かが呟いて、輪は、少しずつほどけていった。
——それからの一晩を、あたしは長く忘れないと思う。
岩場の窪みで、黒いドレスの子は、狸の尻尾を、ずっと掴んでいた。言葉は通じない。咆哮になってしまう。だからあたしたちは、通じないままで、夜を過ごした。狸がいつもの調子でしゃべり続け(「怖かったねー。もう大丈夫だからねー。俺、不死狸。死なない狸と書いて不死狸」)、あたしは焚き火を作り、精霊たちがあの子のまわりを、ふわふわと回った。タマちゃんは、あの子の膝の上が気に入ったらしかった。
あの子は、一度だけ、咆哮じゃない声を出した。
焚き火がぱちんと爆ぜたとき、小さく、「ぴゃっ」と。
「……いまの、絶対、言葉でした」
「うん。びっくりの言葉だったね」
そのあとも、言葉未満の声は、少しずつ増えた。
狸が干し魚を差し出すと、黒いドレスの子は、じっと見てから首を横に振った。声は「ぐるる」だったけれど、嫌です、の長さだった。
「魚、だめ?」
「ぐる」
「じゃあ、甘いものは?」
狸が市場で買っていた飴を見せると、黒い瞳が、ほんの少しだけ動いた。動いた気がした。あたしが包みを開いて、焚き火のそばの石に置く。黒い爪が、そろそろと伸びて、飴をつまんだ。口元へ運ぶ。噛む。かち、と小さな音。
「……ぴ」
「おいしい、の『ぴ』でしょうか」
「たぶん。世界一短い食レポ」
通じているのかは分からない。分からないけれど、あの子は飴をもう一つ見た。あたしはもう一つ置いた。黒い爪が、今度は少し早く伸びた。
それだけで、夜は少し短くなった。
空が白みはじめた頃、あの子の輪郭を囲っていた赤い縁取りが、ふ、と薄れた。視界の隅に、見たことのない文字が流れる。
『特別クエスト「夜の主」——生存達成。おつかれさまでした』
黒い霧が、朝の光に溶けるみたいに、ドレスの子から剥がれていく。翼の闇が晴れ、頭の上に、ぽん、と名前が灯った。
あたしたちの返事を待たずに、その子は、勢いよく頭を下げた。
「——ありがとうございました!! あたし、マイ! 助けてもらった、マイです! うわーん、怖かったーー!!」
言葉だった。堰を切ったような、若い女の子の、言葉だった。
「しゃ、しゃべった」
「しゃべるよ! ずっとしゃべってたの! 全部へんな声になってたけど! ずーっと『あたし魔物じゃないです』って言ってたのに、誰も聞いてくれなくて!」
マイちゃんの話は、朝の光の中で、ぽろぽろとこぼれ出た。
いわく、あれは「夜の主」という特別なひとりむけクエストで、受けると魔物の側になって一晩を過ごす、めずらしい体験ができるのだという。魔物から見た世界を知る、というのが売り文句で、黒い衣装のままで受けられたから、つい。
「最初はね、面白かったの。あたしの視界だと、冒険者のみんなに『標的』って印がついてて、へー、魔物からはこう見えるんだ、って。……でも、途中でやめられないの、あれ。討伐されるか、朝まで生き延びるか、どっちかしか出口がなくて。声は変になるし、名前は消えるし、おしゃべりも呼び出しも——仲間への連絡、ぜんぶ塞がれてて」
「ひどい仕様です」
あたしは、本気で言った。冒険者を、名前ごと魔物の側に置いて、声を奪って、それを「めずらしい体験」と呼ぶ。作った人は、追われる側の一晩の長さを、考えたんだろうか。
「んー、でもね」マイちゃんは、意外にけろりとしていた。「途中までは、ほんとに面白かったんだよ。飛んで逃げるの、鬼ごっこみたいで。……最後のほうが、こわかっただけ。本気の武器って、こわいね。あと、おなか空いた」
切り替えの早さに、あたしのほうが、拍子抜けした。この子は、こわかったことと、面白かったことを、両方ちゃんと持って帰るタイプらしい。強い子だ、と思った。
「よし! じゃ、ごはんにしよっか!」と狸が手を叩いた。「命拾いの祝いと、初対面の祝い。街に戻って、うまいもの食べよ。俺、いい店知ってるんだー」
——狸の「いい店」は、市場の裏の、小さな食堂だった。
木のテーブルに、三人ぶんの朝ごはんが並ぶ。焼きたてのパン、湖の魚のバター焼き、豆のスープ、それから、りんごのパイ。
さらに狸は、なぜか甘い卵焼きと、香草入りのじゃがいもと、見た目が完全に石ころの焼き菓子まで頼んだ。
「たぬさん、頼みすぎでは」
「命拾いの朝は、品数が多いほうがいいんだよ」
「そういう決まりが?」
「今できた」
マイちゃんは「今できた決まり、好き!」と言って、石ころみたいな焼き菓子を手に取った。最初のひとかじりで、石を叩いたみたいな、いい音がした。
「音、かたっ。見た目は石、音は煎餅、食べてる姿は修行」
「味が分からないのに、食レポみたいですね」
「でしょ? 味がなくても、見た目と音は言えるもん。食べ物は、言葉にするともっとおいしそうになるんだよ」
あたしは少し尊敬した。おいしい、しか出てこないあたしとは違う。味がなくても、石とか、煎餅とか、修行とかを取り出せる人だ。
「レナちゃんも言ってみよ。魚」
「魚。……おいしいです」
「うん、知ってた」
「皮が、ぱりっとしていて、おいしいです」
「成長した!」
狸が拍手した。マイちゃんも拍手した。魚の皮で拍手される人生があるとは思わなかった。
「いただきます!」
マイちゃんの食べっぷりは、見ていて気持ちがよかった。魚を頬張り、スープを飲み、パンをちぎる。そして——あたしは、見た。
マイちゃんの胸元が、ひとくちごとに、心なしか、ふっくらしていくのを。
「……あの、マイちゃん。失礼ですけど、その、胸が」
「ん? ああ、これ? 種族特性。食べたぶん、栄養がここに溜まるの。飛ぶと減る。渡り鳥だから」
「べんりなような、切ないような……」
「切ないよ! 飛んだら戻るんだよ!? 世界一もとが取れない貯金だよ!」
あたしと狸は、声を上げて笑った。マイちゃんも笑った。ゆうべの咆哮と同じ喉から、こんなに明るい声が出る。それが、なんだか無性に、うれしかった。
食後、マイちゃんは「記念撮影しよう!」と言い出した。
写真の道具は、マイちゃんが小さな板のようなものから出した。空中に薄い枠が浮かび、三人の姿がその中に収まる。あたしは、どう立てばいいのか分からず、背筋を伸ばした。狸は堂々と真ん中に立とうとして、マイちゃんに「助けた人は端! 主役は助けられたあたし!」と押しのけられた。
一枚目。狸が目をつぶった。
二枚目。あたしがパイを見ていた。
三枚目。マイちゃんの胸が、さっきより少し育っていて、本人が「待って、これ時系列的に盛れてる!」と言った。
「撮り直しですか」
「これはこれで保存! でも撮り直し!」
四枚目で、ようやく三人とも前を向いた。狸の尻尾だけがぶれていた。尻尾は生き物なので仕方ない、ということになった。
写真を撮り終えると、マイちゃんは食堂の人に「さっきの魚、もう一皿」と頼んだ。
「まだ食べるんですか」
「胸が戻る前に、食べられるだけ食べる」
「目的がはっきりしていますね」
「人生は目的があるほうが強いんだよ、レナティアさん」
強い言葉だった。言っている内容は魚のおかわりなのに。
追加の魚が来るまでのあいだ、マイちゃんは、あたしに食堂の匂いを一つずつ言わせはじめた。焼き魚、バター、焦げたパン、隣の席の香草茶。だが、だいたい「おいしそうな匂い」になった。
「レナティアさん、それ万能すぎ」
「だって、全部おいしそうです」
「正しいけど、雑!」
マイちゃんは笑いながら、香草茶をひとくち飲んだ。
「レナティアさん、これは?」
あたしも、香草茶を飲んだ。
「苦いです。でも、あとから鼻の奥がすっとします」
「そのあと。今のレナティアさんは、どうなる?」
「……朝まで逃げ回った身体に、いま、休んでいいよって言ってくれる味、です」
言ってから、あたしは少し黙った。
「できた!」
「そうそう。食レポは、食べ物を褒めるだけじゃなくて、自分の状態を言うんだよ」
食べ物を通して、自分の状態を言う。あたしはパイをもうひとくち食べた。甘い。おいしい。ほっとする。そう言えばよかったのだと、少し遅れて分かった。
あたしはあたしで、味の器械のおかげで、朝ごはんを隅々まで味わえた。魚の皮の香ばしさ。スープの豆の、ほっくりした甘さ。
「レナティアさんも、それ、味の道具? いいなー。おいしい?」
「おいしいです。……でも、ふしぎです。こんなに食べたのに、お腹が、ぜんぜんふくれません。鼻とのどまでは、ちゃんとごはんなのに、お腹だけ、るすばんです」
「あー、それはそういうものらしいよ」と狸。「味と匂いはこの世界のぶん、お腹のすき具合は、向こう側のぶん。ごっちゃにすると身体に悪いから、わざと繋げてないんだって」
「かしこい仕様なんですね。……でも」
あたしは、スープの最後のひとくちを飲みながら、正直な気持ちを言った。
「満腹感も、あればいいのにね」
「わかる!!」
マイちゃんが、食い気味に同意した。
「あのね、あたしの知り合いに、いるんだよ。ゲームのごはんで、ちゃーんとお腹いっぱいになる人。特別な身体の人でね、飯テロ——じゃなくて、それはそれはおいしそうに食べるの。ずるいよねえ。あたしも、お腹まで食べたい」
「いいなあ。……いいなあ!」
「でしょー!」
女ふたり、湯気の向こうで意気投合した。狸だけが「まあまあ、ないものねだりはそのへんで」と、まとめ役みたいなことを言っていた。ないものねだりで、そのうち誰かが痛い目を見る話は——これは、もう少し先の出来事になる。
——食後のお茶の頃、マイちゃんが、あらたまって言った。
「あのさ。ゆうべのお礼、したいんだけど。ふたりとも、来月の七日って、あいてる?」
「七月七日? 七夕ですね」
「そう! あたしの仲間がね、七夕の集まりをやるの。にぎやかで、へんてこで、楽しいよ。短冊書いたり、ごはん食べたり。……その、うちの集まり、配信? っていうか、たくさんの人が見てる場なんだけど、平気?」
「見てる」の意味は、半分くらいしか分からなかった。分からなかったけれど。
「マイちゃんの、居場所なんですね、そこ」
「うん! 最高の巣!」
巣。その言い方に、あたしは、なつかしい誰かの声を思い出しかけて、やめた。今日は、いい朝だ。なつかしさは、今日の分だけで足りている。
「行きます^^ ね、たぬさん」