カードアース
レナティア編 第四章 別日の蒼穹(3/3)
「行く行くー。七夕かあ。俺、短冊に書きたいこと、もう決まってるんだよね」
「なんですか?」
「ひみつー。当日のお楽しみ」
食堂を出たあと、三人で朝市をもう一度歩いた。
さっきまで、黒い魔物の噂でざわついていた街だ。けれど朝になれば、屋台は開く。パンは焼ける。果物は籠に積まれる。世界は、夜の怖さを覚えていないみたいに、いつもの匂いを取り戻していた。
「この街、立ち直り早いね」
「ゲームの街は、朝が強いんだよ」と狸。「夜に何があっても、朝市は開く。えらい」
「えらいです」
マイちゃんは、果物屋の前で足を止めた。赤い実、黄色い実、縞模様の実。どれも艶があって、味の器械越しでも甘い匂いが分かる。
「これ、食べたらどこに栄養いくかな」
「胸では」
「即答!」
「違う可能性もあります」
「その可能性、どこ?」
あたしは答えに困った。狸が横から「尻尾」と言った。マイちゃんは自分の背中を見ようとして、ない尻尾を探した。
「尻尾、いいなあ。欲しい」
「尻尾はね、狙われるよ」と狸が真顔で言った。「五歳児とかに」
「なにそれ」
「人生」
マイちゃんはよく分からないまま笑った。あたしも笑った。
記念に、三人で小さな飴を買った。あたしは青い飴、マイちゃんは赤い飴、狸はなぜか黒い飴を選んだ。
「たぬさん、それ、何味ですか」
「分からない。黒味」
「黒味」
食べると、苦くて、甘くて、少し薬草みたいだった。狸は「うん、人生」と言った。便利な言葉である。
マイちゃんは赤い飴を舐めながら、ふいに言った。
「ゆうべね、みんなが標的に見えた時、ちょっとだけ面白かったんだ。こっちから世界を見ると、こんなふうなんだ、って。でも、名前がないと、誰に助けてって言えばいいか分からなくなるんだね」
あたしは青い飴を口の中で転がした。甘い。少し、冷たい。
「名前は、呼ぶためにあるんだと思います」
「うん。呼ばれるためにも、あるね」
マイちゃんは、自分の頭の上を指でつついた。
「戻ってきてよかった。あたし、マイって呼ばれるの、けっこう好き」
「いい名前です」
「でしょ」
朝市のざわめきの中で、その名前はちゃんと、その子の上に灯っていた。
あたしは、その灯りを見て、ゆうべの赤い縁取りを思い出した。同じ場所に出るものなのに、片方は倒すための印で、片方は呼ぶための印だった。どちらを信じるかは、たぶん、見る側にも少しだけ委ねられている。
そのことを考えながら舐めた青い飴は、最後まで冷たくて甘かった。舌の上で、ゆっくり、少しずつ、丸く、小さく、最後に、そっとなくなっていった。
——マイちゃんと別れたあと、湖畔の道を、狸とふたりで歩いた。
朝の湖は、ゆうべの騒ぎが嘘みたいに、静かに光っていた。
「ね、レナちゃん」
「はい」
「ゆうべ、氷、撃たなかったでしょ。最後の最後まで」
「……撃つ寸前、でした。たぬさんが飛び込んでこなかったら、撃ってたかもしれません」
「でも、撃たなかった。迷ってた。——俺はね、あの迷いに飛び込んだんだよ。レナちゃんが迷わない人だったら、俺、間に合ってないもん」
まよう英雄は、まよったぶんだけ、誰かが間に合う。
そういうことに、しておこうと思った。
あたしの旅は、急がない。強くなるための狩りはしないし、誰かと競う予定もない。それでもゆうべ、あたしの祈りはちゃんと届いたし、あたしの迷いは、ひとりの女の子の朝ごはんを守った。
空は、どこまでも青かった。蒼穹、という言葉を、あたしはたしか、古い本で覚えたのだった。
「たぬさん。七夕、たのしみですね」
「ねー。……あ、レナちゃん、あれ見て、りんご飴の屋台。食後のデザートに」
「食べます^^」
お腹は、ふくれない。ふくれないまま、あたしたちは、もうひとつ甘いものを買い足して、ゆるゆると歩いた。
こういう日が、いつまでも続けばいいと、心から思った。